ドネゴリアの赤い星
ハウヤ帝国の北のはずれ。
自治領スキュラでは昨年、時の元首エサイアスがマトゥサレン一族出身である夫人イローナによって殺され、イローナは自分を女王と称し、ハウヤ帝国の属国からの離脱を宣言した。
子のないエサイアス夫妻へ、スキュラの世継ぎとして送り込まれたのは、エサイアスの妹キルケの産んだ、ハウヤ帝国第三皇女アルタマキアであったが、彼女はスキュラ領へ入るとともに拉致された。
それからもう、半年以上、と言うよりは一年近くになる。アルタマキアがスキュラへ入ったのは、去年の夏なのだ。
北国が雪に閉ざされる冬の間、ハウヤ帝国側の土地の領主である、テオドロ・フランコ公爵の軍勢と、サウリオアルマとは、国境の川を挟んでスキュラ側とにらみ合っていた。
それは、雪の中の進軍にハウヤ帝国側が慣れていないこともあった。その上に、冬になるかならないかの頃に、虜囚となっていたアルタマキア皇女が監禁場所から脱出したこと。スキュラの唯一の産物と言える、泥炭の加工業者の村の一つに匿われている、との情報が入ったため、雪解けと共に全軍でスキュラへ進軍することにほぼ、決していたからである。
三月中旬。
もうすでにハウヤ帝国の軍勢は、去年から今日あることを考えて用意されていた、舟橋でもって川を渡り、スキュラ側へ進軍を開始していた。一度、開戦となれば、兵馬装備共にスキュラの国境警備など、サウリオアルマとフランコ公爵軍の敵ではない。去年、川の橋をスキュラ側に焼かれてから、ハウヤ帝国側が渡河せずに動かなかったのは、ひとえにアルタマキアの行方が掴めてなかったからなのだ。
「アルタマキア皇女殿下のお側には、もう、サウリオアルマの影使いや、うちの影使いも到着している。皇女殿下の身柄はすでに確保し、身軽な兵士で編成した特別部隊もそれと合流するはずだ」
テオドロ・フランコ公爵は、サウリオアルマの将軍、ガルシア・コルテスと共に、スキュラ側の街道沿いにまっすぐ、女王を僭称しているイローナがいるはずのスキュラ第一の街、ドネゴリアへと進軍中だった。
もう、ドネゴリアへは明日明後日にも到達するところまで来ていたのだ。
フランコ公爵領のラ・フランカではもう雪も溶けていたが、スキュラに入ると、まだあちこちに雪が残っていた。だがもう、馬の足が滑るような凍った道ではない。
「おそらく、今日明日にでも連絡が入るでしょう。ザイオン軍が第森林地帯を越えて、スキュラ軍に助勢する気配はないそうですから、こちらはまっすぐにドネゴリアへ向かい、その途中で合流できるかと思われます」
ガルシア・コルテスは、長い髭をしごきながら、轡を並べるフランコ公爵の一見華奢な姿へ目をやった。
ハーマポスタールのオドザヤや宰相のサヴォナローラからの書簡では、スキュラ平定後は、スキュラはフランコ公爵領へ併合されることになっている。サウリオアルマもラ・フランカでしばらく北の守りを固めるために駐屯することが決まっていた。スキュラ平定後は、スキュラ産出の泥炭、石炭から上がる利益のほとんどをこのフランコ公爵が握ることになるのだ。
二人ともに鎧、兜で身を固めている。四月とはいえ、まだスキュラではかなり寒いが、二人とも寒さには慣れているし、夏に装備を固めて戦争するのを考えたら、重たい鎧兜で無駄に汗をかくこともないこの季節はありがたいくらいだった。
「そうですね。皇女殿下のご無事なお姿を早く確かめて、ハーマポスタールの皇帝陛下をご安心させて差し上げたいものだ。……ところで、マトゥサレン島方面へ向かわせた船団と、陸から向かわせた軍勢は間に合うかな」
フランコ公爵や、コルテス将軍は、女王を名乗っているイローナ、人質としていたアルタマキアに逃げられた彼女は、もう冬のうちに故郷のマトゥサレン島へ逃げたのではないか、と踏んでいた。だから、ドネゴリアへ向かう自分たち本隊とは別に、別部隊を海と陸二方からマトゥサレン島方面へ差し向けていたのだ。
こちらも、向こうからイローナを差し出さないようなら、島ごと平定するよう命じてあった。
「影使いの持ってきた、アルタマキア様からの手紙には、マトゥサレン島でも大惣領と小惣領とで意見が違い、争っているとのことでした。……お労しいことですが、アルタマキア様はイローナに無理やり二人の夫と結婚させられたとのことでしたな」
コルテス将軍は厳格で重々しい外見の男だが、中身も同じらしく、アルタマキアの結婚のことを話した時には苦しげに顔が歪んだ。
「大惣領の息子で、大惣領の妹であるイローナの甥とかいう方は、監禁場所からの脱出の際に殺害されたそうですね。小惣領たちを背後に持つ、もう一人の夫の方はアルタマキア様を助けて、泥炭業者たちの村まで逃すのを手伝ったとか。それが本当ですと、マトゥサレン島の小惣領たちの方とは、話がつくかも知れませんね」
フランコ公爵は、彼の目の色と似た薄青い空を見上げて、少しだけ微笑んだ。
「まあ、どこにでも対立という構図はあるものなんですね。泥炭加工ギルドはもう、考えなしとしか思えない行動に出たイローナにも、マトゥサレン一族の大惣領にも愛想をつかしているはずですから、マトゥサレン一族の小惣領たちと合意できれば、この半年あまりの私どもの苦労も報われるというわけです。……アルタマキア皇女殿下には非常にお気の毒なことになってしまいましたが」
コルテス将軍は黙っていたが、彼にもフランコ公爵の言いたいことは分かっていた。
今度のことの責任は、全部、イローナとその実家のマトゥサレン島の大惣領が負うことになるだろう。ということは、スキュラの支配がこのフランコ公爵に移る前に、イローナと大惣領一党はハウヤ帝国側と争って戦死するか、殺されるか。たとえ生き残って捕らえられたとしても、このスキュラの主産業である泥炭加工のギルドを敵に回したイローナ達は、処刑ということになるのだろう。
「しかし、まだイローナが、ザイオンと交わした約束通りに大森林地帯に泥炭の販路が出来上がる前に、この事態を引き起こしたことの理由が分かっていませんね。イローナがこんな勇み足さえしなければ、ザイオンはスキュラに助勢したに違いないのに。……出来れば、イローナは殺さずに生け捕りにしろとは命じてありますが、どうなりますことでしょうね」
フランコ公爵の言葉は、そのままにガルシア・コルテスの思いだったので、彼は重々しくこう答えるのみにとどめた。
「まずは、アルタマキア皇女陛下を無事にハーマポスタールへお送りすることですな」
フランコ公爵は、空と同じ薄青い目を、ふわりとガルシア・コルテスの厳つい顔へ戻した。
「ええ。そうすれば、あちらに乗り込んで来ているというザイオンの第三王子とやらは、完全にハウヤ帝国がザイオンから取った人質ということになります。帝都で暗躍しているとかいう、ザイオンがらみの連中も、大人しくならざるを得なくなるかも知れません」
さすがはハウヤ帝国三大公爵の一人だけあって、フランコ公爵の考え方は軍人のコルテスよりも視野が広かった。
「しかし、まだまだ我らも油断は禁物。ドネゴリアを掌握するまでは他のことはあまり考えないようにいたしましょう」
フランコ公爵から、スキュラのドネゴリアを掌握した、との使いが帝都ハーマポスタールへ届いたのは、ちょうど、死せるアイーシャの「お見送りの儀」が皇宮で開かれる日のことだった。
お見送りは、アイーシャの変わり果てた姿が中庭の石畳の上で発見された、その翌日の夜に行われることになっていた。その同じ日の昼間からもう、カイエンは皇宮へ一人で上がることとなった。アイーシャのお見送りは、サウルの時のように遺言書などもなかったので、親族だけで行うことになっていた。
だから、サウルの時のように、フランコ公爵夫人デボラなどが呼ばれることはなかった。宰相のサヴォナローラと、元帥大将軍のエミリオ・ザラは来ることになっていたが、それは形だけのことだった。
「お姉様、お忙しい中、昼間から申し訳もございませんわ」
カイエンがオドザヤの執務室へ入ると、地味な、黒に近い銀色の厚地の絹で作られたドレス姿のオドザヤが執務机の椅子から立ち上がって声をかけて来た。カイエンは今夜のアイーシャのお見送りに合わせて皇宮へ上がる予定だったから、それが早まったことへの労りだろう。
今日のオドザヤのドレスは、さすがに胸元は空いていない。装身具としては、真珠の首飾りと耳飾りが鈍い光を放っていた。髪もきちんと固く結い上げられていた。
オドザヤのそばには、宰相のサヴォナローラがいるきりだ。大将軍のエミリオ・ザラはまだ到着していないのだろう。
「いいえ。……重要さという点では、こっちの方が国家の重要事ですから……」
カイエンは、大公軍団の制服姿だった。葬儀となればそれ用の喪服が必要だが、「お見送り」の場合にはまだ真っ黒な喪服は着用しない決まりだった。ただ、カイエンの方も、オドザヤ同様に黒っぽい紫の髪は頭の後ろで、緩みなく一つにまとめ、黒いリボンと黒曜石の髪留めでとめていた。
こっちの方が国家の重要事。
カイエンが言ったことは、もし、オドザヤが普通の母娘のような感情をアイーシャに対して持っていたら、怒り出したかも知れなかった。しかし、オドザヤも、その横に静かに立っていたサヴォナローラも気持ちはカイエンと同じだったから、彼らはすぐに本題に入った。
「ザラ大将軍はもうすぐ、来られるでしょう。殿下、ドネゴリアはすでにフランコ公爵閣下の支配するところとなっているそうです。ドネゴリアにはもう、女王を僭称していたイローナはとうにおらず、元首宮を守っていた兵士たちと市民達は自ら城門を開いたとのことです」
「あっけなかったな」
カイエンはオドザヤと執務机を挟んで反対側の椅子に腰掛けながら、短く言った。
「はい。そして、泥炭加工業者のギルドに匿われていた、アルタマキア皇女殿下の救出にも成功し、もうすでに、皇女殿下はスキュラを離れ、フランコ公爵家の付けた女性陣と、サウリオアルマの精鋭に守られ、このハーマポスタールへ向かわれている、とのことです。こちらにいらした時よりは、かなりおやつれのご様子ですが、ご健康に特に問題はないとこのことで、すぐにスキュラを離れられたそうです」
サヴォナローラがそう言うと、オドザヤは本当に安心した顔つきになった。そうしてみれば、オドザヤには母のアイーシャよりは異母妹のアルタマキアの方が、精神的に近しい存在なのだろう。
カイエンも、サウルが危篤状態になった時にオドザヤと共に呼ばれた時、控え室で「私はきっと枕元へは呼ばれない」と言っていたアルタマキアの様子はまだ覚えている。あの時までは、カイエンはアルタマキアという皇女は、母のキルケ同様に儚くただ優しげな外見どおりの「ただ、美しくておとなしいだけの姫君」だと思っていた。だが、あの時のアルタマキアの言葉は、そんなカイエンの印象を百八十度変えるものだったっけ。
(カリスマお姉様はおかわいそう。あいつの死に様を見届けられなくて、本当におかわいそうって、そう、申しましたのよ)
(あいつは皇帝。だから私たちは何を命ぜられても仕方ない。それで済むのは表面だけですわ。もちろん、すべては国のため、ハウヤ帝国のため。そのために皇女である私達が身を捧げる。それは正しいことです。私もこれでも皇女ですもの。そんなことは分かっております。でも、心の底は詐れません)
あのアルタマキアなら、自分の父親を「あいつ」と言い切る激しさをもったアルタマキアなら、スキュラでの虜囚生活も乗り越えることも出来たのだろう。
「……でもね。あの、お姉様。この使いと一緒にアルタマキアからも手紙が届いたのです。そこに書いてあったんですけれど、あの、お姉様には言いにくいんですけれど、アルタマキアはスキュラで無理やり結婚させられたそうですの。それも、マトゥサレン一族のしきたりとかで、二人の夫と……。イローナがそう決めたんだそうです。それで、その二人のうち、イローナの甥に当たる方は、もう一人の方に殺されたそうです」
「ええ?」
カイエンはにわかには意味がわからなかった。カイエンもシイナドラドで無理やりにエルネストのものにされたが、アルタマキアもまた、そんな目に遭っていたとは。オドザヤは今はもう、もちろんカイエンとエルネストのことを知っているから、極めて言いにくそうに言ったのだろう。
「私からお話ししましょう。……マトゥサレン島では向こうの船団と、フランコ公爵家の船団とで海戦になったそうですが、すでに陸路でマトゥサレン島のそばに達していたサウリオアルマの軍勢が近隣の漁船を雇い上げて島へ上陸。退路を絶たれたマトゥサレン島の大惣領は降伏したそうです。そもそも、マトゥサレン島では、イローナの実家の大惣領と、他の小惣領とが対立状態となり、一触即発の状態だったそうで、我が軍が上陸すると小惣領どもの軍勢はすぐにこちら側について戦いに参加したそうです。それで、兄の大惣領の元へ逃げ込んでいたイローナは、兄共々に降伏し、身柄を抑えられたそうです」
「ほお。それはまた、御誂え向きの事態となったもんですな。……遅れて申し訳ございません。……それじゃ、ザイオンは一切、もうスキュラには介入して来なかったと言うことですな」
そこへ、やって来たのはザラ大将軍だった。彼は入ってくるとオドザヤには慇懃に礼をし、カイエンとサヴォナローラには簡単に目線だけで挨拶を済ませてしまった。
「はい。ザイオンからはもう長いことドネゴリアの元首宮へも連絡はなかったようです。イローナの勇み足のせいで、泥炭を大森林地帯に新しく販路を開いて、ザイオンが一手にまかなう計画が頓挫したので、この一件からは手を引いた模様です」
サヴォナローラは続けた。
「それで、話を戻しますが、お戻りになるアルタマキア殿下には、もう一人の夫、これはマトゥサレン島の小惣領たちが選んだ婿だそうですが……の方が同道しているとのことなのです」
カイエンは灰色の目をいっぱいに見開いた。
「ああ? だって、アルタマキア皇女のその二人の夫との結婚とやらは、イローナが無理やりにさせたものなのだろう? どうして、そんなことが……」
カイエンの質問は、ザラ大将軍にも同じだったらしく、彼もサヴォナローラとオドザヤの方へ首を伸ばすようにした。
「それは私も同意見なのですが、使いの話とフランコ公爵閣下のお手紙、それにアルタマキア殿下のお手紙を総合いたしますと、アルタマキア殿下の二人の夫のうち、イローナの甥であるシュトルムというのを殺し、アルタマキア殿下を泥炭加工ギルドの村まで連れて行ったのが、もう一人のリュリュとかいう男なのだそうです。それで、そのリュリュというのがマトゥサレン島の小惣領達が担ぎ上げてアルタマキア殿下の二番目の夫にした者だそうで。大惣領のいなくなったマトゥサレン島の小惣領たちは、この男を恭順の印として、このハウヤ帝国へ人質として差し出すと言うので、アルタマキア皇女殿下に同道させることとなったそうです」
カイエンはちょっとめまいがした。これはさすがにあの気丈夫そうだったアルタマキアでも、きついのではないか、と思ったのだ。
「まあ、本当のところはアルタマキア皇女殿下がご帰国なさらないと分からないな。しかし、そもそも、その二人の夫との結婚というのは合法なのか? 皇女殿下がハウヤ帝国へ戻られれば、無効になって当然だろう?」
カイエンがそう言うと、今度こそは姉のオドザヤが力強くうなずいた。
「当たり前ですわ! このハーマポスタールへアルタマキアが戻りましたら、そのリュリュとかいう男は、あくまで人質として扱います。……その点では、あのトリスタン王子も同じですけれどもね。ほほほ、スキュラのことがザイオンの介入なしに終わったとあれば、ザイオンはトリスタン王子をこのハーマポスタールへ送り込んだことを後悔し始めていることでしょうから」
そう言うオドザヤの顔には、人の悪い皮肉げな微笑み。彼女がこんな表情をするなどとは、ついこの前までは考えられもしなかった。だが、カイエンはそれを悪い方向へは取っていなかった。オドザヤはまだ二十歳前といえども、この強大なハウヤ帝国の皇帝なのだ。いつまでもあどけなくては頼りなさ過ぎる。
そう言う意味では、あの踊り子王子トリスタンの一件も、悪いことばかりではなかった。
この時、カイエンは暢気にそんなことさえ思っていたのである。
「まあ、そっちはアルタマキア殿下がお帰りになってからですね。……イローナと、その兄のマトゥサレン島の大惣領とかいう者への沙汰はどうするのです?」
カイエンは話を先に進めていくことにした。
「イローナが、兄のマトゥサレン島の大惣領と図り、そしてザイオンの後押しを期待して、夫である元首エサイアスを殺害し、アルタマキア皇女殿下を虜囚としたことは許されざることです」
サヴォナローラがそう言うと、オドザヤも力強くうなずいた。
「これは大切なことだと思うけれど、スキュラの国民の考えはどうなの? このハーマポスタールみたいに読売りなんかは無いだろうから、世論の方向はドネゴリアの有力者達の意向を見ることになるでしょうけれど」
このパナメリゴ大陸でも、おそらくは螺旋帝国の首都と並んで二大大都市である帝都ハーマポスタールと、ドネゴリアではあまりにも都市の規模が違う。ドネゴリアはハウヤ帝国なら、地方の小さい都市くらいの規模なのだ。
「それは、フランコ公爵からの書簡にございました。ドネゴリアの有力者たち、泥炭加工ギルド、共にイローナとマトゥサレン島の大惣領の処刑を求めているそうです。一冬とはいえ、泥炭の輸出の出来なかった彼の国です。彼らは冬季の食糧の多く、麦や米、野菜や果物などの農作物をハウヤ帝国からの輸入に頼っていたのです。それも、この度のことで途絶えておりました。昨年は農作物の作柄もよくなかったとかで、寒村では家畜も食べつくし、餓死者も出たそうです。こうした事態を招いたマトゥサレン一族への恨みはかなりなものだそうで……フランコ公爵は処刑やむなし、とのご意見です」
サヴォナローラがここまで話した時だった。
オドザヤの執務室の扉が、外から遠慮気味に叩かれた。外を守っている親衛隊も、今、ここで国家の未来を決める話し合いが行われていることは、重々、知っているのだ。
「なんですか」
オドザヤがちょっと大きな声を出すと、扉の向こうから、侍従の必死な声が聞こえてきた。
「お話し合いのところ、失礼いたします、陛下。ですが、北のフランコ公爵閣下より、至急の使いが参っております」
オドザヤにカイエン、サヴォナローラにエミリオ・ザラは、一瞬だけ顔を見合わせた。
「わかりました。すぐにここへ通しなさい!」
オドザヤは他の三人の顔色を、一瞬だけ確かめると、もうはっきりとそう命じていた。
やがて、そっと開かれた執務室の扉から這うようにして入ってきたのは、サウリオアルマの肩章を付けた男だった。
「……フランコ公爵閣下、サウリオアルマ将軍ガルシア・コルテスより、火急の知らせを持って参りましたっ!」
そのサウリオアルマの軍人も、皇帝のオドザヤの執務室で直に皇帝に報告するとあっては、緊張するのだろう、その声は焦るような早口だったが、カイエンにもオドザヤにも、彼の言うことはちゃんと聞き取れた。
「申し上げますっ! ドネゴリアのフランコ公爵閣下、および我がサウリオアルマのコルテス将軍よりご報告です。ドネゴリア上空に真っ赤な巨星が現れ、大森林地帯方面に向かって星が墜ちた模様。大森林地帯からは離れたドネゴリアでも地震のような大地の揺らぎを観測しました。そして、大森林地帯の方角の空が真っ赤に燃えております」
ここで、使者は一回、息を整えた。この先の話は、彼にとっても話すだけでも極めて緊張する事態の報告だったからである。
「この赤い星と、経験の無い大地の揺らぎに、ドネゴリアの住民は畏れおののき、元首宮へ押し寄せました。彼らはこの赤い星の災厄を、この度のスキュラでの騒乱への神々の鉄槌と捉え、元首宮におられるフランコ公爵と、コルテス将軍に、一刻も早いイローナとマトゥサレンの大惣領の処刑を求めております!」
「赤い星が、墜ちた? なんです、それは」
オドザヤはそう言ったが、本の虫のカイエンと、アストロナータ神官のサヴォナローラには、その「赤い星」が何なのか、名前だけはわかっていた。
「……大きな流れ星……まあ、そういうのは火球と言うんだったっけか。その火球が
「私も、天文学や、歴史書で読んだことがございます。まさしく、
「流れ星はわかるが、
軍人のザラ将軍にも、
カイエンとサヴォナローラは顔を見合わせたが、ここはまず、カイエンが説明することになった。
「流れ星というのは、この世界の外から空の空気の中を墜ちてくる、石のようなものなのだそうです。普通はそれは墜ちてくる途中で燃えてしまうので、星が空を流れていくように見えるのだそうですが……」
「ふんふん。なるほど。外世界と言えば、アストロナータ神の故郷ですな」
ザラ大将軍は納得したようにサヴォナローラの顔を見ている。
「これは、歴史書で読んだのですが、夜なのに真昼のように大地を照らした星が流れた後、大地震が起き、森林の木々が倒され、地面に大きな穴ができたことがあったそうです。……ええと、あれは螺旋文字の本だったな?」
カイエンが思い出すような顔をすると、サヴォナローラが真面目な顔で答えた。
「螺旋帝国のいくつか前の王朝が滅ぶきっかけになったとも言われています。星が墜ち、地面に一つの村を消し去るほどの大きさの穴が生じ、その真ん中で不思議な石を発見したそうです。螺旋帝国では、この話の前にも同様のことがあった古代の記録が残っているそうで、その、墜ちてくる流星のことを、
そう言うと、サヴォナローラはオドザヤの執務机の上のペンを取り、インク壺にそれをつけて紙の上に螺旋文字を書こうとした。だが、彼はとっさにその螺旋文字が思い出せなかった。当然のことではあった。本で読んだことはあっても、その文字を書いたことなどなかったから。
「ああ。螺旋文字か。確かこうじゃなかったか? 意味は、高いところから落ちてくるとか、落っことす、って意味だっただろう」
螺旋帝国人の学者、頼 國仁から教わったカイエンの方が、ここではサヴォナローラよりも優れていた。
「確か、こうだ。メテオとかメテオラとかいう言葉にも、高いところとか、中空とか、そういう意味があったはずだ」
カイエンが、サヴォナローラからペンを引ったくってその文字を書くと、サヴォナローラも嬉々としてうなずいた。
「そうです、その文字です。さすがは殿下!」
カイエンとサヴォナローラがそうして知的な方向ではしゃいでいる様子を、スキュラからの使者は呆然として眺めている。それはそうだろう。普通の人間は
そっちに気が付いたのは、ザラ大将軍で、彼はすぐに使者に命じていた。まあ、オドザヤを通さなかったのは不遜といっても良かったが、オドザヤとてもそう命じるしかなかっただろう。
「ふむ。天変地異を為政者の不徳の致すところ、と考え、時の為政者が滅ぼされた、とかいう話は、わしも歴史で読んだ気がしますわい。その
使者はザラ大将軍が呼ぶと、さすがに軍人の顔に戻った。
「そんなことがあったのでは、もう、イローナ達の処刑はフランコ公爵様も抑えられないだろうて。ご苦労だったな。恐らくはもう、あちらではかの者達の処刑が終わっている頃だろう。ま、イローナから話を聞いた後で、には違いないがな。ようわかった。下がっていいぞ」
ザラ大将軍がそう言うと、使者はしっかりと立ち上がって、軍人らしい礼をすると、回れ右をして皇帝の執務室を出ていった。
その後ろ姿を見送って、やっとオドザヤは言葉が出てきた。
「……天変地異は為政者の責任、なのですか」
では、このハウヤ帝国にその
「大丈夫ですよ、陛下。古代ならともかく、少なくともこのハウヤ帝国の国民はそこまで愚かではありますまい。それに、
カイエンも流れ星がどうして落ちてくるのか、どうして燃え尽きるのが普通なのか、燃え尽きずに大地に墜ちるとなぜ大穴が開くのか、などの理由などは分かりはしない。彼女やサヴォナローラが知っているのは、歴史書などで読んだ過去の事例ではそうであった、というだけだ。
「まあ、無事にアルタマキア皇女殿下が戻られれば、スキュラのことはほぼ、カタがついたということになるでしょう。監獄島から逃げた犯罪者も続々と再逮捕出来ておりますし、消えた奇術団コンチャイテラの残党の方も、潜伏先が絞れてきたところです。このまま、奴らの始末もつけばいいのですが」
カイエンはイリヤから聞いたことを最後に付け足したが、スキュラのことはともかく、アルウィンの息のかかった桔梗星団派の動きが近頃、静まっていることに、若干の危惧を抱いていた。
アイーシャの「お見送り」の儀は、彼女の最後の住処となった、皇子皇女宮の彼女の寝室で行われた。
故人の趣味では、寝具は薔薇色の絹と決まっていたが、もうそんなことを気遣う者もいなかったので、アイーシャは真っ白な絹地の寝具で覆われた寝台に寝かせられ、老婆のようにしぼんでいた顔は含み綿などで補正された上に化粧され、いかにも作り物めいてはいたが、往年の美貌の「かけら」くらいは留めた状態にされていた。
やせ細った体は布団の下に隠され、寝台の上は真っ白な薔薇の花々で埋め尽くされていた。きっと、ハーマポスタール郊外にある温室で年間を通じて花を育てている家から、買い占められたものだろう。
そこに集まったのは、本当に親族だけで、他には女官長のコンスタンサがただ一人、壁際に立っているだけだった。他には、二人の神官。
アストロナータ神殿の大神官、ロドリゴ・エデンと、オセアノ神殿の大神官マリアーノの二人だ。
アイーシャの葬儀は、約一ヶ月後に決められていた。
それまでに、棺が用意され、皇宮の地下墓所のサウルの墓の隣に、彼女の場所が整えられるのだろう。
人々はあまり広くもないアイーシャの最後の寝室の壁際で、皆が黒っぽい格好をし、青ざめた顔をして立っていた。だが、泣いているものは一人もおらず、皆が皆、早くこの面倒な儀礼が終わるのを待っていた。
そこに集まったものは、女官長を除けば、たった十一人。
オドザヤ。
カイエン、そして夫という肩書きゆえにここにいるエルネスト。
そして、ミルドラと二人の未婚の娘達、バルバラとコンスエラ。
妾妃の、ラーラ、キルケ、マグダレーナの三人。
そして、マグダレーナに抱かれたフロレンティーノと、エルネストが抱いているリリエンスール。
それだけだった。
彼らは順に花を死者に手向け、終われば二人の神官がそれぞれの神による祈りを捧げる。
それが終われば、神官達は部屋を出て行き、三人の妾妃とフロレンティーノも早々に退場した。彼らにはアイーシャはまさに「赤の他人」だったから。
「かわいそうかもしれないのは、リリだけねえ」
娘二人は、先に部屋から出して、戻ってきたのは、ミルドラだった。
カイエンとオドザヤ以外には、アイーシャと血が繋がっているのは、まだ一歳のリリだけだ。
カイエンと一緒にエルネストもそこに残っていたが、ミルドラは彼には目を向けもしなかった。聞きたければ聞けばいいし、嫌ならいつでもこの部屋から出て行けばいい、ミルドラの態度はそういう態度だった。もっとも、エルネストが出て行くときには、リリも出て行くことになるので、ミルドラはそうなったときには、リリを自分が受け取るつもりだった。
女官長のコンスタンサについては、お役目だからそこにいなさい、と態度で示しただけだ。
「あなた方二人は、まあ、いい思い出と一緒じゃあないだろうけど、このアイーシャの顔は忘れないだろうし、この人の、いいように
ミルドラは、そう言うと、死せるアイーシャの顔をじっと見つめた。
「私も、実のところはこの人のことなんか、どうでもよかったわ。
カイエンはアイーシャの死に顔はあまり見たくもなかったので、そっちには目線をやらないようにしていたのだが、ミルドラのこの言いようには、ほんの、ほんの少しだけはアイーシャに同情した。
つまりは、アイーシャというのはサウルとアルウィンの兄弟以外には、いや、きっとサウル以外には誰にとってもどうでもいい、そして頭のおかしい女でしかなかったのだ。友達などおらず、心情を吐露できたのはきっと、あのもういない侍女のジョランダ・オスナだけだったのだろう。
だが、そのジョランダさえ、最期の最期で彼女を死に追いやったのだ。
「辛辣ですね」
あえてカイエンがそう言うと、ミルドラはにやりと意味ありげに笑った。
「事実よ」
それを聞くと、カイエンとオドザヤではなく、それまでカイエンの後ろでリリを抱いたまま、明後日の方向を見ていたエルネストの方がつられて笑ってしまった。
「ふっ。いとこの伯母さんが、いい加減な奴や甘っちょろい奴、馬鹿な奴には厳しいのは、身を以て知ってたけど、もう死んじまった人間にも厳しいたあ、徹底していることだ」
ミルドラはこのエルネストの台詞を聞くと、ぎろりと彼の顔を睨んだ。
「確かにあなたとは、いとこになりますね。でも、決して私はあなたの伯母さんじゃありませんよ」
これは、ミルドラがエルネストをカイエンの「夫」として認めてはいない、と言うことだ。
「この女のことはいいのよ。私が言いたいのは、リリのことなの。あのね、リリはきっと、カイエンをお母さん、ヴァイロンだのあなただの、あの色男の軍団長だのの、カイエンの周りにいる男を父親にして育つのよ。誤解しないでね。私は、それはいいことだと思うの。本当の二親、この女と兄上を両親として育つよりも、きっとリリにはいいと思うからよ」
この言葉には、カイエンよりもオドザヤが真っ青になってしまった。
彼女こそは、サウルとアイーシャを両親にして育ったからだ。
「オドザヤ陛下にはごめんなさいね。カイエンにもだわ。あなたには父親のアルウィンしかいなかった。あれも不幸なことでしたよ。まさか、あれほどに途轍もない馬鹿者だとは、最近まで私も思っちゃいなかったから!」
「ああ。話が回りくどくなったわね。リリは、きっとオドザヤ陛下よりもカイエンよりもいい人間に囲まれて育つのよ。でも、でもね……」
ミルドラは、ちょっとだけアイーシャの人形のように整えられた死に顔へ目をやった。
「……でもね。私も母親だから分からないじゃないのよ。本当の産みの母親は、リリが死ぬまで変わらずにこの女なの。オドザヤ陛下もカイエンも同じよ。でも、あなたたちはその母親の愚かさを知っている。この女の自業自得だけど、不憫な人生も見ているのよ。でも、リリは、リリは……」
ミルドラはそこまで言うと、カイエンにもオドザヤにも、予想もつかなかった言葉を吐いた。
「……リリだけはこの女の不幸な人生から、学ぶことができないの」
ミルドラがそういった時、それまでエルネストの腕の中ですうすう寝ていた、リリが左右色違いの目をぱっちりと見開いた。
そして、ミルドラの方へ、小さな手を伸ばしたのだ。
カイエンやエルネストは、リリが普通の赤ん坊でないことをよく知っている。生まれる前から、カイエンの悪夢の中に出てきたこと。
彼女の半分は、カイエンとエルネストの間に出来た、あの、決してこの世に生まれてくることが出来ないことが最初から分かっていた娘かもしれないことも。
イリヤが腹を刺される前に、カイエンと一緒に予知夢を見、そのことをまだ話せるはずのないのに言葉で示そうとしたことも。イリヤの夢の中で、彼を生還させる手助けをしたことも。
だが、ミルドラもオドザヤも、それまでそんなリリのことは知らなかった。
「お、……ば、さま」
そう、言ったリリの言葉は、かなりはっきりと聞こえた。そして、エルネストの腕の中から、小さな手を伸ばしながら、リリははっきりとミルドラの顔を見つめていた。
「リリ、ね……うま、れ……るまえ、カイ、エンの、……ゆ、めのなか、うま、れてた、の。だか、ら。ちゃ……ん、と、きこえ……てる」
ミルドラとオドザヤ、それに壁際に控えていたコンスタンサは、目を剥いていた。
「から、だ……あか、ちゃ、だから……くち、うま、く……うご、か、ない」
リリは、灰色と琥珀色の色違いの目で、まっすぐにミルドラを見ていた。
「ありが……と。リリ、ちゃ……ん、と、きい、た。リリ、の、まま、し……ん、だ。かわ、い……そ、なの、おわ……た」
ミルドラとオドザヤは、いつの間にか泣いていた。
彼女たちには、リリがどうしてこういう子供なのかは知らされていない。でも、前から不思議な子であるとは思っていたのだ。リリは公の場に連れ出されても、決して泣いたりぐすったりはしなかった。いつも、いい子で、周りの大人たちの話がすべて分かっているようだ、とも言っていたものだ。
「そうなの」
ミルドラは、その剛毅な心情そのままに、詳しいことは後でカイエンに聞けばいい、と割り切っていた。そういうミルドラの気持ちは、オドザヤにも伝わったのだろう。彼女もまた、リリがなんだか大人っぽい赤ん坊だとは思っていたのだ。
「そうね、もう、お母様のかわいそうな人生は終わったわ。娘の私なんかが、かわいそうなんて言うのは僭越かもしれないけど、お母様には、悩まされたし、ひどいこといっぱい言われたけど……」
カイエンは床へ倒れそうになるオドザヤを、杖のない右手で必死で支えた。そうしているカイエンの視界もまた、歪んできたのは、どうしてだろう。
「そうね、そうなのね。みんな、終わったのね。お父様の時にも思ったけど、これでこの人のこの世でのすべてが終わったわ。輝かしい思い出も、かわいそうだったことも。ひどい母親だったことも……」
オドザヤの声は、もう泣き声になっていた。
ああそうだ。
カイエンは歪んだ視界のなかで、オドザヤと、そしてミルドラと抱き合うようにして、理解していた。
このひどい女。
娘を愛せず、娘にも愛されなかった女。
それがもう、全部終わったのだ。
「……さよなら、アイーシャ」
その時、カイエンも、オドザヤも、ミルドラもリリも、母親でも義理の妹でもなく、彼女をただの一人の女「アイーシャ」として見送っていた。
カイエンとエルネスト、それにリリが大公宮へ戻り、執事のアキノの案内で奥殿へ入ると、カイエンの居間には当然のように、二人の男が待っていた。テーブルを挟んだ三人掛けのソファに向かい合って、それも一番距離のある、端っこと端っこに座っている様は、なんだか微笑ましく見えないこともない。
「なんだ。イリヤまで残っていたのか」
カイエンはリリをサグラチカとルーサに任すと、エルネストも連れて自分のいつもの居間へ入った。
ヴァイロンはともかく、イリヤやエルネストが、このカイエンの寝室にも近いもっとも個人的な居間に入ることは珍しい。と言うか、今までなかったことなのではないだろうか。
「へーい。因縁深いおかーさまとのお別れでしょ。落ち込んで帰ってくるんじゃないかって、ここのヴァイロンの大将が心配しててね。それで、俺もここに入っていいって、大将ったら弱気でねぇ」
イリヤはそう言うと、エルネストの方をじろりと見た。
「あらー。今夜は皇子様もこの部屋に入れるのねぇ。よかったねー。うれしーでしょー?」
イリヤの言葉はもっともだが、目下、カイエンが悩んでいたのは、自分はどこに座ったらいいのか、と言うことだった。
ヴァイロンとイリヤが同じソファにいてくれれば、気兼ねはするとしても、その間に座れたのだ。だが、気の利かないこの男どもは、その心情のままに対角線を描いた場所に座っている。
「うるせえよ。お前らには無縁の皇宮御家族ごっこで疲れてるんだよ」
エルネストがそう言いながら、イリヤの座っている方のソファの反対側の端に座ってくれなかったら、カイエンは立ち往生したままだっただろう。
だが、エルネストがこの複雑怪奇な盤面の残された二つの隅の一つを埋めてくれたので、彼女は自然に、ヴァイロンのいる側に座ることができた。
執事のアキノは席が決まったのを見届けると、飲み物、多分それは酒だろう……を用意すべく部屋を出て行ってしまった。
「確かに、疲れた。……昼間はスキュラの情勢でまた色々あったしな」
カイエンは実際のところ、大公宮の奥殿に戻ったのだから、ヴァイロンの腕の中に潜り込むことになるだろうと思っていた。だが、ここにイリヤまでもが残っていたとは思いもしなかった。
これは、きっとイリヤの側に何か、今夜中にカイエンに知らせたいことがあるのだ。
そこだけは、カイエンにもちゃんと分かっていた。エルネストも連れたままにしたのは、カイエンを挟んだ当事者二人と三人だけになりたくなかったからに他ならない。自分勝手なことだ、とカイエンは自分を断じた。
カイエンはエルネストに「すまない」などと思ったことは今までなかったが、今夜は真面目にそう思っていた。
ああ。なんでこんなややこしい関係を、自分は自ら望んで作ってしまったのか。
ヴァイロンとのことは、先帝サウルの命令から始まったことだが、イリヤの方は自分で呼び寄せたことだ。
そもそも、ヴァイロンとイリヤはどういうつもりで、ここで二人で待っていたのか。
カイエンは困惑に困惑していたが、他の三人はそれほど困ってなどいなかった。
普通なら、大公とはいえ一人の女が、二人の大の男の間を都合よく行ったり来たりしやがって、と思うところだか、ヴァイロンもうイリヤも、そういう思いとは無縁だった。
そもそも、この街の大公という皇帝の次に連なる身分であるカイエンが、一人の男に束縛されなくてはいけないという必要は無い。
ヴァイロンの方はカイエンを番の相手と決めているから、出来れば、独り占めを続けたかっただろうが、それは、カイエンがエルネストと結婚した時から、実態はともかく、世間的には違う認識となっていた。
イリヤの方は、もっと単純で、彼はカイエンを愛してはいたが、伴侶という意識は皆無だった。独占できれば、それが一番には違いないが、最初からそれが無理な以上、手が届く範囲内にカイエンが来た時に、逃がさず捕まえておければ良かったのだ。
エルネストは、と言えば、ヴァイロンとイリヤの二人がいる以上、自分がカイエンのそばに寄ることなどありえないことだった。それでも、諦めがつかないのは困ったことだが、彼はいずれ近い未来にここを出ていかなければならないことを知っていた。
「あのよう」
エルネストは、なんで俺がここで助け舟をださにゃならんのだ、と自嘲しながらも、カイエンがかわいそうだったので、口を出してやった。自分でも、心が丸くなったというか、カイエンには甘いもんだな、と呆れるような気持ちだった。
「なんか、話があるから雁首揃えてここで待ってたんだろ? いい加減早く喋ることは喋っちまえよ。緩衝材にされてる俺は大迷惑だぜ」
エルネストがそう言うと、意外なことにヴァイロンの方が口を開いた。
「皇子殿下には、お気遣いいただきありがとうございます。実は、元、奇術団コンチャイテラの連中のアジトを突き止めたのですが……今夜中に踏み込まないと、逃げられそうな様子なのです」
カイエンはえっ、と意外に思ってイリヤの方を見た。こういう事例なら、彼の権限で動けるはずなのだ。
「それがさぁ。場所が悪いのよ。ザイオンの外交官官邸ってんなら、あーもう、殿下でもどうしようも出来ないしぃ、泳がせとくしかないわーって感じなんだけど、これが、もう、困ったちゃんのお家なのよねぇー」
どこだそれは。
カイエンはいやーな予感を押し殺しながら、イリヤに目で聞いた。
「聞きたいー? それがさー、あの女帝反対派のモリーナ侯爵さんのお家なんですわぁ。今、踏み込めば、
モリーナ侯爵といえば、三大公爵の次に位置する上位貴族だ。
その家となれば、大公軍団といえどもすぐには踏み込めなかった。きちんと証拠を固め、文書にして皇帝のオドザヤに提出して許可をえなければ無理だ。
「敵も、うまいこと考えるな」
カイエンは考え込むしかなかった。普通なら、これは見逃すしか手がない。だが。
カイエンにも、イリヤやヴァイロンの気持ちは分かった。今なのだ。今踏み込めば、あの厄介な奴ら、もしかしたら桔梗星団派の奴らの一部までも、捕縛できるかもしれないのだ。
だが、手順を踏んでいては逃げられる。
その時、カイエンが思い浮かべたのは、白っぽい金髪に、青緑の目をした、オドザヤの親衛隊の隊長の顔だった。
モンドラゴン子爵。彼はもう、実はオドザヤのサロンどころか、もっと近しい場所にいる。
だが、彼なら、まだモリーナ侯爵に面会くらいなら申し込めるかもしれない。オドザヤに取り込まれたとはいえ、そこは男女の間のこと。モリーナ侯爵はもしかしたら、モンドラゴンは自分の手勢で、オドザヤの元に送り込んでいるだけ、と思ってはいないか。
「モンドラゴンだな?」
カイエンがそう言うと、イリヤが元気に、
「はーい」
と、答えた。
「まーたぶん、もう無理だとは思うんですけどぉ。殿下から陛下を通じて、ウリセス・モンドラゴンが使えそうかどーか、それだけでも話して見てもらえますかねぇ」
カイエンは苦々しい何かを舌の上にのせて飲み込んだ。
面倒だし、やりたくないが、しょうがない。今出てきたばかりの皇宮へ、また行くしかないのだ。
「分かった。しょうがない」
そう言うと、カイエンはちょうど居間へ入ってきたアキノに、皇宮へ至急上るとの使いを出すように命じるしかなかった。
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