落雷

 ……そして、至高の花

 絢爛たる帝国の太陽は堕ちた

 そして、帝国の星

 闇夜を照らす孤高の徒花は嘆き苦しんだ

 だが、人々よ悲しむことはない 

 太陽が落ちることなど決してない

 太陽は沈むが、必ず再び昇って地上を照らす

 朝が来ないのは

 過ぎし日に死んだ者にだけだ

 星が夜空から消えることなどない

 星が消えるのは

 この世界が滅ぶ時だけだ

 季節外れの雷雨の降りしきる夜に

 落雷のとどろきの中に

 星と太陽の絆が引き裂かれ

 そして踏みにじられたとしても

 太陽も星も

 この街を捨てて逃げていくことだけはない

 だから人々よ、諦めることなどない

 この街の誇りが失われることなどありはしない




   アル・アアシャー 「海の街の娘の叙事詩エピカ」より「落雷」







 ハウヤ帝国帝都、ハーマポスタールの冬は雨が少ない。空気は乾いており、雨が降ったとしても、それは小雨のようなもので、雪が降ることはごくごく珍しいことだった。

 だから、この日。

 ザイオンの外交官官邸で、ザイオン第三王子トリスタンのお披露目の仮面舞踏会マスカラーダが開かれていた日。その日は昼間のうちは快晴で、夜になっても星空が見えていた。

 だからその時、急に変わってきた空模様に気が付いた人は少なかった。ただ、外交官官邸の屋敷の屋根の上に潜んで下の様子をうかがっていた、ガラとサンデュはわずかに上昇した気温と、急激に深まってきた湿気に気が付いていた。

「……なんだか、湿気てきたって言うか、変な風が吹いてきましたね」

 色の黒いサンデュの姿は、纏っている黒っぽい帝都防衛部隊員の夜間活動用の装束……と言っても、それが帝都防衛部隊の隊員のそれだと見てわかる人はほとんどいなかっただろう……もあって、地上の人に気付かれる心配は皆無だった。彼は官邸に入るまでカイエンの馬車の御者をしていたガラと入れ替わったのだが、馬車を邸内の馬車止まりへ入れてしまうと、ガラに続いて屋敷へ潜入したのである。

「この季節には珍しいが、これは雨になるな。それも、夏の夕立のような雨になるだろう。……そんな匂いだ」

 鼻が異様に効くガラにはもう、気候の急変が予想されていたようだ。

「それじゃあ、いつまでもこんなところには居られないですね。どうします?」

 無位無官のガラに、一応は帝都防衛部隊の隊員であるサンデュがこんなことを聞くのはおかしなものだが、ガラもサンデュもちっともおかしいとは思っていないようだ。

「俺たちの仕事は、ここに奇術団コンチャイテラの連中や、あの百面相が紛れ込んでないか探すことだ。消えたザイオンから来た宝石商人……王子の実父だというシリル・ダヴィッド子爵がここにいるのかどうかもな。使用人と入れ替わっているアレクサンドロ達とは違って、見た目が目立つ俺たちはその手は使えない」

「じゃあ、雨でも降って来たら、この仮面舞踏会マスカラーダで使っていない場所の探索に入りますか」

 ガラはうなずいた。

「雨が降ってくれば、庭に出ている客が慌てて屋敷に入るだろうし、窓を閉めたり篝火の始末をしたり、慌ただしくなるだろう。その隙に動けばいい」


 同じ頃、それはオドザヤが見ていることに気がつかぬまま、カイエンとイリヤが中庭から出ようと、回廊を曲がろうとした時だった。

 天候の急変を告げたのは、さっと吹き付けて来た、冬の木立を揺るがせるような強さの生ぬるい風。

 そして、そのすぐ後にはもう、稲光と共に空に隠れていた湖がひっくり返ったような大雨が……いや、そんな言葉では足りない、豪雨が吹き込んで来たのだ。

「なにこれ? 大変、濡れちゃうよ。早くそっちの廊下へ入って!」

 イリヤの頭の中には、ちゃんと前もって覚え込んで来た、この屋敷の見取り図が入っていたから、彼はカイエンの背中を押すようにして、中庭から建物の中へ、それも、雨の吹き込まない場所へ連れて行こうとした。だが、この時のカイエンはバルバラに化けて入って来たアルフォンシーナと入れ替わったために、杖を持っていなかった。

 その代わりにトスカ・ガルニカが工夫してくれた、弱い足を固定し、歩行を助けるように工夫された装具を右足に付けていた。だが、それがあっても杖がなければ、走ることは彼女には無理だった。

「ちょ、ちょっと待って! そんなに早くは歩けないってば」

「あっ、そーか」

 イリヤもすぐにそんなことには気が付いたので、彼は手っ取り早くカイエンをお姫様抱っこして、屋敷の中廊下に入った。中廊下とは言っても、普段からあまり使われていない区画だから、人気はない。

「イリヤ、とりあえずイザベルやナシオと別れたところまで戻ってみよう。へい、いや、あの方の行き先を早く特定しなくては」

 カイエンは床に降ろされると、化粧直しの道具の場所はわからずとも、さすがにハンカチの入っている場所は把握していたので、早速それを取り出した。

 それで、とりあえず濡れた場所の水気を抑えながらそう言うと、同じようにしていたイリヤも、ちょっと考えてからそれに同意した。

「そうねえ。ここに潜んでるだろう、怪しいザイオン人たちの行方の方は、ガラちゃん達がやってくれるだろうから、こっちはまずはそれを優先したほーがいいでしょね」

「そうと決まったら、早く! なんだか、気が急いてしょうがないんだ」

 何かが起こってしまう予感を覚えながらも、すぐそばにオドザヤが茫然として佇んでいることなど知らないカイエンは、イリヤを促し、彼女にできる限りの速さで、その場を離れてしまったのだった。

 一方。

 オドザヤの方は、凄まじい稲光と、その後に轟き渡った雷の音。そして、雨というよりは天の洪水のように降って来た雨で、放心状態から我に返った。だが、気が付いた時にはもう、彼女の方へ、荒れた海の波打ち際の水しぶきのように雨が降りかかって来ていた。

 ああ、この時のこの雷雨がなかったら、オドザヤの運命は変わっていたかもしれない。

 だが、運命はここで彼女の上に、落雷と豪雨をもって臨んだのだ。

「いけない! さあ、こっちへ」

 誰のものとも判断がつかぬままに、オドザヤは視界さえ奪われるような雨から逃れるように、差し出された手を取ってしまっていた。そして、その手は思わぬ力強さで彼女を自分の方へ引き寄せたので、オドザヤはすっぽりとその人物の腕の中へ取り込まれてしまっていた。

「ああ、かわいそうに。……お姉様にはああしてお助けする、力強い腕が幾人もありますのに、貴女にはなかったのですね」

「えっ」

 オドザヤにその時感じられたのは、急激に遠ざかっていく雷鳴と豪雨の音だけ。

 横抱きにされるようにして、屋敷の奥へと誘われていることに、オドザヤはまったく気が付いていなかった。

 稲光の青白い光が明滅するたびに、オドザヤの視界の中で中庭や回廊が、黒と白の世界に切り替わる。

 その、刹那、刹那で、世界が生きたり死んだりしているような明滅する世界は、彼女から時間の感覚も、自分の身体感覚さえも奪っていく。

 この日、オドザヤは仮面舞踏会マスカラーダのことで頭がいっぱいで、朝から食事もろくにしてはいなかった。ただ、例の甘ったるい薬酒だけは、「お気持ちが鎮まります」と幾度も重ねて、念入りに飲まされていた。だから、そんな彼女の状態で、先ほどまで、広間で踊っていられたことの方が不思議なくらいだった。

 明滅するモノクロームの世界の中で、オドザヤが認知できていたのは、彼女の琥珀色の目をもう仮面越しにではなく直接、覗き込んでくる人工的な緑色をした瞳の、蛍火のように黄色く底光りする色だけだった。 

「貴女はこの国の頂点に君臨する方。至高の存在であられます。ですが、同時に若く、そしてこの上もなく美しい。決して、一人ぼっちで雨の中に立っておられていいお方ではないのですよ」

「……ひとりぼっちで?」

 オドザヤの心に、「ひとり」という言葉が、氷で出来た串のように突き刺さった。

 確かに、彼女にはもはや父はなく、母は寝たきりの廃人で、年の近い妹達はもう彼女のそばにはいなかった。二人のまだ赤ん坊の弟と妹も、彼女の元にはいない。オドザヤは本当に孤独な毎日を送っていたのだ。

 そして、たったひとりいる、姉で従姉妹は。

 その人はさっき、憂いを含んだ白い仮面の男の腕の中にいた。……エルネストでも、先帝に賜った公式の愛人ヴァイロンでもない男と、慣れた様子で口づけを交わして。

「わたくし、は、ひとり?」

 ひとり、と言葉にした途端に、オドザヤの視界がふいに溢れてきた熱いもので揺らぎ、何も見えなくなる。頬を伝う涙は後から後から溢れ出て、彼女にはとどめるすべがなかった。

 それを抑えるように、目の前にいる男の指が伸びてきたが、彼女はもはやされるがままだった。

 さっき見せられた光景が、オドザヤの頭の中でなんども繰り返され、感覚のすべてがそれに向けられていたからだ。

 何か、甘えるような口ぶりで、相手の男に話しかけていたカイエン。そして口づけのあとで、相手の男はカイエンの化粧を直してやっていた。あの親密な様子は、こうしたことにはまったく経験のないオドザヤから見ても、今夜限りの遊びの相手には見えなかった。

「どうして。どうして、わたくしは……」

(どうして、自分にはあんな風に甘えられる相手がいないの。優しく抱いてくれる腕がないの)

 オドザヤがそう呟いた時には、もう彼女はさっき飛び出してきた部屋に、蜘蛛の巣の中心部に、再び取り込まれてしまっていた。

「いいえ。今夜からはお一人ではございません。もう、お一人で寂しくお休みになる夜などなくなります。さあ、こちらをご覧になって」

 こうしたことに慣れたトリスタンは、先ほどの性急な行為の言い訳などはしなかった。彼は失敗を繰り返さず、相手にも思い出させず、まるで先ほどのことなどなかったかのように振る舞ったのだ。

 オドザヤは薄暗い、芯を切って暗く調整されたランプが、たった一つだけで照らし出す部屋の中のソファに座らされ、両方の頬を、手袋を取ったひんやりとした手で囲い込まれた。

 そうするともう、オドザヤにはトリスタンの、おぼつかないランプの光の中でさえ真っ白な顔、そして、あの自然界にはない、硬質な緑の瞳しか見えなくなった。

「たくさん踊りましたから、お疲れになりましたでしょう。ああ、雨でお身体がすっかり冷えておしまいになりましたね」

 オドザヤの、濡れた肩のあたりの水気を払うようにしながらそう言うと、トリスタンはテーブルの上に置かれたガラスの瓶から、鮮やかに赤い液体をグラスに注いだ。

「さあ、お身体が温まります。これをお飲みになって」

 トリスタンはオドザヤの手にグラスを持たせようとしたが、オドザヤはちっとも体に力が入らなくなっていた。

「おや。ご自分ではお飲みになれませんか。それでは、失礼」

 オドザヤの目の前で、トリスタンは真っ赤な飲み物を口に含み、オドザヤのあごに優しく手を添えると、そのままオドザヤの唇を塞いだ。

 今度はもう、オドザヤは逆らわなかった。

 喉を灼くような熱さは一瞬で、その薄甘い液体は、いつの間にか彼女の中に入り込んでいた、柔らかい何かに押されるようにして、オドザヤの喉の奥へ流し込まれていった。

 唇が離れていった後、オドザヤの耳に聞こえてきたのは、この時、彼女がもっとも欲していた言葉だったかもしれない。

「さあ、こちらへいらっしゃい。貴女を優しく抱いて差し上げましょうね。いくらでも甘えさせて、かわいがって、ずっと守っていてあげますから。もう、お一人で寂しく、大人ぶって気を張っていなくともいいのです。ね? ああ、今までどんなにかお寂しかったでしょう。それも、今日限りで終わるのですよ」

 その言葉を聞くと、トリスタンと、ソファに並んで斜めに腰掛けて向かい合っていたオドザヤの顔が、琥珀色の光の中でくしゃり、歪んだ。それまでの彼女の人生では、彼女にこんな言葉を、口先だけでもかけてくれた人間は不幸にも一人もいなかったのだ。

 この言葉が、口先だけの悪魔の邪な囁きであったとしても、オドザヤには逆らうことは難しかっただろう。

 彼女は、父のサウルにも、母のアイーシャにも優しく抱きしめられた記憶がない。その点では、悪い父親ではあったが、あのアルウィンに育てられたカイエンの方がずっとましな成長をしてきたのだった。

 だからこの時初めて、生まれて初めて、オドザヤは、幼い子供が母親に抱きつく時のような一途さで、差し伸べられた腕の中に、自ら体を投げ出して行ったのだった。







 バルバラに化けたカイエンと、国立劇場の第一人者プリンシパル、イグナシオ・ダビラに化けたイリヤが、広間に戻った時には、もうトリスタンに化けた父のシリルと、高級娼婦のファティマは広間に戻って、人々の渦の中心で笑いさざめいていた。

 音楽は鳴り続けているが、外の大雨もあり、今、踊っている人は少ない。年配の人たちはもう、いい加減踊るのには疲れたのだろう。踊っているのは若いものばかりのようだった。

「あれ、本物か?」

 カイエンはイリヤに聞いてみたが、イリヤもとっさには判別がつかないらしく、黙っている。

 そこへ、給仕に化けたナシオと、コンスエラに化けたイザベルが静かに合流した。

「……一回、退場してすぐに戻って来ました。王子の方はわかりませんが、女の方は入れ替わっております」

 カイエンの横に来ると、ナシオは低い言葉でそう言った。カイエンが二階を振り仰ぐと、カイエンに化けたアルフォンシーナとエルネスト、それに伯母のミルドラが一箇所に集まって談笑している。カイエンに付いて来た護衛騎士のシーヴと、エルネストの侍従のヘルマンの姿もある。

 アルフォンシーナはカイエンに気が付くと、少しだけうなずいて見せた。ファティマ本人を知っている彼女には、今、広間にいる女はファティマの方だと確信があるのだろう。

 確かに、女の方は先ほどとはなんとはなく身のこなしが違う。だが、トリスタン王子の方は本人だとしか思えなかった。

 突然の雷雨のことはもう、この広間にも伝わっていて、人々はてんでに季節外れのこの嵐の話で夢中だ。庭の方へ出ていた人々の中には、濡れた服で戻って来たものもいて、控え室の従者を呼ぶやら、化粧室へ化粧直しに行くやら、ざわざわと落ち着きがない。

 しかし、この嵐では帰りたくとも帰れないので、大方の人たちは、逆に腰を据えることにしたようだった。

「王子の方は?」

 カイエンが聞くと、ナシオは無言で、イザベルは悔しそうに首を振った。

「すみません。声と話している内容からは判断できません。ザイオン人も変な話はしていません。さっきのモリーナ侯爵や、ベアトリア、螺旋帝国の外交官もおかしな内容の話はしませんでした」

 それでは、オドザヤはどこに行ったのか。カイエンは焦った。

「時間がない。潜入している全員、あの方の捜索に回せ。皇宮へ戻ったならそれでいい。表門、裏門の監視員に確認しろ。ここは外交官官邸だから、大公軍団だから捜査させろとは言えないからな。この舞踏会自体をぶち壊しにするわけにもいかない」

 カイエンが囁くようにそう言うと、ナシオは心得た、といった様子で消えていく。給仕に化けているのだから、用が済んだら去っていくのは不自然ではない。

「どうしよう?」

 カイエンは真っ白仮面のイリヤの方をうかがった。だが、その様子はもう、周りの人々に注目されてしまっていた。カイエンが化けているバルバラのドレスや仮面からは、彼女がどこの令嬢かは判断できないので、皆、親しげにイグナシオ・ダビラと話しているこの女は誰だろう、という目で見ている。

 イリヤの方も、聞かれたらなんとでも言い逃れられる自信はあったが、ちょっと動きにくいな、とは思っていた。

 そこへ自然な様子で近づいてきたのは、意外な人物だった。

「おや、珍しいですな」

 カイエンが聞き覚えのある声に顔を上げると、そこに夫人と一緒に歩いてきたのは、ヴィクトル・ザラ子爵だった。

「あなた。私はクリストラ公爵夫人にごあいさつしてきますわ」

 ザラ子爵夫人は、今夜のこともある程度聞かされているらしく、気を利かせたのか、カイエンに向かって挨拶すると、すぐに二階のミルドラの方へ向かって行く。

 ザラ子爵夫人はちょうどミルドラと同じくらいの年齢だ。何人か子供がいるはずだが、今夜は伴ってこなかったらしい。夫人を見送って、ザラ子爵はにこやかに話しかけてきた。今夜のことはもちろん、弟のエミリオ・ザラ大将軍から聞いているのだろうから、今、ここへ来てくれたのはカイエンたちの様子を見てのことだろう。

「バルバラ・クリストラ様、それに妹君コンスエラ様ですな。ご無沙汰いたしております。ご令嬢方が、国立劇場の花形とお知り合いとは知りませんでした」 

 言いながら、ザラ子爵は自然な様子でバルバラをやっているカイエンに腕を差し出した。杖なしで歩くのが大変なのを気遣ってのことだろう。カイエンはありがたく受けることにした。

「だって、有名な方ですもの」

 カイエンは淑女教育を受けていないので、あまり長話をするとばれるかもしれない、と短く答える。ザラ子爵は、カイエンがシイナドラドへ行った時に随行しているから、気心の知れた相手であるが、周囲の貴族どもの目が怖い。

「あの方を引き入れたのは、モンドラゴンです。見かけませんでしたか」

 カイエンが小声で聞くと、広間の外の軽食などが置かれた部屋へ向かいながら、ザラ子爵は意外そうな顔をした。

「親衛隊のモンドラゴン子爵なら、モリーナ侯爵らと一緒に、歓談室で……」

 カイエンはこれを聞くと、すぐにでもコンスエラに化けたイザベルに合図して、歓談室に様子をうかがいに行かせたかったが、給仕に化けているナシオは先ほど、他の隊員たちに連絡させるために行かせてしまった。令嬢に化けているのは、こんな時には不便なもので、一人で行かせるのは不自然だった。

 カイエンの様子を見ていて、ザラ子爵はそれに気が付いたらしい。

「コンスエラ様は、何かご用がおありのようですな。私で良かったらお供しましょう」

 カイエンはありがたくその申し出を受けることにして、イザベルをザラ子爵とともに偵察に出した。

 ザラ子爵とコンスエラに化けたイザベルがいなくなると、バルバラに化けたカイエンはともかく、イグナシオ・ダビラに化けているイリヤの周りに人が集まり始めた。

 その様子を上から見ていたのだろう、すぐにミルドラが、前バンデラス公爵夫人のサンドラを伴って二階から降りて来てくれた。カイエンはイリヤの演技が、内心ではかなり心配だったのだが、自分から言い出しただけあって、何を聞かれてもうまく答えているのには感心した。もちろん、いつもの変な話し方などその片鱗さえ出しはしない。

 そろそろ、歩くのがきつくなって来ていたカイエンは、母親に甘えている娘の体を装い、ミルドラの腕を借りて、二階のエルネストやアルフォンシーナの方へ戻った。

 しばらくして、戻って来たナシオからは、すでに帰宅した者もいるが、大方が、表門から堂々と出て行っていること、黒いフード付きのマントの女を乗せて、裏門から出た馬車があり、何人かが追っていること、ガラやサンデュたちが屋敷内を密かに調査していることが知らされた。ガラは鼻が効くから、オドザヤの行方を探し出せないかと思われたが、オドザヤは最近、香水を変えている。

 カイエンは、裏門から出た馬車が皇宮へ向かってくれれば、と願い、そうでなかったらなんとか探し出してくれ、と願うことしか出来なかった。

 そうして。

 カイエンが二階に戻ってからも、随分と時間が過ぎた。季節外れの雷雨は降り続けており、外は大荒れとのことだった。広間にいても、外へ続く扉から、稲光と雷の音、そして雨の気配は聞こえてくる。

 これは、夜遅くならぬうちに帰宅しようと思っていたであろう人々には困ったことだったが、人探しをしているカイエンたちには好都合とも言えなくはなかった。

「うまくねえな。しょうがない、ちょっと不自然だが俺があの王子を見定めに行くか」

 事態が急変したのは、エルネストがそんなことを言い出した矢先だった。もっと早くにそうしたかったのだが、トリスタンの周りからは、人気がなくなるいとまがなかったのだ。 


「きゃあっ」

 最初に広間から聞こえて来たのは、女の悲鳴で、それについで聞こえて来たのは、男の怒号だった。

 もう時刻は真夜中を回ろうとしており、カイエンたちだけでなく、他の客も疲れを感じ始めていた。あくびを噛み殺しているような者も珍しくなく、外が嵐でなかったら、舞踏会はとっくにお開きになっていたかもしれない。

 もっとも、ミルドラなどが言うには、カイエンの祖父のレアンドロ帝の時代なら、明け方まで続く舞踏会も珍しくなかったそうだから、このザイオン外交官官邸でも、朝まで客が居残ることも計算していたには違いない。

 複数の男の大声が聞こえると、広間も、二階で眠くなっていた人々も、さすがに声の方を注目した。楽団はまだ演奏を続けていたが、トリスタンも取り巻きの連中と一緒に、そちらの方を見ているようだ。

「ああ! 何度でも言ってやる! ネグリア大陸人が偉そうな顔するなって言うんだ! こういう集まりに出てくるだけでも不相応なのに、俺の婚約者に色目つかいやがって!」

 ネグリア大陸は、ハウヤ帝国の南方、モンテネグロ山脈を越えた、バンデラス公爵領の向こう。ラ・ウニオン海の向こう側にある大陸である。

「あれは……フランセスク! なんてこと」

 カイエンたちも、ミルドラのそばにいたサンドラが引きつった声をあげるのを聞いた時には、広間の一隅で、一人の令嬢を挟んで二人の若い男たちと向かい合っているのが、フランセスクだということに気が付いていた。

「何やってるんだ」

 カイエンは思わず中腰になったが、そこで今、自分はバルバラなのだということに気が付き、座り直した。

 フランセスクは無表情のまま、珈琲色の顔をまっすぐに男たちに向けていた。その様子は、彼の父親である孤高の大貴族、ナポレオン・バンデラス公爵によく似ていた。

「色目などつかっていない。話しかけられたから、答えただけだ。……今の言葉は訂正してもらいたい。僕はネグリア大陸人ではない。ネグリア大陸人でも別に構わないが、正確に言ったほうがいいだろう。僕は、モンテネグロの、バンデラス公爵の息子だ」

 フランセスクの声は落ち着いていて、大きくもなかったが、広間中に通って聞こえた。

「その、話しかけたってだけでも分不相応だって言ってるんだよ! 兄さんの婚約者にだぞ! それに、誰が見たってお前はネグリア大陸人だろ。その肌の色じゃ、ハウヤ帝国人とはとても言えないよ! そうじゃないか?」

 フランセスクへの返答を聞いたところでは、男たちはどうやら兄弟であるらしかった。二人の後ろで、一人の若い女が震えながら動けずにいる。今にも倒れそうな様子に見えたが、男たちはそっちは見ようともしなかった。

 カイエンはひやりとするとともに、驚きを隠せなかった。ハウヤ帝国、それもこのハーマポスタールには様々な肌の色の人々がいる。だから、こうしたことでの差別はほとんど見かけなかったからだ。

「あらあら、ひっどーい。最近じゃ街中じゃあ聞かなくなった発言ね。時代に逆行しちゃってるぅ」

 いつの間にか、カイエンたちの一団に紛れ込んでいた、イグナシオ・ダビラのイリヤが、カイエンのすぐ後ろでつぶやくのが聞こえる。

「まあ、お貴族様のおぼっちゃまの言うことだからな。確かに、この会場ではあのバンデラス公爵家のご子息は目立ってる」

 エルネストもそう言うと、ミルドラがサンドラの手を握りながら、きつい声音で言い切った。

「失礼にもほどがあるわ。大丈夫ですよ、サンドラ様。私が行って、注意してまいりますわ」

 ミルドラが広間へ下りる階段の方へ行こうとしたとき。

「へっ、『私はバンデラス公爵家の跡取りです』って言いたいんだろ? 知ってるぜ。お前は妾腹の息子で、まだ後継として決められた嫡男じゃないってことはな!」

 広間に響き渡った声は、もう一人の男のもので、その声はよく聞かなくてもかなり酔っていることがうかがわれた。

 そして、それを聞いたその瞬間だった。フランセスクのそれまで落ち着いていた表情が崩れたのは。

 確かに、バンデラス公爵には正妻がいない。だが、フランセスクはこのハーマポスタールで、バンデラス公爵家の長男として扱われていたし、今まで、こんな無礼なことを彼に面と向かって言ってのけた者などなかっただろう。

「ああ! いけませんよフランセスク! 短慮はいけません!」

 サンドラは心臓が止まりそうな悲痛な顔でそう叫ぶと、ミルドラの後を追おうとした。だが、もう間に合わなかった。

「言いたいことはそれだけか」

 フランセスクの赤銅色の目が、火を噴くように真っ赤に煮えたぎった。

 残念なことに、相手の男たちにはフランセスクの様子が変わったことはわからなかったようだ。

「ああ! それだけだよ! 失せろ! ネグリア大陸の……な犬っころが!」

 その言葉には、さすがにそこにいたほとんどの人間が眉をしかめたり、鼻にしわを寄せたりした。その言葉はこんな舞踏会のような場所で口にすることはありえない言葉だったし、貴族の息子が口にしていい言葉でもなかった。

 だが、現実はその下品で、人間性をも疑われるような言葉だけではすまなかったのだ。

 ばしゃっ、と。

 男はフランセスクの顔面めがけて、手にしていたグラスの中身をぶちまけたのだ。

 フランセスクは避けようともしなかった。だから、その高級な蒸留酒らしい、琥珀色の液体はまともにフランセスクの珈琲色の顔に当たり、そして彼の着ている、黒と朱色に近い琥珀色の上品な服の上着とシャツを汚していく。

 もう、楽団も演奏をやめていた。トリスタンは自分が主催する舞踏会での、この破廉恥な事件にとっさに動くこともできずにいるように見えた。

 しん、とした会場の中で、フランセスクの動きは、まるで歌劇の舞台に立った役者のように美しかった。

 フランセスクは静かに白い手袋を脱ぐと、黙ったまま二人の兄弟の前に歩み寄り、恐らくはそこで震えている令嬢の婚約者らしい、兄の方の顔面に叩きつけたのだ。言うまでもなく、手袋を顔に叩きつけるということは、決闘を意味する。 

「今の言葉、しかと聞いた。お前を許すことは、僕の尊厳を失うことだ」

 ミルドラは崩れ落ちそうになっている、フランセスクの祖母のサンドラを両腕で抱きしめていた。こうなっては、もう、誰もこの事態を止めることは出来なかった。

「舞踏会だから、腰のものを預けていてよかったな。……外に出ろ」

 フランセスクがそう言って、外に向かう扉の方へ向かおうとした時。

 静まり返り、誰も微動だにしない広間の中で、静かにそちらへ動いて行った人物。そちらへ人々の目は、救いを求めるように動いていった。

「お待ちください」

 それは、それまで黙ってこの騒ぎを見ていた、この舞踏会の主催者、ザイオン第三王子のトリスタンだった。彼は、静かにフランセスクの脇に立つと、くるりと二人の男と、もう真っ青を通り越して真っ白な顔になって、倒れそうになっている令嬢の方へ向き直った。

「こちらは、バンデラス公爵家のフランセスク様ですね。存じております。……そちらは、お名前をうかがいましょうか」

 その声は音楽的で、まさしくトリスタンの声に間違いなかった。カイエンたちは帝都防衛部隊のロシーオやアレクサンドロから、ザイオンからやって来た宝石商人が、トリスタンと体格も顔つきもよく似ていることは聞いていた。だが、カイエンたちはそこにいるのが、トリスタン本人なのかどうか、ここまで来てもまだ判断がつかなかった。

 そこにいたのは、百面相シエン・マスカラスによってそっくりな顔に作り変えられ、その上に仮面を被っていた父のシリルだったのだが、同じように舞踏を修めた父子は体つきも、そしてその体の動き方までもがほぼ同じだったから。その上に、父のシリルには元舞踏団のプリンシパルとしての演技力もあったのだ。

「えっ」

 ことここに来て、やっと二人の貴族の子息たちはことの重大性に気が付いたらしい。顔を見合わせる二人へ、トリスタンはなおも言葉を続けた。

「ご兄弟のようですが、お二人でいらしたのでしょうか。すでに爵位を継がれた方なのですか?」

 その言葉にはっとして、兄の方が慌てたような声で答える。その顔はもう真っ青で、やっと今の事態を飲み込みつつあることがうかがわれた。

「私は……え、私は、シプリアーノ・ジャグエ。この、いや、これは弟のバハルドです。ジャグエ侯爵の息子です。……父は病気で療養中でして、ですから今夜は、その、弟と、この婚約者の……」

「ひいっ」

 シプリアーノ・ジャグエの後ろで、とうとう、かわいそうな令嬢は腰を抜かしてしまった。

「ジャグエ侯爵様のご子息ですか。ただいまの一件、しっかりと見届けさせていただきました。私はザイオン人。この国のことは存じませんが、ザイオンではこのような場合には、決闘を行います。それも、立会人を立てて、早急にことを決するのが習いです」

 そう言うと、トリスタンは広間の周りをぐるりと見渡した。

「ハウヤ帝国では、こんな場合、どうするのが習いなのでしょうか。どなたかお教えいただけますか」 

 カイエンはひやりとしたものが背中を駆け上がるのを感じた。

 今、この会場で身分が一番上なのは、大公カイエンで間違いない。だが、今、大公になっているのは、アルフォンシーナなのだ。彼女にこの問いに答えろと言うことは出来なかった。

 だが、カイエンの思いはカイエンの次に身分の高い女性に伝わっていたらしい。

「この国でも同じですよ」

 突き放すような言い方で答えたのは、ミルドラだった。

「最近は、こんなことが起こったことはなかったわね。でも、こちらの、前バンデラス公爵夫人サンドラ様には申し訳ないですけれど、昔はこんなこともよくあったわ。じゃあ、立会人は、この舞踏会の主催であるトリスタン王子殿下にお願いすることになるのかしらね。それでいいですわね、大公殿下?」

 カイエンはアルフォンシーナがびくりとするのを感じたので、そっと彼女の背中に手を回した。アルフォンシーナにはこれでわかったようだ。

「いいでしょう」

 アルフォンシーナも苦労人だから、クソ度胸は持っていた。今回の話を聞かされた時には慌てふためいたが、大公宮の後宮に匿われている身としては断れなかった。それに、ガラスのはまった黒死病医師の仮面をつけていれば、声はそっくりなのだから大丈夫だ、と自分に言い聞かせていたのだ。 

「そうですか。……ジャグエ侯爵家のご子息、シプリアーノ様でしたか。あなたはこの決闘を受けますか? それとも、ここで先ほどの非礼を、こちらのバンデラス公爵家のフランセスク様に詫びて、許しを請いますか?」

 ここまで来ると、もうこの事件は歌劇の中の情景のように見えた。歌劇とは違うのは、この先、二人のジャクエ侯爵家の息子たちがどう答えるのかがわからない、というだけだ。

 この時、カイエンとエルネストの後ろで、カイエンの護衛騎士のシーヴと、エルネストの侍従のヘルマンが静かに動いて、後ろの出入り口から外へ出て行った。自分たちがここにいる必要はないと判断し、この場の事態を、外の連中に伝えるためだ。トリスタンの真贋がわからぬ以上、潜入している大公軍団の者たちには、この後に起こりうる騒ぎを見越した動き方が必要だった。 

 ジャグエ侯爵家の兄弟は、救いを求めるように広間の中を見渡した。だが、こんな事態に関わり合いになりたがる知り合いはいなかったようだ。

 それでもしばらくの間、兄弟はじりじりとした様子で、曲芸団の熊のようにその場でもじもじと円を描いて回っていた。彼らは最後に、二階のカイエンとミルドラの方を見上げてきたが、もちろん、助け舟など得られはしなかった。

「謝らなくていいよ」

 そこで、口を開いたのはなんと、フランセスクの方だった。

「僕は決闘を申し込んだ。さっきのこいつらの言葉は、地べたに這いつくばって許しを請われても許せるもんじゃない」

 フランセスクは赤銅色の目を、もう酔いも醒め切って、顔面蒼白のジャグエ侯爵家の兄弟へとむけ、無情に言い切った。

「僕の母は、モンテネグロの顔役の娘だが、僕は幼い頃から船に乗ってラ・ウニオン海へ出ている。海賊との戦闘に巻き込まれたこともある。……お前たちはどうだ?」

 この言葉から、カイエンたちも初めて、フランセスクの本来の性格をおぼろげに知ることになった。大人しく、祖母のサンドラのスカートの影に隠れているように見えた、線の細い御曹司のイメージ。それは、この時きれいに書き換えられた。

「へえ。あのおぼっちゃま、修羅場の一つ二つは知ってるんだぁ。ねえ、皇子様はぁ?」

 カイエンとアルフォンシーナにしか聞こえないだろう小声で、イリヤが言えば、エルネストも負けてはいなかった。

「ああ? これでも皇太子の兄貴とは違って、シイナドラド国軍の士官学校で講義も訓練も一通りやってるぜ。地方の小競り合いに出て行ったことならある。まあ、こんなんじゃ、一人前の戦士でござい、とは言えねえけどな。あの狼男ガラにはがっつりやられたし。だが、こっちに来てからも、体が鈍らない程度にはヘルマン相手に鍛錬しているよ」

 このことはカイエンにもアルフォンシーナにも初耳だったので、二人は密かに顔を見合わせた。真面目に鍛錬するエルネストなど、想像の外だ。

「あらそうなの。じゃあ、俺っちのお腹の傷が治ったら、一回、お手合わせ願いましょ」

 歌劇役者に化けているイリヤは面白そうで、フランセスクのことは他人事でしかないようだ。こんな騒ぎになった以上、ザイオンと奇術団コンチャイテラの連中との関係も、百面相シエン・マスカラスの方も、もはや捕縛は望み薄、と決めてしまったのだろう。彼にとっては、オドザヤのことも心配事ではないのだ。それは、カイエンにもよくわかっていたから、彼女も特に何も言わなかった。

 イリヤにしろ、エルネストにしろ、そして今夜は外で待機しているヴァイロンにしろ、オドザヤはカイエンの妹で従姉妹でしかない。オドザヤはこの国の皇帝ではあるが、彼らの直接の忠誠やこだわり、それに愛情は、直接に繋がっている、カイエンの上にあるのであって、オドザヤはカイエンが気にかけているから、出来れば助けてやりたい、というくらいの存在でしかないのだ。

「あ……あっ」

 ジャグエ侯爵家の兄弟は、もう完全にびびっていた。そして、もう、そこにいたほとんどの人々が、ジャグエ侯爵家の兄弟の謝罪を待ち望んでいた。本心はともかく、彼らがフランセスクに浴びせた言葉は、あまりに無作法だったから。

「す、すみませんでした!」

 最初に床に這いつくばったのは、弟のバハルドの方だった。彼にとっては、この事件は自分の婚約者のことでもなんでもない。なのに、それに連座して危険な目に遭うのは……フランセスクの様子が様子だけに恐ろしかったのだろう。

「バハルド! お前っ」

 兄の方はまだ少し粘ったが、それでもザイオンの王子立会いでの決闘を受けて立つ勇気などありはしなかった。

 弟の横に這いつくばる兄の情けない、見るのも穢らわしい醜悪な姿。

 こんな茶番を見せつけられて不愉快だ、と多くの目が仮面の奥で言っていた。

 トリスタンは、最初は床に膝を突き、頭を下げていた兄弟を、そばで黙って見ていた。彼のその様子を敏感に感じ取って、ジャグエ侯爵家の兄弟は、さらに屈辱的な姿を晒すしかなかった。

「この通りです。どうかお許しください」

 二人が頭を床にすりつけるようにした時、フランセスクの背後にたどり着いた祖母のサンドラがこう言わなかったら、もしかしたらフランセスクはなおも決闘を望んだかもしれなかった。

「フランセスク。もう、いいでしょう? これ以上、この場を騒がせてはいけません」


 こうして、決闘騒ぎは、トリスタンの計らいでことなきを得た。

 見事な事態の捌きぶりからは、彼が本物か偽物かの判別がつかなかった。カイエンたちはトリスタンの父であるシリル・ダヴィッド子爵の変装だろうと疑っていたが、彼の人となりを知らないカイエンたちには、声も姿も似通った親子の違いを見つけることは不可能だったのだ。

 もう、時刻は明け方にかかっており、こうなるともう、会場は仮面舞踏会マスカラーダどころではなく、招待客たちはてんでに辞去の挨拶をして去っていく。

 こうなるともう、カイエンたちも挨拶をしてこの屋敷から出ていくより他はない。

 カイエンは自分に化けたアルフォンシーナと、エルネストを見送ると、ミルドラと、ザラ子爵と一緒に戻って来たイザベルと一緒にクリストラ公爵家の馬車に乗って帰ろうと思っていた。今夜は、と言っても時刻はもうすぐ日が昇る時刻だったが、クリストラ公爵邸に一度入り、それから大公宮へ戻るしかないだろうと思っていた。

 だが。

 この夜の事件は、これだけでは終わらなかった。








 カイエンやエルネストのそばから下がり、外の大公軍団関係者に事の次第を伝えに出た、シーヴとヘルマンは、途中で二手に別れていた。

 シーヴは、屋敷の、今夜は使われていない辺りを探っているはずのガラたちに事態の推移を伝えに向かったのだが、ガラたちはその時すでに広間での騒ぎを嗅ぎつけ、撤退を予想して動こうとしていた。この時は、ガラやサンデュの現状把握力の鋭さを褒めるべきだっただろう。

 気が付いた時には、シーヴは人気のない、埃っぽい回廊を歩いていた。彼もイリヤと同じように、この屋敷の見取り図を頭に叩き込んでいたから、この先まで行って、ガラたちの気配がなければ、もう自分も撤退だと思っていた。

 もう、雷雨は終わり、朝が近い空には早くも星が一つ、二つ、見え始めている。

 シーヴは何も知らなかったが、その時、彼が音もなく歩いてさしかかっていたのは、ずいぶん前にカイエンとイリヤがつかの間の逢引をしていた、あの奥まった中庭のあずまやのそばだった。

 ごとん。

 シーヴは、もうそこで引き返そう、と思っていた回廊の角で、誰かが転んだような音を聞いた。

 シーヴはカイエンの護衛騎士だから、カイエンが転んだ時の様子や音も身に染みている。なるべく、その音を聞かずにいたいとも思っていた。

 だから、まさかとは思いつつも、シーヴがその時思い描いたのは、転んで動けなくなっているカイエンの姿だった。

 彼は、充分に注意しながら、回廊の角を曲がった。

 もう、彼の胡桃色の目は暗闇に慣れていた。元から、彼の目は、ヴァイロンやガラほどではないにしても、夜目が効くのだ。

 角を曲がって、そこに見たものを、シーヴはその先、ずっと忘れることは出来なかった。それは、それから何年も経って、彼が彼の人生を共にすると決めた存在に出会うまで、ずっと。

 その姿を見た瞬間、ひゅっ、とシーヴの喉が鳴っていた。

 見えたのは、黒と、そして青藍アスール・ウルトラマールのドレスの色。それが大理石の床に倒れ伏している。

 ドレスは、一応はその持ち主の体に巻きついてはいたが、背中のボタンは全部開いたままで、その下のコルセットの紐も緩んだきりだった。

 シーヴも、大公宮での奉公は長かったから、こうした貴族の女性のドレスというものは、一人で着られるものではないことをよく知っていた。この様子では、この人は一人でドレスを着ようとして出来ぬまま、どこかからか這い出て来たのだろう。

 どこかからか出て来て、ここまで来て気絶してしまったらしい。

 そしてその時にはもう、シーヴには、この人の正体が分かってしまっていた。

 乱れたドレスと同じように、いつもの彼女とは違った、赤みがかった栗色の長い髪も乱れていた。その髪はきれいに縦に巻かれていたはずだったが、今はもうそれは崩れて、長くてもつれた髪の渦と化していたのだ。

 どうして、この人がこんな姿でここにあるのか。

 シーヴはこの情景を見たら誰でもが気にしたであろうように、最初にそれを考えそうになったが、強いて自分の思いを切って捨てた。と言うよりも、彼女の身に起きたことは、それらの乱れた様子からして一目瞭然だった。

 実際に、そんなことを考えている時間はなかった。

 もう、カイエンたちは大公宮へ引き上げようとしているのかもしれない。シーヴはフランセスクと、ジャグエ侯爵家の息子たちのあの決闘騒ぎの顛末は見届けていなかったが、屋敷の物音や様子から、客がどんどん帰り始めていることは感じ取っていた。

 シーヴは、大理石の廊下に打ち伏したまま、動かない、乱れたドレス姿にそっと近寄り、まず、手首を取って脈をみた。脈は弱いが、今すぐこと切れるような様子ではない。呼吸も弱いがちゃんとしていた。

 そうとなれば、彼がその時しなければいけないことは、もう、決まっていた。

 この人を、見咎められずにこの屋敷の外へ連れ出さねばならない。

 シーヴは迷わずに自分のまとっていたマントを肩から外すと、それで彼女の体をすぐには解けないようにくるくると、まるで、ヤクザの抗争で殺されて、簀巻きにされて海に放り込まれた、下町のチンピラの死体のように包んでしまった。呼吸が止まってはいけないので、顔のあたりだけはちょっと工夫したが、長い髪の毛がはみ出ないよう、最初にまとめてドレスの襟の中に突っ込むのも忘れなかった。

 そして、すぐにその包みを片方の肩に担ぎ上げて、その軽さにちょっと驚いた。彼の主人のカイエンも小柄で軽いが、これはもしかしたらそれよりも軽いかもしれない、と思った。

「なんとか、しなくちゃ」

 見咎められたら、自分の命が危ないことははっきりと分かっていた。そして、今すぐにこの場所を離れなければならないと言うことも。

 マントで彼女の体を包むまえに、シーヴの目に焼きついたのは、彼女の背中や胸元の肌に散っている、赤い花びらのような跡だった。だが、シーヴはその意味については、事実として認識はしたが、それ以上に考えようとはしなかった。それはカイエンの仕事で、彼の仕事ではなかったからだ。

「ガラさん、見つけてくれないかな」

 その声はほんの呟きでしかなかったが、彼は心の片隅で、彼なら来てくれるかもしれない、と思っている自分を冷静に感じていた。

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