死の舞踏 1

 百面相シエン・マスカラスは、もう数時間に渡って、くぐもった叫び声を上げ続けていた。

 彼は今、天井にある鉤に繋がった鉄の鎖で吊り下げられ、後ろ手に木製の手枷をはめられている。

 その上で、彼の体は、金属製の短い束ねられた鞭や木製の棒でぶっ叩かれたのを手始めに、ありとあらゆる肉体への暴力という方法で責め立てられていた。口には自殺防止の器具がはめ込まれていたので、叫び声はくぐもったものになる。

 彼が聞かれているのは主に、彼の仲間のアジトの場所についてで、話さずとも彼が教える気持ちになれば役に立つよう、彼が責め立てられているそばには、ハーマポスタール市内の地図を広げたテーブルが置かれていた。 

 もう、とっくに彼の頭の中は朦朧とし始めていたが、気絶しそうになる度に、最初のうちは水を頭からぶっかけられ、それでも効かなくなって来たと見ると、爪の間などに針を刺された。最後には、ほとんど裸にひん剥かれた背中だの胸だのに、熱く焼いた焼きごてが押し当てられたのだ。

 百面相シエン・マスカラスは、もう、自分の本名から出身から、奇術団コンチャイテラの面々のことまで、比較的喋りやすいことはもう全部、吐き終わっていた。

 殴られ続けた顔は腫れ上がり、目は見えなかった。もともと、特殊な変装をしやすくするために、髪も眉毛もない異様な顔が青黒く変色してきている。朦朧としてきた頭は、そのうち判断力を失うだろう。

 恐ろしいもので、最初のうちは自死をもって秘密を守ろうとする気持ちがあっても、自分の体がもう完治出来るのか疑わしいような状態になってくると、自分が体を張って守っているものの価値が下がって来るのだ。

 それを狙って実施されることこそが、拷問だった。

 拷問。

 この時代、それはどの国でも、支配者層や軍隊、それに大公軍団の治安維持部隊のような警らを担当する団体では、普通に行われていた。そういう団体に逮捕されたり、捕縛されたら拷問を受け、知っていることはもちろん、知らないことまで無理やりに吐かされる。だから、一般の人々がコソ泥だの掏摸すりだののレベルを超えた悪事に加担するということは、「捕まったら、もう元の体で家へ戻ることは叶わない」ということだった。

 あの、連続男娼殺人事件の時に、ここへ連れて来られた大店の息子、ディエゴ・リベラが感じていたのが、まさにそういう気持ちだった。彼の場合には、彼の恩師であるマテオ・ソーサが同道していた。彼自身は人殺しを目撃しただけで、加担などしていなかった。それでも、ディエゴは自分が五体満足な姿では家に帰れないかもしれない、という恐怖を確実に抱いていただろう。

 残酷な方法、と眉をひそめる者も知識階層の中などにはいたが、「じゃあ、あなたが被害者になった時、逮捕された加害者が口をつぐんでいたばかりに、残った仲間によって、あなたのご家族にまで被害が及ぶかもしれなかったとしたら? それでも?」とでも反論されれば、もう黙り込むよりほかはなかった。

 この方法は、何よりもとにかく「犯人から情報を引き出す」ということにおいては、最も時間がかからない方法だったのだ。特に、もう犯人を牢から出す必要がない場合……つまりそいつは終身刑か死刑決定間違いなし、という場合には。

 ところで。

 拷問などする場所と言えば、声が聞こえないように、深い地下にあって薄暗く、不衛生で汚い、血やら何やらで床から壁から汚れて黒ずんだ、湿って、天井から地下水の滴り落ちてくるような、陰惨な場所を連想するだろう。

 だが、今、百面相シエン・マスカラスが拷問されている、この部屋はそうではない。

 ここも、二代前の軍団長の時代までは、まさにそういう、人々の想像通りの場所だったのだが、先代の軍団長の時代に、きれいに様変わりさせられていた。

 最も、そこで行われる尋問と拷問の内容の方は、かえって残忍さを増したかもしれない。

 今やここでは、犯罪者たちの体を使い、効果的なやり方を試しては編み出されていった画期的な方法はもちろん、医者や薬学士から学んだ薬なども使う、能率の良い方法を選ぶようになっていた。ここでの拷問は、薬物の投与や、人体を痛めつけるのに効果的な部位を知ることによって、「ぎりぎりまで人体を破壊せず、生かしたまま効果的に情報を得る」ことに特化していた。

 その罪人を最終的にどういう状態まで追い込んで良いか、つまり死刑前提なのか、そうでないのかによっても方法は変えられた。その手順までもがここでは段階を追ってきっちりと手順書としてまとめられており、それが厳格に実行されていた。

 誰が尋問、拷問に当たっても同じ効果が得られるように。そして、過剰な拷問によって、自白や秘密を聞き出すより先に罪人に死なれないように。

 何よりも、このマニュアル化された尋問と拷問の決まりごとは、それを行う側の心理的な抵抗をやわらげる効果があった。

 例外はそれを制定した先代軍団長と、それを引き継いだ愛弟子である現軍団長くらいで、普通の隊員には拷問という行為は、「出来ればしたくないこと」であることも、これを作り上げた彼らは知り尽くしていたのだ。

 その多くは、先代の軍団長、アルベルト・グスマンが編み出し、実行したものだった。だが、当代の軍団長になってから考案されたことも少なくない。

 ハウヤ帝国帝都ハーマポスタール、大公軍団総司令部のある、大公宮表の地下深く。

 特に重要な罪人や容疑者が連れてこられ、尋問を受ける場所。

 そこは、地下深くにあるとは思えないほど、天井から下げられたり、壁の上方に置かれたりしたランプによって明るく照らされていた。壁も天井も床も石造りだが、壁の一部に風通しの穴を開けることによって、湿気は少なくなっている。

 今、百面相シエン・マスカラスが高い天井から下がった鉄鉤から鎖で吊り下げられ、拷問を受けている部屋。

 そこは、そう広い部屋ではないが、使う油のために支出する金が心配になるほどのランプが灯されている。もっとも、質より量を考えて使われている油は、一番安い魚油だったから、部屋の中にはその独特の匂いが充満していた。

 明るくなれば、いやでも汚いところが目につく。

 前団長アルベルト・グスマンが皆に気付かせたのはこれだった。見えてしまえば、見えなければ耐えられたものも耐え難くなる。拷問というものは、先にも言ったように、普通の隊員にとっても決して気持ちの良いものではない。耐え難いものが見えてしまえば、せめてその環境だけでもきれいに保とうとするものだ。

 だから、大公軍団の取調室も、拷問部屋も、他国のそれとは全然違った、恐ろしいまでの清潔さが保たれている。

 百面相シエン・マスカラスが吊り下げられている鉄の鎖にも錆びはみえない。

 そして、彼の尋問に当たっている、人間的に大いにぶっ壊れたところのある、拷問大好きなこの大公軍団の現軍団長イリヤが座っている木の椅子も、古くて粗末ではあったがきちんと手入れされていたし、床も百面相シエン・マスカラスの体から落ちた新しい血潮が点々と散っているだけだ。血が固まると掃除しにくくなるので、イリヤの周りの治安維持部隊の隊員たちはこまめに専用のモップで拭き取っていた。

 そうした、こんな非日常であるべき場面を明るく照らし、勤勉で実直な隊員の日常的な仕事ぶりが見える場所での拷問は、実は陰惨で不衛生な従来の環境での拷問よりも、犯人の自白率が高かった。

 自分を痛めつけているのは、明るい場所で働いている、真っ当な普通の連中だといやでも認識させられてしまうからだ。それが、前軍団長アルベルト・グスマンの始めた、独創的な発想だった。

 しつこいが、一般の隊員には、通常のやや乱暴で威圧的な尋問ならともかく、拷問に関わる仕事をしたがる者は少ない。それは、当たり前といえば当たり前のことだ。だが、こういう明るい場所での拷問は、彼らにも「これは仕事だ。正しいことなんだ」と錯覚させる効果もあったかもしれない。

 そういう意味で、前軍団長アルベルト・グスマンという男は、人の心理の裏の裏まで利用出来る男だったのだろう。いや、その才能はあのアルウィンの側で桔梗星団派の幹部として今も生かされ続けているのだ。

「ねえねえねえ。もう早く全部話しちゃってくれないかなぁ。さっきから言ってるでしょー? 他の部屋で尋問されているお仲間は、もうとっくにどんどんしゃべってるんだよぉ。もうね、あんたに聞くのは確認のためだけなの。それと、人によって知っているアジトの場所やなんかが違うみたいなんでねー。一応は、みんなに聞いてるの。あんたはコンチャイテラの中じゃ、重要人物だったんでしょ? 桔梗星団派のアジトの場所とか、コンチャイテラとザイオン、それに桔梗星団派の関係とか、洗いざらいしゃべってくれれば、死刑にしたことにして、極秘で生かしといてやってもいいんだよぉ」

 ……ねえ、とイリヤがこれ以上ない、という美麗で満足げな微笑みを向けた先には、彼の唯一の上官が座っていた。

 それは、この街の大公であるカイエンだ。

 いつも必ずそばにいる、護衛騎士のシーヴも一緒だが、彼はカイエンの座っている真後ろで、直立不動で無表情のまま、この情景を明るい胡桃色の目に映している。彼は大公軍団の団員だが、治安維持部隊の仕事も帝都防衛部隊の仕事もしていない。名簿上は治安維持部隊の隊員だったが、彼の職分はカイエンの護衛、ただそれだけだった。

 だからシーヴは表情を消したままだ。今、ここで行われていることは彼の職分と関係のないことだったから。

 カイエンもシーヴも、イリヤとは違って、拷問を楽しむような性格でも人間でもない。でも、彼女たちは「それ」が実際に必要であることを認めていた。拷問で聞き出せたはずのことが分からなかったばかりに、次の被害者が出たらどうするのか。

 もちろん、拷問という方法が、無実の者を傷付け、最悪、殺してしまいかねない危険な方法であることも理解していた。それでもこの時代、この残虐な方法を、彼女の命令で禁止することは出来なかった。それは代わりになる、もっときれいで合理的な方法が他に無かったからだ。

 この時代の技術では、証拠集めで犯人を追い込むようなやり方は出来なかったのだ。

 先代のアルウィンまでの大公たちとは違って、彼女は治安維持部隊の捜査する事件現場にも足を運んだし、重要事件ではこうして、容疑者、犯人への尋問、拷問の場にも立ち会って来た。最初の頃は気分が悪くなったり、悪夢を見たりもしたものだ。

 だが、悲しいかな。人間は慣れるということが出来るのだ。出来てしまうのだ。

 モリーナ侯爵邸から逮捕されてきた、ザイオンの奸計で送り込まれてきたと思しき奇術団コンチャイテラの連中や、監獄島デスティエロを脱獄した終身刑の罪人の残り、そして、大公軍団軍団長暗殺未遂事件の犯人である、この百面相シエン・マスカラス

 彼ら危険分子を自らの本邸の中に匿っていたモリーナ侯爵は今、大公軍団の帝都防衛部隊の方と、近衛から派遣されてきた兵士たちによって、自邸の一室に押し込められている。

 今度のこの事件は、まさしく大事件だった。外国の工作員を、事もあろうにハウヤ帝国の貴族中の貴族である侯爵が自分の屋敷に匿っていたのだ。

 街では各読売りの号外が飛ぶように売れているという。

 だから、カイエンもこの事件で逮捕された者共の尋問には、直接、立ち会っていた。

 その中でも、百面相シエン・マスカラスへの尋問は重要だった。あの焼け落ちた奇術団コンチャイテラの芝居小屋。燃え残っていた、壁中に仮面が飾られていた部屋。コンチャイテラの興行自体が、あの壁一面の「顔」を百面相が「手に入れる」ための時間稼ぎと、情報収集のため、ザイオンからの指令を疑惑を持たれずに受け取るためだったことは、すでに他のコンチャイテラの団員の徴取から判明していたのだ。

「……アジトの場所だの、桔梗星団派との関係だのを吐けば、お前は桔梗星団派の奴らに牢の中にいてさえも殺される危険性があるのだろうな。奴らの手先がここにいなくとも、毒を差し入れるかなんか、方法がないわけじゃない。しかし、ここでだんまりを決め込んでいても、お前の場合、ここの軍団長の暗殺未遂、それに脱走の時に隊員を何人も殺傷しているから、死刑は免れんぞ」

 そう静かに百面相シエン・マスカラスに話しかけるカイエンは、イリヤがにこにこしながら罪人を痛めつける光景を何度も見ていた。だから、彼の職務への勤勉さと熱心さの裏にある、真っ黒な異常性をもとっくに知り尽くしていた。それでも、彼女がイリヤに嫌悪感を抱かなかったのは、それが彼女のするべき仕事に必要なものだと判断しているからだった。

 十五の時に大公に「ならされた」時から、初めて面会した軍団長のイリヤに嫌味な挑戦を挑まれた時から。彼女はこうした大公軍団の「暗部」とでもいうべきものへも、きちんと目を向け、それらの最終的な責任は彼女が負うのだ、ということを自分に言い聞かせてきたのだ。

 だから、イリヤの中にある闇もろともに、カイエンはすべてを飲み込んで来たのだ。そういう意味では、アルベルト・グスマンの「残虐な有能さ」をにこやかに微笑んで受け入れたアルウィンと、カイエンは似ていたのかもしれない。その心持ちは大いに違っていたにしても。

「今、ここの軍団長が言った通りだ。お前には、こちら側でも使い道がある。あの壁一面の顔、このハーマポスタールの名士たちの顔が、お前のその頭に残らず入っているのなら、私たちの側で使ってやってもいいのだぞ」

 カイエンはそう言ってみたが、相手は無言のままだった。意識はある。さすがにこの部屋へ連れてこられた時の余裕は無くなっているが、時間を稼げばまだ捕まっていない仲間が救出に来る可能性がある、とでも思っているのだろうか。

「助けは、来ないぞ」

 カイエンは、あえてイリヤに言わせず、自分が言った。

「今頃、桔梗星団派の奴らは、すべての既存のアジトから撤退していることだろうよ。まあ、お前のお仲間が喋った場所には、もう次々と治安維持部隊を向かわせているから、お前らの組織も随分と人数が減るだろうな」

 カイエンは淡々と事実を告げた。

「そして、このハーマポスタールから出る街道筋にはもう、私たちの手が伸びている。だから、彼らはこのハーマポスタールからは出られない。こっちは奴らも承知しているだろう。まあ、あいつアルウィンの手下のすることだから、お前らの知らない隠れ家が他にあるのだろうけどな。私が言うのもなんだが、このハーマポスタールは広すぎる。それに下町の方は入り組みすぎていて、地図に書ききれていない場所もあるんだ」

 イリヤの方は百面相シエン・マスカラスの吊り下げられている真横に歩いていく。

「まー、お前さんも俺っちを殺し損ねて、残念だったよねえ。あそこに殿下が出て来ちゃったから、桔梗星団派の奴らもあれ以上の手出しが出来なくなったしね。……ねえ、分かってるぅ? 桔梗星団派の奴らは、俺は殺せても、殿下は殺せないんだよぉ」

 百面相シエン・マスカラスの吊り下げられた体が、少しだけ揺らいだ。

「お前ら、ザイオンで傭われた奴らには知らされてないのかなぁ? 桔梗星団派の頭アルウィンは、ここの大公殿下だけは殺せない人間なんだ。変態的な粘着系の愛情で愛しちゃってるからね」

 カイエンはこのイリヤの言葉が真実だと知っていたが、今更ながらにぞーっとした。言っているイリヤがカイエンに向けている感情も、やや色合いは違ってもアルウィンのそれと近いものがあることも、カイエンは承知していた。

「……でも、もう分かったでしょ。奇術団コンチャイテラの中でも、あの魔女スネーフリンガと、魔術師アルットゥはハウヤ帝国人だろ? あいつらはザイオンそのものを利用しているだけなんだよぉ」

「ザイオンの王子が陛下に仕掛けていた陰謀も、もはや潰えたぞ」

 カイエンは、実際にはオドザヤの腹にトリスタンの子かもしれない赤子がいるとしたら、トリスタンの仕掛けはある程度功を奏してしまったのだ、ということを忸怩たる思いで感じていた。オドザヤのトリスタンへの恋心の方は、一夜にして霧散してくれたというのに。

「お前、ザイオン人だってさっき言ったよね。奇術団員だったのも、本当だって。それ、もう他の奴らの吐いた証言で裏付けられてるの。お前らは、利用されたんだよ。ザイオンの女王、つまりは後ろにいるハウヤ帝国人の党首がやってる桔梗星団派にさぁ。……そろそろ、目ぇ覚まさない?」

 次の言葉は、偶然にもカイエンとイリヤの二重奏となった。

「ザイオンの女王も、こうなったらもう、お前らは切り捨てるだろうし……」

「な」

「ねぇ」

 百面相シエン・マスカラスは、急に朦朧としていた頭が冴え渡ったような気がしていた。

「トリスタン王子だって、わからんぞ。あの第三王子だけはチューラ女王の王配、ユリウス殿下の子じゃないっていうじゃないか。所詮は捨て駒だったのかもしれん」

「奴の実の父親である、シリル・ダヴィッド子爵がこのハーマポスタールにいることも、こっちじゃ、もう掴んじゃっているしね」

 カイエンとイリヤはここまで百面相シエン・マスカラスの耳へ吹きこむと、最後の仕上げをすることにした。

「さっき言ったよね。全部、知ってること話せば、こっちでお前の大好きな変装術で使ってやるよ。ああ、粘って喋らなかったら、次はお前の両足、ノコギリ引きにするから。お前自身が変装して活躍する必要なんか、もうないからねぇ。両手はともかく、足なんかもう、いらないでしょ?」

 イリヤがこう言えば、カイエンも付け足した。

「お前の変装に必要な物品を仕入れてた店も、もう抑えてる。……これでもまだ、喋るのに時間が必要か?」

 カイエンはそう言うと、もう拷問部屋を後にしていた。

 後からくっついて来たのは、拷問大好き軍団長のはずのイリヤだ。ノコギリ引きは他人任せなのだろうか。カイエンの知っているイリヤは、残酷なことだけではないが、失敗の許されぬ重要なことこそ他人任せにはせず、自分でやりたがる方の性分なのに。

「ねーねー、殿下ちゃん」

 そして、廊下に出た途端に、見張りの隊員の目も耳も気にせずに話しかけて来た言葉がこれだ。

 カイエンとイリヤの関係は、もうかなり大公宮だけでなく世間へも漏れ始めていたが、さすがに拷問部屋の見張りの隊員は目を白黒させている。

「一仕事終わったしぃ。まー、今日中になんとかなると予想して、今夜、俺のおなじみのお店を予約してあるのよー」

 何言ってるんだ、こいつ。

 カイエンはイリヤの熱を測ってやりたくなった。

 今の今まで、陰惨な拷問と尋問に立ち会っていたと言うのに、こいつの頭の具合はどうなっているのか。

 だが、数秒後には、カイエンの気持ちはもう、いぶかしさや疑問から、納得の方へ大きく舵を切っていた。こいつの頭がおかしいのは、今始まったことではない。それごと自分の内に取り込むのを選んだのは、カイエン自身だ。

「あのな……。さっき、お前ノコギリ引きがどうとか言ってなかったか?」

 カイエンの頭の中には、まださっきの血まみれになり、顔の腫れ上がった百面相シエン・マスカラスの姿がしっかりと焼き付いている。だが、イリヤの頭の中の方ではきれいに消去されてしまっているのだ。それは理解できたが、それでもこう言わずにはいられなかった。

「あーあ。ご心配はそれでしたか。まー、俺がああ言っちゃったから、あいつがダンマリのままだったら残して来た隊員がノコギリ引きしなきゃならないですもんねー」

「イリヤさん、そう言うところはちゃんと自分の言ったこと、責任取ると思ってましたけど」

 ここで初めて口を挟んで来たのは、拷問部屋に入ってからずっと黙ったままだったシーヴだ。

「あらあら、君までご心配ですか。……大丈夫です。あれはもう今頃、全部吐き散らしてます。間違いなし。今、ここで死んでも死に損だって、はっきり分かったはずよ。あいつが大切なのは、最後の最後は自分の変装術だけだもん。狂った学者っていうか、技術者なのよ。俺は、あっちはお前の技術、才能もろともに捨てるだろうけど、こっちは拾ってやるかもよ、って言ってやったんだから、吹っ切れちゃったはずですよ」

 カイエンとシーヴは顔を見合わせた。

「それにしても、殿下をイリヤさんのおなじみとは言え、こんな時期に外のお店に連れ出すなんて、俺は見過ごせませんからね!」

 シーヴはそう言うと、もう、カイエンの腕を掴んで大公宮の奥へと続く廊下へ行こうとする。

 だが、そうはさせじと、もう一方の腕をイリヤが取って来たから、カイエンは大きな男二人に両側から引っ張られる格好となった。

 見ている警備の隊員が、どっちに味方しようか、とあたふたとここの最高司令官のカイエンの顔をのぞき見て来る。命令系統からすればイリヤの方だが、言っている内容を普通に判断すれば、助太刀するべきはシーヴの側だ。

 カイエンはさっきまでの情景と今現在の状況とのあまりの落差に、一瞬、正常な判断が出来なくなった。

 そこへ駄目押しのように聞こえて来たのが、イリヤの不満そうな声だ。    

「だって、拷問と恋愛は別腹でしょー? 殿下は拷問した気分のまま、今日を終えたいのぉ?」

 若い女が、「お食事と甘いものは別腹でしょう」と言うのとまったく同じように、同じ抑揚でもって、イリヤは言うのである。もちろん、拷問と恋愛を食事と甘味と同列にしているのは、イリヤただ一人だ。

「ええっ?」

 カイエンは心底、呆れたが、それでも最終的にその提案に従ってしまったのは、いささかこの男に甘すぎただろう。シーヴの方はもう、ここでは引き止められないと判断したようで、カイエンの腕を離すと、とっとと別の方向へ走り去って行ってしまった。その先にあるのは、帝都防衛部隊の司令部、つまりはヴァイロンの執務室のある方向だ。

「さすがにそれはダメですっ! 危ないし、イリヤさんお酒飲んでから、そのまま殿下を変なお部屋に連れ込む気でしょ!? 俺は、俺の職務にかけて、絶対に、阻止しますからねっ!」

 シーヴの声が聞こえた時には、もう彼の姿は長い廊下の先を曲がってしまっていた。

「あー! あいつ、大将んとこへチクりに行ったわねっ!」

 イリヤは舌打ちしたが、それでもカイエンの腕は離さなかった。どうせ、シーヴはイリヤの言った「店」がどこだかは知らないままなのだ。時間はイリヤの方に味方するはずだった。

「でもまだまだ若いよねぇ。店の名前知らないじゃん。場所もわかんないじゃん。……行くわよ、殿下!」 


 





 カイエンの甘すぎた判断は、結果的には、しっかりと阻止された。

 だが、彼女「たち」はその「イリヤが予約した店」へ行くことだけは行くことが出来た。と言うか、行ったは行ったが、その結末はイリヤの当初の目的とはかなりかけ離れたものとなったのだ。


 イリヤが「おなじみの店」と言っていたのは、コロニア・ビスタ・エルモサの小粋な居酒屋バル、アポロヒア。

 そこでは、人々はそれぞれに座った席で、楽しそうに飲み食いしており、暖炉の火が無くとも、人いきれだけでむしむしと感じるほどだった。

 この大衆酒場は、呼べばきれいなお姉さんも出てくる、夜通しやっている店だ。きれいなお姉さんと意気投合すれば、そのまま、二階へ上がって、夜の次のお遊びへとなだれ込んでもいける、という趣向の店である。客は九割以上が男。

 中には女連れの客もいるが、それは少数派だった。そういう男女は大抵、人目を気にするような仲で、適当に飲み食いしたのちに、二階を利用する場合が多かった。もちろん、こういう客の場合には店のきれいなお姉さんの出番はない。イリヤが狙ったのは、こっちの方だろう。

 こういう人目をはばかる男女用には、それ専用の「宿」なるものもあるのだが、そっちは素泊まりの味気ない場所だったり、逆に高級すぎる場所だったりした。

 高級な方は、主に劇場の歌手や役者などを、舞台の終わったのちに金持ちが呼び出して遊ぶようなところで、人目を偲ぶ仲の人々には不向きな場所だった。もっとも、金が潤沢ならそっちのご用向きに応える店もあるにはあったが。

 去年から、夜中のコロニア間の出入りには制限がされ、各コロニアの自警団が見回りをするようになっていたので、この店の客は、今夜どうするのかは完全に二分されていた。

 適当に酔っ払ったら、夜中の鐘が鳴る前に家路につくか、一階で呑み潰れるまで飲むか、席に付いたまま寝てしまうか。そうでなければ、二階の利用客になるしかないのだ。

 だから、ここへカイエンたちが入って来たときには、人々は驚きの目を見開いていた。早めに帰るつもりで、すでにして酔っ払っていた者は気が付かなかったかも知れないが、時間はまだ宵の口だったので、まだそれほどに出来上がった者はいなかったのだ。

 カイエンたち……それはカイエンとイリヤ、それにヴァイロンというすごい取り合わせだった。

 それも、三人ともが大公軍団の黒い制服のままだ。もう五月だから、大公軍団の革のマントなんかも着ていない。カイエンだけは黒い春物の外套を制服の上から着ていたが、イリヤとヴァイロンは制服むき出しだ。

 だから、多くの人々は「すわ、捕物か!?」とでも思ったのか、中には後ろめたいことがあるのか、中腰になって逃げ出しそうになる者もいた。

「おいおい、軍団長さん。今夜はお忍びでお二人、それも目立たない身なりで来て、一番奥の個室をご予約、じゃなかったですかね?」

 呆れた声で、カウンターの奥から声をかけてきたのは、中年の、清潔なシャツにズボン、その上から前掛けを締めたこの店の主人の方だった。彼は客の注文した酒を用意している途中だったが、顔はカイエンたちの方へ向けたものの、手の方は休まずに金属のカップに酒を注ぎ入れている。

 ややどぎつい化粧の女将の方は、興味津々な目つきを隠そうともせず、勘定場に立ったままカイエンたちを見つめている。主人はこういう水商売でも無骨で頑固そうな面立ちだが、女将の方は元はもっときらびやかな店にいたのではないか。もう若くはないが、そういう玄人筋の婀娜あだで、色っぽい感じが残っている。

 給仕たちは主人や女将の様子を見ると、安心したのか普通に酒を作ったり、料理を運んだりしている。奥の厨房の無表情な初老の料理人は、店の方へは見向きもしなかった。

「やーん。ごめんねぇ。……ああ、ああ。お客の皆さん、ご迷惑おかけしてすみませーん。捕物なんかじゃないんですよぉ。もうお仕事の時間は終わっておりますぅ。こんななりですが、仲良く幹部三人揃って飲み食いに来ておりますので、お構いなくぅ」

 イリヤがそう言うと、中には警戒心を残した目をした客もいないことはなかったが、この見た目は最高、だけれどもその言動は奇怪千万な大公軍団軍団長はここでも有名らしく、善良な市民の人々は自分たちの飲み食いに戻って行った。

 だが逆に、大公軍団の仕事ではない、と言われてみれば、別の興味が出て来たのだろう。

 人々の視線は、街中の事件現場に首を突っ込み、似顔絵屋で似顔絵が売られているようなイリヤや、元はフィエロルマの将軍様だったヴァイロンとは違い、自然と初めて見るのであろうカイエンの上に集まった。

 庶民なのにお貴族階級にもいないような、超絶顔面のイリヤは別だが、こうして庶民の中に入ってくると、カイエンの神殿の神像のように整った顔は大いに目立った。

 カイエンはこの街の大公だ。だから、事件現場などで遠目に見たことのある者はいたかもしれないが、貴族の中の貴族、元は皇女であったことになっているカイエンを見つめる目は、畏れ多いというよりも興味津々、という方だった。何しろ、この店は客の九割以上が男なのだ。いくら美しくとも、男のイリヤの顔に見惚れている奴は少ない。

 宮殿のバルコニーで見上げて見れば畏れ多いだろうが、ここは大衆酒場なのである。普通ならば、大公の、それも女のカイエンが来るべきところではない。

 イリヤは「三人揃って飲み食い」とか適当なことを大声で言ってのけた。

 だが、数年前の例の事件以来、大公のカイエンの男妾であることが歴然とした事実として知られているヴァイロンだけでなく、この一月の暗殺未遂事件で死にかかったイリヤもまたそうであるらしい、というのもとっくに噂として広がっていたから、人々の目はもう完全に「女大公と二人の愛人が、大衆酒場、それも怪しいお二階のある店に、なんでこんなにも堂々と入って来たのか」「その目的は本当に飲み食いだけか」と当然の疑問にギラギラと光っている。

 その疑問は、カウンターの方へ歩いて行ったイリヤの大声で、すぐにきれいさっぱり、ではないにしろ、解決した。

「ほんと、ごめんね大将。大将のおっしゃるとーりの予定でしたんですけれどもねぇ。こちらの我らがご主人様はこういうお店でしっぽり、なんてのの醍醐味は当然、ご存知ないんですから、それを俺が今夜、お教えして差し上げる予定だったんですけどねぇ」

 アポロヒアの主人は、忙しく手を動かしながらも、イリヤの言い訳は聞いてくれているらしい。

「……それを、こちらの帝都防衛部隊隊長殿に『真正直にチクってくれた』、かわいーけど馬鹿真面目な護衛騎士君がいましてねー。目だない服にお着替え、ってところへ乗り込んでいらしたってわけです。だから大将、今夜の予約は違う席にしてくださいねぇ」  

 イリヤは普段、ヴァイロンのことを「大将」と呼ぶことがあるが、この大将はもちろんこのアポロヒアの主人のことだ。その主人が給仕に向って、何か言おうとした時だった。

「ちょっと! ええ? 何してるんですか、殿下。そんな今、噂の二人を引き連れて、それもこんな店に……まさか、身を張って新聞種になりに来たんですか」

 奥の柱の影の席から、だだっと走り出て来て、イリヤと、それまでまったく無言でカイエンの真後ろを守るように立っていたヴァイロンに挟まれたカイエンの前に飛び出て来たのは。

「あれ? ウゴじゃないか! そうか、そう言えば、ここはウゴやトリニの家のそばだな」

 カイエンはもう、開き直った気分だった。だからここへウゴの顔が突然に現れても、もう驚きもしなかった。

 カイエンを挟んで引っ張り合いになったのち、ヴァイロンの部屋に飛び込んだシーヴがイリヤの計画をヴァイロンの耳に入れたので、ヴァイロンはすぐにカイエンとイリヤの後を猟犬のように追ってきた。

 イリヤはカイエンと二人だけの一夜は、さすがにすぐに諦めたようだが、この店に来ることは曲げなかった。予約入れちゃったもーん、今さらキャンセルのお使いなんか出せません、と言い張ったのだ。

 だからこうして制服のまま、ヴァイロンも入れて、三人堂々と来訪する羽目になった。

 カイエンとしては、イリヤの、色々と恋愛についてのアレコレな段階と経験を、今更ではあるがカイエンに教えてくれようとしている気持ちの方はなんとなく理解していた。

 まあ、実は別にイリヤの方は親切心でもなんでもないのだ。彼は単に、「カイエンとこういう関係になったからには」こんなこともあんなこともやってみたい、という変なこだわりがあるらしい。

 スキュラでのことがやっと治まり、モリーナ侯爵の屋敷での捕物で重要人物の捕縛に成功した。しかし、カイエンには他にもオドザヤの妊娠のことや、そろそろハーマポスタールに戻って来るアルタマキア皇女のことなど、いくらでも検案事項はあったのだ。

 だから、カイエン的には「こんな時期にそんな浮かれた気持ちでいいはずがない」と思いはしたのだが、イリヤに言わせれば、

「公人としての殿下と、私人としての殿下ははっきり分けるべきよ! それは俺ちゃんも同じ。今までの俺ちゃんには私人としての生活は無きに等しかったから、仕事の虫になってただけだもん」

 ということになる。

 何年も、目の下にクマを作って過剰勤務していたのは事実で、だからそれはある意味、もっともなことでもあり、カイエンは今回もイリヤに押し切られてしまったのだ。でも、シーヴによってヴァイロンにバレて、なんだかホッとしたことも確かだった。

「ああウゴか、じゃないですよ。あーあー、もうこんな日に限って俺はあいつらと一緒なんだ!」

 元々、ぐしゃぐしゃな鳥の巣のような頭をかきかき、嘆くウゴの後ろから出て来たのは、なるほど、カイエンの知っている面々だった。

 去年、あのカスティージョ伯爵邸での細工師殴り込み事件で協力してもらった、二人の新聞記者たちだ。

「よろしければ、私たちの席へいかがですか。……ご事情はなんとなくわかります。しかし、お三人でお飲みになるより、お互い、何か実りのある会合が持てるやもしれません。噂もうすらぼやけたものに出来るでしょうし」

 そう言ったのは、「自由新聞リベルタ」のレオナルド・ヒロン。

「こんばんはー。確かに、俺たちと一緒に座ってれば、今のこれ以上の噂話にはならないですよ、きっと」

 ヒロンの広い背中の後ろから顔だけ出した、薄っぺらいがなかなかにいい男ぶりなのは、「奇譚画報」のキケ・ピンタードだった。


「ええ? もう、そんなことが噂になっているのか」

 ウゴたち三人の記者たちが陣取っていた、店の奥の柱の影の席は、半分、太い柱とそれに続いた壁に囲まれているような席で、詰めれば大男のヴァイロン込みで、六人が座ることは可能だった。

 仕上げは無骨だが、なかなかに立派な分厚い木のテーブルに向かい合って、三人の記者とカイエンたちが座っている。

 カイエンはヴァイロンとイリヤの二人に挟まれて座るしかなかった。二人が二人ともに、所有権を主張するように肩のあたりや腰のあたりに手を回して来るので、なんとも落ち着かない。

 そこで、新聞記者三人の食べかけ飲みかけの皿などが片付けられ、改めて酒の注文と料理の注文がされ、それが給仕によって運ばれて来てすぐに、ウゴたちがまずカイエンに知らせてきたことは、カイエンを大いに驚かせた。

「ええ。先日、殿下に社まで来ていただいて話した、あのオルキデア離宮のことなんですが、このキケの掴んだところじゃ、もうお貴族の……旦那がオルキデア離宮に呼ばれた奴らの家で、奥方たちが嗅ぎつけて噂になってるんだそうです。それも、女の広める噂だから、女帝反対派貴族の取り込みなんてえ政治的な図柄じゃなくって、その、陛下が貴族の当主たちを巻き込んでいかがわしいご乱行に及んでいるんじゃないか、って……」

 ここまで言ったのはウゴだったが、残りは中年男でタヌキのような体型、目の周りが深く落ち窪んで黒ずんで見える、レオナルド・ヒロンが続けた。イリヤは当初の目論見なんぞはきれいさっぱり忘れた顔で、にやにやとうれしそうにこの話を聞いている。こういうところは、気持ちの切り替えの早い男だ。ヴァイロンの方は、安心させるようにカイエンの背中をそっと撫でた。

「……奥方達の噂話の広がり方も馬鹿には出来ません。ですが、もっと厄介な方向にも波紋は広がってまして。元は女帝反対派じゃなかった、でも、殿下やクリストラ公爵、フランコ公爵、それにザラ子爵みたいに積極的に今の皇帝陛下を支持していた訳でもなかったお貴族達なんですよ。元老院議会ではバンデラス公爵のご発言が勝負を決めたみたいなことを聞いておりますが、まあ、つまりは日和見主義な立場だった連中が、勝手に思い込んでいた偶像と、最近の皇帝陛下のやり方の変わりようについていけてないみたいですね」

 カイエンはちょっと考え込んだ。

 確かに、あの二月のザイオン外交官公邸での舞踏会以来、オドザヤは一気にお姫様から大人の支配者の雰囲気に変わり、皇帝らしく、まずは自分から自分の地位を安泰にすべく動き始めた。その変化は確かに事情を知らぬ者にとってはあまりにも急激なものだったのだろう。

 オドザヤの取った、オルキデア離宮での方法は、となると、カイエンでさえもやや懐疑的ではあったのだ。

「確かに。私も陛下の今なさっていることについては把握している。その危険性もわかっていたつもりだ。だから、ウゴの黎明新聞アウロラで、この件はまだどこの読売りでも載せられないだろう、と聞いて安堵していた。だが、貴族階級の中でそこまで噂になっているとなると……」

 カイエンはそこまで言って、その先が言えなくなった。

 オドザヤの妊娠の件は、まだ皇宮へ行って様子見さえも出来ていない。

 もう、アキノを通じて獣人の村プエブロ・デ・ロス・フィエロス出身の医師に、極秘で適当な医師か熟練の産婆の紹介を依頼していた。その上で、何か用事にかこつけて、近日中に皇宮へ上がるつもりだったが、問題が問題だけに、オドザヤの周囲のどこまでを信用していいのかも決めかねていたのだ。

 女官長のコンスタンサへ書簡を送ろうとも思ったが、証拠の残る書簡は危険だと思いとどまった。

 その上で、明日明後日にでも、まずはコンスタンサへの面会から動き始めようか、と思っていたところだったのだ。

 この件は、さすがにカイエンはヴァイロンにも、イリヤにも話してはいなかった。

 ただでさえ、オドザヤの素行に疑問詞が投げかけられていると言うのだ。そこにこんなことまで噂になったら、目も当てられない。今後のカイエンの動きには細心の注意が必要になるということだ。

「そうだな」

 カイエンはちらりとイリヤとヴァイロンの顔を見やってから、新聞記者たちの方へ顔を向けた。それならば、今、彼ら新聞記者たちと同席できたことを最大限に利用するまでだ。

「今夜は徹底的に飲もう。料理も、どんどん頼んでくれ。三人とも、財布の心配はいらない。この店はイリヤの知り合いらしいから、勘定はツケでも問題ないだろう。それに、軍団長も帝都防衛部隊長も、財布くらいは持って来ているはずだ」

 カイエンがいきなり、そんなことを言ったので、男達五人は揃って、怪訝な顔つきになった。ちなみに、カイエンのようなお姫様は自分で金を払うことなどないから、財布など持ってはいない。

「その上で、お三方にお願いだ」

 カイエンがそう言うと、いの一番になんとなく事態の油断ならない危険さを嗅ぎつけたのは、「自由新聞リベルタ」のレオナルド・ヒロンだった。これは年の功だろう。

「なるほど、豪華接待での取引ですな」

 このアポロヒアは、庶民的には有名店だが、金持ちが接待に使うような、高級レストランテではない。ヒロンは、ちらりと厨房の方を見た。

「この店では、新鮮な魚介類もそうですが、裏メニューの熟成牛肉が、通の中では有名なんですよ。予約してないと出さない、この店では一等高級、高嶺の花なんですが、それをお願いできますでしょうか」

 熟成牛肉。

 牛肉は他の肉とは違って、屠殺してすぐが一番美味しい肉ではない。熟成に適した申し分なく適度に脂ののった部分の肉を、適度な温度や湿度で管理し、熟成させたものが一番旨いのだと言われていた。もちろん、大公宮の料理長であるハイメも常に熟成肉を用意していた。カイエンはハイメに聞いたことがあったが、これは元の牛肉の肉質を極めるのが大変で、市場で一頭買い上げることが多いと聞いていた。

 ヒロンの話の進め方は、さすがに「自由新聞リベルタ」の主筆、と言える。彼の提案によって、一瞬で庶民的居酒屋が豪華接待の場に変貌したのだ。

 カイエンがイリヤの方を見ると、元から通路側に座っていたイリヤは、ひょろりと立ち上がるとすぐに主人のいるカウンターへ向かって行く。その様子では、イリヤもこの店の裏メニューは承知していたのだろう。

「よかったねー、今夜はちゃんと余分にありますってー。……いやー、ヴァイロンさん、俺たちも今夜は賄いには出てこない、特別なお肉が食べられますよぅ」

 戻って来たイリヤは、今日の話は自分の職務とは直接関係ないので、ひたすらにご機嫌だ。カイエンとの甘い庶民的一夜は先延ばしになったが、なんでも突発事態は彼にとって面白いことなのだろう。

 ヴァイロンの方は、カイエンを太い腕で抱え込むようにしながら、「大丈夫なのか」といぶかる顔だ。

「じゃあ、記者諸君、お願いだ。……今夜の私とこの、大公軍団長、帝都防衛部隊長とのことを、とんでもない乱痴気騒ぎの末……そうとか、こうとか、あの、いかようにでも過激に書いてくれ」

 カイエンがそう言うと、横でヴァイロンがびっくりしたように身じろいだ。話の流れは彼も掴んでいただろうが、カイエンがそこまで言うとは予想していなかったのだろう。

「すまん。ヴァイロンもイリヤも覚悟しておいてくれ。私たちは道化になる。なに、事実の上に色付けしただけだ。実害はない。ただ、私が色気狂いの女大公として歴史に名を残し、お前らが男を下げるだけだ」

「うわ……」

「いや、そこまでしなくっても……」

 若い、ウゴとキケはカイエンのこの言葉に、痛そうな顔をした。

 年かさのレオナルド・ヒロンだけは、カイエンのお願いの後ろに、何か他にもっと大きな隠し事があるのではないか、そして、それは皇帝オドザヤに関してのことだ、と推測していたが、彼も今、それをカイエンに問いただすほど馬鹿ではなかった。







 同じ晩。

 オドザヤはカルメラの投獄以降、彼女の一番の側付きになっていた、イベットの姿がないので、他の侍女に問いただしていたところだった。

「あの……イベットさんは、その、あの、つ、月のものが重くて、お腹が痛くて臥せっているんでございます」

 イベットの代わりに、鏡の前に座ったオドザヤの髪をすいていた侍女の返事に、オドザヤはすぐに納得した。

「ああ、そうなの。それじゃ、仕方がないわね」

 オドザヤの生活空間の周りは、女で囲まれている。カイエンのところから派遣されているブランカとルビーも含めて。親衛隊の護衛が控えるのは、窓の外やオドザヤの居住区の出入り口の控えの間だ。

 だから、オドザヤはイベットがそういう理由で出てこられない、と聞いてもそう思っただけだった。そんなことは別に珍しいことでもなく、他の侍女でもまま、あることだったから。

 なのに。

 オドザヤはふと、居間の瀟洒な書き物机の上に置かれている、月めくりの暦の方に目が向いた。

 五月。それももう、中旬になっている。

 四月に亡くなったアイーシャの葬儀はもう、すぐ数日後に迫っていた。

 そう言えば、最後に月のものがあったのはいつだったか。

 イベットのいない理由を聞かされて、急に気が付いたのだ。この頃、あの厄介な数日間が自分の身には訪れていないことに。

 そう思った時には、胸元にぐっとなんとも言えない不安がせり上がって来た。

 二月のあのザイオンの外交官官邸での仮面舞踏会マスカラーダの夜から、オドザヤの生活は代わりに変わってしまった。彼女自身が皇帝としての自分に目覚め、自ら動こうとし始めた。それからの毎日は、サヴォナローラや彼の新しく設立した宰相府の諮問機関の先生方との政治的な話し合いや、彼女個人が始めたオルキデア離宮での女帝反対派の切り崩し工作などで多忙を極めた。

 だから。

 だからなのだ。オドザヤは自分の体の変調など、気にもしていなかった。

 オドザヤは全身から血の気が引いて行くのを感じていた。

「まさか……。そんな、どうしたら……そんなこと、だって、今、まさか……」

 オドザヤは鏡台の前から立ち上がると、ふらふらと書き物机の方へ歩いて行った。見えるのは、五月の暦。そして、トリスタンとのことがあって、すぐにモンドラゴンとのことが始まったのは、二月だ。

 三月にも四月にも、月のものは来なかった。

 オドザヤとて、そういう危険があることをまるで知らなかったわけではない。いや、知っていたからこそ、オルキデア離宮へ招待したトリスタンに、言ったのだ。

(もう決めたから言うわ。……あなたはいずれ、わたくしの配偶者になるの。それで、わたくしの産んだ子供の父親はすべてあなたってことになるわ。いいわね?)

 ああ言ったのは、いずれはそんなこともあるだろう、とちゃんと考えていたからだ。

 だから、アイーシャの突然の死がなかったら、オドザヤはもうとっくにトリスタンを皇配として立てると発表していたはずだった。

 だが、アイーシャの喪に服すとなれば、それも延期せざるを得ない、困ったこと、と思っていた矢先。

 オドザヤの頭の中で渦巻いていたのは、二月のあの舞踏会の開けた後、大公宮を去る時にエルネストから聞かされた話だった。

 カイエンがシナドラドでエルネストの子供を宿してしまったこと。

 ハウヤ帝国へ帰国するのと同時に、その子供を失ったこと。

 左右で色の違う目をして生まれて来た、リリエンスール。

 リリエンスールの灰色の目と同じ右側の、血族を示す灰色の目を自ら抉り取って婿入りして来たエルネスト。

 オドザヤの腹は、まだ膨らんでなどいない。だが、もし、もしこここに。カイエンに起こったのと同じように、小さな命があるのだとしたら。

 蒼白になって立ちすくむオドザヤを、侍女たちは不思議な目で見ていた。ただ、部屋の隅に控えていた、大公軍団から派遣されてオドザヤの護衛をしている二人、ブランカとルビーだけは分かっていた。オドザヤは気が付いたのだと。

「ルビー、大公宮へ行って。この皇宮の医師には診せられない。きっと、あちらで探してくださっているはず。私は……陛下のご様子を目を離さずに見ているから!」

 あの様子では、オドザヤが妊娠の可能性に気が付いたのは間違いない。何か不用意なことをオドザヤが言ったりしたりしないよう、ブランカはそばを離れずに見ているつもりだった。

「分かった」

 ルビーは余計なことは言わなかった。彼女は他の侍女たちに気付かれないよう、気配も殺して皇宮のオドザヤの宮を出て行ったのだった。

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