地に堕ちた美神

 ザイオン外交官官邸の奥、荒れた中庭に近い回廊で、シーヴは倒れているオドザヤを発見した。

 その少し前。

 オドザヤは豪雨の中、トリスタンに連れ込まれた奥殿の一室で目を覚ました。

 彼女は、ソファに並んで座っていたトリスタンから差し出された両腕の中に、自分から身を倒していったことは、なんとなく覚えていた。だが、それ以降の顛末は、まだまるで思い出せなかった。

 ただ、起き上がった場所は広い寝台の上で、トリスタンと並んで座っていたソファのある部屋ではなかった。

「トリスタン……さま?」

 オドザヤは仰向けの状態で寝ていたが、どうやらトリスタンは今、この部屋にはいないようだ、と言うことは瞬時に感じていた。部屋は広いと言うよりは、こじんまりとした感じで、灯りといえば燃えている暖炉の炎しかなかった。

 それでも目が慣れてくると、部屋の広さにそぐわない豪奢な金色の壁紙の色や、自分の寝ている寝台の天蓋に描かれた、極彩色の天井画などが目に入って来た。寝台の足元の先に扉があり、その先に先程、トリスタンと共に座っていたソファがあるのが、向こうの部屋の薄暗い灯りでちらりと見えた。

 今はいつで、ここはどこで、自分は誰で。

 そんなことが、自分自身の有様が、やっとオドザヤの頭の中に戻って来たのは、起き上がろうとして、下腹部、というかもっとあからさまに言えば、両足の間に今までの人生で覚えのない違和感と、鈍い痛みを感じたからだった。

 あっ、と切れ切れの記憶の断片が、オドザヤの脳裏で閃いて、閃いて。

 そして、起き上がった拍子に、体の上に掛けられていた羽毛の入った柔らかい掛け布団が下にずれたために、彼女は今度こそすべてを思い出さないわけにはいかなくなった。

 つまりは、ふんわりと軽い掛け布団の下で眠っていた彼女は、布団以外に体を覆う何ものをも身につけてはいなかったからである。赤みがかった栗色に染められた長い髪が、もう、きれいに縦に巻かれて整えられていた痕跡も留めず、乱れに乱れて、彼女の背中から腰までを覆っているばかり。

「あ、あ……」

 途端に、オドザヤの頭を覆い尽くしたのは、ただ一つ。十九年の人生で経験のない惑乱だけだった。

 手足の先がすうっと氷のように冷え、首から上だけが鍋で蒸されているように熱く、彼女はくらりと目眩を覚えた。

 オドザヤは思わず、寝台の周囲を見回した。誰か今のこの状態から助けてくれるものを探すように、もしくは、こんな有様の自分を見ているものがいないか、と恐れるように。

 相反する二つの思いで、オドザヤは部屋の中をぐるりと見回したが、そこにはまったく人気はなかった。部屋には扉こそあったが窓はなく、見える範囲には時計もなかったので、オドザヤには今の時刻を知る手立てさえなかった。

「どうしましょう、どうしたらいいの? ああ! そうだわ。トリスタンさまは……」

 トリスタンの名前を口にした途端、オドザヤは羞恥と戸惑いのあまり、頰を紅潮させ、そして次には蒼白になってしまった。

 この、寝台の上でトリスタンと自分が、何をしたのか。それを、未だ体に残っている火照りとともに、すべて思い出したからだった。あれを行なっていた時の彼女は夢うつつのような状態であったはずなのに、体は忘れずにそれを今、彼女に伝えてくるのである。

 彼女はトリスタンを慕ってはいたが、それはまだ真っ直ぐに、ついさっきこの寝台の上で行われていたような出来事に繋がるような現実味を持ったものでは、なかったはずなのだ。

 だが、オドザヤはこの夜、自分からトリスタンに会わんがために仮面舞踏会マスカラーダへ秘密裏に潜り込み、トリスタンの手を取って踊り、そして、彼の腕の中に自ら飛び込んでしまった。

 もちろん、その一部始終は、トリスタンやカルメラ達の仕組んだものだったのだが、彼らが周到だったのは、そのすべてが「オドザヤ自らが選ばなければ、起こり得ない」ように、ことの顛末の決定権と責任が、全部、オドザヤ自身にあるように組み立てられていたことだっただろう。

 オドザヤは、自ら選んで今のこの結果への道筋をたどったのだ。少なくとも、トリスタンは彼女に無理強いはしていなかった。

 オドザヤはあの、侍女のカルメラの与える得体の知れない薬のために、かなり物事の認知がおかしなことになってはいた。だがまだ、自分がこのハウヤ帝国の皇帝という至高の存在である、という事実までは忘れていなかった。

 今夜、この部屋であったことは、まだ独身の女皇帝がしていい種類の出来事ではなかった。と言うか、このハウヤ帝国には今まで三百年、女帝が立ったことなどない。こんなことは、男帝ならどうと言うこともないのかもしれないが、女帝ならどうなるのか。ここでオドザヤが規範としていた倫理観は、ハウヤ帝国の皇女としてのそれでしかなかった。

 結婚前の皇女が、婚約者でさえない男と肉体関係を持つ。

 それは、父帝サウルとミルドラとの醜聞を知っているオドザヤにとっても、禁忌だった。ミルドラはあの醜聞が暴露されてもビクともしなかったが、それは彼女の現在の夫であるクリストラ公爵ヘクトルが、そのことを承知でミルドラを娶ったこと、そして、もう二十年以上前の出来事だったからだ。

 この時、オドザヤの脳裏にふっと浮かんで消えたのは、アストロナータ神殿の神像によく似た、だが白茶けた病人のような顔色、黒っぽい紫色の髪に、輝く灰色の目をした彼女のたった一人の姉で従姉妹の顔だった。

 父のサウルは亡くなり、母のアイーシャは廃人同様の今、当惑し、惑乱したオドザヤが頼れる人間などほとんどいはしない。それに、物事に厳格だったサウルや、自分のことしか考えていないアイーシャは、たとえ健在であったとしても、今のこの状況で頼れるような存在ではなかっただろう。

 伯母のミルドラもまた、オドザヤに残されたわずかな肉親ではあったが、カイエンとミルドラのような近い距離感は、オドザヤとミルドラとの間にはなかった。

「……お姉様」

 カイエンなら、この部屋に連れ込まれる前に見ている。

 舞踏会の会場から離れた、寂しい中庭のあずまやの中に、オドザヤの知らない男と一緒にいた。まだ、この近くにいるだろうか。ああして、夫でも公式に知られている愛人でもない男と親しげにしているカイエンなら、今の自分の窮状を理解し、助けてくれるだろうか。それとも、一国の皇帝として、思慮の足りない女と蔑み、罵るだろうか。

 確かに、醜聞に塗れたミルドラとカイエンではあったが、二人はもう結婚しており、非難しようとした人々も、彼女らの夫が黙っている以上、声高に騒ぐことは出来なかったのだ。

 だが、オドザヤは違う。彼女は未だ結婚前の娘なのだ。

 もう、あれからかなりの時間が経っていることは、混乱したオドザヤの頭では処理できなかった。あの、彼女に与えられている薬は、思考を極めて刹那的な、近視眼的なものにする作用があったからだ。

「どうして、トリスタンさまはいないの? こんな、大変、大変なことを……私を置き去りになさって」

 カイエンを探そう、と思う一方で、オドザヤはもう一人の当事者であるトリスタンをも探していた。それは、彼女をこんな窮状に置いたまま、消えてしまった彼への恨みもあったのだろう。

 実は、今、ここにトリスタンがいないのは、オドザヤが目覚める前に広間であの、バンデラス公爵家のフランセスクと、ジャグエ侯爵家の息子達との決闘騒ぎのせいだったのだが、もちろん、オドザヤはそんな事情は知らなかった。

 オドザヤはしばらく、羽布団の端を握りしめ、寝台の上で身を起こした状態で考え込んでいた。

 そして、もう一度部屋の中から、隣のソファの置かれた部屋までを見回して見つけたのは、床の上をソファの上から始まって、寝台のすぐそばにまで、点々とだらしなく置き捨てられている、彼女の纏っていたものの作った道筋だった。

 履いていた靴をはじめとする、首に着けていたきらびやかで豪奢な首飾り、そして、彼女の黒と青藍アスール・ウルトラマールのドレスや、ペチコート、それに下着類などの連なる様は、それが脱ぎ捨てられた時の様子を語って余りある赤裸々さでオドザヤの目に飛び込んで来た。

 そして、それらから目をそらして見上げれば、寝台の天蓋に描かれた極彩色の絵は、いく人もの男女が絡み合っている絵柄だと気が付く。

 オドザヤの喉の奥で、きゅっと息が止まった。

「いや。いや、いやなの! ……だめよ。誰かが来たらどうなるの。いや、いや……」

 首を振り、泣く寸前の吐き気にも似たえぐみが喉の奥からせり上がって来たが、誰も彼女を助けてくれはしなかった。

 とにかく、外へ出なくては。

 オドザヤが至った考えは、どちらかといえば愚かな方向だったかもしれない。だが、この部屋に裸で置き去りにされたまま、布団にくるまっているよりは確かに建設的では、あった。

 オドザヤは寝台から抜け出すと、裸のまま、ドレスの落ちているところまでゆらゆらと歩いて、ドレスを取り上げたが、まさか素肌にドレスをまとうわけにはいかない。そもそも、コルセットをしていなければ、ドレスの後ろのボタンはかからないのだ。

 オドザヤは寝台のすぐそばに、コルセットとペチコート、それに薄い絹の靴下などを見つけたが、それらを身につけようとして途方にくれた。こんな点では、一人旅が出来、踊り子に身をやつすことも出来たトリスタンは大分、庶民的だったのだろう。彼の方は先ほど、広間での騒ぎを聞かされた時、さっさと一人で身支度ができたのだから。

 もっとも、男の服は貴族のものとは言っても、女性のそれとは着付けに関する大変さが、全然違ったのだから、オドザヤ一人をお姫様育ちの世間知らずと非難するわけにはいかないだろう。

 ともかく。

 オドザヤは生まれて初めて、一人でドレスを着ようとした。だが、もうそれは下着の段階で無理なことで、彼女は靴下を履いて靴下留めに止めるのなどは、早々に諦めた。次に他の下着はなんとか着られたし、コルセットを巻いて前の留め金を止めるまでは、時間はかかったがなんとかなった。だが、コルセットの背中の紐ばかりはどうにもならなかった。オドザヤは半分泣きべそをかきながら、緩んだままのコルセットの上からドレスを身に付けたが、背中のボタンは一つもはめられなかった。

 そんな、下着もドレスもぐずぐずの、ひどいなりではあったが、彼女は鍵のかかっていない扉を開け、回廊に続く廊下へと出た。足に力が入らないので、彼女は壁にすがってそこまでなんとか歩いたのだ。

 だが、しばらくすると、廊下の向こうから密やかな靴音が近付いて来るのが聞こえて来た。

 ああ、助かった。オドザヤは一瞬だけ、そう思った。だが次の瞬間には、その靴音が女のかかとの高い靴のたてる音ではないことに気が付いていた。こういう危機的状況にあると、普段なら気が付かないようなことにも気がつくものらしい。

 向こうから来るのは男だ。

 トリスタンならいい。だが、そうでなかったら。こんな乱れたなりを、知らない男に見られたら。自分の正体に気付かれてしまったら。オドザヤははっとして自分の顔に手をやった。今更だが、そこには仮面はない。今、彼女の顔はむき出しだった。

 オドザヤは背中を這い上がって来る恐怖に、思わず、ぐらりと体の力が抜けてよろめいた。よろめいた拍子にきちんと着られていないせいで、ずるずると裾を引きずっていたドレスの裾を踏んづけた。

「あっ」

 オドザヤはカイエンなどとは違って、転ぶのに慣れてなどいない。

 はっとした時にはもう遅く、オドザヤは激しく体を廊下へ打ち付けていた。

 シーヴがそんなオドザヤのそばにやって来たのは、まさにその瞬間だったのだ。


 シーヴは、自分のマントでぐるぐる巻きにしたオドザヤを利き手でない方の、左肩に担ぎ上げて歩き出した。彼が目指しているのは、もちろん、表の外交官官邸の玄関の方角ではなかった。まさか、正面切ってマントでくるんだ女を背負って、堂々と出ていけるなどとは思えない。

 彼も、カイエンやエルネストのそばに呼ばれた時に、用意して来ていた仮面をつけてはいたが、着ている服はいかにも貴族の従者といったものだ。シーヴは酔いつぶれた女主人を屋敷へ連れ帰る従者だったら、という可能性についても考えてはみたが、それには今日ここに来た時、オドザヤが使った偽名なりなんなりを言う必要があった。

 彼はオドザヤと入れ替わったファティマの名前はもう聞いていたが、それで押し通して出られるか、となると自信はなかった。

 だから、彼が歩き出した先は、裏門に近い、この屋敷の召使いや出入りの商人などが使う、目立たない出入り口と門のある方角だった。そうしながら、シーヴは帝都防衛部隊の訓練で仲間を呼ぶ時の方法として決められている、夜鳴く鳥の声を模した口笛を吹いた。ガラやサンデュが聞いていれば、こちらへ来てくれるはずだ。

 だが、願うように、もうさっきの雷雨が嘘のように晴れ渡っている夜空を見上げたシーヴの耳に聞こえて来たのは、オドザヤが出て来た方角から聞こえて来る、複数の男たちの足音だった。







 一方で、カイエンたちは続々と家路につく貴族たちに混じって、正面玄関から撤退中だった。

 サンドラとフランセスクを先に外へ出し、クリストラ公爵家の次女バルバラに化けたままのカイエンは、コンスエラに化けた治安維持部隊のイザベルと一緒に、ミルドラのそばにいた。クリストラ公爵家の馬車が馬車止まりから出て来るのを待って、ミルドラとともにとりあえずクリストラ公爵家の館へ向かうつもりだった。

 エルネストと、カイエンに化けたアルフォンシーナは先に出て、大公家の馬車の方へ行ったはずだ。歌劇役者のイグナシオ・ダビラに化けていたイリヤは、ダビラの控え室の方へ向かって行った。来た時と同じ格好でダビラとダビラの従者、としてこの館を出ていくためだ。

 そうして、三方に別れたカイエンたちだったが、いざ、ザイオン外交官官邸の玄関に出てみると、そこは煩雑を極めていた。

 主人たちが馬車に乗るには、まずはこの官邸の玄関周り担当の従者が馬車止まりまで走って、馬車を案内してこなかればならない。それが、続々と貴族たちが出て来るために追いついていないのだ。

「これじゃあ、いつ出られるか分からないな」

 バルバラに化けたカイエンは、ミルドラの隣で呟いた。彼女はミルドラと、そしてコンスエラに化けたイザベルに両腕を取られて立っていたが、右足の方はもうそろそろ限界を訴えていた。さしものトスカ・ガルニカ工夫の装具をもってしても、杖なしでこれ以上歩くのは無理そうだ。

「ヘルマンも、護衛騎士の若造も戻って来ねえしな。ここは待っていた方がいいだろう」

 先に出たものの、こっちもまだ玄関先でひしめく貴族たちの中にいた、エルネストとカイエンに化けたアルフォンシーナがすぐそばに近付いて来た。

 エルネストはこのごった返した中でも、行きに腰に下げていた装飾された細身の剣だけは、預けた場所から取り戻して来たらしい。他の貴族達のほとんどは、舞踏会へ来るのに帯剣して来たりはしていないようだった。

 先ほどの騒ぎで、フランセスクは剣を帯びて来たと言っていたようだが、エルネストもフランセスクもそんなことが許されたのは、彼らが皇子や公爵家の息子、というこのハーマポスタールでも屈指の身分だったからだ。

 なんとなく、カイエンたちクリストラ公爵家の三人と、エルネストとカイエンに化けたアルフォンシーナは「これはどうしようもない」という様子を作って、ここへ来た時にカイエンとエルネストが案内された、控え室の方へ動いて行った。ヘルマンやシーヴが戻って来た時に、連絡をつけやすくするためだった。

 同じように、すぐには帰れないと悟った貴族たちの中には、控え室に戻る人々もいた。舞踏会の会場に戻る気はもうしない。だが、玄関先に突っ立って、馬車が来るのを待つのは勘弁したい、と言うのだろう。それに対応するために、官邸の召使いたちが二月というのに汗をかきかき、右往左往している。

 カイエンたちが動き始めると、どこからともなくこの屋敷の給仕に化けたナシオが現れて、案内に立った。

「……ご案内いたします。軍団長とヘルマン殿はもう、先に控え室に」

「そうか。シーヴはどうした? へい、いや、あの方はもう退出されたようか」

 カイエンがミルドラとイザベルに挟まれて歩きながらそう聞くと、ナシオは顎だけを左右にわずかに振った。

「何かあったようです。シーヴ殿はまだ戻っておりません。かしこき辺りに関しても、先に黒いフード付きのマントの女を乗せて裏門から出た馬車があり、何人かが追っていることをお知らせしましたが、あれははずれだったとのことです」

 カイエンは聞くなり、嫌な予感がした。シーヴも、そしてオドザヤも何かに巻き込まれているのではないか、そんな気がしたのだ。

「では、あの方はまだここにおられるかも知れないということだな」

 皆がナシオに案内されて控え室に入ると、もうそこには歌劇役者に化けていたはずのイリヤが待っていた。そこは、最初にカイエンとエルネストが案内されたのとは違う部屋だった。それでも、カイエンたちが入っても十分な広さがある。

「あらあら。みんなが一斉に帰ろうとしたんじゃね。殿下たちの控え室は仕掛けがありそうだから、ここにしたのよ。まあ、ちょうどいいわ。こっちも化けの皮をどうするか考えましょ」

 ミルドラがいても、イリヤの口調は変わりがない。その彼はもうイグナシオ・ダビラの衣装ではなく、従者っぽい、地味だがきちっとしたなりに着替えていた。仮面ももう、あの真っ白な仮面ではない。従者としてここに乗り込んで来た時に付けていたものなのだろう。

 ヘルマンの方は言葉少なに、外で密かにこの屋敷を取り囲んでいるヴァイロン達に連絡をつけたことを報告した。

「ダビラ氏は?」

 とりあえず、置かれていたソファに座ってからカイエンが聞くと、周りの椅子にエルネストやミルドラたちも腰掛けた。

「ダビラさんはもう、あのバンデラス公爵家のぼっちゃんの件があった直後に帰ってもらったわぁ。なんとか、玄関先が押すな押すなになる前に出られたと思いますぅ」

 イリヤは主にミルドラを意識したらしく、いつもの口調が、ここらから変なままではあったが、ちょっと丁寧になった。

「とりあえず、伯母様とこの二人には、一刻も早く外に出てもらわねばな」

 カイエンはミルドラとイザベル、それにアルフォンシーナの方を見ながら言った。

「私はあなたより、よっぽど腕がたちますよ」

 ミルドラは皮肉そうな微笑みを口元に浮かべている。

 カイエンはミルドラがどんな訓練を受けているかは知らなかった。だが、確かにベアトリアとの国境にあるクリストラ公爵領で公爵とともに夫婦で国境紛争に当たっていたミルドラの方が、自分よりずっと修羅場慣れしているだろうとは思った。だが、今、領地でベアトリア方面への睨みを利かせてくれている、クリストラ公爵家を巻き込むのは避けたかった。

「私はこれでも、この街の大公です。自分自身は弱くとも、大公軍団の治安維持部隊を動かすことが出来ます。まあ、ここはザイオンの外交官官邸ですから捜査は出来ませんが、治安を守るためだと強弁すれば多少の無理はききますよ。ちょうど良く、フランセスク殿の事件がありましたから、お客を無事に退出させるためとかなんとか言って言えないこともないでしょう」

 そう言うと、もうカイエンはアルフォンシーナの方を見ていた。

「衣装を取り替えよう。私はもう、杖がないと足元が危ない」

 カイエンがそう言うと、彼女の両脇にさも当然、という顔で座っていた、イリヤとエルネストが同時に言葉を挟んできた。

「あのね、足手まといなのは殿下の方なんだけど」

「周りだけじゃなく、自分も客観的に見ろ」

 カイエンはじろり、と両脇を見たが、自分の決めたことを変えるつもりはなかった。ほんの三年ほど前の彼女は、周りの大人に流されていただけだったが、もう二十一。普通なら二児の母くらいになっていてもおかしくはない歳だった。大公になってからも六年が過ぎているのだ。オドザヤのことを余人に任せて帰るようなことは出来なかった。

 カイエンはアルフォンシーナを従えて控えの間の屏風の向こうへ入ると、ここへ来てしばらくして衣装を交換したのと同じように、衣装を替えにかかった。アルフォンシーナの方は、オドザヤやカイエンなどとは違い、自分でコルセットの紐も締められた。それでも、自分一人ではぎゅっと形よく締めるのは難しかったから、そこはカイエンが助けた。カイエンも言われた通りに押さえるくらいは出来る。

 衣装の交換が済むと、ミルドラとイザベル、それにアルフォンシーナの三人は、ナシオに案内されて部屋の外に出て行く。クリストラ公爵家の馬車に乗ってさえしまえば、そこには御者も従者もいる。アルフォンシーナは夜が明けてからゆっくり大公宮へ戻ればいいだろう。

「待たせたな」

 再び、黒死病医師の仮面と、奇天烈な衣装に戻ったカイエンは、左手の杖の石突きをごつごつと床にぶつけるようにして、気合いを入れた。足手まといなのは分かっている。だが、オドザヤがまだこの屋敷にいる可能性がある以上、ここを離れる気持ちにはなれなかった。

 その時だった。

「お静かに。……シモンが参ります」

 カイエンも、エルネストもイリヤも、ミルドラ達を送り出して戻ったナシオの言葉を聞くと、ぴたりと静まった。やがて影のように密やかに部屋に入って来た、ナシオとそっくりに見える給仕服のシモンは、いつになく慌てたような顔色だった。

「大公殿下、屋敷の奥で、シーヴ殿があの方らしき女性を確保致しました。ですが……」

 シモンの声は影使い特有のもので、意図した方向にしか聞こえないものだ。それでもシモンは「陛下」という呼称を避けた。エルネストやイリヤ達もそれを察して、聞きやすいようにカイエンの後ろ側へと回る。

「そうか! それはよかった」

 カイエンはオドザヤの身柄を確保出来たことには安堵した。だが、シモンの話には先があった。

「はい。ですが、ちょっとまずいことに……ザイオン側と揉めています」

 カイエンははっとした。

「まさか、あの方が今夜ここに来ていることをザイオン側がばらそうとしているとでも言うのか?」

 オドザヤがここへ潜入するにあたり、高級娼婦のファティマをすり替えの相手として用意したことは、トリスタン達の準備していたカラクリだ。だが、ザイオン側がしらばっくれれば、それは全部オドザヤがトリスタンに逢いたさに仕組んだことと強弁できないことはない。そのことにカイエンは気が付いていたのだ。

「それが、ザイオンの側もあの方から目を離すつもりはなかったようですが、先ほどの騒ぎでおかしなことになったようです。そこを偶然にシーヴ殿が通りかかり、身柄を確保した直後に発見された模様です」

「あーらー。シーヴったらもしかして余計なところで頭突っ込んじゃったってわけぇ」

 イリヤの台詞は彼の本音だっただろうが、さすがにカイエンには看過出来なかった。

 彼女とて、ここにいる男どもにとってオドザヤは、この国の皇帝としてはともかく、個人としてはカイエンの妹で従姉妹というだけに過ぎないということは理解していた。それでもカイエンの命令とあれば動いてくれるのはありがたいことだ。だが、イリヤの言葉は、歯に衣着せぬ物言いであり過ぎた。 

「こら! 言葉に気をつけろ馬鹿!」

 今夜のオドザヤの潜入はもちろん、あっちがお膳立てしたものだ。まさか、最初っから身柄を返さないつもりなどではないだろう。オドザヤの方はちょっとした冒険、程度の認識だろうし、トリスタンの側としても彼女を元どおりに皇宮へ戻す計画だったはずだ。そうでなければ、ファティマを使ってわざわざ入れ替わりを演じる必要はない。

 そこまで考えて、カイエンはふと嫌なものが背中をせり上がってくる感覚を覚えて、すぐそばの椅子に落ち込むように座り込んでしまった。

「待てよ。おかしいぞ。あの方の方は、ファティマとの入れ替わりはお忍びを隠すための方便と思うだろう。私もそう思っていた。だが、トリスタンからすればわざわざ、あの方を仮面舞踏会マスカラーダの会場に出す必要はなかったはずだ。なのに、奴らはあの方をファティマとして衆目に晒し、長々と踊りまで踊らせて見せた……」

 カイエンがそこまで、つぶやくように言うと、口を挟んだのは以外にもエルネストの侍従のヘルマンだった。

「あの、お考え中に失礼いたします。今夜のことには、二つの意味があるのではないでしょうか」

 ヘルマンがそう言うと、エルネストもイリヤも、そしてナシオ達もうなずく。

「乙女の恋心を確実なものにすることが、まず、一つ目よね」

 そう言ったのはイリヤ。

「二つ目は、この国の頂点である存在が、お忍びで外国人の主催する舞踏会へ潜入した、という事実を公にすることかもな」

 付け足したのはエルネストだった。

 カイエンは愕然とした。

「それではやはり、あの方の動きそのものを事前に、無理矢理にでも中止させるべきだった、ということか」

 カイエンがそう言うと、周りの男達はちょっとの間、顔を見合わせていた。

「……そうねえ。でも、それやっちゃってたら殿下とあっちは確実に揉めてたし、大公軍団から人を出して実力行使しなきゃ、きっと、お忍び自体は止められなかったよねぇ」

「大公軍団を皇宮へ出していたら、ことは大事になってたな。下手すれば大公が叛乱でも起こしたみたいに見られただろう。ま、姉妹の間に亀裂が入るのは、結果的には同じかもしれないが、少なくとも叛乱の濡れ衣は着ないで済むだろうよ」

 イリヤとエルネストの発言を聞いて、カイエンは力なくうなずくしかなかった。

「とにかく、シーヴは私の護衛騎士なのだから、私が大公として処理せねばならん」

 そう言うと、カイエンはよっこらせ、と立ち上がっていた。

「シモン、案内してくれ。……今、シーヴのそばには誰がいる?」

 カイエンがそう聞くと、もう、男達も皆立ち上がっていた。

「ガラが。ですが、彼をしても強引にお二人を救出できない状況なのです。帝都防衛部隊のサンデュは、伝令のために屋根伝いに外へ。……事態の推移によりましては、ヴァイロン殿の命令で、すぐに帝都防衛部隊の精鋭が入り込みます」

 今夜は帝都防衛部隊の精鋭を外交官官邸の外に待機させていた。その指揮はヴァイロンがとっている。皆、大公軍団の制服ではなく、夜間作戦用の装束を身につけているはずだ。彼らには、今夜は終始、人目につかずに行動するように命じてあった。

 ガラなら、シーヴとオドザヤの二人くらい、担いで逃げ出せるはずだった。それが動けないと言うことは……。カイエンはなんとなく状況がわかる気がした。こうなったら大公の彼女でなくては動かしがたい場面に突入している、と言うことなのだろう。

「わかった。行くぞ」

「皇子様以外は丸腰だけど。まー、下手に武装してると不測の事態に発展しかねないから、いいかぁ」

 身分柄、装飾されたものとはいえ、剣を持ち込んでいたエルネストへ、イリヤは皮肉げに言う。カイエンは呆れた。

「何が丸腰だ。カスティージョの屋敷の時と同じだろうに」

 あの時、カスティージョの身柄が抑えられた後、イリヤの制服からはいくつもの暗器が発見されたのだ。今日だって同じに決まっている。

 カイエンは静かに、左手の杖に力を入れて歩き出した。その時にはもう、ナシオもシモンも給仕の服装を解いており、ナシオの方はカイエン達が部屋から出た時にはどこともなく消えていた。







 カイエン達がシモンに扇動されて現場……舞踏会の途中でカイエンとイリヤが忍んでいたあたり……へたどり着くまでの廊下にはあまり人気がなかった。シモンはカイエンの足を考えて最短距離を取ったので、途中の長い距離を、彼らは広い庭を横切る形で進んで行ったのだ。

 庭は真っ暗で、星明かりだけが頼りだったが、目的地に近付くと向こうではもう手持ちのランプや、そこから火を移された壁際のろうそくなどに火が入れられているようだった。

 カイエン達が近付くと、庭は噴水やあずまやのある場所に差し掛かり、足元が石畳となったが、カイエンは靴音を隠そうとも思わなかった。向こうからも見える距離に入ると、シモンはすっと木立の中へ消えた。ナシオ共々、隠れて事態の推移に対応するつもりだろう。

 がつがつと音を立てる靴音と、かつんこつんいうカイエンの杖の石突きの音に、回廊で対峙したまま動かない男達がさっと一斉に顔を向けた。ザイオンの外交官が母国から連れてきた、ザイオン人の警備員かなにかなのだろう。屈強そうな男達の顔は白く、髪や目の色素も薄いようだ。

 男達の中の数人は、用意のいいことに十字弓クロスボウを構えている。ガラが動けなくなったのは多分、このせいだろう。彼一人ならなんということもないだろうし、シーヴも自分のことは自分でできるだろうが、オドザヤがいては動きが取れない、というわけだ。

「シーヴ、ガラ、迎えに来たぞ。もう、舞踏会はお開きだ。さっさとこんな場所からは撤退するぞ」

 カイエンは状況を見るなり、ガラがシーヴとオドザヤを力技で救出出来なかった理由を理解していた。

「申し訳ない。……彼女は気絶していたんだが、こいつらを片付けて運び出そうとしたところに、ちょうど気が付いてな。怪我をさせたりしないで連れ出そうとしたんだが……」

 ガラの声はたいして申し訳なさそうではなかったが、つまりはオドザヤに怪我をさせないようにと思ったばかりに、機を逸したと言うことなのだろう。

「あら大変」

 カイエンの後ろで、イリヤがどうでもいいような口調でそう言ったが、カイエンは取り合わなかった。

「いやよ! 離して! 私は……私は、トリスタンさま!」

 オドザヤが弱々しい声ではあったが、シーヴともみ合いながら叫んでいる。

 シーヴは床に膝をついた状態で、自分のマントでくるんだオドザヤをなんとか引き止めようとしていた。ガラの方は、シーヴともみ合っているオドザヤの前に壁のように立ちはだかっている。二人とも、カイエンの声は聞こえたようだが、こちらを見るゆとりはないようだった。

 恐らくは、シーヴがオドザヤを確保し、そこへガラがやって来て脱出しようとしたところで、オドザヤが騒いだかどうだかして、ザイオン側に取り囲まれたのだろう。それでも、ガラならなんとかしそうだったが、そう出来なかった理由はもう、カイエン達の目の前にいた。

「おや」

 仁王立ちのガラと対峙しているトリスタンは、仮面をつけていなかった。

「驚きましたね。このお二人は大公軍団の手のものでしたか」

 カイエンはシーヴのすぐそばまで歩いて来て、トリスタンの方を見たが、それが本物なのか、百面相が変装させた誰かなのか、わからなかった。昼間の明るさの下なら、巧みな変装といえどもわかっただろうが、今は夜で、回廊の中はいくつかのランプの灯が照らしているだけだったのだ。

「お前、本物のトリスタン王子か?」

 カイエンはトリスタンの質問には答えず、こちらも質問で持って答えた。こんな場合には、質問には答えないほうがいい。

 トリスタンの方も落ち着いたものだった。

「なんのことでしょう? そちらこそ、本物の大公殿下なのでしょうか」

 大公殿下。

 それを聞くなり、抑えているシーヴの腕の中で、オドザヤは弾かれたように顔を上げた。先ほどの「大公軍団の手のもの」という時には反応しなかった彼女だったが、大公殿下、という音はさすがに聞き取れたものらしい。

「ひっ」

 オドザヤはカイエンの今宵の扮装など知りはしない。

 彼女は黒死病医師のとんがったくちばしに、分厚い眼鏡の仮面を見上げて、息を詰めた。カイエンは仕方なく、空いている右手で頭の後ろの紐を自分でほどき、仮面の方は、さすがに皇子様よりは気の利く従者姿のイリヤが手伝って取ってくれた。

「さあ、帰りますよ」

 カイエンは素顔をさらすと、こぼれんばかりに琥珀色の目を見開いて震えているオドザヤを脅かさないよう、静かに声をかけた。ここにいるのがオドザヤだということは、もう、カイエン達にもトリスタン側にも分かっていることだ。それでも、「陛下」と呼びかけるわけにはいかなかった。何者でもいい、このハウヤ帝国の皇帝以外の女性として、カイエンは彼女をここから連れ出さねばならなかった。

 だが、オドザヤにはそんなカイエンの気持ちなどは分からなかった。今夜、この屋敷でオドザヤの身の上に起きたことは、彼女を完全に動転させるものだった。その上に、目の前にカイエンが現れたのである。

 先ほど、一人で寝台の中で目覚めた時には、助け手としてカイエンを脳裏に思い浮かべたのだが、本物が目の前に現れれば、絶望的な心情で思うのはただ、「見つかった」という後ろめたさと恐怖でしかなかった。

「いやぁあああああああああ」

 オドザヤの惑乱と衝撃は、ここで臨界点を超えてしまった。

 彼女は抑えようとするシーヴの手から身を振りほどき、くるまれていたマントを引き剥がしてトリスタンの方へ向かおうともがいた。ガラは背中に緊張を走らせたが、自分の立っている場所を動こうとはしない。

「トリスタンさま! 助けて!」

 とうとう、オドザヤは言ってはならない最後の言葉を言ってしまった。そして、体にまとわりつくシーヴのマントが剥がれ落ち、彼女の乱れたありさまをカイエン達はまざまざと見せつけられた。

「こりゃあ、困ったことになっちまったな」

 一歩前に出ようとしたカイエンの腕を掴んで止めたのは、エルネスト。

 普段のカイエンなら振りほどいたかもしれないが、この時ばかりはカイエンは腕をつかまれたことにさえ気が付かなかった。

 かろうじて体を覆っているだけの、黒と青藍アスール・ウルトラマールのドレス。背中からのぞく、紐が緩んだままのコルセット。裸足の足から脱げ落ちそうになっている華奢な靴。そして、乱れに乱れている赤みがかった栗色の髪。

 それは、エルネストに言われるまでもなく、カイエンに最悪の事態を教えていた。

「……貴様!」

 それを認識すると同時に、カイエンはガラの巨体越しに、トリスタンの得意げな微笑を貼り付かせた白い顔を睨みつけて叫んだ。だが、その先の言葉が続かない。もう、こうなっては目の前のトリスタンが本物でも偽物でも関係なかった。オドザヤと関係したのが本物だろうと偽物だろうと、彼女の身に起きてしまった事実は変わらないのだ。

 ぎりぎりと歯噛みするカイエンへ、トリスタンはこぼれんばかりの優美な笑いを浮かべて言ってのけた。

「そちらのご婦人は、私に助けを求めておられるご様子です。大公殿下、野暮な手出しはご無用に願います」

 カイエンはここまで言われても、オドザヤをオドザヤである、と言うわけにはいかなかった。トリスタンだけならともかく、向こうには彼の手下のザイオン人達がいく人もいるのだ。もう皆が分かっていることではあったが、大公であると自ら仮面を取ったカイエンがそれを認めるわけにはいかないのだった。

 カイエンが恐ろしい顔つきで睨みつけながらも黙っていると、トリスタンは追っかぶせるように言ってのけた。

「それは、今日の舞踏会に際して、私の踊りの相手として呼んだこの街の高級娼婦でしてね。ファティマと言うのです。大公殿下には、他のどなたかとお間違えなのでは?」

 猿芝居の応酬ではあったが、エルネストもイリヤも、そして一番後ろで周りに気を配っているヘルマンにも、口出しはできなかった。ただ、皆がいざとなったらここから強引にオドザヤを引っさらって撤退するしかない、と言うことは分かっていた。十字弓が厄介だが、もう近くにナシオとシモンが隠れて控えている。それさえ抑えてくれれば、後はカイエンとオドザヤ以外は腕に自信のある男ばかりだ。

「ああ、それなら知っている。踊りの名手として有名だな。だが、場数を踏んだご婦人のわりには、変な惑乱の仕方をされているようだ。何か、悪い薬でも嗅がされたかな?」 

 カイエンは話しているうちに落ち着いて来た。

 トリスタンがオドザヤをあくまで高級娼婦のファティマである、と言うのならかえって好都合だ、とさえ思い始めていた。

 オドザヤはカイエンとトリスタンの言葉の応酬の間も、何か叫びながらもがいていたが、シーヴのそばに何気ない様子で近付いたイリヤがすっと首の後ろを撫でるようにすると、がくりと首を折ってしまった。

 シーヴはちょっと驚いた顔をしたが、カイエンの方はさすがにイリヤだ、と感心した。

 ガラもシーヴも同じことが出来ずに今の事態を招いてしまった。

 状況次第で女相手でも、それが一国の皇帝であっても、平気で手が出せる。これは指揮官としての経験がなければ判断できないところだろう。それでも実際に迷いもなくやってのけるとなると、クソ度胸以外の割り切りの良さが必要だ。そして、イリヤには間違いなくそれがあった。彼はカイエンにオドザヤを拷問にかけろ、と言われたら迷いなくそうするのだろう。カイエンは恐ろしくも感じたが、もう、彼女はこのイリヤの「闇」もろともに飲み込むことを覚悟していた。 

 トリスタンの方も、イリヤの行動にはやや虚を突かれたらしい。彼もまた、カイエン達は皇帝のオドザヤがいやだと言って暴れれば、処置に困るだろうと思っていたのだ。

「なるほど。その女性はフェティマ嬢で間違いない、と。まあ、そんなことはどうでもいいことだ」

 カイエンはそう言うと、イリヤとシーヴに合図して、オドザヤを自分の後ろに運んで来させた。ガラはトリスタン達との間で盾になって動かない。

 その様子を見て、ザイオン人達はざわついた。彼らはトリスタンの方をうかがうように見た。その途端、庭の木立の中からいくつかの石つぶてが飛んで、ザイオン人達の手から十字弓を取り落とさせた。

「外交官官邸の内部は、治外法権のはずですが」

 一気に変わった状況に、トリスタンはさすがに慌てていたのだろう。それでも言うことは間違っていなかった。

「そうだな。だが、その女性はハウヤ帝国人だろう? それもこのハーマポスタールの市民だ。それなら、こうして大公の私が目の前にいる以上、気を失った状態で外国人ザイオンじんの中に置いて行くわけにはいかないな。失礼する」

 カイエンはそう一気に言い切ると、もう踵を返そうとしていた。脇で、ずっと腰の剣の柄に手をかけたままだったエルネストが、オドザヤを抱えたシーヴとイリヤに合図して先に行かせる。

「あらぁ。皇子様が殿しんがり務めてくださるのー? ありがたいわー、俺ちゃん守られてるぅ」

 言葉だけ聞いていると、オドザヤよりもずっと頭がおかしいイリヤに、エルネストは嫌そうに答える。

「うるせえよ。俺の後ろにまだあの、でっかいのが控えてるだろ。……さっさと行くぞ」

 エルネストの言葉が終わらないうちに、カイエンはイリヤに抱え上げられ、エルネストが横を走る状態で、一気に修羅場を後にしようとしていた。まだ腹の傷の癒えないイリヤにはカイエンを抱えて走るのは辛いかもしれないが、戦うなら体に故障のないエルネストの方が向いていた。

「……これからもご姉妹仲良く出来たらいいですね」

 そんな憎まれ口を背中に浴びせられたような気がしたが、もうカイエンは構っていなかった。

 その時、彼女の背後で灯されていたランプやろうそくの炎が、一斉に消えた。同時に、男達のうめき声が聞こえて来た方は間違えがないだろう。

「早く。一番近くの塀を乗り越えます」

 カイエンは真っ暗闇の中、吐息が聞こえるような近くから聞こえて来た声に、心底びっくりした。

「ヴァイロンか?」

 それは、官邸の外で待機しているはずの、ヴァイロンの声に間違いなかった。

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