とある薬物問屋の娘の人生

 そこは真っ暗ではなかった。

 だが、そこにはその建物の広大で壮大な地上部分では、隅から隅までを照らしている、ランプの光はなかった。

 あったのは、油に浸した紐の先に灯る灯、そして、獣脂の蝋燭ロウソクのともし火だけだった。

 においはあった。それも、市内の最下層のドブ溜よりもひどい匂い。そこに引っ張ってこられて以来、風呂にも入れず、体も拭えず、着替えももちろん出来ず、大小便もそこに置かれた金属や陶器の鉢に出来ればまだいい方、そういう環境に長い期間、置かれた人間達の出す匂いだ。

 その匂いに、残飯やら走り去るネズミたちの糞やらの匂いがたち混ざった匂いは、そこに連れて来られたばかりの者たちには、それだけでもおのれの今、現在の立場を嫌が応にも思い知らせるものだった。

 そして、すでに数日、いや長ければ数週間、もしかしたらそれ以上をそこで過ごすことになった者にとっては、もし、慣れることが出来なかったら発狂するような匂いだった。

 だが、ここに長居する者など、ここ二十年ほどはいなかったので、それらの臭気も、ここがたくさんの罪人で埋め尽くされていた時代のそれほどには悲惨ではなかった。 

 そこでは床も天井も壁も、すべてが石作りで、それがそろそろ春先だというのに、なんだかじっとりと冷たく湿っている。

 今、この……ハウヤ帝国帝都ハーマポスタールの皇宮の地下牢の住人は、わずかに二人だけだった。

 先先帝レアンドロの時代までは、宮廷抗争の犠牲者が押し込められ、後宮で憎い妾妃や愛妾に毒を盛ったの盛らないの、といった事件が起こって、この地下牢に送られる人間も多かった。

 だが、レアンドロ皇帝の息子の先帝サウルは、すべてに厳格で明確だった。

 彼は皇宮全体に、しっかりと目が行き届かなければ許さない苛烈さを持っていたから、陰謀の行われるような隙さえなかった。

 そこでは、異国の宮廷の暗部では起こりがちな事件など起こり得なかった、先帝サウルの時代から、宮廷に大きな事件や陰謀などは発生しなくなり、ここへ送り込まれるような人間はいなくなって久しかった。だから、ここの獄吏の数なども、サウルの時代にかなり減らされ、一部は使われない場所として閉め切られていたほどだった。

 それなのに。

 新帝オドザヤの即位から、まだ半年あまりしか経っていない。

 そこには、二人の女が放り込まれていた。

 それはもちろん、皇帝オドザヤの毒殺、および皇太后アイーシャへの麻薬投与容疑で親衛隊に逮捕された、皇太后の侍女ジョランダと、皇帝の侍女カルメラの伯母姪二人に違いなかった。

 サウルの時代になってからは、ほとんど使われなくなっていた皇宮の地下牢だった。だから、本来罪人たちを見張る役目の看守はもうひとりも雇われてはおらず、その代わりをしていたのは、長年にわたり、代々、皇宮に所属してきた首斬り役人なのだった。

 彼らだけは、もうその姓を名乗っただけで、歴史を知るものなら誰でもその仕事と出自がわかる、という一族だったから、先帝サウルも首には出来なかったのだ。

 そんな、人少なな地下牢であったが、獄吏たち……本当は首斬り役人、は二人の女の、年長の方のうるささに、すでに数日で辟易していた。

 ジョランダは、自分の入れられている檻の鉄格子をつかんで、きりきり、ガタガタ言わせながら叫ぶのだ。

「ねえ、あたしだけでも、外へ出しておくれよう。……このカルメラはいいさ。もう、こんな皇宮の地下牢なんかに放り込まれちまったんだ、養女に入った男爵家でも、こんなことになったんじゃ、もうとっくに縁切りしてるだろう。お貴族との結婚なんか、もうあり得ないんだ。あんたたちで好きにしたらいいよ」

「なっ! 伯母さん、何を言うの!」

 ジョランダはカルメラの金切り声を聞いても、彼女の入れられている檻の方など、見ようともしない。

 二人ともに、あのオルキデア離宮でオドザヤがトリスタンに言ったように、獄吏によって何度も拷問込みで尋問されていた。だから、ジョランダに鉄格子を揺するような力がまだ残っているのは、考えてみれば異様なことだった。

 ジョランダもカルメラも、手首足首には鉄枷がはめられていたし、そこには血糊がへばりついていた。着ていた侍女のお仕着せのドレスも、あちこちが破れて酷い有様だ。髪の毛もぐしゃぐしゃで、顔も青黒く腫れ上がっていた。

 獄吏たちは、ここでの伝統的な方法で彼女らの尋問を行ったというわけだった。

 そういうわけで、ジョランダの醜い顔も腫れ上がっていはいたが、彼女は切れた唇をおっ広げて叫び続けたのだ。

「あたしは違うんだよ。あたしは皇太后様の、アイーシャ様のお世話をしなきゃならないんだよ。あたしなしじゃ、あの方は一日だって生き延びられやしないよ! あたしじゃなきゃあ、あの方のご機嫌をとって、お下の世話をして、お薬をお飲ませするなんて、出来やしないんだ」

 このジョランダの要求は、ここへ放り込まれてから毎日の、それも数時間ごとに聞かされるものだったので、獄吏はもう、ジョランダの喚き声など聞こうともしなかった。

「なんで、あたしの言うことを上に伝えてくれないんだい! あの糞ったれの女帝陛下だって、自分のお母上のことなんだよ! 聞いてくださらないはずがないじゃないか」

 ジョランダは最後の方は、哀れっぽい声を出してみせた。情に訴えようとしたのだが、もうそんなことも獄吏には耳にタコができそうなほど聞かされて来たことだった。

 このままでは、ずっとうるさいままだと思ったのか、獄吏の真っ黒なずんぐりした影だけが、椅子に座ったまま、じわりと動いた。

「馬鹿なことを毎日、ぐだぐだとうるさいぞ。皇太后様のお側には、幾人も女官が侍っている。お前ひとりいなくとも、誰も困りなどしない」

 実際、獄吏はジョランダのこの要求の雄叫びの煩さに、最初だけは獄長に報告していた。ことは皇太后のことだから、後でなぜ伝えなかったのか、と責められでもしたら厄介だ、と思ったのだ。

「お前らの罪名はもう、決まっている。この皇宮で起きた事件の始末は、皇帝陛下がお決めになるのが決まりだ。もう、ここから出られるなどとは考えもしないことだな。陛下がお前らの処刑命令書にサインされれば、俺は獄吏から首斬り役人に戻れるっていうわけさ」

 これを聞くと、カルメラは死にそうな悲鳴をあげ、さしものジョランダも、しばらくの間は黙っていた。

 二人とも、尋問ではどんなに責められても、「毒殺」の容疑は認めていなかった。だが、怪しい薬を使ったことだけは、ザイオンの第三王子トリスタンに命じられた、と答えていた。だから、このままオドザヤの前に出ることもなく闇に葬られるとは思っていなかったのだ。

 そして、しばらくしてから、なおも檻の鉄格子をつかんだまま、ジョランダは魔女のようなおどろおどろしい声でこう言ったのだが、これは離れた檻に入れられていたカルメラにも聞こえなかったし、無論、並んだ檻の向こうの椅子に座っている、獄吏にも聞こえはしなかった。

「……馬鹿な娘だよ、あの女皇帝は。見ていてごらん、このあたしの処刑よりも先に、あの方の方があっちの世界へおさらばしちまうんだからね。アイーシャ様がこれまで生きて来られたのは、このあたしがお世話したからだ。それに、あたしだけがお飲ませしていたお薬。あれでなんとか大人しい寝たきりの病人になっていたんだ。だーれも、アイーシャ様のお側になんか寄り付かなかったから、あたしのお薬のことはだーれも知らないのさ。ああ、今頃はもう、ご出産の後の狂乱に戻られていることだろうて」

 ジョランダは、切れてかさかさになった薄い唇を舐めた。血の味がするのがこの際、かえって「まだ生きている」という実感になった。そして、その血生臭さが、これから彼女の身だけではなく、アイーシャの身へも降り注ぐ運命を感じさせた。

「うるさがられて、強い鎮静剤でも飲まされるだろう。そうなったら、あたしの勝利だよ。もう、鎮静剤なんか、ろくに効きやしない。あたしのお飲ませしていた薬は、医者どもの薬とは、ちと塩梅が違うからね……けけけ。もう歩けもしないだろうけれど、それでも、鎮静剤とあたしの飲ませていた薬が作用しあって、最後の最後の力をご狂乱で力を使い果たされることになるでしょうよ。畜生め、薬物問屋の娘を舐めるんじゃないよ!」

 最後の最後の言葉は、もう、ため息の息づかいにも似た、呪いの言葉のように低かった。 

「アイーシャ様ぁ、このジョランダを、あっちで待っていてくださいよぉ。あっちに行ったら、あんたはもう皇后でも皇太后でもない、あたしの従姉妹で、貧乏役人のうちへ養女に出されたただの女だ。今まで、わがまま放題に付き合って、こき使われた恨みを晴らさせて貰いますからねぇ」


 




 一方。

 オドザヤが皇太女時代に住んでいた、皇子皇女宮で病身を休めていた皇太后、アイーシャは、まさにジョランダの言う通りの状況に陥っていた。

「何ということなの! どうして、こんなになるまで私に報告しなかったの!」

 とうとう、自分たちではどうにもならなくなった、皇太后の侍女たちが、皇帝の女官長のコンスタンサ・アンヘレスに事の次第を打ち明けたのは、もう四月になった日のことだった。

 先日のシイナドラドの王都ホヤ・デ・セレンの封鎖、そして皇王バウティスタからの声明が伝えられてすぐ、もう、ハウヤ帝国北方のフランコ公爵領ラ・フランカからは、スキュラとの間の戦端が開かれた知らせが入って来ていた。

 そして、大公宮のシイナドラド第二皇子エルネストは、ただちにハーマポスタールの読売り大手二紙、「黎明新聞アウロラ」と、「自由新聞リベルタ」に声明を発表していた。

 これは、もう彼がシイナドラドの王都ホヤ・デ・セレンの封鎖をカイエン達に語ってからすぐに、大公宮では秘密裏に用意されていたことで、その内容は、

「螺旋帝国の援助を受けた反乱軍は、決して王都ホヤ・デ・セレンの封鎖を破ることは出来ない。それは、皇子である自分にははっきりと分かっていることである。そもそも、ハウヤ帝国の大公カイエンへ自分が婿入りしたのは、今日ある日のためである。ハウヤ帝国はシイナドラドへ援軍を出すべからず。これはシイナドラド皇王バウティスタからのお願いである。星教皇スセソール二世である大公カイエンを擁したハウヤ帝国に、シイナドラド王家はいつかある開放の日まで、アストロナータ神教のすべての栄光を託すものである」

 という内容だった。

 これらの事件は、帝都で毎日、読売りという読売りが売り切れるほどのものだった。

 だから、皇帝のオドザヤも宰相府のサヴォナローラも、元帥府のエミリオ・ザラ大将軍も、そして大公のカイエンも、大わらわの毎日になっていた。もちろん、皇帝オドザヤの女官長であるコンスタンサも例外ではなく、彼女は皇宮の中を忙しく動き回っていた。

 そんな情勢の中で、寝たきりの病人である皇太后の身の回りの侍女たちが、コンスタンサに声をかけたり、報告をあげたりするのをためらったのは、理解できぬものでもなかった。

 コンスタンサが、アイーシャの寝室へ入った時、病人は数人の侍女に押さえつけられ、侍医が口に漏斗のような物を差し込んで、水薬を注ぎ入れているところだった。

 病室は、ジョランダがいた頃からもう、一年以上も寝たきりの病人が発する、きれいに清拭しても下の世話を焼いても残ってしまう、何とも言えない匂いがしていたのだが、今やそれははっきりとした悪臭として感知されるレベルになってしまっていた。

「どういう事なんです? 先生!」

 コンスタンサはまっすぐに伸びた背中を反らすようにして、アイーシャ付きの医師に迫り寄った。

「ああ、女官長殿か。……ご覧の通り、ちょっと見ない間に、皇太后様のお世話がすっかり、おざなりになっていてね。毎日のお薬もちゃんと投薬出来ぬ始末だったそうですよ。確か、皇太后様の一番の御付き侍女だったあの、ジョランダ殿が……皇帝陛下に恐ろしいことを企てていたとかで、投獄されたでしょう。皇太后様のお身体のお世話なんかは、あの女が一手にやっていたそうでね。いなくなってみれば、他の侍女どもではどうにもならなくなったそうですよ」

 医師は顔全体で、「俺のせいじゃない」と言っている。確かに、アイーシャの身の回りの世話は彼の仕事ではない。

 コンスタンサの方は、はっとした。

 彼女はアイーシャが皇后だった時には、後宮の女官長であったが、アイーシャとコンスタンサの間には皇后と後宮の差配をする女官長、という以上のつながりはなかった。皇后のアイーシャの公務の手はずなどは彼女を通して行われていたが、それだけだった。

 だから、リリエンスールの出産後、アイーシャが狂乱して寝たきりとなってからは、コンスタンサ自身が新帝オドザヤの女官長に変わったこともあって、ほとんど関わりを持たなくなっていたのだ。

 ジョランダの投獄の件は、もちろんコンスタンサも聞いていた。

 だが、オドザヤに薬物を盛っていたのがカルメラであり、そのカルメラはジョランダの姪に当たると知っていたコンスタンサは、「なるべくしてなったこと」とそのことを捉えていた。オドザヤが言うように、「皇帝毒殺」を図ったものではないことも理解していた。

 だが、カルメラもジョランダも、今やコンスタンサだけでなく宰相のサヴォナローラにも、大将軍のエミリオ・ザラにも、大公のカイエンにも、「一刻も早くオドザヤから遠ざけるべき人物」と認識されていた。だから、コンスタンサも、オドザヤの言う「皇帝暗殺容疑」の行き着く先が彼女ら二人の「処分」になるとは知っていたが、口出しはしなかったのだ。

 自国の至高の存在を、他国の王子にそそのかされたとしても、薬でなんとかしようなどと言うのは、コンスタンサのような者には許し難いことでもあった。

 だが。

 確かにカルメラはともかく、アイーシャの側からジョランダを引き離すこととなる、今回の始末は、アイーシャから献身的な侍女を奪うことに相違なかったのだ。

「……そうでしたか」

 だが、そう言った時にはもう、コンスタンサは落ち着いていた。

 ジョランダはもう、アイーシャの世話をしに戻ることはない。それなら、もう。結果は決まったようなものだ。

「今、投与なさったお薬は?」

 コンスタンサの悟りきった顔を見ると、それまで汗をかいて病人の手当てをしていた医師も静かな顔つきになった。

「鎮静剤です。ここの侍女たちが言うには、皇太后陛下はジョランダとかいう古くからの侍女のお世話だの、投薬だのしか受け付けないそうでしてな。その侍女は……なのでしょう? もう、鎮静剤くらいしか手の打ちようもありません。お食事もその侍女からでなくては、一口もお口には入らないと言うことですから」

 医師の周りでは、萎縮した侍女たちが壁際で面を伏せている。ジョランダ一人にアイーシャの世話を任せていたのは、確かに問題があった。ジョランダには、アイーシャを酒浸りにさせたという過去もあったのだから。

 だが、その責任を彼女らに負わせることは出来なかった。

「わかりました。……このことはすぐに皇帝陛下にお伝え致します。それと、そうですね。大公殿下にも一応はお知らせするべきでしょう。リリエンスール様は大公宮においでなのですし」

 コンスタンサは覚悟を決めた。

 もう、皇太后アイーシャは長くはない。

 今、この国は波乱の時代へ連れて行かれようとしている。アイーシャの夫だった、先帝サウルの時代とは違うのだ。それは、支配者がサウルから娘のオドザヤへ受け継がれたからではない。もう、サウルの治世の末期から、今の事態は始まりつつあったのだ。

「……お二人とも、お母様にはもう、あまり思い入れもお持ちではないでしょうけれど。それでも、お知らせはしなくては。リリエンスール様のことは、大公殿下がご判断してくださいますでしょう」



 カイエンは、その日、通常の彼女の仕事をこなしていたところだった。

 アストロナータ大神殿の大神官、ロドリゴ・エデンが謁見に来たり、エルネストが帝都二大新聞に「声明」を出した時は忙しかったが、それも落ち着いたところだった。

 皇宮の女官長コンスタンサからの知らせの、急ぎの書簡を受け取ったのは昼過ぎで、カイエンは表の大公の執務室に戻って来たところだった。

 百面相シエン・マスカラスの変装用具の仕入先として目星をつけていた店から、怪しい注文が入った、との情報が上がって来たところで、それ以外にも、火災を装って消えたあの、「奇術団」コンチャイテラの連中が出入りしているらしい民家の目星がつきそう、という報告があって、カイエンの執務室には珍しくも大公軍団軍団長のイリヤと、帝都武衛部隊長のヴァイロンが揃っていたところだった。

 この三人は、カイエンとイリヤとのことが始まってからは微妙極まりない関係なのだが、カイエン以外の二人とも、カイエンの前でそれを見せるようなことはなかった。それは、仕事中も二人きりの時も同じで、この点ではカイエンは「大人の対応」の二人に心から感謝していた。彼女自身の方が、その点では醜態を演じないか自分の方が心配なほどだったのだ。

「なーに? 皇宮からお急ぎでって、スキュラの方の関係かなんか?」

 イリヤはヴァイロンがいるから、カイエンにべたつくような真似はさすがにして来ない。彼は大人しく、カイエンの執務机の前の肘掛け椅子に座っていた。腹の傷の方もいいようで、もうちょっと暖かくなったら「生意気変態皇子さま」と一手合わせ願うんだ、とか、この忙しいのに能天気なことをさっきまでほざいていた。

「皇太后陛下のことで、とありますね。……ご容態に何かあったのでしょうか」

 カイエンの座っている椅子の後ろから、コンスタンサの書簡を見ながら言ったのはヴァイロンだ。彼の方は、カイエンの後ろに護衛するように立っていることにしたらしかった。

 この辺りの距離感までが、ヴァイロンとイリヤの間では色々とあるのだろうが、カイエンはあえて気がつかないふりをした。いつまでこれで行けるかはわからないが、彼女には彼ら二人のどちらか一人を選ぶということは、多分、これからもずっと出来そうもなかったからだ。

 一緒にいて安心なのは、どちらかと言えばヴァイロンだ。

 彼との方が関係自体が長いから、万事心が通じ合っているし、彼の方が物理的にもイリヤより強い。彼女個人を危険から守るということなら、ヴァイロン以上の存在はいないだろう。シイナドラドでのこと、その後の苦しみから立ち上がれたのは、彼との絆があったからだ。

 だが、彼もカイエンと二人きりになれば、自分の肉体的な欲求を彼女に強いることもある。まあ、そこはカイエンが確固として拒否すれば折れてくれるから、まあ安心なのだが。

 イリヤの方は、カイエンには肉体的な欲求よりも、なんと言うか、「新しくできた恋人」的な役割を求めてくる。まだ、ヴァイロンとのような心の強い繋がりはない分、その「構築」に使う時間を楽しんでいる感じだ。だから、こっちはこれからも変化して行きそうな感じだった。カイエンにとっても、急激な変化よりもこのほうが有難かった。

「……そう言えば、皇太后陛下の侍女のジョランダ・オスナと、皇帝陛下の侍女のカルメラが投獄されたんだったな。あの仮面舞踏会の前に、女官長から書簡で聞いたが、ジョランダという女は皇太后陛下に、そのう、私を産んだ後に酒を勧めて酒浸りにした過去があるとか……」

 カイエンも、オドザヤが彼女に怪しい薬を盛った、侍女のカルメラと、その伯母にあたるアイーシャの侍女のジョランダを「皇帝暗殺容疑」で投獄したことは、もちろん知っていた。カイエンもカルメラをオドザヤの側から離したいのは同じだったし、麻薬といえどもオドザヤに薬を盛っていたことは許し難いと思っていた。

 だから、この投獄自体はカイエンも仕方のないこと、と認めていた。

 だが、カイエンは、この時、コンスタンサからの知らせを見て、はっきりとはしなかったが嫌な予感がした。それほどにアイーシャの側近くにいた侍女がオドザヤ暗殺の容疑でアイーシャから引き離されて投獄されたのだ。

 お姫様育ちのカイエンだったが、想像力は持ち合わせていた。自分から、執事のアキノや乳母のサグラチカ、それに女中頭のルーサなどが引き離されたらどうなるか。それはもう、シイナドラドで体験済みだった。

「そんなことがあったのですか」

「へー。殿下を産んだ後に、お母様は殿下のお身体がアレなんで、ご狂乱あそばしたんですよね。なるほどぉ。その侍女さんは、殿下の時はお酒で殿下のお母様のご狂乱を誤魔化した、ってわけですねぇ。で、お母様はその後、皇后陛下に御成りあそばしてぇ」

「イリヤ」

 ヴァイロンはイリヤの直截な口ぶりを注意するように、そう口を挟んだが、カイエンには二人の言いたいことはわかった。

「リリの時は……どうしたのだろうな。皇太后陛下は私を産んだ時と同じようにご狂乱状態になった。それ以降は、寝たきりで意識もほとんどないとの事だったが……」

 カイエンは、真っ黒な霧が向こうから広がってくるような心地がした。

「……すまないが、私はこれからすぐ皇宮へ上がる。この書簡の様子では、一度、実際に見に行った方がいいだろう。あまり、気は進まないが」

 カイエンは正直に、この二人にはそう言えた。

「てきとーに済ましてきた方がいいですよぅ。ろくに話もしたことがないようなお母さんなんでしょ。ここでどうなってももう、しょーがないですよぉ」

「……皇太后陛下のことでもうこれ以上、カイエン様がお苦しみになる必要はないかと、私も思います」

 イリヤとヴァイロンはそう言ったが、これはカイエンも実のところは同じ意見だった。アイーシャとは、ろくに話もしたことがない。それは間違いのない事実だ。アイーシャは決して、カイエンを自分が産んだ子だとは認めなかった。

 だから、カイエンは祖父のレアンドロ皇帝の末の皇女として認知され、そのままアルウィンに育てられて、大公になったのだ。

「そうだな」

 カイエンがそう言うと、イリヤの方が急に真面目な顔になった。

「あのさぁ。今更なんですけど、俺の母親ねえ。ひどい女なんですよー。まだきっと生きてやがるんだけど。親父が死んだ時、俺にあの女、言いやがったんです。お前はお父さんの子供じゃないって。お前は帝都から来たお貴族様の一夜のお相手で出来たんだって。本当だかどうだか知らないですけどぉ。もー、それ聞いた途端に、俺はあの女が嫌になってねぇー。俺、お父さんっ子だったんですよぉ。それ知ってて、あんなこと言うのが信じられなくってね」

 この発言には、カイエンも、ヴァイロンも目を見張った。

 カイエンは、イリヤとマテオ・ソーサが初めて会った時、教授が言った言葉をまざまざと思い出していた。

(……それに多分、母親と確執があったから女性不信だ。どうです、似ているでしょう?)

 そうだったのか。

 カイエンは、こうやって自分の内面を少しずつカイエンに開示しながら、彼女のより近くへ来ようとするイリヤの小狡さを感じつつも、納得する思いだった。

 カイエンは母のアイーシャに認められず、捨てられ、母娘の関係をも否定された。

 ヴァイロンには父も母もいない。彼はアキノとサグラチカの家の前に捨てられていた。

 イリヤは母親に、父親だと信じていた人間を否定された。

「……ありがとう。よく分かった。私ももう、これから先を生きるためには、もう必要のなくなった繋がりにこだわるのは愚かだと思う。皇太后陛下のことだけじゃない。私にはもう、母親も父親もいない。お前たちと、同じだ」

 カイエンはもう、死ぬまで父のアルウィンとは反対の陣営にあり続けるだろう。出来れば、自分であの男の息の根を止めてやりたい程だった。

「だた、陛下のことが気になる。陛下はまだ、心を残しておられるかもしれない」

 カイエンはオドザヤが、アイーシャが隠していた肖像画から、母親の実の気持ちを知ったことを知らなかった。

「だから、行ってくる。もう、私自身はあの方アイーシャには、もとより、何の思い入れもない」


  

 カイエンが皇宮のオドザヤのところへ上がって行ったのは、その日の午後のお茶の時刻だった。

 オドザヤはカイエンをまずは、アイーシャの寝室へ通したが、アイーシャは鎮静剤で眠っているだけだった。カイエンはサウルの死んだ時以来、初めてアイーシャの顔を見たが、その老婆のような様子を見ても、ちっとも心が痛まない自分に嫌気がさしただけだった。

 カイエンはアイーシャには産み落とされたきり、抱かれたことも、優しい言葉をかけられたこともない。

 サウルの第四妾妃だった、あの星辰がアイーシャの暗殺を企てた、あの薔薇園での出来事でも、アイーシャはカイエンに何の感謝の言葉もかけなかった。アイーシャは徹底して、カイエンとの関係を認めなかったのだ。

 この女はもう、長くない。

 そう、はっきりと知らされてさえ、カイエンには母親への思慕の念などは起きてこなかった。

 驚いたことに、オドザヤの方も反応はカイエンと同じだった。

 彼女こそは、先帝サウルの第一皇女として、両親に育まれて来たとカイエンは思い込んでいた。だが、オドザヤは冷たい表情を崩すことはなかった。

「……コンスタンサから聞きましたわ。お姉様をお生みになっておかしくなられたお母様に、ジョランダがお酒を勧めたことをお姉様にお知らせしたと」

 オドザヤはカイエンを、自分の居間へ案内して行く。

 この頃、往年のアイーシャをしのぐほどに美しくなったオドザヤ。

 彼女は今日はきちんと黄金色の髪を固く結い上げていたし、ドレスもあのオルキデア離宮で着ていたもののような派手で際どいものではなかった。むしろ、そのドレスは灰色に近い銀色で、この頃の彼女の趣味で、装飾品も控えめだった。

 その後を杖を突きつき追うカイエンは、いつもの大公軍団の制服姿だ。髪も後ろで地味に結い上げて銀製の飾り櫛で止めていただけだった。それでも、制服の飾りボタンは大きな真紅を秘めた紫の最高品質の紫水晶だったし、ヴァイロンの紫翡翠の耳飾りと指輪が光っていたから、カイエンはオドザヤよりも煌めいて見えたほどだった。

 だが、肌の光り輝く美しさでは、カイエンはオドザヤには敵わない。

 オドザヤの肌の色は健康そうで、それが真珠のように内側から光り輝くほどに手入れされていた。カイエンの方も、肌の手入れはサグラチカやルーサによって入念になされていたが、元からの死人のような土気色の顔色を変えることは出来ないのだった。こればかりは、体内に大きな蟲を宿していることによって、やっと健康を保っているカイエンには如何ともしがたいことだった。

「あのね、お姉様に見せたいものがありましたのよ」

 オドザヤは、自分の一番奥の居間にカイエンを連れて戻ると、侍女のイベットにお茶の用意を命じた。その上で言ったのが、この言葉だった。

「お姉様には、あのザイオンの外交官官邸でのトリスタン王子の仮面舞踏会で、本当にご心配をおかけしましたわ。ああして、助け出していただいたのに、ろくにお礼も申し上げず、申し訳ありませんでした」

 オドザヤは、居間のソファに座るなり、カイエンに頭を下げた。カイエンはオドザヤの向かいに座ろうとしたが、オドザヤに促されてすぐ隣に座ったから、なんだかどぎまぎして咄嗟には何も言い返せない。

 イリヤとの新しい関係に、ちょっとだけうきうきしているカイエンにとっても、美しく変わりすぎたオドザヤは眩しく見えた。

「私、もう、ザイオンから三人の王子の肖像画が送られて来てから、あの仮面舞踏会までのことは、はっきりと認識出来ておりますの。馬鹿な真似をしたことも。信じてはいけない者を信じてしまったことも」

 カイエンも、オドザヤがオルキデア離宮で何やらし始めた、と聞いた時から、彼女がトリスタン王子への一途な恋心で動いてなどいないことは分かっていた。

「それは……幸いでした。その結果が、あの、皇太后陛下の侍女と、陛下の侍女の投獄に関係しているわけですね」

 カイエンがそう言うと、オドザヤは当然、とばかりにうなずいた。

「はい。あの者たちは、あの後、性懲りも無く私に毒を盛ろうと致しましたの。それで、その現場を抑えて投獄致しました。……お姉様、私、今夜にもあの者たちの処刑命令書にサイン致しますつもりです」

 この言葉には、カイエンの心の中の弱い部分が抵抗した。

 あの二人がしたかったのは、オドザヤの毒殺ではない。麻薬をもって皇帝を操ろうとした、ザイオンの王子にたらしこまれただけだと。

 でも、カイエンはそれを言葉にはしなかった。

「そうですか。積極的に指示は出来ませんが、陛下の御ためにはそれが一番でございましょう」

 ああ。

 カイエンは、ジョランダとカルメラの死をここで支持してしまったのだった。

 カイエンはぐぐっと喉元に迫る圧迫感を案じたが、あえてそれを飲み下した。にがくとも苦しくとも、自分が汚れて行く、まさに暗黒が自分の中に入って来る危機感を感じつつも、今は、それをするしかなかったのだ。

 そんな苦しげなカイエンの様子を、オドザヤは冷静に見ていた。

「……お姉様は、本当に生真面目で純粋な心をお捨てにならないのね。憎らしい」

 オドザヤがそう言うと、さすがにカイエンもはっとなった。

「エルネスト殿下にお聞きしましたわ。お姉様はあの方を決して愛することはないと。でも、お姉様は今、お二人の殿方にお心を振り分けておられます。知っておりますのよ。私も、もう何も知らない娘ではありませんもの」

 そうですか、とも言いかねて、カイエンは黙っていた。

 その時、話の進み方を図ったように、侍女のイベットが二人の前に紅茶と茶菓子を運んで来た。

「私、今日は、お母様のこともありましたけど、お姉様にぜひ、お見せしておきたかったものがあったんですの」

 そう言うと、オドザヤは居間から続く、自分の寝室の方へ入って行った。

 戻って来た時には、オドザヤは胸に抱くようにして、一枚の板に直に描かれた肖像画を持っていた。

「これですわ」

 カイエンは、オドザヤが自分の胸の前で掲げて見せた肖像画を、両目で確かに見た。

 紺色の肩を覆う髪、真っ白な顔。灰色の瞳。皮肉げな微笑。アストロナータ神殿の神像そっくりの顔立ち。

 あ・い・つ・だ。

 カイエンは、やっとの事でこう言うことが出来た。

「それをどこで? それは……その顔は……」

 オドザヤの方は、うれしそうに微笑んだ。

「ねえ。お姉様にそっくりでびっくりしましたの。でも、よく見れば男の方ですのね。きれいな方。お父様よりも、ミルドラ叔母さまよりも、エルネスト様よりも、お姉様にそっくりな方」

 カイエンには、もうその先のオドザヤの言うことが分かるような気がした。

「これは、アルウィン叔父様でしょう? お姉様の実のお父様。そして」

 オドザヤは言葉をそこで切った。

「……お母様が、ずっとずっとお父様と結婚なさったのちも愛しておられた方。それがこの方なんですわ」

 カイエンにはもう、言葉も出てこなかった。

「私、ずっとお母様が、寝室の枕元に飾っていらした、お父様の肖像画をなんだかとっても不思議に思っていましたの。理由はわかりません。でも、あのご自分だけが大切でかわいくていらっしゃる、ご自分だけが特別なお母様が、あんな枕元のすぐ近くに、お父様の肖像画を飾り続けているのが、本当に不思議でしたのよ」

「でね。あの仮面舞踏会の後に、大公宮でエルネスト様にお姉様へのお気持ちをお聞きしたら、急にその絵が気になりだしんです」

 ああ、そうか。 

 カイエンは、もうオドザヤの言いたいことのほとんどを理解していた。 

 自分を産んで、蟲のいる体の不自由なままに育つだろう自分を捨てた、自分勝手なアイーシャの心を、ずっと支配していたものののことを。

「私、あのジョランダを押しのけて、あの仮面舞踏会の明けた朝にこれを見つけましたの。これ、お父様の肖像画の下に隠されていたんですのよ」

 アイーシャ! 

 馬鹿な女!

 カイエンは吐き捨てたいような気持ちで、アイーシャを罵らずにはいられなかった。

 他にもどうにでも方法はあっただろうに。寝室の枕元にこんな肖像画を飾り続けていたとは。

「お母様の心に、ずっとあったのはこの方。この方のみでした。お父様の娘である私など、お母様にはどうでもよかったのです。リリもかわいそうだけど、そうなのね。そして、お姉様も! こんなに愛していたあの方にそっくりなお姉様でも、お母様の心には残らなかった……どうでもいい存在だった!」

 そこまで話すと、オドザヤの、アイーシャと同じ琥珀色の目に滂沱の涙が溢れ出て来た。

「ねえ、お姉様。私たち二人、お母様には二人ともどうでもいい存在でしたのよ。そして、お父様はお母様をご自分の死と一緒に連れて行こうとなさった。……私、お父様にも、お母様にも……」

(愛されてなんかいなかったのよ)

 カイエンはもう、何も考えられなくなった。

 彼女は、隣に、憎っくきアルウィンの肖像画を抱えて座っている妹を抱きしめて、こう言うしかなかった。


「もういいよ。もういいんだ。私たちはもうすぐ自由になれる。そして、それはあの人たちも同じなんだよ! だからもう、あの人達のことは……」


 あの人達のことは、あの人たちに持って行かせよう。

 カイエンは、オドザヤと一緒に、その後長いこと泣き続けた。そして、その時、二人で泣きあったこと、その時、二人の間に初めて本当の姉妹としての関係を築けたことを、後々、すべての神々に感謝した。


   





 そして、その日がやってきた。

 ジョランダがいなくなってから、アイーシャの部屋には、夜間、人が寄り付かなくなっていた。

 どうせ、病人は動けはしない。もう、一年以上も寝たきりなのだ。部屋の窓と扉を閉じ、少し遠ざかれば、狂乱するアイーシャの声などももう、聞こえなかった。最初のうちは大きかった声も、あっという間にかすれ声になってしまっていたのだから。

 だから、アイーシャが最後の力、それは本当はありえない力だった。一年以上も寝たきりの狂女にそんなことができるはずがないのだ……で、真夜中に動き出したことに気が付いた者はいなかった。

 その日は、月夜だった。

 アイーシャは、窓から差し込む、青い月の光を見ているうちに、何かを思い出した。

 それが、何なのかという認識はもう、彼女の頭にはない。

 あったのは、ただ、心の奥深くに隠し続けて来た、あの人の面影だけ。それだけが今、アイーシャの弱り、混乱し、ほとんど人間らしい働きを失い、壊れた頭のすべてを覆っていた。

「……アルウィンさま」

 その、頭の中いっぱいに広がるその人。その人は今、アイーシャを迎えに来てくれたのだ。

 あの人のところへ行かなければ。

 もう、あの人を捨てて行ったりはしない。あの人と別れたのは間違いだった。だから、あの人は自分の前から去って行ってしまったのだ。

 アイーシャは、アルウィンの生存を知らなかった。そのことは彼女には隠されたままだったのだ。

 だから。

 今度こそ、置いて行かないで。

 私を抱きしめて、そしてあなたの行くところへ連れて行って。

 もう、こんな世の中を生きて行くのはまっぴら!

 皇后でなんか、なくってもいい。

 あたしはアイーシャ。

 あなたと、下町の病院で出会った、貧乏役人の娘のアイーシャなのよ。

「大公殿下でいらっしゃいますね?」

 病院を慰問に訪れた、アルウィンを案内する係に任じられたアイーシャは、有頂天だった。

「……ぁ……いしています。アルウィンさま……」

 声にもならない息吹が、やっとアイーシャの、彼女の、二十年ぶりに自由になった心を解き放った。





 四月になったというのに、花寒とでもいうのか、真冬のように冷え込んだある日の朝。

 皇宮の女官たちは、皇太后が寝室にいないことに驚き、そして、すぐに中庭の真ん中の石畳の上、もう花も終わった椿の木の下で、それを見つけたのであった。

 まだ四十にもならぬのに、半分以上が白髪に変わった、もつれにもつれた長い髪が、冷たい石畳の上に広がっていた。幸いなことには、もう、老婆のように変わり果てた顔は、彼女がうつ伏せに倒れていたために見えなかった。

 だぶだぶの絹の夜着が、骨と皮ばかりに痩せこけた体も隠していた。

 だが、二本の、枯れ木のようになった、真っ白な腕だけは、長々と石畳の上で伸びていた。

 その、頭の上でまっすぐに伸びた二本の腕は、まるで、何かに抱きつこうとして、そのまま倒れ込み、石畳に叩きつけられたように見えた。 




 その女アイーシャは心の神殿に愚痴と嫉妬の女神を祀っていた

 その手から盃が離れることはなく

 ついに彼女の人生は曖昧になった


 千鳥足で、踊る道化師のように右往左往するしかない彼女を操っていた糸

 彼女は心底それを憎んでいたが、糸を切ることはできなかった

 糸がなくては立ってさえいられなくなっていたから


 アイーシャが選ばれたのはなぜか

 彼女が苦しんだ理由はなにか

 ついに彼女にはわからないまま


 彼を愛していると信じていた瞬間に

 彼女はついに戻れぬまま

 彼ら皇帝家の皇子たちサウルとアルウィンは彼女を支配し、消費し続けたから


 心はもう決して通い合わない

 いや、それまでも通い合ったことなどなかったのかもしれない

 仮面は一生、剥がれない

 「仕方がないの」

 もう化粧の下の顔も忘れたから


 それでも

 踊る

 踊るよ

 ただアルウィンのために

 でも、でも


 「神様、私をたすけて!」


 苦しい叫びは止まらない

 彼女は盃を手に、酔いしれたまま

 彼女は皆に疎まれながら

 皆に踊らされて一生を走り抜けるだろう

 そして、最期は冷たい石畳の上で凍って死ぬだろう


 彼女を見下ろす人々の中で

 二対の色の違う目が女を見下ろして泣くだろう

 安堵の涙を流すだろう


 そして

 彼女を葬る手は

 手の先に見える彼女の死に泣きぬれた目は

 どんな色をしていたのか


 彼女にはもう、見えはしない

 ガラスの目にはもう何も映らない

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