投獄
ヴァイロンはその日の朝、ひどく居心地の悪い思いで、そして、居心地の悪い場所で目を覚ました。
そこはもちろん、カイエンの寝室だったのだが、その日、カイエンは朝になってもそこへ戻っては来なかったからだ。
大公の寝室で、その部下の帝都防衛部隊長が一人で就寝する、と言うのは、誠に奇妙なことで、本当ならヴァイロンはカイエンがシイナドラドへ行って留守だった間のようにしたかった。だが、あの時はガラがカイエンに同行していて後宮の部屋が空いていたからで、もちろん今、あの青い部屋は空き部屋ではない。
カイエンがいないなら、カイエンが昨夜、自分の寝室に戻らなかった元凶である、あのイリヤがしばらく刺された傷の養生をしていた、カイエンが子供の頃に使っていた部屋でもいいか、と思いもした。だが。結局、彼はこの大公宮の日常をいたずらに乱さぬ方を選んだ。
世間に知られたら、かなりおかしなことではあるが、たとえイリヤがカイエンの後宮に入っていたとしても、もうこうするしかなかったのではないか。
ヴァイロンはあまりこのことで頭を使いたくはなかったので、アキノやサグラチカが知らん顔をしている以上、カイエンがイリヤのところへ行っている日のために部屋を用意してほしい、などと言いたてて、新たなごたごたを起こさないことにしたのだった。
カイエンのイリヤがらみでの留守はこれで数度目だが、ヴァイロンは最初の一、二回は眠れぬ夜を過ごした。
まあ、これは無理もないことだった。
ヴァイロンにとってのカイエンとは、獣人の血を引く彼の中では「生涯唯一の番つがいの相手」である。男女の関係を無視しても、カイエンとは彼の唯一であり、彼は常にそのそばにありたいと思っていた。
それだけではなく、彼にとってはカイエンは彼を支配するべき上司であり、主人である大公殿下だった。だから、カイエンがよほど変な命令をしない限り、彼はカイエンの意を実現するべく努力することを躊躇わないだろう。
昼間は仕事があるからずっと顔を見ないことの方が多いし、シイナドラドへカイエンが行っていた時は留守の何ヶ月もを彼は一人で過ごした。それは彼にとってはまあ、仕方ないこととして処理されてきた。そうでなくては、カイエンが困るだろう、と彼は考えたから。
だが、今回は違う。
カイエンは大公宮の敷地の中にいる。だが、番として彼の腕の中にいるべきカイエンは、他の男の腕の中にいるのだ。他の男と身も心も寄り添い、愛し合っている。それを思えば眠れるものではなかった。
エルネストの時は、ヴァイロンは許しがたい思いで彼を問いただした。
(……俺は多分、カイエンを愛しているんだろう。とにかく、今は間違いなくな……)
だが、このエルネストの言葉を聞き、彼は矛先を収めたのだ。
(あなたが今は、間違いなくカイエン様を愛していること。そして、もう傷つけないと言うのなら、今はそれでいい。はなからあなたを殺せない以上、それ以上は私には望むべくもないことだ)
エルネストがカイエンにしたことは赦せない。それはヴァイロンの中で、今でも変わらない。それでも、ヴァイロンはエルネストがカイエンを愛しているなら、遊びでカイエンの体を弄んだのでないのなら、もう終わってしまった結果のために彼を憎むのは無意味だ、と割り切ったのだ。
だが、その割り切りの根元には、今、カイエンに愛されているのは自分だけだ、だったらそれでいい、という優越感に裏打ちされた思いが、確かにあった。それは身もふたもない言い方をすれば、ヴァイロンは明らかにエルネストよりも、カイエンの中で上位にいる、と知っていたからだ。誠に動物的な感覚のなせる技であったかもしれない。
今、カイエンとヴァイロンとの間には、確かにお互いへの愛情がある。だが、それは残念なことに自然に発して、育まれて来たものではない。先帝サウルの命令で一緒になり、それからの生活の中で……それも、ヴァイロンがカイエンへの盲目的な番への愛情で彼女を包み、覆い尽くすことで、カイエンの中からも生じて育ったものだった。
でも今回は違う。
イリヤの方は、数年前にカイエンと初めて会った時から、彼女への恋情を自覚していたが、あえてそれを隠し通して来た。その涙ぐましいほどのイリヤの努力は、ヴァイロンには彼と仕事をするようになってすぐに分かった。
カイエンを見るイリヤの目はいつも皮肉げだった。でも、まだアルウィンたちの桔梗星団派の下部組織、「盾」の頭目だった時から、彼はカイエンの意を出来るだけ汲もうとしていた。そして、イリヤの鉄色の目は、カイエンがそばにいる間は、決して彼女の上から完全に離れることがなかったのだ。だから、イリヤの気持ちはカイエンの周りのかなりの人々にとっては承知済みのことだった。
イリヤはカイエンの部下だった。貴族でもない。カイエンがイリヤのことを有望な部下としか思っていない以上、イリヤの思いは隠されているべきものだったからでもある。
だが今回、あの、イリヤがカイエンをかばって腹を刺されて死にかかった事件をきっかけに、カイエンはイリヤへの恋心を自覚した。それは、彼女が生まれて初めて自分から誰かを好きになったということだった。
そうとなれば、ヴァイロンには二人の間を認めないでいることはできなかった。
実のところ、イリヤとヴァイロンとは、元々は同じだったからだ。
先帝サウルの命令で、カイエンの男妾になる前から。あの、大公宮の裏庭でカイエンを初めて見た時から。ヴァイロンもまた、長い間、カイエンへの気持ちを隠していた。サウルの命令でカイエンが彼のものになると決まった時、ヴァイロンの心の中にあったのは歓喜以外の何ものでもなかったのだ。
だから。
最初の一、二度目まで、ヴァイロンはカイエンの戻らぬ寝台の中で眠れず、悶々とした夜を過ごしたが、イリヤとの共通項に気が付いてからは、今回も割り切ることができた。エルネストの思いを聞いた時と同じように。
違っていたのは、ただ一つ。
カイエンはヴァイロンもイリヤも愛している。信頼し、すべてを任せられる男だと思っているのだ。そして、ヴァイロンもイリヤもカイエンを愛しているということだった。
つまり、エルネストとの場合とは違い、ヴァイロンとイリヤのカイエンを挟んでの上下関係を決める要素は何もないのである。
「……おはよう」
ヴァイロンがひとりぼっちで大公殿下の寝台から起き上がり、身支度を済ませるのを待っていたように、この寝室の本来の主人が戻って来た。日が昇り、あたりはもうほぼ明るくなっていた。
カイエンは女中頭のルーサを従えて寝室へ入ってくる。カイエンは一瞬だけ、眩しそうにヴァイロンの顔を見たが、すぐにその他の多くの色を内包した灰色の印象的な目は彼の上から逸らされた。根がくそ真面目なカイエンには、この「朝帰り」が後ろめたくてしょうがないのだろう。
「おかえりなさいませ」
ヴァイロンがそう言った時には、もうカイエンは寝室の奥の衣装部屋や化粧の間、浴室などのある方へ顔を向けようとしていた。真面目な彼女としては、この時しれっとしてヴァイロンの腕を取ることなどは出来なかったのだ。
「……うん」
カイエンの声音には、明らかにヴァイロンへ向けた甘みがあったが、彼女はそういう自分に従ったりはしなかった。それじゃ、あんまりはしたない、とカイエンの背中が言っていた。
イリヤは身だしなみには気を使う男だ。
それは彼自身の身なりにも、もちろん現れていた。顔や姿のことがなくとも、彼は「伊達男的」なところがあるのである。いつぞや教授が指摘したように、あのすっ頓狂な喋り方と、厄介な性格をしているくせに、字の書き方、爪の切り方まで几帳面な男なのだ。
だから、もうヴァイロンへ背中を向け、杖を突きながら歩いていくカイエンの長い髪は、イリヤによって器用に小ぎれいに後ろでまとめられていたし、制服も皺一つなくきちんと着せられていた。恐らくは体もきれいにされているはずだ。
それでも毎回、カイエンはイリヤの部屋から自分の部屋へ一回、戻ってくる。それは、カイエンが決めたことか、イリヤがそう勧めたのかは知らないが、ヴァイロンは前者であり、後者でもあるのだろう、と思っていた。
イリヤの方は女中頭のルーサかサグラチカにカイエンを委ねたら、さっさと自分の職務へ向かって行くのだろう。
(ちゃんと、送り届けましたからねぇー)
ヴァイロンはイリヤのそんな声が聞こえるような気がした。あの食えない男が恋の好敵手では、カッカする方が馬鹿らしくなる。ヴァイロンにとっては、それだけが救いだった。
その日。
大公軍団の朝礼はイリヤに任せて、湯浴みをし、新しいシャツや下着の上から制服を着直し、薄化粧して髪も結い直してもらったカイエンが表の執務室に着くなり、そこで待っていたシーヴは朝の挨拶もそこそこに、カイエンにサヴォナローラの封蝋のある書状をカイエンに手渡して来た。
「皇宮から緊急のお使いで、すぐに皇宮へ上がるように、とのことです」
緊急。
カイエンはすぐに、それはスキュラからのものだろう、と思った。もう三月になるのだから、北国でも雪は溶け始めているだろう。そうなれば、ハウヤ帝国とスキュラとの間で睨み合っていた両軍が動き始めるだろうことは分かっていたからだ。
サヴォナローラからの書状を開くと、そこにはもちろん、螺旋文字の手紙があった。もっとも、その文面は短い。
だが、それを見た途端に、カイエンの顔に緊張が走った。
「スキュラですね」
シーヴがそう言って来たのは、本来ならば彼の職分を超えた発言だったが、カイエンはそんなものを咎める主人ではなかったし、この時はそんな余裕もなかった。
「……えらいことだ。すぐに皇宮へ参る!」
カイエンは皇宮へと向かう馬車の中でも落ち着かなかった。スキュラから来た事態の変化を知らせる使いだけだったら、こうはならなかっただろう。
皇宮から来たサヴォナローラの書簡には、もう一件、彼女にも決して他人事でない重大なことが書かれていたのだ。
荒々しいと言ってもいいほどの勢いで、がたがたと杖の石突を鳴らしながら、カイエンが皇帝のオドザヤの執務室へ入ると、そこにはもう、皇帝のオドザヤとサヴォナローラ、それに大将軍のエミリオ・ザラの姿があった。
カイエンにはもうオドザヤが出て来ていることは、部屋の前にたどり着いた段階で分かっていた。そこには、親衛隊の臙脂色の制服が幾人も立っていたからだ。
なんと、その中には隊長のウリセス・モンドラゴン子爵の姿もあった。
カイエンは昨夜、イリヤから聞かされた、モンドラゴンの話を思い出さずにはいられなかった。実家はぎりぎりで貴族の準男爵家で、元はヒラの親衛隊員だった彼が、モンドラゴン子爵家の一粒種の娘に一目惚れされ、婿養子に入ったものの、未だ子供はなく、云々、という話だ。
そう思って見れば、モンドラゴンの見かけは好男子だった。ちょっとザイオン人のような薄い白っぽい金髪も、青緑の目も、よく見ればあのトリスタン王子と共通した感じがあるようにも思える。秀でた白い額、そこから伸びた鼻梁は細く、顔全体としては冷たい印象だ。トリスタンの方は踊り子に化けるだけあって、外面だけの愛想も良く、表情がかなりくるくると変わる時があるが、このモンドラゴンの方はそれは無理だろう。
だが、あのトリスタンに身を許したオドザヤが、次に手を付ける相手としては、このなんとはなしにトリスタンと似たところのある、ウリセス・モンドラゴンは確かに適役だとはいえた。
この時、モンドラゴンはカイエンへはただ、無表情のまま、彼女と彼の身分差に照らし合わせて正しい所作で挨拶し、カイエンを中へ通した。まあ確かに、彼にとってはカイエンはただ、「礼を失さずにおればとりあえず問題はない」相手だったのだから。
「遅くなりました」
カイエンがそう言って、オドザヤの執務机の真正面に、あらかじめ空けられていた肘掛椅子に座ると、すぐにオドザヤの横に控えていたサヴォナローラが立ち上がった。カイエンの横にはザラ大将軍が、今日もなんとなくとぼけた顔で座っている。他に人気はない。
「お待ちしておりましたわ、お姉様」
カイエンと執務机を挟んで座ったオドザヤは、この頃の彼女の常で、女でそれも姉妹のカイエンへもなんだか色っぽい声音でそう言った。オドザヤは以前は色などは華やかでも、保守的で固い意匠のドレスを好んでいたが、短い間に、それもすっかり変わってしまった。
今日の彼女は胸元の開いた、薄い薔薇色の絹が幾重にも折り重なったような、春を先取りしたようなドレス姿。同じように華やかだった、母のアイーシャと違うのは、装身具の類がほとんど見えないことだ。アイーシャは両手にいくつもの指輪を光らせ、耳飾りも大振りなもので、首飾りのないことなどあり得なかったものだが。
オドザヤの場合には、蕩けるような美貌、そしてミルク色の艶やかな肌を隠すような装飾はいらない、そう彼女の肉体が言っているようだった。
「陛下。始めてもよろしいですか」
サヴォナローラがそう聞くと、オドザヤはふんわりとうなずいた。
「ええ。よろしくてよ。……とうとう、始まりましたわねえ」
「大公殿下、先ほどの私の書状にありましたように、ほぼ同時にスキュラと……それから」
カイエンはサヴォナローラの話を先取りした。そっちは彼女個人に大いに関係があることだったからだ。
「シイナドラドからだな。ホヤ・デ・セレンがとうとう封鎖された、そうだな? そして封鎖と同時にシイナドラド皇王バウティスタから、星教皇のことで発表が……とあったな。」
カイエンへの書状には、「シイナドラド皇王バウティスタが星教皇について声明を発した」とだけ書かれていた。だから、カイエンは星教皇についての声明で、何が公開されたのかはまだ知らなかった。
「はい。ホヤ・デ・セレンの封鎖に関しては、エルネスト皇子殿下のお話で、時間の問題だろうと予想しておりました。ですが、星教皇の件で、かの国がこういう声明をわざわざ発するとは、皇子殿下もおっしゃらなかった。そうでしたね?」
カイエンはうなずいた。
そして、はっと気がついた。
サヴォナローラもまた、このハウヤ帝国に直接関係のある、スキュラからの使者の話よりも、こっちの話題の方が優先事項だと判断しているようだ、と言うことに。
何やら嫌な予感が、カイエンの心臓をぎゅっとつかんだが、カイエンは努めてサヴォナローラの質問への答えの方を考えようとした。
あの時、カイエンやその直接の部下たち、それにサヴォナローラ、ザラ大将軍を集めて行った、エルネストへの非公式査問会のような場で、エルネストは星教皇のことについては何も言わなかった。だが、わざと言わなかったとは思えなかった。あの場で、エルネストはかなり洗いざらい喋っている。そのことだけ黙っている理由がなかった。
現に、ホヤ・デ・セレンの封鎖と一緒に、この星教皇についてのシイナドラド皇王バウティスタの声明は発せられているのだ。
「……エルネストも知らされていなかった、ということとなると、今度のことはあいつがシナドラドを出てから、連中が決めたことなのだろうか?」
カイエンはちょっとじりじりした思いだった。
現星教皇は、スセソール二世。それはまさにカイエンのことなのだから。
「シイナドラド皇王バウティスタは星教皇について、どんな声明を出したんだ?」
オドザヤは自分が話す気は無いらしく、美しく彩られた長い爪を窓から差し込む朝の光に照らすようにして見ている。その様子は、まるで政治的な場にいる皇帝らしくはなかった。
「では、申し上げます。……シイナドラド皇王バウティスタは、封鎖前に王都の周囲を囲む反乱軍にこれを発表し、同時に国境近くに潜ませていた影使いと思われる伝令部隊に、周辺各国へ同じ内容の書簡を運ばせたそうです」
「だから、このハウヤ帝国にも、シイナドラドからの密使が来たということだな」
カイエンがそう聞くと、サヴォナローラはうなずいた。
「大公殿下がご存知なかったということは、エルネスト皇子殿下個人への使いはなかったようですね」
カイエンは何も聞いていないから、ただ、顎を引いて肯定の意を表すにとどめた。エルネストのところへ使いが来たとしても、それは外交官のガルダメス伯爵を経由してのことだろう。それならば、恐らく、この皇宮への使いよりも早いことはない。
「それで? 焦らすんじゃない。内容は」
当事者のカイエンが急かすと、サヴォナローラはすっと頭を下げて一歩下がった。
「では、我がアストロナータ神教の神官として、星教皇スセソール二世猊下へ申し上げます」
サヴォナローラがこう言うと、さすがにオドザヤもはっとした顔になった。彼女にもわかったのだ。サヴォナローラはこのハウヤ帝国の宰相だが、その前にアストロナータ神の神官なのだ、と言うことが。
「シイナドラド皇王バウティスタは、こう声明を出したそうです。……螺旋帝国の援助による反乱軍の王都ホヤ・デ・セレン封鎖後も、パナメリゴ大陸全土のアストロナータ神の信徒たちよ、恐れることはない、星教皇スセソール二世猊下はハウヤ帝国にいまし、その俗名は……」
カイエンは冷たいものが、刃物のような際どさで背中を這い上ってくるのを感じた。
この声明には、はっきりと反乱軍の後ろ盾が螺旋帝国であることが示されている。そして、その上にシイナドラドの皇王族が就任するはずの星教皇が、ハウヤ帝国にいる、と明示しているのだ。
「現星教皇、スセソール二世とは、ハウヤ帝国大公、カイエン・グロリア・エストレヤ・デ・ハーマポスタール殿下である、と、声明で発表なさったそうにございます」
しばらくの間、オドザヤの執務室の中で声を発するものはなかった。
それほど、このシイナドラド皇王バウティスタの声明は、意外であり、そして異常なものだったからだ。
なるほど、とカイエンは思っていた。このことをエルネストが知らされぬまま、故国を出てこのハウヤ帝国へ婿入りして来たのも、なんとなく納得できる。それほどのことだった。
「……あの、お姉様。シイナドラドの星教皇は代々、皇王一族の中から、それも始祖アストロナータ神と同じ外見的な特徴をお持ちの方から選ばれており、その俗世でのご本名は明かされない、つまり、星教皇としてのお名前は公開されても、どなたが星教皇なのかは明かされない、そうでしたわ、ね?」
沈黙を破ったのは、オドザヤの声だった。カイエンは黙ったまま、思った。
その通りだ。そして、シイナドラド皇王家に星教皇になれる血族が出ないまま、二十数年が過ぎ、遂に三百年前に別れたハウヤ帝国の皇帝の血族の中で、アストロナータ神と同じ姿で現れたカイエンにその座が、無理矢理に押し付けられたのだ。
そのためにカイエンは、シイナドラドの皇太子の結婚式に参列するため、とかこつけてシイナドラドへおびき出され、入国とともに誘拐、監禁されてホヤ・デ・セレンまで連行されて行ったのだ。
「どうして。どうして、星教皇の正体を世界中に知らせるようなことを……」
カイエンが、絞り出すような声でそう言うと、サヴォナローラは落ちついた声で言った。
「ええ、そうですね。でも、それを全世界に知らせなければ、ホヤ・デ・セレンの封鎖はできなかった。黙っていれば、パナメリゴ大陸すべてのアストロナータ神教の信徒たちが動揺するだろうからです。エルネスト皇子殿下のお話では、もう皇子殿下でさえ、父君兄君とはもう一生、お会いになれないだろうとのことでした。それほど完全な封鎖のなかに、星教皇猊下がいるのと居ないのとでは、パナメリゴ大陸全土に広がった、アストロナータ教団の今後の動き方が変わってまいります」
「なるほどなあ。星教皇猊下はハウヤ帝国にあり、と知れれば、螺旋大国もザイオンもこのハウヤ帝国への手出しがしにくくなる。かの国にも、アストロナータ神教は浸透しておりますからな。……これは、シイナドラド皇王バウティスタという方は、三百年前にサルヴァドール皇子のハウヤ帝国建国によって別れた、ハウヤ帝国に未来を託されたのでしょうかな。だから、螺旋帝国からの侵攻には王都封鎖で応じ、エルネスト皇子殿下にはハウヤ帝国に援軍を出させるな、と命じられた。そうとしか思えませんです」
ザラ大将軍がこう言えば、サヴォナローラもこう付け足した。
「螺旋帝国寄りの現・桔梗星団派であるアルウィン様には、シイナドラド皇王宮の
なんてこった。
カイエンは、ザラ大将軍とサヴォナローラの言葉を聞きながら、シイナドラドで無理矢理に星教皇に即位させられた時と同じ種類の怒りを感じていた。
では、わざわざ遠いシイナドラドくんだりまで行かされて、アルウィンに感化されたエルネストに捕まって、散々に犯し尽くされ、身動きもままならぬ虜囚として扱われた挙句、星教皇に無理矢理即位させられ、流産の苦しみまで味わわされたのはすべて、あの薄らぼんやりして見えた、シイナドラド皇王バウティスタの遠謀のせいだったというのか。
「じゃあ、今やアストロナータ神教の総本山は、このハウヤ帝国、それもハーマポスタールになったってことだな」
そう、言葉を口にした時には、もうカイエンは落ち着いていた。
その顔は、厳格で厳しく、皮肉に満ちた嘲笑を感じさせる尊大さを見せ、先帝サウルを思い起こさせた。エミリオ・ザラとサヴォナローラは同じことを連想したか確かめるように、お互いの顔を見合わせた。
そしてオドザヤは、この短期間に身に付けた尊大で
「ああ。それも突き詰めれば、大公宮が総本山かな。あんな、表には庶民の有象無象がひしめく場所がねえ。まあ、これがどう転ぶかはしばらく様子見だな。……サヴォナローラ、じゃあ、スキュラの方のことを聞こうか」
カイエンはそう言いながら、なんだか馬鹿らしくなって、イリヤがよくしているように「あはは」と自嘲気味に笑い声をたてた。だが、イリヤとは違って彼女のそれは滑稽さは微塵もなく、自分がこの場で一番身分が高いものであるとでも言っているように見えた。だが、本来はこの場を仕切るべき最高位の皇帝であるオドザヤも、その他の二名も、彼女をとがめようという気持ちさえ起きなかった。
「……承知致しました。スキュラの方は、雪解けの季節となり、やっと泥炭加工業者の村に匿われているアルタマキア皇女殿下と、フランコ公爵家の影使いが接触できたそうです。スキュラでは、雪で町々の往来が難しかったこともあり、首都のドネゴリアにもアルタマキア皇女の居場所は知られていないようだ、とのことです。別の方向からの情報では、ザイオン国軍はスキュラ方面ではなく、シイナドラドとの国境線に軍を動かしたい様子だとも聞こえてきています。例のザイオン、スキュラ間の大森林地帯を通す、泥炭販路の件が頓挫したので、ザイオンはスキュラの方は一旦、手を引く事にしたようです」
カイエンは肘掛け椅子にふんぞり返った。ヴァイロンと一夜を共にした後ほどではないが、昨夜はイリヤとあれこれしていたので、やや睡眠時間が不足していたし、疲れてもいた。
「では、こちらから軍をスキュラへ侵攻させるのか?」
カイエンはずばりと聞いた。ザイオンがスキュラの助太刀に出てこないという以上、アルタマキア皇女を国境で拉致し、不当に扱ったスキュラへハウヤ帝国側から侵攻しても、正義はハウヤ帝国の方にあるとしか言えないはずだ。
「はい。これに関しては、私もここのザラ大将軍も、それが良策と思います。……宰相府の方で、国立大学院のイスキエルド教授などにも図りましたが、それでよし、細かいことは現場のフランコ公爵とサウリオアルマのコルテス将軍に臨機応変に対応していただく、ということでいいのではないかと」
ここまで聞いて、カイエンはふっと頭に浮かんできたことがあった。
「そうだな。それでいいだろう。……ところで、スキュラへアルタマキア皇女救出の名目で軍を進ませることとなり、ザイオンからの援軍がないとなれば、スキュラは比較的簡単に我が国へ落ちる、ということになるな?」
カイエンがこう言うと、話の先を読んだらしい、ザラ大将軍がこれに答えた。
「そうですな。まあ、このことには皇女救出という名目がありますから、例の戦乱の時代の火蓋を切る的な、極端な動きとはみなされないでしょう。先ほどのシイナドラドでのお話を聞けば、混乱の世は螺旋帝国が始めた、という事になってもおかしくないくらいですからな。ホヤ・デ・セレンの封鎖のことは、螺旋帝国の奴らには計算外のことでしょうから。星教皇の行方の声明も同じ。彼らのシイナドラドのザイオン系民族の反乱軍への援助も、この声明で知れ渡ったでしょう。と、なれば、我が軍の動きはアルタマキア皇女の居どころを掴んでのちの進軍ですしな。ただ、報復のために侵攻するのとはわけが違います。まあ、フランコ公爵もコルテス将軍も、敵味方の被害は最小にするべく努力することも間違いありません」
カイエンはこのザラ大将軍の言葉に満足した。
「では、アルタマキア皇女救出の先を考えてもよろしいのでは」
カイエンがそう言うと、すぐにサヴォナローラが応じた。彼は作ったばかりの宰相府諮問機関との間でもう、その先のことも話に入れていたのだろう。
「これは、今日、ここで皇帝陛下の御裁可を頂こうと思っておりました。……アルタマキア皇女殿下の救出、スキュラ平定後は、スキュラはフランコ公爵領に併合されるものとし、サウリオアルマをしばらく北方へ駐屯させること、その経費の半分を新しく領地を広げられたフランコ公爵にご負担いただく、ということではどうか、というものですが」
オドザヤは初めはきょとんとした顔だったが、彼女も目覚めたのは色気方面だけではなかったので、すぐに表情を引き締めた。
「なるほど。宰相、それは名案ね。ザイオンもこれっきりで黙ってはいないでしょうし、サウリオアルマはこのハウヤ帝国の北寄りにいてくれた方がいいわ。でも、それにかかる経費が問題になっていた。もう、この冬を国境沿いで越させるだけでも出費が多かったと聞いているわ。フランコ公爵の方は、ことが隣接したスキュラのことで、自領にも関係があることだから、自腹で頑張ってくださったけれどもね。領地を増やす代わりにサウリオアルマの駐屯費の半分を、と言うなら、飛びつかない方がおかしいわ」
オドザヤの言う通りだった。
今のフランコ公爵の領地はハウヤ帝国の最北で、作物も少なく、実入りは少ない。泥炭や石炭の産出のほとんどは、国境を超えたスキュラにあるのだ。そこが自領となるなら、フランコ公爵テオドロは喜んでこの案をのむだろう。
「決まりましたね」
ハーマポスタールから北のフランコ公爵領ラ・フランカへ急使が走り、北ではすぐに戦端が開かれることとなった。
「お姉様って方も、よくわからない方ねえ」
表の執務室から、自分の住む区画へ戻ったオドザヤは、最も個人的な居間のソファに身を預けながら呟いた。
生真面目で、融通がきかないお堅い人間かと思えば、夫と公式な愛人以外の第三の男を作ったり、星教皇猊下であったり、先ほどのように、急に政治的な発言をしたり。宰相サヴォナローラが近頃作った宰相府の顧問機関設立の案も、最初に持ってきたのは大公宮からなのだと言っていた。
最近、オドザヤは自分でも前とは変わったものだ、と思っていたが、カイエンはそれも敏感に感じている様子だ。女官長のコンスタンサも、オドザヤよりもカイエンの方に近しい位置にいるようだ。
それに。
オドザヤは明るい午前中の陽の光が差し込む側の壁に目を向けた。
そこには、オドザヤがアイーシャの部屋から持ってきた、アルウィンの肖像画が飾られていた。カイエンにそっくりだから、ほとんどの侍女はそれが前の大公のものだとは気付きもしない。
「さっきのお姉様、怖い顔をなさって。ちょっとお父様に似て見えてびっくりしちゃったわ」
言いながら。
オドザヤは側に控えているイベット……あの仮面舞踏会以降、カルメラに変わってオドザヤの身の回りでの第一の侍女となった女に合図した。今日は、昼間のうちに、もう一仕事しなければならない。これが済まないと、オドザヤは安心して眠ることもできなかったのだから、実行するなら一日でも早い方がいいのだった。
夜は夜で、オルキデア離宮での会合がある。オドザヤは忙しかった。
「陛下。お待たせいたしました」
しばらくして、オドザヤの前に茶菓の準備をしたワゴンを引いてきたのは、もうオドザヤの目をまっすぐに見ることもできないカルメラだった。
カルメラは、横で見張っているイベットの視線に晒されながら、今日のオドザヤのドレスに合わせたような、淡いピンクの花の花弁が幾重も重なったような意匠の紅茶茶碗に熱い茶を注ぎ入れはじめる。
どうしても手が震えるらしく、カルメラは何度か手を止めて気持ちを奮い立たせるようにして、茶を注いだ。
その茶の色。
それは、以前はこの居間でよく見られたが、最近はとんと見ることがなくなった、あの、真っ赤な鮮やかな色だった。以前はロマノグラスの大ぶりな杯に入れられて、オドザヤの前に出されたものであったが。
「あっ」
カルメラは、茶をカップに注ぎ入れ終わってから、その事に気が付いたらしい。
わなわなと震え出したカルメラの前でオドザヤは立ち上がり、カップを、つい先日、彼女の命令で運び込まれたばかりの、美しい色とりどりの小魚の泳ぐ、こんな大きなロマノグラスの加工品は珍しいほどの大きさの水槽へと持っていく。
「えっ?」
カルメラの目の前で、オドザヤはカップの中身を水槽へ注ぎ入れた。
その効果は、瞬く間に訪れた。
水槽の中で、何匹かの小魚が暴れるように動き、ついで、あっという間に腹を上にして水面に浮く。
何匹かは苦しげにジグザグに水槽の中を泳ぎまわり、ガラスの壁面にぶつかって底に沈む。
「あら?」
オドザヤのその声を聞いた時には、カルメラはイベット以下の侍女たちに腕を取られ、頭を取られて身動きが取れなくなっていた。そこへ、扉を音高く開けて入ってきたのは、親衛隊だ。
その先頭には、あのモンドラゴン子爵の顔があった。
「この侍女ですな。……おい、陛下にお出しするお茶に何を入れた? 返事をせんか! おいっ!」
整ってはいるが、もともと冷たい感じの顔のモンドラゴンがそんな声を出すと、それは若い娘にはかなり恐ろしいものだった。カルメラはぱくぱくと、今、水槽の中で苦しんでいる小魚と同じように口を動かしたが、言葉にはならない。
「自殺されると面倒だ。猿轡をかませろ」
あっという間に、カルメラは喋ることも出来なくなり、腕は後ろ手に縛られてしまった。ここまできて、やっと彼女の目に涙が吹き出てきたが、もう、彼女は泣き声をあげることさえ出来なかった。
「皇帝陛下、この者の処遇はどうなさいますか」
わざとらしい演技で聞くモンドラゴンへ、オドザヤは溢れんばかりの微笑みを返した。
「あら。カルメラはこの私に、ずーっとこんな毒を盛っていたのよ。それで、私は皇帝として恥ずかしいことをしてしまったの。お忍びで舞踏会に行くなんてね。ああ、ああ。お姉様にもご迷惑をおかけしたしまったのよ」
モンドラゴンは、オドザヤの言葉を勝手に解釈した。オドザヤもそれをとがめたりはしない。
「この女は、皇帝陛下に毒を盛った女だ。すぐに投獄せよ! 急げ!」
一瞬、オドザヤのとろけるような琥珀色の目と、モンドラゴンの青緑色の目が重なったが、それはすぐに逸らされた。どうせ、夜になればオルキデア離宮で逢えるのだ。
「ん、んんーっ!」
泣きながら必死で暴れるカルメラだったが、親衛隊員たちの強壮な腕に全身を絡め取られては、もうどうにもならなかった。
カルメラが運び去られると、オドザヤはその場に残ったモンドラゴンに聞いた。
「うるさい娘! 自業自得なのに、うるさいわ。……ああ、ウリセス、ジョランダの方はもう?」
ジョランダ。
それは、オドザヤの母、皇太后アイーシャの侍女である、カルメラの伯母のジョランダ・オスナのことだろう。
「ご安心ください、陛下。あの薄汚い裏切り者は、もう捉えて地下牢へ投獄してございます」
「あらそう」
オドザヤは心底安心したように、ソファに身を預けた。
「これで、私に変な薬を飲ませた奴らは捕まえ終わったわね。逃げられると厄介だし、他の証拠も抑えたかったから、泳がせておいたけれど。ジョランダの部屋とか、ジョランダの実家の薬屋さんは?」
モンドラゴンは自信ありげにうなずいた。
「ジョランダ・オスナの部屋からは、もう麻薬を押収しております。皇太后陛下にも使っていたのでは、という容疑もございます。……実家は、あちらは街中のことですから、我ら親衛隊の手で行うのはまずいです。ですから、大公軍団の治安維持部隊へ、倉庫に怪しい毒物を管理している、と投げ文をさせました。大公軍団でも、あの店はもう監視下に置いておりましたから、すぐに手を入れてくれるかと」
オドザヤは満足そうにうなずくと、モンドラゴンへ向かってひらひらと手を振った。
「よかった。お姉様のところなら安心ね。じゃあ、ウリセス、夜にオルキデアで逢いましょう」
今日のオルキデア離宮での会合には、モリーナ侯爵たち女帝反対派の中でも、真面目なだけに始末が悪い者達を招待してあった。向こうは、女帝の乱れた夜を暴こう、という気持ちで来るのかもしれないが、あそこから女帝反対論を維持したまま出て行った者など居はしない。
モンドラゴンが出て行くと、オドザヤはソファに持たれたまま、急に気になった、とでもいうように小魚の水槽の方を見た。
「ねえ、イベット。このお魚、死んじゃったの?」
カイエンあたりがこのオドザヤの様子を見ていたら、今更何言ってんだ馬鹿野郎、とでも怒鳴ったかもしれない。
でも、オドザヤは正直にそう思い、そうだったら哀れなことだ、と思ったに過ぎなかった。
「いいえ。魚たちは水温が一気に上がったので、驚いたんですわ。加減によりますが、赤い色が出るだけで、死に絶えるほどの量は入れていないはずでございます。浮いてしまっているのも、いっ時、気絶しているだけでしょう」
イベットも心得たもので、自分の言葉を証明するように、一匹の浮いた魚をつついてみる。すると、小魚ははっとしたように泳ぎ始めた。
「そう。それなら、ね。仕方がないわ。れっきとした証拠なしでは、まさか、ね」
皇帝への毒殺未遂容疑で、皇太后シーシャの侍女、ジョランダ・オスナと、その姪にあたるカルメラの逮捕、投獄が公表されたのは、それからすぐのことだった。
同時に、大公軍団治安維持部隊は、ジョランダの実家の薬物商を捜索し、麻薬や毒物を押収。
この事件は、ほとんどすべての読売りが、躊躇なく扱ったので、あっという間にハーマポスタール全域に知らされた。
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