◆◆◆ 閑話・1 ◆◆◆「大公殿下の後宮で皇子様と朝食を」

※「小説家になろう」のR18版「ムーンライトノベルス」に、R18部分の入った完全版がございます。ご興味のある方は検索で……どうぞ。


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 ハウヤ帝国帝都ハーマポスタール。

 その皇宮とは違う高台に建つ、大公宮の裏庭は、その昔、大公宮の建つ前には、神殿の修道院があったとところだ。

 夏ならば、今も残された、白い壁の近くには真っ赤なブーゲンビリアの花垣が囲み、噴水や池の翡翠色の水の中には青紫色や白色の睡蓮が花咲く。

 オレンジ色と紫色の極楽鳥花の周りには、青いハチドリが何羽も舞っているだろう。

 だが。

 今はもう、十一月。

 真っ白な大理石の囲む、未だ壊れることなく水を吹き出す噴水の周りにも花々はなく、ハチドリの姿も見えない。

 それに、今はもう夜だ。


 大公宮の奥、青銅の大扉の奥にある後宮の新しい住人となったアルフォンシーナ。

 あれから数日も経たないうちに、ついこの間まで、彼女を身請けするはずだった彼女の旦那、コンドルアルマの将軍、マヌエル・カスティージョの醜聞が読売りに載った。

 その後のことは、大公宮の後宮に閉じ込められた形の彼女にとっては、伝聞でしかない。だが、聞かせてくれる相手が、大公宮の住人たちなのだから、間違いはないだろう。

 アルフォンシーナにとっては、急転直下の出来事の連続で、一週間のうちに、彼女の身の上は全然変わったものになってしまった。

 彼女に入れ上げ、金を使い、旦那として面倒を見てくれていたカスティージョ伯爵。アルフォンシーナは客としての彼には、まあ、その性癖ゆえに「面倒くさい客」ではあったものの、感謝していることには変わりがなかった。

 娼婦の「旦那」というのは、中級以上の娼館で使われる言葉で、決まった娼婦の季節ごとの衣装や、装身具、祭事などの折の費用などを出してくれる「特別なお客様」のことだ。

 いわゆる「お大尽遊び」というもので、「そういう金の使い方ができる」という身分を誇り、「自分のおんなにこれだけの金がかけられる」ことを誇示するもの。つまりは、自らの社会的な地位を満足させるための遊びである。

 だが、色街では、この「旦那」がいるといないとでは、大きな違いがある。

 旦那のいない娼婦は、どんな高級娼婦であっても、おのれの高価な衣装や装身具の掛かりは「自己負担」となるのだから。

 借金を返しながら、豪華な衣装や装身具に金を払っていたら、いつまでたっても年季は終わらない。

 だから、アルフォンシーナにとって、「旦那」として面倒を見てくれただけでなく、身請け話まで申し出てくれた、カスティージョは「本当にありがたいお客様」だったのだ。


 そう。

 あの、奇天烈な人たちが絡んでくるまでは。


 今、アルフォンシーナは、大公宮の裏庭に立ち、宵の星空を見上げている。

 十一月の夜だから、もう吹いてくる風は冷たい。だから、アルフォンシーナは今いる部屋の寝台から、一番薄い毛布を取って、体に巻きつけるようにしている。 

 アルフォンシーナは、もう何年も、星空、というものを見上げたことがなかった。

 十代の初めに娼館に入った日から、日が落ちたらもう、朝までずっと「お仕事」の時間だったから。

 だが、ここでは違う。

 昼間も暇だが、夜は本当に何もすることがない。

 アルフォンシーナは、ここへ来て二日目には、女中を通じて、大公の乳母だというサグラチカという婦人に「何かできる仕事があったらさせてくれ」と申し出たのだが、

「あら、まあ。……いいのですよ。あなたはまだ、ここの使用人達にも顔を見られない方がいいのですから。落ち着くまでは、ね」

 と、笑顔で断られてしまったのだ。

「でも退屈かしら。本なら図書室があるし、手遊びごとなら、刺繍の道具とか、楽器とか、カードとかなら、持って来ますよ」

 と、サグラチカは気を回してくれた。そして、

「ああ、そうだわ。あなた、恋愛小説とか、冒険小説とか、お読みになる? そういう本なら、殿下のお部屋にたくさんあるから持って来ますよ」

 とまで言ってくれた。アルフォンシーナは内心、

(大公殿下が、通俗小説を大人買い! って噂、本当だったんだ!)

 と驚いた。だが、それが一番、手っ取り早く時間が潰せそうなので、それをお願いすると、すぐに女中がワゴンいっぱいに紙質の悪い、どぎつい色の表紙のついた本を持って来てくれた。

 だから、昼間は「こんな贅沢をしていて、いいのだろうか」と思いながらも、居間のソファに半分寝転がるようにして、小説を読みふけった。

 食事も、隣の教授さんや、青鬼のガラさんは、ここの使用人食堂で摂っていると言っていたが、世間から姿を隠してるアルフォンシーナは、彼らと一緒に食事に行くことも許されなかった。

 彼女専属でつけられた女中は、若いが落ちついた娘で、にこやかに接してくれる。その女中が、三食きっちりと部屋まで運んで来てくれるのだ。

 だけど、そんな昼間が過ぎて、夜になれば、さすがに小説の夢の中の世界にも飽きてしまう。

 贅沢な悩みだ、とは思う。

 今までなら、午後になったらもう風呂に入って、化粧をして、衣装を整えて。日が暮れれば、多少体調が悪くとも、客の相手をしなければならなかったのに。

「本当に、ぜいたく!」

 星空を見上げても、アルフォンシーナには月と星の区別くらいしかつかない。

 アルフォンシーナが、真っ白な噴水の奥の木立の中で、ため息をついた時だった。

 大公宮の奥の後宮に一番近い出入り口から、男女の声が聞こえて来たのは。





「……少しだけですよ、カイエン様。もう、夜は冷え込みますから」

「分かってるよ。ちょっとだけだ。この頃は、夜まで仕事が詰まっていたからな。休みの前の晩くらい、ゆっくり星でも見たいよ。先生が、『そろそろ、流れ星の季節ですよ』って言ってたし」

 

 アルフォンシーナは、木立の影で、ふうっと息をひそめた。

 もちろん、その二人の声に聞き覚えがあったからである。

 女の方は、アルフォンシーナによく似た声。女にしては太くて、きつい声音。つまりはここ大公宮の主人である、カイエンだろう。

 そして、男の方は、ヴァイロンと言うことも、アルフォンシーナはもう知っている。

 深く響く、男らしい声。戦場でこの声で号令をかけられたら、まっすぐに命も顧みずに、敵に突入して行くだろう。そういう、限界で人々の血肉を踊らせることが出来そうな声だ。

 アルフォンシーナは決して、夢見がちな女ではない。娼館には夢見がちな少女のような娼婦もいたが、彼女は「いじめて欲しいお客様」向けの「商品」としての自分を作り上げる前から、現実的な方だった。

 そんな彼女から見ても、カイエンの一番側にいるらしい、この男は、そんな風にどこか神秘的な生き物に見えた。

 アルフォンシーナは、この大公宮に来て初めて、「獣人の血を引く者」というのを見た。それも、二人も。

 そして、その二人は二人ともに、その体の大きさだけでは推し量れない「何か」を感じさせる生き物だった。

 彼女の隣のその向こうに住まっている、宰相の弟だという、ガラの方は見た目はともかく、よく話してみれば気さくな男で、カイエンが娼館に来た時に言っていた、

(あそこにはさっきの最高顧問……マテオ・ソーサ先生も住んでいるし、もう一人も、至極まともだから)

 という説明に合致した男だった。何でも知っているような、天の上からなんでも見ているような、不思議な雰囲気はあったが、それも見た目からすれば普通に思えた。

 だが。

 もう一人は。

 こちらには、大公宮へ連れてこられた朝、初めて会った時から、ちょっと驚いたものだ。

 朝食の席で、夫であるはずのエルネストよりも、カイエンのそばに、すぐ真横に座っていた男。

 それが、一昨年の「大公殿下の男妾」事件の、あの「罷免されたフィエロアルマの元将軍」であることはすぐに分かった。

 それは、彼の特徴的な容姿を見たからではなかった。

 男女の機微に疎くては務まらない仕事をしていた、アルフォンシーナだから「すぐに」分かったのかもしれない。だが、あれは他の人間にも、あの二人を一緒に見ていれば、じきに感じられることだったに違いない。

 他のものを視野に入れてはいても、実のところはカイエンだけを見ている、彼の、あの熱烈で狂信的な、翡翠色の目。

 エルネストの数々の恨み言も、あの時、真実、理解できた。

 朝食を終え、仕事に出て行くカイエンの腰に、さりげなく、だが当然のものとして回された手を見なくても、彼がカイエンの「一番」であること。そして、それはカイエンの側からではなく、彼の側から決定付けられたものだと言うことは明白だった。

(うわ。大公殿下、こんなのに取っ捕まっちゃってたんだあ)

 アルフォンシーナは、あの時、「あの」傲慢不敵なエルネストを、心底、かわいそうに思った。

 あのヴァイロンが相手では、エルネストでなくとも、他の男に勝ち目などない。カイエンを手に入れるには、あの恐ろしいヴァイロンを殺すしか手はないが、それは、とんでもなく不可能に近いことだろうから。

 ヴァイロンのカイエンを見る目には、きっとあの男は、カイエンが死ぬまで、自分は決して死なずにそばにいるに違いない、そんな風に確実に思わせる何かが、あった。

 その狂愛をもってカイエンを取り込んでいる男と、カイエンが、そうして今、こんなところに現れたのか。

 やばい。 

 ここにいるのバレたら、カイエン様は平気でも、あの男が怖い。

 アルフォンシーナは、瞬時に、呼吸する音さえも顰めた。もう、身動きさえも致命的だった。


 そんなアルフォンシーナのすぐそばで、カイエン達は普通の声で話している。足の悪いカイエンはヴァイロンに抱えられていた。

「ヴァイロン、ちょっと降ろしてくれないか。あれ! あの星座の周りから星が流れるって、先生が言ってたんだよ!」

 カイエンの声は、開けっぴろげで他に何の注意も払っていない。ああ、あの方、親しい人には、こんな声で話すんだ、とアルフォンシーナは何だか、かわいらしくさえ思った。自分と声が似ているだけに、新鮮だ。

「……ダメですよ。今日はずっとお仕事でお疲れでしょう。ほら、こうして見れば、ご自分で立って見上げるよりも、夜空が近うございましょう」

「あ、流れた! 見たか? ねえ、あれ!」

 カイエンの声は、流れ星を見て、はしゃいでいる。だが、その声は間も無く、異様な雰囲気の中に飲まれて行った。

「あれ、ヴァイロン、どうし……。えっ、……ちょっと、急に何するのっ!……いや! やだっ! こんなとこで。だめだったら、今は、星を……見たいんだってば!」

 アルフォンシーナの視界の端でも、流れた星は見えた。かなり明るい流星だったのだろう。だが、二人の雰囲気の方は、流れ星とは違う方向に行こうとしていた。

 わずかな、衣摺れの気配。

「こら! もう、ちょっとは我慢しろ! ……ぅっ」

 カイエンの声が、明らかに無理やりに塞がれた気配に、アルフォンシーナは息を呑んだ。しばらくして、聞こえて来たカイエンの声は、もう、彼女にはお馴染みの色に染まっていた。

「……ちょっと! だめ! さっき、流れ星を見ている間は……って!」

 カイエンの声が自分の声と似ているだけに、アルフォンシーナはもう呼吸も止まるような心地だ。自分も、こんな時にはこういう声が出ているのだろうか。そう思えば、羞恥に腰が抜けるような思いだ。

 そんな、アルフォンシーナの潜んでいる木立の前で、大きな影が月の光の中で揺らいだ。

 その瞬間、アルフォシーナは、見てはいけないものを、見た。

 見てしまった。

 たくましい腕にカイエンの小柄な体をしっかりと抱きしめ、その首元か胸元かに顔を埋めながらも、斜め後ろを睨む目を。

 彼女の隠れている木立に向かって、金色に光る、獣の瞳を。

 その、昼間の間は押し隠している、激しい欲望が火を吹く様を。






 どのくらいの時が経ったのか。

 カイエンは、あっという間もなく、ヴァイロンに抱かれたまま連れて行かれた。あの様子では、寝室に入る前に、カイエンはもう、どろどろに蕩けさせられてしまうだろう。

 アルフォンシーナは、冷や汗をかいて、木立の中で立ちすくんでいた。

 さっきの、ヴァイロンの金色に光って見えた目。

 あれは、彼女がここにいることを、確かに知っていた目だった。

 おのれの愛しい者。最愛の、そして「唯一の」相手との逢瀬を覗いていた者への、警戒と戒めのひと睨み。

「……うゎ。こっわ!」

 ヴァイロンの気配が、消えた途端、アルフォシーナは膝から崩れ落ちた。

 それから、どのくらいの時間が経ったのだろう。

 アルフォンシーナが、恐る恐る、立ち上がろうとした時だった。

「あーあ。怖かったな。あれ、目にも耳にも毒だろ? え?」

 その、聞き慣れた、傲慢で下品な声が、すぐそばから聞こえてきたのは。

 今夜二度目に、アルフォンシーナは気絶するほどに驚いた。

「あっ、あなた、い、いつから!?」

 自分が当事者でもないのに、問い詰める言葉になってしまう。

「ええー。いつもどうもねえよ。あのケダモノ相手に、偶然以外の理由は通用しねえ」

 外国から来た皇子様、とは聞いていたが、このハウヤ帝国の友邦、シイナドラドの第二皇子、だと、先日ここに連れてこられた時に、初めてはっきりと紹介された。

 エルネスト・セサル皇子。

 それが、真っ黒な、左目だけを光らせて、アルフォンシーナのすぐ側でしゃがんでいた。この様子では、彼女が密かに狼狽している様を、ずっと見られていたに違いない。

 大柄な体を、分厚い毛織物のガウンで覆っているが、吐く息が白いのが、月の光ではっきり見えた。

 それは、普通だったら、いくら高級娼館の娼婦といえども、一夜の相手にすらならない身分違いの存在だ。

「……心配で付いて来たんだよ。お前が、夕飯も終わった頃合いに、わざわざ、外に出て行くみたいだからよ。まあ、夜のお相手は、そっちからお断りだとしても、なんかあったら困るから、追ってきたんだよ」

 うっそー。なんで、よりにもよってこの皇子様がー! 見張りの侍従は何してんのよ!?

 アルフォンシーナの心の声は、そのまま聞こえてしまったらしい。

「ああ? 俺んとこの生真面目侍従ヘルマンかい? あれならもう、時間外だって、さっき自分の部屋に入って寝ちまったよ」

 その瞬間、アルフォンシーナは、脳裏に、あの生真面目な侍従、ヘルマンの面影を思い浮かべて、タコ殴りにしていた。こんな時に、時間外労働拒否って、なんなの!? と。ここへ来た日の朝、皇子様の見張りは任せろ、って受け合ったくせに!

「まあ、落ち着けよ。……あのな、今のハーマポスタールは、本当にヤバいんだよ。ちょろちょろ一人で出歩ける街じゃねえんだぞ。お前も、このあいだの裏町の屋台の皆殺し、聞いてんだろ?」

 これには、アルフォンシーナはガクガクと首を縦に振った。その事件なら、読売りで読んだし、噂話にも聞いている。

「まー、ここは周りに常夜番の見張りもいるけどよ。それでも、お前一人っくらい、その気になれば掻っ攫うのは簡単だ。……あのケダモノは自分の『ご主人様』以外には、普通に親切なだけだぞ」

 これにも、アルフォンシーナは首を縦に振るしかなかった。さっきの様子では、カイエン様第一主義のあの男は、何があっても、まずはカイエンの安全と、命令とを第一にするに違いない。まあ、多分いま、自分がさらわれかけてたら、あの生真面目なカイエン様は、何を置いても助けてくれるだろうけど。

「そうだよね。……いえ、すみません。そうですよね。お手数をおかけ致しました。すみません、ごめんなさい。じゃ」

 アルフォンシーナは雑にそう言い切ると、無理やりにその場を離れようとした。だが、厄介者はそれでは許してくれなかった。

「ああ? 冷たいなあ、おい。カイエンにお買い上げされたら、カイエン様さまか? 今まで、あの青い部屋で俺とやって来たあれこれは記憶から抹消かぁ」

 うわ。いくら若くて見目が良くても、金持ち身分もちの男は男。カスティージョ様と変わんないわ。カイエン様のきっぱり清潔なご様子が、思い出すだに清々しい。やっぱり、土壇場では男より同じ女よね。

 そんなことが、アルフォンシーナの頭を一瞬だけよぎった。

 だが、彼女もそんな印象だけで判断するほど、単純ではなかった。

 そもそも、言葉だけで、手は伸びて来なかった。そこに、彼女はエルネストが、たかが元娼婦である彼女の意思を尊重しようとしている、その気持ちを感じ取っていた。

「……なんか、聞きたいことでもおありですか」

 アルフォンシーナはぐっとこらえて、エルネストの意図におのれを合わせることにした。こうして、無事に保護されているのだ。そのくらい、聞いてやるくらいはしてもいいだろう。なにせ、相手は皇子様だ。言葉遣いが多少、ぶっきらぼうになったのは、許してもらおう。

 皇子様は、すぐにアルフォンシーナの意図を汲んでくれた。

「カイエンはここへ連れて来る前に、お前に聞いたんだろ? 俺にちょっとでも惚れてないかって?」

 ああ、そっちの話でしたか。

 アルフォンシーナは腹の底で安堵した。この話が、いずれ出てくることは覚悟していた。

「はい。でも、そんなことないし、皇子様も『ご主人様』一筋なのは分かっていたので、違うと、はっきり申し上げました」

 アルフォンシーナが、きっぱりと答えると、エルネストはへえ、と一声出すと、もう立ち上がっていた。

「そうかい。お前も、カイエンに気に入られるだけあって、はっきりしてんな。それなら、後ぐされもねえか」

 つられて立ち上がったアルフォンシーナを、エルネストは改めて変な目つきで、上から下まで眺めわたした。

「……ところで、さっきのケダモノの愛情表現にゃ、あてられたな。まあ、お互いに『運命の相手』じゃねえようだけど、あんなの見せつけられちゃ、おさまらねえだろ?」

 にやりと笑った顔が、非常にいやらしい。カイエンと似ているのに、こんな表情をすると、なまじ整った顔だけに、卑猥極まる。

 なんだかんだ言っても、所詮は若い男だ。あんなのを見せられては、腹が立つよりも先に、劣情が疼くのだろう。

 そこに、ついこの間まで、客と娼婦、という関係だった女が、こんな場面ですぐそばにいれば、こうなるのは理解できた。

 でも、もう、金のやり取りはない。カイエンが払ってくれた身代金だが、形としてはもう、エルネストは客ではない。

「……やだ」

 アルフォンシーナが言いかけてはやめ、言いかけてはやめしながら、最後にやっとそう言うと、だが、エルネストはあっさりと態度を変えた。

「あ、そう。じゃあ、寂しい者同士、自分の部屋で悶々と致しましょう。そうだよな、それが一番健全だよなあ」

 この夜は、アルフォンシーナもどうかしていたに違いない。

 いや、彼女の中で、もう終わった時代の自分と、新しい自分が、まだせめぎ合っていたと言うことなのだろう。それとも、寂しかったのか、心細くなったのか。この大公宮でだけ言えば、彼女が一番親しい人間といえば、エルネストだったのだ。

 アルフォンシーナは、次に自分が言った言葉に、自分で驚くこととなった。

「……でも、あの猫ちゃんが一緒なら、今日だけは、相手してやっても、いいよ」

 それは、自分でも、中途半端な物言いだと思うものだった。拒否したそばからこれでは、お話にならない。もう、言葉遣いもめちゃくちゃだった。

 それに、猫。

 なんで、そこにあの猫が思い浮かんだのか。

 後で思い返せば、最後にエルネストが彼女のところへやって来た夜、その予約を入れる時に、彼は次に来るときは、かわいがっている猫を連れてくる、と言っていたのだ。

 それは、なんの話だったか忘れたが、話の中で、アルフォンシーナが犬より猫が好き、と言ったからだった。

 だが、そんな約束は、彼女のような商売では守られた試しがない。

 事実、あの日、彼女を「カスティージョの秘密を暴いたぞ」と、脅しあげた夜、エルネストは猫を連れては来なかったのだ。

 その猫とは、この大公宮に来てから紹介された。

 なんのことはない、その猫、ミモと言う名の白地に茶色の斑(ぶち)の雄猫は、カイエンの飼い猫だったのだ。

「ええ?」

 エルネストは、もう背中を見せて大公宮の奥の出入り口に向かって歩き始めていたが、驚いて振り返った。

「猫ちゃん、一緒なら、カイエン様の代わり、今夜だけしてやっても、いい、よ、って言ったんだよ」

 今夜だけ。

 猫ちゃんがいれば。

 それは、賭けのようものだったのかもしれない。猫が捕まらなければ、自分の部屋に戻り、一人で自分の始末をつければいいのだ。アルフォンシーナにしてみれば、その頃にはもう、平常心になっているだろう自分が想像できた。

「へぇ」

 エルネストは、途端に面白そうな顔になった。月光の下で、真っ黒な片目が細められる。

「猫ねえ。じゃあ、一緒に探してみるか? カイエン達と一緒に行っちまってたら、いないけどな」

 アルフォンシーナは驚いた顔をしたに違いない。

「あの猫な、カイエン達の寝床で一緒に寝るのが好きらしいぜ。ああ? 知らないのか。カイエンとヴァイロンの野郎は、毎日、一緒の部屋で寝てるんだってよ」

 ひゃー。

 皇子様の凄い自虐。

 アルフォンシーナはカイエンとエルネストの間の、深刻な「あの事件」など知らない。

 だから、普通にエルネストの方に同情した。もっと後になって、色々な事情を知った後、アルフォンシーナはこの時の自分の心持ちを、「単純であさはかだった」と悔いたが、それほど気にしてもいなかった。

 軽はずみだったかもしれないが、あの時はあの時で、しょうがなかったのだ、と。 

「そ、それと! 私の部屋じゃ、嫌ですから! なんかするんなら、皇子殿下のお部屋でお願いします!」

 アルフォンシーナは知っていた。あの色素の薄い生真面目侍従さんのお部屋は、エルネストの住んでいる区画の中にあることを。エルネストの寝室に行くなら、そう、とんでもない事は起こらない。猫ちゃんも一緒なんだから。

「あはははははは」

 それを聞くと、エルネストは思い切り、面白そうに笑い始めた。笑い始めたら止まらなくなったようで、でかい声で笑い続けるので、アルフォンシーナは自分の方が焦って、エルネストの、かなり高いところにある口元を無理に押さえつけなければならなかった。

「もう、やめてください! 侍従さんが起きちゃう! 猫ちゃん、探すんですからね!」





 それから、アルフォンシーナとエルネストは、大公宮奥の庭園から、後宮の青銅の扉のあたりまで、ミモを探しつつ、きょろきょろしながら歩いてきた。

 もう、夜更けの時間帯だから、裏の出入り口には、大公軍団から派遣されている、という形をとっている警備員が立っているだけだった。そして、後宮の入り口の青銅の扉の外には、女騎士のナランハが。

 彼らはもう、アルフォンシーナの顔もエルネストの顔も知っているから、丁寧な挨拶と共に中へ通してくれた。

 大公宮の奥殿は、部屋の中の床は暖かい飴色の木組みの、芸術的な草花文様が幾何学的に組み合わされた、重厚な木の床が多かったが、廊下の方は大理石の重厚な、だがひんやりとした床が続いている。

 そこに、猫のミモの姿はない。

 もう、十一月である。寒々とした大理石の廊下に、猫が座っているとは思えなかった。さすがにカイエンの居室のある方の廊下へは入っていけない。

 そもそも、さっき奥庭で見た、ヴァイロンとカイエンの様子を見れば、恐ろしくてそっちの廊下の方になど入ってはいけなかった。

 青銅の扉をくぐれば、そこから先は長い、中庭を巡る回廊だ。

 今はアルフォンシーナが住んでいる、元は青牙宮と呼ばれていた区画を過ぎ、廊下を曲がると、あの、二人の男女が寄り添っている肖像画が見える。

 男の方は二十歳前後。女はまだ十代の幼さを残した美貌の、「前大公夫妻」の肖像画。仲良く腕を組んで、画面におさまる二人は、幸せに満ちた微笑を浮かべて画面に収まっている。

 アルフォンシーナはここへ連れてこられた後、一人で後宮の中を探検していて、この絵を見つけた時には驚いたものだ。

 これがカイエンの両親の肖像画であることは、後で、隣人の教授が教えてくれた。

 アルフォンシーナは、もちろん、前大公夫人が、今の皇太后アイーシャであることなどは知らない。だが、とんでもない美人であることは肖像画を見れば一目瞭然だ。これにも驚いたが、それよりも驚いたのは、前大公の、つまりはアルウィンの顔の方だった。

(あー、大公殿下はお父様似なのねえ。それにしても、よく似た親子だわ)

 と思った。この肖像画が描かれた頃のアルウィンは二十代の初め頃だから、今二十歳のカイエンと年齢も近く、余計に似通って見えた。

 その、肖像画の前を二人で通りかかると、エルネストは珍しくため息をついた。

「よく似てるだろ? 娘のカイエンだけじゃなくって、俺にも」

「え? ええ、まあ、そうですね」

(そうでございますわね、って言うべきだったかな?)

 頭の中で、そう言う言葉も聞こえたが、エルネストが気にした風もないので、アルフォンシーナもこのぐらいの丁寧さでいくことにした。

 アルフォンシーナは、娼館ではエルネストにも、娼館での彼女の「売り」であった、男のような口調で話していた。だが、こうして大公宮なんぞへ連れてこられては、一応、丁寧な言葉遣いにならざるを得ない。

「この、カイエンの親父と俺は、従兄弟同士になるんでな。まあ、そんなわけで気落ち悪いほどに似ているってわけさ」

 そうなんだ、とうなずきながら、二人が教授やガラの部屋の前も通り過ぎ、そのさきのいくつかの、今は無人の区画も通り過ぎた時だ。

 ミモは、探すまでもなく、すぐに見つかった。  

 何の事は無い、白地に濃い茶色の斑のミモは、後宮のエルネストの住む区画の入り口で、大人しく座って待っていたのだ。

「にゃぅおーん」

 ミモは、エルネストの姿を見ると、薄いレモン色の目をくりっと剥いて、とことこと歩いてきた。

「なんだお前、あっちで締め出しでも食ったのか?」

 エルネストはミモが彼の足元に頭をすり寄せると、すぐに片手でミモを抱え上げた。この様子では、カイエンの居室の方には行かずか行けず、ここで待っていたものらしい。

 先に戻っているだろう、侍従のヘルマンがこの区画の扉を閉めてしまったので、入れなかったのだろう。

「……おい、どうするんだ? 猫ちゃんはこうしてここに、ちゃんと待ってたぜ」

 エルネストにそう言われれば、アルフォンシーナも否やはなかった。「猫が一緒ならいい」などと、変な条件を持ち出したのは自分の方だ。

 二人は、どちらからともなく押し黙ると、一緒にエルネストの住まう区画へ入っていく。

 ここの後宮の部屋は、一つ一つ、違った趣に造られている。

 大公宮の後宮の一番奥、エルネストと侍従のヘルマンが住まうどん詰まりの区画は、黒から白までの無彩色のガラスタイルで彩られていた。

 扉のすぐ内側は小さな控えの間で、奥へと続く黒っぽい木の扉がそれに続いている。周りをぐるりと取り囲むのは、外を彩っていたタイルと同じ、黒から白へ変化するガラスタイルと、真っ白な漆喰で彩られた壁。

 そして、床は白と黒の大理石で組まれた幾何学模様で覆われていた。

 侍従のヘルマンの姿はない。

 それでも、完璧な侍従は、入り口の控えの間からそれに続く広い居間まで、各部屋に一つずつ、ランプを灯して置くのは忘れていなかった。

 居間の中庭に面した場所には、古風な頑丈な木組に新しい銀色の布地の張られたソファが、ここの主人を待っていた。いくつかのソファが囲む真ん中には、意匠を合わせた頑丈そうな木のテーブルが置かれ、その上にはもう、ランプの光の中に、酒の準備が出来ていた。

 部屋の奥の暖炉には、ちょうどいい塩梅の熾火が燃えている。

 こんなところまで、シイナドラドからエルネストに付いて来た、たった一人の侍従のヘルマンは、気を配っているものらしい。

 アルフォンシーナは、それまで体に巻きつけていた、薄手の毛布を肩から落として小さく畳み、腕にかけた。その下は、娼館から持ってきた、普段寝るときに使っていた、地味なガウン。その下には、まだ部屋着を着込んでいた。

「セサル様……」

 居間に入り、急に心細くなったアルフォンシーナが言いかけると、エルネストはそれを遮った。

「ああ、店ではそっちの名前を名乗ってたっけな。ここでは、もう、俺のことはエルネストって呼べばいい。故郷でも、ここでもそう呼ばれてる」

 ミモを膝に乗せ、どっかりとソファに座り込んだエルネストを見ながら、アルフォンシーナはどこに座ったものか、と迷ってしまった。

 娼館のあの、自分の「青い部屋」だったなら、迷わず、客であるエルネストの横に座っただろう。だが、今はもうエルネストは彼女の客ではない。身分からしたら、ここでも同じなのかもしれないが、この部屋は彼女の部屋ではない。

 座れ、と言われる前に座るものためらわれた。

 すると。

「ああ……ほら、猫をやるからここに座れ」

 エルネストの指し示したのは、彼の座っていた三人がけくらいのソファの隣だった。

 アルフォンシーナが、周りをうかがうようにしながらそちらへ足を向けると、察しのいい皇子様は、すぐに彼女の不安を払ってくれた。

「ヘルマンの部屋は、あの扉の奥だ。……竃なんかがある水場の向こうだから、よっぽどの大声でも出さなきゃ、聞こえやしねえよ」 

 そう言って、エルネストの指し示したのは、居間から続くいくつかの扉の中でも、一番小さな扉だった。

「ああ、そうですか……」

 アルフォンシーナが座ると、猫のミモがどすんと膝に落とされた。

「みゅるぅーん」

 ミモはふんふん、とアルフォンシーナの手の匂いを嗅いでいる。ここへ連れてこられてから、彼女はミモの姿こそ見かけたことはあったが、手に触れるのは初めてだった。それにしても、人懐こい猫だ。

 アルフォンシーナはそっと、ミモの喉の下を撫でてみた。すぐに、ミモはぐるぅーん、ぐるぅーんと喉を鳴らし始める。

「あーあー、ヘルマンめ。いつもは安酒しか出してこないくせに、今夜はお高い酒、出してきやがって。なんでも分かってます、って言いたいのかよ」

 アルフォンシーナがそっと見れば、エルネストはテーブルに用意された、酒の瓶の蓋を開け、中身を高価そうなロマノグラスに注ぎ入れようとしていたところだった。皇子様に飲み物の用意をさせるわけにはいかない、とアルフォンシーナが手を出そうとすると、エルネストはひらひらと手を振った。

「ああ、いいよ。せっかくだから猫をかまってろ。……カイエンなんかは、自分でグラスに酒を注いだこともないだろうが、俺の侍従は忙しいからな。俺なんざ、毎晩、手酌で飲まされている。……気にするな」

 

 ……それから小一時間。

 二人は、何となく話す話題もないままに、猫のミモを肴に飲み続けていた。隣同士に密着して座っているのに、しなだれ掛かるくらいが関の山で、それ以上に手が出ることもない。ただただ、ぐいぐいと飲み続けていたのだ。

 それで、いい加減、酒の酔いが回ってきた頃、アルフォンシーナは思い切って、エルネストに聞いてみた。

 それは、まだ娼館にいた頃からの疑問だった。

 エルネストは明らかにカイエンを愛しているようなのに、カイエンの方は冷たく拒絶している。それなのに、カイエンはアルフォンシーナに、

(エルネストに身請けされる気持ちはないか)

 と、聞いて来たのだ。

 それは、強制するものではなく、あくまでもアルフォンシーナの気持ちを問うものだった。

 カイエンはエルネストを拒絶しながら、一方で気を遣っている。それはアルフォンシーナには奇妙に映った。その気の回し方は、結婚してから何もなかった、完全に肉体的に他人の夫婦、という風には見えなかったからだ。

 だが、酔っていなかったら、この夜のエルネストの様子に隙がなかったら、こんなことは絶対に聞かなかったに違いない。

「エルネストさ、ま、はカイエン様、大公殿下とそのう……? あの、何も?」

 その言葉は、うがって聞かねば意味のわからないような、曖昧な言い方だったが、エルネストには通じたらしい。それは、真っ黒な目が、そろりと危なげに揺れたので分かった。

 だが、エルネストは、手の中で温めていた琥珀色の蒸留酒のグラスを、口元に持って行きながら、しばらくの間、黙っていた。

 だから、アルフォンシーナはまずいことを聞いたか、と酔った頭の中で焦った。もうここでは客と娼婦の関係ではないとはいえ、相手は庶民の遥か上の世界の住人、この国の大公の夫であり、外国シイナドラドの皇子様なのだから。

 不躾な質問に気を悪くしたら、と恐れたのだ。

 彼女が、自分の質問を取り消そうと口を開きかけたその時。エルネストの方が先に口を開いた。

「寝たことがあるかどうか、ってのか?」

 そう、冷静な声で聞いてきたエルネストの方は、まったく酔った風には見えなかった。ここでもアルフォンシーナはひやりとした。

 彼はアルフォンシーナの返答を期待していたわけではなかったらしく、すぐに話を続けてきた。アルフォンシーナの膝で寝ていたミモが、ふわっとあくびをしてから、ソファを降りて、奥の大きな扉の向こうへ消えていく。

 そういえば、あの部屋への扉だけは、最初から少し開いていたのだ。

「……あるよ。だけどもう、カイエンにとっちゃあ、思い出したくもない出来事だろうから、この先はもう、そんなことはないだろうけどな。ここじゃ、さっき見たケダモノや召使いどもが、側でいつも見張っているし。俺の方も、あの生真面目な侍従ヘルマンが四六時中、間違いがないか、見張ってやがるから」

「えっ?」

 その侍従ヘルマンは、アルフォンシーナがここへ来た日、

(エルネスト様の見張りは、私が責任をもってさせていただきます)

 と、アルフォンシーナに言ったのだが、この夜はさっさと「時間外労働はしません」と下がってしまったと聞いている。

 エルネストには、アルフォンシーナの心の動きなど筒抜けらしい。彼はすぐにヘルマンのことに思いが至ったようだ。

「ああ。今夜のことなら、奴としては『今は決まった相手のいない、それも大人同士のことだから勝手にしろ』ってんだろう。大丈夫だよ。お前が大声出せば飛んで来るさ。……カイエンとのことは、それとは別なんだ」

 アルフォンシーナは思い切り、疑問を顔に張り付かせたに違いない。

 そして、酔いの回った目には、エルネストの一つだけの真っ黒な目が、ランプと暖炉の火を映して、少し潤んでいるようにも見えた。

 そして、エルネストが前置きもなしに話し始めた、その話の深刻さにアルフォンシーナは息を飲むことになる。

「俺はな、カイエンが去年、シイナドラドに来た時に……あの執事だの何だのを人質にとって、脅しあげた上で、無理矢理にやっちまったんだよ。嫌がるのを、押さえつけて。そして、それから何週間も、国境で別れた時まで、毎日、責め苛んだ。嫌がって、痩せ細って、疲れ切って、昼間でも意識がぶっ飛んじまうようになるまで……な。あの顔の傷も、シイナドラドで負ったもんさ」

「えっ……」

 そして、エルネストのこの言葉に、アルフォンシーナは今度こそ、自分の質問のまずさを悟った。

 一気に、酔いが頭から下がって行く。その代わりに頭に登って来たのは、恐れと畏れだ。それは、エルネストが無造作に話した内容の、残酷さと悲惨さへの驚きだった。

 はばかりのある事、他人の、それも自分よりもなるかに身分が上の皇子様の心に、泥足で入るようなことを聞いてしまった、という後悔と恐怖にも他ならなかった。

 息を飲んだアルフォンシーナの様子には気が付かず、エルネストは独り言のように続きを、淡々と言葉にしていた。 

「……まあ、『あの人』に惑わされて、俺は、会う前からカイエンには特別に興味を持っていた。そして、本物を見た途端に、いきり立つみたいに欲しくなった。だから、そのままの気持ちでやっちまったのさ。あの時は、毎晩かわいがって、いい気持ちにさせてやれば、あのヴァイロンの野郎のことなんかすぐに忘れて、俺になびくと思ってたんだな。だが、それは間違いだった」

 かちゃん。

 エルネストは自分のグラスを、テーブルの上に置いたが、やや力が入っていたのか、グラスが揺れて中身が少しこぼれた。

 だが、アルフォンシーナは動くことができなかった。この、自分の質問から始まった話が、恐ろしい出来事の告白に繋がってしまったことへの恐怖に。なんとかして、エルネストに「この話はもういい」と言わなければ、とそれだけが頭の中を駆け巡っていた。

 なのに、口を挟むことができないのだ。それくらい、その時のエルネストからは無言の威圧感が溢れ出ていた。

 彼の方も、一度、誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない。そうしたくて、今までずっと苦しんでいたのかもしれない。

 アルフォンシーナが、そんなことを考えたのは、だが、この夜が終わってからのことだった。

「最後まで、カイエンは傲慢で我が儘勝手な俺には、なびかなかった。外面だけでも好きな振りさえしなかったよ。……まあ、それで終わってれば、今よりまだマシだったな」

 ここまで話すと、エルネストはちょっと迷うそぶりを見せた。

「……まあ、いいか。お前もしばらくここから出られない身の上だしな。それに、こんな話、今さら世間にばらしたって、誰も喜ばねえ」

「……」

「去年の十二月か。カイエンはここへ戻ってからしばらく、病気で療養してただろう。公務も出来なくてな。あれは、子供を流産したからなんだよ。……どう計算したって、その子供の父親は俺だ。……こんなことがあってさえも、俺がこの国に婿入りして来ることは変えられなかった。だが、そのツケが、これさ」

 そう言うと、エルネストは右目を指し示した。もう、まぶたの下には何もない方の目だ。

「まあ、この目を捨てて来た方の事情は、お前にゃ話せないが、だいたいわかったろ?」

 アルフォンシーナは、何度もうなずくしかない。もう、この話はいいから、と言いかけたアルフォンシーナを、だがエルネストは静かに抑えた。

「……それでも、お前の身請け話もそうだが、カイエンは憎いはずの俺に気を遣いやがる。だから、俺も諦めがつかねえのさ。お前を好きなら身請けしないか、なんて話、普通はしやしねえよ。自分を無理やり犯して、ガキまで孕ました男にさ。あいつは本当に頭がおかしい。……いや、違うな。カイエンは、あの女は、馬鹿みたいになんでも飲み込んで、それでも自分を変えずに生きていけるんだ。そうでもしないと、この街の大公殿下としては、生きていけねえって、もう、決めたんだろうな。何とも恐ろしい女だよ」

 ここまで聞いて、アルフォンシーナには、娼館でのエルネストの様子が初めて腑に落ちた。

「そう……だからなんだ……だからだったんだ」

 アルフォンシーナが、そう言いながら、エルネストの頰に、恐る恐る手を伸ばすと、エルネストは怪訝そうな顔をした。

 それまで、二人で飲みながらも、エルネストもアルフォンシーナも、娼館でのようにお互いの体に触れようとはしなかったからだろう。

「何が?」

「エルネスト様が、いつもあの青い部屋で、私に何度も言わせた、あの言葉のことですよ。大公殿下によく似た私の声で……」

 そう言うと、エルネストはくしゃっと表情を歪めた。

 そのことは、彼にも特別なことだったのだろう。

「あれか……。あれなあ。あれだけは、死ぬまで一緒にいても、カイエンからは聞けない言葉だろうからな。だから、目をつぶればカイエンが言ってるとしか思えない、お前に言わせたんだろう。思えば、子供じみた遊びだったな」

 アルフォンシーナにも、今はもう分かっていた。

 あの言葉。

 あの言葉を、あのアルフォンシーナの青い、温かい海の底のような部屋の寝室で、エルネストが彼女に何度も言わせた訳が。

 アルフォンシーナはソファから腰を浮かすと、エルネストの、もうない右目のまぶたの上に、そっと唇を落とした。

「…………」

 そして、彼の上に落としたのは、あの言葉。

 呪文のような、湿った、重たい、そして無慈悲なあの言葉。

 途端に、エルネストの体が、彼女の上に倒れかかってきた。それを胸元で受け止めて。アルフォンシーナは同じ言葉を繰り返す。

 アルフォンシーナの胸から顔をあげたエルネストが、何事か呟く。そして、今度は彼のほうがアルフォンシーナの頰に手を伸ばすと、荒々しく唇が塞がれた。

 そのまま、二人はもつれ合うようにして、そこだけわずかに開けられていた、奥の一番大きな扉の中へとなだれ込んだのだった。

 




「ヴァイロン、おまえ、今日は変だったぞ」 

 事後、カイエンの寝室の寝台の中で、カイエンの小さな体を筋肉に覆われた巨躯の中に引っ張り込んだヴァイロンへ、カイエンは文句を言った。薄暗くなったランプの光の中で、灰色の目が、翡翠色の目を覗き込む。だが、翡翠色の目の方はやや狼狽気味にそらされた。

 明日はカイエンの休日だから、カイエンもいつも通り、ヴァイロンが求めてくるだろうという予想はしていた。

 それでも、カイエンが今夜は星が見たい、と言ったら、ヴァイロンは素直に裏庭へ抱いて連れて行ってくれた。その時は普通の様子だったのだ。

 なのに。

 裏庭で夜空を見上げ、流れ星を見つけた。その直後にヴァイロンは豹変したのだ。

 いくら今夜は、最終的にはそうする予定だったと言えども、あの様子は普通ではなかった。

「こら! 目をそらすな。……裏庭で何か、あったのか?」

 カイエンがそこまで追求すると、やっとヴァイロンの奥に金色の光を秘めた翡翠色の目が、こっちを向いた。

「……申し訳ございません」

「何で謝るんだ? 意味がわからないぞ。それで?」

 カイエンが促すと、ヴァイロンは渋々、話し始めた。

「裏庭には、他に人がいたのです」

 カイエンは一瞬、意味がわからなかった。他の人がいたから、急にがっついてくるなんて理由がたつものか。普通は逆だろう。

「……皇子殿下と、アルフォンシーナ殿が木立の向こうに……」

「え?」

「私たちよりも少し先に、アルフォンシーナ殿がお庭に出ていたようで、皇子殿下は後から追って来たようでした」

「それで?」

 カイエンにはまだわからない。

 アルフォンシーナの後を、エルネストが追って来た、と聞けば、侍従のヘルマンは何をしていたんだ、とは思う。だが、それとこれは別の話だろう。

 ヴァイロンは言いにくそうだが、カイエンは容赦する気は無かった。

「その、アルフォンシーナ殿はいいのです。……皇子殿下にカイエン様のはしゃいでおられるご様子を……その、見られるのが」

 ここまで聞くと、カイエンは何となくは理解できた。だが、助け舟を出す気にはならなかった。

「それで?」

 またしても短い言葉で先を促すと、ヴァイロンも覚悟を決めたらしい。

「カイエン様があまりに、子供のように、開けっぴろげに、はしゃいだご様子で話されるので……そ、そのご様子は本当にかわいらしくありましたから……皇子殿下には、あれ以上、見せたくなかったのです」 

 ヴァイロンの嫉妬深さはもう、理解していたつもりだったが、カイエンは頭を抱えたくなった。

 かわいらしさを見せたくないばかりに、自分だけで独占したいがために、この男はあの場であんなことをして来て、カイエンは変な声を上げさせられたのだと言うのか。あの声は、エルネストはどうでもいいとしても、アルフォンシーナにも聞こえていたのだろう。

 あんな声を同性に聞かれたかと思うと、カイエンはたまらなく恥ずかしかった。

 それでも、もう、今さらどうしようもない。だが、釘は刺しておかねばなるまい。

「ヴァイロン」

 カイエンは顔を上げると、一言、一言、区切るようにして言った。

「今度からは、そういう時は、ちゃんと、その場で、わかるように話せ! いきなり、言葉の話せない動物に、なる、なぁ!」

 最後の方は叫び気味に言うと、カイエンは疲れた体にムチ打って、ヴァイロンの抱擁の中から、きっぱりと離脱した。

 腰が痛いが、そんなことは言っていられなかった。カイエンは、ヴァイロンの手を借りず、自分で脱がされたガウンに袖を通すと、布団をかぶって、寝台の端で寝転がった。

「おまえはそっちの端で寝ろ。……明日の朝は、いつもみたいに寄って来ても、断固、拒否するからな! 無理やりしたら助けを呼ぶ。絶対呼ぶ。大騒ぎにする! そして、起きたらすぐに朝食だ! その後、私はゆっくり一日中、本を読む。買って来た小説本が溜まっているのだ。いいな!」

 

  





 翌朝。

 アルフォンシーナは、皇子様のお部屋の食堂で、皇子様エルネストと向かい合っていた。

 この区画には、居間から続く明るい食堂があり、真っ黒な黒檀の立派なテーブルが置かれている。

 そこで、向かい合って座った二人の前に、大公殿下の料理人が作った朝食を運んで来たのは、皇子様のたった一人の侍従であるヘルマンだ。

 アルフォンシーナはとてつもなく、居心地が悪かった。ここで朝食を摂ることは、ヘルマンがアルフォンシーナ付きの女中に伝えてくれたはずだ。

 だが、引っ越し早々、この大公宮の婿である、皇子様の部屋で朝食など、いくら元娼婦と知れているとしても、いかにもだらしがない。女中からサグラチカさんにもこのことは聞こえるだろう。もしかしなくとも、大公殿下へも。

 昨晩、変な気を起こした自分を、アルフォンシーナはぶん殴ってやりたかった。

 そんなアルフォンシーナの気持ちを知ってか知らずか、ヘルマンは果物の皿を置くと、次に二つのカップに濃い紅茶を注ぎいれる。

「先ほど、執事のアキノ様にお会いしました」

 ヘルマンの言葉を聞くと、エルネストが足元から、猫のミモをすくい上げながら、怪訝そうな顔をした。こんな話をヘルマンがするのは珍しかったからだ。

「へえ、それで?」

「今朝は大変珍しくも、大公殿下にはご機嫌が悪くていらっしゃるそうです。大公殿下は本日、休日でいらっしゃいますので、今日は特に、念入りに、完璧に、静寂を保つように、とのお話でした」

 エルネストとアルフォンシーナは顔を見合わせた。

「……何だ。あのケダモノ、ベタベタしすぎてご主人様に怒られたのか。そりゃあ、昨日、俺たちが見てたのが、カイエンにバレたんだな。ご主人様の逆鱗に触れちまったってわけか」

 エルネストは面白そうだが、アルフォンシーナはこれを聞くなり、不安になった。

 彼女の娼館の客の中には、カスティージョだけでなく他にも貴族がいく人もいた。みんな、ご機嫌を損ねると厄介な人物ばかりだった。カイエンはそんな風には見えなかったが、気が付いてみれば、彼女こそ「お貴族の頂点」なのである。

「え……どうしましょう」

 アルフォンシーナはもう、椅子から立ち上がりそうになっていた。

「ああ? どうしようもねえよ。慌てるな、お前も今さらだろ。紅茶でも飲んで落ち着けよ」

 エルネストが言えば、ヘルマンも言う。

「今さらでございます。……それに、大公殿下はアルフォンシーナ様に対してお怒りなのではございません。昨夜の、エルネスト様とのご事情をお知りになれば、逆に感謝されるやも知れません」

 アルフォンシーナはびっくりした。ヘルマンがこんな、つけつけとした物言いをする男だとは、この時まで知らなかったからだ。昨日の夜は、エルネストの寝室で、やることは一通りやったとは言え、静かに穏当に、忍びやかに時間は過ぎて行ったから、ヘルマンに気配をうかがわれたはずはない。

「相も変わらず、嫌な奴だな、お前は」

 エルネストはそう吐き捨てたが、ヘルマンは動じた気配もなかった。

「……恐れ入ります」

 

 そして。

 エルネストの部屋で朝食を済ませたアルフォンシーナは、自分の部屋に戻る途中、あの前大公夫妻の肖像画の前で立ち止まった。

「この方達は、こんなに、幸せそうなのに」

 カイエンと、そしてエルネストにも似た顔の前の大公殿下。

 アルフォンシーナは、アルウィンとアイーシャの二人がどうなったのかなどは知らなかった。

 だが、前の大公殿下には、こうして愛する妻と並んで、一緒に笑っている肖像が残っている。

 だが。

 アルフォンシーナは何とはなくではあったが、確信を持って知っているような気がした。

 カイエンとエルネストの、こんな仲睦まじげな肖像画が描かれる日は、きっと、来ない。

 そして。

 カイエンとあの、ヴァイロンとはどうだろう。

 カイエンの夫として、歴史に名前が刻まれるのは、エルネストの方なのだ。


「…………」


 アルフォンシーナは、昨日の夜、エルネストに何度も語りかけた、エルネストがカイエンから聞くことは絶対にない、あの言葉を、唇の内側だけで形作った。

 あれは、エルネストの呪文なのだろう。彼が、最後まで生きていくための。

 しばらく、アルフォンシーナは、そこで目をつぶって立ちすくんでいた。

 誰もいない、大公宮の後宮の回廊。

 なのに、彼女は、そこを何人もの男女の靴音が行き来するのを、耳の奥底で聞いていた。

 

 この十一月の日の朝のことを、アルフォンシーナは大公宮を去っても、ずっと忘れることはなかった。あの、エルネストの心を支配していた、あの悲しい言葉の呪文とともに。

 

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