死の舞踏 2


 ……通り過ぎればあっという間の年月が過ぎて

 私は小さな国なら興せる力を持った

 なのにもう

 貴女は沈まない太陽の時代を、駆け抜け終わってしまっていた

 人生のすべてが終わってしまった貴女に

 私はもう何も出来ることがない


 終わってしまった恋を

 心臓に絡んだ、枯れた薔薇いばらを引きずって

 私はもはや花の咲かぬ、残り香だけの世界へと踏み出していく


 まだ終わらない私は

 貴女がもういない世界へ

 歩き出すしかないのだ

 この枯れた薔薇いばらの絡みついた

 まだ止まらない心臓の音を聞きながら




    アル・アアシャー  「月は無慈悲な黄昏の女王」より「復興レナシミエント






 北のスキュラから救い出された、ハウヤ帝国第三皇女アルタマキアが、ほぼ一年ぶりにハーマポスタールに着いたのは、五月の中頃だった。

 同じ頃、意外な人物が帝国の南方から帝都ハーマポスタールへ入った。

 その人物は先月四月の皇太后アイーシャの崩御を聞くと同時に、帝国の南、ラ・ウニオン内海に臨む自らの領地、モンテネグロの港を出航する船に飛び乗り、ハーマポスタールの港へと直に降り立ったのである。

 実のところ、遠いモンテネグロから、アイーシャの葬儀のために彼、ナポレオン・バンデラス公爵が出て来る必要はなかった。現に他の二公爵は帝都にはいない。と言うか、来られないのだから。

 筆頭公爵のクリストラ公爵はベアトリア国境の自領クリスタレラの大城にあって、隣国ベアトリアへ睨みを利かせており、もう一人のフランコ公爵は北のスキュラの平定のために尽力していた。皇宮でも大公宮でも、南のラ・ウニオン共和国との緊張が続く中、バンデラス公爵がアイーシャの葬儀に出て来るとは思ってもいなかった。

 だから、港で彼を出迎えたのは、彼の家、バンデラス公爵家の帝都ハーマポスタールの館の執事と他に数名の侍従だけだった。

「皇宮への御使いはどうなさいますか」

 そう、至極まともなことを訊す執事へ、ナポレオン・バンデラスはため息とともに、こう聞き返していた。

「それより、皇太后陛下のご葬儀はまだなのであろうな?」

 うなずく執事から最近のハーマポスタールの情勢を聞きながら馬車の上の人となった、バンデラス公爵の頭の芯にあったのは、ただ一つのことだった。それはつまり、もう二十年も前の遠い日に心の中に定めた人、アイーシャの葬儀のことだけだったのだ。

「あの方はもういらっしゃらない。それは、もう聞いた。……だが、確かめなくてはならん。私は貴女がもういないのだということを、しっかりと確かめねば。そうでなければ、私は先へは進めないのだ」

 そう呟いた声を聞いていたのは、サンドラとフランセスクが人質としてこのハーマポスタールへ来るまで、ほとんど無人だったバンデラス公爵家のこのハーマポスタール屋敷を任されていた執事、ただ一人だった。






 乱痴気騒ぎの翌日、記憶が飛んでしまっていることなど、ちょっとした呑み助ならよくあることだっただろう。

 とある大公軍団治安維持部隊の若い隊員などには、こんな摩訶不思議な「武勇伝」ならぬ「不可思議伝」を語る者もいた。

 それは、うららかな五月の朝の、コロニア・ビスタ・エルモサ署でのことだった。

 昨日は休暇だった隊員が、出勤して来てすぐに周りの隊員に向かって、なんだか得意げに語り出した話がこれだったのだ。

「一昨日の夜なんだけどさ、明日は休暇だし、幼馴染と無礼講で飲もうなんて話になってさ。それで男同士でもう、ずぶずぶになるまで飲んで。気が付いたら、朝の裏通りの道の上なんだよ。まー、もう春で夜も冷え込まない時期だったから助かったな。自警団の連中に拾われなかったところから見ると、俺がそこでぶっ倒れて寝ちまったのは、もう夜中すぎだったんだろうけど。風邪ひとつひかずに済んだよ。……でもな……」

 急に話に勿体を付ける男に、それまでは馬鹿だなあという顔つきで聞いていた者も、ふっと気を引かれる。

「おいおい、お前、コロニアの自警団に見つかってたら、減俸ものだったかもよ」

「こんなご時世だぜ。自分で気をつけなきゃあ。外国の殺人狂に殺されちまうぞ」

 何人かは真っ当な忠告をするが、他の大勢は、話の先を待っている。ちゃんと生きてこうして通勤して来ているのだから、そんな怖い話じゃないことはもう知れているのである。

「それが……起きたら、ズボンのベルトが緩んでて……」

 えっ、まさか。

 周りは、こりゃあ酔っ払って小便でも漏らしたか、と思い、くすくす笑いが上がる。だが、この男の話にはまだ先があった。

「それだけじゃねえ、なんか手のひらに握ってるな、と思って見てみたら、俺は銀貨を三枚、握らされていたんだ」

 ここで、ん? とばかりに、周りの隊員たちの視線が、不思議話を語る隊員の方へ集まった。

 銀貨を三枚、と言えば貧乏で慎ましい家や、独り者なら一ヶ月の食費になるかもしれない。大金かそうでないかの、境目の金額といったところだ。

 署の奥の方にある、署長室の扉が軋む音も聞こえて来たようだ。署長は朝の早番だったので、扉が開けっ放しになっていて話が漏れ聞こえていたのだろう。

「それになんだか、立ち上がろうとしてみたら……なんか変な場所の具合がおかしくて、腰に力が入らないんだよ」

「はぁ!?」

 話がここまで来ると、聞いていた何人かは「このホラ吹きが」という顔で仕事に戻って行くが、暇人や下ネタ好きの連中は喜色を浮かべて、くだんの男性隊員の側へ群がるのだ。

 その時だった。

「あらぁ、へえ、それでそれでぇ? やっとの事で立ち上がってみたら、制服のズボンがすとんと下まで落ちちゃって……。なんだかお尻がおかしいの、なんてお話なのかしらぁ!?」

 それは、そこに群がったみんなの心の声を代弁していたが、それを代弁した声が声だった。

 その声の持ち主を、そこにいたすべての隊員が知っていた。いや、知らない隊員がいたら、そいつはもう隊員である資格がないと言って良かっただろう。

 もちろん、それはくだんの隊員の声ではなかった。

 よく聞けば美声、だが話し方は場末のオカマ、な大公軍団でを代表する、美貌と恐怖で軍団を支配する「大公軍団の恐怖の伊達男」のものだった。この大公軍団で、その美貌の影に隠された恐ろしさと、珍妙な話し方を知らない奴はモグリである。だから、すぐにそこにいたすべての隊員の目が一点に集まった。

 声が聞こえて来た方へ。そこは、彼らの働く署の正面入り口だった。

 そこに立ちふさがるように立っていた長身を見るなり、署員たちはざざーっと波が引くように署の奥へ引いて行った。その姿は、朝早くに住宅地の小さな署に現れるべき人の姿ではなかった。彼が出張っていくのは、重大事件に殺人事件、とにかく大きな「ヤマ」の現場、またはそこが管轄の署だけのはずなのだ。

「ふぁっ!」

「ぎゃっ」

「でたぁーっ!」

「なんで? なんでこの平和な場所に出て来てるの?」

「嘘でしょ。朝だよ!」

「やばいやばいやばいよー」

 治安維持部隊コロニア・ビスタ・エルモサ署の隊員たちは、目をつけられたら終わり、とばかりに蜘蛛の子を散らすように自分の机やら持ち場やらへ散って行く。いや、逃げて行ったのだ。

「あ、ああああああああああ。……すみません、ちょっとした朝の休憩中なんです。いや、朝礼中です。……さっ、みんな、今日も元気に働こうな!」

 奥の署長室から飛び出して来て、驚愕を顔に貼り付けて動けなくなっている、くだんの隊員をかばうように立ったのは、ここの署長だ。中年の万年中間管理職だが、こうして部下をかばうくらいあって、人望はそれなりにあった。

「ひぃ。すみません、いや、大して面白くもないよくあるお話で……おい、さっさと職務に戻らんかぁ!」

 署長は、くだんの隊員の問題になった尻を蹴飛ばすようにして、彼も職務へと向かわせる。

 ここの受付には、まだ数の少ない女性隊員が座っていたが、彼女も白目をむきそうになって署長と、向かい合っている背の高い人物を見上げている。

 コロニア・ビスタ・エルモサ署は住宅街の中にある署なので、凶悪犯罪などを扱うことは少ない。なので、留置場などの規模は小さく、署自体も二階建ての、大公軍団治安維持部隊の署の中ではこじんまりした感じの建物だった。

「あ、あの。おはようございます。……ところで、今朝、いらっしゃるというお話は、聞いておりませんが……いいえ! おそらく多分きっと私が聞き落としていたのでございましょう。申し訳ざいませんっ!」

 最敬礼した、中年小太りな署長が見上げた先にあったのは、彼自身もこれほど至近距離で見たことは滅多にない、造形の神の作り上げたとてつもない完璧無比、超絶美麗を実在化した顔だ。その上に、それはこの治安維持部隊を含む、大公軍団の頂点に立つ者の顔なのだった。その片一方の頬っぺただけが、なんだか赤いように見えるのに気が付いた者は……多分一人もいなかっただろう。それはそれで幸いだった。

「あらー、いいのよぅ。今朝、ここへ来たのは、まさーに突発的なことなんだからぁ。だから連絡なんか、入れた覚えは、あ・り・ま・せ・ん〜」

 いつもの突拍子もない話し方と、これ以上ないでかい態度で入って来たのは、もちろん、大公軍団軍団長のイリヤである。そこまでなら、署長も受付の女性隊員も、蜘蛛の子のように散った隊員たちも、「すわ、事件か!?」という方向へ頭が動いたかも知れないが、驚きはそこで止まってはくれなかった。

「ええーっ! うっそー」

 イリヤの登場だけでぶっ飛んでいた、受付の女性隊員がそう叫んでも、署長は咎めたりしなかった。

 実は同じ気分だったのを、やっとの事で声だけは年の功で抑えただけだったから。彼自身もそれほど大きくない目を見開いて腰を抜かしそうになっている。

 イリヤの背後に、かなりの長身の彼よりも大きな影が差したと思ったら、入り口を頭を屈めて潜るようにして入って来た巨躯は、朝日に金色に輝く赤い髪を持っていた。その下の浅黒い精悍な顔立ちを見るまでもなく、こっちの正体も朝っぱらから住宅地の署に現れる存在ではない。

 帝都防衛部隊隊長のヴァイロンだ。間違いない。前のフィエロアルマの将軍。帝国の守護神だった男だ。

「驚かせてすまないが……」

 そして、そう渋い低音で言いかけた、彼の腕の中に大事そうに抱え込まれた小柄な人物。黒い、だがその身分を表す、きらびやかな宝石のボタンや刺繍の美しい制服を着た人物の方へ、皆の目がささーっと集まった瞬間たるや、見ものだった。

 みんな、すぐに彼女の正体に気が付いた。彼ら大公軍団員の頂点に立つお方だ。この街の大公殿下であると。

 だからこそ、凍りついたのである。

 北方のスキュラでも、もう雪解けが進み、凍りついた湖も元の青さを取り戻していた頃だっただろう。

 その、春の麗らかな朝日の中で、コロニア・ビスタ・エルモサ署ではすべての動きが静止していた。

「……気持ち悪い……」

 ヴァイロンの胸元に顔を埋めるようにしていたカイエンは、自分のハンカチで口元を抑えて吐き気と戦っていた。すぐに吐く、というほどではない。というか、すでにもう一回、ここへ来る前に吐いていた。もう、出るとしても出るのは胃液だけだろう。それは、彼女にもイリヤにも、そしてヴァイロンにも分かっていた。

「朝っぱらから、騒がせてごめんなさいねぇ。今、世間様でお噂のこの三人でぇ、そこのアポロヒアさんで飲み明かしちゃってねぇ。俺やヴァイロンさんは、まー、飲んだっつっても、さっきの彼みたいに道で寝ちゃうほどじゃなかったんだけどぉ。殿下ちゃんはさっきの彼とおんなじで、起きてる間はしっかりして見えたんだけど、寝て起きたらほとんどなーんにも覚えてないらしいのよー。完全な二日酔いねぇ」 

 カイエンは聞きながら、心の中で唸った。

(『殿下ちゃん』はやめろイリヤ。そんな呼称が一般化したら、私以外の殿下たちが困るぞ。それに、全部は忘れてない! と言うか、さっきほとんど思い出したよ!)

「お手数をかけるが、馬車の用意を頼む」

 イリヤとは違って、ちゃんと話を進めているヴァイロンは立派である。コロニア・ビスタ・エルモサは実は大公宮の裏手に当たる地域なので、直線距離なら大した距離ではないのだが。

「まー、ここから大公宮までは近いから、このままヴァイロンさんが抱えてってもいいかなーと思ったんだけど、それじゃ、朝っぱらから殿下ちゃんと俺たちの三人行軍を目撃した人たちの心臓に悪いかなー、と思ってねぇ」

 イリヤの方はどうでもいい話だったので聞いてなかったかもしれないが、ヴァイロンの要請の方で、署長がまず、凍結から立ち直った。こういう組織に長いと、上官の命令には無意識に体が動くのだろう。

(心臓に悪いのは、通行人だけじゃないよ)

 せり上がって来る胃液と戦うカイエンは、こんな今のコロニア・ビスタ・エルモサ署の様子まで、しっかりと隠れて見ているだろう、三人の記者たちの書くだろう記事の内容については、もう諦めていた。というか、「書いてくれ」と依頼して熟成牛肉のフルコースで接待したのは、彼女のほうだ。

(だけど。今朝、目覚めた時の……あれは……もうだめだ。あれに至るまでのことまで読売りに書かれたら、大公としての私はもうしょうがないが、個人としての私が死ぬ。さっき、ちょっと聞こえたここの署の隊員の不可思議伝の方がなんぼかマシかもしれん……)

 カイエンはぶるりとヴァイロンに抱えられたまま、身を震わせた。

 今朝、彼女が覚醒した時の状況は、もうカイエンの人生でもこれ以上の破廉恥事件は起きないだろう、と思わせるようなものだったのだ。

 カイエンが目を覚ましたのは、居酒屋バルアポロヒアの二階の一室だった。

 人目を忍ぶ男女や、お店のきれいなお姉さんとお客がしけ込むという、その二階だ。

 大公宮のカイエンの寝室と比べれば、庶民的な、カイエンがこの頃知ったイリヤの宿舎の自室のような感じの部屋だった。柱は太い古い黒ずんだ木で、壁は漆喰で塗られていた。

 広さはそれほどではなく、置かれていたのは大きめの寝台が一つに、小さなテーブルと二脚の椅子。陶器製の大きい水差しと、顔を洗うための金属の洗面器。

 それに、実はカイエンはその用途をこの日までそれを見たことも、使ったこともなかったので知らなかったのだが、金属で作られたビデが木製の簡素な台の上に置かれていた。これは浴室などないこうした場所で、ことに及んだのち、体の一部をきれいに洗うための設備だ。もちろん、別にビデはそうした用途だけに使われているわけではない。旅館の部屋や安い下宿の部屋などに備え付けのものならば、それを使って全身を清めることもある。

 その他にあるのは壁に掛けられた鏡だけだった。

 そんな部屋のど真ん中の寝台の上。

 それが、カイエンが目覚めた場所だった。

 ただ、一人で目覚めたのだったら良かった。

 だが、いつでも現実というのは過酷で滑稽なものだ。

 カイエンは、さっき漏れ聞いた若いこの署の隊員の話を笑えなかった。あの隊員が言っていたのが真実ならば、この日の彼女もまた同じだった。違うのは、手の中に銀貨が握りこまされていなかったのと、犯人は逃げずにそばにくっついていた、と言うところだけだ。被害の実態に違いはない。

 彼女が目覚めた時は、ちょうど夜明けの時間だった。たった一つの窓から、暁のオレンジと紫色の光が入り始めていて、カイエンにこの場の様子を闇に隠すことなく見せてくれた。

 まず、彼女は寝台の真ん中に寝ていて、ちゃんと大公軍団の制服のシャツは着ていた。前のボタンも途中まではちゃんと留まっていた。

 だが、その下が問題だった。カイエンは制服の黒いズボンも、黒い長靴も履いておらず、穿いていたのは下の下着だけだった。靴下さえも穿いてはいない。つまり膝から下は素足だった。

 この時代、女性の下の下着は膝のあたりか、その下まである。身分によって絹だったり綿だったりしたが、普通はこの上にペチコートを付け、ドレスを着るのだ。カイエンは普段、この上に大公軍団の制服のズボンを穿いていた。

 この日も、ちゃんと制服の上着と一緒に、身に付けていたはずだった。

 だが、ズボンはなく、代わりに何か、筋肉質で生あったかいものが太ももから下に、奇怪な大蛇のように長々と巻き付いていた。びっくりして何が巻き付いているのか見ようとしたが、彼女は身動きが出来なかった。それは、背後から下半身に巻き付いているのよりももっと頑丈な腕が上半身をガッチリと固めていたからだ。特に胸元のシャツの合間に手を突っ込んで、けしからん場所をやんわり握っている手の感触には、カイエンには大いに覚えがあった。

 そこでカイエンの頭に昇ってきたのは、「お前もか!?」という怒りの中の怒りだった。

「離せこの野郎」

 カイエンが低いが、乱暴な声音できっぱりと命じると、上半身を固めていた腕の方はすぐにパッと解けた。

「そっちもだ、こんのクソ馬鹿野郎っ!」

 枕から首だけ起こして、下半身に絡みついている方へも声をかけたが、こっちは図々しかった。離れるどころか、ずりずりとカイエンの腹の上へ顔をずらし上げて来て、そこへ顔を埋めようとしやがったので、カイエンは遠慮も手加減もなく、その頭を平手でぶっ叩いた。

 ぶっ叩いた振動で、自分の体の状態に注意が行き、何があったか判断出来ても、カイエンは泣きたいなんて思いもしなかった。あったのは怒りだけだ。

「起きやがれ馬鹿どもが! いくらなんでもやりすぎだ馬鹿っ! お前らなんか信用した私が馬鹿だった! 調子にのってしたい放題しやがってぇ! 覚えてろよ! 絶対、このままじゃ済まさねえからな! 思い知らせてやる!」

 やっぱり男は男だ。自分とは違う生き物だった。カイエンはイリヤがいつも言っている「男と女の好きは違うのよぅ」の意味がはっきりと分かった。今まで、ヴァイロンもイリヤも、カイエンを自分一人で独占したいような風を見せておきながら、隙を見せれば手を握り合ってこのザマだ! こっちの恥ずかしさや、やるせなさなんぞ、こいつらには自分の欲の二の次三の次だったのだ。

 カイエンが怒りの雄叫びをあげると、部屋の左右でガタガタと音がした。周りの部屋の皆さんを起こしてしまったのだろう。いや、もしかしたらウゴたち記者の三人かもしれない。

「やぁーだぁ。殿下ったら、お下品なその喋り方、あの怪物くんアルウィンとそっくりよぉ。……きもーち良さそうに酔っ払ってたから、覚えてないと思ったんだけどなー。ちゃんと服も途中までは着せてあげ……」

 とん、と、だん、との中間のような音がした。

 もうそのイリヤの言葉は最後まで聞いていることも許しがたく、カイエンはイリヤの方はもう一回、今度は頰桁に固く握った握りこぶしの手の甲を逆手気味にぶっつけて黙らせた。さっきの平手打ちはかなり自分の手のひらの方が痛かったのだ。

 至近距離からの殴り方は、前にエルネストをバンデラス公爵の前でぶっ叩いた頃、ヴァイロンに教えてもらって身に付けていた。

 そして、記憶は確かに断片的だが、体の状態と照らし合わせれば、どんどん蘇ってくるのは信じられないような事実の記憶だった。

 カイエンはシャツに下着の姿なのに、男二人はちゃんとシャツとズボンまでは身に付けていたのは、不幸の中の幸いだった。そこいらはこの馬鹿どもでも朝になってからのことを考えたのに違いない。

 そうじゃなかったら、三人もろともにありのままの姿のままだったら。

 そう考えただけで、あまりのことの生々しさに、カイエンとても通常の淑女やお嬢さん方のように、気が遠くなったかもしれなかった。だが、彼女はここで気を失なうほどヤワではなかったし、経験も、まあ、積んではいた。

「いたぁーいぃ」

 ぶっ叩かれたイリヤは、それでも恨めしげに呟くので、もう一発、と思ったらイリヤの反対側から、心底申し訳なさそうな低い声が聞こえて来て、カイエンを脱力させた。

「申し訳ございませんっ! しかし、お怒りはお戻りになってからにしてくださいませ。とにかく、一刻も早くここを出るお支度をっ」

 早くも背中側から着せかけられる制服の上着に袖を通しながら、カイエンはぎりぎりと歯噛みしたい気持ちだった。

 これでは、取材中のはずの、ウゴたち読売りの記者たちの方が恥ずかしくもいたたまれずに、赤面していることだろう。

「うっ」

 カイエンの頭の中で、ことがそこまで進行して来たところで、カイエンの普段は大酒など飲まない胃袋の方が叫び声をあげた。カイエンはヴァイロンとイリヤが争うようにして持って来た洗面器の中に吐き、それから居酒屋バルアポロヒアを出て、この一番近い署まで連れてこられるまで、ずっと吐き気とそして、諸々の嫌悪すべき事態への思いと戦っていたのだ。   

「……夢だと思いたい」

 カイエンがそう呟くと、それまで無表情に徹していたヴァイロンの頰のあたりが明らかに引き攣った。

 イリヤの方はぶっ叩いたのだから、こっちのもっと丈夫で固そうな面の方も、帰ったら折檻でもせねばなるまい。いや、こいつには折檻よりも無視に限る。しばらくは口も利いてやらんことにしよう。

 カイエンはちゃっちゃとヴァイロンへのお仕置きは決めてしまった。実のところ、そんなことはそれほど重要とは思えなかったからだ。重要なのは、美味しい情報をくれてやった読売りがどう書いてくれるかだ。

(でも、まあ、あそこまでやったのだ。アポロヒアから出た時に会ったウゴなんぞは、目の焦点が合わなくなっていたからな。レオナルド・ヒロン氏はなんだか慌てた様子で、私ともイリヤともヴァイロンとも目を合わせてくれなかったし、あの醜聞専門誌のキケ・ピンタードとやらはさすがにニヤついてて気持ち悪かったけど、顔は青ざめてたな。いわゆる、ドン引き、ってやつだ。あれなら、読売りの記事の方は、見聞きしたものそのままの勢い余った感じじゃなく、いい感じに計算された文面になるかもしれん)

 カイエンは吐き気と戦いながらも、頭の中では冷静にそう計算している自分の方を吐き捨てたかった。

 それはその通りで、カイエンと二人の「愛人」との「狂乱の一夜」の記事は、ウゴの「黎明新聞アウロラ」と、ヒロンの「自由新聞リベルタ」の帝都二大読売りでは、「大公殿下、この頃のご心労を晴らすかのごとき飲みっぷり」という記事で、飲みすぎてカイエンが潰れた、お労しいことだ、という方に重点を置いていた。イリヤとヴァイロンの名前は出ていたが、彼らが大公カイエンの何なのかはぼかされており、「病弱な大公殿下におかれましては、このところ帝都を脅かす事件でのご心労を晴らすため、あえて二人の直属の部下を連れ、下町の居酒屋で英気を養われた模様」との文面で、上品にその後のことは読者の皆様のご想像に任せます、という感じだった。

 実際に、モリーナ侯爵が、大公軍団軍団長の暗殺事件の犯人その他の、重要犯罪者を匿っていたことが明らかになったばかりだったから、カイエンの「ご心労」もまあ、善意の解釈が成り立つ部分もあるにはあった。

 一方、キケの「奇譚画報」では、もっと詳細に、カイエンたちが居酒屋バルアポロヒアに入ったところから時系列で追って書かれていた。それでも、肝心な部分では歯切れが悪くなったのは、この奇譚画報では珍しいことだった。幾ら何でもそれ以上書くのはお上というよりも、読者の反応を恐れたのだろう、とウゴやらレオナルド・ヒロンはそう思った。大公カイエンは、大公軍団の頭、つまりはこの帝都ハーマポスタールの守護者として、それなりに人望、人気があったからだ。







「それにしても、大公殿下。思い切ったやり方をなさいましたね。これだけの読売りに出れば、社交界はしばらく、このお話だけでお腹いっぱい、でございましょう」

 カイエンと二人の愛人の乱痴気騒ぎの記事が帝都ハーマポスタールにばら撒かれた翌日。

 カイエンは皇宮へ上がり、女官長コンスタンサの部屋に顔を出していた。皇帝の女官長の部屋は、女官長としての事務仕事をする場所なので、大きな窓から入る五月の日差しに照らされた部屋の中は、広くはないが書棚なども置かれ、大きすぎない簡素な机の上には、カイエンの例の記事の載った昨日の読売り三紙が、きちんと端を揃えて置かれていた。

 黎明新聞アウロラや、自由新聞リベルタならともかく、奇譚画報もそこにあった、と聞いたら奇譚画報の編集長はどう思っただろうか。

「……大公殿下が今日、私を訪ねて来られた理由については、すでに大公軍団より派遣のブランカとルビーより、聞いております」

 カイエンは唇を噛み締めた。出来れば、このことは自分自身でコンスタンサに伝えたかったのだ。そうでなくとも責任感の強いコンスタンサだ。おのれの知らぬ間に、オドザヤの身に起こったことを知れば、自分を責めるのではないかと思ったからだ。

「大公殿下御自らが、私にお話しになりたいとお思いであったことも聞いております」

 コンスタンサのこの言葉から、カイエンは事態の進行を感じた。ブランカもルビーも、カイエンに無断で動くことはない。事実、カイエンは大公宮へやって来たルビーによって、オドザヤが妊娠の事実に気が付いたようだ、と聞いていた。

「申し訳ない。……こうなってみれば、私の所業が陛下に悪い影響を及ぼしたのかもしれない。ヴァイロンとのことはその、先帝陛下のご命令であったことだが、今度の方は……軍団長とのことは、あの仮面舞踏会で陛下に見られていたようだから……」

 コンスタンサは無言のまま、しばらく自分のねじり合わせた膝の上の両手を見ているようだった。

「……いいえ。大公殿下のことと、今度のことは別のことです。陛下はあの仮面舞踏会の後、私に、大公宮でエルネスト皇子殿下から、すべて聞いた、とおっしゃいました。大公殿下がどんなお気持ちで、リリエンスール様を引き取られたのかも、得心できた、とおっしゃっておられました」

 こう話すと、コンスタンサはきっと顔を上げた。

「実は、もう陛下には私からお話をさせていただきました」

「えっ」

 カイエンは虚をつかれた。コンスタンサはオドザヤと話すのを躊躇するだろう、と彼女は勝手に決めつけていたのだ。

 コンスタンサがこの歳になるまで独り身のままで後宮の女官長を勤め上げて来た女だ。先帝サウルの後宮でも今、オドザヤの身に起きているのと同じことは何度もあった。四人の皇女、そして一人の皇子が生まれているのだから。

 だが、それと今度のオドザヤの妊娠とは現象は同じでも、意味合いがまったく違う。

「大公殿下は、私が今度のことの責任を取るべく動くのではないか、とお思いでありましたでしょう。実のところ、最初は私は職を辞すことをまず、考えました。つまりは今度の事態から逃げることを考えましたのです」

 コンスタンサが皇帝の女官長を辞める。それこそが、カイエンがもっとも恐れていたことだった。そんなことになったら、他のあまり人となりを知らない女官が跡を継ぐことになる。そんな中でオドザヤの妊娠をどうしたらいいのか。ことはあっという間に表沙汰になってしまう可能性さえあった。

「ですが、出来ませんでした。……私は、お亡くなりになりましたアイーシャ様が陛下をお産みになられた時より前からずっと、この皇宮におります。それも、後宮の女官を勤めて参りました。言わば、古強者でございます。自分の子はおりませぬが、それゆえにかえってお命を軽々に扱うことは出来ぬと考えております。逃げるなどもっての外。辞めるのなら、新しいお命を生きながらえさせるために辞めたいと思っております」

 カイエンはなんとも答えられなかった。

 確かに、コンスタンサの言うとおりである。オドザヤの子は何としても産ませる方向で行くのが一番なのだ。それが正しいことだろう。

 だが、オドザヤが「産みたくない」と一言、言えば、事はまったく別の方向へ動く。コンスタンサもその事はわかっているはずだ。それでも、今日カイエンに今のような気持ちを吐露するとすれば、オドザヤは「産みたい」と言っているのだろうか。

 いや、まずは、医師の見立てが先だ。

 カイエンはイリヤが刺された時に世話になった、獣人の村プエブロ・デ・ロス・フィエロスの出身の外科医から、同郷の熟練の産婆、と言うよりは産科の医師に近い経験と知識のある女を紹介されていた。

 国立の医薬院には未だ女性の入学は許されていないので、女性の正規の医師と言うのはハウヤ帝国にはいない。しかし、事を産科に限れば、外科の医師に近い手腕を持つ者もいるとのことだった。

 カイエン自身が流産した時の処置をしてくれた、カイエンの奥医師を、とも考えたが、オドザヤの近辺へ送り込むには、年配でも侍女に仕立てやすい女の方が都合が良かったこともある。

「今日は、私の方で呼び寄せた産婆を伴ってきた。獣人の村プエブロ・デ・ロス・フィエロスの出身だ。名前はドミニカ・ホラン。うちの外科医の紹介、と言うか外科医術の研究会みたいなのの仲間らしいんだ。だから、今までに難産の妊婦の腹を切って出産させ、子供も母親もちゃんと生き延びさせたことが何度もあるそうだ。外科医が言うには、『切ったはったの技術は、自分よりも上かもしれません。手先がとんでもなく器用でね。それに、小柄で手も小さいから産科向きです』と言っている」

 カイエンは今日、オドザヤの診察が無理でも、ドミニカ・ホランはしばらくオドザヤのそばに置こうと考えていた。彼女はハーマポスタール市内に診療所を持っていたが、そっちは弟子たちでもなんとかなるだろうと言う。カイエンの前に呼ばれたドミニカは、もう五十過ぎに見えたが、

「うちの産院の弟子たちももう、三十路四十路ですからね。そろそろあたし以上に出来てくれないと、困りますよ。あたしは手取り足取り教えるのもやるけど、知識の方はあっちこっちの病院医院の先生連れてきたり、送り込んだりして覚えさせて、あとは実地に手伝わせて見極めるんです。ダメな子はかわいそうだけど辞めてもらってます」

 と淡々と語っていた。カイエンと同じくらい小柄で、骨格はカイエンよりも細そうな女だったが、ちょっとマテオ・ソーサに似た学者っぽさと、あの装具士のトスカ・ガルニカと共通する自分の技術への確信が、その人柄から見えて来るようで、カイエンはこの女にオドザヤを任せる気になった。

「わかりました」

 コンスタンサの返事ははっきりしていた。

 皇宮の医師には診せられない、それは彼女たちの共通認識だった。

 アイーシャとマグダレーナが妊娠していた時は、後宮に産科の医師が配備されたが、それも二人の出産と共に外されている。

 実際のところ、皇宮の医師はオドザヤの脈を毎日取っているのだ。皇帝とはそういうもので、毎日、決まった時間に内科の医師が診察する。もっとも、医師は男だから、オドザヤの顔色を見たり脈を取ったりしても、それ以上に踏み込む事はない。風邪や頭痛、腹痛くらいなら見極められるだろうが、後はオドザヤが黙っていれば何もせずに帰って行くだけだ。

 何よりも、毎日オドザヤの脈を取っていたはずの医師が、オドザヤが麻薬漬けになっていることを見逃したか、見逃すように金を積まれたかしてうやむやにしたのだ。内科の医師ということを別にしても、彼らを信用するわけにはいかなかった。

「少し、時期がずれますが、陛下の侍医たちは、陛下への毒殺未遂を防げなかったかどで辞めてもらいましょう。彼らも麻薬を見抜けなかったか、見抜かなかったか、身に覚えはあるはず。大した問題にはなりますまい」

 コンスタンサは話をどんどん進めて行く。

「そうか。では名目上、新しい侍医が必要だな。そこまでもう目星が立っているか」

 カイエンがそう聞くと、コンスタンサは頼もしくもはっきりとうなずいた。

「はい。国立医薬院の院長を、と思っております」

 カイエンは目を見張った。

 別にすごいと思ったわけではない。国立医薬院の院長というのは、この国の医師の最高名誉職で、常に死にかけの爺さんがなるものだったからだ。

「それはよかった。では、コンスタンサ、私とドミニカ・ホランを陛下に取り次いでくれ。今日ここへ来たことは宰相府のサヴォナローラには言ってない。まあ、いずれは言わねばならんが、まずは診察だ。陛下は今日は執務室か?」

 カイエンはいつもなら、皇宮へ上がったらまずはオドザヤのところへ上がる。だが、今日はコンスタンサの意向で差し向けられた侍従が裏廊下を通って、ここまで案内して来ている。

 だが、コンスタンサの返答は、急に弱々しくなってしまった。

「それが……あの、申し訳ございませんが、大公殿下。陛下には、大公殿下に合わせる顔がない、との仰せです」

「はあ?」

 カイエンは思わず、気の抜けた声を上げてしまった。

「いいえいいえ、殿下を避けておいでなのではないのです。昨日のこの読売りは陛下もご覧になりました。陛下のオルキデア離宮での事やら、貴族の中での噂話やらから目を離させるためとはいえ、このように体を張って守ってただき、申し訳ないばかりだと……。ですが、そのう、陛下もご自分のお気持ちが決まってから、改めて姉君である大公殿下を頼りたい、との仰せです」

 なるほど。

 これはカイエンにもわからないことではなかった。彼女も、シイナドラドからの帰り、クリスタレラで医師に妊娠の事実を告げられた時の事は忘れずに覚えている。カイエンの場合には決して産んではやれない、いずれは流れてしまう子供のことだったが、オドザヤの場合には、選択肢がある。

 その日、オドザヤの部屋へはコンスタンサに連れられた、ドミニカ・ホランだけが秘密裏に入ることになった。

 控えの部屋から、ドミニカ・ホランを呼び、コンスタンサに引き合わせてから、カイエンはコンスタンサの部屋を出ようとして、やっと気が付いた。オドザヤの事ばかり考えていたので、もう一人の皇女のことを忘れていたのだ。

「そうだ。……ご帰国になられたアルタマキア皇女は今、どこに? もう、皇宮へは入られたのだろう」

 カイエンがこう聞くと、コンスタンサもハッとした顔になった。

「そうでしたわ。そちらもいささか、面倒なことになっておりまして。……いま、皇太后様のおられた皇子皇女宮の方へお入り願っておりますんです」

 亡くなった皇太后アイーシャの骸は、今、皇宮の地下の葬祭殿に安置されている。

「それは……。どうして母君のキルケ様のおられる後宮へお入りにならないのか?」

 カイエンがそう聞くと、コンスタンサは渋い顔になった。

「おそらく、宰相から同じことが、今頃殿下のいらっしゃるはずの大公宮へ報告されておりますでしょう。宰相は殿下は大公宮でお仕事中、と思っておりましょうから」

 カイエンはなんだか、気が急いて来て、コンスタンサの言葉に追っかぶせるようにして尋ねた。

「どういうことだ? 何か、問題が?」

 カイエンも、アルタマキアがスキュラであちらの習慣とやらで、二人の夫と強制結婚させられた事は聞いていた。そのうちの一人、マトゥサレン島の大惣領の息子の方は殺され、小惣領の担ぐ二人目の夫が一緒に逃亡を……。

「……二人目の夫とやらが、まだくっついて来ているのか!」

 カイエンは気が付いた。確か、アルタマキアが軟禁先を逃げ出し、泥炭加工業者たちの村へ匿われるに際しては二人目の夫とやらが案内したと、聞いていたのだ。

「はい。大公殿下も先帝サウル様の御最期のあたりで、ご臨終にお呼ばれになった時にアルタマキア殿下にお会いして、お気付きになったのではありませんか? アルタマキア様はお母様のキルケ様とそっくりでいらして、儚く、弱々しい方と……後宮の外の方々はお思いでしたでしょうけれど……」

(カリスマお姉様はおかわいそう。あいつの死に様を見届けられなくて、本当におかわいそうって、そう、申しましたのよ)

(あいつは皇帝。だから私たちは何を命ぜられても仕方ない。それで済むのは表面だけですわ。もちろん、すべては国のため、ハウヤ帝国のため。そのために皇女である私達が身を捧げる。それは正しいことです。私もこれでも皇女ですもの。そんなことは分かっております。でも、心の底は詐れません)

 カイエンはまざまざと思い出していた。

 父親の臨終に呼ばれ、なのに会う事はできなかった、アルタマキアのあの言葉。

「……確かに! そうだった、そうだったよ。あの時は陛下と一緒に呆然として聞いてたけど。気の強い子だなあ、ってあとで思ったよ。確かに、二人の夫と結婚させられたり、冬の北国を逃避行したり、普通の皇女様じゃなかなか保たない。シイナドラドでの私なんざ、彼女と比べたら甘っちょろい虜囚だったよ!」

 カイエンは思わず興奮気味になったが、コンスタンサも同感なのか、すでにアルタマキアに面会して、一発ぶちかまされたかしたらしい。

「アルタマキア様は、スキュラでの結婚なんか無効で、もうスキュラはフランコ公爵領になったんだから、ご自分が後継として戻ることなんかありえない、っておっしゃっているのです。でも、それでいて、そのなんですか、二人目の夫という男……リュリュと言うそうですが、その男はスキュラに返さないまま、このハーマポスタールまで帰ってらしたんです」

 カイエンはちょっと意外だった。彼女の場合、エルネストのことは夫としては迎えたが、男としては考えるだけであの惨めなシイナドラドでの日々を思い出してしまう存在だった。

 人形のように気ままに弄ばれた記憶が抜けきらないのだ。だから、エルネストの顔を見るのこそ最近は平気になったが、ちょっと手が触れただけでも嫌悪感を覚えるのを止められない。あの、二月の仮面舞踏会の帰りの馬車でのことも、馬車が大公宮へ着くのがちょっとでも遅かったら、御者台のヘルマンに大声で助けを求めていただろう。

 だが、アルタマキアの方はちょっと違うとでも言うのだろうか。

「コンスタンサ。まあ、そこの読売りの記事のような行状の私だ。諦めて聞いてくれ。そこに書いてあるような乱れまくった性癖の私でさえ、あのエルネストだけはだめなんだよ。なのに、アルタマキア皇女は、その二人目の夫とやらは平気だ、と言うかそばに置いておきたいと仰せなのか?」

 カイエンはかなりはっきりと言ってのけたので、コンスタンサの方も、ぐっと気持ちを引き締めたらしかった。

「はい、いいえでお答えするとすれば、はい、でございます。アルタマキア殿下も、『こんなやつ、もう指ひとつ触らせやしないんだから』とおっしゃるんです。それなら、そのリュリュと言う男はマトゥサレン島からの人質として軟禁する、と申しますと、途端に不機嫌になられるんだそうで……」

 どうも、コンスタンサの言い方からすると、そんなこんなで付かず離れずのままハーマポスタールまで旅して来たらしい。

 ここにイリヤでもいれば、

「あっははははぁ〜、そりゃまあ、女の子らしいわぁ。見事に嫌な出会い方だったけど、なんでかかんでか気になるの、っていう女の子の反応ですよ。あーはは、おっかしー。俺っちみたいな三十路ならともかく、かわいそうだけどその若い男ちゃんにゃ理解不能だろうねぇ、お気の毒ぅ」

 とでも言うことになるのだろうか。

 ここでカイエンはふっと気が付いた。彼女の場合には、加害者はエルネスト一人だった。だが、アルタマキアの方は二人いて、一人はもう一人に殺された。多分、殺された方にはそうされる理由があったのだろう。

 ここで加害者は分裂した。一人は加害者をやっつけてくれた、つまりは加害者ながらも勇者となったのだ。

 その残りも加害者のまま、同じように彼女に対していたら、アルタマキアは残りの半分もカイエン同様に加害者として処理し、忌み嫌ったことだろう。

 だが。きっと残ったそのリュリュとか言うのは、アルタマキアの意向に従うと誓い、今でもそうしているのだろう。そうでなくては、あのアルタマキアがわざわざそばに連れて引っ張ってくるはずがない。

「……よく分からんが、もう夫ではないが、恨みはあるから、近くに置いて困らせてやりたいのかもしれん。アルタマキア様の性格なら、そんなこともありそうだ。それとも、最終的にはそいつの助けで逃亡できたのだから、何と言うか……言うか」

 ぷっ。

 カイエンは怪訝な顔のコンスタンサの前で、吹いてしまった。

「分からん。人それぞれだからな。……陛下のお気持ちも、同じだ」

 オドザヤの子供。妊娠の相手となれば、一番可能性が高いのは、多分、モンドラゴンだろう。だが、そのモンドラゴン子爵は、妻との間に子供がない。妻の方に問題があって子が出来なかったとは言い切れない。そうなれば、疑わしきは他の者になる。

 トリスタンとは仮面舞踏会の時以来、何かあったのかなかったのか、カイエンには分からない。だが、トリスタンにももちろん可能性はある。どっちにしろ、カイエンとエルネストとの場合と同じく、オドザヤの初子も父母に望まれて腹に宿った訳ではなさそうだ。

 今、オドザヤは恋をしているのだろうか。トリスタンへのそれはもう、醒めたと聞いている。では、モンドラゴンは? 他にカイエンの知らない相手が?

 ああ、考えても仕方のないことで、時間がうつる。

 カイエンはコンスタンサにドミニカ・ホランを付けて、オドザヤの部屋へ密かに急がせた。







 カイエンが皇宮のコンスタンサを訪ねた翌日。時刻はもう夕方で、それも夕日はとっくに西の海の中へ落ちてしまっていた。反対側の東の空にはもう、朧な月が見える。

 オドザヤは一人、オルキデア離宮にいた。

 一人といっても、皇帝のオドザヤが一人で移動できるはずもない。

 親衛隊ひとまとめの他に、侍女のイベットと、親衛隊長のモンドラゴン、それに大公軍団から派遣されているブランカとルビーがそばに付いていたが、オドザヤは「一人になりたい」とバルコニーに長椅子を出させ、そこに何をするでもなく寝転がっていた。

 昨日、オドザヤを診察した、ドミニカ・ホランは、静かにオドザヤの話を聞き、侍女の中で一人だけ残されたイベットからオドザヤの月のものの記録を取った。それから、イベットとコンスタンサも外へ出して、オドザヤの体を診察した。

「私の経験からですけどね、まあ、間違いないと思います。お身体の様子なんかもね。最後の月のものがあってから三ヶ月め、ひどい眠気や悪阻も弱いけれどもあるようですから。まだお腹で動いたりなんかしないし、心音も聞こえない時期ですけれどもね。……そういう心当たりもおありだとおっしゃるから、これで今月も月のものが来なければ、お歳から言ってもそういうことになるでしょうね」

 ドミニカ・ホランの診断はとても静かな声で、一言一言、確かめるようにゆっくりしていた。

 彼女はそれ以上、何も言わず、静かにイベットに案内されて下がった。彼女はカイエンの寄越した産婆で、しばらくオドザヤのそばに控えることになる、とコンスタンサに聞かされたが、オドザヤはろくに返事も出来なかった。

 戻って来たコンスタンサは、誰からの言葉かとも言わなかったが、どうするかはオドザヤしか決められないこと、オドザヤがどうするか決めるまでは、宰相のサヴォナローラにも知らせない、と話してくれた。

(お姉様ね)

 コンスタンサは何も言わなかったが、オドザヤにはブランカやルビーが気が付いて、カイエンに知らせたのだろうと察しがついていた。そして、カイエンがコンスタンサと計って配慮してくれているのだと。彼女もブランカが故郷に子供を置いて働いている母親であることは知っていたし、彼女かルビーかの目がこのところ自分から離れないことも感じていた。

 その上で、イベットの体調不良の理由を聞いて、自分でもその可能性に気がついた。

 今後、コンスタンサはイベットに張り付いて離れないだろう。イベットがオドザヤのそばを離れる時には、今も地下牢にいるであろう、あのカルメラと同じ場所へ行くことだ、とイベットが理解してくれればいいが。

 オドザヤはこのことについてはあまり心配していなかった。イベットはオドザヤやカルメラよりも年長で、ずっと居丈高なカルメラの下で忍従して来た女だ。ここへ来て、この秘密を知って逃げ出すほどやわではないだろう。この秘密を守りきれば、皇帝のオドザヤの完全な信頼を得られるだろうから。

 コンスタンサは彼女の知らぬうちに、オドザヤの寝室へも呼び込まれていたモンドラゴンには、容赦無くこのことを伝えた。皇帝の親衛隊の隊長でもある彼に黙っているのは、今後面倒の元になりそうだったからだ。

 モンドラゴンは、もちろん驚愕したが、すぐに自分の置かれた状況を理解した。

 彼とても大公軍団の手でモリーナ侯爵が自邸に監禁の状態になっていることは知っている。そのまま、国賊として裁かれ、侯爵家そのものが消滅する可能性すらあった。モンドラゴン家は子爵家だ。モリーナ侯爵の腰巾着だったことは、貴族社会では衆知の事実なのだから、この機会に一緒に始末されてもそれほど不自然ではないだろう。

「馬鹿みたい」

 そう、呟いたのは、誰に対してか。それは彼女にも分からなかった。

 オドザヤはもう、このオルキデア離宮の役割が終わったことも感じていた。

 それどころか、ここで行われていたことが醜聞として市民に流れれば、大いに困ったことになる。カイエンは自分の名前を道化にして、オドザヤの醜聞が表沙汰にならないよう、世間の目を自分に惹きつけている。

 だが、その後ろに皇帝のそれ以上の醜聞が隠されていると露見したら、天地がひっくり返るような騒ぎになるのだろう。

 それを防ぐ、一番の手段は今、オドザヤの腹のなかにいる子供を消してしまうことだ。

 妊娠した事実を葬り去ってしまうことだ。

 それは一番、手っ取り早い方法に思えた。ドミニカ・ホランはちゃんとそのことも説明してくれた。堕胎に確実な方法はないこと。無理をすれば一生、子供を持てなくなる危険性があること。最悪の場合には、母子ともに死ぬこと。

 産む場合についても、彼女は「あるお貴族のご夫人でうまくやったことがある」と言っていた。長年、産婆をしていれば、オドザヤのように「望まない妊娠」をした女からの依頼も受けて来たのだろう。

 庶民の服ならともなく、貴族階級のドレスなら、意匠と工夫次第では臨月まで誤魔化せる。だが、それには周囲に鉄壁の壁を築く必要がある。周囲の誰かが一言でも漏らせば終いだと彼女は言っていた。

 コンスタンサは、アイーシャの喪中ではあるが、トリスタン王子を皇配に指名してしまうしかないでしょう、と言っていた。多分、カイエンも同じ意見だろう。

 実際には、この子供の父親は幾人かには絞れても、一人にはどうしたって絞れない。

 それを一人にしてしまえば、万一の時にはまあ、不名誉なことではあるがなんとかなるのではないか。

 これだって、「なるかもしれない」だけだ。挙式まで急ぐことはできない。ザイオン関係の工作員をモリーナ侯爵邸で検挙したばかりだ。そのザイオンの王子と今すぐに結婚するわけにはいかなかった。それこそ、急ぐ理由があると思われるだけだ。

 オドザヤは背中の高い長椅子の上で、頭から包み込むように、大きな分厚い地の絹のガウンを着るというより被っていた。自分の姿を自分からさえも隠したかったのだ。

 そうして、ガウンの隙間から湖面を見ていると、湖の湖水の深緑色がいやでも目に入って来る。ぼうっとしていて気がつかなかったが、白い睡蓮が岸辺に咲いているのも見えた。

 なんだか知らないが、その白い睡蓮の上に、白い月の光を遮ってふわふわ動く影が見えるような気がした。ふと、オドザヤはあれは湖水に身投げでもした、女の幽霊かなんかかしら、と思いついた。

 不思議に、ちっとも怖くない。それどころか、その動きに規則性があるような気がして、オドザヤは目を凝らした。

 冬だったら、簡単だったかしら。

 このまま湖に入って行ったら、もしかしたらすべてが元どおりになっていないかしら。

 同時に考えていたのは、そんなことだった。

「馬鹿だわ」

 オドザヤは涙で湖水がにじんで、色も形も分からなくなった睡蓮の花と、月光の作る影の動きを見つめたまま、長椅子の上で微動だにしなかった。

 そのまま、オドザヤはしばらくじっとしていた。背後の窓の中には、コンスタンサやルビー達の姿が見えたが、彼らは動かないオドザヤをあまりじっと見ないようにしてくれているようだ。まさか、バルコニーから湖水へ飛び込むとは思わないのだろう。

 だから、厚い布地の下でオドザヤがするりと、長椅子の下に潜っても、誰も気がつかなかった。

 コシのある厚い絹地のガウンは、オドザヤのシルエットそのままに長椅子の上で自立している。オドザヤは駄目押しに大きめのクッションをあてがった。

 ああ、こんな遊び、子供の頃にしたことがあったわ。こうやってお母様や侍女達から逃げ出してかくれんぼしたっけ。

 オドザヤはふと、そんなことを思い、皇宮の後宮の池のそばでしたのと同じように、バルコニーの端から湖の岸辺へ出てしまった。布製の華奢な室内履きは、あっという間に水浸しになったし、着ていた部屋着の裾も湖水に浸かった。でも、彼女は気にしなかった。

 五月の夜の湖の水は、まだ冷たく感じたが、それよりもオドザヤにはじゃぶじゃぶと音を立てる水面と肌に当たる水の感触の方が心地よかった。

 白い睡蓮の中に踏み込んで行った時だった。

 オドザヤはそこまで考えてはいなかったが、睡蓮も植物である。見えない水面の下には、花や葉を支える茎もあるし、それはいささか絡まりあってもいた。それが彼女の足にもつれて貼りつこうとしていた。

「あら」

 オドザヤ自身は、まだ裸足の足が湖の底の砂を踏みしめていたので、大して慌ててもいなかった。

 だが、この様子をほんの近くで見ていた者にとっては違ったらしい。

「お嬢さん!」

 白い睡蓮の向こう、湖の縁から慌てたような声、それでもその声はオルキデア離宮に届くほどではなかった……で何か言いながら水の中をざぶざぶ歩いて、オドザヤの方へやって来たのは、声からしてもう中年に差し掛かった男のようだった。オドザヤが溺れると思ったのだろう。

「えっ」

 腕を取られ、月光に照らされた相手の顔を見た時、オドザヤは一瞬、頭が真っ白になった。こんなところ、こんな忌まわしい場所にいるはずのない人間の面影をそこに見たからだ。

「と、トリスタン様?」

 青白い顔に乱れた青みがかった金髪がかかり、顔立ちははっきりとしない。でも、トリスタンほどその髪は長く伸ばしてはいない。でも、もう月の光に目の慣れたオドザヤには、彼の目の色があの人工的な緑色であることが見えていた。

「何をしているの? 危ないよ!」

 そういう声まで、気が付けばトリスタンに似ていた。

 ひっ、と声にならないうめき声を上げて、離宮の方へ逃げようとするオドザヤへ、なぜか相手は落ち着いた声でこう答えた。さっき、オドザヤがトリスタンの名を口にしたのは聞こえていたらしい。

「ああ、トリスタンと間違えたんですね。あの子とお知り合い?」

 あの子。

 お知り合い?

 こんな場面に不似合いな、あたたかくも間の抜けた声音に、さすがにオドザヤもパニックになりそうになっていたところから引き戻された。

「ああ、やっぱりそうなの。……私はシリル。よく似た親子だって言われるけど、私はただのもうろくした踊り手だよ」

 オドザヤのまん丸く見開かれた琥珀色の目の前で、シリルは岸辺の方を指差して見せた。

「息子から、この湖は睡蓮がきれいだって聞いたんでね。睡蓮の踊りをやりに来たんだ。街中の公園の池の前でやるよりも、こっちの方が洒落てるからね。……お客さんはいないけど、こうして月がきれいだし」

 睡蓮の踊りをやりに来たんだ。

 カイエンなら、ああ、踊り子王子の父上は元、踊りの一座のプリンシパルだったんだものね、息子の方も、テルプシコーラ神殿参りをやってたくらいだし、とすぐに納得したかもしれない。でも、オドザヤはそこまで頭が回らなかった。

「……腕を、離して」

 オドザヤがその時、言えたのは、それだけだった。

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