禿鷹は失墜し喰い荒らされる

 十一月の下旬ともなると、帝都ハーマポスタールは、海流によって北の海から吹き付けて来る風によって冷え込んで来る。ハウヤ帝国自体は温暖な気候であるが、冬にかかると、海からのこの風と、ザイオン女王国との国境にあるオリュンポス山脈からの局地風によって、南のモンテネグロ山脈より北の地方は、寒さの厳しい季節となる。もっとも、帝都ハーマポスタールの冬は、雪が降ることは珍しかった。

 ハーマポスタールの港の近く。漁船から直に買い付けた、様々な魚を使った簡単な食物が売られる屋台が並ぶのは、港にかかる大桟橋の近くの、石畳に覆われた海沿いに伸びた通りだ。

 大桟橋に横付けできるのは、大きな商業帆船や、貨物船の類だ。海軍の軍港は街の外れの方にあるので、ここで武装船を見ることはない。

 その屋台の並ぶ中。

 白身魚にパイ皮の衣をつけて揚げたものや、青魚を塩を振って焼いたものなどに、これも揚げたり焼いたりしただけの根菜類を売る一つの屋台。

 その屋台の日よけの下へ、寒そうに外套の襟を立て、耳当てのある帽子を目深に被った二人組が入って行く。

「白身魚の揚げ物エンパナーダと、ジャガイモの揚げたの」

「俺は、その脂の乗った青魚の焼いたのをくれ」

 二人の注文を聞き、店のおやじが、手早く揚げたて、焼きたての魚を古新聞に包む。丁度、昼時とあって、二人組の周りには、港で働く人々や、市場での取引の終わった男たちがひしめいていた。

「あいよ。塩や酢は自分でお好みでかけてくんな」

 おやじから包みを受け取ると、二人組は自分の魚に、適当に塩や黒い酢をぶっかけ、人々の間を縫って、すぐそこに海面が見える辺りまで移動した。

 そして、無言のまま包みから直接、魚にかぶりつこうとした時だった。

「あれぇ」

 一人が、食いつきかけた魚から目を離した。

「ははあ! 見てごらんよ子昂シゴウ、これ、あのカスティージョのアレじゃないか!」

 そう言った声は、若い男のもので、そしてどこかタガの外れた声音を持っていた。

「なんです」

 もう一人が、相手の持っている包みを見れば、そこに踊っていたのは奇天烈な醜聞記事と、滑稽な想像画だった。

「『禿鷲将軍は鞭打ちがお好きな被虐趣味者マソキスモ』かあ。この絵もひどいなぁ。仁王立ちの女に這いつくばって、大きなお尻を鞭打ちされてる。あはははは」

 若い男が、最後だけは大声で笑うと、通りの人々が何事かとこちらを見た。

「……確か、『部下と名乗る男が語る真実』って追い討ちをかけるような記事も出ましたね。火のないところに煙は立たぬ、と言いますが、火のあるところにはどんどん油が注がれるってわけです。ああ、この喩えは、怒り心頭で昏倒したとかいう、今のカスティージョ将軍の方ですか」

 相手の男は、人々の視線を気にもせず相槌を打つ。彼はむしゃむしゃと自分の焼き魚を食べ始めていた。

「ねえ、これってさぁ、あのカイエンがやったんだよね? あのご清潔な神官宰相じゃ、娼婦からすっぱ抜くなんて芸当、出来ないよ。そもそも、カスティージョの敵娼あいかたなんか、見つけられないでしょ」

 立てた外套の襟の向こうに見えたのは、パナメリゴ大陸の東の国の人々に特有の、やや黄色味を帯びた象牙色の顔色だ。

 それは、桔梗星団派の馬 子昂シゴウと、そして螺旋帝国の滅んだ前王朝の皇子、天磊テンライだった。

 天磊の方は、夏に、奇術団見物の帰りの黎明新聞アウロラの記者、ホアン・ウゴ・アルヴァラードを襲い、彼を待ち伏せる便宜のためだけに、裏通りの屋台の店主たちを無残に無差別殺戮した、その犯人である。

 あの時、駆けつけた治安維持部隊の女性隊員、トリニによって骨折させられた腕も、もう完治したようだった。

「そうでしょうね。カイエン様も、すっかり一皮剥けられた。ご自分の手を汚すお覚悟が出来たのでしょう」

 馬 子昂は無表情のまま、あっという間に自分の魚と揚げた根菜を食べきってしまっていた。

「天磊様、変なことを考えているのではないでしょうね」

 天磊は、やっと記事から目を離して、酢をかけた白身魚の揚げ物エンパナーダに食いついていた。

「あああ、僕もすっかり庶民が身についちゃったなあ。こんなみすぼらしい食べ物に食いついてさ。……変なことってなに?」

「これでもう、カスティージョは役に立ちません。親衛隊のモンドラゴン子爵は、カスティージョの息子の事件で引責必至。女帝反対派のモリーナ侯爵やら、ベアトリアのモンテサント伯爵、あの朱 路陽も、頭が痛いでしょう。すっきり消してやったら、カイエン様も奴らも、私どもも、みんな万歳ですよ」

 これを聞くと、天磊は油だらけの口元をぱかっと開けたまま、目を輝かせた。

「ええっ。じゃあ、僕がやっちゃっていいの?」

 象牙色の顔色の中で、真っ黒な深淵が渦を巻くような瞳を擁した、切れ長の目が、とろりと馬 子昂へ向けられる。

「いいですよ」

 それへ、馬 子昂はなんでもないような、気持ちの入っていない声で答えた。もう、彼の足は大桟橋の方へ向かっていた。今日は、貨物船から荷物を受け取るために来たのである。

「夏の事件と同じ手口で、となれば、馬鹿どもがカイエン様を疑うこともないでしょう。……でも、時期を選びませんとね。だって、もうすぐカイエン様のお誕生日じゃないですか」

「ええー。まだ二週間ぐらいも先じゃないか」

「ま、その前にあの狂犬が、カイエン様に喰いつきそうになったら、すぐにお願いしますよ、天磊様」

 そう言い切ると、もう馬 子昂はどんどん先に立って歩いていた。後から、揚げ魚を包んでいた、カスティージョの醜聞の新聞を道に放り捨てた天磊が、小走りに追いかける。

「待ってよぉ。お前、この頃生意気だぞ!」

チェマリアルウィンさまにハーマポスタールでの工作を任されたのは、私ですからね)

 馬 子昂は、頭の中でいくつかの男たちの首を吹き飛ばしていた。

(ハウヤ帝国の貴族どもを二分してくれるはずだったのに、モリーナ達はもう、ダメでしょう。こうなると、役に立つのは、やっぱりザイオンとベアトリア、それに、忌々しいですが新生螺旋帝国の狗どもですかねえ。シイナドラドの開国派の後ろ盾になって、うごめいているようですし。北のマトゥサレンどもも、まあ、時間稼ぎにはなっていますかね)

「そんなことないですよ、天磊様。あなた様のご活躍は、これからなんですから」

 口と頭で、全く別のことを語りながら、馬 子昂は埠頭の人混みに紛れていくのだった。






 そして、同じ頃。

 新生螺旋帝国の外交官官邸の応接室では、馬 子昂の思考の中に出て来た、二人の男が向かい合っていた。

 建物は元からこのハーマポスタールにあった、元はさる伯爵家の屋敷だった建物だ。だからこちら風の建築だが、内部はかなり螺旋帝国渡りの文物で装飾され、壁紙も床の絨毯も異国情緒溢れる仕様となっていた。

 応接室の内装も、家具も、ここは螺旋帝国かと錯覚するような意匠のもので揃えられている。

「お久しぶりですね、モンテサント伯爵。この頃、とんとフロレンティーノ皇子殿下の話題を聞かないが、お母上のマグダレーナ様はご息災で?」

 召使いが、螺旋帝国風の作法で、香り高い菊花茶を淹れて出ていくと、螺旋帝国青王朝の外交官である、朱 路陽は客の方をにこやかに見た。学者のようなその落ち着いた面差しには、髭がまったくない。螺旋帝国では髭のない男といえば、宦官を指すが、ハウヤ帝国のある大陸の西側の国々では、彼の正体に直ちに気が付く者は少ないだろう。

「これはこれは、辛辣ですな。あの方は、死んだ私の兄とは違って、お身体がお丈夫でいらっしゃいますから。フロレンティーノ皇子殿下も、お健やかにお育ちです。ただ……」

 ベアトリアの外交官、ナザリオ・モンテサント伯爵は、第三妾妃マグダレーナ、元はベアトリア第一王女が、最初に国内で降嫁した先のサクラーティ公爵家の次男である。マグダレーナの最初の夫だった長男のラザロは、すでに病気で亡くなっている。

「ただ、なんです?」

 朱 路陽が抜かりなく尋ねると、モンテサント伯爵は苦い顔をした。

「皇宮の後宮では、もう何ヶ月も前から問題になっておるのですよ。……あの狂った皇太后が、夜毎に暴れて泣き叫ぶんだそうで。フロレンティーノ皇子殿下は、その恐ろしい声を聞くと、夜泣きが止まらなくなるそうです」

「それはそれは。皇太后はもう回復の見込みはないのでしょう? どうしていつまでも後宮の皇后宮に置いておくのでしょうね」

 朱 路陽は顔つきだけは、気の毒そうな顔を作るのは忘れなかった。

「もう、オドザヤ陛下もご存知のはずですが……。今月は、死者の日ディア・デ・ムエルトスの事件がありましたでしょう。あれの事やら、ほら、ザイオンから来た縁談話やらで、皇太后のことなどは後回しですよ」

 モンテサント伯爵は、賢しげに付け加えるのも忘れなかった。

「それに、北でのアルタマキア皇女のことがありますからな。今度は母親を人質にでも取られたら、と警戒しているのでしょう」

「ご説明いただければ、皆、なるほどですな。皇宮から出すのを躊躇しているんですね」

 朱 路陽はかなり小ぶりな器に淹れられた、香りの素晴らしい母国の茶を美味しそうに飲んだ。つられるように、モンテサント伯爵も器を取り上げた。

「これはお国の産物ですかな。見事な彩色陶器だ。お茶も香しい。ところで、ご覧になりましたか? あの、コンドルアルマの将軍の……」

 モンテサント伯爵がそう言えば、朱 路陽は苦笑いを浮かべてこう返して来た。

「ああ、あの下品で下等な読売りの書きたてたとかいう……。前に出た、先帝と妹の公爵夫人とのあれも酷かったが、今度のはまた一際、下品でしたな」

 二人ともに、しっかりと情報だけは把握しているらしい。

「まあ、あのモリーナ侯爵も、今頃は歯噛みしていることでしょう。頼みとするお仲間の二人までもが、これではねえ。私も頭が痛いですよ。あんな頼りない方達を、一時とは言え頼みにしていたのですから」

 と、これはモンテサント伯爵。

 オドザヤの即位前、大議会が召集される前に、彼ら二人はモリーナ侯爵邸での会合に出席している。あそこにカスティージョは呼ばれて来ていなかったが、あそこに来ていた、モリーナの腹心のお仲間だったモンドラゴン子爵は、カスティージョの息子が起こした事件の責任を取らされるだろう。

「カスティージョ将軍の方は、もう自ら辞めるしかないでしょう。確か、すぐに部下かなんかが、同じ読売りに暴露話を持ち込んだそうでしたなあ。部下に見限られちゃ、もう軍隊なんか率いられやしませんでしょうから」

 朱 路陽は、面白そうに続ける。

「それはそうと、あの暴露記事を持ち込んだのは、どこのどなたでしょうかな?」

 これには、モンテサント伯爵は苦い顔をした。

「それが、あの女大公の仕掛けたことみたいですよ。まあ、あの方も前に、同じ手でやられたことがありますからな。今度は自分が、というわけでしょう」

「おやおや、モンテサント伯爵、あの大公ご夫妻の不和、というのはあなた方の仕業ではないのですか?」

 朱 路陽がこう聞くと、モンテサント伯爵はかなり人の悪い表情になった。

「まあまあ。私もあの女大公も、面白可笑しい事実をちょいと表に出してやっただけですよ。まあ、女大公はさすがにこの街の大公だけあってビクともしなかったが、カスティージョのは内容も酷すぎました。そうそう、あの男、コンドルアルマの兵卒の採用に、手心を加えていたらしい。自分の家の郎党を優先的に採用していたとか。で、その郎党になるためには、実家からたんまりと裏金を受け取っていたそうです。だから、コンドルアルマの兵卒は、裕福な商家の放蕩息子だの、乱暴者だのばかりだそうですよ」

 密やかに語られたこの新しい事実に、朱 路陽はびっくりしたような顔を作った。この二人、どっちもどっちの狐と狸である。

「おやおや、それはもういけませんな。どうです、生殺しじゃかわいそうだ。伯爵、あなたが人肌脱いじゃあ?」

 これには、さすがのモンテサント伯爵も確たる答えはしなかった。

「まあ、我々はあの一派とは、手を切るしかないですな。そうなると、今度は……」

 朱 路陽はすぐに食いついた。

「ああ、ザイオンですか」

「そうそう、ザイオン」

 この二人は、アルウィン達の桔梗星団派のことを知っているのか、いないのか。少なくとも、現螺旋帝国の大使である朱 路陽は知っていてもおかしくはなかった。

「オドザヤ陛下へのご縁談でしたね」

「こちらのハウヤ帝国には皇子が足りなかったというのに、ザイオン女王国には、年頃の王子が三人も余っているのですからな」

 ここで、二人は申し合わせたようににやり、と笑った。

「ザイオンは、北のスキュラとも近いですから。まあ、よく時期を図ってきたものです」

「フロレンティーノ様はまだまだお子様。時間は十分にございます。ここはザイオンのお手並み拝見、というところですな」

 そこまで話すと、二人は次からはもう当たり障りのない話題に戻っていった。腹の探り合いは、ひとまず終わった、ということなのだろう。

 モンテサント伯爵ナザリオが、席を立ったのは、それからずいぶん時間が経ってからだった。

 螺旋帝国外交官官邸を出て、待たせていた馬車に乗り込んだ彼は、大きくため息をついた。

「あの狸め。なかなか尻尾をつかません。まあ、これからのこの国は広大な狩場。だが、切り取りにかかるには、まだまだ準備が必要だわ」 

 ハウヤ帝国とスキュラとの攻防がどう決着するか、シイナドラドの内乱がどうなるか、ザイオンの思惑は何か、螺旋帝国の真の思惑は。

 そして、それらの合間を縫って、彼はマグダレーナとフロレンティーノを担ぎ上げ、この国を乗っ取らせなくてはならないのだ。それが、ベアトリア国王の、そして彼の父親である国務大臣、ジラルディ・サクラーティ公爵の大望だった。

 国境紛争をふっかけられ、長い攻防の果てに国土の一部を失い、戦後処理で第一王女を妾妃に取られた。ベアトリアは、スキュラやネファール同様に、ハウヤ帝国の属国と同じ扱いを受けた。その屈辱を晴らすのだ。

「急ぐまい、急ぐまいぞ。好機はきっと来る。それまでは辛抱だ」

 馬車の中、逸る気持ちを押さえ込み、モンテサント伯爵ナザリオは、そっと服の上から胸元を抑えた。

「ラザロ兄上。あなたの代わりにこのナザリオが、ベアトリアの受けた屈辱を晴らしてみせまする」

 その言葉は静かだったが、胸の内には熱く燃えるものがあった。


 


   



 アルフォンシーナが架空の人物の名前で身請けされ、大公宮に引き取られて来たのは、カスティージョの醜聞がすっぱ抜かれる、ほんの数日前のことだった。

 カイエンが直接、彼女の元を訪れた日とて、その数日前に過ぎない。

 カイエンは、

「身請けの方も、明日にでも話を進めさせるよ。金がかかるが、これでもこの街の大公だ。人脈もあるし、手早く動くよ」

 と言っていたが、アルフォンシーナは、まさかこんな早業でことが行われるとは思っていなかった。

 娼館の女主人のカティアでさえ、呆れ果てていたくらい、カイエンの使った人脈は多彩だったのだ。

 店のある通りの顔役やら、同業者の組合ギルドの長だのが次々とカティアの元へやって来た。そして、同じ架空人物の名前を出しては、アルフォンシーナの身請けを支持し、ごたごたが起きても、自分たちが力を貸すから大丈夫だ、一日も早く準備しろ、と言って去っていく。

 その後には、この界隈を担当している治安維持部隊の署長がやって来て、しばらく警備を強化するから心配するな、なんなら女性隊員をよこしてもいい、と言う。

 そして。

 アルフォンシーナの予約客達が、カイエンが来た翌日、揃って予約を取り消して来た。代わりに入れられたのは、身請けすると言うことになっている、架空人物の名前。

 そしてそして。

 アルフォンシーナが、一体、誰が来るのか。カイエンが言っていたように、エルネストが来るのか、と思っていたら、来たのは毎日違う人物だった。エルネストは結局、顔を見せずじまい。

 彼らは皆が皆、顔を隠し、同じような地味だが金のかかった服を着、毎回違う馬車で店の中庭まで入って来た。そのまま女主人のカティアにも顔を見せず、くぐもった声で案内を請うばかり。

 普通なら、こんな怪しい客は門前払いだが、揃って同じ架空人物の名前を名乗るのだ。

 だから、彼ら……四日間で五人、の顔を見たのは、アルフォンシーナだけだった。

 一日目から、アルフォンシーナはもう腰を抜かしそうになった。

 背が高く、すらりとしているが筋肉質の体格の人物は、部屋に入って来ると着ていたマントのフードを取ったが、出て来たのはなんと、若い女の顔だった。

「と、トリニと申します。あのう、これでも治安維持部隊員です。今日は、大公殿下に頼まれまして……わあ、こんなお店、初めて! きれいなお部屋!」

 背が並みの男よりもかなり高く、髪が肩までとかなり短い以外は、顔立ちだけ見ればちゃんとした若い女だ。ちょっと螺旋帝国人を思わせる、切れ長の目が涼しく、きりりとしている。

 彼女は、興味深げに部屋を見回し、人懐こい笑顔でアルフォンシーナに話しかけ、一緒になってありったけの話題で盛り上がり、朝まで飲み明かして帰って行った。こういう商売のアルフォンシーナでさえ、足元がゆらゆらするくらい飲んだが、トリニは足元も軽く、馬車に飛ぶように乗り込んで帰って行った。

 話の中で、武術にはちょっと自信があるんです、と言っていたが、その通りなのだろう。

 二日目に来たのは、こう言うところに来るのは初めてじゃないか、と疑うような、若い男。多分、自分やカイエンなどと同じくらいの年齢だろう、とアルフォンシーナはふんだ。

「えーと、俺は殿下の護衛をしております。シーヴと申します。今日は殿下に頼まれまして参りました」

 ものすごく丁寧に挨拶されて、アルフォンシーナは目を丸くした。シーヴと名乗った若い男は、浅黒い顔色なのに亜麻色の明るい色の髪をしてるので、顔を隠してこなければ、結構、目立ったことだろう。顔立ちは優しげで、素人の若い娘が騒ぎそうだ。

 アルフォンシーナが彼の丁寧な挨拶につられて、慌てて挨拶すると、その声を聞いて、シーヴは感動したようだった。

「わー、本当に殿下と話しているみたいですね。あの皇子様、素直じゃないなあ。あ、俺、殿下と一緒に去年、シイナドラドへ行ったんで、あの方の印象、最悪なんです。ごめんなさい」

 そう言えば、カイエンもエルネストとは出会い方が最悪だったとか言っていた。

 アルフォンシーナは昨日のトリニは女だからともかく、今日は男、それも若い男なのだから、やることはやっていくのかと思った。だが、シーヴはにこにこしたまま、ぶるぶると首を振ったのだ。

「いやあ。これから大公宮に来る人と、そんなことになったら気まずいですよ。殿下が、飲みたい酒があったらなんでも飲んで来ていい、なんなら腹一杯食って来てもいい、っておっしゃったんですけど、本当に注文してもいいですか」

 そして、シーヴはアルフォンシーナが「若いのに、よくそんな希少な酒の名前を知っているな」と驚くような酒の名前を二つも三つも挙げた。

 そして、近所の一流のレストランテからの高級な仕出しの肴をつまみながら、それらの酒を味わった挙句に幸せな顔で寝つぶれた。

 アルフォンシーナに早朝に起こされての帰り際、シーヴは思い出したように、急にくるりと振り向いた。

「そうでしたっ! アルフォンシーナさん、明日来る男には気をつけてくださいね! 俺の上司ですけど、見た目はもの凄くいいですけど、中身は真っ黒け! あの皇子様とおっつかっつのワルモノですから! 迫られたら殿下にまた懺悔させるぞ、って脅してください! ヴァイロン様に言いつけるって言ってください! いいですねっ!」

 その様子からすると、まだ酔いが大いに残っているらしかった。懺悔とか、ヴァイロン様とか、わからない言葉や人名が出て来たが、総じて言えば、「明日来るのはクセモノ」ということだろう。

 そして三日目。

 部屋に入って来たのは、確かに間違いなく、前の二人とは全然違う「クセモノ」だった。

「あー、疲れた。今日こそ宿舎で寝られると思ってたのに、夜も働かされるとか、俺もう、過労死しろって思われてるんだな、きっと」

 首が飛ぶ前に、病気になって死ぬわ、と謎の呟きが続く。

 アルフォンシーナは挨拶もしないうちに愚痴を聞かされたのよりも、彼の「見た目」に驚いていた。昨日、シーヴが言っていた通りだ。見た目はもの凄くいい。それも、こんな商売のアルフォンシーナも初めて見るレベルの美男子だ。

 元は色白なのだろうが、日焼けしてるので外での仕事が多いのだろう。面長な顔立ちは、嫌になるほど甘ったるい美貌なのだ。笑いでもしたらすごい破壊力がありそうだ。話し方はともかく、声も美しい。

 ちょっと猫背だが、背もすごく高かった。エルネストと同じくらいあるだろう。

 アルフォンシーナが、これはこっちから挨拶しなくちゃ、と口を開きかけた時、相手の方も挨拶がまだだったことに気がついたらしい。

「ああ、そうでしたそうでした。自己紹介がまだでしたね。俺は大公軍団の軍団長をしております。イリヤボルト・ディアマンテスと申します。イリヤさんとでも呼んでください。みんなそんな呼び方です。ちなみに、皇子様とは仲良くありません」

 うわ、エルネストの大公宮での立場って最悪なんじゃないの、とアルフォンシーナは思い、同時に、自己紹介した相手の役職身分には驚いた。大公軍団の軍団長といえば、普通はもっとおじさんだと思うだろう。

 慌てて挨拶を返すと、イリヤは初めてアルフォンシーナの顔をまっすぐに見た。

「あらら。顔は似てないのにねえ。……あの皇子様、やっぱり変態だわ。やーだ」

 だんだん話し方がおかしくなって来るが、カイエンと似ている声のことを言ったのだろう。アルフォンシーナを見た、鉄色の目の下には、色濃い隈。疲れていると言っていた、最初の言葉は本当らしかった。

 アルフォンシーナがソファのところに案内すると、彼女が何か言う前にもう、イリヤの方から注文があった。

「あのね。俺はさっきも言ったけど、もう何日もろくに寝てないのよ。それにぃ、あの皇子様と、ナントカ兄弟になんてなりたくないしー。せんせーが、奥の寝室の寝台の寝心地最高、って言ってたから、そこで朝まで寝かせてくれる?」

 アルフォンシーナは、ナントカ兄弟、のところでずっこけそうになった。もっと下品な言葉をぼかしたのだろうが、それでも下品だ。

「先生?」

 気を取り直して、アルフォンシーナが聞くと、イリヤはソファの背に寄りかかって、もう眠りそうになっていた。

「来たでしょ? ここに、殿下と一緒に。あのおじさん。最高顧問のせんせーよ」

 場末のオカマかなんかのような言葉遣いだが、しゃべっている顔がとんでもなく美しいので、これはこれで正しいのではないか、と思えて来るから怖い。

 アルフォンシーナは、昨日のシーヴの言ったことが全部、腑に落ちた。

 結局、イリヤは根性でソファから立ち上がって、寝室に入ると、そのまま寝台に倒れ込んで朝まで起きなかった。

 後で気が付いたが、彼が忙しい中この任務に駆り出されたのは、カイエンの気遣いなのかも、と思ったが、真相はわからないままだった。

 四日目。

 翌日、五日目の未明には、もう大公宮へ行くことになっていた日に、アルフォンシーナを迎えに来たのは、いかにも平凡そうな二人連れだった。背も高くないし、フードの下の顔も平凡だ。

 だが、アルフォンシーナは二人の顔を見た途端、鳥肌が立った。

 二人は、どっちかがあの日、カイエンがやって来た日に窓の外のバルコニーに立っていた男。もう一人は、寝ている最高顧問の横に幽霊のように佇んで見張っていた男だったからだ。

 だが、区別がつかない。

 よく見れば、双子のように似ている、と言うわけではない。なのに区別がつかないのだ。

 それくらい、二人の顔立ちは「平凡」を絵に描いたようで、印象に残らない顔立ちだった。

「先日は失礼いたしました。私どもは、大公宮の影使い……まあ、裏の警備をしております者です。ナシオとシモンと申します。明日のご準備はお済みでしょうか」

 アルフォンシーナが、もうあらかた済んでいる、と言うと、二人は顔を見合わせ、では皆様にゆっくりお別れをするように、と言った。そして、夜明け前にまた来ます、と窓から出て行ったので、アルフォンシーナは悪夢を見たような気持ちになった。


 そして、翌朝。

 まだ日の登る前に、アルフォンシーナは女主人のカティアと、他の使用人達、それに客を寝かせて部屋から抜けて来た朋輩たちに見送られて、馬車に乗り込んだ。

 カティア以外のみんなは、アルフォンシーナが大公宮へ引き取られていくことは知らない。なんだかすごいコネを持った人物が、大金を積み上げ、カスティージョからかすめ取っていくのだと思っている。

「元気でね」

「幸せにおなりよ」

「お店でも開いたら、迎えに来てよ」

 皆、身請けされる娼婦を見送るのは初めてではない。羨ましいとは思うが、自分もいつかは、と念じている。年季明けまで勤めても、借金がなくなるだけで、自由になる金ができるわけではないのだ。

 アルフォンシーナもそんなことは重々承知だったので、一通り抱き合って別れを告げると、さっさと馬車に乗り込んだ。


 大公宮についた頃には、夜がもう明けかかっていた。

 裏門を入り、裏玄関の前に馬車が止まる。

 乳白色のロマノグラスのランプが照らす、天井の高い大理石張りの玄関には、きっちりと黒い執事の服を着込んだアキノと、カイエンの乳母のサグラチカ、それに侍従頭のモンタナと、女中頭のルーサが待っていた。

「いらっしゃいませ。こちらへ。皆様、食堂でお待ちです」

 アキノはそう言ったが、アルフォンシーナは、玄関を入り、大公宮の偉容を見せつけられて、呆然と立っている。高級娼館に居たとはいえ、この国で二番目に広くて立派な建物となれば、驚くのも無理はなかった。

 アルフォンシーナの背後では、馬車から降ろされた、たった二つの鞄が、侍従達によって奥へ運ばれて行こうとしていたが、彼女は気が付きもしない。

「こっちですよ。さあ、一緒に……ね」

 そっと彼女の肘のあたりを取って、奥へと誘ったのは、サグラチカだ。

「は、はい」

 アルフォンシーナは、はっとして自分の手を取るサグラチカの顔を見た。

「私はサグラチカ。大公殿下の乳母でしたのよ。今はね、ご養女のリリエンスール様のお世話をしているの。あれは私の夫で、執事のアキノ。これは女中頭のルーサよ。……ルーサ、先に行って、皆様にお知らせして」

 足早に奥へ向かうルーサの後について、アキノの後ろからサグラチカに手を取られて進んでいく。やがて、彼らは木の観音開きの大扉の前に着いた。

 執事のアキノと、侍従のモンタナが扉を開けると、その向こうには朝日が差し込む、広い寄木細工の床が広がっている。 

「あれえ、随分地味ななりで来たんだなあ」

 カイエンは、アキノとサグラチカに連れられて食堂に入って来たアルフォンシーナを見ると、意外そうな声をかけた。

 食堂の中では、ここの住人達が、食堂の長いテーブルの左右に別れて座っていた。

 カイエンは一番上座に、一人だけ正面の大きな絵の掛けられた壁に面して座っている。

「おや、本当だ。見違えたね」

 そう相槌を打ったのは、アルフォンシーナも知っている、ここの最高顧問の先生、マテオ・ソーサだ。

 店で客の相手をする時に着ていた、派手で豪華な金のかかったドレスは、みんな店に置いて来た。そして、その朝、アルフォンシーナが選んだのは、たまの休みに店の女中に見張られながら、街へ出る時に着ていた服。

 地味な、普通のその辺の娘達が着ているような服だった。襟元までしっかりとボタンで止められた服は、保守的でさえあった。

 細かい巻き毛にして、細かい三つ編みに編み込み、色とりどりのガラス玉や宝石で飾り立てていた髪も、巻き毛はそのままだったが、頭の後ろでくるくる巻いてまとめていた。そこにもなんの飾りもない。

 ぼうっとしたまま、長いテーブルの先を見ると、そこにはカイエン以外は男ばかり六人の姿が見える。

 知っている顔は、そのうち三人と半分。

 店に客役でやって来た、カイエンの護衛騎士だというシーヴが、テーブルの一番下座に座っていた。もっとも、二十人くらいが座れそうな長くて大きいテーブルだから、彼の座っているところがテーブルの真ん中あたりだ。

 カイエンの左手側、椅子を一つ開けて座っているのが、マテオ・ソーサ。

 そして、カイエンの右手側の真ん中あたりに座っているのが、エルネストだった。仮にも大公の夫で、それも皇子である彼が座る場所としては奇妙な場所だったが、その場の誰もそれをおかしいとは思っていないようだ。

 エルネストの後ろに立っている、黄色の髪の背の高い男には、見覚えがあった。エルネストにくっついて来ていたお付きの男だ。だが、アルフォンシーナは彼の名前は知らなかった。

 他の二人は、まったく知らない顔だった。だが、その二人は恐ろしく目立つ姿形をしていたから、アルフォンシーナにはすぐに彼らの正体がなんとなく想像できた。

 大公殿下の後宮にいるという、赤鬼、青鬼。そんな噂話を聞いたことがある。

 アルフォンシーナがそんなことを、突っ立ったまま、考えのまとまらない頭で思っていると、下からカイエンの声が聞こえて来た。自分とよく似た声だから、なんだか奇妙な感じだ。

「おはよう。そして大公宮へようこそ。アルフォンシーナ、ここにいるのが、この大公宮の奥殿に住んでいる連中だ。ああ、シーヴは違う。今日、私はこのまま仕事に行くから、護衛の彼もここに来ているんだ」

「はあ」

 そう言われてみれば、シーヴとカイエン、そして、その右手側の一番手前に座っている大きな男は、大公軍団の黒い制服姿だった。細かい意匠は違っているが、襟章やらなんやらの位置やなんやら、全体としては似ている。

 今日のマテオ・ソーサは、全然、冷酷非常な金貸しには見えなかった。派手な緑色の服が、白い襟をのぞかせた、黒い詰襟の固い服装に変わったのと、縮れていた髪がまっすぐになり、それを後ろに撫で付けている。それだけのことなのに、今日の彼はもう、偉い学者先生にしか見えなかった。

「じゃあ、このでっかい二人から紹介しよう。こっちが帝都防衛部隊隊長のヴァイロンだ」

 カイエンの右手側の一番近くに、そう、夫のはずのエルネストとの間に挟まって座っている男が落ち着いた声で挨拶してくれる。その男の金色がかった真っ赤な髪の色を見直して、アルフォンシーナはすぐにわかった。

 あの事件の人だ。

 フィエロアルマの獣神将軍が、罷免された上に、大公の男妾にされた。あれは大変な噂話であり、新聞種だった。

 ああ、それじゃあ、大公殿下の本命はこの人なのね。

 アルフォンシーナがそう思った時、ヴァイロンの隣でさえなく、二つほど下の席に座っているエルネストの声が聞こえて来た。 

「なあ。かわいそうな俺の、ここでの地位がわかるだろう?」

 これには、アルフォンシーナは曖昧な笑いを浮かべるしかなかった。

「ええと、アルフォンシーナ、次はこっちだ。先生の向こうはガラ。まあ、いずれ知れるだろうから言っとくと、宰相の弟だ。ナシオやシモンと同じような仕事をしてもらっている」

 これも男妾なのかな、とアルフォンシーナが思った途端、今度はガラという男が口を開いた。目が真っ青なのが、その時初めて見えた。なるほど、青鬼である。

「俺は違う。ここの先生も」

 違うのか。アルフォンシーナは頭の中に、「男妾は赤鬼だけ」と記入した。

 それから、アルフォンシーナは驚いたことに、カイエンと教授の間の席に座らされた。ここの上下関係はどうなっているのだろう、と不安になったが、カイエンから始まって、侍従の一人一人まで、誰もここでは疑問に思う者はいないようだ。

「朝ごはんが済んだら、サグラチカに部屋へ案内してもらってくれ。私たちはみんな仕事だから。……エルネスト以外は」

「エルネスト様の見張りは、私が責任をもってさせていただきます」

 カイエンの言葉の後を追うように、エルネストの後ろに控えた、黄色の髪と目の男がすごいことを言った。

「失礼致しました。私はヘルマンと申します。エルネスト様の侍従でございます。お見知り置きを願います」

 そうして、紹介と挨拶が済むと、すぐに侍従たちが、冷たいもの、暖かいもの、熱いもの、と様々な趣向を凝らした朝食を運び入れ始めた。

 アルフォンシーナはカイエンの隣に座らされ、最初は味もわからなかったが、教授やカイエンが話しかけてくれたこともあり、なんとか食事を終えることができた。


 アルフォンシーナの驚きは、それで終わらなかった。

 朝食が済むと、カイエンたちは仕事に出かけてしまい、彼女は早速、これからやっかいになる部屋へ案内されることとなった。

 カスティージョのあれこれの聞き取りは、落ち着いたら今夜にでも、とカイエンは言った。

 アルフォンシーナは醜聞専門の新聞の記者に、根掘り葉掘り聞き取りをされるのかと思っていたが、どうやらそうではないらしかった。

 食堂を出て、広い廊下を大公宮の奥へ進む。すると、青銅製の大扉が見え、その前に一人の女騎士が立っているのが見えた。

「あれが、後宮の入り口だよ。ああして女騎士が守ってるが、出入りは自由だ。……じゃあ、俺は一番奥のお部屋に戻るよ。いつもはこんなに朝早く起きたりしないんだ。じゃあな」

 サグラチカに連れられたアルフォンシーナにそう言うと、エルネストはヘルマンを従えて、青銅の扉の向こうへ歩いて行ってしまった。

「じゃあ、私たちも参りましょうか」

 にこやかにそう言うサグラチカにくっついて、アルフォンシーナは青銅の扉を通った。そこから先は、長い長い中庭を巡る回廊になっている。

「あなたが入る部屋は、一番手前のお部屋。先日まで、ガラさんが居たんだけど、ガラさん、自分が一番広くてきれいな部屋にいるなんて変だから、って二つ奥のお部屋へ引っ越してしまったの」

「ええっ」

 一番、広くてきれいな部屋? それを私が?

 アルフォンシーナはびっくりしたが、その区画へ案内されると、彼女の驚きは頂点に達してしまった。

「ここよ」

 アルフォンシーナは、娼館で自分が使っていた暖かい海の底のような明るい青の部屋が、とても気に入っていた。そんな部屋を使えるようになった自分を誇らしくさえ思っていた。

 だが。

 この部屋は、今朝までいたあの部屋よりももっと、いや、比べられぬほどに素晴らしかった。

 壁は花柄の寄木細工で組まれ、床もまた幾何学模様の木で組まれていた。色味といえば、濃い茶色から飴色、そして琥珀色までの色の変化だけ。それなのに、この明るい華やかさはなんだろう。

 木はすべて丁寧にニスが塗られ、中庭から入る太陽の光に光り輝いている。足を踏み入れると、靴の下で軽やかな音が鳴った。

 優しい色合いの部屋の中で、居間のテーブルの下だけが青いガラスタイルのグラデーションで飾られている。タイルで描かれた花は清楚な百合だ。

 寝室に入ると、天蓋付きの樫の木で出来た堅牢な、そして広い広い寝台が待っている。その上の寝具は居間の青いガラスタイルと、色を合わせたものだった。寝台の頭板ヘッドボードにも、青いモザイクが施されている。

 アルフォンシーナを声を失った。そして、気を取り直した時、彼女はサグラチカに向き直って、叫ぶようにしてこう言っていた。

「私、無理です。こんな、こんなお部屋……」

 サグラチカは、踵を返して出て行こうとする、アルフォンシーナの様子に慌てた。だが、彼女はすぐにアルフォンシーナの気持ちを読み取った。

「だめですよ。このお部屋はガラさんみたいな大きな男の方に似合う部屋じゃないわ。あのね、ここには昔、カイエン様のお母様がいらしたの」

 アルフォンシーナは、カイエンの出生のことなど知らない。サグラチカも今、詳しく話す気は無かった。

「カイエン様のお母様は、平民で……確か貧しいお役人のうちの娘さんだったんですよ。あなたのように若くて、そしてとてもおきれいな方だったわ」

 アルフォンシーナは瑠璃色の目を見開いた。

「でも、私は平民どころか、あの……」

 サグラチカは、指を一本立てると、それでしーっと言うようにアルフォンシーナの言葉を遮った。

「人にはみんな、一人一人、違った事情がありますでしょう。あなたはしばらく、ここに隠れていなければならないんだと聞いていますよ。あの皇子様みたいに、自由に外にも出られないんでしょう? それなら、潜んでいるお部屋なんか、どんな部屋でもいいんじゃないの? きれいでも汚くても」

「え……」

「あなたはこれから、変わっていくしかないのでしょう? それなら、いつでもどこでも堂々としているべきだわ。それには、こんなお部屋に住んでみるのもいいものですよ。あなたにとっては、ここは静かできれいな、でも牢獄のようなところ。でも、これからのことを考えるのにはいい場所だと思いますよ」

 アルフォンシーナは、惚けた顔でサグラチカを見ていたに違いない。

「もう、あなたの鞄は運び入れておきました。とりあえず、ゆっくりお休みなさい。しばらく、この部屋付きの女中を付けますから、なんでも言いつけてね。遠慮はなしよ。女中にも失礼がないように、よく言っておきますから。隣はソーサ先生のお部屋だし、ガラさんはその向こうへ引っ越したから、あの方達に聞いてもいいわね」

 そして、気が付いた時。

 アルフォンシーナは中庭に面した居間の、青いガラスモザイクの上の椅子に座っていた。

 誰が中庭との界のガラスの嵌った格子戸を、閉めて行ってくれたのか。それにさえ気がつかないまま、まどろんでいたらしい。

 これもいつの間にか、居間の暖炉には火が入っており、そこの鉄鍵にかけられた薬缶がしゅんしゅんと音を立てていた。

 静かだった。

 その静けさは、娼館の中ではとんと味わったことのない種類の静けさだった。

「これからのことを、考えなきゃ」

 そう、彼女は、さっき言われた言葉を呟いてみたが、すぐには何も思いつくはずもなかった。 

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