予兆


「くそっ」

 深夜、モリーナ侯爵の屋敷へ向かう馬車の中で、ウリセス・モンドラゴンは大きく舌打ちをした。

 まったく、面倒なことになったものだ。

 気配も音もしないが、この馬車の周りにも、あの大公の率いる大公軍団の連中の目が光っているのだろう。彼がこの作戦に巻き込まれたのは、宵の口を過ぎた頃だったというのに、もう大公軍団ではここまでの準備が終わっていたのだ。

(まさか、この、親衛隊長の俺が、大公軍団ごときに利用されることになろうとはな!)

 先帝サウルの頃からの皇帝の親衛隊隊長である、ウリセス・モンドラゴンがその時思っていたのは、それだけに尽きた。

 ところで、彼のハウヤ帝国皇宮での立ち位置は、この一年あまりで大いに変わっていた。それも、ここ数ヶ月の変貌ぶりは、自分でも「どうかしている」と思うばかりだった。

 去年の六月のオドザヤの即位前の元老院議会開催の時から、つい先日まで、彼は間違いなく女帝反対派のモリーナ侯爵の陣営に属しており、彼の右腕のようにして動いていたのだ。

 去年、ザイオンの第三王子トリスタンが見合い話とともにやって来て以降は、トリスタン王子がオドザヤの侍女を手懐けて、オドザヤをトリスタンに惚れ込ませ、堕とそうとする計画にも手を貸した。

 女帝を醜聞にまみれさせ、人心を彼女から離してしまおうと計画したモリーナ侯爵に命じられて、二月のザイオン外交官官邸での仮面舞踏会マスカラーダでは、恋と薬に正気を失っていたオドザヤの潜入を助けるのに、一役買ったほどだ。

 ああ。

 モリーナ侯爵は、いとも簡単にあのザイオンの王子の計画に乗っかったっけ。

(外国の王子に首ったけになって、政治を顧みず、周囲の反対を押し切って夫にした女帝、というのも悪くないが、結婚前にその外国の王子と、お忍びで何回も関係を持っていたことを世間に暴露すれば、女帝そのものを葬り去れるかもしれぬ。あのザイオンの王子だけでなく、他の男との関係でもでっちあげれば、話は雪だるま式に大きくなるわ!)

 などと、途方も無いことまで言い出したのだ。

 だから、モンドラゴンは舞踏会へのオドザヤの潜入の手引きをした。そんなことをすれば、このハウヤ帝国の皇帝であるオドザヤが、ザイオンの官邸で待ち構えているトリスタンの毒牙にかかって、その夜のうちに純潔を散らされるであろうことも、もちろん承知していた。

 なのに。

 舞踏会から、大公宮を経由して戻って来たオドザヤは、薬を盛られる前のオドザヤでも、トリスタンへの恋に我を忘れたオドザヤでもなかった。

 急に大人びて、女皇帝の貫禄さえ感じさせるように変貌したオドザヤは、その日のうちに親衛隊を自分の警護に復帰させた。そして、親衛隊長の彼を自分の部屋へ、それも夜に招き入れたのだ。その素早さは、モンドラゴンがモリーナ侯爵に事の次第を報告するいとまさえ与えない速さだった。

 あの夜、オドザヤの部屋に呼び入れられたウリセス・モンドラゴンは気が付くと、もう、艶やかに微笑んでいるオドザヤのすぐ隣に座っていた。  

 それから、そこで何が起こったのか。

 あの夜のオドザヤの身の内から光り輝くような美しさ、これ以上はないと言えそうな艶冶えんやな様子。それを至近距離から見させられ、甘い、よく練られた香水の香りと一体となった、まさに「うら若き絶世の美女」を体現した、芳しい体臭に、その滑らかで真珠のように輝く肌に、逆らえる男がいるだろうか。その上に、微笑みを浮かべたオドザヤの様子は、「触れなば落ちん」といった風情なのだ。

 彼を見初め、婿とした現在のモンドラゴン子爵夫人も決して醜い女ではない。そして、ウリセスは結婚後も仕事の付き合いなどで色街へ行くこともあった。そこで高級娼婦たちの最上級の美貌と技巧を知ってもいた。

 だが。

 あの夜のオドザヤというものは、それらの経験をきれいさっぱり塗り替えてしまうほどに素晴らしかった。

 思えば、あの夜のオドザヤは、トリスタンによってあの舞踏会の合間に「女」にされたばかり。ウリセスを自らのすぐそばに誘い込んだものの、それからのオドザヤの、ああしたことにはまだ慣れぬ仕草は生娘同然に初々しく、かえって彼の劣情を誘う結果となった。

 女皇帝の居間のソファの上。

 そこで男女の仲になってから。彼は時折、オドザヤの寝室にまで誘い入れられるようになって行った。

 同じ頃、オドザヤが始めたのが、あのオルキデア離宮でのことだ。

 オドザヤはモンドラゴンを自分の側に引き入れると一緒に、女帝反対派の切り崩しにかかったのだ。

 驚いたことに、オドザヤはトリスタンに向けていた初心な恋などきれいさっぱり捨て去っていた。それどころか、新しく愛人としたモンドラゴンの目をも構わず、彼の率いる親衛隊の警備するオルキデア離宮で、必要とあれば女帝反対派の男どもにもその輝かしい身を委ねてさえ見せたのである。

 オドザヤが彼らにどこまで許したか、などということはモンドラゴンにはわからない。一人の男としては嫉妬の思いに駆られたが、彼はもうそれだけで動くほどには若くなかった。

 彼はそれからも、オルキデア離宮でのことで、彼を屋敷に呼び出したモリーナ侯爵には、オドザヤにおもねるのには意味があると言い繕い、オドザヤとモリーナ侯爵の二つの陣営にいい顔をし続けていたのだ。

 だが。

「……あの大公までもが、あのような言い様で来るとはな」

 皇太后のお見送りの儀から、大公宮へ帰って行った大公カイエンは、すぐにまた皇宮へ使いを寄越した。

 夜遅くに申し訳ないが、これからもう一度、皇宮へ上がって、オドザヤに話したいことがある、それには親衛隊のモンドラゴン隊長も同席願いたい、と言うのである。

 やがて、オドザヤの居間に案内されて来た大公は、さっき帰って行った時と同じ制服姿だった。きっと、大公宮へ帰ると同時に、何か大公軍団の部下かなんかから情報を得、そのままとんぼがえりに皇宮へ戻ってきたに違いなかった。

 もう、くつろいだなりになっていたオドザヤだったが、彼女にとって従姉妹で母を同じくする姉でもある女大公は特別らしい。それは、オドザヤの身近に侍って時の浅いモンドラゴンにも、もうよく分かっていた。

 アストロナータ神の神像のように整った顔立ちながら、病人のような顔色をした、この一見小さくて弱々しい女が率いている組織、「大公軍団」の実力は、モンドラゴンの支配する親衛隊の力など、人数的にも、組織の規模の大きさでも軽く凌駕する。この帝都ハーマポスタールはこの大公カイエンの領地なのだ。その中では多分、皇帝のオドザヤでさえも、カイエンの同意がなければ、市内で起きた出来事に対しては何も出来はしないのだ。

「モンドラゴン隊長、あなたはまだ、モリーナ侯爵との間の関係を完全に切ってはいないのだろう? どうだ」

 カイエンは時間を無駄にしなかった。彼女はオドザヤの隣に座るなり、ずばりと用件に入った。

 ソファのオドザヤの隣に腰掛け、向かい側に座らされた彼の方を見た、カイエンの灰色の光る目は、彼とオドザヤとの関係さえ、もう知っている目だった。この分では大公軍団では、オルキデア離宮でのこともすでに掴んでいるのだろう。

「これはついさっき掴んだ情報だが、モリーナ侯爵家に、ザイオンからやってきた奇術団コンチャイテラの残党が匿われているということだ。……この連中の中には、一月に我が大公軍団の軍団長を刺し、治安維持部隊の署からの脱走時に、何人かの隊員を殺傷した犯人、百面相シエン・マスカラスもいると、調べがついている。また、去年の、裏通りの屋台の店主たちを通り一本分皆殺しにした犯人も、その中にいるかもしれないということなのだ。監獄島デスティエロから逃げ出した囚人の残りもな」

 なんと、そこまで。

 そんなとんでもない人間たちを、あのモリーナ侯爵はどうだまくらかされたのかは知らないが、屋敷の中に匿っているというのか。これでは、モリーナ侯爵の運命は決まったも同然だ。

 モンドラゴンも監獄島から囚人が集団逃亡していた、という事件は耳にはしていた。そして、囚人たちがこのところ、次々と市内で再逮捕されていることもだ。

 モンドラゴンも、大公軍団の軍団長、「恐怖の伊達男」と言われるイリヤボルト・ディアマンテスという男がどんな仕事ぶりをしているかは、さすがに聞き知っていた。治安維持部隊の頭に立っている双子も侮れる相手ではない。そして、帝都防衛部隊の隊長は、元はフィエロアルマの将軍だったヴァイロンなのだ。

 モンドラゴンも勿論、知っていることだが、ヴァイロンは先帝サウルがカイエンの男妾に落としめた男だ。そして、つい最近の噂では、大公を庇って大怪我をした大公軍団軍団長もまた、女大公の愛人なのだという。

 彼らは皆、平民だが、大公軍団は大公の私設部隊であるから、大公の命令があれば貴族の屋敷にさえ捜査に入れる。だが、それもカスティージョ伯爵、当時のコンドルアルマの将軍の屋敷での騒ぎのような、明らかな事件性が周囲に見えてしまっている場合に限られる。

 三大公爵に続く、侯爵という家柄であるモリーナ侯爵邸に、それも明らかな事件性が暴露されているわけでもないうちに、なだれ込むわけにはいかないのだろう。そこで、大公軍団の連中が目をつけたのが、オドザヤとモリーナ侯爵の双方に「いい顔」を保っている、モンドラゴンだったというわけだ。

 モンドラゴンのここまでの認識は間違っていなかった。

 オドザヤと彼との関係をもう知っている大公カイエンが、自分の愛人を殺し損ね、彼女の大公軍団の隊員を殺傷した犯人がモリーナ侯爵邸に逃げ込んでいる、と言ってるのだ。そして、モリーナ侯爵と懇意であるお前がそれを確かめて来い。いや、確かめに入ったことにして、お前が中に入り次第、大公軍団を雪崩れ込ませる、とカイエンは言っているのだ。

 これはもう、今や皇帝オドザヤの愛人となってしまっており、オドザヤの親衛隊長でもある自分は、モリーナ侯爵とは永遠の縁切りをせざるを得ない。

 今のモリーナ侯爵の立場からすれば、オドザヤもカイエンも、「大人しそうな顔をして、幾人もの男をたぶらかし、顎で使っている、けしからん女」だ。モンドラゴンもまた、つい先日までは似たような認識だった。だが、オドザヤともう深い仲になってしまったモンドラゴンの立場では、もうそんな自分のつまらない感慨なんぞは、もう黙って飲み込むしかないことだった。

 彼にとって、オドザヤの体はもう、自ら離れることの出来ないほど執着するものになっていた。

 その後、カイエンがオドザヤに説明した、モリーナ侯爵が匿っている連中のことは、モリーナ侯爵との関係を温存しているモンドラゴンはもちろん、知っていることだった。知ってはいたが、オドザヤには黙っていたことが、今、カイエンによってオドザヤの目の前で暴露されていると言うことだ。モンドラゴンはひやりとした。

「あら、そうなの。ウリセスはまだ、私よりもモリーナ侯爵の方への義理堅さを残していたのねえ」

 オドザヤは内心では、憤っていたが、声はおっとりとして柔らかだった。恨むようにモンドラゴンを眺める琥珀色の目は意味深だ。そして、ねえ、お姉様、とことさらにカイエンに甘えたように言うのも忘れない。

 それに、モンドラゴンは末恐ろしいものを感じた。

 モリーナ侯爵が、もう少し用心深い男だったら、モンドラゴンはそのことを知らされなかっただろう。そして、オドザヤがモンドラゴンを、自分の体をもって身の内に取り込むのが遅かったら、モンドラゴンは女皇帝と女大公に、今、こうして迫られるような事態にはなっていなかったはずなのだ。

 モンドラゴンは二人の、彼よりも十か、それ以上も若い女二人に、「そうだろう? 間違いはないだろう?」と問われる目で見つめられれば、もう、冷や汗をかきながら、こう言うしかなかった。

「……分かりました。皇帝陛下の御身の安全を計りますのが、親衛隊長の私の役目。そして、皇帝陛下の治世を邪魔する者どもを排除することもまた、私の勤めに繋がるもの。帝都の安寧もまた、陛下の治世の安泰には必要でございます」

 追い込まれたモンドラゴンは、はっきりとオドザヤとカイエンの前でこう言い切って見せるしかなかった。

「ザイオンの奸計でこの帝都ハーマポスタールに潜む輩。そして、皇帝陛下の治世を邪魔しようとするけしからぬ貴族ども。……共に一網打尽に出来うるとあれば、このモンドラゴン、一命をかけるのも厭いません」

 この言葉を聞くと、オドザヤはとろけるような微笑みを浮かべた。モンドラゴンは、「単純な女だ」と思う一方で、一見して単純な女をオドザヤが演じているという事実も、心の底では理解していた。

 だが、大公カイエンの方の表情は、モンドラゴンの背筋に、氷のように冷たい刃物を押し当てているようだった。

(お前はもう、オドザヤ皇帝陛下のものであるはず。裏切りは許さない)

 カイエンはモンドラゴンの再度の変節は許さない、とはっきりと目で言っていた。

「では、すぐに我が大公軍団の者共を、それも精鋭をモリーナ侯爵邸の周囲に配置する」

 カイエンはモンドラゴンが、アルウィンの桔梗星団派のことなどまでは知らないことは承知していた。これは知っている人間の方が少ない。だから、モンドラゴンには、あくまで奇術団コンチャイテラの連中は、ザイオンがトリスタンの縁談と共に仕掛けてきたハウヤ帝国の帝都ハーマポスタールをかき乱すために送り込まれてきた連中、とだけ思わせておくことが肝要だった。

「……承知致しました」 


 そして、ウリセス・モンドラゴンは至急ご報告したいことがある、とモリーナ侯爵に夜更けに使いを出したのだ。

 モリーナ侯爵からの返事が戻ってきたのは、もう、真夜中を過ぎていた。 

 馬車が、モリーナ侯爵邸の近くに達すると、モンドラゴンもさすがに胴震いのようなものを感じた。

 今夜これで、女帝反対派のモリーナ侯爵の派閥は終焉を迎えるのだろう。

 悪くすれば、モリーナ侯爵家という家自体が消し去られるかもしれない。その引き金を引くのが、にわか子爵の自分なのだ。

 そして、決して頭の回転が悪いのではないモンドラゴンは、もう一つの隠された事実にも気が付いていた。

 モリーナ侯爵は、実は、今、スキュラと交戦中のハウヤ帝国北方に領地を持つ、三大侯爵の一人テオドロ・フランコ公爵の庶兄なのだ。庶子ゆえに公爵家の当主にはなれず、モリーナ侯爵家に婿入りした。

 その、いわくのあるフランコ公爵は、スキュラでのことが収まれば、そのままスキュラを自領に加えることを許されたばかりだ。フランコ公爵は確執のある庶兄の没落を、望みこそすれ恨むことなどないに違いない。

「……親衛隊にやっとのことで入隊できた頃には、こんなことに加担することになるとは、考えもしなかったな」

 モンドラゴンにはしばし、自分の今までの人生について思いを馳せる時間が出来た。



 このハウヤ帝国の親衛隊と言うのは、元々は皇帝の警護を目的としたものだった。それが制定されるまでは、近衛の軍隊がそれを行なっていた。

 通常、近衛の任務と親衛隊の任務を分ける国家は少なく、普通は職務も同じような範囲をさすのが普通だ。

 ハウヤ帝国であえて近衛の他に親衛隊が作られたのは、皇宮の中と外との警備の管轄を分けたことにある。つまり、近衛の方は、もしも皇帝が自ら軍を出す場合は皇帝の周りを固める軍勢となるのだ。だから、訓練なども近衛と親衛隊ではかなり違ったものとなっていた。近衛の将校になるには、他のアルマの将校に任官するのと同じように、基本的には、国立士官学校を卒業する必要があった。

 歴史上には、一兵卒から成り上がった将軍もあったが、それはまさに稀有な例外である。

 近衛は帝都の最後の守りとして位置づけられており、四つのアルマ同様に駐屯地を持つ。だが、親衛隊の方は皇宮の警備兵、という意味合いでのみ機能していた。

 それだけではなく、近衛の将軍となれば、他の正規の帝国軍である、四つのアルマの上に座するもの、という意味合いがいつの間にか生まれていたこともある。実際、元帥大将軍となる前も、近衛の将軍だったエミリオ・ザラの地位は四つのアルマの将軍よりも一段上、として遇されていた。

 だから今、このハウヤ帝国では近衛と親衛隊との二つの団体が存在する。

 現在の親衛隊隊長は、ウリセス・モンドラゴン子爵。

 彼の実家は貧乏な准男爵家だった。准男爵の位は、原則としては一代限り。中には世襲が認められる家もあることはあったが、ハウヤ帝国の貴族階級の中では最下位であり、何か国家に対する功労があった者に「功労」のために与えられるものだった。であるから、世襲准男爵家であっても、元は商家だったり、一軍人だったりした家が多く、大公、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵までの家とは貴族社会では明確に区別されていた。

 例えば、元老院議会議員として認められるのは、子爵家までの当主で、男爵家は認められていない。つまりは男爵家もまた、上位貴族の中には入らない。だが、それでも皇宮での催しなどには男爵家までは招待される。

 そして、男爵家までは「領地」を下賜され、領主としてその領地の大小はあれどもそこからの実入りが毎年の収入となる。だが、准男爵家にあるのは称号だけで、領地などは与えられない。

 その上に、准男爵家は皇宮で行われる行事や催しに招待されることはない。その点では、ほぼ平民扱いと言っても良かった。元々が商家であったりする准男爵家には裕福な家もあったが、世代とともに落ちぶれて行く准男爵家の方が多かった。

 こういう「事情」はモンドラゴンの家でも同じで、彼の実家の准男爵家では、父の代でもう困窮を極め、准男爵の称号が売れるものならば、それを間違いなく売っていたであろう状況に陥っていた。

 ウリセスは白っぽい金髪に青緑の目をしていて、肌の色も白く、このハーマポスタールでは珍しい、北方系を感じさせる容姿だったが、同じような容姿を持っていた姉は、身売り同然にとある商家の隠居の妾にされ、そのままでは妹までもが同じような運命をたどることは明白だった。

 ウリセスは幸い、体格にも恵まれていたから、彼のような下位貴族か、ある程度以上の裕福な実家の者ではないと申し込めない、親衛隊の一般公募に申し込んだ。大公軍団の治安維持部隊に応募するということも考えたが、こちらは平民がほとんどだから、なけなしの対面を重んじる父母が許してくれなかった。

 そして、恵まれた容姿も幸いし、彼は皇帝の親衛隊隊員に任官することができた。

 だが、親衛隊には男爵以上の貴族の息子の中で、長男でなく、そしてあまり出来のよくないものが応募することも多かったので、平隊員として入った彼の上には、そうした有象無象が上官としてひしめいていた。

 そのまま、何事も起こらなければ、彼は使いっ走り同然のヒラのままで退役まで行ったかもしれない。

 だが、運命とはわからないもので、先帝サウルが何かの催しを開いた折、警備の一人として任に当たっていた彼を、一人の、子爵家の一粒種の跡取り娘が見初めたのである。

 最初はウリセスの実家が准男爵家であるということで、大いに難色を示していた、先代モンドラゴン子爵夫妻も、結婚後かなり経ってから出来た、たった一人の愛娘の「あの人がいいの」という懇願には、最終的には折れた。

 そうして、誕生したのが当代のモンドラゴン子爵、ウリセスなのであった。

「いらっしゃいませ。モンドラゴン子爵閣下。……主人は奥でお待ちしております」

 モリーナ侯爵家は、三大公爵家の次に居並ぶ侯爵家の一つだ。そのハーマポスタールの邸宅は、ただただ、立派、の一言だった。モンドラゴン子爵家の館は、これほどの威容は持っていない。

 馬車を降り、邸内に入りながら、モンドラゴン子爵ウリセスが考えていたことは、もう、自分の身の安全のことだけだった。

 腰の剣はモリーナ侯爵家の家人に預けたが、懐にも腰にも短剣を仕込んでいる。 

 彼の支配する親衛隊は、ここのような貴族の家での捜査権など持っていないから、彼は一人で乗り込んでいるのだ。

 こんな時間に、いきなり訪いを入れたモンドラゴンを、モリーナ侯爵はどう思っているのだろうか。

 モリーナ侯爵もモンドラゴン同様の入り婿だが、彼の異母弟は、今、北方でスキュラと交戦中のはずのフランコ公爵だ。庶子ゆえに公爵家を継げず、モリーナ侯爵家に婿として入ったのが、フィデル・モリーナなのだ。

 アルタマキア皇女を救出し、スキュラ平定がなったのちには、スキュラはフランコ公爵領へ併合されるともう決まっている。そして、フィデル・フランコ公爵は、元老院議長であり、そして先帝サウルが「皇帝となるオドザヤを守るべき者」六人の一人として名指しし、遺言書まで残したほどの人物なのだ。

 普通なら、実家が富み栄えるのは喜びだろうが、フィデル・モリーナ侯爵には極めて面白くない出来事に違いない。そういうところへ、ザイオンの王子の名前を出して、大公軍団に追われている、逃げ込ませてくれと頼まれれば、あの将来の見えない阿呆のモリーナ侯爵は、異母弟を重用する皇帝と大公への憎しみだけで、うんと言ってしまったに違いない。

「まあ、怒りに我を忘れていてくれた方が、今夜の捕り物にはちょうどいいだろう」

 ウリセス・モンドラゴンは、今日のことがなくとも近いうちに、先の見えない愚かな貴族でしかないモリーナ侯爵との関係は切るつもりだった。オルキデア離宮のことが知れるとともに、さしものモリーナ侯爵も、モンドラゴンへ向ける目が冷たくなってきていたところでもあった。

 モンドラゴンが今夜、この邸内に潜む、コンチャイテラの残党の居場所を探り当てても、そうでなくとも。

 皇帝オドザヤの命令を受け、外国人の不良分子を匿っていた責をモンドラゴンがモリーナ侯爵に正した瞬間に、大公軍団の連中は、もうとっくに探り当てているはずの、奇術団コンチャイテラの残党の居場所へなだれ込むに違いない。

 要は、皇帝の意を受けた親衛隊長のモンドラゴンが、モリーナ侯爵邸へ入ることだけが必要なことなのだ。後は彼が何をしようとしまいと、大公軍団はなだれ込んでくる。

「さようならですね、モリーナ侯爵」

 モンドラゴンが、フィデル・モリーナ侯爵の館に入ってまもなく、モリーナ侯爵邸の周囲に松明の炎が立ち、帝都防衛部隊の精鋭が石垣と鉄門、そして鬱蒼とした木々に囲まれた広大な屋敷内へと侵入。中から開かれた大門からは、治安維持部隊がなだれ込んだ。裏口や屋敷の周りの塀にある小さな通用の出入り口まで、すべての場所に隊員が押し寄せた。この作戦には、大公軍団の両隊のかなりの人数が動員されたのである。

 百面相の手によって変装させられたものがいるのではないか、夜の暗さの中では見分けは難しい、との危惧から、大公軍団では、あらかじめ手に入れていた屋敷の見取り図で、地下室から屋敷内の納屋に繋がる地下道まで、すべての出入り口を確認しており、そこに隊員を配置することで、屋敷の人間を屋敷から出さない方法をとった。







 モリーナ侯爵が、大公軍団軍団長の暗殺事件の犯人その他の、重要犯罪者を匿っていたことで身柄を拘束され、侯爵邸内に隠れていた、奇術団コンチャイテラの一群と、大公軍団軍団長の暗殺を企て、その後逃走していた男も身柄を抑えられた。中には、監獄島デスティエロを脱獄した犯罪者たちもいた、との事実は、もう翌日の昼には各読売りの「号外」として帝都ハーマポスタール中でばらまかれていた。

「……危ないところだったじゃないか」

 そう、紺色の部屋の中で、奇術団コンチャイテラでは、魔女スネーフリンガだったニエベスに抱かれた、幼児のアルットゥは不機嫌そうに眉根を寄せた。相変わらず、幼児が大人の男の声で喋っている。

 ハーマポスタールの下町、あの運河のそばの桔梗星団派のアジトは、まだ発見されていなかった。他にもいくつか隠れ家を持っている彼らにとって、モリーナ侯爵邸は新しい隠れ場所の一つだった。

 近い未来には、スキュラでのことが評価され、スキュラ全土をフランコ公爵家のものとする、というオドザヤの決定で領地を増やしたフランコ公爵と、不仲な庶兄モリーナ侯爵を利用しての一幕も準備されていたところだった。だが、それはもう実現不可能になりそうだった。

百面相シエン・マスカラスは、捕まっちゃったの?」

 こう聞いたのは、ニエベスで、その向かいのソファにはあの、 子昂シゴウと、天然殺人狂の、螺旋帝国の前王朝の皇子、天磊が座っていた。姉の星辰の姿はない。

 なるほど、彼らはモリーナ侯爵邸にはいなかった、ということなのだろう。

 だが、アルットゥが「危なかった」と言うからには、モリーナ侯爵邸に出入りくらいはしていたのだ。

「ええ。今度こそ間違いなくね。百面相シエン・マスカラスが軍団長の『顔』を手に入れた後、軍団長の暗殺を狙った時は、実行犯の奴が捕まるのは予定に入っていたので、奴を逃がすためにあの双子の治安維持部隊長の一人に、あらかじめ化けさせておいた奴が使えました。でも、今度はそうは簡単にいきませんね」

「だから、あの軍団長は僕が殺るって言ったのにさ」

 天磊は悔しそうに口元を歪めた。

「あなたの体格じゃ、隊員には簡単には化けられないし、体格を良くする為に着込めば、動きが鈍くなったでしょう。それに、百面相シエン・マスカラスを使ったのは、彼が軍団長の顔がうまく出来ない、至近距離で見たい、って言ったからなんですし。あの時だってカイエン様が現れなければ、百面相シエン・マスカラスくらいの技量では、いくら隊員になりきる演技力があっても、あの軍団長を簡単には刺せませんでしたよ。だから、周囲に十字弓クロスボウを持たせた一団を配置していたのですから。百面相シエン・マスカラスはあくまで軍団長の注意をひく役割だったんですからね」

「カイエンが、なんであそこに出てきたか、ってことよね。その上、刺された軍団長はあっという間に職務に復帰しちゃったし!」

 ニエベスはアルットゥを大事そうに膝に乗せて、その頭を撫でながら、悔しそうに言う。

百面相シエン・マスカラスは、十分な深さまで刺した、生きているはずがない、としきりに頭をひねっていましたっけね」

 馬 子昂も、まさかカイエンの体内の蟲が作用して、イリヤの命を救ったとは思いもしないから、その言葉は歯切れが悪かった。

「まあ、何にせよ、あの時、あのイリヤボルト・ディアマンテスをあの世へ送れなかったのは、最大の失敗でしたね。あれ以降は、彼も双子も、みんな身辺の警戒がさらに厳重になりました」

百面相シエン・マスカラスはどうする? 奴がいないと、奴の集めた名士達の『顔』が、無駄になるよ」

 天磊も、百面相がするはずだった仕事なしで今後の工作を進めていくとなれば、かなり今度のこともあって、今後の計画が狂っていくだろう、と言うことくらいは分かるらしい。

「……トリスタン殿下からのお話では、オドザヤ皇帝と関係を持ったまでは予定通りだったが、それ以降、短時間のうちに女皇帝は麻薬の影響から脱し、こちらの手先にしていた侍女どもは、先日の皇太后の死と前後して、皇帝暗殺容疑で処分されたようだ。皇太后の侍女の実家の薬物問屋も、治安維持部隊の捜査を受けて麻薬を扱っていたことが発覚し、近く財産没収の上、廃業。薬物商ギルドの名簿からも抹消されることになるだろう、とのことでした」

 馬 子昂の日頃は完全に無表情な顔に、少しだけ焦りの色が見えたのは見間違いではないだろう。

百面相シエン・マスカラスはまだ必要だが……。奴は軍団長の暗殺には失敗してるが、奴を逃亡させるときに治安維持部隊の隊員を何人も殺している。下手をすると死刑になるかもしれん。そうでなくとも、あの軍団長の拷問にかけられれば……」

 ここまで話すと、馬 子昂ははっとした顔になった。

「まずい。百面相シエン・マスカラスはここは知らないが、他のいくつかのアジトの場所は知っている。奴が出入りしていた場所は、今日中に、いや今すぐに引き払うしかない!」

「ああ! そうだな。他の捕まった連中の出入りしていた場所も全部だ。すぐに手配しろ、子昂」

 ニエベスの腕の中から、アルットゥはがばっとばかりに首をもたげた。

「ああ、もどかしいな。私はこんな子供の体に入っているから、あの娘どもが悪賢さを身に付けていく時間の流れを感じ取れていなかったよ! カイエン様はあの軍団長まで、とうとう、自分の男にしてしまったし、女皇帝の方は親衛隊のモンドラゴン隊長をモノにしちまった。オルキデア離宮での集まりで、他の上位貴族の男どもも言いなりだろう」

「あのオドザヤ様がねえ……。頭がお花畑のお馬鹿な皇女様だったのに、今やいっぱしの悪女ってわけ?」

 ニエベスは十代の半ばで早々にアルトゥール・スライゴ侯爵の夫人となったが、歳の近いオドザヤの皇女時代の取り巻きの筆頭だったのだ。

「そのようだ。お前も、もっとしっかりしてくれないとね」

 ニエベスの息子のはずの、アルットゥがまるで妻に言うような口調でそう言ったときには、もう、馬 子昂は天磊を連れて部屋を出ていくところだった。

「ここは大丈夫だとは思いますが、お二人も一応、場所を動かした方がいいですよ。ああ、ハーマポスタールからは出ない方がいいでしょう。街道筋にはきっともうとっくに大公軍団の連中が張り込んでいるでしょうから!」


 




 

 それから半月ばかりは、帝都ハーマポスタール中の外国から送り込まれた工作員のアジトや、桔梗星団派のアジトが摘発されては、そこに残っていた者や関係者が逮捕されたという記事で、帝都中の読売りは売れに売れた。

 この記事の内容が、市民に知られるにつれて、皇宮からの命令で各コロニアに自警団の組織が命じられたことや、夜間のコロニア間の移動の制限などの政策の意味も市民に実感され、理解されていった。

 この点では、カイエン達の側はオドザヤの即位以降、相手に先手先手を取られていた状態から、反撃に転じた、とも言えただろう。

 さすがに、ザイオンの第三王子トリスタンと悪の組織との関係を暴いた読売りは無かったので、市民達はトリスタンに目を向けることはなかった。だが、大手の新聞社では、その工作員を送り込んできていた「外国」がザイオンであることは、もちろん承知していたのである。

 そして、もう五月に入ったある日。

 四月に亡くなった、皇太后アイーシャの葬儀の日も近付いていたある日のことだった。

 スキュラからは完全にスキュラ全土を掌握した、とのフランコ公爵とサウリオアルマのコルテス将軍からの書状が、皇宮のオドザヤの元へ届いていた頃。

 スキュラにとらわれの身となっていた皇女アルタマキアの帰国と帝都ハーマポスタールへの到着も、もうすぐだろうという時であった。

 カイエンは大公宮の奥の書斎に、皇宮のオドザヤの元へ送り込んでいた、ブランカとルビーの二人の女性隊員を迎え入れていた。

 オドザヤがカルメラによって、薬を使っていいように操られていた時には、オドザヤの身辺近くから遠ざけられ、カイエンやイリヤは他の方法を模索しなければならないか、と相談していたものだった。

 だが、薬の影響から脱し、自ら政治に手を出すようになったオドザヤは、親衛隊に警備を任せる一方で、彼女ら二人もまた身辺近くに置くようになっていた。ジョランダやカルメラに弱みを握られ、脅迫されて協力させられていた、女騎士のリタ・カニャスはジョランダとカルメラの拘束と同時に、お役御免となっていた。

「二人揃って、どうした? 何か、陛下の周りで何かあったのか」

 カイエンは大公宮表の執務室にいたのだが、大公宮の裏玄関から人目を避けるようにブランカとルビーがやって来たと聞いたので、わざわざ彼女の居住区に近い書斎まで下がって来たのだった。

 カイエンのところへ彼女らのことを知らせに来たのは、執事のアキノで、彼が何となく腑に落ちないという顔つきをしていたこともあって、カイエンは彼女の個人的な書斎で彼女らと会うことにしたのだ。

 カイエンの問いに、二人はすぐには答えなかった。

 やがて、口を開いたのは、元はカイエンの後宮を警備する女騎士だったブランカの方だった。

「……あの。今日ここへこんな風に人目を避けて参りましたのは、皇帝陛下のことで、ちょっと気になる事がありますからなのです」

 カイエンはオドザヤの身の回りの話だとは理解できたが、具体的にはまだ何の話だか分からなかったので、黙ってブランカの次の言葉を待った。

 ブランカのすぐ横に立っているルビーは、何だか仏頂面のまま黙り込んでいる。彼女はマテオ・ソーサによればカイエンと共通するところのある、「男前女子」であるそうだから、言いたい事があればはっきり言いそうなものだが、今日の話では年長でもあり、故郷に家族や子供もあるブランカの方に話を任せているらしい。

「話がやや、遠回しな言い方になると思いますが、それはこの話が微妙なものであるからでございます。その点は、どうかご容赦ください」

 ブランカはまだ本題に入ろうとはしない。その様子に、カイエンは何だか嫌な予感がした。それも、国家のことではなく、オドザヤ自身に関することで、なのだ。

「わかった。どんな話でも構わない。こうして、直に私に話に来てくれたのだ。陛下のことで何か、困った事が起こったのだな」

 カイエンがずばりとそう言うと、ブランカはわずかに身を震わせ、ルビーの方の表情は益々固いものとなった。

「……はい。少なくとも、私は自分の経験と合わせて考えて、恐らくは間違いないことではないかと判断いたしました。ここのルビーなどはまだ、大公殿下にお話しするのは早いのでは、と申しますのですが、私はこればかりは早い方がいいと思うのです」

 ブランカの言葉は、相当に遠回しなものだったから、カイエンにはまだ彼女の言いたいことは分からなかった。

「ここのところ、皇帝陛下は食事がすすまず、たまに匂いが気になるので、この皿は下げて欲しい、とおっしゃる事がありますのです。昼間に突然、耐え難いほどの眠気がするとおっしゃることもあります。それに、私が畏れ多いことですがお熱をみさせていただいたところでは、ややお熱がおありのようでも……」

 カイエンは、そうした症状にはあまり覚えはない。だが、わずかに思い当たる部分もあった。それもあって、本の虫の彼女には、ブランカの言いたい事が何とは無しに見えて来ていた。この話は、自分がシイナドラドから帰ってくる時に、そしてこの大公宮へ帰還すると同時に経験した、「あのこと」と関係があるのではないか。カイエンは背筋を流れ落ちていく脂汗を、確実に感じていた。

「そうか。ブランカはアキノと同郷だから、聞いているかも知れんが、私も前にそんなことがあった」

 カイエンのこの言葉を聞くと、ルビーは不思議そうな顔になったが、ブランカの方は、ほっとした顔になった。アキノは決して口の軽い男ではないが、同郷の者には甘いところがある。ブランカはアキノ同様、獣人の村プエブロ・デ・ロス・フィエロスの出身なのだ。

「大公殿下、ありがとうございます。まさに、そのことなのでございます、私が危惧しておりますのは。私は陛下の侍女のイベットにも確かめました。……陛下には、もう二ヶ月ほども月の障りが見られないそうなのです。イベットは今度の陛下暗殺未遂事件が起こりますまでは、カルメラという侍女の下にあったそうですが、下であったがために、かえって陛下の月の障りの時の始末などには関わっていたそうなのです」

 何ということだ。

 カイエンは身震いした。

 カイエンは、シイナドラドから帰国してすぐ、エルネストとの間に出来た子供を流産している。もう、シナドラドから脱出した時点で高熱を発したりしていたので、クリストラ公爵の大城で医師の診断を受け、決して産んではやれない子供が腹にいることを知らされた。

 それから、ハーマポスタールへ着くまでの間には、さっき、ブランカが言っていたような症状も体験していた。

「それなら、かなりの確率でもう、陛下のお体に起こったことは確かなことだろうな。だが、陛下の侍医に見せるわけにはいかん」

 カイエンの頭はその時、急速に回転していたに違いない。だが、決定的な判断などは出来なかった。

「……私の場合には、蟲の影響で、子供は早々に私の体から出て行ってしまった。だが、陛下はご健康だ。そんな事が起きる可能性は低いだろう」

「はい」

 ブランカがそう言うと、ルビーの仏頂面が困惑の表情に変わった。

「じゃあ、もう、間違いないんだね?」

 ルビーにはカイエンのような経験さえないのだろう。その声は囁くように小さかった。

「まさか、この時期にな。皇太后陛下の事がなければ、陛下とトリスタン王子との婚約をすぐにも発表出来た。だが、あまりにも間が悪い。どうしたものか……」

 カイエンは暑い鉄串を脳天から突き刺されたような思いがしていた。

 オドザヤはほぼ間違いなく妊娠している。オドザヤの腹には、子供がいるのだ。それも、時期からすれば、トリスタンか、あのモンドラゴンの子供だろう。いや、もしかしたら他の男かも知れない。

「陛下はまだ、このことにはお気付きではないな?」

 カイエンは確認した。

「はい。今、一番陛下のそばにいるイベットも、経験のないことですからまだ何もわからずにいると思います」

 カイエンはこのことについては、いくつかのこの先の可能性を模索する事が出来た。

 最善なのは、このまま妊娠を継続させ、オドザヤに出産させることだ。だが、そうするならば、生み月まで彼女の妊娠を隠し続けることになるだろう。今、今日にでもトリスタンとの婚約を発表したとしても、婚礼はまだずっと先になるだろうから。

 無事に赤子が生まれてきたとしても、その子はオドザヤと皇配のトリスタンの子供として世間に認められることはないだろう。オドザヤは結婚前に父親の知れない子供を出産した皇帝、と言うことになるのだ。

 手っ取り早い選択は、腹のなかの子供を早急に堕してしまうことだ。まだ、妊娠して三ヶ月にはなってはいまい。それならば、母体であるオドザヤの身の危険を運命にかけるなら、子を闇に葬ることも可能かも知れない。だが、それはかなり危険な賭けだった。そんな賭けにこのハウヤ帝国の皇帝の命を賭けることが出来るだろうか。

 どっちにしろ、今、オドザヤの腹にいる子供は、正式な嫡子として生まれることは出来ず、次代のハウヤ帝国皇帝にはなれないのだ。

「……陛下の元へ、この大公宮から密かに医師を送り込む。心当たりがある。獣人の村プエブロ・デ・ロス・フィエロスの出身の医師だ。外科が本業だが、彼がだめなら彼が他の適当な医師を紹介してくれるだろう。陛下の妊娠が確認されたら、ブランカ、ルビー、まずは陛下のご意向をはっきりと質せ」

 残酷なことだが、この命をどうするかは、母親である、オドザヤ自らが決めるしかない。

「ブランカ、お前は出産の経験がある。どういうことになっても、陛下のお側でしっかりと事態を見届けてくれ。私も陛下の驚きが静まり次第、皇宮へ上がって、陛下のお気持ちを確認する」

 時期的に言って、誰の子供かなど、オドザヤにもわからないだろう。その子供を産むのか産まないのか、オドザヤがそれを決めないことには、カイエンも動けなかった。ことは人の命一つ。決してこの世に産み出してやれない子供、それも、望まない相手との子供を失ったことのあるカイエンだったが、オドザヤにどっちを選ぶのか、迫ることなど出来なかった。

 こればっかりは、宰相のサヴォナローラだの元帥大将軍のエミリオ・ザラだのは頼みにならない。

 政治的に見れば、この子供は闇に葬るのが最善なのだから。

「あんな理不尽な悲しみは、私だけでよかったのに。……まさか、陛下にもとは」

 カイエンはもう、リリを引き取った時に、あの決して産んでやることは出来なかった娘のことについては納得したつもりだった。エルネストの方も、血族の証であった灰色の目をあの娘のために捨て去って、このハウヤ帝国にやって来たのだ。

 だが。

 オドザヤの子供は、このまま問題なく育まれれば、この世に生まれてくる事が出来るのだ。

 ハウヤ帝国の世継ぎにはなれなくとも、人としてこの世で生きていくことは出来る。要は、もしオドザヤが出産を選ぶとすれば、未婚の女皇帝が秘密裏に出産した子供を、誰が引き取るのかということになるのだろう。

「わかった。どっちに転ぶにしても、私は陛下のお側で見届ける。生まれて来たとしても、リリのように私の子として引き受けるわけにもいかないが、それでも闇に葬ることだけはしたくない」

 オドザヤが、この子供を直ちに中絶する事を願ったとしても、それはそう簡単な事ではなかった。

 この時代、確実な妊娠中絶の方法など無かったからだ。 

「ブランカ、よく知らせてくれた、ありがとう。お前にも今後苦労をかけることになるが、なんとか最善の道を探っていかねばならないな」

 カイエンのその言葉を聞いている、ブランカの目はもう、涙でいっぱいだった。ルビーの方も困惑した顔つきながらも事態の重大さ、そしてそれをここにいる他の二人とともに担うことになることは覚悟できていただろう。

「生まれてくる赤ちゃんたちすべてが、望まれて生まれてくる子ばっかりではないことは、私も神殿にいた頃から知ってはいましたけど、こんな身近で関わり合いになるとは思っちゃいなかったです」

 ルビーはそれでも、きっぱりと最後に言い切った。

「私はもう神官じゃないけれども、祈らずにはいられないです。この世に必要のない人間なんか、いないんです。生まれて来さえすれば、その子にはこの世でしなけりゃいけないことが必ずあるはずです。人間てのは、いいえ、生きとし生けるものはすべて、そういうもんであるべきです」

「ルビー!」

 ブランカはそれ以上何も言えないまま、ルビーに抱きついて泣いていた。

 カイエンもまた、ルビーの言葉を一人、心の中いっぱいに噛み締めていた。

 ……この世に必要のない人間なんか、いないんです。生まれて来さえすれば、その子にはこの世でしなけりゃいけないことが必ずあるはずです。人間てのは、いいえ、生きとし生けるものはすべて、そういうもんであるべきです。

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