幻想の肖像


「いや。私とエルネストはここへ招待されてやって来た身だ。こそこそ逃げ出すようなまねは出来ん」

 イリヤの手からヴァイロンの腕の中に移動させられ、彼に先導されて広い庭を突っ切りながらも、カイエンがそういう判断ができたのは、さすがにそろそろ大公殿下として、それなりに自分の身分や職分をわきまえることが出来るようになって来たからだろうか。

 この国の大公ともあろうものが、ちゃんと正式に招待された舞踏会の会場から、塀を乗り越えて逃げ出すわけにはいかない。

「陛下の方は頼んだ。あちらは招待されざる客だ。それに、あの有様では……皇宮へ直接、お帰りいただくことは出来ない。まずは大公宮へお運びしろ」

 カイエンがそう言うと、ヴァイロンは何か言いたげな様子を見せた。

「しかし……」

 だが、エルネストとイリヤがこう言うと、諦めたようにこの外交官官邸の表玄関の方を透かし見た。

「いや、確かにそれはそうだな」

「玄関の方、まだお客さんが残っているみたいよ。堂々と出て行くんなら、早い方がいいかも」

 イリヤは先を行くシーヴやヘルマン、それにガラやナシオとシモンの気配の方へ手を振った。

「俺や大将は呼ばれざる客だから、塀を越えていきましょ。ナシオ、殿下達と一緒に表玄関に回って。大丈夫そうならあんたはどこからでもいいから撤退、いいね?」

「承知」

 ナシオがそう答えた時には、もう、先を行くヴァイロンやシーヴ達の気配はかなり先の方へ行っていた。

「私はどう致しましょう」

 そう聞いて来たのは、ヘルマンで、これにはエルネストが指示する。

「行きの馬車の御者は二人とも塀を乗り越えて行っちまっただろう。お前は俺たちの馬車を確保して、表に回せ」

「分かりました」

 そして。

 表玄関に回ったカイエンとエルネストは、何か言いたげな様子でしきりにハンカチで脂汗を拭いているザイオンの外交官と、作り笑いと慇懃な挨拶の応酬を済ませ、馬車の上の人となったのであった。

 馬車に乗り込んでみれば、もう外は東の方から紺色に曙光がにじむような時刻となっていた。

 御者台で御者に化けているのは、エルネストの侍従のヘルマンらしかった。普通は侍従の仕事と御者の仕事は、宮殿の内と外の仕事という面でも違っている。御者は馬の世話などもするから、貴人の身の回りの世話をする侍従とは出身階級が違うことも多かった。

 だが、エルネストの「鍛錬」とやらの相手もしているらしいヘルマンは、体格一つとっても貴族の侍従というよりは軍人のようにも見えたから、御者に化けていても不自然さは微塵もなかった。

 ザイオンの外交官官邸から、大公宮まではそう遠くはない。だが、同じハーマポスタールの山の手に位置してはいるものの、ザイオンの官邸は大公宮のある丘の方ではなく、皇宮へ続く丘の方にあった。

 前日の晩餐時から始まった仮面舞踏会である。もう夜明けも近い時刻となれば、カイエンは馬車に揺られ始めるともう眠くなって来てしまった。

 彼女は暑苦しい黒死病医師の仮面を取ると、それを脇に放り出した。これもノルマ・コントの工房の作品だから、粗末に扱ったわけではなかったが、それまでの一部始終を思えば、「やれやれ、この仮面での滑稽芝居もやっと終わった」という気分だったのは致し方ないだろう。

 大公宮へ帰れば、先に気絶したまま運んでいかせたオドザヤをどうやって皇宮へ帰すか、という算段をしなければならなかった。恐らく、先に帰ったガラはその足で皇宮の兄、宰相サヴォナローラのところへ報告と相談に行っているはずだ。オドザヤの迎えの算段もして来てくれるだろう。

 カイエンは特に彼に指示してはいなかったが、普段から大公宮と、皇宮のサヴォナローラのところへの連絡係をしているガラのことだ。命じなくともそうするだろうことは間違いなかった。

 ところで、日頃、カイエンはエルネストと二人きりになることはほとんどない。彼女が避けていることもあったし、周囲も気を配っていた。

 だが、皇宮関係の行事などに出かける場合だけは別だった。去年の十一月のフロレンティーノ皇子の誕生日、年越しの舞踏会などでもそうだったが、こういう時には夫婦として出かけるから、馬車の中では二人きりにならざるを得ない。こういう場合も、カイエンはエルネストと並んで同じ側の座席に腰掛けることはなかった。広い大公専用の馬車の座席は向かい合った形で設えられ、ちょっと詰めて乗り込めば六人までが乗り込める大きさだったのだ。

 今回もそれは同じだった。

 カイエンとエルネストは向かい合って座っていたが、それでも普段の彼女なら、エルネストと二人きりの馬車の中でうとうとすることなどなかったはずなのだ。だが、夜通し起きていた眠気には耐えられず、カイエンはいつの間にか、柔らかい座席の背中に寄りかかるようにして眠り込んでしまっていた。

 カイエンがまどろんでいたのは、ほんの十分ほどのことだっただろう。

 だが、カイエンがなんとなく変わった雰囲気の違いに、はっとして目を開けた時。彼女は柔らかい座席のクッションではない、それよりももっとしっかりとしてがっちりしたものの中にあった。カイエンは反射的にそれから抜け出そうともがいたが、蛇のように絡みついたそれは彼女を離してくれそうにはなかった。

「いつの間に……!」

 カイエンは自分の尻が、すでに馬車の座席の上にさえ乗っかっていないことに驚きながらも、腰に回っているエルネストの手を両手で掴んで引き剥がしにかかった。彼女は今や、エルネストの膝の上に抱きかかえられた形となっており、たとえ束の間とはいえ、彼の胸板を枕に寝ていたと思うと、身震いがしそうな気持ちだった。

 こればかりは、あれから一年以上の年月が経ったといっても変わらなかった。シイナドラドで虜囚となっていた間、首都のホヤ・デ・セレンまでの道のりで、彼女はこうしてエルネストに抱かれて馬車で運ばれて行ったのだから。

 エルネストがハウヤ帝国へ来てからは、シイナドラドでのことは一応は棚に上げたつもりで、大人の対応を心がけて来たカイエンだった。エルネストの方も殊勝な様子でいたから、気持ちの方では、もうかなり過去のことは消化していたつもりだったのだ。

 だが、肉体の方はまた、別だった。

「は・な・せ!」

 カイエンは努めて冷静な声で言おうとしたが、引き剥がそうと掴んだエルネストの大きな手に、逆に手を掴まれると、もう冷静ではいられなくなった。

 そうだ。御者台にはヘルマンがいる。

 カイエンはエルネストの侍従のヘルマンに関しては、シイナドラドにいた時からいい印象を持っていた。エルネストの侍従だから彼の命令には忠実だったが、彼女の世話を親身にしてくれたし、彼の職分の中で出来うる限りのことをしてくれたと感じていた。

「おい、……ヘル……!」

 掴まれた手の先に見える、エルネストの真っ黒な片方だけの目は昏く、その色合いにカイエンは嫌な思い出を思い切り想起された。ヘルマンを呼ぼうと声を上げかけた時、馬車が大公宮の門をくぐり、裏の玄関へ向かうアプローチに差し掛かったのは、多分、エルネストはともかく、カイエンには僥倖といってよかっただろう。 

 不自然な格好で睨み合った二人を乗せたまま、馬車はあっという間に大公宮の豪壮な裏玄関の前に止まっていた。

 すぐに馬車の扉を開けたのが誰であっても、カイエンはその方へ手を差し伸べていたことだろう。

 馬車の扉を開けたのは、執事のアキノだったが、降りてくるだろうカイエンを助けようとしてそこにいたのがヴァイロンだったのは、この際よかったのか悪かったのか。

 カイエンは緩んだエルネストの腕を振りほどくようにして、ヴァイロンのたくましすぎる腕に取りすがっていた。

 カイエンの心の底のお人好しな部分が、何もそこまで嫌わなくても、と囁いたような気はしたが、ここでは彼女の冷静な感情の部分よりも、身体の訴える言葉の方が優った。

「え。カイエン様……?」

 人前ではヴァイロンに対しても、こういう親密な様子を見せることを避けていたカイエンの意外な様子に、ヴァイロンは驚いたようだ。

 彼は飛び出して来たカイエンを馬車から無事に抱え下ろしたが、そのままカイエンが彼の胸元に顔を埋めるようにして来たのを見ると、明らかに狼狽した。

「あれえ? これはなんかあれから、あったのかなぁ」

 カイエンはヴァイロンに抱きついてしまってから気が付いたが、すぐそばにはイリヤも控えていたらしい。彼はちらりと馬車の御者台のヘルマンを見上げた。

 カイエンの後から馬車を降りて来たエルネストにイリヤの追求するような視線が突き刺さるのを、カイエンはまだ当惑気なヴァイロンの胸の中から見ていた。もう安全だ、と言うように、ヴァイロンの手が背中をさすってくれる。

「あーあー、ちょっとした隙間を見逃さない皇子様には感心致しますけど、もう奥じゃ、へーか様がお目覚めになって大騒ぎなのよ。殿下ぁ、あんたもしっかりしてくださいよぉ」

 イリヤにはもう、馬車の中での出来事も明白だったらしい。

 カイエンは抱きついているヴァイロンの気配が、ぶわっと剣呑な雰囲気になったのを感じたが、もう、それに構っている気持ちにはなれなかった。イリヤの言葉で、彼女は一気に現実へ引き戻されたのだ。

「陛下がお目覚めになったのか? 今、お側には誰が?」

 カイエンがヴァイロンの胸元から顔を上げると、イリヤがすぐそばに立っていた。思えば、オドザヤを手っ取り早く、微塵の躊躇もなく気絶させたのはこのイリヤだ。

「サグラチカさんとー、ルーサさんとか、ともかく女性の方々ですよー。あんな様子じゃ、俺たち野暮な男どもはそばに寄れませんからねぇ。もう一回、眠っちゃってもらおうかとも考えたんですけどぉ、さすがにそれやっちゃうと後が心配だしねー」

 ザイオンの外交官官邸から連れ出す時、いとも簡単にオドザヤを気絶させた当人が言うのだから、もうこの手は使えないと言うことだろう。そして、まだ半分以上は薬の夢の中にあるだろう、今のオドザヤの精神状態が普通ではないだろうことは、カイエンには容易に想像出来た。

「危急の場合でございますから、陛下には殿下のお居間にお通ししております。どうやら、知った顔がないことにお気付きになり、混乱しておられる様子です」

 オドザヤの乱れた様子も、馬車から降りたカイエンの取り乱した様子も見ているはずなのに、執事のアキノの声はいつもと変わらず、落ち着き払ったものだった。

「わかった。いい判断だな」

 そう言った時には、もうカイエンは落ち着いていた。後ろでヘルマンに取っ捕まっているエルネストの方へ、目を向けるくらいの余裕が戻っていた。

「とにかく、皇宮からちゃんとした者に迎えに来させなければ。いや、こちらから目立たない馬車を出すべきか。その辺りの算段もしないとな」 

 そう言いながら、ふと空を見上げたカイエンの目に映ったのは、もう紫から赤紫、そして暁の黄金色に変わりつつある新しい朝の色だった。



 カイエン達が奥殿のカイエンの居間の近くまで廊下を歩いてくると、オドザヤが何か高い声で言っているのが聞こえて来た。

「お前たちは、隣の部屋に控えていてくれ。廊下でもいい。……イリヤ、ヴァイロン、もう朝だし、軍団の仕事があるだろうが、なんとか時間を作ってくれ。……何か不測の事態になったら困るから」

 カイエンはそう言いながら、心の中で「困るのは一人では何も出来ない私だけだが」と付け足した。ヘルマンに促されて、後宮の方へ向かおうとするエルネストを押しとどめたのは、何かの暗合だったかもしれない。

「お前もだ、エルネスト」

 カイエンがそう言うと、エルネストだけでなく、侍従のヘルマンも不思議そうな顔をしたが、あえて何も言わずに共にイリヤやヴァイロンと一緒に廊下に残った。

 カイエンが居間の扉のところまで来ると、そこには先に帰ったアルフォンシーナと、そして杖を突いたマテオ・ソーサが、もう着替えてたたずんでいた。

「殿下、あのご様子では、通じる話も通じないでしょうな。奥医師を呼びましたから、鎮静作用のある薬を処方してお休みいただいた方がよろしいのでは……」

 アルフォンシーナは、青い顔で突っ立っているきり、言葉が出ない様子だったが、さすがに教授の方は冷静な判断だった。カイエンはうなずいたが、このまま昼までオドザヤをここで預かれば、皇宮の方でオドザヤの不在が明らかになる、それをどうしたものか、と考えていた。オドザヤは表から堂々と出かけたわけではあるまい。そうとなれば、帰る時も裏口から、と考えるしかなかった。

「そうですね……」

 そう、教授に答えながら、カイエンはアキノに命じて、黒死病医師の扮装の上着を取り除けさせた。この扮装のままで部屋に入れば、オドザヤは一層、混乱し恐怖するかもしれなかったから。

 右足に装着していた、トスカ・ガルニカの作った装具も外させた。アキノは心得たもので、すぐにカイエンの昼間の部屋着のガウンを持って来て、絹のシャツと細身のズボン姿になったカイエンの背中からそれを着せかける。

「ガラは?」

 カイエンがガラはもう皇宮のサヴォナローラのところへ行ったのか、と聞くと、アキノはここへ戻ってすぐに、皇宮へ向かったと言う。

「ならば、皇宮からの迎えを待ったほうがいいか……」

 カイエンはそう言いながら、オドザヤの様子を直に見ておきたいと思ったので、アキノに合図して居間の扉を開けさせた。

 そこにカイエンたちが見たのは、もう外は明るくなっているのに未だカーテンを開けていない、薄暗い部屋の真ん中にあるソファのクッションにすがって何か高い声でわめいているオドザヤ。

 そして、それを側でなだめている様子のサグラチカとルーサの二人、それにオドザヤの背後の壁際に青い顔で控えている、奥医師の姿だった。

「いやっ。あなたたちなんか知らない! カルメラを、カルメラを呼んできて、あの子じゃないと分からないのよ!」

 オドザヤの叫ぶ言葉の意味がわかると、カイエンはひやっとした。オドザヤは大公宮へ担ぎ込まれたことにまだ気が付いていないように思えたからだ。

(これは、どうしたものか)

 カイエンはひゅっと自分の喉が鳴るのを聞いた。もう扉は開いてしまっている。だから今、カイエンはオドザヤにまず声をかけねばならなかった。だが、その言葉を間違えれば、収まるものも収まらなくなることは、彼女にはよくわかっていた。

「あの、おはようございます、陛下」

 今は朝で、朝になってから初めて会ったのだから、おはようでいいはずだ。カイエンはおっかなびっくりでこの言葉を喉から引っ張り出したのだが、まずはそれは上手くいったようだった。

「おねえ、さま?」

 オドザヤは今まで叫んでいたのが嘘のように、ぽかんとした顔つきでカイエンを見た。その顔は、ザイオンの外交官官邸にいた時には薄暗すぎて気が付かなかったが、化粧がほとんど落ちて、蒼白な皮膚のあちこちがまだらになっていた。

 それでも、それほど醜く見えなかったのは、元の肌がきれいだったおかげだろう。

 カイエンは乱れた髪の毛とその顔をなんとかしてやりたい、と思ったがそうした様子を本人に気付かせるのも恐ろしく、今は黙っていることにした。

 着ているドレスの様子は、ザイオンの外交官官邸から連れ出した時のまま、乱れてやっと体にまとわりついているような状態だった。どこかで脱げたらしく、靴はもうなくて裸足の足が分厚い絨毯の上を漂っていた。

「え? ここは……どうしてお姉様が?」

 そう言うオドザヤは、もうサグラチカやルーサの姿などは目に入らない様子で、近付くカイエンの方へ手を伸ばした。カイエンがそっとサグラチカを見ると、彼女はちょっとだけ首を振って、ルーサとともにソファの後ろへ下がった。ルーサの方は、ちらりとカイエンの方を見ると、そのまま静かに部屋を出ていく。カイエンは気持ちを落ち着けるためのお茶かなんかの準備と、恐らくは乱れたオドザヤを湯浴みさせたり、着替えさせたりする手配に行ったのだろうと思った。

「ここは大公宮の私の居間ですよ。……お加減はいかがですか? 何か温かいものをお持ちしましょう」

 カイエンがなんでもない様子を取り繕ってそう言うと、オドザヤはぼんやりとうなずいた。ありがたいことに、この様子では昨夜からの出来事の記憶は、まだ彼女の意識の表面まで戻っては来ていないらしかった。

(お寒くないですか)

 続く言葉を言おうとして、カイエンはそれを押しとどめた。寒いなどといえば、オドザヤの注意が彼女の着ているものに向かいかねなかったからだ。言うまでもなく、それは彼女に昨夜の顛末を思い出させる可能性が高かった。

 カイエンはそうっと、ソファのオドザヤの隣に腰掛けた。窓のカーテンを開けるべきか否か、と迷って視線をさまよわせると、部屋の隅で奥医師が首を振っているのが目に入った。刺激するな、と唇の形が言っている。光さえ今のオドザヤにはどういう風に作用するかわからない、と言うのだろう。

 そう言うわけで、ルーサがお茶の支度のできたワゴンを引いて来るまで、カイエンとオドザヤは無言のまま向き合っていた。

 オドザヤはルーサがカップに紅茶を注ぎ入れる間も、ぼんやりとしていたが、カイエンがミルクと砂糖は? と聞くと、一瞬、ふわっと微笑んだ。そして子供のような声で「両方」と言ったので、カイエンは手ずからオドザヤの前に置かれたカップにミルクと砂糖を入れてやった。

 すると、オドザヤはきっと喉が渇いていたのだろう、彼女はカップを取り上げると、すぐに紅茶を飲み始めた。

 熱くはないのか、とカイエンは心配になったが、そっと傍のルーサをうかがうと、ルーサは口元だけで「ぬるめにしてまいりました」と言った。さすがに気が利くな、とカイエンは感心した。

 カイエンの方は、ミルクだけ落として飲み始めたが、オドザヤの方が気になって、味などわかりはしない。

 オドザヤは紅茶を飲みきると、まだ欲しそうな顔色だったので、ルーサは間髪入れずに二杯目を注ぎいれた。今度はオドザヤは自分で砂糖壺を開けてスプーンで砂糖を入れ、ちょっと考えてからミルクも注ぎいれた。

 カイエンはそんな様子を見て、一安心したが、それは事態が次の段階へ進行した、と言うにすぎないことにすぐ気が付かされた。

「私……どうしてお姉様のところへ来ているのでしたかしら」

 オドザヤの琥珀色の目の焦点が合って来ると、彼女は痛む頭を押さえるように、こめかみを押さえた。そして、彼女の目が、今度こそ間違いなく自分の着ている黒と青藍アスール・ウルトラマールのドレスに落ちた。

(青よ!)

 あの時、このドレスの色を決めようとしていた時、彼女は自分でこの色を選んだのだ。

(カルメラ。青よ。この国の海の色! それと琥珀色。私の目の色を忘れないで)

 そうよ。私にも色はある。この体を一層美しく彩るはずの色が。あの時、この色を自信を持って決めたオドザヤの目の奥に見えたのは、黄金色の太陽が沈む、真夏の真っ青な西の海の色だったのだ。 

(陛下。ご招待の皆様には、決まった衣装の決まりごとがあるそうですの)

(……大丈夫です。大公殿下もクリストラ公爵夫人もお出かけになられるんですもの。危ないことなどあるはずもありませんわ)

 カルメラの声が頭の中で響き渡った時、とうとうオドザヤはすべての出来事を思い出してしまっていた。

「あの、陛下?」

 カイエンはオドザヤの様子から、彼女が昨日の夜のことを思い出したことを悟った。

 カイエンとしてはとにかく第一に、皇帝が皇宮にいないことが露見する前に、オドザヤを皇宮へ返さなければならない。だが、それは、オドザヤに怪しい薬を勧め、昨晩の仮面舞踏会マスカラーダへのお忍びの手配をした、侍女のカルメラのいる場所に戻すことになる。

 カイエンやサヴォナローラの名前で、怪しげな侍女とはいえ、皇帝の側仕えの侍女の懲罰を決めるわけにはいかなかった。彼らにはその権限などないのだから。密かに始末するのは最後の手段にしたかったし、カルメラの罪を暴けば、オドザヤの皇帝としての資質を疑われる結果ともなりかねない。

 皇宮のサヴォナローラのところへ行ったガラは、そっちの方の相談もして来るはずだった。一番いいのは、女官長のコンスタンサに迎えに来てもらい、皇宮へ帰っても元のオドザヤの環境へ戻さず、薬が抜けるまで他の場所で養生させることだ。薬が抜ければ、オドザヤもカルメラたちの処分に同意することだろう。

 カイエンは時間稼ぎをするしかないな、と腹を括ったが、オドザヤの方がそうはさせてくれなかった。

「私……私、トリスタン様と……」

 かちゃん、とオドザヤは紅茶のカップを受け皿の上へ置いた。トリスタン、と名前を口にしたのと同時に、オドザヤは昨晩、彼としたことのすべてを思い出したらしかった。

 それから、それまでカップを持っていたオドザヤの白い指が、緩んだままのドレスの胸元に落ちかかる、栗色に染められた髪の毛に伸びた。それをくるくると絡めては落とし、絡めては、落とし。

「私のこと。お姉様は、見たのね?」

 そして、しばらく経ってから、オドザヤはからくり人形のようにくるり、と真っ白な長い首を回して横に座ったカイエンの顔を見つめた。

 その様子は、胸元や背中が危ういところまで緩んで開いているのと、首飾りがないせいで首の曲線が強調され、蒼白な顔色と相まって、美しすぎる妖婦としか見えなかった。

 それまでのオドザヤの肖像とのあまりの乖離に、カイエンの背後で、乳母のサグラチカとルーサもが息を詰めた。

 カイエンたちはオドザヤが今の自分の状態を把握したら、泣き崩れるか、開き直るかのどちらかしかないとは思っていた。

 そして、今までに彼女たちの知っているオドザヤの性格などから、きっと悲嘆にくれて泣き崩れるだろうと思っていた、いや、そっちであってくれと思っていたのだ。

 だが。

 現実は非情だった。

 トリスタンとのことがあって、一人で目覚めた時のオドザヤは、自分がいとも簡単に貞操を捨て去ってしまったことに驚き、悲しみ、そして当惑していたのだが。そして、ザイオンの外交官官邸の廊下でカイエンを見つけた時にも、彼女は惑乱と衝撃のあまり絶叫したのではあったが。

 それらを越えて、オドザヤの心は反対側の、摂政皇太女から皇帝になるまで、それからもずっと心の裏側で抑圧され、くすぶっていた昏い気持ちの方に支配されてしまったのだった。

 だが、カイエンたちにはまだ、そこまでオドザヤの心中を透かし見ることはできなかった。

「髪を染めて、こんなドレスを着て、舞踏会に紛れ込んで。私が、したこと。お姉様は全部、見つけてしまったのね?」

 オドザヤは泣かなかった。それどころか、彼女の目は燃えていた。それまでに彼女が見せたことのない、実のところはオドザヤ本人も知らなかった彼女が、この時、この世に出現したのだ。

「あの……」

 それならもう知っているが、それはもう取り戻しようのないことだ。

 オドザヤには、トリスタンのことはきっぱりと忘れるなり、切り捨てるなりしてもらわねばならない。あんなやり方で、女性の方から身を堕とすように仕向けるような男をこのハウヤ帝国の皇帝の伴侶にすることなど考えられない。

 カイエンは心の中でそう叫んだが、言葉にするのは控えるしかなかった。ここで、ひどく敏感になっているオドザヤの心をこれ以上かき乱すのは、得策ではなかった。

「それで! お姉様は私をここへ連れて来て、どうしようというのかしら」

 オドザヤの琥珀色の目は、カイエンの灰色の目を覗き込むようにして、瞬きもしない。その見開かれた目は、化粧が落ちてまだらになった痩せた顔の中で、病的にぎらぎらと底光りしていて、カイエンはぞうっとした。

 ぞっとしたが、その一方で今までに見たことのないオドザヤの「女」をむき出しにした顔つきに、その凄絶な美しさに、カイエンは圧倒されていた。

 ちゃんと答えなければと思うのだが、台詞自体思いつかないし、そもそも喉がからからに乾いていて、声も出なかった。

「私、一人じゃドレスが着られなくて。こんなひどいなりで逃げ出したわ。こんなんじゃ、お姉様にはすぐに分かったでしょうね。だって、お姉様にはご夫君のエルネスト様以外にも、何人も愛人やら恋人やらがおありなんですもの?」

 いつものオドザヤだったら、カイエンに対してはもう少し丁寧な言葉遣いをしただろう。だが、この反抗する美神のようになったオドザヤは、ぞんざいな口調とあけすけな物言いでカイエンに迫った。

「それは……それは、確かに、分かったけれども。あの、ちょっと落ち着こう、ね?」

 カイエンはオドザヤの言葉の、特に後半にはえっと驚いたが、なんとか言葉を紡ぎ出した。だが、口調も、顔つきの強さでも、今のオドザヤの敵ではなかった。

「あら、私、とっても落ち着いていますわ。さっきいただいた紅茶のおかげかしら。すごくこくがあって、ミルクにも、お砂糖にも負けない香りがあって。いい葉をお使いだと感心しましたわ」

 オドザヤは勝ち誇ったように言い切った。彼女の方はカイエンとは違って、ごくごく飲んでいたようでも味の方はちゃんと分かっていたらしい。

「私、見ましたのよ。お姉様ったら、かわいいドレスをお召しになって、中庭で白い仮面の背の高い殿方と逢引をしておいででしたわ。抱き合って、口づけまでなさって。その後で、お姉様ったら男の方にお化粧まで直させて! あの方、どなたなのかしら。よく気の付く方のようですわね。……でも、エルネスト様でも前のフィエロアルマの将軍でもなかったですわね。新しい恋人なのかしら。うらやましいわ」

 このオドザヤの言葉が発せられると、カイエンは顔から火が出るような気持ちになった。まさか、あの一幕をオドザヤに見られていたとは!

 実際に、彼女の頰は血の気が上がってきて紅潮した。隣の部屋に当のイリヤがいるだけに、いや、その上にエルネストもヴァイロンも、他の連中も聞き耳をたてているだろうことを知っているだけに、恥ずかしさで目が回りそうだった。

「私ね、トリスタン様と愛し合いましたの。愛しいあの方にすべてを捧げましたのよ」

 オドザヤは、それまでの彼女なら、到底口にできなかったような言葉まで簡単に口に出した。

「お姉様は私を、ふしだらな女と思われる? 思われませんわよね。だって、お姉様には幾人もかわいがっている男の方がいるんですもの」

「ねえ。ちょっと落ち着いて話しましょう。確かに私にはそんなのがおりますけど、そんな幾人もって訳でもないし。そもそも、ヴァイロンとのことは先帝陛下が……」

 カイエンは思わず、言い訳じみたことを言いかけたが、賢明にもそこで言葉を変えた。ヴァイロンのことは言い訳できても、イリヤのことの言い訳にはならない。

「陛下が、あのトリスタン王子に恋しておられたことはもちろん、存じております。ですが、陛下は陛下……このハウヤ帝国の至高の存在であられます。私とはそもそも立場が……」

 カイエンはひどく常識的なことを言っているな、まるで小うるさいおばさんみたいだ、と自分でも思った。だが、この際、それしか言いようもなかった。まさか、「そうですよねー。恋愛は自由ですし、もそれに伴うあれこれも、個人の自由ですものね」と言うわけにはいかなかったから。

 大公のカイエンと皇帝のオドザヤでは絶対的に違うことがあるのだ。オドザヤの婚姻と出産には国家の将来がかかっている。

 蟲が体内にあることもあり、子供の産めないカイエンの場合には、恋愛関係で何が起こっても、国家の後継問題にはならないが、オドザヤにはそれがとてつもなく大きな問題になることだけは理解してもらわねばならなかった。

「陛下。昨晩のことについては、もう何も申しません。しかし、陛下に何かございましたら、このハウヤ帝国の次代の皇帝……つまりは後継者問題になるのですよ。確かに、私がこんなことを言えた立場ではないかも知れませんが、陛下の恋愛や婚姻は国家の問題なのです」

 やっとの事で、カイエンはそこまで言った。こんな状態のオドザヤに言うにはお固い内容だったが、言わないで済ませることは出来なかった。

 オドザヤはちょっとの間、黙っていた。だが、その表情はすぐに前よりももっと皮肉げな、大人びたというか、ひねくれたものに変わってしまった。

「あら! そんなことなら簡単だわ。私がトリスタン様と結婚すればいいんだもの! トリスタン様は私との縁談のためにこの国へいらしたんですもの。ザイオンと手を組めば、きっとスキュラのアルタマキアのこともうまく収まるわ。そうじゃありません?」

 カイエンは頭を思い切り、ハンマーでぶっ叩かれたように感じて唖然としてしまった。オドザヤの頭にはもう、このハウヤ帝国が直面している国際情勢も、内政の状況もどうでもいいことなのだと知らしめられたからだ。今、こんな皇帝を戴いていたら、この国はいとも簡単に崩れ落ち、周辺諸国の狩場となってしまうだろう。

 女帝反対を唱えていたモリーナ侯爵たちは喜び勇んで、オドザヤをさらなる転落の道へ誘おうとするに違いない。

 カイエンは昨夜の舞踏会での、モンドラゴン子爵の動きや、螺旋帝国とベアトリアの外交官の動きを思い出し、ほぞを噛む思いだった。敵はもう、ここまで先を読んでいたのだ。

 怒りが、カイエンの中で昨夜の一時的な暴風雨のように荒れ狂った。

 カイエンは、ザイオンの王子との縁談話が来て、肖像画が送られて来たときのオドザヤの台詞を、今のオドザヤに叩きつけてやろうか、と憤然となった。

(なんてこと。本当に馬鹿にしているわ。いや! そんな、訳の分からない王子との縁談なんて、気持ち悪い! 誰だってそんなお話、お断りしたくなるはずだわ。どうしてザイオンは、私がそんな縁談をのむと思うの)

 ああ。ザイオンは最初っからオドザヤが縁談をのむことを確信していただろう。あんな、悪魔のようなきらきら王子を差し向けてきて。そのあからさまさに、こちらが「まさかオドザヤが……」と後手後手に回ることしか出来ないことを知っていたに違いない。恐らく、トリスタンはザイオンでか、カイエンたちの知らない東の国でかで、同じようなことをやってのけたことがあるのだろう。

 トリスタンのザイオンでの所業を、ちゃんと調査しなかったカイエンたちの、これは大きすぎる誤算だった。

 こうなってみれば、トリスタンは訳の分からない王子どころではなかった。正真正銘、ハウヤ帝国にやってきた悪魔だ。せいぜい、小悪魔程度と思って甘く見ていたのがいけなかった。

(叩きのめしてやる!)

 カイエンは久しぶりに、というか、あのアルウィン以外に対して初めて殺意を覚えた。エルネストに対してさえ、ここまでの憎しみは覚えなかった。それは、彼の背後にアルウィンがいると知ったからではあったが。


「いいえ。絶対にそうじゃありませんね」

 答えたカイエンの声は、オドザヤのような高い声ではなく、あまりに低くて太かったので、勝ち誇ったようになっていたオドザヤも、はっとした顔になった。

「……小説で、男で身を滅ぼす女を読む度に、こんな馬鹿なことがあるもんか、って思ってましたけど。事実は小説よりも奇なり、って本当なんですね」

 カイエンはソファのオドザヤの横から、すっくと杖を突いて立ち上がった。

「それなら、これも小説通りで行くしかないんでしょう。いや、それ以上かな。わかりました。そういうことなら、私にも考えがあります。腹を括りますよ」

 オドザヤの真ん前に仁王立ちになって、男かと勘違いされそうな声音でそう言うと、カイエンは扉の外のアキノに向かって少し大きな声を出して命じていた。

「アキノ! そろそろ皇宮からお迎えが来るだろう。迎えに出ておけ」

 そして、サグラチカの方へはこう言った。

「サグラチカは、陛下のこの惨憺たる有様のドレスをお脱がしして、お湯浴みしていただくように。お着替えは、私の服ではちょっと丈が短いかもしれないが、上下に別れているドレスならなんとかなるだろう。お髪は……その染め粉は湯で落ちるのかな?」

 カイエンが落ち着き払っているのを見ると、それまでおろおろして見ていたサグラチカの背中がピンと伸びた。

「はい。大丈夫でございます。一晩だけのおつもりでしょうから、ちょっと工夫すれば落ちると思います」

 そう言うと、もうサグラチカはうやうやしくオドザヤの手をとると、ルーサに命じて先にカイエンの湯殿に向かわせ、さっさとオドザヤをそっちへ引っ立てて行く。

 これには、さっきまでカイエンに反抗的な目を向けていたオドザヤの方がびっくりした顔になった。

「え。お姉様、あの……」

 カイエンはもう、そっちの方は見もしなかった。頭にあったのは、あのトリスタンだのモンドラゴンだのをどう追い込むかの筋書きだった。

 もっとも、オドザヤがこうなってしまった以上、彼女の暴走が簡単に止められるとも思ってはいなかった。何と言っても、オドザヤは皇帝なのだ。カイエンの頭の中には、ぼんやりとだが最悪のシナリオも描かれていた。そうはさせないつもりだったが、最悪の展開が見えただけでも、先が混沌としているよりはましだった。

「陛下。夜遊びなさった後は、しっかりとお身体を洗い浄めなければいけませんよ。陛下のお間違いは、この国の間違いなんですからね」

 最悪、トリスタンをオドザヤの皇配にせざるを得なくなったとしても、月足らずの皇子皇女などオドザヤに産ませるわけにはいかなかった。そういうことには、国民は聡いだろう。貴族たち、各国の外交官たちともなれば、それを使って足もとをすくいに来るのは必至だ。

「ルビーとブランカを呼んで言い含めないとな。それだけでは足りない。誰か、女性を陛下のもっとお側に送り込めないかな」

 カイエンとしては、護衛としてオドザヤの元にルビーとブランカを送り込んでいたのだが、今度のことは彼女たちよりもオドザヤに近い、侍女のカルメラから起こってしまった。カイエンはカルメラを遠ざける手段も講じなければならなかった。

「これは確かに、陛下の言われる通りだったな。陛下につられて色恋に目覚めている場合じゃなかった」

 カイエンは、ヴァイロンやイリヤの潜んでいる隣の部屋の方を見ながら、そう呟いたが、別に自分は慎もう、などと思ったわけでもなかった。体力的な問題はあるが、彼女の場合にはそれで国が傾くわけでもなんでもない。好きになったんだから、これはもうしょうがない。所詮はあのアルウィンの仕掛けたことの中でのことだが、彼らはもうすべて、彼女の手の内にあるのだから。

「サヴォナローラにも、活を入れないと」

 この国の政治を実際に動かしているのは、宰相のサヴォナローラだ。オドザヤがあんな調子では、彼に官吏たちを引き締めてもらう必要があった。

 そこまで考えると、カイエンは大きなあくびをした。今さらながら、徹夜の頭に先程までのオドザヤとのやり取りはキツかった、と思いながら。



「ねえちょっと! 怖! 聞いた? 初の姉妹喧嘩の勃発よ! 女の喧嘩って言葉だけなのにトゲトゲで怖いわー」

 イリヤはカイエンがあくびをしながらソファに身を投げ出すのを見ると、入ろうかどうしようか、という風に居間の中をのぞきこんだ。エルネストもそうだったが、カイエンの居間は彼女の寝室のすぐそばだから、彼らには敷居の高い場所だったのだ。

 イリヤとヴァイロン、それにエルネストとヘルマンの主従、それになんだかげっそりした様子のシーヴとは、カイエンとオドザヤがやりあっている間、ずっと廊下で聞き耳を立てていたのだった。

 教授とアルフォンシーナもそこにいたのだが、オドザヤがサグラチカと共に奥へ引っ込むと、

「私は仕事に行くよ。アルフォンシーナ君、君はお疲れ様。気を遣って疲れたろう。部屋で休んだ方がいい」 

 と、マテオ・ソーサが言ったので、二人ともにここを後にしていた。教授は自分には今、出来ることが無い、と判断すると後はさっぱりしたものだった。

 執事のアキノは、先ほどのカイエンの指示を聞くと、すぐに裏玄関の方へ向かってしまっていた。

 ジーヴは痛ましいものを見るような、なんとも言えない目でオドザヤを扉の影から見送っていたのだが、他の男たちはそんな様子にはあまり気を回していなかった。彼らの関心はまず、カイエンの上にあったからだ。それはシーヴも同じだったのだが、昨日の夜からの出来事で、彼はかなり神経をすり減らしていた。オドザヤの乱れた様子を、一番近くで体温が感じられるような距離で見ていたのも、彼だった。

「……イリヤさん、元気だなあ」

 シーヴはそれだけ言うのがやっとだったが、他の皆の反応は様々だった。

 オドザヤが、カイエンとイリヤの逢い引きをすっぱ抜いた時には、ヴァイロンはイリヤを殺しそうな目で見た。カイエンとイリヤのことは頭では分かってはいたが、仕事中に、それも自分は屋敷の表で寒い中を張り込んでいた時に、そんな一幕を演じていたことには、むかっ腹が立って当然だった。

 だが、エルネストはずっと黙りこくっていた。話には聞き耳を立てていたが、表情はなんだかぼんやりしていた。

「ヘルマン、部屋に戻るぞ」

 そう言うと、彼は着ていた舞踏会用の衣装の袖をひらひらさせた。

「俺も疲れた。この衣装も早く脱ぎたいよ」 

 ヘルマンは、馬車から降りた時のカイエンの様子を見ると、すぐにエルネストに厳しい顔を向けたのだが、ヴァイロンやイリヤの前では、言葉にするのを避けていたらしい。

「承知致しました。私も、エルネスト様にしっかりと申し聞かせたき言葉がございます」

 侍従らしからぬ、つけつけした物言いに、ヴァイロンとイリヤ、それにシーヴは顔を見合わせた。後宮の方へ歩いて行くエルネストの方は、ヘルマンのそんな調子にも驚いた様子はない。

「……大丈夫よ。皇子様には、さっきの姉妹喧嘩見せられて、まだもう一つ、気になったことが出来ちゃったのよ。多分ね」

 エルネストの背中を見送りながら、イリヤは何か分かっている者の言い方でもってそう言う。

 だが、さっき、馬車から降りたときのカイエンの様子は普通ではなかった。エルネストがカイエンに何か仕掛けたのは間違いない。放っておいていいものか。

「えっ? 大丈夫なんですか、見張ってなくて?」

 シーヴははっきりそう言ったし、ヴァイロンも不審そうな目をイリヤに向けたが、もうイリヤは違うことを考えている顔だった。 

「まだなんか起きたらいけないから、俺たちもしばらく隣の部屋あたりで休んでるね。ヴァイロンさんは、殿下の方へ行ってあげなさいよ」

 イリヤがそう言って、シーヴを近くの部屋へ引っ張って行くと、ヴァイロンはちょっと先ほどのイリヤの言葉が気になる風だったが、カイエンの居間へ入った。オドザヤの支度ができたら、彼女を送り出して、今度はカイエンの方をみなければ、と思っていた。


  




 オドザヤが大公宮から皇宮へ帰る馬車の方へ向かって歩いていたのは、あれから一時間あまりの時が経ってからのことだった。彼女は丁寧に湯浴みを済ませ、髪の染め粉も落としてもらい、カイエンのドレスの中から、地味で丈の合いそうなものを選んでもらって着せてもらっていた。

 先ほどはあれほどに激しく、カイエンに向かっていったオドザヤだったが、温かい風呂に入れられて気が抜けると、ぐんにゃりと脱力してしまった。まだ、薬の影響の残る頭は、考えるのが負担になるような出来事を記憶に留めておく機能に欠けていたのだ。考え詰めると自責の念にとらわれるようなことは、頭の方が拒否していた。

 サグラチカに案内されて、裏玄関へと続く、大きな廊下へ出た時だ。

 オドザヤはサグラチカの小柄な姿の向こうに、真っ黒に朝の光を背中にして立っている、大きな男の影を見た。

 サグラチカもすぐにそれに気が付いたが、彼女の方にはこの影の正体が分かっていた。

「皇子殿下でございますね。陛下がお通りになります」

 彼女はエルネストがそこに一人で立っている理由など分からなかったが、オドザヤの進路を塞いでいることは間違いなかったから、一応、そう言葉をかけた。

「分かっている。ちょっと、先に玄関の方へ行っててくれないか」

 エルネストの言葉を聞くと、サグラチカはゆるゆると首を振るしかなかった。

「あの。申し訳ございませんが、そうは参りません」

 エルネストはそんなサグラチカの返答は予想していたものらしい。

「そうだろうな。……俺に信用がないのはよく分かっている。じゃあ、そこで聞いててもらおう」

 そう言うと、エルネストは壁際に下がるサグラチカの方はもう気にしなかった。

「おい。この馬鹿娘」

 そして、オドザヤへ向き直った彼の言った言葉は、ぼんやりしていたオドザヤの頰桁を叩くようなものだった。

「えっ」

「さっきのあれはなんだよ。黙って聞いてりゃ、とんでもないことカイエンに言いやがって」

 エルネストがそう言うと、オドザヤはぽかんとした。そもそも、彼女はこんな下町のごろつきのような言葉遣いで話しかけられたことなど、これまでの人生でありはしなかったから。すぐそばにサグラチカが控えていなかったら、すぐにその場から逃げ出したかもしれない。

「ああ? 自覚がないのか。あれだよ、俺が言いたいのは政治向きの話じゃねえ。カイエンの男関係の話だよ」

 エルネストがそう言うと、オドザヤはしばらく彼の乱暴な言葉遣いの中から、内容を読み取ろうとでも言うように目を白黒させていた。だが、言葉の意味がわかると、不思議そうな声音でこう言った。

「あの。だって、お姉様は……あの、前のフィエロアルマのフィエロ将軍のことは、父の命令でしたからしょうがないですけれど、昨日のことは……お姉様には皇子殿下という正式なご夫君がおありですのに!」

 言葉の最後の方は、「私の言っていることは正しいわ」とでも言うように強くなった。なるほど、酷い言い方ではあったし、自分のことを心配している相手に言うべきことではなかったが、オドザヤなりの倫理観と言うか、正義感はあの言葉の中に含まれていたらしかった。もっとも、婚約もしていない相手とわりない関係になってしまった自分のことは棚に上げて、と言えもしたが。

 オドザヤのこの言葉は、エルネストには予想済みのことだった。

「ああ、ああ。やっぱりな。あんたは全然、聞かされてねえんだ。あのな、カイエンと俺の結婚式がほんの数人の立会いで、前の皇帝もあんたも立ち会わずに行われたのを、おかしいともなんとも思ってなかったのか? シイナドラドから帰国したカイエンが寝付いちまってしばらく起き上がれもしなかったのは、知ってんだろ?」

 主に難しい思考を進める方向の頭に霞のかかったオドザヤではあったが、このエルネストの言葉には反応した。彼女は帰国後、寝込んでいたカイエンを見舞いに行ったのだった。

「ははあ、その様子じゃ、おかしいとは思ってたが、わざわざ聞くほどの興味もなかった、って顔だな」

 エルネストの言葉は、今や矢じりのようにオドザヤの体に突き刺さっていく。

「昨日までお子様だったあんたには、難しい話題だったろうが、さっきの口の利き方からするともう一人前のつもりなんだろ? これから俺が話すことは、未来のこの国のあり方にも、あんたのこれからの人生にも関係があることかもしれないからよ。しっかり、耳かっぽじってよく聞きな」

 このあまりにも伝法な言葉遣いは、オドザヤにはすぐに意味が通じず、彼女は思わず控えているサグラチカの方を助けを求めるように見てしまったほどだった。

「……あんたもカイエンも、お互いに相手を幻想の肖像で覆っちまってたからな。そりゃあ、本性が見えりゃあ、幻滅もするよな。まあ、いい機会だよ。せっかく姉妹でその上に従姉妹で生まれて来たんだ。そろそろ、お互いの真実の肖像を見た上で、これからのことを考えちゃどうだい?」

 エルネストはそう言うと、廊下の真ん中に突っ立っているオドザヤの、サグラチカの控えているのとは反対側の壁に背中を預けた。

「途中で聞くのが耐えられなくなったら、どうぞ、逃げ出して結構。俺も自分で話したくはない、悲惨なお話だからな」

 もうとっくに朝日が昇り、小鳥も鳴き出している光の方へ、オドザヤは目を向けた。

 逃げる。

 もう、話を聞く前から、オドザヤは逃げ道の方を見つめている自分に気が付いていた。

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