黒いカルナヴァル 3

 国立劇場の男性歌手の第一位プリンシパルとして名高い、イグナシオ・ダビラがその夜、披露したのは、歌劇「氷と硝子イエロ・イ・ヴィドリオ」のものだった。

 それは今日の二月という季節とも合致していたし、正に氷の国、北方のザイオンからやって来た王子、トリスタンのお披露目にも相応しいもので、聞き入るハウヤ帝国の貴族たちの中には、その歌声に涙するものさえいたほどだ。

 イグナシオ・ダビラが歌い終わった時には、一瞬、それこそ凍りついたような静寂が歌劇場にも似たドーム型の天井の広間を包み込み、彼が優雅に腰を折って礼をするのを見るまで、しわぶきひとつ聞こえなかった。

 やがて、素晴らしい出し物が終わったことを悟ると、聴衆は一斉に「今、両手が体についているのを思い出しました」とでも言うように両手をあげて拍手をし、トリスタンが歌い手の方へ歩いていくと、広間を万雷の拍手の音が覆い尽くしたのだった。

「さすがはパナメリゴ大陸の西の雄、ハウヤ帝国様だな。国力だけでなく文化の方もなかなかだ」

 黒死病医師の仮面のカイエンは、エルネストを後ろに従え、バルバラとコンスエラに挟まれて二階の手すりにもたれて、それまで歌声に聞き入っていた。そして、このエルネストの憎まれ口を聞くと、思わずと言うようにぼそりと呟いた。

「今頃、やっと気が付いたか。……高級娼館へ通う暇はあっても、歌劇場へ行く暇はなかったようだな」

 この言葉に、両脇にいたバルバラとコンスエラは驚いたようだった。確かに、未婚の公爵令嬢である彼女たちの耳に、「高級娼館」などと言う単語が入ってくることなど、もしかしなくともほとんどなかったか、まったくなかったかに違いない。

「確かに、シイナドラドにいた頃から、付き合い以外で歌劇なんざ見に行ったことはねえな」

 拷問吏か死刑執行人かの仮面の、むき出した目玉の後ろで、エルネストは、くくく、と笑い声を押し殺したようだった。

 その時、カイエンたちの見ている下で、トリスタンがイグナシオ・ダビラの歌声を讃え、今一度の拍手が巻き起こっていた。そしてダビラ氏は、人々の輪の中から出て来た、国立劇場の常連と思しき人々の輪の中に吸い込まれていく。

 その時、カイエンたちは階段を登り、広間の周りを取り囲む二階の広い廊下を進んでくる二人の男に気が付いた。

 一人は、一見してベアトリア風と分かる膨らんだ袖のたっぷりとした上着に、ほっそりしたズボンを合わせた男で、もう一人はハウヤ帝国風の衣装をまとっていた。

 二人は、明らかにカイエンたち四人の方へ向かって来ていた。それは足取りの確かさからも、彼らの目線の先の人垣が彼らの進行とともに割れていく様子からもうかがえた。

「ベアトリア大使のモンテサント伯爵ナザリオ。それに、螺旋帝国の……おかしいな、大使のシュ 路陽ロヨウじゃない。副使の夏侯カコウ 天予テンヨが来てるのか」

 なぜか、彼らに気が付いたカイエンたちの中で、そう、わざわざ隣のカイエンに教えるように呟いたのは、蝶のような意匠の扇で口元を隠した、バルバラだった。

「ああ。モンテサントの方は、前に皇宮へ行った時に挨拶したことがある。もう一人は、へええ、……あれが、夏の侯爵マルケス・デ・エスティオが螺旋帝国人の女詩人との間に作ったっていう、隠し子ってやつか」

 エルネストの方は、もうすぐにわかったらしい。

「適当に挨拶しとけばいいだろ。向こうも、長話したいわけじゃないだろうしな。別に親しいわけでもねえ。螺旋帝国人の方は俺も初めて見る顔だ。黙って挨拶させときゃいい」

 なぜか黙っているカイエンへ、エルネストまでが説明するようにそう言ったとき。まさに彼らの前で最後の人垣が割れ、二人の外国人が外交官としてまさりおとりのない、にこやかな作り笑いを仮面の下から見える口元に張り付かせて、彼らの前に現れた。

 二人が深々と宮廷風に腰を折って挨拶を始めると、周りにいた貴族たちの人垣が、さっと壁際へ引いていく。

 そうして見ると、第三妾妃マグダレーナの最初の嫁ぎ先、ベアトリアのサクラーティ公爵家の次男である、モンテサント伯爵ナザリオと、螺旋帝国の副使、夏侯 天予は同じくらいの年齢に見えた。

 夏侯 天予の方は、いつものように螺旋帝国の装束をまとっていれば目立っただろうが、半分はシイナドラド人の彼がハウヤ帝国風の衣装を着ていると、仮面の効果もあって、螺旋帝国人だとは誰も気が付きもしなかったようだ。二人ともに、エルネストのように上背があるわけではない。黒い衣装の差し色も上品で、仮面こそ光る素材のものではあったが、それも周囲のハウヤ帝国の貴族たちの中で浮くような意匠のものではなかった。

 もっとも、夏侯 天予の方は服をハウヤ帝国風にした代わりか、仮面の方は螺旋帝国の演劇の独特な化粧を思わせるようなものではあったのだが。

 だから、螺旋帝国人の彼が名乗ると、周りの人垣からどよめきが上がった。

 モンテサント伯爵の方は、もうカイエンにもエルネストにも会った事があったから、挨拶に来ただけのようだったが、夏侯 天予の方は、エルネストには初めて会ったこともあり、長々とした挨拶になった。

「本日は、大使の朱 路陽が参りますところ、なんとしたことか、厄介なことに風邪をこじらせまして……」

 それで代わりに副使の自分がやって来た。仮面舞踏会マスカラーダとあって、裾が長くて踊りにくい螺旋帝国の衣装で目立つことを嫌い、このようないでたちでまかりこした、ということを、彼はなんとも優雅に、そして美辞麗句をまぶしにまぶして話したから、聞いているのがカイエンたちでなくともいい加減うんざりしたほどだった。

「ご丁寧なご挨拶ありがとう。お久しぶりのようだが、元気そうで何よりだ」

 カイエンの方は、いつもの彼女と同じく、クソ真面目に、だがぶっきらぼうに返答した。そのカイエンの声を、なぜかモンテサント伯爵も、夏侯 天予も、注意深く聞いていたように見えたのに気が付いたものは、何人もいなかったに違いない。だが、エルネストは彼らが密やかに仮面の向こうで目配せするのを見たように思った。

 だから、エルネストの返答は、カイエンとはやや色の違ったものになった。さすがに言葉遣いは周りをはばかって丁寧なものだったが、言っている内容は際どいものだ。

「あなたのお母上のことは、ここの大公殿下から聞いております。螺旋帝国では有名な女流詩人でいられるとか。あなたの、その夏侯という姓は、シイナドラド人のお父上にちなんでいるとも聞いておりますよ。私は国で夏の侯爵マルケス・デ・エスティオと呼ばれている者をよく知っておりますが、そうしてハウヤ帝国風の服を着ているところを見ると雰囲気がどことなく……」

 エルネストがややひそめた声でそう言うと、夏侯 天予はやや慌てたようだったが、しぶとく口元に笑みを浮かべたまま、背の高いエルネストの顔を斜めに見上げてこう答えた。仮面をしているから判然とはしないが、彼の顔立ちにはどこかカイエンやエルネストに似たところがある。

「ああ。そうでございましたか。皇子殿下のお国は、長く国を閉ざしておられます。母の申している事が真実か否かはわかりませんが、私も実の父はシイナドラドの侯爵だとも聞いております。ですが、お国のご事情を思いますと、きっと生きている間には会うことはかなわぬだろうと諦めております」

 この夏侯 天予の言葉を聞くと、エルネストは声には出さなかっったが、奇天烈な表情を浮かべた死刑執行人の仮面の奥で吹き出しそうになった。

 お国の事情。

 現在、内戦状態のシイナドラド。その反政府組織に資金や武器を提供しているのは、螺旋帝国なのだ。そんなことをこの夏侯 天予が知らぬはずはなく、自分も人のことは言えないものの、なんたる面の皮の厚さよと呆れたのである。

「そうですか。では、『国の事情』が落ち着きましたら、あなたを我が国へご招待するよう、父、皇王バウティスタに働きかけましょう」

 そう答えるエルネストへ、周囲の人垣からは「おお」というような声も上がったが、所詮は猿芝居である。夏侯 天予も、モンテサント伯爵も、もうこれ以上話を続けるつもりはなかったようで、彼らは高貴な身分の方をお引き留めして云々、と言い訳のように言いながら去って行った。

「……あんたがちゃんと答えたんで、やっこさんたち、驚いてたみたいだな」

 二人の外国人の背中を見送ると、通りかかった給仕から酒のグラスを受け取り、カイエンにも渡しながら、エルネストが低い声で言う。

「もう、疑われていた、と言うわけか? それでは、向こうも……」

 慣れた様子で仮面の顎のあたりを少々ずらし、ぐびり、と一口飲んでしまってから、カイエンはちょっと慌てたように仮面の中で目をさまよわせたが、ガラスの眼鏡越し、そして飴色の照明の下では、彼女の独特な灰色の目の色も判然とはしない。

「あっ!」

 その時、目立つ黒死病医師の仮面のカイエンの横で、下の広間の入り口の方を見ていた、バルバラとコンスエラが短く声をあげた。

 エルネストとカイエンがその声に引きずられるようにして、階下の広間を見下ろす。

 その時、特に注目を浴びることもなく、入り口の階段の上へ立ち、広間に入ってきたのは、あの、最初にトリスタンと組んで見事な踊りを披露していた、黒と、ラピスラズリを思わせる青藍アスール・ウルトラマール色のドレスに、豹かなんかの獣を思わせる仮面の、栗色の長い巻き髪の女だった。

 ドレス自体はシンプルと言ってもいい意匠のものだったが、首から肩にまでかかるような、恐らくは不透明のラピスラズリと、きらきらとまばゆく輝く、金剛石ディアマンテと思われる透明な宝石とで複雑に組まれた、大仰なネックレスが天井の照明を反射し、ことさらに目立った。

 そして、仮面舞踏会マスカラーダという場所を考えても、彼女のドレスの胸や背中の開き方、そこから見える真っ白な肌のコントラストは、やや扇情的過ぎたかもしれない。だが、あまりに自然に着こなされているために、下品に見えないのがいっそ不思議なくらいだった。

 彼女は、トリスタンと踊っていたあの時、その巧みな踊りを見下ろしていたバルバラが、

(あれは……ファティマ、です。なぜ? こんな所にいるはずが……)

 と、そう言ったあの女だった。いや、ドレスやなんかの様子では、あの女に違いない。

 彼女は、やや後ろに地味ななりの若い女を引き連れ、堂々と、そう……まるで女王のようにゆっくりと階段を下りてくる。その様子は、奇妙なことに、まるで今しがたこの会場へ到着しました、とでも言っているようだった。

 金色の、ところどころ燻しがかかっているような仮面から覗く、琥珀色にも金色にも見える、なんだか何も写していないように見える大きな瞳は、こうした場合によくあるように長いドレスの足元に向けられることもなく、巨大なシャンデリアの下がる丸い天井の方を見上げているようだった。

 そして、女王のように顎を上げたまま、優雅に階段を下り切った彼女は、階段の最後の一段で立ち止まった。

 それまで体重の一部も預けてはいなかった、階段の手すりに真っ白な長い手袋の右手をかけ、会場の匂いでも確かめているかのように、黙って中空を見上げている。

 その様子は、自分を広間へ連れ出してくれる誰かを待ってやっているのだ、と言わんばかり。

 この元は闘技場だった広間は、豪華に飾り立てられてはいるが、階段や、元は客席だったあたりは大理石ではなく、赤っぽくて平たい石を積んだだけのものだ。そこに無造作に白い手袋をのせているところは、なんだかとても場違いに見えた。

 そこへ、広間の奥からまっすぐに歩いて行ったのは、もちろん、ザイオンの第三王子、トリスタンの黒とエメラルド色、それに青みがかった長い金髪の目立つ、華やかな姿だった。

「あら。あれをご覧なさいまし」

「トリスタン王子殿下が、ご婦人を出迎えに行かれましたわね」

「あんなご令嬢、いいえ、奥様がおられたかしら?」

「しーっ。野暮ですよ、ご婦人方」

「あら、なんですの」

「お静かに。あれは、高級娼婦ですよ」

「なんですって! そんな下賤な者がこのお披露目に?」

「まあまあ。娼婦でも売りは体じゃなくって、秀でた芸達者だってほうの、まあ、予定が何ヶ月も先まで埋まっているような女です。ファティマとか言いましたな」

「あらまあ、伯爵様はそんな女のことをよくご存知で。奥様に言いつけますわよ?」

「あらいやだ、野暮ですよ。……伯爵様、じゃあ、あの女の芸って?」

「先ほども見たでしょう? 踊りですよ。トリスタン殿下も素晴らしい踊り手で驚いたが、確かにあの女くらいじゃないと、あの王子様の『お相手』にはなりませんな」

 もう、カイエンたちを見ている者などいなかった。

 だから、新しい曲が流れ、それに合わせるのはさぞや難しいだろうと思われるようなその音律にのって、二人が広間の真ん中で踊り始めた時。

 黒死病医師の仮面の奥から、カイエンがこう言ったのを聞いたのは、すぐ横にいたエルネストとバルバラ、それにコンスエラだけだった。

「ああ。あれはファティマじゃない。さっき踊っていたのは、間違いなくファティマだったけど。ファティマはあんなに堂々とはしちゃいません。いくら踊りが上手くたって、今の、あの方とは……姿勢だって、優雅さだってなんだって……とにかく、立っている様子からして全然違います! ええ、私は、お貴族様のおうちの秘密のパーティに呼ばれた時、何度かファティマ本人と会ったことがあるから間違いありません」

「おい」

 カイエンと同じ声なのになんだか口調がおかしくなったのを、鋭くとがめたエルネストへ、なぜかバルバラがとりなすように囁きかけたのを聞いていたのは、もう、コンスエラただ一人。

「もう、始まってから随分経つだろう。あとはもう、知らない奴が挨拶に来たら、適当にしとけ。おかしな具合になったら、酔っ払ったフリでもしろ。ああ、伯母様もこっちを見てる」

 おかしなことに、バルバラの声は、先ほどからずっと、横にいるカイエンの声と同じなのだった。

「ほら、下でダビラ氏が広間を出て行くところだ。こちらも急がないと……。あとは頼んだぞ」

「大丈夫です、お姉様。二人で出て行くんですし。ああ、ナシオさんが来ました」

 コンスエラがそう言うと、向こうからやって来た、盆に酒のグラスをのせた給仕が、流れるように二人の令嬢のそばへやって来た。

「お嬢様、お母上がお呼びでございます」

 給仕……それは大公宮の影使いのナシオだった……がそう言った時には、盆の上から最後のグラスが周りの紳士淑女に取られて消えていた。その手際も見事だが、仮面をしているから今日の彼はいつにも増して周りと見分けがつかない。

「お母様が? じゃあ、参りましょう」

 なぜか妹のコンスエラがそう言うと、彼女は姉のバルバラの腕を取って、さっさと歩き始めていた。






 二階から、このザイオン外交官官邸の給仕と入れ替わったナシオを引き連れて、外の飲み物や食べ物を並べたテーブルのある、休憩室の方へ出た、バルバラとコンスエラ。

 派手で異様な仮面といでたちの、大公殿下とその配偶者である皇子殿下と離れてみれば、二人の令嬢の姿はもう、他の多くの若い娘たちの衣装と仮面の中に紛れてしまった。

 黒に差し色ひとつ。

 この決まりごとにのっとって、多くの貴族の令嬢たちが選んだ色は、年齢からいって明るい色ばかり。特に多かったのは赤から薔薇色、そして色々な色合いのピンク。その色味に自信のない娘たちには、明るい空色や若草色、もっと地味な娘たちはオレンジ色からベージュ色、といった具合だったからである。

 ドレスの意匠だって、舞踏会なのだから上半身は細身でも下半身のスカート部分は広がったドレスの娘が多かった。若い娘たちは流行りの形にこだわるから、逆に没個性になってしまうのである。

 片足だけとはいえ……まあ、装飾した甲冑の足部分のようなものではあっても……丸出しにしているようなのは、既婚者を入れても大公のカイエンより他にはいるはずもなかった。

 バルバラのドレスは青みがかった濃いピンクで、コンスエラの方はきらきらひかる空色。

 もう、二人をあのミスドラ・クリストラ公爵夫人の娘たち、と特定できる者などいなかった。二人がばらばらに別れてしまえば、もう完全に見失ってしまうことだろう。

「あの、お……なんだっけ、おみ? いいえ、足の方は大丈夫ですか」

 コンスエラがバルバラにそう聞くと、なんと、バルバラは腕をコンスエラのそれに絡めたまま、こう答えるのだ。

「ああ。ドレスの中身は変えてないからな。あっちの大公殿下の右足は、外見だけ似せた衣装だから」

 さっきから大公のカイエンと同じ声で話しているバルバラは、もう口調までもがおかしい。

「すごいんですね、あの装具師さんの作った右足。お杖がなくてもこうして腕を取っていれば歩けますのね」

 コンスエラの方も、丁寧ではあるが、大貴族の姉妹の会話としてはなんだかおかしな口調になっている。

「いやだなあ、右足を作ったわけじゃないよ。うまいこと柔らかい革とか、絹の中に厚紙を入れたのとかで、弱い足だけで体重を支えなくてもいいように作ってくれたんだ。ちょっとかさ張るから、毎日は考えちゃうけど、こんな時にはありがたい工夫だなあ」

 そう答えるバルバラの声は、もう、完全に大公のカイエンの声なのだった。

 カイエンは言いながら、この足の装飾された装具を作るために、大公宮を訪れた、トスカ・ガルニカの言葉を思い出していた。

(こういう、生まれつきのものとか、怪我や病気はもう治ったけれども、もう機能は戻らないような足や腕のこととかは、実はお医者さんよりも、我々装具師の方が上手くお助けできたりするんですよ、経験値でね。外科のお医者さんでも、お医師のお仕事は手当てして、完治させるところまででしょう? だからお医者さんはその先の「治った人の生活」にまでは踏み込みませんからね)

 言われてみれば確かにその通りで、出来上がった装具を付けての歩行練習をしながら、カイエンはひたすら感心したものだ。

「お嬢様方、お声は控えめに」

 横を行くナシオの声は、影使い独特のもので、意図した方向にしか聞こえないものだ。

「ナシオ、エルネスト達には誰が?」

 バルバラ……いやそれは、先ほどの国立劇場のプリンシパル、イグナシオ・ダビラ氏が広間で歌い始める前、二階から出ていった後に、クリストラ公爵令嬢バルバラとしてやって来た人間と入れ替わったカイエンだった。

 彼女は、さっき広間に出て来て、今、トリスタンと踊っている女。踊りの名手と名高い高級娼婦ファティマであるはずだが、彼女のよく知っている誰かと入れ替わっているのではないか、と思われる女のことへ頭を引き戻した。

 まさかと思うが、あの、堂々とした様子はカイエンから見れば、まさにただ一人の人物であるとしか思えなかったのだ。

 オドザヤ。

 このハウヤ帝国の頂点に立つ、この国の皇帝。至高の淑女。

 あの、階段を下りて来た時の、あまりにも堂々とした様子。そしてトリスタンと踊り始めた時の動きは、新年の皇宮での舞踏会の時のことを思い出させた。

「ご心配なさいませんように。エルネスト皇子殿下とアルフォンシーナ殿には、シモンが張り付いております。皇子殿下の侍従のヘルマン殿も、控え室より呼び出して会場に向かわせました。皇子殿下の合図がございましたらお側に」

 皇子殿下とアルフォンシーナ。

 つまりは、バルバラとしてここへやってきて、カイエンと入れ替わったのは、カイエンと声がそっくりな元は高級娼婦、カスティージョのことがあって今は大公宮の後宮の住人のアルフォンシーナなのだった。

「わかった。では、下の広間の方へ下りよう」

 カイエンは慣れないドレスの裾に気を付けながらも、トスカ・ガルニカの作ってくれた右足の装具のおかげで、なんとか普通に歩いているように見せられているのに満足していた。淑女の膨らんだドレスは、ややおぼつかない足元を隠すのにも最適だ。ただ、いつものカイエンならば、まず最初に、裾を踏んで転ぶことを恐れただろう。

「あの、でん、いえ、お姉様。私は今度は何を聞き取ったらよろしいでしょう」

 こうして聞いていると、おかしかったのはバルバラだけではなく、妹のコンスエラの方もだった。

 遠く階下の広間の話し声を、個別に聞き分けることが出来る耳の持ち主といえば。

 それは、一度見たものは忘れず、いつでも描きだす事ができる特殊能力者、“メモリア”カマラの従姉妹であり、大公軍団の女性隊員第一期生の、イザベル・マスキアランに他ならなかった。

 アルフォンシーナがカイエンの替え玉として、声や背格好が似ていたように、イザベルも前にミルドラの警備に当たっていたこともあり、ミルドラが一緒なら貴族の令嬢になんとか化けられる程度には、礼儀作法や身のこなしなども学習していたのだ。

「ちょっと嫌だろうが、下に降りたらあの踊り子王子と……踊り相手の女性を。それと、ザイオン訛りの声を拾ってくれ。ああ、さっきのベアトリア人と、螺旋帝国人の声も」

「わかりました」

 命じられたのは複数の人間の話だというのに、イザベルは慌てた風もない。

「頼んだぞ。ナシオ、ダビラ氏の方は?」

 カイエンが奇妙なことを聞くと、歩きながらナシオは低い声で、答える。

「そちらも、今頃は入れ替わったかと」

 カイエンはこっちはちょっと心配になって、聞かずにはいられなかった。

「イリヤが、イグナシオ・ダビラ氏が今夜呼ばれていると聞きつけて来たのは良かったが、国立劇場の方への働きかけはともかく、入れ替わるのは……その、声の方は大丈夫なのかな?」

 だが、ナシオの方はあまり心配していないらしかった。

「ザイオンの方々との契約は、広間での一連の歌唱のみだそうでございます。こちらは付き人として潜入した軍団長と入れ替わるだけです。歌の方と地声はまた別物ですから、あとは軍団長の演技力次第。まさか、広間の外で歌えと言う無作法な方もおられますまい。おられたとしても、上手く断ればよろしいのです」

 そうかなあ、とカイエンは思ったが、言わないことにした。もう決まっている手順を今さら、変更はできない。

 国立劇場のプリンシパル、ダビラ氏が呼ばれていることを、例の傭兵ギルド経由で、裏稼業団体から聞きつけて来たのは、大公軍団長のイリヤだった。そして、ダビラ氏の背格好が自分と似ているから、付き人として入って、入れ替わりまーす、と勝手に決めたのもイリヤだったからだ。

 大公軍団をこの仮面舞踏会マスカラーダへの潜入に使ったのは、オドザヤのこともあるが、ザイオンから来た宝石商人の行方や、炎と共に消え去った奇術団「コンチャイテラ」との関係、特に百仮面シエン・マスカラスの行方を追うという意味もあった。だから、イリヤ以下の隊員たちも力が入っている。

「……軍団長は、地声は結構、美声ですよ」

 そこで、階段に差し掛かったので、カイエンの腕を取り直したイザベルが突然、そんなことを言ったので、カイエンはびっくりした。

「ええ。美声? あれが!?」

 イザベルはけろりとして言った。

「女性隊員だけじゃなくて、みんなが言ってますよ。あの口調のおかしさがなかったら、男性隊員でもバタバタやられてる、軍団長のオカマ言葉はあれで正しいんだって言ってます」

 オカマ言葉。

 一言で言おうとすれば、確かにそれがイリヤのあの突拍子もない喋り方を、もっとも端的に表す言葉だが、若い娘がなんてことを言うんだ。

 カイエンはまるで自分がイザベルの両親であるかのように心配になった。確かに、あの言葉遣いの男が頂点にいる組織で、若い、結婚前の娘を働かせるのはどうかな、と思わないでもない。

 カイエンは別にそっちの人々を差別してはいなかった。だが、イリヤのあれは確かに慣れていてもたまにギョッとする。最近は、部下として以外の目でも見ている男だが、それでも気にはなるのだった。

「確かに。怪我から復帰してからは、軍団長が顔を出せば、どんな犯人も一瞬で全部吐く、と言われているそうです」

 この言葉を言ったのはナシオだったから、カイエンは階段を下りながら、神妙な顔で給仕になりきっているナシオの方を二度見してしまった。

「ええ?」

 ナシオの声には相変わらず、なんの凹凸もない。そして、周囲の人々にも聞こえている様子はないのだった。   

「私は話を盛ることはありません。声だけのことではありませんから、軍団長の容貌の威力も増しているのでありましょう。入れ替わりがばれることよりも、軍団長だとばれない方が大切だと思います」

「きゃっ。そうですよねー。軍団長の似顔絵、似顔絵屋ではダビラさんのより、売れてますもんねー。でも、それほど本物には似てないんですよね。本物を見ちゃうと、絵描きさん頑張ってよ、って思っちゃいます」

 そうなのか。国立劇場の歌劇の第一人者プリンシパルのよりも、イリヤの似顔絵は売れてるのか。

 カイエンはもちろん、イグナシオ・ダビラの顔も知っていた。年齢はイリヤとおっつかっつで、歌劇役者だから声だけでなく姿もいい。顔はまあ舞台化粧もあるが、歌劇の男優としては珍しい、すらりと背が高い姿の方まで入れれば、まずはハーマポスタールで一、二を争う好男子だろう。それを超えると言うのだ。

「あいつは! あれはもう、普段から仮面を被ってた方がいいんじゃないのか……」

 カイエンはこんな危急の場合ではあったが、そう言わずにはいられなかった。







 同じ頃。

 下の広間で、オドザヤは陶然として踊っていた。

 琥珀色とも飴色ともつかぬ、柔らかな光の中で、彼女とトリスタンは広間の中央で舞い踊っている。その息の合った華やかさの前では、周りで踊りだす勇気のある者はいないのか、人々はパートナーの手を取ってはいても、踊りには加わらずに壁際で棒立ちになっている。

「ファティマ、貴女の踊りは本当に素敵ですね」

 オドザヤは本名を呼ばれないことにも、疑念を抱くことはなかった。馬車の中で、周到なカルメラに言われていたからだ。

(陛下、あちらにお着きになりましたら、陛下とお呼びするわけには参りません。かねてよりの打ち合わせの通り、「ファティマ」とお呼びしますので、お間違えのないように)

 そのファティマと言うのが、彼女と同じ髪やドレスを身につけ、この舞踏会の始めにトリスタンと踊った、踊りの名手である高級娼婦の名前である、などと言うことは、オドザヤは知りもしなかった。 


 このザイオン外交官官邸の裏門へ到着すると、そこには親衛隊長のモンドラゴン子爵が待っていて、オドザヤとカルメラを素早く一室へ案内してくれた。それはこの屋敷の一階の奥にある、窓のない、だが豪華な広い部屋で、どうやら休憩の場所か、もしくは化粧室かなんかのようだった。というのも、部屋の中には大きな姿見があり、他には座りやすそうなソファや長椅子がいくつか置かれていたからだ。

 そこで彼女はしばらく待たされ、ドレスや化粧を姿見の前でもう一度見直した。

 そしてまた不安になってしまい、それをカルメラに慰められながら待っていると、なんだか遠くから歌声のようなものが聞こえて来たのだった。カルメラに妙な薬を盛られる前のオドザヤなら、それが歌劇「氷と硝子 イエロ・イ・ヴィドリオ」の中のものだと気が付いたかもしれない。だが、この時のオドザヤにはただの歌声としか認識されることはなかった。

「変だわ。今夜は仮面舞踏会マスカラーダなのでしょう? なのに、あんな歌劇の歌が聞こえてくるなんて」

 オドザヤはそう、侍女のカルメラ相手にこぼしたが、やがて部屋の置く扉が開き、トリスタンが入ってくると、それまでの不安など吹き飛んでしまった。

 ついこの間までのオドザヤだったら、そんな大胆な行動に出ることなどありえなかった。だが、侍女のカルメラによって周到に「下準備」をされたオドザヤは、もう、ずいぶん前からトリスタンとは親しかったかのように振る舞ったのだった。

「トリスタン様!」

 トリスタンは仮面を取っていた。その顔を見るなり、オドザヤは本能のままに彼の胸元へ飛び込んでいた。

 その様子は、まるで将来を誓い合った恋人に、久方ぶりに再会した、とでもいうようにしか見えない。

 これには、トリスタンの方が驚いた顔をした。彼は横目で侍女のカルメラの方を見たが、カルメラはにこにことした顔でうなずくばかり。その表情には、「上手くやりましたでしょう?」とでも言うような誇らしささえ見て取れた。

 トリスタンは内心でカルメラを「かわいらしい様子はしてるが、いずれ図々しく自分の貢献を主張してくるだろう厚かましくて愚かな女」と切り捨てていたが、今はまだ利用価値があったので、何も言わずに曖昧な微笑みを返した。

「ああ、お待たせしてしまいましたね。きっと、ご不安だったでしょう。さ、舞踏会の会場へご案内いたします。皆、今宵の女王の降臨を待ち焦がれておりますから」

 そして。

 そして今、オドザヤの視界を埋めているのは、たった一人の顔だった。

 その顔は、カイエンなどに言わせれば、胡散臭い顔、うわべだけの微笑み、と評されたであろうが、薬で思考の範囲をひどく狭められているオドザヤにはこれ以上、愛しく麗しい顔はないのだった。

 オドザヤには、広間の周りの招待客の様子など、まったく目に入ってもいなかったし、音楽さえも耳に聞こえていなかった。体が音に合わせて動くのは、去年、新年の舞踏会に合わせても練習したし、もとから踊りに素質があったのかもしれなかった。彼女はカイエンなどとは違って、まことに健康そのものだったし、第一皇女としての幼い頃からの教育には踊りや優雅な所作、楽器の演奏などの鍛錬も多く含まれていたのだ。

 ほとんど自動人形アウトマタのように踊り続けるオドザヤには、広間の高い天井から下がった豪奢なシャンデリアの光が滲んだようにぼやけ、もはや地に足が付いているのかいないのかも知覚されていなかった。

 翻る黒と青のドレス。

 きれいに染められた、赤みがかった栗色の長い巻き髪が、黒いドレスの、切り取られたように白い背中に飛び散っては落ちる。

 くるくると広間狭しと移動していく間も、彼女の視界に入っていたのは、トリスタンの黒と鮮やかな緑の上着の胸元、それからきれいに結ばれた胸元のリボン。

 そして。

 そして、その上に待ち構えて、彼女の視線を離さない、シャンデリアのまばゆい光に切り取られたかのような微笑みだけだった。

 いつの間にか曲が終わり、彼女はトリスタンに手を取られて広間の真ん中から会場の奥へと歩いて行ったが、その間もオドザヤの目はトリスタンの顔から離れることはなかった。

 今宵が仮面舞踏会マスカラーダでなかったら、その熱く潤んだ視線、踊りが終わった途端のどこか虚脱したような様子は、不審の目で見られてもおかしくはなかった。

「王子殿下、なんとも粋ですな。こんなに踊りがお上手とは存じませんでしたぞ」

「かしこき辺りへ知れたら厄介なのではございませんか」

 トリスタンとオドザヤを取り囲んだ、貴族の男たち、女たちからそんな声が上がる。だが、トリスタンの顔だけを見ているオドザヤには聞こえてもいなかったし、トリスタンの首から胸元に顔を埋めるようにしているオドザヤの顔は、ちょうどいい具合に人々の注視からは外れていた。

「そちらの美姫をご紹介願えませんかな」

 オドザヤを高級娼婦ファティマと信じて疑わない者からは、そんな声も聞こえたが、彼らから見れば今のオドザヤの様子は、「卑しい身分をはばかって、健気に身をすくめている」ように見えるのだった。

「おやおや、ハウヤ帝国の皆様方には、なんとも直截なことですね。さすがにかしこき辺りへのご注進はご勘弁願います。ははは、踊りにはちょっとうるさいものでしてね。だから、このハーマポスタールでも有名どころにお相手をお願いしたのです」

 トリスタンはまったく如才がない。彼はそんなことを適当に言い散らすと、オドザヤのむき出しの肩に手袋をした手を掛け、しばしの休憩でも取りにいくように、人垣を出て行ったのだった。

 そして、広間の脇の出口から出ると、トリスタンはすぐに勝手知ったる動きで廊下を幾度も折り返し、招待客の姿のない狭い廊下にオドザヤを引き込んでしまっていた。

 そして、入って行った部屋は、ここへ着いた時にオドザヤが最初に案内された部屋だった。

 そこには、今度は先客が二人、待っていた。

「おかえり、トリスタン。広間の方は大丈夫だったかい」

 そう言いながら立ち上がった人の姿を見て、それまでトリスタンのこと以外、何も見えていなかったオドザヤも、さすがにはっとした。

 そこにいたのは、もう一人のトリスタン、としか言いようのない人物だったからだ。仮面をつけていないのに、その人物は背格好だけでなく、若々しい美麗な顔までがトリスタンと瓜二つなのだ。

 そして、その横に所在無げな様子でいる女の姿もまた、オドザヤには驚くべきものだった。同じ栗色の髪、同じ色のドレス……それは、今宵のオドザヤとそっくりななりで先に広間に現れた、高級娼婦ファティマだった。

 だが、トリスタンも彼にそっくりな男も、彼女のことは目に入っていないようだ。

「ああ、お父さん。……へえ、百面相シエン・マスカラスの仕事は今度も完璧だね。その髪の毛も付け毛とは思えないなあ。すごいもんだ。それなら仮面がなくてもばれやしないね。もとから体格はおんなじなんだし」

 トリスタンがそう言うと、父親のシリル・ダヴィッド子爵もまた感嘆の声をあげた。

「鏡を見ているうちに、みるみる若返っていくから、仰天したよ。……じゃあ、お父さんはこの人と、広間の方へ行こう。若い者のじゃまをしちゃいけないからね」

 シリルとファティマは、びっくりしてトリスタンの腕にしがみついているオドザヤのことなど、気にしたそぶりもない。その様子からは、オドザヤの正体を知らないのか、とさえ思えた。

 実際のところ、芸術家肌のシリルには、政治向きのことなど何の興味もなかったし、ファティマには今夜の段取りのすべてが商売だったのだから、それは半分以上当たっていた。


 トリスタンと同じ衣装に、同じ仮面までつけたシリルが、ファティマとともに出ていくと、トリスタンは静かに仮面を取り、オドザヤの方へ向き直った。

 その時、初めてオドザヤはトリスタンの冷たい、人工的な緑色の瞳にひやりとするものを見たように思った。

 それでも目をそらすことができぬまま、彼女はゆっくりと自分の仮面が外されていくのを感じていた。同時に、トリスタンのもう一方の手が、自分の腰のあたりを掴んでしっかりと自分の方へ引き寄せるのも。

 踊りの間もオドザヤとトリスタンは密着していたと言ってもよかったが、これはそれとは明らかに意図の違う、強引な男の力を感じさせた。

 そして次の瞬間、オドザヤの感覚の中で、視界の中で大写しになっていた無機質な緑の瞳の映像が、唇の上に落ちて来た、皮膚の感覚に取って代わっていた。

「!」

 それだけでも、オドザヤの頭の中は混乱し始めていたが、その皮膚の接触の感覚は、すぐに湿った、粘膜の触れ合う感覚にすり替わり、彼女を決定的に戸惑わせた。

 いけない、とも、いやだ、とも、オドザヤははっきりと感じたわけではない。それまでこうしたことをなにも知らなかった彼女は、単純に驚いていただけだったのだ。

 恐らくは、トリスタンがもう少しだけ、初心なオドザヤの気持ちに合わせていたら。彼女を本当に愛していて、そして欲しいと思っていたのであったら、オドザヤはそのまま身を任せていただろう。

 だが、オドザヤはトリスタンのその、明らかに彼女への恋慕以外の目的を持った、性急な行為に戸惑うあまり、トリスタンの胸元を強く押し返し、その腕の中から抜け出していた。

 トリスタンの方は、これは彼の若さゆえか、自分への自信のなせる技か、ここまで来てオドザヤが抵抗するとは思っていなかったので、やや虚を突かれた形となった。

 あっという間に、オドザヤはさっきシリルたちが出て行った方の扉に駆け寄り、それを開け、狩りで追い詰められた獲物のような必死さで、最後の力を振り絞り、外の廊下へ、方向もわからぬままに走り出していたのだった。








 いくつかの廊下の角を曲がり、オドザヤはいつの間にか、人気のない中庭に面した小廊下に出ていた。どうしてかは知らないが、後ろから追ってくると思っていた、トリスタンの気配はなかった。

 そこは、半地下の広間からそれほど遠くはなかったのだが、この屋敷の中では今はあまり使われていない区画で、この屋敷の見取り図でも持っていなければ、たどり着くはずもない場所だった。

 カイエンたちが前もって、この屋敷の見取り図を手に入れていたのも、元は闘技場まで備えたこの屋敷が、歴代の主人たちによって、増築に増築を重ねた「迷路屋敷」だったからでもあったのだ。

 だから、中庭もあまり手入れが行き渡っておらず、木立の向こうに見える石造りの古い、あずまやの中に人がいることに、オドザヤはしばらく気が付かなかった。

 それは実は、あずまやの中の二人にも同じことだったのは、皮肉としか言いようがなかった。

「やめろよ、口紅が取れる。何がちょっとちょっと打ち合わせ、だ。真面目にやれ」

 オドザヤがはっとしたのは、あずまやから聞こえてきたのが、ぶっきらぼうな口調の、だが女の声で、それはオドザヤには聞き慣れたものだったからだ。

「え?」

 オドザヤの頭の中には、もやのようなものが立ち込めており、先ほどのトリスタンとの出来事もあり、はっきりとした判断ができる状態ではなかった。でも、彼女がこの声を聞き違うはずなどはなかった。

「広間に戻ってしばらくしたら、踊り子王子はへい、いや、あの方を連れて広間を出て行っちまったんだ。私は歩くのが遅いし、ちょうどお前が来たから廊下のところで、ナシオとイザベルに後を追わせたけれど……」

「それなら大丈夫でしょ。皇子様の方には、シモンとヘルマンさんが行ってるし、ガラちゃんやサンデュは物陰に潜んでるだろうし、シーヴも紛れ込んでるはずなんだし。でも、またあのファティマとか言う女と入れ替わられたら厄介だよね」

「それだよ! こっちも私を含めてあれこれ入れ替わっている。向こうだってわからないぞ。何しろ、向こうには百面相シエン・マスカラスが一枚噛んでいるかもしれないんだ」

 凍りついたように動けないオドザヤは、かろうじて廊下の曲がり角に身を潜めていた。

 女の声は、彼女の姉で従姉妹のカイエンのもので、男の方にも聞き覚えはあるような気がしたが、オドザヤは何度か見かけただけで、面と向かって話したこともない、イリヤの名前を思い出すことは出来なかった。

 あずまやは屋根といくつかのそれを支える柱、そしてその下に座る場所があるだけだから、目が慣れてくれば、オドザヤには中の様子がはっきりと見えた。

 彼女の視界の中で、珍しくも他の貴族の令嬢のようなドレス姿のカイエンは、仮面はしていたが、その横顔を間違うはずはない。

 そのカイエンを、憂いを含んだ表情の真っ白い仮面に真っ黒な衣装の、背の高い男が、半分抱き上げるようにしている。近々と顔を寄り添わせた二人の様子は親密そうで、オドザヤの視界の中で、二人の仮面に覆われた額がこつん、と合わさった。猫が鼻を合わせて挨拶するような仕草で、二人の影がひとつになる。

 カイエンはまだ何か言おうとしているようだが、その言葉はもう、オドザヤの耳には入らなかった。それにすぐにカイエンの声は聞こえなくなった。

 彼女が見ている前で、ひとつに合わさった影が、ごくごく自然な動きでしていること。

 それは、つい先ほど、オドザヤがトリスタンにされて、驚きのあまり、逃げ出して来てしまったことと同じだった。



「……はいはい、俺の方にうつっちゃったのを塗り直してあげましょ。でん、いやあなたもさぁ、淑女らしく化粧直しのお道具くらい、持ってないの?」

「え。化粧直しって、この小さなバッグの中にあるのか?」

「いやーだ、ちゃんと持ってるじゃない。貸して。……これこれ、はい、塗ってあげるからこっち向いて」

 オドザヤには、カイエンとイリヤのそんな現実的な会話など、ほとんど耳に残らなかった。

 彼女は、最初にカイエンが「口紅が取れる」と文句を言っていた理由が、今度こそはっきりと目で見て理解できていた。

 オドザヤは、いや実は他の女でもあまり見たことはなかっただろうが、カイエンは男のイリヤに口紅を直させている間も、なにやらぶつぶつ文句を言っている。その様子は男女というよりも、兄に不満をぶつけている妹のようでもあったが、先ほどの行為を思い出せば、そんなものではないのは明らかだ。

 カイエンとイリヤがそこで過ごしていた時間は、ほんの五分か十分くらいだっただろう。だが、息をするのも忘れていたオドザヤには、歌劇の一幕のように感じられた。

 カイエンたちがあずまやから出て、中庭の向こう側の廊下へ行ってしまってからも、オドザヤはしばらくの間、そこに立ちすくんでいた。何かを考えていたわけではない、ただ、物語の中だけで知っていたこと、先ほど、自分も実体験しそうになったことを、一番近しい身内に見せつけられただけだ。

 それだけのことなのに、この時、オドザヤの体は自分の意思ではどうしても動かなくなっていたのだ。

 ただ、オドザヤの、彼女の中の未だ潔癖な部分が、強烈に拒絶感と嫌悪感を感じていた。

 それは先ほどのカイエンの相手が、彼女が知っている男ではなかったからだった。

 相手の男が、彼女の父サウルがカイエンに無理やり持たせた、だが、仲睦まじくしていると聞いていた愛人のヴァイロンでも、その後、正式に結婚した相手のエルネストでもなかった、ということだった。

「……お姉様……どうして?」

 生真面目な性格は自分とそっくりだ、と思っていた姉で従姉妹。それが、いく人もの男を身近に置き、舞踏会の夜に、人気のない奥庭に隠れて束の間の逢瀬を楽しんでいたというのか。

 オドザヤの中にあったカイエンの肖像。その真ん中にぴしり、と大きな石があたり、そこから氷が割れるように肖像を醜く歪めて、ひびが蜘蛛の巣のように広がっていく。

「わからないわ! ……どうして? どうして!」

 オドザヤの言葉はつぶやき声でしかなかった。だが、その激しい声音は彼女の後ろに潜んでいた者の耳にも届いていた。


 そう、さほど遠くない場所には、オドザヤと同じように、だが周到にやや距離を置いてこの様子を見ていたものがいた。

「ふふ、なーんにも知らない女王様には目の毒だったね。実の姉さんのアレじゃなかったら、ここまで効きゃあしないんだろうに。御愁傷様」

 トリスタンが、取り逃がした獲物を今度こそ逃すまいと、自分を高貴な女王に恋する哀れな王子役に置き換え、舞踏劇か歌劇の役作りのようにおのれを作り変えるのに、そう長い時間は必要なかった。彼には舞台に上がる者の才能があったから。

 哀れな、美しいが心弱い蝶々は、用意周到な毒蜘蛛の張り巡らせた、この迷路のような屋敷にも似た罠から逃れる術など、はなから持ってはいなかったのだ。

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