火化鳥とテルプシコーラ


 赤い鳥が見える

 北の北、最果ての荒野の中の湖に

 寒くて凍りついた水面、その厚い深い青の氷の上に

 赤い鳥が

 ただ一羽

 青い氷の上にいるのが見える

 黄金と真紅の炎に燃立つ羽をいからせて

 踊るように氷の上で羽ばたいている

 あれは火化鳥だ

 炎を身にまとう怪しい化鳥

 なのに氷は溶けない

 燃立つ炎の翼を広げても熱気は起こらず

 孤高の一羽の鳥だけが

 モノクロームの世界の中で

 孤高の怒りを燃え立たせている

 そう、火化鳥はひとりぼっち

 春が来て氷が溶けても

 夏になり森林の梢が青々と茂っても

 彼はひとりぼっち

 それでも火化鳥は美しい

 その意味のない羽ばたきの舞いで

 氷を溶かし

 世界を変えることもない

 なのに

 なのに火化鳥は美しい

 彼はいつまでも何かを氷原の湖で待っている

 いつの日か、火化鳥から永遠を生きる火のフェニクスになるまでは




   極北地方に語り継がれる民話より 「氷原の火化鳥」







「ねえ、トリスタン。私はいつになったら火の鳥の踊りをお前に教えられるんだい? もう、このハウヤ帝国へ来てからずいぶんと時間が経った気がするよ!」

 ザイオン外交官官邸。

 二月の中頃、そこでザイオン第三王子トリスタンのお披露目の仮面舞踏会マスカラーダが華々しく行われた場所。それからはもう半月近くの日々が流れ、四月も目の前となっていた。

 三月、そして四月になれば、北方のスキュラやザイオンでも雪解けの季節となる。そうなれば、このハウヤ帝国と、スキュラの後継者として母の故郷へ向かったはずが義理の叔母のイローナの虜囚となっていた、第三皇女アルタマキアがいるスキュラの間で、何がしかの動きがあるはずだった。

 その、広大な屋敷の奥の一室。

 暖かい暖炉の光と、卓上の乳白色に鳥の浮模様のロマノガラスのランプの前で、トリスタンは父親のシリルと向き合って、重厚な刺繍の施された布張りのソファに座っていた。

 狭い中庭に面したガラス窓の外はもう、真っ暗だ。 

 青みがかった色の大理石に囲まれた暖炉の上には、チューラ女王の肖像画がかかっていた。この二人は女王の愛人であり、その息子であった。だが、彼等二人はそこに彼女の肖像画があることさえ気が付いていなかったかもしれない。

「ああ、ああ! もう、お父さんはうるさいなあ。何度も言っているじゃない! 今はそんなこと言っている時期じゃないんだよ!」

 トリスタンはいらいらとした様子で、手にしていた琥珀色の蒸留酒のグラスを傾けた。シリルの前にも同じグラスがあるが、こちらはほとんど減ってはいなかった。

「それはそうだろうね。お前は私とは違って、ザイオンの王子なのだから。政治的な目的でこの国に来ているんだしね。でも、前にここへ来てすぐに言っただろう。螺旋帝国の使者がザイオンで女王陛下に言った言葉のこと」

 トリスタンは嫌々ながらに顎を縦に振って、肯定した。

「螺旋帝国は、ザイオンの母上と一緒に、なんだっけ? 太陽の……」

 トリスタンがそこまで言うと、シリルはなんだか遠くの地平線を見ているような目になって、ソファから立ち上がった。

「……貴女と共に、太陽の黄金の階段を昇って参りましょう。そして、焼き尽くしてしまいましょう。この大地にあるすべての思い出を焼き尽くしてしまいましょう。……私が次にここを訪れても、何処だかわからないように。何も残すな、何も忘れてくるな。火焔よ焼き尽くせ……私が悲しまないように……」

 そして、シリルがかなり確かな喉で歌い出した歌を、憮然とした顔ながらもトリスタンは聞いた。

「この歌の最後はと言うとね、焼き尽くされた瓦礫の山……燃え残りの熾火おきびから火の鳥が蘇るんだ! 世界が燃え尽きた後に! 火の鳥だけが蘇って世界を睥睨へいげいするんだ。だからね! きっと螺旋帝国の新しい皇帝は、火の鳥になりたいんだよ。そして、螺旋帝国の使者が女王陛下にこの言葉を言ったのだから、火の鳥には意味があるんだよ」

 トリスタンは不承不承にうなずいた。

「そうかもね。でも、それとお父さんが知っている火の鳥の踊りと、関係があるとは言えないでしょう?」

 シリルから火の鳥の赤い靴が届けられた時には、興味深げだったトリスタンだった。

 だが、あの時の彼は一人の踊り子に化けおおせていた時だった。あの時の舞踏家になりきっていた頭には魅力的に聞こえた話だったが、ザイオンの第三王子としての自分になってみれば、舞踏家上がりの父親の夢物語のような話は、滑稽で馬鹿らしく聞こえたのだ。

 ここでトリスタンが、螺旋帝国の新皇帝、ヒョウ 革偉カクイが、恋人を前王朝「冬」の最後の皇帝が行なった「女狩り」で奪われていたことを知っていたら、もっと父親の言葉を真面目に考えたかもしれない。

 貴女と共にこの世界を焼き尽くしてしまいましょう。

 この女が新皇帝の昔の女であるなら、彼の求める世界はかなり危険なものになっていくと予想できないか。

 だが、このパナメリゴ大陸の西の果てまでは、ヒョウ 革偉カクイのそんな話は伝わって来てなどいなかった。わずかにまだ先帝サウルが健在だった頃に、カイエンたちが螺旋帝国の外交官の朱 路陽の話す昔話から聞いていたが、その話も、もう彼女たちの頭に残っていたかどうか。

(貴女と共に、太陽の黄金の階段を昇って参りましょう。そして、焼き尽くしてしまいましょう。この大地にあるすべての思い出を焼き尽くしてしまいましょう。……私が次にここを訪れても、何処だかわからないように。何も残すな、何も忘れてくるな。火焔よ焼き尽くせ……私が悲しまないように……)

 恋人だった貞辰を奪われた馮 革偉。

 そして、人民を煽り、引き連れ、短期間に前の王朝を倒して自ら新王朝「青」を興した男。彼はこの革命で、前の皇帝の妻の一人となり、星辰と天磊の二人の皇女皇子を産んだ貞辰を失っているのだ。螺旋帝国の使者はこの「貴女」をザイオンのチューラ女王であるかのように話したが、実は……それはもっと恐ろしい未来を、馮 革偉は求めている、ということなのかもしれなかった。

「でもね、トリスタン……」

 シリルはなおも何か言いたげな様子だったが、ふと、彼はトリスタンが小卓の上に放り出していた、紙質のいい、だがなんだか色めいた、クリーム色だが琥珀色を感じさせる微妙な色の封筒に気が付いた。その封筒の、貴族が手紙をやり取りする際、こうした封筒に必ずする、封蝋の見慣れぬ意匠に気が付いたからかもしれない。

 それは、半分にきれいに砕かれていたが、元は蘭の花の意匠だった。

「その封筒はなんだい?」

 シリルの声を聞いて、トリスタンは眉根を歪めた。彼はオルキデアの花の透かしの入った、その凝った紙質の封筒を取り上げた。

「招待状だよ」

 トリスタンはもう、その封筒の中身を見ていたらしかったが、もう一度中身を取り出した。

「いかがわしい匂いのぷんぷんするご招待だよ。……まったく、計算違いになったもんだ」

 シリルは不思議そうな顔で聞いている。

 こうして並べて見ていると、父子は似てはいたが、顔立ちは父のシリルの方がおとなしげで優しく、髪なども少しくせがあるのが分かる、

「女皇帝からのだよ。……あの女、ついこないだまで生娘だったとはとても思えないよ。やっぱり清純ぶってても権力を持った女なんて、こんなもんかね」

 トリスタンがそう言いながら封筒から取り出したのは、封筒と同じ色の、封筒よりも一回り小さいカードだった。

「体裁は午後から行われるお茶会への招待状。でも、時刻の指定はない。あるのは場所と、そしてこの意味深な図柄だよ。見てみてよ」

 うんざりした、という仕草でソファにだらしなく寄りかかりながら、息子が差し出したカードをシリルは大人しく受け取った。

「場所は……オルキデア離宮。ああ、意味深だというのはこれだね。太陽と月が口づけを交わしている。月の形は三日月くらいだね。ああ、そうか。女帝陛下の二つ目のお名前が確か、ソラーナだったね。じゃあ、この太陽は陛下か。それじゃ、この月の方は? 不思議だね、普通は太陽は男で月は女だと思うが、この月はなんだか男っぽい顔立ちだ」

 いい歳をして無邪気な声音で聞くシリルを、こちらが父親のような目でトリスタンは見た。

「……その月は、太陽の女帝に額ずく男どもだよ。ご丁寧に、この月が謎かけさ。お茶会とやらが開かれるのは、月のある時間だってわけ!」

 ということは、この招待状はオドザヤが出したもので、「お茶会」とやらは夜に離宮で開かれる、ということだ。

「まったく、忌々しいね、女なんて。あの女も母上と同じだ。母上は生真面目な女皇帝を手玉にとって、皇配になれと言ってたけど、それも面倒臭くなってきたよ。あの女、あの後何があったのか知らないけど、もう僕へのご執心は失せたみたいだ。普通は最初の男は忘れられないとか言うけれど、あの女に関しちゃ、それは当てはまらなかったね。所詮は庶民出身の女の娘だ。大したもんだよ。今やあの女は手当たり次第に上位貴族の男どもを喰いまくって、都合の良さそうなのを選べるって言うんだろう! 大公だの宰相だのは、はなから外国の王子なんか皇配にしたくはないんだろうし」

 シリルはもう、言葉を挟んでこなかった。彼にはこういった政治的な話は出来ないのだ。それはトリスタンにも分かっていた。

「いいよ、お父さん。火の鳥の踊りを覚えようじゃない。お父さんが言うようにすごい踊りなら、きっとこのいやらしい『お茶会』で披露したら大ウケ間違いなしだ!」

 このハーマポスタールへ単身でやってきて、踊り子に化けて毎日、テルプシコーラ神殿で踊っていた時のトリスタンは、ザイオンの王子ではなく、ただおのれの舞踏を高めようとしていた一人の踊り手だった。おのれの舞踏の才がこの街でも通用するものかどうか、試していたのだ。

 だが、今の彼は違っていた。

 そんな息子の様子を、シリルは痛ましそうな目で見ていた。政治的なことはなにも分からずとも、彼は若い頃から苦労し続けて来た。ザイオン女王の愛人となって、ダヴィッド子爵となっても、彼の中の舞踏家としての心は変わっていなかったから。

 そんな彼の、厳しい芸術家の目から見れば、今のトリスタンにあの火の鳥の踊りがきちんと習得できるとは思えなかった。

「そうだね、そう思ってくれてうれしいよ」

 だが、彼はその時はこう言うにとどめた。人も時代も変わるのだ。今のトリスタンに火の鳥の踊りの真髄が理解出来ずとも、振りを覚えてくれさえすれば、いつか表現者としての彼が目覚めた時に、覚えた振りが彼を一羽の火の鳥に変えてくれるだろう。

 今は、ただの火のついた化鳥でもいい。

 体で覚えた動きに、心が追いつけば、いつか彼も火のフェニクスになれるだろう。







「オルキデア離宮? 聞いたことがないな」

 三月の始め。

 カイエンは意外な場所にいた。

 「黎明新聞アウロラ」の社屋の中にある、応接室という名前が付いてはいるものの、壁があまり厚くないので、廊下やら編集室やらの喧騒が聞こえてくる狭い部屋の中だ。

 部屋の中にあるものといえば、向かい合った座面の固い長いソファ……というか、だったもの、とその間にある、これは資料などを広げることがあるからだろう、結構大きなテーブル、そして、小さな暖炉くらいのものだった。

 カイエンはきちんと彼女の大公軍団の制服を着ているが、上に黒い外套を着て、もう薄暗くなった夕刻に裏口から入ったので、まさかこの部屋にこの街の大公が来ているとは、新聞屋どもは気が付いていなかっただろう。

 新聞社の方はほぼ二十四時間、記者が詰めて記事を書いたり、校正したり、挿絵描きの版画画家などがやって来たり、出来た新聞を印刷屋に回したりしているのだと言う。だから人の出入りも多く、門番も知った顔が混ざっていればあまり出入りを咎めることもないそうだ。

「それはそうだと思います。あの、コンスタンサ様にうかがったところでは、前の皇帝陛下は離宮へ御渡りになることはなく、ほとんどの離宮を空き家同然にしていたそうです。管理のものなどは置いていたようですが」

 カイエンの正面から、こう言ったのは大公軍団の女性隊員一期生の一人だった、トリニである。

 トリニの隣にはこの新聞社の敏腕記者であり、彼女の幼馴染でもあるホアン・ウゴ・アルヴァラードが座っている。

 カイエンの横には、護衛騎士のシーヴが座っていた。

「その離宮のひとつがオルキデア離宮で、これはこのハーマポスタールの郊外にあるんです。小さな湖があって、その周りは全部、皇帝直轄地なので、そこだけ人家がない、市内のぽっかり空いた空洞みたいなところです」

 こう説明したのは、猫舌なのか、熱い珈琲をふうふうしながら飲んでいる、ウゴの方だ。

「そこが近頃、突貫工事で一部だけですが整備されて、そこで夜、集まりがあるらしいって掴んで来たのがいましてね」

「周りに人家はないんだろう? それなのに気が付いたってわけか」

 カイエンがそう聞くと、ウゴは珈琲の入った陶器の粗末なカップを口元から離した。

「離宮の周りは鬱蒼とした常緑樹で取り囲まれておりまして、夜じゃなかったら全然、分からなかったかもしれませんが、夜だと湖面に中の灯がちらちらと映るんだそうで」

 ああ、とカイエンもシーヴも納得した。湖に面した離宮なら、湖を見渡せるバルコニーなども設えられているのだろう。そこから光が漏れるというわけだ。

「集まりがあるとすると、馬車の出入りなんかもあるのだろうな」

 カイエンがそう言うと、ウゴはその通り、とばかりにうなずいた。

「集まる連中も、人目を気にしてはいるようで、一回どっかで落ち合って、一緒の馬車に乗って来たりしているようです。それなら、離宮に出入りする馬車が少なくなりますからね。それでもまあ、一回、あれって思われれば話も広がりますよ」

 ここまで聞くと、カイエンはソファに浅くかけた状態のまま、膝に両肘をついて顔の左右を手のひらで支えた格好で、ため息をついた。

「じゃあ、こう言うことになるんだな。トリニがコンスタンサから聞いて来たところでは、陛下はこの頃、オルキデア離宮の整備を命じられたらしい。そして、実際に一部とはいえきれいに整えられた陛下の離宮には、夜間に人の出入りがある、と。それも、複数!?」

 カイエンは唸り声を上げたいほどだった。

 今、彼女がまとめて言ったようなことが本当なら、いや、間違いなく本当なのだろうが、オドザヤは夜間に離宮で、何かの集まりをしている、と言うことになる。皇帝の離宮が、彼女抜きで使われるはずなどない。

 あの仮面舞踏会マスカラーダの後、オドザヤがいかに変わっていったか、そしてそれがたった一日のうちだったことなど、カイエンは知らない。

 カイエンもサグラチカから、エルネストがオドザヤに、カイエンと自分との間にあったことを話した、という事は聞いていた。だが、それがオドザヤにどういう「効果」を与えたのかまではわからなかったのだ。

 だから、最初、カイエンには「オドザヤが離宮で夜、何かの会合をしているようだ」と聞かされても、それはトリスタンと密会してるのだろうとしか思えなかった。

 だが、話によれば、離宮に出入りしている人数は一人や二人ではないと言うのだった。

 カイエンがこの日、この「黎明新聞アウロラ」まで、トリニとシーヴに守られてわざわざやって来た理由はこれだった。

 最初に、カイエンの所にやって来たのは、実は新聞屋のウゴの方だった。国立士官学校の教授をしながら、街中で寺子屋を開いていた、現大公軍団最高顧問のマテオ・ソーサの教え子であるウゴは、大公宮の後宮に住む、彼の恩師の元をかなり頻繁に訪れていたのだ。

 マテオ・ソーサから聞いたカイエンは、すぐに皇宮へ派遣している、トリニとブランカに使いを出した。彼女たちはこの頃、皇帝のオドザヤの護衛とはいえ、オドザヤの私生活からは隔絶されてしまっている。

 トリニたちは、女官長のコンスタンサのところへ言って、このことを伝える。コンスタンサは驚愕したが、離宮に手を入れる命令を出したとあれば、さすがに皇帝付きの女官長であるコンスタンサはその事実をすぐに確認出来た。

 驚いたことに、オドザヤはこの命令を、宰相府のサヴォナローラの上を飛び越えて実行させたのである。

 それには、オドザヤと現場をつなぐ人間が必要で、それが親衛隊の隊長、ウリセス・モンドラゴン子爵であることも、サヴォナローラが手を入れればすぐに判明した。

 コンスタンサとサヴォナローラは、このことをオドザヤに問いただす前に、カイエンの方へ話を戻して来た。新聞屋を止めてくれ、と言って来たのである。確かに、「黎明新聞アウロラ」と繋がりがあるのはカイエンだけだ。

 宰相府から圧力をかけるのは、この際、避けたいところだった。すでに、監獄島からの脱走囚人の件もあり、治安維持のためと称して深夜のコロニア間の移動を制限したり、自警団を作らせたりしているのだ。今以上に、市民たちに不安感を持たせたり、オドザヤへの不信感のようなものを醸成させるわけにはいかなかった。

 それは、非常に迅速に行われた。

 ウゴが大公軍団最高顧問のマテオ・ソーサのところへ相談に来たと言うことは、このことを記事にして良いものか、相談しに来たと言うことなのだろうと推測したのだ。

 まだ、他の読売りにこの話は出ていない。つまりは今のところ、この事実は「黎明新聞アウロラ」だけが嗅ぎつけたという事なのだろう。だが、他の新聞社が嗅ぎつけるのも時間の問題、と言えた。

「事実としては間違いないんで、記事にしようとすればすぐに出来るんです。でもねえ。編集長が止めてるんですよ。外で記者どもが話すのも厳禁です。サウル皇帝の時代で、貴族どものやることならすっぱ抜けた。でも、今、陛下の行状を書くのは危なすぎるって……。離宮で、それも夜間に複数の貴族らしき馬車が出入りしているとなると……その、変な方向へ話を推測して読む輩も出てくるだろう、と」

 ウゴは渋柿でも食べたような顔だ。

「そうだな。でも、夜に離宮に集まっているからと言って、すぐにその、乱れた方面の話だとは言い切れない。政治的な集まりかも知れん」

 カイエンはそう言ったが、彼女の勘は自分の言葉が嘘だと言っていた。恐らく、オルキデア離宮の使い道は前者だ。

 カイエンはあの仮面舞踏会マスカラーダの後、何度か皇宮へ上がって、オドザヤに会っている。そして、実はその度に違和感と驚きを感じていたのだ。

 コンスタンサからも報告があったが、あの日以来、オドザヤの侍女のカルメラはおどおどした様子になり、オドザヤは親衛隊を自分の警備として復活させた。カルメラがオドザヤに盛っていた怪しい薬による、惚けたような様子もなくなり、皇帝としてのオドザヤは、元に戻ったというか、もっとたくましくなった印象だった。

 だが、それは彼女の行動面での印象で、オドザヤの外見の変容は、サヴォナローラはともかく、女のカイエンやコンスタンサには異様なものに映った。

 特に、それまで真面目一方に謹厳な女官長をやって来たコンスタンサよりも、歳が近く、オドザヤが一目でトリスタンに恋するようになった場面を見、その心中も聞かされていたカイエンには、その違いがはっきりと分かった。

 オドザヤはたいそう、美しくなった。

 いや、元から母親のアイーシャそっくりの美貌を誇っていた彼女だったのだが、全盛期のアイーシャと並んで立っていた皇女時代は、明らかにオドザヤはアイーシャには及ばなかった。彼女は清廉すぎ、生真面目で面白みのない、無個性な感じがした。ただきれいで端正なお人形、と言っては言い過ぎだが、アイーシャが体全体から放っていたような圧倒的な何かに欠けていたのだ。

 だが。

 仮面舞踏会以降のオドザヤは変わった。言動もはっきりと、自信ありげになったが、外見はその上を行っていた。

 ミルク色の肌は艶やかになり、薄く光を放っているようにさえ見えるようになった。琥珀色の目は固い、鉱物質な感じを失い、蕩けるような甘さを宿した。そして、黄金いろの髪は本当に金の糸を束ねたように、いや、太陽の光のように輝いていた。珊瑚色の唇は赤みを増し、肉感的な厚みを感じさせるようになった。

 それらが構成するオドザヤの容姿は、前に「琥珀の姫」と呼ばれていた時とは確かに違っていたのだ。彼女は十九だったが、この短期間に、もはや「姫」という形容さえ似合わないものになっていた。

 今のオドザヤを表現するとすれば、それは「黄金のオルキデア」とでもいうべきだっただろう。母のアイーシャは「金の薔薇のよう」と言われていたが、爛熟したオドザヤの様子は確かに薔薇というよりも蘭だった。

 アイーシャが「薔薇」と表現されたのは、美貌の中の性格が尊大で芯に何かお固いものをはらんでいたからだろう。確かに、アイーシャは下級官吏の娘上がりで、元からその美貌ゆえにわがままなところがあり、その出身を隠すために意図的に尊大に構えていた。カイエンを出産して以降、酒に耽溺してもいた。だが、中身は思い込みの激しい、意外にお固い女だったのだ。それは、彼女がずっとサウルの肖像画の下にアルウィンの肖像画を隠していたことからもうかがえる。

 蟲を宿して生まれ、死にかかったカイエンを疎み続けた、頑なな心もその根本は同じだろう。

 だが、オドザヤは違った。

 彼女は花弁を重ねて芯を隠した薔薇の花ではなかった。鄙俗な言い方をすれば、オドザヤは女としての花弁の中心を惜しげもなくさらした、その上で豪奢な花だった。まさにそれは蘭の花だ。

 今の彼女の様子というのは、「最高に高貴なる妖婦」とでも言った様子に見えた。蘭という花には申し訳ないが、そうとでもいう他にはなかった。

「ウゴ」

 カイエンは頭の中のオドザヤの映像を確認しながら、ウゴに向かって言った。

「真実を隠していると言われれば、申し開きが出来ない。私は離宮での会合に出たわけではない。知ってるのは、ただ最近の陛下のご様子だけだ。だから、ここで確認したい。今の時点ではどの読売りも、オルキデア離宮でのことを醜聞として書くことはできないだろう? そうじゃないか」

 言いながら、カイエンは自分でも嘘くさい言葉だな、と思った。だが、ウゴもトリニも、そしてシーヴも、そんなカイエンを責めることはなかった。

「……編集長も伊達に編集長してるわけじゃない、ってことですね。先のことを考えれば、今現在の新聞社の稼ぎよりも、大事なもんがある、って言うんですよ。まあ、俺にも分かってます。だから、先生の所に一番に行ったんですよ。このことが奇譚画報向けのいかがわしげな話だったとしても、政治的な話だったとしても、書いたら陛下とその周辺に睨まれる。向こうもその辺は計算して行動しているでしょう。これはまあ、自由新聞リベルタあたりは、うちと同じ考え方すると思うんで、出さないと思いますよ。でもねえ」

「あー」

 カイエンは自分やミルドラの醜聞を書き立て、幾人も人を介してはいたがカイエンの意図でカスティージョの醜聞をすっぱ抜いた、あの「奇譚画報」の記者の、薄っぺらい男前な顔を思い出した。

「奇譚画報か。あそこなら、書くかな?」

 カイエンがそう言うと、以外にもウゴは首を振った。

「大公殿下に、こんなむさ苦しいところまで来ていただいて、アレなんですけどね。俺はあそこでもまだ記事にはしないと思ってますよ」

「ああ。じゃあ、もう他の新聞社でもすぐに嗅ぎつけてくる、ということだな? それじゃあ、ウゴが大公宮の先生のところへ来たのは、私たちに知らせるためか」

 カイエンが聞くと、ウゴは鳥の巣のようにうねり、絡み合った褐色の髪の毛をばりばりとかき上げながらも、はっきりとうなずいた。

「そうです。殿下がこんなところまで直にいらっしゃるとは思ってませんでしたが、灯台下暗し、って言うでしょう。皇宮の方じゃ、気が付いてない方々もおられるんじゃないか、それじゃあ、あんまり危ないや、ってのが」

 ウゴはここで言葉を切った。

「……うちの編集長の言葉です」 

「そうか。その編集長はどこにいる? 会えないかな」

 そう言うカイエンへ、ウゴはもう温くなった珈琲を一気飲みしながら言った。

「編集長なら、隣の編集室で煙草の吸い殻に埋もれてますよ。いや、もしかしたらこっちの壁に耳を貼り付けた格好で、モクモクしてるかもしれません」

 カイエンたちは、編集長がどんな人物かは知らなかったが、ウゴの言うままの姿を想像して、思わず笑わずにはいられなかった。








 編集長と会い、両者ともなんだか歯に物が挟まったような言葉の応酬とはなったが、挨拶とその他の事項の確認をし、カイエンが「黎明新聞アウロラ」の社屋を出たのはもう夜になった時刻だった。

 トリニは近くの署で、大公軍団治安維持部隊の馬車を出してもらい、皇宮の方へ報告へ戻った。

 カイエンの方はと言うと、同じように近くの署の馬車止まりに停めていた、目立たない大公宮の馬車に乗った。向かった先はもちろん、大公宮の方角だった。

 大公宮の表の玄関に着くと、護衛騎士のシーヴは黙ったまま、カイエンの後をカイエンの執務室ではなく、大公軍団長イリヤの執務室まで付いて来た。

「じゃ、俺はもう今日は下がります。また明日!」

 シーヴは、カイエンがここにこんな時間に、ここへやって来た事情をもちろん知っている。だが、その言葉は自然で、聞いているカイエンの方が拍子抜けするようだ。もっとも、そうでなくてはこんなことは、子供の頃から大人だけに囲まれて育ち、無意識に周りの反応を気にする性格のカイエンには続けられなかっただろう。

 もちろん、カイエンの今夜のこの行動は、執事のアキノまでしっかりと伝達されている。

 この日は、新聞社でオドザヤのオルキデア離宮でのことを話して来たから、ことさらに自分の行動が後ろめたかった。

 カイエンが大公軍団長、つまりはイリヤの執務室をこうして暗くなってから訪れるのは、もう数度目になる。

 扉のそばには侍従の姿もない。この大公宮の主人であるカイエンがしていることだ。ことはもう、皆に知れているのだろう。皆がカイエンの性格を知っている。だから姿を見せないようにしているのだ。

 部屋の主は忙しい仕事を無理矢理に、しかし、仕事内容を劣化させずに極めて強引に終わらせてでも、約束した時間に戻って来ていなかった事はない。

「さすがは殿下。時計通りね」

 カイエンのものと対になっていることが判明した、あの銀時計の蓋を閉じる音を聞いたと思ったら、もう、カイエンは分厚いイリヤの長い革のマントの下に囲い込まれていた。カイエンは小柄だから、長身のイリヤのマントの中に入ると、脇に挟まれたような格好になり、足が四本出ていることに気がつかなければ、イリヤ一人が歩いているように見えたかも知れない。イリヤが腰を支えてくれるので、もう杖を突く必要もなかった。

 最初のうちは、カイエンの執務室などで逢うこともあったが、していた事はぎりぎりで男女の仲になってはいません、まだなりたての恋人同士の関係です、というところだった。

 だが、あの日、イリヤから「あの話」を聞かされた後からはもう、彼ら二人は次の段階に入ってしまっている。

(じゃあ、今日の夕方ね! 意地でも仕事終わらせてここに戻ってくるからねっ。殿下ちゃんは、ここで俺っちをちゃんと待っているんですよぉー)

 とか言ってカイエンの執務室から出て行ったイリヤは、ちゃんと夕方すぎには戻って来た。

 そして、そこで聞かされたのが、イリヤがアキノと、獣人の村プエブロ・デ・ロス・フィエロス出身の大公軍団の外科医から聞いて来た話だった。

 カイエンはもちろん驚いたが、イリヤがもったいぶって話そうとした理由も同時に理解できた。

「だからね、殿下。俺たちを止めるものはもう、なーんにもないのですよぉ」

 そう、にっこり微笑んで言ったイリヤは、芝居がかった様子で執務室の椅子に座ったカイエンの前にひざまずき、手袋をしたままのカイエンの手を、押し戴くようにして見せた。だがこの時、イリヤの最高の微笑みをプラスされた美貌は、カイエンの印象にはちっとも残らなかった。

 カイエンがはっとしたのは、そのイリヤの行動の映像に既視感があったことのほうだ。

 それは、三年前、

(おまえはグスマンの側か? それとも私の側か?)

 と、ヴァイロンを後ろにして問うたカイエンへの返答として、彼が彼女の前でひざまずき、あの時は手ではなくて彼女の靴の足先をその手に取った時と同じだった。

 あの時のイリヤはまだ、アルウィンの手下にあった。アルウィンがこのハーマポスタールに残した、桔梗星団派の組織「盾」の頭目であったのだ。

 だが、今は違う。違うどころか、とんでもない飛躍を遂げてしまっていた。

「あー、これ、なんか前にもしたことありますねぇ」

 イリヤの方もカイエンと同じことに気が付いたらしかった。

 それから、彼らは忙しい日々の中、隙間を見つけては今夜これからするのと同じ手順で逢瀬というか、もう大公宮中に明らかになっている関係を繋いでいるのだ。


 イリヤがカイエンを連れ込んだのは、彼の宿舎の自分の部屋だった。

 そこは、大公宮の本殿から少し離れてはいたが、この大公宮の内部を知り尽くしているイリヤは正規の道など通らない。そうすると、彼が長いこと住み着いている大公軍団の宿舎というのは、以外に本殿の近くになるのだった。

 大公宮の敷地内には、要所要所に見張りが立っているが、イリヤの顔を知らないような者はない。いたらそれこそ曲者である。

 イリヤは大公軍団の軍団長だ。普通なら、大公宮の敷地の外に家を持ち、そこから通うのが普通だ。だが、彼は独り身なこともあり、多忙すぎることもあって、市内の家と大公宮を往復する不便を嫌って宿舎に住み続けていたのだ。

 それでも彼は軍団長なので、宿舎と言ってもシーヴなどの一般隊員が住む建物ではなかった。

 そこはまず、本殿に一番近かった。そして、住人は歳の行った大公宮の馬丁だの馬車の御者、それに侍従などで一家を持たぬまま中年を迎えた者ばかりで、大公宮へ奉公して長く、忠義心の厚い人物ばかりが住んでいるのだという。

 そんな住人ばかりだから、皆、仕事が終われば一杯飲みに行くか、すぐに寝てしまうか、どちらかなのだという。

 だから、二人がイリヤの部屋に入るまでに出会ったのは、途中にいた見張りの隊員と、イリヤの宿舎の管理人だけだ。管理人の方はアキノとイリヤの両方から事情を聞かされているから、黙したまま二人を通した。

 この宿舎は古い石造りの二階建てで、イリヤの部屋は二階の隅っこにある。それも、一番広い部屋で寝室と居間と、小さな台所兼食堂で構成されており、廊下に面したタイル張りの洗濯場と浴室もあった。市民の家には必ずこんな洗濯場がある。一軒家なら中庭の屋根の下にあり、洗濯場には大きな石造りの水槽か、大きな水瓶があって、常に水を汲み入れておくのが普通だ。イリヤの場合には管理人が毎日、汲み入れてくれるらしい。

 最初にここへ連れてこられた時、お姫様育ちのカイエンにはすべての感じが物珍しく、イリヤを放り出して見て回ったものだ。

「それでえ? 奇譚画報さんは、殿下の方の醜聞はもう、書かないのかしらぁ」

 ここまで来る道々、カイエンはイリヤに、小声で「黎明新聞アウロラ」で聞き込んできたことを話したので、イリヤは部屋に入り、居間のランプに火を入れるとすぐにそんなことを聞いてきた。

 部屋の暖炉にはまだ火が入っていなかったので、まだ部屋の中は寒かった。

 カイエンはイリヤのマントにくるまったまま、居間のかなりくたびれた長椅子に腰を下ろし、今度は暖炉へ火を入れているイリヤの背中へ向かって答えた。

「陛下の件が書けないから、代わりに私の方を、ってことはあり得るな。まあ、別にそれはいい」

 イリヤが茶化した言葉の意味はカイエンにも分かっていた。だが、自分の方はどうでもよかった。もう一回、エルネストとの不仲を書かれているし、ヴァイロンのことも知れ渡っている。一人増えたからと言って市民たちは「またかー」と思うだけだろう。彼女の場合は、オドザヤと違ってもう既婚者であるし、不義の子供なんかが生まれる心配もない。相手の男も外国人どころか、彼女の配下だ。離宮のようなところで何人もの男たちを呼び込んで、なにやら秘密の会合をしているわけでもない。

 カイエンとしては、奇譚画報あたりに自分のことの方を記事にしてほしいくらいだった。そうすれば、市民たちの井戸端会議や四方山話の種として、しばらくは注目を皇宮やオドザヤから遠ざけられるはずだ。

「えぇー。そんなことになったら、俺の似顔絵の売れ行きが悪くなるじゃん。それ困るんだよねぇー」

 イリヤは暖炉に火を起こすと、そこに薬缶を吊り下げた。酒ならすぐに出せるが、カイエンは暖かい飲み物の方を望むだろう。

「え。お前まさか、似顔絵屋から金をもらっているのか?」

 カイエンが驚いた顔をすると、イリヤは当然でしょ、と言った。

「肖像使用料ですよん。ああ、これ俺が悪がしこいんじゃないですよぉ。似顔絵屋に並んでる、俳優や女優、それに高級娼婦のお姉さんたちだって、みんなもらってるんですからぁ」

 そう言いながら、イリヤは暖炉の前に置かれた木製の肘掛け椅子に座って、煙草に火をつけた。一応は、煙草を嗜まないカイエンに気を遣っているのか、それとも、もう少し真面目な話をしたいかのどちらかだろう。

 この居間は壁も石に漆喰を塗っただけで、天井も太い木の梁がそのまま見えている。木の床には絨毯ではなく、分厚い幾何学模様の織り込まれた毛織物が敷かれていた。新品の頃は派手だったのだろうが、きっともう買ってきた時から中古品だったのだろう。その色はかなりこなれた色になっていた。

 暖炉も頑丈そうな石造り。暖炉の上などには、普通、家族の肖像画なんかが飾られたり、何か小物でも置かれているものだが、ここにはそんなものはない。

 まさしく、長年、仕事の疲れを癒すだけの部屋として利用されてきたことが、この居間に入っただけで分かるようだった。

 カイエンは最初にきた時、台所と食堂の方も覗いてみたが、そっちもほとんど使われた形跡はなかった。何本かの安物の蒸留酒ロンの瓶や、珈琲の入った缶が置かれていただけだ。イリヤは食事は大公宮の食堂で済ませるか、昼は外ですませるのだろうから、本当は台所も食堂もいらない部屋だと言ってもよかった。

 そして、カイエンの座っている長椅子と、イリヤの座っている椅子は、まったく別の意匠と材質だった。真ん中にあるテーブルも椅子とは明らかに木の色が違う。それらは個々に買われてきて、この部屋に放り込まれたことを如実に語っていた。イリヤには家具の意匠へのこだわりなどないのだ。

 だが、カイエンの座っている長椅子も、イリヤの肘掛け椅子も座り心地は悪くなかった。彼のこだわりはそっちの方面にあるのだろう。

「それにしてもねえ。離宮で秘密の会合ですかぁ。殿下とはまた違った方向に、ぶっ飛んじゃう妹さんだったんですねぇ」

 イリヤはもう、オドザヤのオルキデア離宮での会合を、いかがわしげな催しの場と決めつけてしまっていた。心中ではカイエンもまた同じだったから、彼女も異論は挟まなかった。

「そうだな」

 それから、イリヤが煙草を吸い終わり、暖炉の炎の上の薬缶から湯気が上がり始めるまで、二人は黙り込んでいた。イリヤが台所に入って行って珈琲の缶を持って戻り、暖炉の上で金属製の無骨な珈琲ポットで淹れた珈琲のカップをカイエンの前に差し出してくると、その香りに誘われたように、カイエンのお腹がきゅうっと鳴った。

「あー、そう言えば俺も夕飯はまだだったわ。その音じゃ、殿下もですねえ。……大丈夫、そんなのは俺様には予想済みですからねー」

 言いながら、イリヤは前にカイエンが覗いた時には空っぽだった台所へ入っていく。

「こういう時、殿下みたいなお姫様と仲良くなっちゃうと、男は不便ですよねえ。子鳥みたいにお腹すかせて口開けてるのを寝室へ連れ込むわけにもいかないしー」

 居間へ戻ってきたイリヤの手には大ぶりな皿があって、魔法でも使ったように、こんがり焼けたパンの間にハムやベーコン、それにチーズや目玉焼きが挟まったものが乗っかっていた。

「え? これ、お前が作ったのか」

 カイエンはこの部屋に来るのは何度目かだが、今まではここで食事をしたことはなかったのだ。

「えーえ。ここの台所の天火なんか、ほとんど使ったことなかったんですけど、これからはこんなこともあろうかと、管理人さんに掃除しておいてもらったんですよぉ。まー、天火なら中に突っ込んで適当に火を入れれば、すぐにこれくらいのもんは出来ますよねぇ」

 今度は長椅子のカイエンの隣に座ってきたイリヤは、欠食児童のように熱いサンドイッチに食いつくカイエンを、なんだか曖昧な顔つきで見ていた。ちっとも妙齢の女性らしい色気などないのは、とうの昔に知っている。

 自分の方は、同じ皿の上から、チーズやハムなどだけをつまみ上げ、いつの間にか用意していた陶器のカップに入った蒸留酒ロンと一緒に流し込んでいる。

「さっきの話ですけど。ぶっ飛んだ妹さん、もしかしたらただ色事に目覚めて暴走しちゃってるだけじゃあ、ないのかもしれないですよ」

 やがて、口を開いたイリヤの口調が変わっていたので、カイエンははっとして彼の方を見た。

「それじゃ、なんか理由があるってのか?」

 カイエンはサンドイッチの最後のかけらを口に放り込むと、珈琲で口の中をきれいにしてから答えた。

「親衛隊を警備に戻したって言ってたでしょ。ご存知の通り、親衛隊の隊長はモンドラゴンです。あいつは、女帝反対派の一員だったでしょ。それに、皇宮前広場プラサ・マジョールの件じゃ、妹ちゃんに叱責されて失脚寸前だったはず。それが妹ちゃんの身辺警護に嬉々として戻ったなんて、うっそくさいじゃないですかぁー」

 そのイリヤの言葉を聞いて、カイエンの頭に浮かんできたのは、黄金の蘭の花のように変わった、オドザヤの艶やかな変貌だった。あれが、トリスタンとの一夜だけで起こりうるものなのか、とは彼女も疑っていたのだ。

「まー、俺にはあっちこっちから裏情報が入りますからねー。知ってるんですけど、ウリセス・モンドラゴンって、婿養子なんですよ。モンドラゴン子爵家の。でね、実家は準男爵家。やっとこさ貴族と呼ばれているってだけの貧乏貴族だったんですって」

 それは、カイエンには初耳のことだった。

「だからモンドラゴンはやっとの事で親衛隊に入隊した頃は、ただのヒラだったんです。でも、あれでしょ。あいつ、よく見れば美男子のうちに入るじゃないですか。それを見初めたのが先代モンドラゴン子爵の一人娘、ってわけで」

 カイエンはモンドラゴンの容姿を思い出していた。整った容姿に白っぽい金髪に青緑の目。そういう目で見て見れば、若い娘が惚れ込んでもおかしくはない。

「でもねー、婿入りして子爵様になって、親衛隊の隊長に任命されてしばらく経つけど、まだ子供はいないんですって。ね、こいつ、隙があるでしょ?」

 カイエンには、やっとイリヤの言いたいことが見えてきた。

「妹ちゃんは、多分、女帝反対派の連中を分裂させる気なんじゃないかなあ、なあんて、俺は勘ぐるんだなぁ。でもこれ、それほど突拍子もない考えじゃないでしょ。殿下以上に、妹ちゃんはあいつらを疎ましく思っていたに違いないし。……舞踏会から戻って大公宮へきた時には、大丈夫かなこの娘、って感じだったけど、皇宮へ戻った時にはシャキッとしてて、親衛隊を引き連れて女官長さんの言うことは聞かなかったってんでしょ? なんか、帰りがけにうちの皇子様エルネストが意味深なお話ししたそうだし」

 ここでイリヤは言葉を切り、ぐっとカイエンの方へ身を乗り出してきた。

「一夜にして目覚めちゃった妹ちゃんは、自分で自分の地位を守ることにしたんじゃないの? 凄いよねえ。殿下の吹っ切れ方とはまた全然違うわ。自分の『女』を使って敵をどうとかしてやろう、ってんだから、これは間違っても殿下ちゃんには出来ないことだよねえ」

 カイエンは目の前に迫ってきたイリヤの美貌に、オドザヤの美貌を重ね合わせて、その両方の恐ろしさに改めて慄きをおぼえた。

「まーでも、すぐにはブン屋さんたちが動かないってんなら、こっちは様子見でしょ。妹ちゃん陛下のお色気攻撃で敵が一個、分裂するならそれはそれで結構なことだし?」

 でも、それではトリスタンの方はどうなるのだろう。

 カイエンもまた、もう昔の彼女ではなかった。彼女はもう、イリヤの話は呑み込んでしまい、先を考えていたのだ。

 背中にイリヤの腕が回ってきて、腕を取られ、視界が彼の顔で覆われた時、カイエンが唇と舌で感じていたのは、煙草の匂いと、蒸留酒のやや甘みのある強い酒精の辛さだった。

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