そいつを真っ黒に塗りつぶせ

 酔うのは好きよ

 激しく叩かれる太鼓の律動リトゥモのような

 変わり身の早さ

 あの、新しいあたしをこの世へ引き出した

 きれいなだけで中身は空っぽの男

 あたしの酔い痴れた目には

 一時だけだけど黄金の月の王にも見えたけど

 すぐにお気に入りの宝石と同じになった


 嵐の中で新しく生まれて来たあたしは

 死ぬまで碌でなしのまんまかも

 品行方正だったあたしは何処へ行ったの

 賽子さいころは空高く投げ上げられて

 あたしは酔夢と酩酊の世界を選んだ

 そうね

 あたしの母親のように

 あたしの大嫌いな

 あの母親のように


 信仰のように酒を求めて

 欲望の砦に立て籠もる

 バカみたいな矛盾

 でも、砦を崩し去れば

 ああ、見えるでしょう、分かるでしょう

 欲望と、快楽の色は強烈な血紅色カルメシなのだと気が付くの

 目が回ったままのエクスタシス

 青い温かい海のようだったあたし

 今じゃ、もう赤黒い肉の塊のよう

 ああでもね

 自己陶酔を上から眺めおろして

 永遠の二日酔いの中を生きるのは辛いわ

 あたしはいつも明け方に見るの

 あのたったひとつの、あたしの星を

 あの星だけは変わりなく

 変わりなく輝いて

 道標みちしるべのようにあたしを待っている




     アル・アアシャー 「ある女の転落と復興」より  






 エルネストは、大公宮の裏玄関に続く、廊下の壁に寄りかかったまま、広い廊下の真ん中に突っ立っているオドザヤを見下ろして語った。カイエン達の一行がシイナドラドの国境の町、リベルタへ入り、そこでシイナドラド側の仕掛けた陥穽に陥ったところから、エルネストが片目を捨ててこのハウヤ帝国へ婿入りして来るまでのことを。

 彼は、先ほどオドザヤを待ち伏せしていた時の、伝法な荒っぽい言い回しではなく、努めて普通の話し方で時系列順に静かに話していったのだ。

 オドザヤはもう、最初のリベルタでの場面と、それに続いてカイエンがたった一人で連れ去られたところまでの顛末だけで顔面蒼白となってしまった。カイエンが護衛のフィエロアルマと引き離され、シイナドラド側に捕らえられたことは、もちろん、オドザヤも知っていた。当時は皇太女に立てられたばかりの頃だったが、父のサウルに付いて、この事件についての対応を協議する場に居たのだから。

 オドザヤの頭はまだそれほど、はっきりとはしていなかった。

 だから、カイエンが星教皇に「ならされる」ために引っ立てられて行ったことは理解できていたが、星教皇になれる一族の条件についてなどの政治的な細かい話は、とりあえず今、彼女の頭に戻って来ることはなかった。

 だから、彼女の耳に入ってきた話は、カイエンという身近な一人の女性の身の上に起こった、恐ろしい物語として構成されていった。

 そして。

 エルネストの話が、虜囚となったカイエンの身の上の細かい物語に差し掛かると、オドザヤは、細い喉からうめき声のような声さえ上げてしまった。

 カイエンをしたいように犯し苛んだ、その当人が語る話である。その生臭い内容もそうだが、そんな人間が今、自分の、目の前にいるという臨場感のようなものは、オドザヤでなくともそうそう見聞きするものではない。

 エルネストは、そばでしようことなしにこの話を聞いているサグラチカが、「何もそこまで赤裸々に話さずとも」と思うほどに、自らのしてしまったことを包み隠さずに話したのだった。

 話がシイナドラドから帰ってすぐ、カイエンが倒れて寝付いてしまった、その本当の理由。そして、エルネストが灰色の右目を捨て去ってこのハウヤ帝国へやって来たくだりになると、エルネストとは反対側の壁際に、首を垂れて控えていたサグラチカの方が、オドザヤよりも先に耐えきれなくなってしまった。

 彼女はカイエンの乳母である。

 乳母になるということは、カイエンが生まれたのと近い時期に、彼女も妊娠、出産をしたからなのだが、今も昔も、彼女とアキノとの間に子供はいない。いたのは、彼らの家の前に捨てられていた、ヴァイロンだけだ。

 アキノとサグラチカの夫婦は、ヴァイロンを養子にはしていない。そこにも色々と事情はあったのだが、ヴァイロンは今でも彼の育ての親を、父とも母とも呼んではいないのである。

 カイエンはもちろん、そのあたりの事情を知っていた。だが、オドザヤもエルネストもそこまでの事情は知らない。

 サグラチカはそれでも、もうエルネストとカイエンの間にあったことは、夫のアキノから聞いて、すべて承知していた。だから彼女は、努力して、エルネストの話から彼女の中に想起されたことを、喉元を絞るように込み上げて来る、とうに過ぎ去った昔の思い出を努力して飲み下さなければならなかった。

「だから……あのリリエンスールっていうあんたの、こっちは両親ともに共通している妹……あれの半分はカイエンと俺との、生まれて来ることは絶対にできなかった娘かもしれないんだとよ」

 とうとう、最後にカイエンや彼が夢の中で会った子供のことまで含めて、この悲劇の物語をエルネストが語り終わると、オドザヤはしばらくの間、琥珀色の目を見開き、いつものように珊瑚色に塗られた唇を半分開けたまま、エルネストの顔をぼんやりと見ていた。

 話の間に、オドザヤは何度もサグラチカのいる方の壁へ向かって、エルネストから後退りして行ったので、もうその頃には、広い廊下の真ん中からサグラチカの立っているすぐ前に到達してしまっていた。

「なあ。あんただったら、そんな出来事のあった男と、形だけでも結婚するかい? まあ、皇女様なんだから国のためにはそれくらいするか。でも、さすがに夫婦としてもう一度身を任す気持ちにはなれねえんじゃないか。ええ?」

 エルネストの問いは、先ほどオドザヤが言った、

(……あの、前のフィエロアルマのフィエロ将軍のことは、父の命令でしたからしょうがないですけれど、昨日のことは……お姉様には皇子殿下という正式なご夫君がおありですのに!)

 という言葉への答えであり、また問いなのだろう。エルネストの口調には、これを聞いても、まだお前はお前の言葉を取り消さないのか、という強さがあった。

 オドザヤは呼吸も忘れたような様子で黙っている。しかし、ぼんやりしているようでも、心が動いている証拠に、彼女の握った両手は、わなわなと震えていた。

「だんまりかい。じゃあ、もうちょっと、そのクスリ漬けでぼんやりしたアタマにも、分かりやすく解説してやるぜ」

 エルネストは寄りかかっていた壁から背中を起こし、突っ立っているオドザヤの周囲を回るように歩き始める。

「あのな。あんたは昨日の夜、さっき言ってた言葉の通りなら、あの踊りの上手いザイオンの王子様と『愛し合った』んだよな? それなら、あんたも納得ずくのことだった、ってぇわけだ」

 オドザヤはぶるり、と身震いした。エルネストの話がどこへ向かうのかは分からないが、それはどうも自分にとって聞き辛い内容になっていくだろう、という予感だけは確かにしたのだ。

 エルネストの話を、オドザヤは疑ってはいなかった。深い事情を聞かされてみれば、「夫婦」として公の場所に出てきた、カイエンとエルネストには明らかに不自然なところがあった。

 だが、エルネストが最初に「いつでも逃げていいよ」と裏玄関へ続く廊下の先を空けてくれた通りに、一目散に逃げ出すには、彼の話に、そこへ引き止められるような興味を覚えずにはいられなかった。

 それは、今までよく知りもしなかった、お互いの肚の中を探るようなことさえなく、お互いにきれいな自分だけを見せあっていたカイエンの、本当の姿を知る千載一遇のチャンスのような気さえしていた。

 そういう意味では、オドザヤはカイエンを心の底ではかなり意識していたのだろう。

「へえ、まだ逃げ出さないか」

 エルネストはからかうような口調でそう言ったが、オドザヤの返答を期待していたわけではなかった。

「カイエンと俺の関係は、納得ずくなんてものじゃねえ。あんたが、けしからんと言ってたあのカイエンの新しいの……大公軍団の伊達男には面と向かって言われたけど、俺は監禁と婦女暴行の犯罪者だもんな」

 この言葉には、オドザヤだけでなくサグラチカも苦い薬を無理やり、それも鼻から注がれたような、まあ、凄まじく嫌そうな顔になった。おそらく、女性で嫌な顔をしない者はいないだろう。

「ふふふ。その様子じゃ、あの踊り子王子様は、俺と違って優しく優しく、あんたの方から望むように仕向けたんだろうなあ。がっついたりしないで、余裕たっぷりで! とんでもなく紳士らしくお上品に!」

 この言葉を聞くと、オドザヤは少しだけ余裕を取り戻した。エルネストの言葉の前半の「仕向けた」という部分には不満があったが、後半についてはその通りだと判断したからだ。

「ええ! それは間違いありませんわ。トリスタン様と私は、ちゃんと愛し合っておりますもの」

 カイエンがこのオドザヤの言葉を聞きたら、「まあ、とりあえずいやいやではなかったのなら……」と思ったかもしれない。踊り子王子に騙されているとはしても、少なくともオドザヤは力尽くで貞操を奪われたわけではなかった、と。

 だが、エルネストはオドザヤの言葉を聞くと、ふっ、と馬鹿にしたような笑いをその顔に浮かべた。

「愛し合った、ね。とても普通の手順を踏んだとは思えねえが。ま、それは俺も人のことは言えねえや。じゃあ、王子様はあんたに何度、『愛しています、オドザヤ様』って言ったんだい?」

 この質問を聞くと、オドザヤの不安だった心は急に勢いを取り戻した。彼女の主張には、ちゃんと彼女なりの根拠があったのだ。

「何度、ですって? そんなの数え切れませんでしたわ。トリスタン様は私を抱きしめて、何度も……」

 オドザヤは最後まで言うことが出来なかった。彼女の言葉はエルネストのけたたましい笑い声に打ち消されてしまったからだ。

「……なんてこったよ! ひでえなぁ、あのきらきら王子様は! 女の踊り子に化けて乗り込んでくるだけのことはあるぜ。女の機微を、それも初心な若い女の騙し方をよく知ってらぁ。あはははは、それも意地の悪いことに、ちょっと世間を知ってりゃ引っかかるはずもない化かし方を、わざわざ選んでやってのけるとはね!」

 オドザヤは混乱した。

「皇子殿下、それはあまりにも、その、し、失礼ではありませんこと? 皇子殿下と言えども……」

「このハウヤ帝国の皇帝として許しません! かい? これでも親切に色々教えてやってるんだけどな。あのな、あんたは男ってのが、いっ時もそばから離したくないような、いつでも匂いが嗅げるような近くに置いておきたい、大好きな女に『愛してます』なんて、芝居みたいに連呼すると思ってるのかよ。人間には言葉だけじゃなくて、体ってものがあるんだぜ」

「皇子殿下……」

 サグラチカは口を挟もうとしたが、その時、後ろからそっと袖を引かれてびっくりした。彼女の後ろにはいつの間にか、執事であり彼女の夫でもあるアキノがやって来ていたのだ。アキノは黙ったまま、そっと左右に首を振って見せた。

「って言うかな、『愛しています』なんてえのは、まあ、挨拶の一種だよ。もうお互いに気持ちがわかり合っている間になってれば、ちょっと困った時に『申し訳ねえ、この通りだ』とか、『俺が悪かった』って言うのの代わりだ。あとはまあ、結婚でも申し込む時の決まり文句だな。巷の恋人同士なら、まだ相手の心が確認できてねえ、自信のないやつが使う言葉さ。相手の反応じゃ満足出来ねえんだから」

 エルネストは残酷に言葉を重ねていった。

「男の方が、女を抱きながら言うとしたら、まあ、普通は『おまえが欲しいテ キエロ』だな。『愛している』なんていう奴は、好意的に取れば女に愛されているかどうか、自信がねえんだろう。でも、あの王子様は自信満々だ。だって、あんたはあいつに首ったけだって、知り尽くしているんだからな」

「な……な、なんて。あなたに何が分かる……分かるの……」

 オドザヤは極度の不安がくるりと裏返って、怒りに変わるのを感じていた。高圧的に話し続けるエルネストに対して大きな声は出せなかったが、声には不満が滲んでいた。 

「不安の次は、お怒りかい? じゃあ、カイエンの男どもの話をしようか。あのな、俺はカイエンに『愛している』なんて言ったことはねえよ。あいつが俺との関係が嫌すぎて、意識を飛ばしちまってた時でさえもな。理由は簡単だ。俺は高慢ちきだったからな。カイエンの方に愛してるって言わせたかったのさ。言葉が無理でもこっちになびけばそれでいいと思っていた。素直に抱かれるようになれば、そんな言葉は後から付いてくる、って思ってたのさ。だから、まあ、今の情けなくもカイエンの愛を欲しがっている、俺の心境で口にするのが、『愛しているんだ、分かってくれ』っていうやつで、これが正しい使い方じゃねえのかなぁ」

 実際に、カイエンとのことが始まったばかりの頃のヴァイロンが、まさにこの状態だったのだが、エルネストもオドザヤもそんなことは知りもしない。

 エルネストも、実はそれほど自信があるわけでもなかった。

 カイエンと出会う前の女たちとの付き合いと、カイエンとのそれとはかなり違ったものだったからだ。

「俺だけじゃねえ。あのヴァイロンも多分、カイエンに面と向かってそんな言葉をぶち上げたことはそうそう、あるめえよ。だって必要ないからな。あいつは今まで、ずっと一人でカイエンを独り占めしてきたんだから。……ああ! あの、カイエンを庇って腹を刺された伊達男。死にかかってカイエンに助けてもらったら、急に我慢が効かなくなった野郎はどうかな。あいつは口から生まれたみてえな野郎だから、恥ずかしげもなくカイエンの耳に囁いているのかもな」

 エルネストはイリヤについてはそう言ったが、実際のところはもっとひねくれているだろうと言うことはよく分かっていた。

「ま、これだけは確かなことだが、カイエンは会ってまもないような男に、『愛している』なんて言われたら、思いっきりそいつを疑うだろうな。あいつは愛なんか、そもそも自分にゃ、簡単に向けられるもんじゃないと思っている。なのに、あんたの方は逆さまだ。王子様の甘い言葉を一回で鵜呑みにして、ほくほくして自分を体から心から全部、『差し上げちまった』のさ」

 エルネストは、そこまで言うと哀れむような目でオドザヤを見た。その目つきは嘘も誤魔化しもなく、オドザヤに突き刺さった。

「ともかく、あのザイオンの王子様は、あんたの方から自分にくっついてくるのは大歓迎だが、これからもあっちから迫ってくることは皆無だろうな。まあ、あんたが悪いわけじゃねえよ。ただ、あいつはあんた個人には何の執着もねえ。これだけは確かだ。あいつは、あんたがいなくたって困ることなんかない。普通に、悩みもせずに生きていけるだろうさ」

 今度こそ。

 オドザヤの全身は、おこりにかかったように震えだした。

 何か言い返さなくては、と思ったが、言い返せなかった。それだけの思考をするほどにも、彼女の頭は働こうとはしなかった。トリスタンのことは、何をどう言われても、今や彼女には彼しか、彼にすがる事しかなかったのだ。    

 だが、一つだけは理解できていた。

 このお節介なシイナドラドの皇子は、カイエンを愛している。少なくとも本人はそう思っているのだ。だが、彼はカイエンから愛されてはいない。そして、その理由にはあまりにも痛ましい出来事の連続があった、ということ。 

「皇子殿下。あ、あなたは、お姉様に嫌われていることを知っているのに、なのに、お姉様のことが……その、まだ?」

 オドザヤは、ふと、「お姉様は、一体誰を本当に愛しているんだろう」と思った。そして、それがこの目の前の男ではないことだけは理解出来ていた。エルネストがカイエンの「連れ合い」でも、「愛人」でも、ましてや「恋人」でもないことは。

 エルネストは答えをためらいもしなかった。

「ああ。カイエンは政治的なことを抜きにすれば、別に俺を必要としていないが、俺の方は違うな。俺は、あいつに執着している、もうこりゃあ、最初っから愛なんてぇ上品なものじゃねえけどな。突き詰めれば、あいつのすべてを喰らい尽くして、自分も第一番の餌として貪り喰われたいのさ。そんな妄想からもう逃げられない哀れな男だ。愛している、なんて格好のいいものじゃねえんだ。カイエンが俺を拒絶していても、目の端にでもあの姿をとらえていたいんだよ。もう触れさせちゃくれねえと分かっていても、指の先だけでも触れていたいんだ。……今朝も、ザイオンの官邸から出てきた馬車の中で、カイエンが眠いのが我慢出来なくてうとうとしちまったのを見た時……。俺は気が付いたら、あいつを膝の上に抱き上げて、でも、なーんにも出来ずにただ、寝顔を眺めていたよ」

「そんな……。あの」

「そうだよ。俺は、怖いんだ。また、カイエンを痛めつけ、苦しませるのは本意じゃねえ。それに、あの決して生まれては来られない子供を、また、あの夢の中の暗い沼の淵で彷徨わせたくなんかねえ。今度はリリエンスールみたいな具合のいいのが、そばに来てくれる可能性はないからな」

 そこまで言うと、もう、エルネストは話すことがなくなった。

 だから、彼は躊躇なくオドザヤに背を向けた。この辺りの感覚は、カイエンにもヴァイロンにも、そしてイリヤや、他のこの大公宮の人々とも共通していただろう。彼らはみな思い切りがよく、悩むことはあってもその行動や判断は斬れ味がいい刀のようだったから。後悔や挫折にそのままとっ捕まって、そこから動けなくなるような人間は、ここには一人もいなかった。まあ、それを時代や彼らの立場が許さなかった、ということもあったが。

「あんたの頭の具合じゃ、今はろくに記憶にも残らねえだろうな。でもいいんだ。俺はあんたのために喋ったんじゃねえ。突き詰めれば、俺自身のためさ。……俺は最初っから、このぬるま湯みたいな場所に長居は出来ねえって、カイエンたちのお仲間にはなれねえって、知っているからな」

 エルネストの最後の言葉は、もう、誰にも聞こえなかった。

 彼が、もう少しだけオドザヤの様子に目を向けていたら、彼女の顔色が一瞬、変わったことに気が付いただろうが、彼はもうオドザヤを見ていなかった。

「俺にはしなけりゃならない仕事がある。でも、それが終わったら……」

 オドザヤとサグラチカ、それにいつの間にかやってきていた執事のアキノを置いて、エルネストはさっさと大公宮の後宮の自分の部屋へ戻ろうとした。

 そして、大股に廊下を歩いて角を曲がった途端、見飽きた顔を見て、本当にうんざりした顔になった。

「……そんなに、俺が信用できねえか」

 エルネストの前で恭しく頭を下げたのは、もちろん、彼の侍従のヘルマンだった。

「いいえ。ただ、先ほどのお言葉には、私から今、申し上げておきたいことがございます」

「先ほどの? どれだよ」

 ヘルマンはエルネストの問いには答えなかった。

「たとえ、この街を一度は後になさっても、エルネスト様のお仕事が終わられましたら、私が、必ずエルネスト様をこの街へお連れいたします」

 ヘルマンの黄色っぽい、灰色にも見える目は真剣だった。

「決して、エルネスト様より先には倒れませんから、ご安心を」

 これには、エルネストの方が苦笑した。

「何だと思えば、まあ、ご大層な侍従様だな。俺を死なせても自分は生き残るってか?」

 ヘルマンは悪びれなかった。

「使命をお受けになったのは、エルネスト様でございます。私はそれを最期まで見届けるお役目をいただいたまで。それを忘れたことはございません」

「へえ、そうかい」

 エルネストは後宮へ向かう足取りを緩めることはなかった。

「誰にも好かれちゃいねえが、ここは居心地が良すぎるな。俺もカイエンたちと一緒にこの街を守って行きたくなっちまう」

 だが、それは自分のするべきことではない。

 エルネストがこの朝、わざわざ、得体の知れない薬によって操られ、そしてトリスタンの張った蜘蛛の糸にとらわれてしまったオドザヤを呼び止めたのは、どういう理由からだっただろう。

「そうさ。あの哀れな女帝陛下も、俺も、今の姿のままじゃあ、この世に生まれてきた甲斐がないぜ。男も女も関係ねえ。人間にはそのことのために生まれてきた、ってやつがあるはずなんだ。どんなに恋しい者がいても、報われるかどうかは運命だ。自分の運命の道にのるまでは、何度挫折しても、立ち上がるしかねえんだ。そして、どっちへ行くかを決めるのは……」

 自分自身だ。

 エルネストはそう思ったが、すぐにそれが出来ない自分をも理解していた。

「くそったれめ。行きがけの駄賃に、あのへなへな王子の始末だけは見届けてやるぜ」

 彼がそう呟いた時、後宮へと続く回廊から、ふと見上げた空に昼間の月が見えた。なぜだか知らないが、エルネストには、その真っ白な半月が笑っているように見えた。  







 オドザヤがザイオンの外交官官邸の仮面舞踏会マスカラーダに忍び込んでいたことは、同じ場所で起きた、フランセスクとジャグエ侯爵家の息子たちとの決闘騒ぎに紛れ、読売りに載ることもなかった。

 カイエンなどは大いに安心したが、それは皇宮の宰相サヴォナローラや、女官長のコンスタンサにとっても同じことだった。

「……では、陛下はコンスタンサ殿の提案を、その場で却下なさったと?」

 そこは、皇宮の宰相府のサヴォナローラの執務室だった。

 オドザヤは昼前に裏口からではあったが、サヴォナローラのさし向けた目立たぬ馬車ではなく、大公宮の紋章のついた馬車で堂々と戻ってきていた。大公宮で用意してくれた言い訳は、「妹のリリエンスール様のお加減がよろしくないため、ご心配の皇帝陛下が大公宮さし向けの馬車で大公宮を訪れていた」というものだった。確かに、この言い訳の方が目立たない馬車で出たり入ったりするよりはずっといい。

 帰ってきたオドザヤを迎えたのは、オドザヤの護衛をするため、大公宮から派遣されている、ルビーとブランカを引き連れた、皇帝付きの女官長であるコンスタンサであった。コンスタンサは先に、もうオドザヤの侍女のカルメラが、一人で密かに実家の馬車を仕立てて戻ったのを確認している。その上で、コンスタンサは、帰ってきたオドザヤにカルメラはどうしたのか、と大公宮へ見舞いのオドザヤについて行ったはずなのに、先に実家の馬車で戻るなどおかしい、カルメラへの確認が終わるまで、部屋へは戻らずにいた方がいいのではないか、と進言したのだ。

 だが、コンスタンサが恐れていたのとは違い、馬車を降りたオドザヤは落ち着いた様子に見えた。

 コンスタンサはちょっと安心したが、サヴォナローラと打ち合わせていたことは忘れていなかった。まずは別室でおくつろぎになり、そこへカルメラをお呼びになったら、と提案したのだが、オドザヤはそんなコンスタンサなど見えないようだった。

 彼女は黙ったまま、コンスタンサを押しのけて皇帝の宮へ向かって歩いて行こうとした。その時の顔は、最近には珍しほどに厳しく引き締まっていて、コンスタンサは我知らず圧倒されるものを感じた。

 コンスタンサは焦った。そして、なんとかオドザヤを押しとどめようとして押し問答となった。

 そうしてもみ合っているところへ、現れたのは、皇宮の警備に当たっている親衛隊だった。親衛隊の副隊長が、部下を数人連れて現れ、オドザヤを守るように取り囲み、彼女の居室の方へ連れて行ってしまったのだ。

 コンスタンサだけでなく、ルビーとブランカも、このことには呆然とした。

 そもそも、親衛隊の隊長のモンドラゴン子爵は、女帝反対派のモリーナ侯爵の腹心であった。そして、あの皇宮前広場プラサ・マジョールでの親衛隊員の細工師ギルドの人々への暴行事件以来、オドザヤは皇宮の警備こそ彼らにそのまま預けていたが、自身の護衛と警備は大公宮派遣の二人と、コンスタンサが選んできたリタ・カニャスの三人に任されていたのだ。

 だが、リタ・カニャスはすでに弱みを握られ、カルメラ達に引き込まれていることが判明している。

 コンスタンサはこの後、直接にカイエンから聞くことになるのだが、ザイオン外交官官邸での仮面舞踏会マスカラーダへ、オドザヤを手引きしたのは、親衛隊長のモンドラゴンだった。

 と、なれば。

 カルメラらは、モンドラゴン子爵を仲間に引き入れ、今後は彼らにオドザヤの身辺の警備を任せるよう、オドザヤに進言したのだと思わざるを得なかった。

「まさか、あの皇宮前広場プラサ・マジョールでの事件の後、あんなにご叱責あそばされたモンドラゴン子爵を、信頼なさるとは……。私の目は節穴、考えは赤子同然だったということです」

 サヴォナローラの執務机の前で、コンスタンサはうなだれた。その姿は、いつも糸杉のようにまっすぐだった毅然とした様子とは違っていた。

「……私どもも、おかしいとは思いながらも事態を甘く見ておりました」

 こう言ったのは、大公軍団員のブランカ。彼女の横で、ルビーはただ、唇を噛み締めている。唸りを上げる犬のように、奥歯をぎりぎりと噛み合わせているようにも見えた。元々がやや三白眼で厳しい顔つきだから、サヴォナローラの脇に控えているリカルドにはちょっと怖かった。

「陛下の周りに親衛隊がついた、ということですね。こうなると、君たちの立場は辛いものになるだろうね」 

 こう言ったのはサヴォナローラで、彼はルビーとブランカの方を見ながらこう続けた。

「すでに、大公殿下もすでにモンドラゴンのことはご存知だ。昨夜の舞踏会にご出席になり、大公軍団も密かに投入なさっていた。さっき、ガラからすべて聞いたよ」

 そこまで言うと、サヴォナローラはちょっとの間、無表情のまま黙っていた。

 見守るコンスタンサやルビー、ブランカやサヴォナローラの弟弟子で武装神官のリカルドには、彼の真っ青な目がいつもよりもより青さを増したように見えた。

「コンスタンサ殿」

 しばらくして、サヴォナローラは今度はまっすぐに、いつもは定規を当てたようにまっすぐな背中を、やや丸くしているコンスタンサの方を、まっすぐに見た。

「弟から聞きました。先ほど、陛下を迎えに行かれる時には動揺させては、と申しませんでした。言いにくいことですが、大公殿下を始め、ガラ達も実際に見て確認済みとのことなので、申し上げます」

 コンスタンサには、この言葉だけで全部、わかったようだった。

「お前達、この事は他言無用だよ。私は皆を信頼しているが、本当なら宰相たる私は皇帝付き女官長のコンスタンサ殿にだけ、この話をすべきなのだ。……わかるね?」

 サヴォナローラが、ルビー、ブランカ、それにリカルドの顔を見回すと、彼らは黙ってうなずいた。彼らももう、サヴォナローラの次の言葉は想像がついていたから。

「陛下は、ザイオンの王子にすべてを捧げておしまいになった。そして、随分と混乱なさっておいでだったそうです。……先ほど、お帰りになった時には、落ち着いたご様子だった、と言うことでしたね?」

 サヴォナローラが顔を向けると、コンスタンサははっとしたように首をあげた。

「ええ。それなんです。なんだかこの頃になく、静かに御意志も明白でいらして……」

 サヴォナローラは眉をしかめた。

 この時、彼がオドザヤの向かった先が彼女の住む宮ではなく、違う場所だったと知れば、彼にももう少し、オドザヤの心の動きが見えたかも知れない。

 だが、親衛隊を引き連れてオドザヤが乗り込んだ場所を彼が知るのは、その日の終わる頃になってからで、それを聞かされても、さしもの炯眼の彼であってもその意図は計れなかったのだった。



 オドザヤはコンスタンサを退けると、親衛隊を引き連れて、まっすぐにある場所へ向かった。

 それは今、皇太后のアイーシャが寝たきりの身を置いている、前の皇太女宮だった。

 オドザヤはその区画へ入るなり、驚くアイーシャ付きの侍女たちを蹴散らかす勢いで、アイーシャの寝室へ入っていった。

 アイーシャの寝室には、あの腹心の侍女、ジョランダ・オスナが控えていて、入って来たオドザヤの勢いに、慌ててそれを押しとどめようとした。

「お下がり! ジョランダ」

 それを、オドザヤは冷たく厳しい一言で片付けた。

 驚きに目をみはるジョランダの前で、オドザヤは、黙ってアイーシャの寝室の中へずかずかと踏み入った。彼女は部屋の中のなんとも言えない臭気にも、寝台の上の瘦せおとろえて老婆のようになったアイーシャ本人にも、目向きもしなかった。

 彼女がまっすぐに探していたのは、たった一つのもの。

 それを、オドザヤはすぐに見つけることが出来た。

 アイーシャの寝台の枕元。そこには、彼女の父、先帝サウルの小さめな肖像画がかかっている。

 オドザヤは無言のまま、それを壁から肖像画の額ごと取り外した。

「あ、それは……」

 ジョランダが押しとどめるように、喉の奥から干からびた声を引きずり出したが、オドザヤは構いもしなかった。

 彼女は取り外した肖像画を、金色に塗られ、宝石がはめ込まれた額ごと、音高く床に叩きつけた。

 すると。

「ああっ!」

 ジョランダが叫び声をあげた。

 彼女ら二人の目の前で、肖像画の額の後ろの留め金がずれて、額が肖像画の描かれた板から外れていた。

「いけませんっ」

 這うように、叩きつけられた肖像画の上へのしかかって隠そうとしたジョランダを、オドザヤは、ああ、あのオドザヤがだ、小さな靴の先で鋭く蹴り上げた。

 そんなことをするのは、オドザヤにとっても初めてのことだったに違いない。それでも、彼女は迷いなくそうしてのけたのだ。

「どくのよ! ジョランダ」

 脇腹のあたりを蹴り上げられ、蟹のように這いつくばったジョランダの片手を捻り上げ、オドザヤは肖像画に手をかけた。

 そして。

 その肖像画は、二人の前で前後二枚に別れた。

 ああ。

 サウルの肖像画の下には、もう一枚の肖像画が隠されていたのだ。

「やっぱりね」

 オドザヤは、カイエンに借りて着ているドレスの裾をさばいて窓の方へと歩き始めると、彼女の父親であるサウルの肖像画の方を厭わしげに払いのけた。

「嗚呼……。アイーシャ様、アイーシャさまぁ、たいへん、たいへんです。ああ、こんなことが……」

 ジョランダはオドザヤの足元で、もう顔を上げることもなく、世界に背を向けるように丸くなって震えていた。彼女がいくら呼んでも、寝たきりのアイーシャが答えることはなかった。

「なんてこと。まあ、なんてそっくりなのかしら。今のお姉様そのものだわ」

 オドザヤはサウルの肖像画の下に隠されていた方の、やや小さい肖像画を両手で持ち上げると、窓辺へ持って行ってじっとりと眺め回した。

「本当に、今のお姉様のお顔にそっくり! よく似た父娘であられるとは知ってたけれど、お若い頃は本当にお姉様と同じ顔でいらしたのねえ」

 オドザヤは、言いながら肖像画の目元、口元を指先でねちっこく撫でた。

「でも、よぉーっく見れば、お髪の色が違うのね。でも、こうして絵になっちゃえば同じだわ」

 昼間の太陽の光の下に暴かれたのは、もう、言うまでもない。

 それは、カイエンの実父、前の大公のアルウィンの肖像画だった。それが、兄のサウルのそれの裏に隠されていたのだ。そして、それはアイーシャの寝ている寝台のすぐそばに、ずっと飾られていたのだった。

 それは、オドザヤが覚えている限り、彼女が子供の頃から、ずっと。

「お母様ったら、本当に駄目な方。ずっと叔父様を愛しておられたくせに、皇后の地位に目が眩んで。あの素敵なお姉様を、忌まわしい子供だなんて言って蔑んで」

 そして、次にオドザヤの口から出て来た言葉は、真っ黒な毒に塗れていた。

「……お姉様だけじゃないわ。そもそも、私のことなんか、お母様はちっとも愛してやいなかったのね。お母様の大切なのは、叔父様とご自分だけ。エルネスト様が、お姉様とのことをお話してくださらなかったら、もうずっと、死ぬまで気が付かなかったかもしれない。……エルネスト様のお話、怖かったけれど、最後まで聞いていてよかったわ」

 ああ、それではオドザヤがアイーシャの寝室の肖像画の秘密に気が付いたのは、朝、大公宮でエルネストに聞かされた話ゆえのことだったのだ。

 オドザヤはここまで言うと、腐って打ち捨てられた塵芥でも見るような目で、寝台の上で横たわったきりの、自分の母親を見下ろした。下賎な女だったら、つばでも吐き捨てたかもしれない。  

「とことんまで醜い女! 呆れ果てたわ。この絵は預かっておくわね。いつか、お姉様にもお見せしたいから」

 そう言い捨てると、オドザヤはアルウィンの肖像画を持ったまま、床で震えているジョランダなど見もせず。アイーシャの部屋をさっさと出て行った。 

 そんなオドザヤの様子を、床の上から、打ち忘れられたサウルの肖像だけが、じっと見ていた。



 自室へ戻ると、オドザヤはすぐにくっついて来たカルメラに命令した。

「カルメラ、すぐに私のお部屋から、トリスタン様の肖像画を持っておいで」

 カルメラは不思議そうな顔をしたが、黙って従った。舞踏会でよろしくやって来たオドザヤである。甘い場面を思い出してうっとりしたいのだろう、と、たかをくくっていたのだ。

 オドザヤの寝室には、あの、ザイオンからもたらされた王子三人の肖像画のうち、第三王子のトリスタンのものだけが大切に選り分けられ、密やかに飾られていたのだ。

「これでございますね」

 それはそんなに大きな絵ではなかったので、カルメラは両手で抱えて持って来た。

 それを見るなり、オドザヤはカルメラがまだ絵をテーブルに置きもしない前に命じていた。

「カルメラ。そのトリスタン様の絵、墨でもインクでも靴油でもいいから、真っ黒に塗りつぶして持っておいで」

 この命令を聞くと、カルメラはもちろん、驚いた。

「ええ? あの、それはこの絵を、でございますか」 

 まさしくオドザヤは、それを真っ黒に塗りつぶしておいで、と言ったのだ。

 捨ててこい、と言うのでも、焼き潰せ、と言うのでもなく。

 まるで、先帝サウル以前の時代に、検閲に引っかかって塗りつぶされた、読売りや小説やらのように。

「あの、この、トリスタン王子殿下の肖像画を、でございますか」

 カルメラは目を白黒させていたが、オドザヤの冷えた、青みがかったように見える琥珀色の瞳でじっと見られると、ぶるり、と身を震わせた。

 オドザヤは、カルメラにもう一度、言い聞かせるように言わねばならなかった。

「聞こえなかったの? その肖像画を、真っ黒に塗りつぶして持っておいで、と言ったのよ」

 カルメラは、かわいらしい顔を引きつらせ、目をまん丸に見開いていた。脂汗が、彼女の額からどろりと垂れた。

「私、間違っていたわ。私はこの国の、ハウヤ帝国の皇帝ですもの。ザイオンの第三王子風情に誠を捧げるようなことがあってはいけないの。昨日、あったことは後悔してないわ。でも、あの方だけを愛するだなんて。そんなことを考えていたなんて、私は大馬鹿ものだった」

 カルメラの目の前で、オドザヤはアイーシャの寝室から持って来た、隠されていたアルウィンの肖像画を大事そうに胸元に抱え込んだ。

「ねえ。この方を知っている? この方だけだったの。お母様が生涯、心に抱いていた方は。お母様の、多分最初の男の方。それなのに、お母様はお父様の妻になったのよ。笑っちゃうでしょ。お母様ったら、あら、エルネスト様がおっしゃっていた通りだわ。目の端にでもこの方をとらえていたかったのよ! あははははは、ねえ、おかしいでしょ?」

(カイエンが俺を拒絶していても、目の端にでもあの姿をとらえていたいんだよ。もう触れさせちゃくれねえと分かっていても、指の先だけでも触れていたいんだ)

 その時、オドザヤが思い出していたのは、エルネストのこの言葉だったのだろう。

 もちろん、カルメラはおかしくなどなかった。若いカルメラは、オドザヤの言葉の先が予想できなかった。今日、オドザヤが皇宮へ戻るまで、カルメラがオドザヤを支配していた。だが、それは唐突に終わりを告げたのだ。

「私はお母様みたいな、愚かでみっともない女にはならない! 最初の男に支配されるなんてまっぴら!」

 オドザヤはきっぱりとそう言ったが、ふふふ、と口元だけで笑うと、言葉を付け足した。

「でも、トリスタン様を捨てたりしないわ。もちろん、愛したりなんかしない。エルネスト様が教えてくださったもの。男の方のお気持ちの動きは、女にはちっとも理解できないってこと。逆もまた然り、なんだってことも」

「おもしろいわ」

 オドザヤは、胸に抱えたアルウィンの肖像へ向かって語りかけた。もう、すぐそばでトリスタンの肖像画を持ったまま、わなわなと震えているカルメラなど目に入ってもいなかった。

「お姉様、ねえ、お姉様は今はお幸せそうだわ。お姉様の男の方はみーんな、お姉様の虜。エルネスト様が、シイナドラドでお姉様にしたってことにはびっくりしたけれど、お姉様はあの方にしっかりと報復なさったわ。そして、ご自分を与えることなく、むしろ、エルネスト様がお姉様に向ける愛で縛っておいでなのね」

「さすがはお姉様だわ」

 オドザヤは感嘆するように、ため息をついた。

「私も負けませんことよ、お姉様」

 がたん。

 カルメラがトリスタンの肖像画を取り落とした音を聞いても、オドザヤはそっちを見もしない。

「昨夜の嵐。私はあの中で新しく生まれて来たような気がするわ」

 嵐。

 それは、三年以上も前の春、カイエンに襲いかかって来たものと同じなのか、それとも違うのか。

 未だ誰も知らぬまま、オドザヤはこの日、新しい世界へ自分から一歩を踏み出したのだった。 

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