星教皇カイエン


 ……パナメリゴ大陸全土のアストロナータ神教の神官、信徒たちよ。

 アストロナータ神が建国なさった、このパナメリゴ大陸最古の国シイナドラドは今、滅亡の危機にある。

 螺旋帝国を後ろ盾とする反政府軍に取り囲まれ、我ら、シイナドラド皇王家は、とうとう、我らが王都、ホヤ・デ・セレンを封鎖することと相成った。

 螺旋帝国に操られた、哀れなる反政府軍に、シイナドラド数千年の歴史を踏み荒らされるわけにはいかない。

 だが、恐れることはない。

 星教皇猊下の俗名は明かさぬことが今までの掟であったが、我らは今、あえてそれを破ることとする。

 それは、猊下が現在、外国とつくににおわし、たとえもしシイナドラドが滅ぼうとも、アストロナータ神の栄光は失われることなく続くからである。

 我らが星教皇、始祖アストロナータ神の依り代、その現し身であられる星教皇猊下は、我らが友邦、ハウヤ帝国にあり!

 その御名は、カイエン・グロリア・エストレヤ・デ・ハーマポスタール。ハウヤ帝国の大公殿下こそ、当代の星教皇であらせられる。

 御名に栄光グロリアエストレヤを宿すこの方こそ、この我ら最大の危機を救ってくださる、アストロナータ神の後継者スセソール二世猊下である。

 パナメリゴ大陸全土のアストロナータ神教の神官、信徒たちよ。

 今より、あなた方の主人あるじはこの方である。

 エストレヤの教えが途絶える日など来ない。アストロナータ神教の未来に栄光グロリアあれ! 








 シイナドラドからの声明は、まずは各国の支配者へ使者を差しむける形で伝えられた。カイエンたちが知ったのはここからである。

 それとやや遅れて、各国のアストロナータ神殿の大神官へ向けても、別の使者によって同じ内容が伝えられた。

 そのため、ハウヤ帝国に星教皇あり、という事実を出来ればしばらくの間でも隠蔽しておきたかった国々でも、このことはあっという間に人々の間に広められた。アストロナータ神殿では、どこでも躊躇なくこの事実を信徒に公表したからである。

 中には、ザイオンやベアトリアなどのように、王家が神殿に圧力をかけた国もあったようだが、それでも時間の問題で、話は国境を超えて人々の口から口へ伝えられた。


「はあ、これはまた、どえらいことになりましたなあ」

「まあ、歴代のこのハウヤ帝国の皇帝陛下のお姿は皆、アストロナータ神殿の神像のよう、と言われていましたがなあ」

「確かに。このハウヤ帝国の始祖、サルヴァドール皇帝は、シイナドラドの皇子。そう思えば、納得できますねえ」

「では、一年と少し前に、大公殿下がシイナドラドの皇太子の結婚式に参列のため、あちらへ赴かれたのは、このこともあってのことだったのでしょうね」

「しかし、なんでわざわざ、ハウヤ帝国の大公殿下を星教皇に据えたのか?」

「まあ、こうなってみれば、あの大公殿下、アストロナータ神殿の神像に確かにそっくりであられますがね」

「……『エストレヤの教えが途絶える日など来ない。アストロナータ神教の未来に栄光グロリアあれ!』でしたか、読売りがアストロナータ神殿の大神官から聞き出して書きたてた、あの声明の文ですが。あれは……」

「私は別にアストロナータ神教の熱心な信者じゃないが、大公殿下のお名前との一致には震えが出ましたよ」 

「それそれ。エルネスト皇子を大公殿下の婿に、って話も、最初はなんでオドザヤ皇帝陛下でないのか、と言うものも多かったが……。お名前のことといい、お姿のことといい、まあ、このハウヤ帝国の始祖サルヴァドール皇帝から、綿々と続いて来たシイナドラド所縁のハウヤ帝国皇帝家の血が、大公殿下という方に凝ったとしか言いようがありませんな」

「こうなってみれば、昨今の色々な出来事も納得と言うものです。百年来鎖国していたシイナドラドの鎖国の理由というのが、今回のザイオン系の民族の起こした反政府運動だったというじゃないですか。あっちじゃ、もうとっくに今日ある事を予測していたのかもしれませんからね」

「そうですなあ。ま、なんにしても神秘的なことだ」

「神秘的? それよりももっと、気になることがあるでしょう?」

「ああ、反乱軍がザイオン系の民族だったこととか、螺旋帝国がシイナドラドの反政府グループの後ろ盾だったとかいう方ですか」

「そうそう。革命が成ったばかりだという国情でもう、他国に干渉し始めるとは。彼の国の新皇帝、ヒョウ・カクイとやら、とんでもない野心家だったということです」

「ザイオンのあの、いい歳をして男漁りのやまぬというチューラ女王もね」

「こうなって来ると、スキュラのことなんかも、もう、多少乱暴でも手っ取り早く片付けたほうがいいですな」

「何にしてもまあ、あの時、皇子だというだけであのベアトリア女の産んだフロレンティーノ皇子なんぞを皇帝にしていたら、今頃、とんでもないことになっておりましたぞ」

「今にして思えば、まさに女帝陛下万歳ですね。女帝支持第一だった大公殿下が、星教皇であったとは。あの元老院での大議会で大間違いをしでかさんでよかった、よかった。もとより、宰相はアストロナータ神官。これでアストロナータ神殿の大神官は、大公殿下と陛下の側へ回ることが決まりでしょうな」

「アストロナータ神殿が動けば、オセアニア神殿を始め、神殿勢力は女帝陛下の下に参じましょう」

「他の国のアストロナータ神殿もですぞ。アストロナータ神殿は、外国でも一大勢力を持つのが普通です。我らも、大公殿下を敵に回していたら……」

「くわばらくわばら。まあ、ザイオンはもとより、螺旋帝国のことも、パナメリゴ大陸の西と東の端っこの国のことと、今まで他人事のように思って参りましたが、これからは用心、用心、ですなあ」

「まったく。まったく。……おお、そろそろ我らが黄金の太陽ソラーナのお出ましのようですぞ」


 帝都ハーマポスタールの郊外にある、小さな湖に面して建てられた、瀟洒な離宮「オルキデア離宮」。

 そこは、先帝サウルの時代には、まったく使用されることもなく、二十年ほどが過ぎていた。

 だが、元々が享楽好きで有名だった、先先代のレアンドロ帝の建てたいくつかの離宮の一つであったから、二十年の放置で荒れていたとはいえ、皇帝の親衛隊に金で頰桁を叩くような乱暴さで命じられた突貫工事で手を入れれば、湖に面した広いバルコニーを擁した本殿だけは、十日あまりで往年の姿の取り戻すことができた。

 床は元々大理石造りであったから、壁紙を張り替え、緩んだり軋んだりしていた建具を整え、内部の家具類を入れ替えれば、そこは見違えたように美しく洗練された意匠の離宮に生まれ変わった。

 バルコニーに面した大広間。

 そろそろ春とは言え、まだ夜は冷え込んだので、窓を開け放ってはいなかったし、用心深く絹のカーテンも引かれていた。

 だが。暖炉に火が入れられ、琥珀色や薔薇色のロマノグラスのランプに火が灯されれば、湖面には薄ぼんやりとではあるが、離宮内部の光がテラテラと滲んで見える。

 大広間というだけあって、皇宮の規模にはおよびもつかないものの、そこはかなり広く、広間の真ん中にはシャンデリアが輝き、それを取り囲む壁際には、柱の影や屏風ビヨンボ、天鵞絨ビロードのカーテンをうまく使って、たくさんのソファとテーブルがひしめき合っていた。

 壁紙は暖かみのある鈍い黄金色で、そこにオルキデアの花模様が赤っぽい金色で描かれている。

 だが、家具の方は意外なほどに地味で、シンプルなものだった。よく見れば腕木の彫刻や、張られた布地は最高級のものだったが、木は自然の色味にニスを塗って仕上げたもので、ソファの張り地は茶色に近い、だが光沢のある絹地であった。

 それらの家具がなければ、小さな舞踏会くらいなら催すこともできただろう。だが、今、この広間は舞踏会の場ではなく、主にここの女主人を中心とした「文化的・芸術的な社交場セナクロ」として機能していた。

 実質はオドザヤの即位に反対した貴族どもの取り込みに使われていたのだが、取り込まれた貴族の方は、すっかりここでの集まりは、女皇帝直下の貴族連合の話し合いの場、とでも言ったものとして捉えられていた。

 事実、この離宮での催しは、「太陽の女王の結社セナクロ・ソラーナ」と呼ばれており、今宵も何十人もの貴族らしい男たちが、がやがやとグループに別れて話に花を咲かせながら、若く麗しい女主人公の登場を待ちわびていた。そこには女は一人もいなかった。女の召使いもおらず、男の給仕がすべてを仕切っている。

 その辺りの「不健全さ」をいちいち、言い立てるような無粋なものもいない。

 皇宮では高貴で近寄りがたい女皇帝の蕩けるような裏の顔。それを拝みに来、あわよくばこの国最高の高貴なる花と……ともいうのが、このセナクロ・ソラーナだったからだ。

 男たちは、もう何度かここを訪れたことのある者と、そうでない者とに見事に二つに別れていた。

 前者は、まだこの離宮の主が現れてもいないと言うのに、給仕たちの運んでくる、酒やつまみの皿をまるで自分の家にいるようにリラックスして取り、飲み食いしていた。しかし、後者の方はなんだか居心地悪そうに、もう慣れた様子の連中をちらちらと見ながら黙り込んでいた。

 やがて、給仕たちが広間の奥の分厚いカーテンを左右に引き始めた。

 それを見ると、もう慣れた様子の男たちはおしゃべりをやめ、グラスもテーブルに置いてソファから立ち上がった。

 バルコニーから見て広間の奥には、観音開きの重厚な木の扉がある。

 そこから、今まさに今宵のこの離宮の女王が登場してくるのだ。

「ソラーナ様のお出ましでございます」

 この離宮の差配をしているらしい、中年の執事がうやうやしくそう告げると、扉が左右に開かれた。

 まず、そこから出てきたのは、親衛隊長のウリセス・モンドラゴンの姿だった。彼もさすがにこの催しではいつもの臙脂色の親衛隊の制服姿ではない。彼は黒に近い紺色の夜会用の長い上着と、光沢のある黒いズボンに身を包んでいた。華やかではないが、整ってザイオン人のように色の薄い容姿なので、そういった暗い色は彼を引き立てて見せた。

 ここまではいつものことだったので、集まった貴族の男どもの表情は飲んだ酒に緩んだままだった。

 だが、その後から二人の男女が出てくるのが見えると、集まった貴族の男たちは、ちょっと驚いた顔つきになった。

「おお」 

 もうこの離宮での催しに慣れているものも、ここの女主人が新顔を自ら連れて出てくるのを見るのは初めてだったからだろう。いつもなら、この離宮の主人、ソラーナは優雅に一人で出てくるのだ。

「……これはこれは、とうとうご本命の登場ですな」

「ザイオンの外交官は、もうとっくにこのセナクロ・ソラーナの一員でございますから。遅かったくらいですよ。先ほど、螺旋帝国と並んで脅威となる国と言っていたザイオンですが、あの王子がこちらにいる限りは、簡単には動けませんでしょう」

「奴らもこうなってみると、自らの策に溺れた感じしかしませんなあ」

 オルキデア離宮の女主人、ソラーナ。

 それはもちろん、このハウヤ帝国の皇帝であるオドザヤに相違なかった。

 この夜の彼女は、温かみのある、明るい緑がかった空色から、彼女の色である青藍色《アスール・ウルトラマールに色を変えていく、幾重もの絹地が肩からまっすぐに床へ滝のように流れるような格好のドレス姿。それは、誇らしげに膨らんだ胸の下で、わずかに黄金色の宝石を織り込んだ細いリボンで、幾重にもぐるぐると締め上げられているだけだ。

 そのドレスの形は、通常の貴族の婦人たちの着る、上半身はぴったりとして、細く腰をコルセットで締め上げ、腰から下はやや膨らんだスカートになっているドレスとは、大いに違った意匠だった。

 肩がほとんどむき出しとなり、袖も上腕を露わにするものだったから、夜会用としてもかなり露出の多いドレスであった。高級娼婦たちもそのようななりであったが、彼女たちは豊かな胸と、細い腰を強調するため、コルセットで腰を絞り上げる意匠のドレス姿なのが普通だ。

 だが、今夜のオドザヤのそれは、形だけを見れば、全然、体型を強調していない。

 逆に、胸から下の体型は胸元からまっすぐに床まで達している長い薄い絹地によって、直線的に隠されているのだ。

 それなのに、オドザヤの姿は、高級娼婦たちよりももっと刺激的だった。

 それは、そのドレスに使われている絹地が、心配になる程薄く透き通ったものだったからだ。それによって、彼女のドレスの下の体型は、そのままうっすらと透けて見えているのであった。

 本当に際どいところは見えなかったが、太ももから先の細い両足の形と動きは、布地の上からでもよくわかった。

 肩から続く胸元も、両の乳房の上半分までが見えるような開き方だ。もっとも、夜会服では普通の貴族の婦人たちもこのぐらい胸元を見せる事は許されていた。この時代、肩から胸元の露出よりも避けられたのは足を見せることだった。

 あの、仮面舞踏会の時のカイエンの衣装など、奇抜というよりも破廉恥な方に近かったのだ。もっとも、カイエンのあの時の黒死病医師の衣装は、片足こそ出ていたものの、それは、ノルマ・コントと、トスカ・ガルニカの工夫した装飾的な装具で覆われていた。

 だからこそ、オドザヤの両の生足の透けたドレスは斬新で、奇抜、そしてなんともいかがわしい匂いのするものだった。

 この頃の彼女は、昼でもあまり首飾りや指輪などの装飾品を付けないが、それは今夜も徹底していて、この夜も彼女はこの危なげなドレス以外には、生花を髪に編み込み、胸の下に宝石を散りばめた黄金色のリボンがあるだけだった。

 それでも、オドザヤが扉から現れると、集まった男たちは、部屋の中がぱっと明るくなったような気がした。

 これには周到な舞台背景の工夫があった。この大広間の家具類の意匠が大人しめで、地味でさえあるのは、この女主人を強調するためだったからだ。

 実際、シミひとつない内側から輝くような、真珠のような肌の色。そして、黄金の髪に縁取られた、まさに花盛りの美貌は、豪勢な装飾品など必要なかった。

(大切なのは、わたくし自身を磨くことよ。あの女みたいに、豪奢な飾り物なんかに助けてもらう必要はないわ)

 それは、オドザヤの最近の考え方からすれば、こういうことだった。

 「宝石の君」と呼ばれ、いつも色とりどりの宝石と装身具に覆われていた、オドザヤの母、アイーシャ。やっかみ半分ではあったが、「宝石の君」という呼び名には、「装飾過多で大仰な女」という揶揄も含まれていた。

 オドザヤはそれを昔から、心の底では軽蔑していた。

 あの、ザイオンの外交官官邸での仮面舞踏会マスカラーダの嵐の夜に生まれ変わったオドザヤ。そんなオドザヤはアイーシャの逆をいくことによって、そっくりだった実母から離れ、「自分自身」を獲得しようとしていたのかもしれない。

「今宵は、とても大切なお友達をお連れしましたの」

 広間の真ん中のシャンデリアの真下まで来ると、オドザヤはふわっと微笑んで、腕を取っている相手の男の方を見上げるようにした。

 そこにあったのは、オドザヤの美貌にも負けない、華やかで高慢な顔だった。

「みなさん、もちろん、ご存知ですわね。ザイオンの第三皇子トリスタン殿下。やっと、この集まりに来ていただくことが出来ましたのよ」

 とろけるようなオドザヤの声。

 色は緩やかにカットされ、磨かれた琥珀のようで、蜂蜜のような溶ろけた質感の瞳の先にいたのは、トリスタン。

 彼もまた、その華麗さではオドザヤに負けていなかった。

 初めてカイエンの大公宮へ現れた時や、オドザヤに謁見した時のような華美な礼服姿ではない。仮面舞踏会マスカラーダの時の緑と黒のなりよりも、今夜の彼の衣装は地味だった。それはザイオン風の首元まで高い襟で覆ったシャツに、細かい刺繍のされた上着で、色こそ地味だったが、刺繍の細かさは細部など普通の目には見えないほどの逸品だった。

 青みがかった金色の髪は複雑に編み込まれ、いくつもの房になって胸元や背中を覆っており、そのザイオン風の刺繍で覆われた衣装とあいまって、この場での彼はひどく異国風で高貴、そして上品な感じを人々に与えたのだった。

「この高貴なるお集まりにお招きいただき、ありがたく思っております。皆さま、よろしくお願いします」

 ザイオンの外交官官邸では、このセナクロ・ソラーナへの招待状を手に、父のシリルに愚痴っていたトリスタンだったが、こうして集まりに出てきた彼からは、そんな様子はもちろん、微塵も感じられなかった。

「さあ、皇子殿下、あちらのお席へ参りましょう。今夜はトリスタン様に、私に力を貸してくださると約束してくださった方々をご紹介したいの」

 オドザヤはふっくらした胸元を、トリスタンの腕に擦り付けんばかりに寄り添って、大広間を横切っていく。

 その後ろを、ウリセス・モンドラゴンとこの離宮の執事が静かに追った。


「トリスタン様、何だか随分とお久しぶりな気がしますわ。実際には、ひと月くらいですのに」

 このオルキデア離宮のセナクロ・ソラーナの常連貴族の輪の中を、トリスタンはしばらくの間、オドザヤとモンドラゴンに引き摺り回された。そのあいま合間にも、この集まりの女主人ソラーナことオドザヤは、今宵初めてこの離宮の集まりにやってきた貴族の男たちの顔を認めると、「今日はトリスタンがいるから、お話しする時間が持てないが、次は必ず」と約束しては、不安げな新入りの周りの常連たちに目配せしていく。

 初めのうちこそ、オドザヤとモンドラゴンが自ら直接に、女帝反対グループからの「脱退の説得」、そしてオドザヤ支持派の集まりである、このセナクロ・ソラーナへの「勧誘」をしなければならなかったが、あっという間にそんな必要はなくなっていた。今では、先にこの離宮の客人となった貴族どもが、自らすすんで新しい仲間の発掘も説得もしてくれるのだ。

 シイナドラドから、「当代の星教皇はハーマポスタール大公カイエンである」という声明があってからは、それもどんどん容易になってきていた。

 そんなわけで、オドザヤは一回り挨拶が済むと、トリスタンを大広間から、屏風ビヨンボの影に隠された扉の奥の小部屋に案内した。トリスタンは一切、逆らわずに付いていく。

 これには、それまで彼の職分通りにオドザヤのそばを離れなかったモンドラゴンまでもが、オドザヤに目配せされると、彼女のそばを離れていく。

 小部屋に入ると、オドザヤの様子がすうっと変わった。

「ねえ、トリスタン様。わたくし、手っ取り早くあなたにうかがいたいことがあるの」

 小部屋には長椅子というか、寝椅子のような大きな四人くらいが掛けられそうなソファが待っていて、座れるところはそこしかない。ソファの前には天板にオルキデアの花が彫り込まれた上に透明なロマノグラスを載せた贅沢なテーブルがあって、その上には琥珀色や葡萄色の酒の瓶と、これも蘭の文様の彫り込まれたロマノグラスのグラスが置かれている。

 その一つしかないソファに、トリスタンを座らせると、オドザヤは彼に無心な様子で寄りかかる。そうすると、やんわりとリボンで胸の下を絞られているだけのドレスだから、胸元の布地がふわりと開き、オドザヤがこのドレスの下にはほとんど下着らしい下着さえ身につけていないのが、はっきりと見えてしまった。

 その胸元からふんわりと香って来たのは、薔薇よりもジャスミンよりも甘い香り。だがそれでいて黒苺のような熟した果実の香りを秘めた、よく練り上げられ、微妙な塩梅で調合された希少な香水とわかる香りだった。

 トリスタンは内心で、舌打ちしたいような気持ちだった。

 彼が今まで手玉に取って来た、初心で純粋、そして単純きわまりなかった娘たちと、この女は、ついこの間まで、そう、あの嵐の夜の仮面舞踏会マスカラーダの会場から出ていくまでは同じだった。

 なのに。

 オドザヤはあのすぐ後から、凄まじい変貌を遂げていった。

 最後に彼の元に届けられた、オドザヤの侍女「だった」カルメラの報告はあの舞踏会の翌日のものだったが、それはもう、「新しいオドザヤ」が生まれたことを端的に物語っていたのだ。

(あの方は私に、あなた様の肖像画を真っ黒に塗りつぶして持って来い、とおっしゃいました。どうしてなのかもお話にならず。私にはあまりにも急なお変わりようで、驚くばかりでございます)

 いくらトリスタンでも、それまで寝室の寝台のそばに大切に掛けられていた、という自分の肖像画が一晩にして真っ黒に塗りつぶされることになった理由など、推測できるはずもない。喜んで初めてを捧げた男の肖像を、何時間もしないうちに真っ黒に塗りつぶさせるような女になど、彼は出会ったこともなかった。

 ただ、あの嵐の後の明け方、大公と大公軍団の連中に連れ出された後、オドザヤの気持ちに大きな変化があったことだけは理解できた。きっと、大公宮で何かがあったのだ。

 トリスタンにとって、大公のカイエンは実はアストロナータ神教の星教皇と知れた今でも、ちっとも恐るるべき存在には思えなかった。皇宮での新年の舞踏会の時、ぼんやりしたまま、トリスタンに唇を奪われてしまったような女ではないか。シイナドラド皇子の夫とも、なんだかぎくしゃくした様子に見えた。

 ただ、カイエンの周りを固めている大公軍団の連中は不気味だった。夫としてはぎくしゃくした感じの、あのシイナドラドの皇子でさえ、あの時は彼らと一緒に連動して動いていた。彼らは、一人一人も印象的であったが、集団になると各々の欠点を他がさりげなくカバーして、強引とも言える手際でことを運んでいく。

 その中心にいるのはカイエンなのだから、おそらくはあの女もクソ真面目で面白みのないだけの存在ではないのだろう。オドザヤは、あの従姉妹で姉であるカイエンに何事かを教えられたかして、一瞬にしてトリスタンやカルメラの仕掛けた夢心地の世界から目が覚めてしまったのだろう。そうとでも思うしか他になかった。

 それからカルメラからの連絡は途絶え、先日、どうやら皇太后の侍女をしている伯母と一緒に地下牢へ投獄されたらしい、ということだけは掴んでいた。

 そして、今夜。トリスタンはあの仮面舞踏会以来、初めてオドザヤに会った。

 彼をオルキデア離宮で迎えたオドザヤは、確かにあの夜までのオドザヤではなかった。

 トリスタン様、トリスタン様と自分の身分立場も忘れ、頬を染めて恥じらっていた娘など、もうどこにも見当たらない。彼の目に映ったのは、彼の母であるザイオン女王チューラと同じ種類の女だった。

 男は自分の添え物、支配者は自分であることを自覚した女支配者の姿であった。そして、それでいて寵愛している男の前ではかわいい女も演じられる、図々しさをも持った女だ。

 チューラ女王と違っていたのは、オドザヤはまだ十九の若さで、その上に今後しばらくは衰えそうもない、凄まじいほどの美貌を持っていたことだ。

 真珠のように輝く肌、琥珀の瞳、金糸の髪、大理石像のような完璧な形を描く体。匂いやかな微笑み。

 姉のカイエンはアストロナータ神像のような、冒しがたさを秘めたやや無機質な整い方をした容貌で、それがふわっと微笑んだりすると急に親しみやすい感じになる。そして灰色の目はいつでもきらきらと生命感に溢れ、神像との違いを強調している。

 だが、オドザヤの方は、まさに動き出した美神、とでもいった趣きだった。

 それでも、オドザヤはここでは自分が招待主で、トリスタンはお客様、ということを強調するように、自ら酒の瓶を取ると、二つのロマノグラスに注ぎいれた。

「トリスタン様は、私の母の侍女のジョランダ・オスナってのをご存知かしら」

 かちゃん、とテーブルの上面を覆ったロマノグラスとグラスが当たって小さな音を立てた。テーブルのロマノグラスの下には、オルキデアの彫刻が施されており、きれいに彩色までされていた。

 トリスタンが黙っていると、オドザヤは「あらそう」とでも言うようにちろりとトリスタンの緑色の瞳を見上げたが、こんな反応は彼女には予想の範囲内だった。

「じゃあ、ジョランダの姪のカルメラっていう私の侍女は?」

 トリスタンは動かない。オドザヤがどこまで知っているのか。それはもう、ジョランダとカルメラが投獄されていることからして想像がつく。ただ捕まえて地下牢へ入れておくだけのはずがない。二人には拷問も含めた厳しい尋問が行われたはずなのだ。

 もう、オドザヤはすべてを知っている。

 トリスタンは今日、こうしてオドザヤに迫られることは、ちゃんと計算に入れていた。その上で招待にのってやって来たのだ。

「あら、だんまりなのね。トリスタン様は、二人が、薬種問屋の主人の姉と姪に当たるってこともご存知だったのでしょう?」

 オドザヤの方は、面白そうだ。彼女は勝手にトリスタンのグラスと自分のグラスをかちん、と打ち合わせると、蒸留酒を一口だけ口に運んだ。

「私、お姉様に聞いたんですの。お姉様の大公軍団じゃ、もうとっくにあの薬物問屋は監視下に入れてたんですって。あの薬物問屋を、ザイオンから来た怪しい男、それがトリスタン様によく似た男の方だったんですって。それが、……何でしたかしら、ええと、そうそう。お店を『籠抜け』に使ったからなんですって。でね、今度徹底的に捜査したら、蔵からは怪しい麻薬が出て来たし、主人を治安維持部隊の方で問い詰めたら、ザイオンの商人をジョランダの侍女に化けさせて、逃したんだってみーんな、話したんですって」

 何も言わないトリスタンを前に、オドザヤは面白そうに笑う。

「あのね。私、トリスタン様の仮面舞踏会で、お姉様がきれいな男の方と二人きりのところをお見かけしましたの。驚いちゃったけど、そのお姉様の新しい恋人の方って、大公軍団の軍団長さんなんですって。私、見たことある方だなあ、って思っていたんですけれど、軍団長さんなら、ね。納得だわ。お姉様の直接の部下なんですもの。あの素敵なお姉様に惚れ込まない方がおかしいわ。軍団長は、街中の似顔絵屋で似顔が、歌手や俳優なんかと一緒に並んでいるくらい、きれいな方で有名なのですって。それで、その上にお姉様のお仕事の右腕で切れ者なのよ。でね、その方にかかれば連れてこられた容疑者は、誰でもみんな、すぐに本当のことを喋ってしまうんですって。すごいでしょう?」

 トリスタンは、無邪気そうに話すオドザヤの美しい顔を見つめながら、背中を冷たい汗が流れていくのを感じていた。確か、その大公軍団軍団長なら、仮面舞踏会の会場からオドザヤを連れ出す際に、トリスタンたちの目の前でオドザヤをいとも簡単に気絶させた男だろう。トリスタンももう、「大公軍団の恐怖の伊達男」と言われる軍団長の噂は聞いていた。 

「ねえ、トリスタン様は、ジョランダとカルメラをうまーく利用して、私に毒を盛られたのね、そうでしょう?」

 この言葉には、さしものトリスタンも戦慄した。麻薬を盛ったのは確かだが、あれは決して毒ではない。毒であった、などと言うことになれば……。容疑は他国の王子がハウヤ帝国の皇帝を毒殺しようとした、ということになるのだ。

 ここでもし、「はいそうです」などと言えば、あの親衛隊隊長のモンドラゴンが部下を率いてこの部屋へ乗り込んでくるのだろう。

 他国の王子であるトリスタンを逮捕するわけにはいかないだろうが、皇帝のオドザヤに危害を加えようとしたとなれば、彼のしたことはザイオンとハウヤ帝国との間に真っ黒な影を落とし、彼を人質に、すぐにも戦端が開かれてもおかしくはない。スキュラにサウリオアルマとフランコ公爵が取り掛かりきりでも、ハウヤ帝国にはまだ三つもアルマが残っているのだ。

「あの二人だけど」

 オドザヤはちょっともったいぶる様に、言葉を切った。

「私の毒殺を企てた疑い濃厚である、ってことになって、今、皇宮の地下牢にいるんですのよ」

 そんなことはもう、とっくに知っている。トリスタンはそう思ったが、口はきけなかった。もう、この話の支配権は全部オドザヤが握っていた。

「それで、獄吏に拷問にかけさせたら、すぐに薬の事は、ザイオンの王子トリスタン様にそそのかされたんだ、って吐いたんですって」

「これって、本当に困ったことですのよ。……そうでしょう? このハウヤ帝国にとっても面倒なことですけれど、トリスタン様のお国にとっても困ったことでしょ? ねえ」

 トリスタンはここに至って、やっと話の先が見えて来た。確かに、ハウヤ帝国はスキュラとやり合いながらでもザイオンと戦おうとすれば戦える。だが、それは出来れば避けたいことには違いない。だから、オドザヤはこんなところへ彼を呼び出して、こんな話をねちねちとしているのだ。 

「トリスタン様にジョランダとカルメラの前で、お前たちなんか知らない、ってはっきり言っていただければ、簡単ですのよ。あんな女どものいうことよりも、ザイオンの王子殿下であるトリスタン様の方を私は信じますわ。そうしたら、私は堂々と、ジョランダとカルメラの処刑命令書にサインできますの。薬物問屋のご主人の方は、直接に皇帝暗殺に関わったわけじゃないから、気の毒だけどお店を取り潰して、家財を国で取り上げるだけにするつもり」

 オドザヤは、恐ろしいことをすらすらと練習で台本を読む役者のように言ってのけた。 

「ああ、そうなのですか」

 トリスタンはこの小部屋に連れ込まれて初めて、やっと言葉が口から出た。

 トリスタンにとっては、いずれはオドザヤを薬漬けにした罪のすべてはジョランダとカルメラに被ってもらうつもりだった。それはもちろん、もっと先のことであるはずで、その間に彼はオドザヤに深く取り入り、皇配の地位を得、政治的な発言力をも得るはずだったのだ。

(お父さん、この店はもう大公軍団にバレただろうからね。もう二度と使えないんだ。まあ、いずれは薬の方から足がつくかもだけど。まあ、その時には、この店とさっきのオバさんに全部引っ被ってもらうんだけどね……)

 父のシリルをその正体をハウヤ帝国側に知られぬまま、安全にザイオン外交官官邸へ入れるため、あの薬物問屋を籠抜けの道具に使った。あの時、トリスタンが言ったのと同じ様に、事態は動いている。

 違うのは、オドザヤはもはや薬漬けではなく、自分でものを考えて行動していること。そして、自分を薬で操っていた黒幕がトリスタンだと知っている、ということだ。

 もっと恐ろしいのは、オドザヤはそのすべてを飲み込んで、その上で今度は自分の方がトリスタンを利用するつもりらしい、ということだった。

「……あのね」

 オドザヤはここまで来ると、もう言葉を飾ることも必要ない、と判断したらしかった。

「あなたと今度のことで、長々と話している時間なんか、もったいないのよ。スキュラとのことももう、向こうでは始まっているでしょうし。シイナドラドのことでも、お姉様やエルネスト様にお願いしなきゃならないことがあるし。なのに、私は私の即位に反対したモリーナ侯爵たちの切り崩しに、もうちょっとこの離宮で無駄な散財をしなきゃならないの。もう少ししたら、モリーナ侯爵や、あの元コンドルアルマ将軍のカスティージョ伯爵なんかも、呼ばれなくても向こうからここへ来るはずだけれどもね。もう、手下はほとんど私の側に寝返ってしまったんですもの」

 トリスタンはこの離宮へ来てから、初めてオドザヤの琥珀色の瞳をまっすぐに見た。

「……恐ろしい方だ。何があなたを急に、そこまで変えてしまったのですか」

 トリスタンのこの言葉は、いつもの彼のように裏に何をかを隠したものではなかった。素直に出て来た言葉だった。それは、オドザヤへも伝わったらしい。

「そうね。こうやって言葉にしてみると、馬鹿みたいな事だけど、愛するっていう言葉について、わざわざ親切に教えてくれた方がいらしたの。それで、その方、最後におっしゃったのよ。お前のために喋ったんじゃない、自分のために喋ったんだって。愛する人には永遠に振り向いてはもらえない、ご自分のために、わざわざ私に教えてくださったんだって」

 オドザヤはちょっと考えて、最後に付け加えた。

「それと、哀れな、みっともなくて醜い女。外見だけ飾り立てて、自分自身の中身を磨こうとはしなかった馬鹿な女の気持ちに気が付いたからよ。それでもそんな女が好きでたまらなかった男の必死な気持ちが分かったからよ」

 オドザヤは、まっすぐにトリスタンの顔を見た。もう、絡ませていた腕は彼女の膝の上で揃えられ、その様子はまだ何も知らない娘だった頃の彼女が、まだ今の彼女の中に残っていることを知らせていた。

「もう決めたから言うわ。……あなたはいずれ、わたくしの配偶者になるの。それで、わたくしの産んだ子供の父親はすべてあなたってことになるわ。いいわね?」

(こんなの、ザイオンのあなたのお母様と同じでしょう?)

 トリスタンは眉間に皺を寄せたが、それでも言葉は挟まなかった。もう、今夜この時の彼ら二人の間の力の優劣は決していた。

「あなたがあの夜にわたくしに言った、すべての『愛しています、オドザヤ様』はすべて今、お返しするわ」

 オドザヤの琥珀色の目はもう蕩けてはおらず、硬い鉱物質の……無垢の金よりもずっと硬い鉱石のような、無骨に鋭く反射する光を放っていた。

「わたくしの愛はこれから探すわ。いつかはきっと見つかると信じてね」

 そう言い放ちながら、オドザヤの目の奥にあったのは、去年の十二月九日、このトリスタンが大公宮へ押しかけた、あの日。カイエンとリリエンスールの誕生の祝いに集まっていた、カイエンの「家族」とも言える大公宮の人々の表情だった。すべての人々が、カイエンに暖かい愛情に溢れた目を向けていたっけ。

 あの時、オドザヤが知っていたカイエンの男といえば、ヴァイロンと夫のエルネストだったが、今思い出してみれば、あそこには大公軍団軍団長のイリヤもいたのだ。

 彼ら三人のカイエンへ向けていた目の色。それは、ミルドラや大公宮の使用人達、カイエンの部下達がカイエンに向けていた目の色とは明らかに違っていた。それが、今のオドザヤにはしっかりと見えていた。

 それは三人三様ではあったが、エルネストにあの話を聞かされたオドザヤには分かっていた。

 あれが、「この人を愛している」という男の目だ。「この人が欲しい」という確信を持った男の目だ。

「だって、お姉様だけじゃ、狡いわ」

 この最後の言葉はほとんど独り言の呟きだったので、トリスタンにはよく聞こえなかった。

「ああ。いいのよ。トリスタン様はお好きになさればいいわ。でも、あなたが他の女に産ませた子供のことなんかは、わたくしは知らないわよ」

 そう言うと、オドザヤはテーブルの上にあった呼び鈴を鳴らした。

 すぐに入って来たのは、トリスタンの想像通り、親衛隊長のウリセス・モンドラゴン子爵の姿だった。トリスタンにはとっくに理解できていたが、オドザヤがこのオルキデア離宮でのことを始めるにあたって、最初に自分の懐に引き入れたのはこの男なのだろう。

「ウリセス、トリスタン王子殿下がお帰りになるわ。……玄関までご案内して。ああ、親衛隊のみんなの出番は必要なかったわ」

 ウリセス・モンドラゴンの青緑色の目は、オドザヤの上から決して動かない。でも、その眼差しの色は、オドザヤには未だ、物足りないものだった。 


  


  


 

 その少し前。

 大公宮では、大公宮の表の謁見の間が久しぶりに使用されていた。

 謁見の間で、うやうやしく床に膝をついていたのは、この帝都ハーマポスタールのアストロナータ大神殿の大神官、ロドリゴ・エデン。

 年齢は、この大公宮の執事、アキノと同じくらいだろう。

 痩せた三角形の、カマキリのような顔はその役職にふさわしく引き締まり、欲も得も来世の栄光も関係ないとばかりに落ち着き払っている。そう目立った容貌の男でも無かったが、教団の頂点に立つものとしての権威に満ちた様子だった。

 宰相サヴォナローラと同じ褐色の僧服に身を包み、同じ色の高い細長い帽子を被っている。だが、サヴォナローラとは違い、褐色の僧服の上には青い長々とした袖なしの上衣を羽織り、細長い帽子には正面から始まって、帽子の上を通り、そのまま後頭部から下へ長々と垂れ下がる細い布がある。

 胸元には、おきまりの銀製の大きな五芒星が光っていた。

「アストロナータ大神殿大神官、ロドリゴ・エデン殿、お顔をお上げください」

 そう、大神官へ声を掛けたのは、何段かある上段に連なっている男達の中で、一番、最上段の椅子にかけたカイエンのそばに立っている二人のうち、小柄で風采の上がらない痩せこけた中年男の方の声だった。

 星教皇がカイエンである、と知れ渡ってから、大公宮では今日のこの事態は予想していた。

 だから、アストロナータ大神殿からの使者が来ると、大公宮ではカイエンのそば、つまりは大公軍団の上層部を構築する皆が、今日この日に合わせて多忙な中を集まっていたのだ。

「ありがとうございます」

 そう言って、顔を上げたアストロナータ大神官、ロドリゴ・エデンの目に映ったのは、なんとも個性的すぎる男達の一団に取り囲まれた、大公カイエンの姿だった。

 大公のカイエンは、執事のアキノと、護衛騎士のシーヴを背後に従え、最上段の真ん中の椅子に座っている。皇宮の皇帝の謁見の間の椅子とはまったく違う質素とも言える椅子だが、それでも背後には大公家の紋章、左右は分厚いカーテンが引き絞られた中に座っているカイエンは、今日も大公軍団の黒い制服姿だ。

 黒い制服の飾りボタンは、彼女だけが許されている、最上級の紫水晶で、これは余人の知らないことだが、ヴァイロンの紫翡翠の耳飾りと指輪と、きれいに調和していた。

 一段下がって、カイエンの左右に立つのは、大公軍団最高顧問のマテオ・ソーサと、大公軍団軍団長のイリヤボルト・ディアマンテスの両人。教授は真面目な顔をしてるが、イリヤの方は人を食ったようないつものとぼけた様子のままだ。

 もう一段下の左右には、帝都防衛部隊長のヴァイロン・レオン・フィエロと、治安維持部隊長のマリオとヘススの双子。こちらはイリヤよりは現実的で真面目だったので、重々しい雰囲気をまとって立っていた。

 大神官に最初に声をかけたのは、大公軍団最高顧問のマテオ・ソーサであった。

「アストロナータ大神殿の大神官がじかじかに謁見のお申し出とは、どういうご用向きでございましょう」

 ついでこう聞いたのも、同じマテオ・ソーサで、カイエンは重々しくうなずくだけで一言も発してはいない。

「はい。皇宮の集まりではいざ知らず、こうして大公宮にて、大公殿下に正式に謁見の栄を賜りますのは、初めてのこととなります。アストロナータ大神殿大神官のロドリゴ・エデンでございます。この度は、シイナドラドからの遣いにより、我らアストロナータ神教信徒にとりまして最高の至高の存在であらせられます、当代の星教皇が我が国の大公殿下であられると知りました。遅まきながら、このハウヤ帝国のアストロナータ信徒すべてを代表いたしまして、ここにご挨拶にうかがいましたものでございます」

 カイエン達にとっては、こんなことはもう予想済みのことだ。

「ご苦労」

 カイエンはそう、初めて口を開いた。いつもの彼女には見合わない、尊大な言い方となったのは、この先に連なる話をしっかりとこの大神官ロドリゴ・エデンに覚えていてもらうためだった。

「確かに私は二年前、シイナドラドへ赴いた時、星教皇とやらに即位させられている」

 カイエンはまずは事実は認めた。

「だが、あの時私がシイナドラドへ赴いた用向きは、かの国の皇太子の結婚式に参列するためであった。だが、シイナドラド側にはそれ以外の理由もあって、私をあちらへ呼んだのだ」

 カイエンは言葉に力を入れた。

「大神官どの。事実は事実として私も受け入れるが、これだけは、そう、これだけは大神官のあなたには理解していてもらいたい」

 カイエンがそこまで話すと、大神官のロドリゴ・エデンも、話が星教皇への謁見だけでは終わらないことに気が付いたようだった。

「私は何よりも先に、この街、ハーマポスタールの大公である。私の人生、私の職務は、すべて第一にこの街に捧げられるものだ」

 カイエンはロドリゴ・エデンの、緊張した顔に目を落とした。

「私は星教皇である前に、このハーマポスタールの大公である。この優先順位は私がこの世を去る日まで、決して変わることはない」

 カイエンがこう言い切ると、ロドリゴ・エデンにも、カイエンの言いたいことが完全に理解できたらしい。大神官にも上り詰めた男だけあって、その頭脳の働きは確かなようだった。

「……左様でございましたな。私は突然のことに驚き慌て、このハウヤ帝国のアストロナータ神殿を代表するものとしての見識を忘れ、浮き足立っていたようでございます」

 カイエンは、大神官の答えに安心し、満足した顔を作って答えた。

「ご理解いただけて、ありがたい。……よろしいか、それではこれまで通り、アストロナータ神殿の長としては、あなたにすべてをお任せする。だが、他の国々では事情も異なろう。そちらの政治的な方面においては、あなた方の意向を聞きつつ、私の方で判断していきたい。……これに同意いただけるか」

 カイエンはもう、この言葉は用意していた。わざわざ、イリヤ達大公軍団の幹部をこの場に呼んだのも、そういう彼女の意向をわかりやすく伝えるためであった。

「すべて承知致しました。すべてもっともなことでございまする」

 ロドリゴ・エデンは、そう言うと、痩せた三角の顔に見えるか見えないかの笑みを浮かべて見せた。

「実を申しますと、大公殿下、星教皇猊下がそう仰るであろうことは予想しておりました。もちろん、我らに異論はございませぬ」

 この答えに、カイエンはほっとした。一仕事終えた、と彼女が思ったその時だった。

「ですが、ここで一つ、我らからご提案がございます」

 カイエンは怪訝に思いながら、そっとマテオ・ソーサの方をうかがった。教授は「そのまま話させろ」と言うように顎を引いている。

「我らアストロナータ神殿では、豊かな商人からの喜捨、そして信徒からの布施を受けております。今まではこれは皆、我らアストロナータ教団のために運用して参りました。ですが、猊下がこのハウヤ帝国におわし、もはやシイナドラドへの献金の道が絶たれたとなりますと、事情が変わって参ります」

 シイナドラドへの献金。

 これは、確かにカイエン達も想定はしていた。シイナドラドのホヤ・デ・セレンが封鎖されたとあれば、教団としての資金の動きも変わってくるのだろうと。だが、大神官の側からこれを言い出すとは思っていなかった。

「左様か。それで、このハウヤ帝国のアストロナータ神殿としては、それを今後どうするつもりか」

 カイエンは勤めて無表情を保った。これは、地顔がアストロナータ神殿の神像そっくり、と言われるだけあってまずは成功したらしい。

「おお。さすがは星教皇猊下であられます。我らの考えることなど、すでにお分かりでありましたか」

 ロドリゴ・エデンは、三角形の顔をまっすぐにカイエンへ向けた。他の男どもなど見えていない、とでも言うように。

「今まで、シイナドラドへ献金しておりました、このハウヤ帝国の信徒からの喜捨、布施はこれよりすべて、星教皇スセソール二世猊下、すなわちこのハーマポスタールを支配なさる大公殿下への献金と変えさせていただきますこと、ここにお知らせさせていただきます」

 ひゅう。

 空気も何も読まない不遜さで、カイエンの横のイリヤが口笛を吹いた。

 今までは、遠くシイナドラドの皇王家に鎖国の妨げを越えてまで届けられていた、献金。

 その額がどれほどなのかは、カイエン達誰にもわからない。

 本当に、同額をこの大公宮へ献金するのか、それを確かめるすべもない。だが、ロドリゴ・エデンはそこまでもしっかりと考えてきたようだ。

「ご不信の向きはごもっともでございます。証拠になるかならないかはわかりませんが、我ら教団の献金の帳簿を、係の神官より提出させ、おって、ご説明によこします。我らが求めますのは、アストロナータ神の教えがこの先の世まで継続して伝えられますこと。そのためにこのハウヤ帝国の信徒達は努力を惜しむものではございません」

 ただのご挨拶では終わらなくなった、この謁見の果てに、カイエン達が見たのは、遠いシナドラドで封鎖の中に閉じ込められながらも、未だこのパナメリゴ大陸への影響力を残した、皇王バウティスタ達。彼らの執念のようなものであった。

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