死の舞踏 3
お前は知っているかい
ああ、俺がお前に尋ねているんだよ
俺たちは楽園に生まれた
あそこが楽園だった時代の最後に生まれた
俺たちはあの守護神に守られた楽園で生まれたんだ
でも
楽園に生まれたからと言って
楽園で死ねるとは限らない
それどころか
楽園は失われる
なぜか
それは俺たちの愚かさ故に
守護神は楽園を支えきれず力を失ってしまうから
今はもう、ここでは自由にモノを言うことさえ出来ない
沈黙は金で、雄弁は銀
それどころじゃない
雄弁は真っ黒な墓穴に通じている
だから、お前は唇の奥でものを言い
目で雄弁に語れ
そして失った楽園を取り戻せ
いいや
時代は取り戻せない
失った楽園は戻って来ない
だったらもう一度創れ
お前は失楽の王
お前が生まれた日に、お前は戴冠し
この街には失楽の悪夢が取り憑いた
お前は何も悪くないが
この街の悪夢を祓い
守護神に再びこの街を献じるのはお前しかいない
アル・アアシャー 「失楽園の王」より
「……腕を、離して」
「ああ……ごめんなさい」
シリルはオドザヤの言葉を聞くと、すぐに彼女の腕を掴んでいた手を離した。
それでも、若い女が五月の、まだ泳ぐには早い夜の湖にざぶざぶと入り込んでいたのだ。シリルは手は離したものの、怪訝そうな顔つきでこう言わずにはいられなかった。
「ああそうだ。私がこんなところにいたのが問題なんじゃなかったね。でも、あなたみたいな若い女の人が、こんな季節のこんな時間に、湖へ服を着たまま入っていくなんて、おかしいでしょう? まさか、入水自殺するんじゃないかって、つい、そう思ってね」
オドザヤははっとして、自分の足元を見た。
彼女は白い睡蓮の花の群生する場所に立っており、湖水は彼女の膝にまで達しようとしていた。それに、夏の昼間ならともまく、今は五月の夜中だ。なるほど、これでは入水志願の女と思われても無理はなかった。
「いいえ、違いますわ。……あの、ちょっと昔のことを思い出したら……。なんだか昔、こんなところで水遊びをした時のことを思い出したような気がして……湖に入るつもりはなかったんですけれど」
オドザヤは言い訳するようにそう答えたが、実際には言い訳の必要はなかった。彼女は入水自殺など考えてはいなかったのだから。
シリルの方は、ここまで来て、オドザヤの顔を思い出したらしい。
あの、二月の
「ああ! 仮面もないし、髪の色も違うから見違えてしまいましたけど、あの時の方でしょう? トリスタンに化けた私とあのなかなか踊りの上手い女性と入れ替わった時の方だ! 私は頭は息子みたいに回らないんだけど、人の見分けは得意な方なんですよ。では、あなたはこのハウヤ帝国の……?」
さすがにそこまで喋って、シリルにもようやく今のこの奇妙な場面の構図に思いが至ったらしかった。
「これは困りました。そういえば、ここはこの国の皇帝陛下の離宮のすぐそばでしたね。とんだご無礼を致しました。私、ザイオンの第三王子トリスタンの父で、シリルと申します。息子が心配で、というか、まだ教えていない踊りがあったのを思い出して、ザイオンの王都アルビオンの宮殿から逃げ出して、後を追って来た馬鹿な父親なのでございます」
このあまりにも、あっけらかんとした言葉には、オドザヤはもう呆れるやら驚くやらで、言葉も出なかった。
「……私は
オドザヤは茫然とした面持ちで、このトリスタンによく似た、だが中身はかなり違って、少し頭が足りないのではないか、と疑いたくなるような中年男を眺めているしかなかった。
だが、この男はオドザヤをこの国の皇帝と知った上で、自らはっきりとトリスタンの父親だと名乗ったのだ。そこまで考えると、オドザヤは不意に意地悪なことを思いついた。
普通ならこんな相手に、こんなことを話すなど、気違い沙汰だ。というか、一国の皇帝として最悪の行動に違いない。だがこの、トリスタンのような意地の悪いそして計算高い息子がいるとは思えない、あどけないとでもいうしかない、あっけらかんとした物言いのおかしな中年男の言葉を聞いているうちに、オドザヤは自然に行動に出てしまったのだ。
それは、もしこのシリルのお喋りが、トリスタンと同じように計算して言っていたものだったら、取り返しのつかない事態になっていたかもしれない、危ない賭けだった。
「本当に、トリスタン様のお父様なんですの?」
それでも、オドザヤは二人で湖の岸辺へ上がっていくと、シリルにそう確認するのは忘れなかった。
「はい。私、シリル・ダヴィッドと申します。こちら風に名乗れば、シリル・ダビ、ということになりましょうか」
シリル、という名前はザイオン風のもので、このハウヤ帝国ではほとんどない名前だが、ダヴィッドは、こちら風に読めば、ダビ、という音になる。
岸辺に上がり、月明かりに見える顔は、オドザヤでも誰でも間違えなくトリスタンに似ている、と思っただろう。実際にあの仮面舞踏会で、シリルは百面相の手で二十歳以上も若返り、トリスタンの役を演じたほどなのだ。
「そうですの。……確か先ほど、ここへはなんですか、踊りにいらしたとかなんとかおっしゃっていましたわね?」
オドザヤの頭は急激に覚醒して来ていた。これがあのトリスタンの父親。確かに、オドザヤは宰相のサヴォナローラや姉のカイエンから、トリスタンの実父は元、街中を流していく舞踏団の踊り手で、ザイオン女王チューラの愛人であることは聞いていた。
「はい。こればかりは息子も私を止められません。私から踊りを取り上げたら、もう、後にはこのちょっと足りない頭と、ちょっと目立つ顔しか残りませんのでね。ザイオンの宮廷におりました時も、最低限の練習はしておりました。息子にも一通りの踊りは教え込んだのでございます。今夜は月が素晴らしかったので月を見上げておりましたら、不意に息子から聞いたこの湖の睡蓮のことが思い浮かびましてね。そうしたら、居ても立ってもいられなくなったんでございます」
そう言うと、シリルはその場でもう、ふわふわと体を動かし始めている。真夜中の湖畔で偶然出会った、一国の皇帝相手に、普通に淡々と話しているのも普通ではないが、行動や様子の方も普通の感覚ではない。
おそらくは彼が今、この場所で感じている詩心のようなものに刺激され、体が勝手に動いてしまうのだろう。なるほど、彼は稀代の踊り手であったに違いなかった。とてもではないが、ザイオン女王の愛人、ダヴィッド子爵などという名前が似合う男ではない。
そんなシリルの言葉を、オドザヤは冷めた頭で、一言一言、ゆっくりと咀嚼していった。
このシリルという元踊り手で、ザイオンの女王の愛人、トリスタンの父である男は、息子に頼まれればあの仮面舞踏会の時のような役割もするのだろう。だが、その本体は政治とか権力欲のようなものとは無縁の芸術家なのではないか。
オドザヤとても、シリルのこの言葉が演技だった場合のことは考えていた。だが、ここで二人が出会ったのはまったくの偶然だ。今夜、オドザヤがこのオルキデア離宮へ来ている事は、カルメラがいた時ならともかく、今ではトリスタンには知りようのないことのはずだった。
(これは、賭けだわ。でも、ここでこのトリスタンの父親をこちら側へ引き込めれば……)
今、自分のお腹にいる子供の運命も変わってくるかもしれない。
今のオドザヤの頭に、具体的な計画があったはずもない。だが、オドザヤはこの「偶然」を自分の側へ引き寄せておくべきだ、と本能的に感じていたのかもしれない。
「そうでしたの。これはまあ、大変な偶然ですのね」
オドザヤはまずは静かに、言葉を返した。だが、自然に入れた「偶然」と言う言葉にシリルが反応するかどうか、試してもいた。
シリルはオドザヤの言葉の罠にはかからなかった。彼は言い訳するどころか、先ほど自分のした話をもう一度繰り返したのだ。
「はい、驚きました。こんなところで陛下にお会いするとは思いませんでしたので、先ほどはすっかり若い女性の入水かなんかだと早合点して……」
オドザヤは得たり、とばかりに長いまつ毛を伏せた。
「……実は、そういう気持ちもどこかにあったのかもしれませんわ。なんだか、すべてのものが嫌になってしまって……」
えっ、とシリルの目の色が変わるのを確認して、オドザヤは続けた。
「シリル様、とお呼びしますわ。……あなた、あの仮面舞踏会の時、あそこにおられましたわね? 私、あの時はトリスタン様に夢中でしたの。それで、自分の身分立場もわきまえず、ああして逢いに行ってしまいました」
シリルは黙っていたが、彼もあの後、トリスタンとオドザヤの間に何があったのかは知っていたので、はっとしたようだった。
オドザヤはそこまではしおらしさを装って話していたが、次の言葉で、彼女は完全に相手に対して牙をむいた。
「シリル様もご存知なのでしょう? 私、あそこでトリスタンさまと……」
オドザヤは、心の中で、まあ、私ったら歌劇の女優みたい。こんな真似ができるなんて、私も悪くなったものだわ、と自嘲的に思っていた。この辺りの心の動きは、姉妹だけあってこのところ数年のカイエンの考え方とそっくりだった。
「それだけで済めばよかったのですけれど……困ったことになってしまって……」
言いながら、オドザヤは自分のまだ大きくなってなどいない、平らなお腹をそっと両手で押さえた。そして、上目遣いにシリルのなんだかぽかんとしている表情を月明かりで透かし見た。
「私、今、……お腹に……トリスタン様の……」
オドザヤは最後まで言う必要はなかった。ちょっと頭の方が通常人とは違ってはいても、シリルとてもう四十を過ぎた男だ。二十歳を過ぎた息子もいる。オドザヤの言いたいことの先はちゃんと伝わったようだった。だから、ここまで聞いて、シリルは明らかに狼狽した。
「なんですって?」
シリルの言葉は小声だったが、すぐそばにいるオドザヤにははっきりと聞こえた。
「あの、このことは息子にはもう?」
シリルは、オドザヤが示唆している彼女の腹の中の子供を、もうトリスタンの子であると疑いもしない。彼はオドザヤとウリセス・モンドラゴンの関係は知らないか、そんなことは考えもしないのだろう。
このオルキデア離宮での危ない集まりのことはトリスタンから、オドザヤへの悪口も交えて聞いて知っていたが、それでも女のオドザヤがこう言うからには、彼女の腹の子はトリスタンなのだろう、と決めてしまっていた。
これには、彼のそれまでの人生も関係があった。
ザイオンの王太女であるチューラ女王の長女と、その下のトリスタンの上の二人の兄王子とは、チューラ女王の王配ユリウス殿下の子供である。だが、トリスタンを妊娠した時、チューラ女王はシリルに、「この子はユリウスの子じゃないわ。シリル、あなたの子供です」と、はっきりと言ったのだった。そして、若かった彼はそれをそのままに信じた。そして、トリスタンが生まれると、彼は女王の無名の踊り手上がりの愛人から、シリル・ダヴィッド子爵に変えられたのだ。
実際に、生まれて来たトリスタンは二人の兄とよく似ていたが、緑色の目の色だけはちょっと違っていて、その人工的なガラスのような緑色は、王配ユリウスの目の色ではなく、シリルの目の色に酷似していた。
だから、シリルは女というものは、孕んだ子供の父親が誰かちゃんとわかるものなのだ、と疑いなくそう思っていたのである。
「いいえ。こんなこと、言えやしませんわ。まだ婚約もしていないのですもの。……ですから、私、もうどうしていいのやらわからなくて!」
この言葉の内容ばかりはオドザヤの真実だったので、彼女は心痛むこともなく、演技することもなく言い切ることができた。わっとそこで涙が吹き出て来たのも、自然なものだった。
「この子を産むことなんか出来やしません。周りの者たちは、なんとか秘密裡に産むことも出来るって言ってくれるんですけれど、私は人前にも出なければならない身。とてもとても隠し仰せやしないでしょう? だから、だから……」
オドザヤはちょうどそのあたりまで水の染み込んでいたドレスの膝を、湖の湖畔に落として涙声で訴えた。
「馬鹿な女だと笑ってください。……もしかしたら、もう水はそんなに冷たくはないけれど、もしかしたら、夢みたいにいつの間にか子供が私のお腹から消えていてくれないかと、そんなふうに思ったんです」
オドザヤの本当の父親、サウルが生きていたら、そもそもこんなことは起きるはずがなかった。それに、オドザヤはサウルにはこんな赤裸々に自分の悩みを打ち明けることは出来なかっただろう。
だが、初めて話した、それもトリスタンの父親であるシリル相手には、芝居もあったがここまで自分の本心を吐露することが出来たのだから不思議だった。
そして、こんな降って湧いたようなとんでもない話を聞かされた、シリルの方も普通の感覚の人ではなかった。それはもう、神の采配とでも言うしかなかっただろう。
「……あの。陛下、結論から言いましょうね」
驚いたことに、シリルはオドザヤの言葉をここまで聞かされて、かえって冷静になったようだった。彼は少しも迷うことなく、いきなりこんな話をしたオドザヤに手を差し伸べたのだ。
「私はトリスタンの父親ですから、多分、そのお子さんのお祖父さんにあたるんでしょう。それなら、話を伺った以上、そのままには出来ませんよ。……それで、陛下はまだトリスタンと婚約もなさっておられないんでしたね。確か、皇太后様の喪中であられましたか? それではすぐにトリスタンとご結婚ともいかないでしょう。私は政治のことはてんで分かりませんが、それくらいは想像できます。こんな習慣は街中でも同じですから」
そして、シリルはオドザヤを湖畔の砂の上から引っ張り上げながらこう言ったのだ。
「その子供は、どうか、産んでやってください。トリスタンは陛下のことを、もう自分への関心は無くなられたようだ、とか申しておりましたが、こうなりましたからには、息子はともかく、私が陛下にお願い申し上げます」
その時、シリルは確かに、トリスタンが言っていた言葉を思い出していた。
(まったく、忌々しいね、女なんて。あの女も母上と同じだ。母上は生真面目な女皇帝を手玉にとって、皇配になれと言ってたけど、それも面倒臭くなってきたよ。あの女、あの後何があったのか知らないけど、もう僕へのご執心は失せたみたいだ。普通は最初の男は忘れられないとか言うけれど、あの女に関しちゃ、それは当てはまらなかったね。所詮は庶民出身の女の娘だ。大したもんだよ。今やあの女は手当たり次第に上位貴族の男どもを喰いまくって、都合の良さそうなのを選べるって言うんだろう!)
シリルは若い頃は舞踏団のプリンシパルとして街中で活躍し、女王に気に入られ、ザイオンの宮廷に入ってからは女王の第一の愛人として、表面の華やかさの影にある薄汚いものを見続けて来ていた。だが、それだけに「これだけは守らなければならないもの」とでも言うしかない物事については敏感だった。そこに、シリルの場合には政治的判断などはない。
この男はいきなり何を言い出すのだ、とオドザヤは目を丸くしていたが、シリルの言葉にはそれまでの彼の波乱の人生と、年齢の分だけの重さがあり、オドザヤは口を挟めなかった。
そんなオドザヤの気持ちを知ってか知らずか、シリルは急にまったく別の話を始めた。
「あのね、ちょっと長い話になるんですけど、聞いてくださいね。……こんな歌劇があるんですよ。……『死の舞踏』って歌劇なんですけれども。これはザイオンのものだから、陛下はご存知ないでしょう。不思議なお話なんです。ある貴族の男のところに、召使が見覚えのない夜会服を持ってくるんです。男は『私はそんな服を持っていたか?』って召使に聞くんですが、召使は不思議そうな顔をして、『旦那様、これは一番新しくお造りになった服でございますよ』って言うんです。だから、男もそうだったかな、と思ってしまう。それが、ある夜、夜の舞踏会から戻った男がその服を脱ぐと、脱いだその夜会服が勝手に外へ出て行ってしまうんです。男は夜会服の後をつけて行って、自分の夜会服がさっき行ったばかりの舞踏会で見た、とある御婦人のドレスと踊り狂うのを見てしまうんです。それで、ある夜、彼は夕方からその夜会服を着て夜を待つんです。一緒に踊っていたドレスの持ち主を確かめようと」
オドザヤは、今、実際に自分が月夜の湖畔にいることもあって、どんどんシリルの話に引き込まれていった。
「夜になると、夜会服は男を中に入れたまま、勝手に外へ出て行くんです。ええ、男が抵抗しても敵わないようなすごい力で。そして、男は夜会服の動かすがまま、中身のない御婦人のドレスと一晩中、踊り続けさせられるんです。これが毎夜のように行われ、男はすっかり衰弱してしまう。それでも夜会服を着て夜を待ったのは、もしかしたら御婦人の中身の方も、いつかドレスと一緒に来てくれるんじゃないかと思うからなんです。……男の予想はある夜、実現しました。愛しい御婦人がドレスに引っ張られて現れた時、彼は狂喜します。そして、相手の御婦人も」
シリルの声は、音楽的で発音もきれいだったので、オドザヤはすっかり物語に連れ込まれてしまっていた。
「二人はそれから毎晩、日が沈むと、魂が服に引っ張られるように服を身につけ、夜中じゅう踊り続けたんです。それで、どうなったと思いますか? 夜会服とドレスはくたびれることなんかない。でも、中身の男と御婦人は生身の人間です。二人はどんどんやせ衰えて行きました。それでも、二人は真夜中の逢引をやめられないんです。ある夜、とうとう二人は衰弱しきって、踊りの中で死んでしまいます。それで、中身を動かせなくなった夜会服とドレスは、死んだ中身を振り捨てて、軽くなった姿で、妖しの夜を彷徨うんです。次の獲物を求めて! つまり、この夜会服とドレスは人間の体力と魂を餌にする魔物だったのです!」
ここまで聞くと、自然にオドザヤは身震いした。シリルがこんな話を聞かせる理由がわからなかったから。
「ああ、なんでこんな話を、とお思いですね。あのね、陛下もトリスタンも、今のあなた方は今の話の夜会服とドレスに踊らされる二人の男女なんじゃないかと思うんですよ。中身が死んでしまうまで、外見である服の怪物に踊り狂わされるんです。まさに死への舞踏です。陛下は皇帝、トリスタンは王子。その肩書きがこの物語の服の怪物です。今のままだと、いつか服はあなた方を捨てて、自由勝手に動き出してしまいます」
シリルの言葉は、何かの予言かなんかのようにオドザヤの心にすとんと落ちた。
「私も、トリスタン様も、このままだと大切な中身を殺してしまう、って言いたいの?」
オドザヤがそう聞くと、シリルはにこりと微笑んだ。
「そうなのかな。私は今、『死の舞踏』の話をしましたが、私は馬鹿だから理由はよく分からないんです。ただ、陛下やトリスタンのことを考えていたら、この歌劇の物語が頭に浮かんだだけで」
そう言うと、シリルはオドザヤを湖畔の砂の上にそっと座らせると、自分の上着を脱いで彼女の肩にかけてやった。
「ああ、物語の筋だけじゃあ、まだ全部、伝わらないんだなあ。私に出来るのは踊りだけだから、ちょっと踊って見せましょう。歌劇ですが、昔、私のいた舞踏団で振りをつけて興行したことがありましてね。あの興行は大成功だったから。音楽がないけれど、しょうがない。服に狂ったように踊らされている苦しげな男のところと、とうとう、男が死んで、服が男を放り出して軽々と踊りながら消えて行くことろまでをやってみましょう」
そう言うと、もうシリルは踊り始めていた。足元が湖畔の砂地だから、踊りやすいはずがない。なのに、その踊りはまざまざとオドザヤに「死の舞踏」の世界を、服に取り付いた魔物の恐ろしさを見せつけたのだった。
そして、それからオドザヤははっきりと自分の意思で動き始めた。
この子供を産む。
数日後、オドザヤは皇宮へカイエンを呼び出すと、毅然とした顔で、そう言ってのけた。
「お姉様、私は決めました。このお腹の子供が誰を父親にしていても、私には関係ないことです。この子には関係があるでしょうけれど、分からないものはもうしょうがありませんわ。でも、私の都合でこの子の命をどうこうするわけにはいきません。この子は多分、私の子として育てることは出来ないでしょう。でも、もしかしたらお祖父様に当たるかもしれない方が引き受けてくださると言うんですの」
この言葉に、カイエンはえっと言葉を失った。特にオドザヤの言葉の最後のところだ。お祖父様に当たるかもしれない方、って一体……。
そばに侍っていた女官長のコンスタンサ、そして誰にも聞かれることがないよう、部屋の警備をしているブランカとルビーは、すでにこの話は聞いていたのか、納得はできかねると言う顔をしながらも黙っている。
そこで、オドザヤはカイエンに昨夜の出来事を、シリルが「その子を産んでほしい」と言った話の前後もしっかりと話した。自分はこの子供がトリスタンの子である、間違いない、とシリルに思わせようとしたが、シリルには多分、本当のことも分かってるだろうとも。
「お姉様、シリル様は近いうちにザイオンの外交官官邸を出て、ただの街の踊り手に戻るつもりだ、とおっしゃいました。トリスタン王子が何を言っても、もう息子はいい大人だし、教えることはもう全部教えたので、一緒にいる必要がなくなったから、って」
カイエンはトリスタンが踊り子としてこのハウヤ帝国に潜入してきたことも、父親のシリルが元、舞踏団のプリンシパルだったことも知っていたが、このオドザヤの言葉にはびっくりした。
「教えることは全部教えた、もう一緒にいる必要はない、と言うのはどういう意味でしょう」
カイエンがやっとのことでそう聞くと、オドザヤは柔らかい顔で微笑んだ。
「そのお話をしていた時に、ここのブランカとルビーが私たちを見つけてしまったので、二人も一緒に聞いているんですけれど、シリル様がこのハーマポスタールへいらしたのは、トリスタン王子にまだ教えていない踊りがあったからなのですって。あの方、子供の頃からトリスタン王子に、ご自分の知っている踊りを教え続けて来られたそうです」
「まだ、教えていない踊り?」
カイエンが鸚鵡返しにそう言うと、オドザヤはふわっと窓の外の五月の青空を見上げた。
「それが、火の鳥の踊りだったそうです。その踊りの振りをもう、シリル様はトリスタン王子に教え終わったところだったそうなんです。だから、もういいんですって」
「もういい?」
カイエンは何がもういいのか、分かるような分からないような中途半端な気持ちだった。
「ご自分が息子であるトリスタン王子に教えることはもうなくなったし、元からザイオンのチューラ女王の後宮にいたのはトリスタン王子がいたからだけだったそうで。トリスタン王子は近いうちにハウヤ帝国の皇配になるのだろうし、それを見届けたら、ご自分はもう自由になりたいので、その旨、トリスタン王子に言って、もう宮廷とかには関わらずに生きていきたいそうです。それには、私たちハウヤ帝国の側の理解も必要なので、私が秘密裡にトリスタン王子の子かもしれない子供を産むのなら、その養育を引き受けて、私どもからのもザイオン側からのも、政治的な干渉は受けたくない、と言っておられました」
それでは、オドザヤは秘密裡に出産し、その子はこのハウヤ帝国の世継ぎとはせず、街中で育てさせると言うのか。
「お分かりだと思いますが、そんなことが実現するとして、そうしますとお子様はシリル・ダヴィッド子爵……ではもうないのか……の自由のための人質、ということになりますね」
カイエンがやっとのことでそう言うと、オドザヤは微笑んだままこう言った。
「そうですわね。でも、それでもいいのです。私は、とにかくこの子を、皇帝としての私の地位を揺るがすことなく、産むことだけを考えます。それには、ここにおられるお姉様や、コンスタンサ、ブランカ、ルビー、あなた方の協力が必要なのです」
オドザヤはそこで椅子に座ったまま、深々と頭を下げた。
「今は国難の時。その上に、お願いします。もとより、今度のことは皇帝という地位にありながらおかした、私の浅慮がもたらしたこと。それは重々、承知しています。それでも、私はあの『死の舞踏』の夜会服やドレスに踊らされたまま死ぬ男女にはなりたくない」
ここでオドザヤは、きっと顔をカイエンの方へ向けた。
「お姉様。私はリリの半分かもしれない、お姉様の……のこと、エルネスト殿下から聞きました。だから、だからこそ、わたくしは……!」
カイエンはシリルがオドザヤにした話、というのは話半分以下に聞いていた。
オドザヤの言うように、そんな都合のいいことが実現するとしても、オドザヤの子をシリルに任せっきりに出来るはずもない。カイエンが堂々と自分の養子にすることは、オドザヤの出産を公表することになるから出来ないだろう。でもその時、カイエンはオドザヤの子は自分と大公軍団で守ろうと、決めた。シリルが街中で踊りで稼ぎながら子供を養う、それには幾重もの手助けが必要になる。そして、ハーマポスタールの街中の治安を守るのは、大公である彼女の勤めだ。
なんとか、安全な地域に住まわせるとか、密かに誰かに見守らせるとかしてやることは出来るだろう。
それに、オドザヤの話の中に出てきた、もう一つのものがカイエンには気になっていた。
オドザヤはオルキデア離宮の側の湖の、「白い睡蓮の花」の中に入って行ったところで、シリルに会った、と言っていた。
白い睡蓮。
それはカイエンとリリ、そしてあの喪われた子供が共有していた夢の中にあった花だ。
あの淀んだ沼の中に、咲いていた花だ。そこに、カイエンは何か「縁」のようなものを感じていた。あの夢の中の白い睡蓮が、オルキデア離宮のそばの湖に咲く白い睡蓮に、どこかで繋がってるような気がしたのだ。
「わかりました。その、シリル殿の言われたことはともかく、お子様のことは私も必ず守ろうと思っておりました」
ここで、カイエンはなんとはなく、ふふ、っと笑ってしまった。
「私は陛下がきっと産むとおっしゃるだろうと思って、もう、色々と案を練っていたのですよ」
カイエンはその場の重い雰囲気を吹き飛ばすように、話を先へと進めて行った。
「お腹が大きくなって来られたら、いくら布で抑えてもどうにもなりますまい。あの、産婆のドミニカ・ホランとも話したのですが、ハウヤ帝国風のドレスはその点では不都合です。前にせり出したお腹を隠すにはシルエットが体の線にぴったりしすぎている」
カイエンがこう話し始めると、オドザヤもコンスタンサも、鳩が豆鉄砲を食ったような顔になった。それはそうだろう。こんなふうに先へ先へと考えているカイエンの方がおかしいのである。
「そこで、私は私の服を任せている仕立て屋のノルマ・コントに相談しました。もちろん、陛下のことなどおくびにも出しておりません。ただ、太ってきたのが気になる婦人が体型をごまかすには、どういう意匠がいいのか、と聞いたのです」
「それで?」
最初に立ち直ったのは、さすがに仕事熱心というか、仕事だけに生きている女官長コンスタンサだった。
「それが、一番いいのはベアトリア風のドレスだと言うんですよ。あれは胸元を抑えた固い前身頃が、膨らんだスカートに繋がった意匠でしょう? 腰の切り替えの部分もハウヤ帝国のドレスよりもやや上の方なので、普通の娘でも妊娠した女性のようにふっくらした形に見えます。そこが野暮だと、この国では揶揄するんですけれどもね。布地も厚地の絹が使われていて、袖も肘まで膨らんだ形がベアトリア風です」
「ですが、皇帝陛下御みずから、ベアトリア風のドレスをまとわれる訳にはいかないのでは……」
遠慮がちに言ったのは、ブランカだった。カイエンは、ブランカの方へ向いて、柔らかくうなずいた。
「それはその通りだ。だから、今からこのハウヤ帝国、帝都ハーマポスタールにベアトリア風のドレスの形を流行させるよう、工作するのだ」
カイエンが鼻息も荒くそう言い切ると、そこにいたカイエン以外の女たちは、一瞬、何を言われたのか分からない風だった。
「陛下のオルキデア離宮の件で起こりかけた噂を消すために、私がとんでもない記事を読売りに書かせただろう? まあ、全部でっち上げどころかほとんど真実だったので、話に尾ひれがどんどん後付けされて、今も帝都の上流階級から下町の人々に到るまで、大人気の噂話だ。他人の色ごとだの醜聞だのという話題はお菓子よりも甘くて美味しいらしい」
カイエンはこのことを考えると頭痛がしてきそうだったが、ぐっと我慢した。
自分の地位や名前が汚れるのにはもう、何の躊躇もない。あの記事が出た後には、大公殿下の夫君エルネスト殿下がかわいそう、という声が大いに上がり、エルネストは何だか嬉しそうだったが、彼はすかさず悪所に入り浸って「なーんだ、夫の皇子殿下も同じなんだー」という話が工作せずとも奇譚画報に出たので、「大公殿下ご夫妻、不仲どころかお互いにご乱行の日々」という感じで面白おかしい話題を提供している。
「要はあれと同じです。こちらから仕掛けるんです。皇宮には先帝の第三妾妃のマグダレーナ様がいらっしゃるので、それほど不自然な流行ではないでしょう。ドミニカ・ホランが言うには、ご出産は十一月半ばから下旬とのことだから、夏が終わる前に流行させればいい。出来ますよ」
カイエンがそう言い切ると、オドザヤは気が抜けたように自分の居間のソファに身を投げた。
「……お姉様は、私がこの子を産むと言うと確信しておられたんですわね」
カイエンはここではにこりともしなかった。今度のことは、オドザヤの不注意、で済まされる話ではない。トリスタンと関係したオドザヤは初心な乙女だったが、それ以降のモンドラゴン以下の男どもとの関係はオドザヤの意思と責任で行われたことだ。
「いいえ。そうでない場合のこともちゃんと考えておりましたよ」
自分だって、産むか産まないか自分で決められたのなら、あのままエルネストとの間に出来た子を、積極的に産もうとはしなかったかもしれない。あの時の彼女にとって、エルネストは単なる加害者でしかなかったから。
「ドミニカ・ホランは、陛下に堕胎に確実な方法はない、と言ったと思います。ですが、ドミニカ・ホラン自身は頼まれれば、危険をよく話した上でそういう手術もしているのです。……私がドミニカ・ホランに陛下を診させたのは、彼女がきれいごとだけでない世界を生きてきた産婆だからです。そして、生かすにも殺すにもいま現在、最高の腕を持っているからです」
ここまで言うと、カイエンはさすがにオドザヤの気持ちや体調を考えて、きつい言葉をおさめた。
「陛下。御心が決まりましたなら、もうそれで進めていくだけです。後は、来週の皇太后陛下のご葬儀が済み次第、トリスタン王子との婚約を発表されることです」
カイエンがそう言うと、オドザヤの方も負けないぞ、とでも言うように顔を引き締めた。それはもう、覚悟の決まった女の顔だった。
「お母様の喪中に婚約を発表する理由はどうしますの?」
カイエンはにやっと笑って見せた。
「スキュラのことではザイオンに仕掛けられましたが、今度はこちらから仕掛ければよろしい。おそらく、ザイオンは近々、軍勢をシイナドラドとの国境へ出してくるでしょう。螺旋帝国はザイオンにそう働きかけているはずだ。それに合わせればいいかと」
オドザヤの方も、カイエンの言葉を聞くと、この頃身につけた妖しい微笑を頬に浮かべて見せた。
「ああ。婚約発表と一緒に、ドラゴアルマを東へ動かしますのね?」
カイエンはオドザヤに向かって「よく出来ました」とばかりにうなずいて見せた。
「皇太后陛下のご葬儀のために、急遽、このハーマポスタールまで上がってこられた、バンデラス公爵がおかえりになる時に、アマディオ・ビダルのコンドルアルマを付けて南下させるのも良いかと思います」
カイエンはこう言いながら、バンデラス公爵がアイーシャの葬儀に駆けつけて来た理由を思って、苦笑した。
オドザヤの即位の前に開かれた、元老院大議会のためにやって来たバンデラス公爵が、大公宮での送別会で自ら暴露した、アイーシャへの想い。
もしかしたら、アイーシャをもっとも熱烈に、熱愛していたのは、あの男。ナポレオン・バンデラス公爵だったのかもしれない、と思えば、先帝サウルがあれほど遺言書でバンデラス公爵を恐れていたのがおかしくてしょうがなかった。
そして、カイエンはそこでふと思いついたことがあった。バンデラス公爵の気持ちをこのハウヤ帝国に繫ぎ止めるための最後の一手があることに気が付いたのだ。
それは最後にバンデラス公爵に会った頃、去年のオドザヤの即位前の元老院大議会の頃のカイエンだったら、「あざとい方法だ」と思ったに違いない。だが、今の彼女はそれをするのに何の躊躇もなかった。
ただ、それを実行するには、彼女の大公軍団を取り仕切る、イリヤに話をする必要があった。
彼とは先日の読売りに醜聞を書かせた、あのアポロヒアでの一夜以降、一言も話していない。これはヴァイロンとも同じだった。ヴァイロンとは仕事が終われば、夕食の席や寝室でも一緒だが、カイエンは徹底的に彼を無視するという、まあ大人気ないことではあるが「お仕置き」を続けていた。
あの夜、
「めんどくせえが、そろそろ赦してやるしかないか……」
オドザヤの居間から下がる廊下で、カイエンはそう呟いたが、先導していた賢明なる女官長コンスタンサは、何も聞こえない顔を貫いていた。
カイエンがイリヤを彼女の大公宮表の執務室へ呼び出すと、イリヤは、
「あらぁ、殿下ちゃんにはもう俺ちゃんを赦していただけるのぅ」
とかニコニコ全開で言いながら部屋へ入ってきたが、カイエンの言葉を聞くと、難しい顔になった。
「えー、そんなことに
イリヤが難しい顔をしながらも、話を先へ進めているのは、カイエンがこうと言い出したら引かないことをもう、知り尽くしているからだろう。
「申し訳ないが、お前とシーヴでやってくれ。私ももちろん、立ち会う。
カイエンがイリヤを通じて、こっち側に引き入れたばかりの
カイエンがオドザヤの居間で話しているときに思いついた、「バンデラス公爵の気持ちをこのハウヤ帝国に繫ぎ止めるための最後の一手」とは、アイーシャに恋していた彼、それゆえに正妻を持たなかったあの男、船に飛び乗ってアイーシャの葬儀に駆けつけたあの男は、最後にアイーシャの死に顔を見たい、と言うのではないか、いや、きっと言うに違いない、ということだった。そして、三大公爵の中で一人だけ参列することになる彼のその要望は、簡単には跳ね除けられないだろう、と言うことも。
彼は先帝サウルの葬儀と元老院大議会のために、去年、ハーマポスタールを二十年ぶりに訪れている。だが、その時にはもうアイーシャはリリを産んだ後の狂乱で寝たきりの病人となっており、彼はアイーシャの顔を見ることなく、モンテネグロへ帰って行ったのだ。
カイエンはお見送りの夜に、まあ、なんとか見られるという程度までには化粧で復元されたアイーシャの顔を見ているが、あれをバンデラス公爵に見せるのは、さすがに抵抗があった。見せたら逆効果にさえなるかも知れない。あそこまでアイーシャを追い込んだ非道の娘達、と言う目でカイエンやオドザヤを見るようになられでもしたら。そうなれば、ハウヤ帝国の南方は近い未来にラ・ウニオン共和国の側に付いてしまうかも知れない。バンデラス公爵ナポレオンの長女、エンペラトリスの母親は、元は大海賊のラ・ウニオン共和国の
密かに地下牢から、カイエンの前に引っ張ってこられた
もちろん、
「出来るか」
カイエンがそう聞くと、
「出来ますよ。元の顔さえ見たことがあればね。でも、俺はその皇太后とやらの顔は見たことがないし、肖像画から作ってくれ、って言うんなら、ちょっと難しいことになりますぜ。立体感が分からないんじゃ、貼り付けたお面みたいになっちまう。……ああ、そうだ。今の皇帝陛下ってのは皇太后にそっくりなんでしょう? まあ、年齢の違いはあるかもだけど、皇帝陛下の顔を見せてくれれば、作れると思いますぜ」
悪くともその道の専門家だけあって、
「皇帝陛下には、会わせるわけにはいかない」
カイエンがきっぱりとそう言うと、
「今度のこの話は、ある男に本当の皇太后陛下の死に顔を見せるわけにはいかないからなのだ。だから、その男の目に在りし日の皇太后陛下のように見えればいい」
ここでカイエンは、あの日のことを思い出していた。
モンテネグロへ帰るバンデラス公爵の送別会をこの大公宮でした時、彼が一時的な熱狂の中で言っていた言葉を。
(これだけは申し上げておきましょう。……申し上げておかないといけない気がするのです。私はオドザヤ皇帝陛下にも、大公殿下にもお会いしたが、私はアイーシャ様にあんなに似ているオドザヤ陛下からは、あの方の気配をついぞ感じなかったのです)
(あの方をより感じたのは、不思議なことに、外見は全く似ておられない大公殿下、あなた様にお会いした時だったのです。だから、最初はびっくりいたしました)
「その男は、皇帝陛下よりも、顔形はちっとも似ていない私の方に、皇太后陛下の気配や存在感を感じた、と言っていた。だから、お前は皇太后陛下の一番似ている肖像画と、ご本人の実際の骨格、それから私と皇太后陛下と共通している、とあの男が言っていた気配とやらを元に、顔を作るのだ」
皇帝のオドザヤと、大公のカイエンが実は母を同じくする姉妹で従姉妹ということは、もちろん庶民には知らされていない。だから、カイエンがアイーシャの娘だと
「……出来ないとは言わせないぞ。いいか、これがお前の大公軍団での初仕事だ」
カイエンがそう言うと、
「まあ、いいでしょう。そういう条件付きは初めてだ。やってみましょうよ。やらなきゃ、今からでも俺の首は飛んでっちまうんでしょう?」
これにはイリヤが答えた。とてつもなく楽しそうに。
「あら、そうは簡単に死ねませんよ、あんたは。まずはノコギリ引きからかしらねぇ」
これには、さしもの
「では、明日にでも皇宮の地下葬祭殿へ連れて行く。期限は一日限りだ。いいな?」
「おお、あの時のままだ。おやつれになってはいるが、眠っていらっしゃるとしか思えない」
アイーシャの死に顔を見ることを許された、ナポレオン・バンデラス公爵の声は涙と感激に震えていた。皮肉極まりないことであったが、そこに集まったこのハウヤ帝国の高貴な人々の中で、アイーシャの死を本当に悲しんでいたのは、彼一人だったかも知れない。
その日。
皇太后アイーシャの葬儀は、皇宮の地下の葬祭殿で、サウルの時と同じように、子爵以上の貴族の当主夫婦が連なって行われたが、埋葬の方は、皇帝の親族のみで行われた。
三大公爵の中で一人だけ参列したナポレオン・バンデラスは、カイエンとエルネストに続いて死者との最後の対面を許された。もちろん、これは彼の方から言い出したことで、カイエンの予想通りだった。
肖像画とカイエンの顔を見比べながら、黙々と手を動かしていた百面相シェン・マスカラスは、最後に感心したようにこう言ったので、カイエンは長年の謎が解けたような気がした。
「なるほどねえ。鼻と、頬骨のあたり、それと額の両側の形が、大公さんとこのお方、似ているんです。でも、額の秀でた感じとか、髪の生え際の形、眉から目、口元は全然、違う。だから、一見すると全然似てないんだけど、光の加減かなんかで髪の色や目の色が見えなくなると、見た時の印象ががらっと変わるのかもしれねえですね」
そんなものか、とカイエンは思ったが、出来上がりを見たオドザヤもコンスタンサもびっくりしていたし、カイエンも美しさを取り戻したアイーシャを見れば、あの瘦せおとろえ、老婆のように見えたアイーシャの顔を記憶するよりは、この全盛期の美しさを残した顔の方を覚えていた方がなんぼかはマシだ、と思わずにはいられなかった。
バンデラス公爵は、オドザヤとカイエンに、自分の我がままを聞いていただけて感謝する、今後も、ハウヤ帝国の南方の守護は任せてほしい、と強い声で言い切った。
オドザヤと宰相のサヴォナローラ……この頃には彼にもオドザヤの懐妊が知らされていた……は、しばらくハーマポスタールに滞在すると言う彼に、帰りにはアマディオ・ビダルのコンドルアルマを同行させることも承知させた。モンテネグロからの海路での帝都ハーマポスタールとの連絡はバンデラス公爵家の帆船を使い、コンドルアルマにはモンテネグロ山脈を迂回する街道沿いに連絡網と駐屯場所を展開させることとしたのだ。
同じことは、今後、東側のクリストラ公爵領との間でも、ドラゴアルマによって行われていくはずだった。こっちはパナメリゴ大陸最大の街道、パナメリゴ街道のことだから、カイエンがシイナドラドへ行った時に、すでに宰相のサヴォナローラによって、アストロナータ神殿の武装神官と皇宮の影使いたちを中心とした、連絡経路が出来上がっていたが、それを強化しようというものだった。
北からザイオン軍がシイナドラドへ南下してくるとなれば、シイナドラドをほぼ手中に収めている螺旋帝国を後ろ盾にした反政府軍のこともあり、ハウヤ帝国とシイナドラドに挟まれたネファール、ベアトリアも何がしかの動きをするに違いなかった。
オドザヤの異母妹、カリスマを王太女にしているネファールはシイナドラドと領土を接している。何か起こった時には、クリストラ公爵の軍勢には国境を守ってもらい、ドラゴアルマを国外へ出すしか無くなる可能性もあるだろう。
一方、北のスキュラでは、元スキュラ元首夫人で、アルタマキア皇女を監禁し、自らスキュラ女王を名乗ったイローナと、彼女の兄、マトゥサレン島の大惣領がドネゴリアで絞首刑になった。その後、フランコ公爵は、スキュラを平定したのち、サウリオアルマを残して一度、ハーマポスタールに戻って来た。
イローナがザイオンとの間の約束、大森林地帯に泥炭の販路を秘密裡に構築し、その後にハウヤ帝国から離れる、という約定を破り、勇み足としか思えないアルタマキア皇女の監禁、一方的な独立宣言を行った理由は、処刑前にイローナから聞き出されていた。
だが、それはザイオンではないところから、一人の使者が彼女の元を訪れ、それによってイローナは急に考えを変えたのだ、ということだった。これは、帰国したアルタマキアの証言からも裏付けられた。
(ああ。あの方がよもや我らに微笑んでくださるとは! あんなに素晴らしい方、麗しくも冷たい、
アルタマキアは、あのマトゥサレン島に近い寒村の彼女が監禁されていたところまでやって来たイローナが、不思議な言葉をうっとりとした顔で言っていたのをちゃんと覚えていたのだ。
「あの方、ってのはまさか……?」
カイエンやサヴォナローラの頭に浮かんだのは、もちろん桔梗星団派の手の者、それも党首のアルウィンではないか、ということだった。だが、スネーフリンガといえば、ハーマポスタールに送り込まれたザイオンの奇術団、コンチャイテラの魔女、つまりは元アルトゥール・スライゴ侯爵夫人ニエベスのことだ。
イローナをそそのかしたのがザイオンであるはずはない。と、なれば疑われるのは桔梗星団派だが、彼らとてイローナの勇み足の結果は見えていたはずだ。
「こういう時は、よく、最後に得をした者を疑えっていうけどな」
カイエンはオドザヤとサヴォナローラの前でそう言ってみたが、それはオドザヤもサヴォナローラも一度は考えたらしく、彼らは一様に、曖昧な顔を見合わせるしかなかった。
得をした者。
それは間違いなく、テオドロ・フランコ公爵である。
彼はスキュラ全域を自分の領地とすることを許されたのだから。もちろん、フランコ公爵家では、自らの軍勢をスキュラとの間の半年以上のにらみ合いの間、ずっと維持し、その間の軍事費を自腹を切って出している。だが今後、北方へ駐屯させるサウリオアルマの費用を半分出す、という条件があっても、泥炭と石炭の埋蔵地であるスキュラを自領に出来るなら旨みの方がはるかに多いに違いない。
「フランコ公爵は上品で姿の整ったお方ですが、『麗しくも冷たい』とか言って、いい歳の中年女が頬を染めるような方には見えませんですしね。それに、アルタマキア様の証言では、イローナはその方が『遠いハーマポスタールにいる』と思い込んでいたわけでしょう? となると……」
サヴォナローラはそう言うと、なんとも解せない、とばかりに首を振った。その様子を見ながら、カイエンはふと、思いついて、自分でもおかしなことを言っているな、と思いながらこんなことを話す気になった。
「あんなに素晴らしい方、麗しくも冷たい、
カイエンがそう言うと、オドザヤはともかく、サヴォナローラははっとした様子になった。
「まさか……。いいえ、前にも殿下にはお話しいたしました。私は自ら、あの賜死の後、あの男の死骸を確かめております。ですが、ですが……」
アルトゥールの妻のニエベスと、恐らくは彼ら二人の子であるアルットゥは、ザイオンの奇術団コンチャイテラの一員としてハーマポスタールに現れた。そして、彼らの出し物は幼児のアルットゥが大人の男の声で失せ物探しをする、というものだった。そして、その声とは父親のアルトゥール・スライゴの声だったのだ。
「まあ、今の所、あいつが生きているのか、やっぱり死んでいるのか、確認するすべはない。モリーナ侯爵邸で捕まえたコンチャイテラの連中は、ザイオン人の本物の奇術団員ばかりで、そっちの情報はさっぱりだったからな」
あのアルトゥール・スライゴが生きているとすれば、間違いなく彼は桔梗星団派の一員として動いているに違いない。とすれば、イローナの件はやはりアルウィン達の示唆によるもの、と当面は思うしかなかった。
そうして。
ハウヤ帝国の東と南北に三つのアルマが派遣されると、南のラ・ウニオン共和国とモンテネグロのバンデラス公爵家との間には、とりあえずの協調路線が約束され、東ではシイナドラド国境に南下してきたザイオン軍が動きを止めた。
ベアトリアは静観を選んだのか、一切、ベアトリア国軍は動かさず、ネファールでもシイナドラドとの国境線上に自国軍を配備したまま、動きは止まったように見えた。
五月、六月、と季節は進み、その間に異例のことではあったが、皇太后アイーシャの喪中にも関わらず、オドザヤとトリスタンの婚約が発表された。
そして、夏にはなぜかベアトリア風のドレスが裕福な商人の妻や娘、そして貴族階級の中で流行し始め、ベアトリアの第一王女で、先帝サウルの第三妾妃マグダレーナはこの年の最新流行の担い手として注目を浴びた。ベアトリアでは不審に思う向きもあったようだが、オドザヤやカイエン達は付け入るような隙は見せなかった。
そして、十一月。
夜半、もう予定日をすぎていたため、密かにオルキデア離宮へ入っていたオドザヤに陣痛が始まり、すでに前もってこの離宮に集められていた関係者達は、息を詰めてその瞬間を待っていた。
オルキデア離宮の警備は、本来は親衛隊がするべきだったが、この時ばかりは親衛隊からは隊長のモンドラゴン子爵のみが呼ばれ、他は大公軍団から選抜された、名前を並べると異様としか言うしかない顔ぶれが、離宮の警備に当たっていた。
離宮の出入り口を守っていたのは、治安維持部隊の双子の隊長の一人、弟のヘススと帝都防衛部隊隊長のヴァイロンで、湖の側にはモンドラゴンと大公軍団軍団長のイリヤが配備されていた。他には闇の中に影使いのナシオとシモンが隠れているはずだった。
離宮の中では、大公宮の執事であるアキノと侍従頭のモンタナ。それに女中頭のルーサとカイエンの乳母のサグラチカまでが見回りに当たっていた。
オドザヤの産室となった窓のない部屋には、産婆のドミニカ・ホランと、
皇宮の方には、女官長コンスタンサと宰相のサヴォナローラがオドザヤの不在に不審を抱かれぬよう、残っていた。後宮の女性達や、アルタマキア皇女には、ベアトリア王女であるマグダレーナに知られぬ用心から何も知らされてはいなかった。
大公宮の方に残ったのはエルネストとヘルマンの主従とマテオ・ソーサ、それにガラで、こっちはカイエンの不在中に何かあった時の対応要員だった。
オドザヤの出産は、初産であるにしては安産で、明け方にオドザヤの最初の子供は産声を上げた。
すぐにその子はカイエンの乳母のサグラチカに抱かれ、大公宮の女中頭のルーサが付き添って、離れた場所に止めておいた馬車で大公宮へ向かう。そこでは、つい最近、母親になったばかりの大公宮の後宮を守る女騎士の一人であるナランハが自分の赤子と共に待っていた。
オドザヤの出産が秘密裡に済んでも、乳をやる女がいない、とカイエンたちが悩んでいた時、何も知らない女騎士のナランハが、「実はかねてより大公宮の侍従の一人と恋仲になっており、結婚の約束をしていたところ、妊娠していることが分かった」と言ってきたのだ。
その時、カイエンは確信出来た。
オドザヤの初子はちゃんと育てていける、と。
「陛下、これで私も、そしてリリなどは二歳にもならぬうちに伯母さん、叔母さんになってしまいましたよ」
カイエンはそんな風に声をかけたが、オドザヤは、自分の初めての子供を、ほんのひと時しか見られず、腕に抱いたのもほとんど一瞬だった。
カイエンはオドザヤのそばにいたが、その子供の髪の色が、かなり濃い色なのに気が付いた。それはオドザヤも同じようで、彼女は赤子がサグラチカに抱かれて大公宮へ連れて行かれた後、産婆のドミニカ・ホランに処置されながら、枕元に座っているカイエンにこう言った。
「……お姉様。あの子、お姉様やお父様に似ているのかもしれないわ。ええ、お姉様、私もずっと出産とか育児とかについてはドミニカ先生に聞いて勉強しましたの。私は育てられないけれど、それでも知りたかったから。赤ちゃんの髪の色って、大人になるに連れて変わることもあるんですってね。でも、私、なんかわかる気がするんです。あの子、きっとお母様や私じゃなくて、お姉様やお父様、リリに似ているに違いないわ」
カイエンは、オドザヤの出産がどうやら無事に済んだことに安堵していて、オドザヤのそんな言葉には本当のところ、あまり注意がいかなかった。
カイエンがオドザヤに必ず聞こう、と思っていたのは、別のことだったから。
「陛下。……お名前はどうしますか」
カイエンがこう聞くと、オドザヤは憔悴した様子ながら、はっきりと答えた。
「お姉様、お姉様は私に、あの本……螺旋文字の、お姉様が昔、夢中になって読んだ本を貸してくださいましたわね?」
カイエンはうなずいた。カイエンはオドザヤに、あの本、死せる彼女の師、頼 國仁が自殺した時に残したメッセージの込められた本、彼がカイエンとマテオ・ソーサに意識的に読ませたのであろうあの本、「失われた水平線」を読ませたのだ。それも、頼 國仁が最期に残した初版本を。
「あの時から私、生まれてくる子は男の子じゃないか、と思っていましたの。それは本当でしたわ。やっぱり、お姉様はすごい方なのね」
オドザヤの初子は、男児だった。本来なら、このハウヤ帝国の皇太子となるべき子供なのだ。
「ふふ、さすがに
カイエンはうなずいた。
シリル・ダヴィッド元ザイオン子爵は、今、大公宮に近いあの
「踊り手としての才能は確かなようで、それなりの稼ぎがあるそうですよ。旧知のオリュンポス劇場も手を貸しているようですし」
カイエンがそう言うと、オドザヤはもう疲れて眠りそうになっている体に鞭を打つようにして、カイエンにこう言った。
「だから、あの子の名前、もう決めておりました。……どう考えても、これ以外は思いつきませんでしたの」
オドザヤの青白い唇の動きを見ながら、カイエンはそっと産婆のドミニカ・ホランの方へ目を向けた。
ドミニカ・ホランは、「大丈夫」とはっきりとその顎を引いて見せた。オドザヤも子供も、今の所は大丈夫なのだろう。
「アベル・フルトゥーロ、と名付けてやりたく思います……」
そう、カイエンに言うと、もうオドザヤは出産の疲労の中、意識を失ってしまっていた。
「アベル、それに
カイエンはその名前を何度も口の中で発音し、音を確かめた。
「いい名前だ」
「失われた水平線」の中のアベルは、ほんの些細な失敗から楽園を追放された王だ。だが、彼はそれを嘆くこともなく、外の世界で生き続け、力を付け、その後、守護神を失い崩壊してしまった楽園を取り戻すのだ。
「アベル。お前はこのハウヤ帝国の主人にはなれないかも知れないな。でも、きっと新しい時代に新しい国を築く事が出来る男になるんだろう」
この時、カイエンに未来が見えたわけではない。
でも、実の母のオドザヤには申し訳ないが、しばらく大公宮でアベルの世話が出来るのは、何だか嬉しかった。
もうすぐ二歳になるリリは、最近になってやっと歩けるようになった。きっと、歳の近い甥っ子に夢中になるだろう。
「……いつまでも子供のような気持ちでいたが、もう、私も陛下も、子供を持つ歳になったのだ。時というものは、確実に前へ前へと我々を引っ張って行くのだな」
オドザヤの出産は、完全に秘密裡に済まされた。
乳離れすると共に、アベルは大公宮から出され、彼の祖父「かも」知れない異国人に託された。
そして、時代は人々の想いなど関係なく、ただただ前へと進んでいくのだった。
第六話「失楽の王」 了
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