それは、とある貧乏役人の娘の最期

 カイエンは石畳の上で、棒立ちとなったまま、しばらくの間、動けなかった。

 すぐ隣にはオドザヤが、自分よりもやや小柄なカイエンの腕にしがみつくようにしている。大公宮のカイエンの元に皇宮からの急使がやって来たのは、今朝、起きるか起きないかの時間だった。まだ空は明け染めたばかりで、部屋の中も薄暗く、ランプの火が灯っていた。

 その日、カイエンがイリヤの部屋に行っていたりはしなかったのは幸いだった。

 皇宮からの急使は、ただ「一刻も早く皇宮へおいでください」との一辺倒だったので、カイエンにも執事のアキノにも、乳母のサグラチカにも、そして、それまで一緒に寝ていたヴァイロンにも、緊急事態が皇宮で発生したことは理解できていた。それも、要件を使者が言えないような事態だ。使者が書面をもってくる、その書面を用意する時間さえ惜しんだ「急用」なのだ。

 カイエンの頭にその時浮かんだのは、オドザヤによく似た顔。だが、今はもうその美貌の片鱗さえ残してはいない、気が狂った身を寝台に横たえたまま、一年以上が過ぎた女のことだった。

 皇宮では、オドザヤの命令で彼女に麻薬を盛っていたジョランダとカルメラの伯母姪が地下牢へ投獄されている。

 皇宮のサヴォナローラから、カイエンが聞いている話では、ジョランダというアイーシャの一番近くにいた侍女は、アイーシャにも何か良からぬ薬を飲ませていた節がある、と聞いていたのだ。

 とりあえずは大公軍団の制服だけは着込んで来たものの、カイエンは髪は後ろで簡単に巻き上げて銀の櫛でとめただけだった。化粧の時間などありはしなかったから、普段から土気色で死人のよう、と言われる顔色の悪さが際立って見えた。

 だが、この場ではそのカイエンの病的な顔色が、もっともこの場にふさわしいものに見えた。

 オドザヤの方は、寝間着の上に厚地の絹と毛織のガウンを着たきりだ。黄金色の髪だけは後ろで一つにまとめてはいたが、それは自分の寝室やそれに続いた私的な居間以外では見られるはずのない格好だった。普通ならこんな格好で皇帝が他の場所へ出てくるなど、考えられもしないことだ。

 二人のそばにいるのは、皇帝付きの女官長のコンスタンサと、皇宮の医師が二人。それに、これはもう皇宮に半分住んでいるも同然の宰相のサヴォナローラの、いつも通りの褐色の神官の服と長い筒型の帽子姿だけだった。

 オドザヤとコンスタンサは、親衛隊や侍従などをここへ入れるのは、とりあえず避けよう、と言う点で意見が一致したらしく、親衛隊や衛兵、侍従や侍女の姿はなかった。これを見つけた侍女達はもう、一室に押し込めてあった。

 彼らがいたのは、ミルドラが結婚するまで住んでいた、皇女皇子宮。そこは摂政皇太女時代のオドザヤが住んでいたところでもあった。

 今は、後宮から出された皇太后アイーシャが、もう回復の見込みのない病体を横たえている場所だった。

 その、中庭の真ん中の石畳の上、もう花も終わった椿の木の下。

 そこに、「誰か、目に見えない何かに抱きつこうとでもして、そのまま石畳に打ち付けられた」ようにしか見えない皇太后アイーシャの変わり果てた姿は、そのまま保存されていた。

 ジョランダの投獄以降のアイーシャの様子から、もうアイーシャは長くないとは思われていた。だが、こんな最期になるとは誰も予測していなかった。彼らは皆、この気の狂った病人は病床で力尽き、生き絶えるだろうと決めつけていたのだ。

 本来なら、長患いの母親にこんな最期を遂げられた、カイエンとオドザヤの娘二人は、取り乱したり、泣いたりしそうなものだった。だが、二人が二人とも、「恐ろしくも厄介なことになった」とは思っていたが、不思議に静かな心持ちだった。

 カイエンは、心のどこかで、「厄介者がいなくなった」と思っている自分を確かに感じていた。

 カイエンは間違いなくアイーシャが産んだ娘だが、彼女との間には何の思い出もない。親しく話したことさえなかった。顔を合わせれば、浴びせられるのは冷たい言葉。三年前のアルトゥール・スライゴ達の事件の時も、アイーシャはあの断罪の晩餐会で、カイエンにひどい言葉を浴びせて来たものだった。

(控えよ! 小娘が、皇帝陛下のお決めになったことに異議を挟むと言うの!?)

 アイーシャにとっては、もうあの頃にはカイエンは自分の産んだ娘ではなかった。ただの小娘。臣下の第一である大公になったばかりの小娘でしかなかったのだ。

 最後に会ったのは、もしかしたらアイーシャがリリエンスールを、第三妾妃のマグダレーナがフロレンティーノを身籠っていた、あの薔薇園での出来事……第四妾妃だった、螺旋帝国の旧王朝の遺児、星辰のアイーシャ暗殺未遂事件の時だったかもしれない。

 あの時も、ほとんど会話はなかったし、その後、シイナドラドへ赴く時に当時の皇帝サウルに挨拶に行った時も、アイーシャは出てこなかった。

 親が死んだと言うのに、涙も出ない、ひどい娘だ。

 そうも思ったが、それは心の表面にだけ浮き上がってきた感情で、それは言わば自己弁護のようなものだった。アイーシャの側もカイエンを疎んでいたが、カイエンの方もそれは同じだったから。

 では、オドザヤはどうか。

 カイエンはそっと、お互いに腕を絡めあった格好になっている、オドザヤの顔を横目で見た。

 そこにも、涙も悲しみも見えなかった。あったのは、カイエンと同じもの。困惑と、そして何かほっとしたような虚脱した表情だった。

 ああ。

 この女の死を悲しむ者などいないのか。

 カイエンは気が付いた。カイエンはコンスタンサを通じて、オドザヤが長年、酒浸りのアイーシャに悩まされて来ていたことも聞かされていた。

 そしてカイエンは、つい最近、急激に大人びて変わったオドザヤの姿を頭の中で反芻していて、気が付いたことがあった。

 この頃の、そう、あの仮面舞踏会マスカラーダ以降のオドザヤは、明らかに華やかに、そして大人びて美しくなった。

 だが、「宝石の君」と呼ばれ、十本の指すべてに指輪が光っていたようだったアイーシャの姿と、美しく変わったオドザヤの姿には、ある一点で、大きな違いがあった。

 宝石。

 オドザヤは小さな耳飾りや、華奢な細い指輪一つくらいしか、装身具と言えるものを身に付けなくなっていたのだ。ドレスや、リボンや生花を編み込んだ髪などは華やかだったが、彼女は意識的に「宝石」を多く身に付けることを避けている。

 オドザヤはもとより、母親のアイーシャにそっくりの姿形をしている。カイエンや父のサウル、伯母のミルドラとはこれっぽっちも似てはいない。カイエンにはもう分かっていた。

 オドザヤは、少しでもアイーシャと似ている部分を持ちたくないのだ。見せたくもないのだ。アイーシャのように着飾らなくとも、十分に自分は美しいということを、ことさらに表現しようとしているのだと。

 オドザヤもまた、もうアイーシャという女、おのれの母親を、心の中で切り捨てていたのだろう。

 その、アイーシャは今、この冷たい中庭の石畳の上で、冷たい石に顔を伏せた格好でこと切れている。

 ここにいる中では一番最後に到着したカイエンが来るまで、「お痛ましいことだが、このままにしておきましょう、死人はもう急がないですから」、と言ったのは、宰相のサヴォナローラだったのだという。

 彼はここへ来ると、もう彼より先にやって来ていた、コンスタンサと医師達の前で、簡単な死者への祈りも捧げていた。

「……お亡くなりになったのは、まだ真夜中のお時刻でしょう。昨夜は真冬のような冷え込みでしたからな。このようにお弱りになったお身体で……一年以上も寝たきりで動かなかったお身体で、急激な運動をしたためと、昨晩の寒さで、おそらくは心の臓が保たなかったのでは、と思われます」

 皇宮の医師がそう言うと、皇太后付きの医師が、残りの言葉を繋げた。

「そもそも、もう一年以上も寝たきりのご病人でいらしたのです。足も萎えきって、歩けるはずもない。お寝間からこの中庭まで、お一人で歩き出てこられるはずがないのです! それなのにどうして、このような場所へ出ていらっしゃることが出来たのか……」

「じゃあ、誰かがここまで連れ出して、寒い中、それも凍りそうな石畳の上に放り出して行ったとでも言うのか?」

 カイエンが皆を代表するように、そう聞くと、アイーシャ付きの医師は、もう一人の皇宮の医師と顔を見合わせ、首を振り振り何か小声で話している。

「……それにつきましては、実は、皇太后陛下の御容態が近頃、急変なさったため、国立医薬院の薬学の教授に問い合わせていたところでした」

 そして、カイエンの方へ顔を上げたアイーシャ付きの医師が言ったのは、そんなことだった。

「ああ、その、医薬院の薬学の先生がいらっしゃいましたね」

 サヴォナローラがどこか気の抜けたような言い方で、宮の出入り口の方を指し示した。医師を案内して来た侍従は、宮に入ることなく、そのまま外廊下へと消えていく。宮の入り口にはさすがに親衛隊の見張りがあるようだった。

 カイエンが無言のままのオドザヤと腕を組んで支え合うようにしている前へ、中年の薬物学専門の医師がやって来て、恭しく礼をする。

「国立医薬院のベラスコと申します。……この度は……」

 ベラスコは浅黒い顔の、南方の血を感じさせる、目鼻立ちのはっきりとした顔つきの男だった。

「こちらの医師から、皇太后陛下のお側近くにいた侍女が、皇太后陛下に医師の処方した薬以外の薬を与えていた可能性がある、と知らせが参りまして、調べておりました」

 彼は、オドザヤとカイエン、それに女官長のコンスタンサの方を、まっすぐに見た。

「恐れながら、皇太后陛下のお身体を改めさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか」

 オドザヤも、カイエンも、ここまで来ると混乱した頭の中でも、話の先がわかって来たところだったから、二人ともにうなずいた。

 そして、倒れたままのアイーシャの遺骸は、医師達三人の手によって仰向けになおされた。

 カイエンも、オドザヤもその時まで、死せるアイーシャの顔を見てはいなかった。彼女はうつ伏せに倒れていたからだ。

 医師たちは、カイエンやオドザヤの様子など気にもせずに、死せるアイーシャの体の改めにかかっている。

 だが、仰向けにされたアイーシャの、そのもう往年の美貌のかけらも留めてはいない、痩せるだけ痩せて、水気の失われた老婆のようにしぼんだ顔を見るなり、カイエンもオドザヤもはっとせずには居られなかった。

 アイーシャは、笑っていた。

 微笑みが、彼女の変わり果てた顔に、最後の表情として残されていたのだ。

 石畳に叩きつけられたために、彼女の額には青黒い跡があったが、その後すぐに息絶えたために、それは腫れあがりもせず、アイーシャの最後の表情をぶち壊しにしないで済んでいた。

 ひとしきり遺骸の検分が済むと、国立医薬院の薬学教授、ベラスコが立ち上がった。

「ジョランダという侍女が密かに、侍医の処方した鎮静剤の代わりに皇太后陛下にある麻薬をお飲ませしていたと聞いております。実は、これに耽溺した状態の人間に、我々医師が通常、鎮静剤として使用している薬を服用させると、鎮静効果の切れた後に、急激な覚醒効果をもたらすことが知られています。配合によっては、この二つの薬剤を混ぜたものを服用した場合にも、同様の効果がございます」

 このベラスコの言ったことはそこにいた誰もが予想もしなかったことだったので、えっ、とカイエンとオドザヤ、それにコンスタンサは頰桁を叩かれたような気がして、ベラスコの方を見た。サヴォナローラは、何か考え込むような顔で、一人、やや離れた場所で立っている。

「今、知られています、と言ったな? では、その薬の効果は一般的に知られているものなのか」

 カイエンが三人を代表するようにそう聞くと、ベラスコは静かにうなずいた。

「はい。俗に、覚醒剤アンフェタと申します。もっとも、知られておりますのは、このハーマポスタールの闇に巣喰う連中と、連中にそそのかされたいくつかの薬物商、それにこの組み合わせでの『覚醒状態』の快楽を知ってしまった、かわいそうな人たちだけに、ですけれども」

 カイエンはもちろん、大公軍団治安維持部隊の一番上として、そう言った「薬物窟」のような店が、帝都の下町を中心に存在していることは知っていた。その中毒者が起こす犯罪が、このところ増えてきていたからだった。

 治安維持部隊長の双子は、近々、薬物中毒者対策専門の捜査班を作りたい、とも言っていたくらいだ。

「では、あの覚醒作用のある薬というのは、医師が普通に使っている鎮静剤と、その、ジョランダだったか、が皇太后にお飲ませしていた薬との混合によって作られている、そして、それを提供している側の人間はその配合について、知っているということだな」

 くそ、イリヤを連れて来れば話が早かった。

 カイエンは間違いなく、この覚醒剤の流通だの何だのを、裏稼業の連中との持ちつ持たれつの関係で知っているだろう男の顔を思い浮かべた。

 犯罪行為というものは、単純なものばかりではない。その背後には、様々な要因が隠されている。この麻薬のように後から後から、新しい「要因」は薄暗い闇から発生し続けるのだ。

 カイエンは、ここで意識的にそれ以上、考えるのはやめた。アイーシャに関してはもう、すべてが遅きに失している。他の侍女どもにその覚醒剤やら、麻薬やらの耽溺者がいなければいいのだが。

 この話は後でも出来る。今は、アイーシャの遺体を動かし、きちんと安置する方を優先するべきだった。

「つまりは、薬物問屋の娘であるジョランダ・オスナは、その知識があった、ということだな。……あの店が麻薬を取り扱っていたことは、私たち大公軍団治安維持部隊の調査でも明らかになっている」

 カイエンはそこまで言うと、医師たちの方を眺めやった。もう、太陽は昇り、あたりは明るくなっていた。天気も晴天だ。

「地下牢のジョランダ・オスナに確認せんと確信は出来ないが、おそらくはそのジョランダとやらは、自分が皇太后陛下のお側から離れるようなことになったら、皇太后陛下に自分が与えていた麻薬の代わりに、正しく侍医が処方した鎮静剤が使われると知っていた。そして、その結果として、寝たきりの病人が真夜中に覚醒状態となり、立ち上がるか這い回るかして……こんな始末になることも予想は出来ていた、ということだな。医師の方々、もう、皇太后陛下のお身体をお部屋へ戻しても差し支えないでしょうね?」

 この女はもう死んでいて、もうその死因も明らかになったのだから。

 カイエンがそう言い切ると、さすがにオドザヤとコンスタンサが、はっとしてカイエンの顔を覗き込むようにして、争うようにこう言った。

「……お姉様、では、あのジョランダは……?」

「あの女らしいことでございます」

 カイエンはもう、自分が皇太后アイーシャの葬儀について考えている、ということに苦笑いしながら、こうとでも言うしかなかった。

「スキュラでのことや何やらで騒がしい時ですが、皇太后陛下のご葬儀は、過去の事例通りに行わなくてはなりますまい。女官長、もう侍女たちを呼んでもいいだろう。御遺体を寝室へお運びし、医師たちと御遺骸のお清めなどを始めてくれ」

 カイエンは糸杉のように真っ直ぐで、背の高い、女官長コンスタンサ・アンヘレスの顔を見上げて、オドザヤの代わりにこう命じていた。本当ならばオドザヤが命じるべきであったが、カイエンはそのことを自分の方が、はるかに冷静に言えることは知っていた。

「まずは、皇太后陛下の崩御の発表だが。……サヴォナローラ、今日にするか、明日にするか、意見はあるか」

 カイエンが、少し離れた所に立っているサヴォナローラの方へそう言うと、サヴォナローラはもういつも通りの顔つきで顔を上げた。

「そうでございますね。国立医薬院からベラスコ先生をお呼びしたり、ここから侍女たちを遠ざけたり、親衛隊もこの皇太后陛下の宮で拠ん所無い事態が起きたことは、とうに承知しておりましょう。今日の午後にでも発表して構わないかと思います。……リリエンスール様の御出産から、ずっと寝たきりであられたことは、もはや周知の事実。そう、驚く者もおりますまい」

 カイエンとオドザヤは、サヴォナローラの落ち着いた様子を見、寝室の方へ毛布で巻かれて担がれていくアイーシャを見送ると、どちらともなくこう言っていた。

「陛下」

「お姉様」

「とりあえず、今日はもうしようがない。表向きのことは宰相に任せましょう」

 カイエンがそう言うと、オドザヤはやっとカイエンの腕から、絡めたままだった自分の腕をそっと抜いた。

「そうですわね。私もひどい格好で出てきたものだけれど、お姉様も……制服はともかく、そのお髪のまとめ方、ちょっとひど過ぎますわ」

「そうですね。ろくに顔も洗わずに来ましたから。さすがの私も、こんなひどいなりで皇宮へ上がって来たのは初めてですよ」

 それはその通りだ。

 アイーシャが普通に寝台でこと切れていたなら、皇宮から大公宮へ「急使」が来ることなどなかっただろう。それこそ、死者は急がない。それは、オドザヤからかサヴォナローラからかの書簡によっての使いとなったはずだ。 

「私、お姉様と朝のお茶をご一緒したいわ。お母様のお見送りの儀は明日の夜以降になるでしょう。さすがに今夜までに準備をするのは無理でしょうから」



 そして。

 二人はオドザヤの一番私的な居間で、もう明るい朝日の差し込んでいるテラスを前に、三人がけのソファに並んで座っていた。

 ついこの間、コンスタンサに、オドザヤが自身の暗殺未遂容疑で、ジョランダとカルメラの二人を投獄したことを聞いて、皇宮を訪れたばかりである。その時、オドザヤがアイーシャの寝室で見つけたというアルウィンの肖像画を見せられたのが、この部屋だった。

「イベット。お姉様はコクがあって甘みのある香りのお紅茶がお好みなの。ミルクを落として飲まれるのがお好きなのよ。色も、濃い柘榴色の出るお茶を選んでちょうだい」

 そう、オドザヤがイベットに命じる言葉を聞いて、カイエンはちょっとびっくりした。オドザヤがカイエンの好みの茶など知っているとは思わなかったからだ。だが、そう言えばオドザヤが大公宮へ来た時に出していた紅茶は、いつもそんな種類のものだったかも知れない。

 カルメラが投獄された今、オドザヤの一番近しい侍女のイベットの淹れた紅茶を飲みながら、カイエンが言ったのは、さっき見て来たアイーシャの最期の様子とは、近いが違う話の方だった。

「陛下。……皇太后陛下のことはさておき、ジョランダとカルメラの二人の処遇はどうなさいますか」

 カイエンがこのことをオドザヤに聞いたのは、先ほど、ジョランダが本来アイーシャに与えるべき、医師の処方した鎮静剤ではなく、自分の実家の薬物問屋から持ってきた麻薬を代わりに飲ませ続けていたことを知ったこともあった。

 だが、それより前に、オドザヤはもうとっくに彼女らの処遇について決めていただろうと思っていたこともあった。

 皇帝毒殺未遂の上に、皇太后への麻薬投与の事実が明らかになったのだ。後はオドザヤが彼女らの「処分」について決め、命令書にサインすれば済むことだった。ここ皇宮で起きた事件の裁量は皇帝がするものと決まっている。それには、宰相府のサヴォナローラも、元帥府のエミリオ・ザラも、大公のカイエンも口を挟むことは出来ない。

 だから、カイエンが聞いたのは、オドザヤがどういうタイミングで彼女たちをどう「処分」するのか、ということの確認だった。

「……そうですわね」

 オドザヤは先ほどまでは後ろで一つに、くくるだけはくくっていた髪を豊かに胸元や背中へ流している。寝起きのガウン姿のままということもあって、カイエンはそこに病床から起きて来たアイーシャがいるような錯覚を起こしそうだった。もっとも、アイーシャはもう今のオドザヤのような麗しい姿を失って久しかったが。

 だが、次にオドザヤが言った言葉は、あの、皇后の権威を周りに堅持し、権勢を欲しいままにしていたが、実際には形だけの見識しか持っていなかったアイーシャには決して言えない言葉だった。

「皇太后のことは、午後にも発表されるでしょう。一緒に、あの者たちの犯した罪状も表沙汰にしてしまったらどうかしら、と思います。私だけでなく皇太后にも毒を盛り、その結果として皇太后陛下は身罷られた。娘である私が、あの者らに一番厳しい処分を下したとしても、市民たちは納得してくれるのではないかと思いますの」

 オドザヤはアイーシャのことを、もう「お母様」とは呼びもしない。

 そんなオドザヤの様子を、熱い紅茶のカップを片手に、冷静な目で見つめるカイエンへ、オドザヤは寂しそうな笑いを向けた。

「お姉様は、母親が死んだっていうのに、泣きもせずにこんな話をしている私を、どう思われます? なんて冷たい娘だとお思いになっておられるのかしら。それに、私が皇太后陛下からジョランダを遠ざけなければ、こんなことにはならなかったと思われますかしら?」

 オドザヤのカイエンを試すような言い方にも、カイエンは動じなかった。

 あの仮面舞踏会マスカラーダの翌朝、大公宮のカイエンの居間で、オドザヤと初めて姉妹喧嘩のような形になって以降、カイエンはオドザヤの変化をそのまま受け止めようと思っていた。オドザヤはアイーシャとは違う。皇女として育ち、皇太女時代には帝王教育をも施されているのだ。

 トリスタンの出現には、市井の娘のように愚かな行動に出たオドザヤではあったが、あれにはカルメラと、彼女の使った麻薬が関与していた。

「……別に。私は陛下と同じく皇太后陛下の産んだ娘ではありますが、私はあの方とはほとんど関わりなく育ちました。あの方が、私を産んだ後に精神の均衡を崩され、あのジョランダという侍女の勧めるがままに酒に逃げ道を見つけたこと。そして、それはその後も改められることもなく続き、皇帝陛下を苦しめ続けた、ということは女官長から聞いておりますから。それと、ジョランダの投獄はもっともなことだと思っております。結果的には、それによって皇太后陛下は薬の覚醒作用であのような事となりましたが、そうならずとも事は時間の問題でしたろうから」

 カイエンは、静かに付け足した。

「まあ、皇太后陛下は、不幸と言えば不幸な方でしたのかもしれませんが、同情する気持ちにはなりません。私は、先帝陛下があの方を道連れにして逝こうとされたことも見知っておりますし」

 そうだ。

 サウルがリリエンスールの出産後、狂乱したまま正気に戻らず、寝たきりの病人となっていたアイーシャの首を絞め、死出の旅の道連れにしようとしたのも、今ならうなずける。彼はあのアイーシャを、オドザヤやカイエンを苦しめることはあっても、助けることなど絶対にないおのれの妻を、この世に残したまま、あの世とやらへ行くわけにはいかなかったのだろう。

「先日うかがった、あの肖像画の件もございます。あいつアルウィンはまだ生きておりますが、もう二度と皇太后陛下の前に現れることはありません。あいつの方は、もう皇太后陛下の生き死になど、気にもしていないでしょうしね」

 サウルは最後まで、身勝手ではあったがアイーシャのことを考えていた。だが、あのアルウィンはもうとっくにアイーシャなど切って捨てていたはずだ。多分、それはカイエンがこの世に生まれて来た時に。

「それに……微笑っておられた」 

 カイエンがそう言うと、オドザヤはただ、うなずいた。あんな死に方をしたアイーシャの、最後の表情を思い出し、おそらくはカイエンと同じことを考えたからだろう。

「私も、もう少し若かったら分からなかったかも知れませんが、今は分かります。……皇太后陛下は、最期に会いたかった人間に会えたのでしょう」

 アルウィンに。その、まだ出会って間もない頃の彼の幻影に。

 そうでなくては、あの遺体の誰かに抱きつこうとしてそのまま倒れたような様子も、微笑みの理由も説明できない。

「こうなっては、ジョランダとカルメラの処分は、早いほうがいいですね」

 カイエンが言葉に出したのは、もうアイーシャの死の先のことだった。

「ええ。罪状が罪状ですので、この皇宮の首斬り役人に、本当に久しぶりに仕事を頼むことになりますでしょう」

 オドザヤの答えも、はっきりしていた。

「ジョランダとカルメラに、直にご処刑命令をお伝えになりますか」

 カイエンはそんなことはありえない、と思いながらもちょっと意地悪く聞いてみた。

「いいえ、まさか。あの女は、きっと最後の最後に、私に一生残る毒の矢じりを用意しているはずですわ。そういう女です。愁傷に沙汰を受けるような人間ではありません」

 オドザヤの返答は、カイエンの予想とは違っていたが、聞いてみればもっともなことだった。

「確かに。恐ろしい恨み言を用意して待ち構えていそうですね。だが、もう彼女から聞き取るべきこともございませんしね」

 カイエンにもオドザヤの言うことはもっともだとしか思えなかった。

 どうしてジョランダが、まだアイーシャが大公妃だった時代から、カイエンを産む前からそばに付いていたアイーシャを、最後の最後で害するようなことをしてのけたのか、それはカイエンもオドザヤも知りたいと言えば知りたかった。

 だが、それはあくまでアイーシャとジョランダとの間でのことでしかない。カイエン達は知らぬままでも一向に構わないことなのだ。聞けば、彼女らの心に残るのは、後味の悪さだけだろう。

 先帝サウルは周到に用意された遺言書を残したが、カイエンのものにも、オドザヤのものにも、アイーシャの今後のことについては何も触れられてはいなかった。それもそのはずで、サウルはアイーシャを自分の死後まで生かしておくつもりはなかったのだ。

 オドザヤに薬を盛った件では、もう二人共がザイオンの第三王子トリスタンにそそのかされてのことだ、と認めている。その上で、オドザヤはオルキデア離宮へトリスタンを呼んで、自分がそれを知ったことを伝えていた。

 トリスタンさえ「そんなことをジョランダやカルメラに示唆したことなどない」と、彼女らの主張を否定してくれれば、このことはジョランダとカルメラにすべて背負ってもらって処断する、と、もうとっくに決まっているのだ。

「あら。お姉様ったら、もうオルキデア離宮でのこともご存知なのね。……さすがはこの街の大公殿下ですわ」

 オドザヤはカイエンの話し振りから、オルキデア離宮で彼女がしていることを、もうカイエンが知っていることに気が付いたようだった。

「ええ。危なく読売りの記事になるところだったんですよ。陛下、この街はこのパナメリゴ大陸でも、随一の発展した街でしょう。市民たちが自主的に生活を営み、生きている街、文化の爛熟した街なのです。ですからこそ、他国はこの国を、この街を狙ってくるのです。陛下にはまだ申し上げたことがなかったが、陛下は何をしてもこのハウヤ帝国の人民を裏切ってはなりません。いえ、裏切っていると思わせてはいけないのです、分かりますか」

 オドザヤはカイエンにこう言われると、ちょっとぽかんとした顔になった。

「先帝サウル陛下は、この点では慎重で堅実でおられました。市民たちの言論をある程度自由になさり、それによって旧態依然とした貴族どもを牽制なさっておられた。ご自分の政治を邪魔する勢力こそ、国民の敵だとはっきりと知らしめておられたのです」

 ここまで聞くと、オドザヤにはカイエンの言いたいことがわかったようだった。

「ああ、つまりはオルキデア離宮でのことが、ただの私のお遊び、奢侈を尽くした堕落したサロンだと思われてしまってはまずい、ということですのね」

 カイエンはうなずいた。

「確か、セナクロ・ソラーナと言われているのでしたね。これが陛下の乱脈を示すものでも、政治的なものであっても、実は民には直接、関係あることではないのです。それでも、読売りの記事になれば人々は色々憶測するでしょう。今回は、新聞社の方で、出すのを自粛してくれましたよ。彼ら、知識階級の市民たちは陛下のなさることの『危うさ』を感じ取っているんです」

 オドザヤは黙り込んだ。新聞社の方で、出すのを自粛してくれた、その言葉に、自分のやっていたことの綱渡りの危うさを今更ながらに感じたのだった。

「私のことでは、色々記事や噂になっておりますね。陛下ももう、本人から聞いてご存知の、エルネストとの不仲とか、これも陛下ご存知の、うちの軍団長とのあれこれとかですよ。でも、これは大公である私のあくまで私事で、市民たちはこういう貴族の家の私的な事情のあれこれを、ただ、楽しんでいるだけなんです。私が大公として、まともな範囲内に収まっている限り、これらは市民たちに格好の暇つぶしの話題やら、覗き見根性だのを刺激しているだけなんです」

「お姉様が、まともな範囲内に収まっている限り……」

 オドザヤは、カイエンの言ったことを鸚鵡返しに呟きながら、考えている様子だった。

「もう一言、申し上げましょうか。陛下はこの国の頂点におられるお方です。そして、この国を動かすお方、つまりは政治を担うお方です。この帝都ハーマポスタールの治安と安寧を担う……これだけでも私には手に余る代物で、部下がいなくては何もできませんがね……大公とは違うということです」

 オドザヤは、静かに自分のカップを取り上げると、もう冷めかけた紅茶を一口飲んだ。

「では、私、出来るだけ早く、トリスタン王子との婚約を急ぎますわ。これも私には綱渡りですけれども、いつまでも皇帝である私が配偶者を決めずにあることは……まともな範囲内に収まるためにはよくないこと、なのですわね」

 ああ、こんなにも情勢が変わるとは。

 ザイオンから三人の王子の肖像画とともに、縁談話がきた頃とはもう、こんなに事態は違ってしまっているのだ。今や、トリスタンはジョランダたちのことでオドザヤに弱みを握られているのだ。

「ああ。それなら、こうした方がいいですわ。ジョランダは処分いたしますけれど、カルメラの方はまだ残しておきましょう。……お姉様はどう思って?」

 今度は、カイエンの方が試される側となっていた。なるほど、トリスタンを手の内に確保しておくには、証人のカルメラは生かしておいたほうがいいのである。

「……なるほど。そうですね、かわいそうですが、彼女には生きたまま地下牢の住人でいてもらったほうがいいようです」

 我ながら、ひどいことを言っているな、ともカイエンは思った。だが、カルメラのしたことを考えれば、トリスタンへの牽制のためにはそれが一番いいと思われた。

 カイエンとオドザヤは、その後、黙ってお茶を飲み終わってから、やっと自分たちの空腹に気がついた。

 自分たちの母親があんな死に方をしたというのに、腹が空くなんて。二人は二人ともに生真面目にそう思ったが、すぐにそれを打ち消した。

 スキュラでの戦端はもう開かれている。今日の午後に皇太后の死を公表すれば、葬儀まで忙しい日々が続くだろう。アイーシャの死を公表すれば、喪に服さねばならないオドザヤが、トリスタンとの婚約を発表するにも時間がかかる。

「お姉様、意地汚いようですけれども、まずは体力ですわ。私はもう麻薬の後遺症は抜けて、元に戻りましたけれど、お姉様は元からお弱いのですから、しっかり召し上らなくては」


 とある貧乏役人の家に養女に入り、二人の血の繋がらぬ弟を育て、その後に当時の大公アルウィンの妻として見出され、大公妃となってカイエンを産み。その後、アルウィンとの婚姻はなかった事とされて、初の平民皇后として皇帝サウルの皇后となった女、アイーシャ・ディアナ・マスカレニャス・デ・ハウヤテラ。

 まだ四十にもならぬ年齢でこの世を去った彼女には、三人の娘があった。その三人の威名によって、彼女の名前も後世に残る事となる。






「……ジョランダ・オスナ、そなたを皇帝陛下の命により、極刑と処す」

 獄長はジョランダの入れられている檻の前で、短くそれだけを告げた。その横には、もう首斬り役人達が斧を手に佇んでいる。複数いるのは、もとより首斬り役人を家業とする家が複数あったのと、今は彼らだけがここの獄吏として職務についているからだった。

 ジョランダは、そのまま踵を返そうとする獄長を見て、慌てたようにこう言わずにはいられなかった。

「あの! 陛下はここへはいらっしゃらないのですか。それに、あの、あっちのカルメラへの御処断は?」

 カルメラはやや離れた位置の檻の中で、息を潜め真っ青な顔でひたすらに涙を流し続けていた。彼女はもちろん、伯母と共に断頭台の露と消えるであろうと覚悟していた。

「知らんな。陛下はご多忙であられる。お前にはもう、分かっておるはずだろう。本日未明、皇太后陛下が御隠れになった。皇帝陛下に毒を持っただけでなく、皇太后陛下の御崩御にも関与していたとあれば、極刑は相当。執行は即日、と決まっている」

 獄長は陰気な中年男だったが、彼は今日までは獄吏だった、首斬り役人達を促した。

「この女を引っ張り出せ。奥の処刑場へ引っ張って行け。お前たちも今日だけは本来のお役目に戻れるというわけだ。……せめて、手元が狂わんようにしろ」

 首斬り役人たちは、無言でうなずき合い、ジョランダの檻の鍵をがちゃん、と音を立てて開けると、痩せた傷だらけの中年女を手取り足取りして担ぎ上げるようにして、檻の外へ引っ張り出した。

「そんな! いやだよ! あっちのカルメラは? あの娘への御沙汰は? いや! 痛いよ、痛い痛い痛い!」

 地下牢の並ぶ廊下に引きずり出されたジョランダは、冷たくてじっとりと濡れた石畳の上を引きずられながら、叫びに叫ぶ。手枷足枷の付けられた体は、石畳に金具が打ち当たるたびに、その上を跳ねた。

 カルメラの入れられている檻の前を通過した時、それは頂点に達した。

「おかしいじゃないか! 皇帝陛下に薬を飲ませたのは、この娘だよ! あたしじゃない! なんであたしだけが引っ張られていかなきゃならないんだい!」

 カルメラは何が何だかわからなかった。だが、今、刑場へ引っ立てられて行くのは伯母一人。それだけは理解していた。

 獄長も、首斬り役人達も、何も答えない。

 やがて、長い廊下の終わりが見えてきた。

 そこは、全体としては円形をした、床も壁も小さな黒い石で覆われた中庭のような場所だった。周囲には高い石造りの壁がそそり立っている。

 その、石畳の真ん中に、異様な形の木製の断頭台が据えられていた。これも、もう長いこと使われていなかったものだった。

 ジョランダは瞬く間に、後ろ手に両手を腰の位置で固定されていた。

 両足は元から足枷によっていましめられているので、動くことなど出来ない。

「あーっ、うわーっ! 馬鹿言うんじゃないよっ! なんであたしだけが! いやだよぅ! カルメラはどこに行った!? どうしてあたしだけが! いやだ! いやだ! いやだ!」

 ジョランダは暴れに暴れたが、もう、彼女の体は断頭台から動かすことは出来なかった。

「目隠しを」

 獄長がそう命じると、あっという間にジョランダから視界さえもが奪われた。

「畜生め! あのアイーシャの役立たずの畜生め! あのクソ娘ども! オドザヤの馬鹿め! カイエンの馬鹿め! お前達は馬鹿だよ! あたしの言葉を聞かないなんて! お前達は……」

「お前達は、あのアイーシャの本当の気持ちを知りたくないのかい!? あたしだけが、長年お側にいた、従姉妹のあたしだけが知っている、アイーシャの本当の心を聞いておかなくていいのかい!? あたしだけが知っている、あの女の真実の姿を、知らないままでいいのかい!?」

 ジョランダの首の上に、首斬り役人の一人が大斧を振り上げた。

「ああ! アルウィン様! サウル様! あんたがたはこんなことを許しなさるのか!? あの娘達が、あの……」


 がつん。


 断頭台を叩いたのは、無情な大斧の音。


(アイーシャ様ぁ、このジョランダを、あっちで待っていてくださいよぉ。あっちに行ったら、あんたはもう皇后でも皇太后でもない、あたしの従姉妹で、貧乏役人のうちへ養女に出されたただの女だ。今まで、わがまま放題に付き合って、こき使われた恨みを晴らさせて貰いますからねぇ)

 薬物問屋の娘、ジョランダ・オスナは、自分が言っていた通りに、貧乏役人の娘の死の後を追うようにして処刑された。

 その事実は、この日、午後遅くに皇宮から発表された、皇太后アイーシャの崩御の知らせの裏で、何者の注意を引くこともなく処理された。






 ハウヤ帝国の皇太后アイーシャ・ディアナ・マスカレニャス・デ・ハウヤテラの死去が、遠いパナメリゴ大陸の東側に届くには、一ヶ月近くの時間がかかった。

 これでも、人から人への口伝えよりは、はるかに早かったのである。

 それは、今は螺旋帝国に本拠地を置く、「桔梗星団派」の連絡網を使って知らされたものだったから。

「そう。アイーシャ、とうとう、死んじゃったんだ」

 紺色の髪に、真っ白で華奢な、アストロナータ神の神像にそっくりな顔立ち。それは、遠いハウヤ帝国のハーマポスタール大公カイエンにそっくりな顔をした、だが、もうとっくに中年にさしかかった男。

 その本来の名前は、アルウィン・エリアス・エスピリディオン・デ・ハーマポスタールと言う。

 今は、チェマリと呼ばれている、工作機関、桔梗星団派の頭だった。

 彼は、今、その死を知らされた、ハウヤ帝国皇太后アイーシャの実の兄である、側近中の側近のアルベルト・グスマンの、金属の円盤を思わせる金色の目を見上げた。

「儚いことだね。……ハーマポスタール大公で星教皇カイエンを産み、ハウヤ帝国の皇帝オドザヤを産み、そしてあの運命の子供リリエンスールを産んだってのに、自分は不幸だと思い込んで、本来の美点のすべてをむしり取られて、本当に醜く衰え果てて、やっと死ねたんだね」

「チェマリ……」

 グスマンは、螺旋帝国風の調度でまとめられた部屋の、アルウィンのそばに屈み込んだ。

「時を同じくして、あの、ジョランダ・オスナも処刑されたそうです」

 アルウィンは、すぐにはジョランダの名前を思い出せないようだった。だが、彼はそれを思い出すと、くすくすと笑い出した。

「あはは、そうなの。そりゃあ、傑作だ。それじゃあ、あの娘達はアイーシャのもジョランダのも、二人の醜い女の呪いを乗り越えて見せたってわけだね! さすがは僕の娘、そして兄さんの娘だよ!」

 母を同じくする従姉妹で姉妹、仲違いすることもなかったか。 

 トリスタンのことも、ザイオンの思惑も、スキュラの動きも、すべてにアルウィンの意思が働いていた。それを、あの年若い娘達は、とりあえずは乗り越えて見せたというのか。

「ああ。娘どもは期待通りの出来上がりだ。ある意味じゃ、生意気なことに期待以上だったってわけだ! 死んだ兄さんサウルも、まだ生きている姉さんミルドラも、この辺りは満足だろうね」

「チェマリ……」

「あはは、大丈夫だよ。僕が大切なのは、カイエンだけ。それは僕が死ぬまで変わらないよ。……とうとうあの強情なイリヤボルトもカイエンに全面降伏したって言ってたね? ああ、カイエンは今、充実しているだろうなあ。あの子の男どもは、みーんな、僕がカイエンのために用意した男達だけど、誰一人として僕の方には残らなかったね。ヴァイロンもエルネストも、あのイリヤボルトも。みーんな僕の洗脳から抜け出してカイエンの側についちゃった」

 あはははは。

 アルウィンの笑いを、グスマンは、黙って聞いていた。こんなことはいつものことだ。

「僕はカイエンを愛してるけれど、実のところ、あの三人にはそれほど期待してなかったんだ。だって、カイエンは顔はともかく、あの通りの体だからね。取り柄は馬鹿みたいに真正直で真っ直ぐなところだけだ。それも最近は変わっては来たんだろうけど、まさか、あの三人が溺れこんで離れないような手管を……」

「チェマリ!」

 今度ばかりは、グスマンはそれ以上アルウィンの言葉を聞きたくなかったので、強い声を出した。

「……おやおや。お前は生真面目なんだね。いいじゃないか。カイエンは僕の思っていたよりも、ずっと凄い子だったんだってことだよ。真面目一方なだけじゃなくて、あの一筋縄じゃいかないような男どもを、精神的にも肉体的にも従える力も持ってたってことなんだもの。最後にハーマポスタール郊外の街道で会った時にもう、分かっていたよ。あの子はイリヤボルトを通じて、大公軍団をしっかり掌握しているとね。……僕がお前を操っていた以上に」

 これには、グスマンは何も答えなかった。

「面白いな。あの子は僕をいつまでもたぎらせるね。この調子で、僕が死ぬまで引っ張り回して欲しいもんだ。一緒にいた頃には、全然、そんな凄いところのある子には見えなかったのにね。それでも僕はあの子だけがかわいかったんだけど。だって、あの子だけがあんなに僕にそっくりだったんだもの。……お前のいう通りに離れてみてよかったよ。あのまま一緒にいたら、僕はカイエンのこんな面は見ることは出来なかっただろう」

「子供は、いつかは大人になるものなんですよ。……親を離れて、親の支配から抜け出して」

 それを、あなたは一向に分かろうとはしない。

 グスマンはそう思ったが、あえて言葉にはしなかった。彼自身には子供はなく、だからこそそうしたことが客観的に見られるのだということを、嫌という程に知っていたからだった。

「さあ、では次の手を打たねば。ねえ、チェマリ」

 そう言うグスマンを、アルウィンはしんねりとした目つきで見た。

「そうだね」

 終わらないのだ。

 カイエンたちが自分を地獄へ突き落とすまでは。自分のこの罪業の果ては。

「そうだねえ」

 そう呟いて、考え込んだアルウィンの目の奥をちらりと通り過ぎたのは、琥珀色の輝き。もう、この世を永遠に離れて行った、彼のたった一人の「妻」の目の色だった。

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