十一月は事件と陰謀の月

(こうして俺が知っちまった以上、お前を黙って、カスティージョに身請けさせちまうわけには、いかないんだよ。……お前の『使い方』は、俺の『ご主人様』がお決めになる)

 アルフォンシーナは、先日、この部屋をエルネストが訪れた時に、彼が言った言葉を、ちゃんと覚えていた。それも、一言一句、正確に。それほど、いくら高級娼館の娼婦とはいえ、店に身柄を拘束された女であることでは変わりがないアルフォンシーナにとって、あの話は重要なものだったのである。

 そして、今。

 彼女の前に、貧相な中年男を引き連れて現れたのは、この街の女大公。

 その肖像は、今年の六月の皇帝オドザヤ即位の日の読売りに出たから、彼女も見ていた。新帝オドザヤの方は清らか、という言葉がぴったりで、「すごいような美人」という印象だった。そして、大公カイエンの方は、神殿の神像のように整った顔で、この街の番人にふさわしい清廉潔白な印象を感じたものだ。

 この店の女たちも、あの時は読売り各紙を回し読みしながら、ああでもないこうでもない、と無責任なおしゃべりに興じたものだった。

 今の大公カイエンについて、アルフォンシーナの知っていることと言ったら、あの時分、他の娼婦たちとのたわいもないおしゃべりに出て来た、一般的な噂話以上のものではない。

(大公様ってのは、あの、前の皇帝陛下のご勘気を被ってクビになった、フィエロアルマの将軍様を男妾にしたっていう方だろ? それにしちゃ、ご清潔なお顔じゃないか)

(今年の春に、外国の皇子様を婿にしたんでしょ? 違ったっけ)

(違わないよ。で、その二人以外にも、後宮に男を溜め込んでるって噂だ。女だてらに『後宮』なんて、あられもない話だな、って思ったけど。……肖像画を見たら、お固そうな顔に見えたから、人間はわからないもんだね)

(お客の伯爵様、子爵様の話じゃあ、肖像画はかなりよく似ているって話だよ)

(えー。それじゃあ、このアストロナータ様とそっくりな顔で、そんな尻軽なのかい? あたしはアストロナータ神様を信心しているんだよ。いやだねえ)

(でもさあ、噂じゃ、下町の事件現場なんかにもわざわざ、いらっしゃるって話だよぉ。足が悪いってのも本当だってさぁ。いつも杖を突いてるからすぐわかるって。きれいな若い女が杖突いてたら、そりゃあ目立つよねえ)

(そうそう! 貸本屋が言ってたけど、表通りのでっかい本屋のお得意さんなんだってよ。馬車で乗り付けて、流行りの小説本を、山と買って行くんだってさ)

(ええー? 大公様って、確か前の前の皇帝陛下の娘かなんかだろ? やっぱりちょっと変わっているのかね)

(そうでもないだろうと思うよ。お貴族の奥さんたちってのは、裏じゃすごいらしいからねえ)

 などなど。

 アルフォンシーナ自身は、上客のカスティージョから「女大公の地位を守るために、女皇帝を担ぎあげた、平民宰相とつるんだ生意気な女」と聞いていたが、別にその話題で熱弁を振るう気はなかったので黙っていた。そもそも、身分が違うではないか。雲の上の人たちのことを、ああでもない、こうでもないと言ったところで今日の稼ぎが増えるわけでも、借金が消えるわけでもない。

 極めて現実的で、その上におしゃべり好きでもないアルフォンシーナは、女たちの話だけはしっかりと聞いていた。何がお客との会話の中で出てくるかわからないから、いつもどんな話題でもちゃんと頭に入れておくことにしていたのだ。


 暖かい海の底のような、青い部屋の中。

 その女大公の本物が、アルフォンシーナの目の前にいる。

 帽子を被っていたから、話し始めるまでは気がつかなかったが、声を聞いた途端にはっとした。それくらい、二人の声は似ていたのである。

 そして、帽子の下から現れた顔にも、驚かされた。あの皇子様エルネストとよく似ていたからだ。

 エルネストがこの店に来るようになったのは、六月の夏至の日の即位式から、しばらく経ってからだった。だから、彼の顔を見て、「どこかで見たような……」とは思わないではなかったが、それが大公の肖像画とは気が付かなかった。敏腕で目ざとい女主人のカティアでさえも、何も言っていなかったから、誰も気が付かなかったことになる。

 それは、女と男だ、ということもあったが、だんだんにエルネストの正体がわかって来ると、まさか夫婦でここまで顔が似ているとは考えもしなかった、ということもあったのだろう。庶民には、大公の夫が「外国の皇子様」ということは知れていても、彼らが血縁関係にあることまで、伝わってはいなかったのだ。

「じゃあ、早速だけど、二人きりで話がしたいんだ」

 驚いているアルフォンシーナの前で、大公はアルフォンシーナに言ったとも、お付きの中年男に言ったとも、どっちにでも取れそうな言い方で、そう言った。

 なるほど、エルネストの言っていた通り、カイエンの話し方は、ぶっきらぼうというか愛想のない、男のような話ぶりである。声だけでなく話しぶりも似ている、と彼が言っていたのは本当のようだ。

「ああ。そうでしょうな。じゃあ、私は奥のお部屋にでも……ああ、アルフォンシーナ君、奥の部屋はその、寝室なんだろうね?」

 小柄で痩せていて、貧相な金貸し、それも冷酷非情のヤバいやつ、にしか見えない中年男が急にアルフォンシーナの方へ話を向けたので、彼女は今夜何度目かにびくりと身を震わせた。

 こっちの方が地なのだろう、中年男の話しぶりはまるで偉い先生かなんかのようだ。偉い先生でお金持ちはあまりいないから、この店の客に学者だの先生だのは少ないが、インテリ階級がまったく来ないわけではない。

「ああ、いえ、はい。そうですけれど……」

 どうなってるんだろ、このおじさん、と思いながら、やっとのことでアルフォンシーナが答えると、中年男は片足をかばいながら、どっこらせ、とソファから立ち上がってしまった。

「ああ、そう。それじゃあ、殿下、私もこの頃忙しくてですなあ。秋募集の隊員の訓練がありますからな。あちらの部屋で休んでいますから、お話が終わったら起こしてください」

 そう言うと、中年男はカイエンの返事も待たずに、さっさと寝室の扉を開け、「わあ。広い寝台だな。私の部屋のと同じくらいだ。たまには正しい用途で使ってやるのもよろしかろう」などと、普通の声で独り言を言いながら、扉の向こうへ消えてしまった。

 殿下、とは呼んでいたが、とてもお付きの召使いだのなんだのが、主人に対してきく口ぶりではない。「起こしてください」と言ったところなど、あまりにぞんざいではないか。

 アルフォンシーナが呆れて見ていると、向かい側に座ったカイエンが、取り成すような言葉を口にした。

「あの人は、大公軍団の最高顧問の先生なんだ。大公宮に住んでいるから、家族も同様なんだよ」

 最高顧問、大公宮に住んでいる。アルフォンシーナはどこかで聞いた話のような気がした。そして、何秒後かには思い出していた。それも、読売りに出たんじゃなかったか。

 アルフォンシーナが黙っていると、カイエンは急に心配そうな顔つきになった。すましていると神殿の神像のようだが、表情が変わると印象がガラリと変わる。その様子は、どこかエルネストとも共通するものがある。皇子様皇女様というのは、こういうものなのだろうか。

「……あのう、私の話し方は馴れ馴れしすぎるかな? いつも、こんな調子なんだけど。でも、初対面だからな」

 馴れ馴れしいのではない。現在、この国で皇帝の次に偉い大公殿下が、娼婦風情に話しかけるには丁寧すぎるほどだ。本来ならば、こんな店に来ることもなければ、娼婦と一対一で話すこともないはずの人なのだから。

 アルフォンシーナはきっと顔を上げると、その瑠璃色の目でまっすぐにカイエンの顔を見た。ここまで来て、やっと覚悟が決まった。

 アルフォンシーナは、こういう高級な店にいるから、貴族のご婦人かなんかのような話し方も叩き込まれている。その上で、「売り」として定着させたのが、今の男のような話しぶりなのだ。彼女は、完璧な上流階級の話し方でもって、カイエンの問いに答えた。

「いいえ。私のような身分の者に、そのようなご心配は無用です。こうして、向かい合って座らせていただいているのさえ、畏れ多いことなのですから」

 アルフォンシーナがそう言うと、カイエンは灰色の目を見張った。アルフォンシーナの声音の中の硬い響きに気が付いたのだろう。

「ああ、そうか。じゃあ、本題に入ろう」

 カイエンはそう言うと、寄りかかっていたソファの背から、ちょっと前へ乗り出した。小柄な彼女は、ソファにふんぞり返っていると、足が浮きそうになるのである。

「わかりました。……何か、お飲みになりますか」

 アルフォンシーナは、話の腰を折るつもりは無かったが、何もないテーブルに気が付くと、そう言わずにはいられなかった。どんな話になるのかは、なんとなく想像がつく。そんな話を、飲み物という「小道具」なしに続けるのは、後で困るだろうと慮ったのだ。

「お茶、と言いたいところだけど、それだと部屋の外に頼むことになりそうだ。……そうだなあ、ワインや果実酒は悪酔いしやすくて、翌日に残るって聞いたから、なんか蒸留酒……金色の方の蒸留酒ロンにしようかな。それと水。できれば、レモンとかライムとかも」

「……同じご注文なんですね」

 アルフォンシーナは言いながら、立ち上がって酒やグラスの入っているキャビネットへ向かう。その背中へ、カイエンの小さな疑問符がぶつかって落ちた。

「えっ?」

「エルネスト様とです。あの方もいつも、金色の方の蒸留酒ロンを飲まれるんです」

 金色の方が値段は高いが、ロンは砂糖黍から作られる、安酒である。

 アルフォンシーナが、庶民的な強い酒の瓶とグラスを載せた銀盆をテーブルに載せながら、そう言うと、カイエンはふーっとため息をついた。

「私がその酒を注文したのは、うちの執事が夜遅くに飲むことになった時に、それをもって来たからで、エルネストのまねじゃない」

 その声の、うんざりしたような、嫌なものを振り払うような調子を聞いて、アルフォンシーナは緊張した。今のは、何気ない風を装ってカイエンとエルネストの間柄を計ろうとしたのだ。エルネストは何度も、「ご主人様に構ってもらえない」から、声の似ているアルフォンシーナのところへ通っている、と言っていた。

 閨の中でのあれこれからも、彼が妻であるカイエンと夫婦らしい関係ではないことは推測できた。

 そして。

 皇子様エルネストはそれでも、大公カイエンを愛しているのだろうと言うことも。

 では、カイエンの方はどうなのか、と思ったのだが、なるほどこれはこじれた関係なのであるらしかった。

 よく考えれば、二人が結婚したのは今年の四月の終わりのことだ。初めて、エルネストがこの店にやって来たのは夏頃だったから、二人の中は結婚後すぐにこじれたことになる。というか、カイエンの方がエルネストを疎み出したのだろう。

 確かに、エルネストのあの乱暴な言葉遣いやら、押しの強い性格やらは、お姫様育ちの女性には許容できないものなのかもしれない。

 シイナドラドでのことなど知らないアルフォンシーナの頭で成り立ったのは、こういう推測だった。

「申し訳ございません。口が過ぎました」

 言いながら、アルフォンシーナは素早く二つのグラスに酒を注ぎ、レモンを添えてカイエンの前に置いた。別のグラスに入れた水も忘れずに。

「構わない。……私もこれから、あなたの心に踏み込む話をすることになるだろうから」

 カスティージョによる身請け話のことか。

 そう、理解しながら、アルフォンシーナは、長いまつ毛を伏せてグラスを見つめているカイエンの様子を、黙って見ていた。

 寝室からは何の音も聞こえない。あの、最高顧問とかいう男の方は、言葉通りに寝台に寝転がって眠り込んでいるのかもしれなかった。

「回りくどい話は苦手だから、直截に尋ねるけれども、カスティージョがオドザヤ皇帝陛下の御即位に反対する勢力だった、ってことは知っている? 元老院大議会を招集するべく、貴族たちの署名を集めたことは?」

 言いながら、金色のロンのグラスへ、カイエンは自分でレモンを絞った。そんなことはしたことがないのだろう、その手つきはかなり危なっかしかった。

 アルフォンシーナは自分がすべきか、と思わないではなかったが、普通の客ならともかく、賤しい娼婦の手で大公殿下にそんなことをするのは避けるべきだろうと思って、あえてしなかったのだ。それでも、彼女は気が付いて、黙って真っ白なナプキンをカイエンの前に置いた。

「ありがとう」

 カイエンは優雅な仕草でナプキンを取ると、静かに果汁のついた指先を拭う。

 その爪が短く整えられているのを見て、アルフォンシーナはカイエンが大公として現場に出るような仕事もしている、ということを思い出した。娼婦である彼女の爪は長く、爪紅で染められているが、普通は貴婦人たちの爪も長いはずだった。

「はい、存じております。こういう仕事ですから、普通は、お客様のおっしゃったことは口外できませんが、今日はお客様のお相手を致しているのではございませんから、何でもお答えさせていただきます」

 これは、この街の番人の尋問なのだから、とアルフォンシーナは言外に言ったのだろう。

 カイエンはグラスを口元に運び、一口飲みながら、これは話が早そうだ、と思った。髪や化粧、衣装はいかにも色街の女だが、青緑色に塗られた唇から出てくる言葉は簡潔でわかりやすい。

「そうしてくれると、私もありがたい。じゃあ、エルネストの話を聞いて、私がここへ来た理由もわかるだろうか」

 エルネストは、カスティージョの被加虐趣味、簡単に言えば「いじめられながら致すのが好き」という話を喜んで持ち帰った。だから、大公の側が、この醜聞を政治的に利用し、カスティージョを将軍の地位から追い落とす一助としようとしていることは想像できているはずだった。

「……カスティージョ様の醜聞を流すおつもりでしょう」

 アルフォンシーナは答えながら、自分もこれで終わりか、と覚悟した。

 エルネストには、カスティージョには話さない、と言ったが、今日までにカスティージョがここを訪れていれば、他の客の話とは言わずに、自分に言い訳をして話したかもしれなかった。事実、エルネストが居続けをしなければ、あの翌日にはカスティージョに会っていたのだ。

 ああ、ではあの居続けも、カスティージョに次の予約をさせないためだったのか。売れっ子の娼婦の予約は、何回も先まで抑えることはできない。

 大公が、こうしてやって来た以上、もうこのまま自分を放置して行くはずがない。目を離せば、カスティージョに密告されるかも知れないのだ。

 そして、大公がカスティージョの醜聞を流せば、カスティージョはすぐにその情報の出元に気が付くだろう。自分が無事でいられるはずがない。

 カイエンがここへ来たのは、自分に詳しい話を話させるための、説得に来たのだろうか。部下をよこして、アルフォンシーナを引っ立てて行けば良さそうなものだが、それでは目立つと考えたのか。

 それにしても、大公のカイエン自身が来る必要は、どこにもない。それだけが、アルフォンシーナには疑問だった。

「そう。汚い手だけど、北であんなことが起きた今、この国の南の守りを、女帝反対派の彼に任せていることは難しいんだ。出来れば自分から辞めてくれると、コンドルアルマの将兵たちも納得がいくと思うんだよ」

 カイエンは心の中で、続けていた。

 皇宮前広場プラサ・マジョールで、彼の息子のホアキン・カスティージョが起こした事件で、すでにカスティージョの名前には傷がついている。その上に、彼本人のあり得るべからざる秘密が公表されれば、彼の軍人としての地位は汚辱に塗れる。そうなれば、配下の将兵たちの彼への尊敬と支持も揺らぐはずなのだ。自ら辞めた将軍のために決起するようなことはないだろう。

「そうですか」

 アルフォンシーナには、政治的なことはどうでもよかった。彼女の心配は、カスティージョの秘密を話した後の自分がどうなるのか、それだけだ。

「それでね。私が今日、ここへ来たのは、あなたの気持ちを確かめたかったからなんだ」

「ええ?」

 だが、カイエンが次に言った言葉は、アルフォンシーナの予想にはなかった言葉だったので、彼女はちょっと大きな声を出してしまった。

「醜聞を流すと決まったら、あなたの身柄を安全なところに置かなければならない。そこで、その前に聞いておきたいことがあったんだよ」

 アルフォンシーナは普段、あまり表情を変えたりしない方だ。慌てたり、焦ったりすることはみっともないと思っていた。だが、この時ばかりは彼女はあっけにとられた顔をしていたに違いない。

「なんですって? 今、なんとおっしゃいましたか」

 カイエンは左手で、今夜はくるくるとした巻き髪になっている前髪をいじっている。

 それで、それまで前髪に隠れていた左頬の傷があらわになっていた。白い頬に走る刀傷。化粧気がない顔にそれはくっきりと影を落としている。女の、それも皇帝の次に高貴な人の顔にある、刀傷だ。

 つるんとして、きめの細かい肌であるだけに、その傷ははっきりと目立った。

 アルフォンシーナはそれを目にして、この、自分と同じくらいの年齢の大公殿下が、今までにくぐってきたものの一端を見たような気がした。

「あのね、さっき言った通り、踏み込んだ話をするよ。で、まず聞くけれども、あなたはカスティージョのことはどう思っているの? 身請け話には乗り気なの?」

「えっ。それは、お店との間で決まったことで……」

 アルフォンシーナがこの店に来たのは、まだ十代の初めの頃だが、それは、女衒の手によって連れてこられたのだ。つまりは、この店には借金があるのである。

 それでも、場末の店でなく、こういう高級な店に売られて来たのは多分、少しは幸運なことだったのかもしれない、と後にアルフォンシーナは思ったこともあった。食事もいいし、病気をもらう可能性も天と地ほどに違う。

「じゃあ、カスティージョのことは、別に好きじゃないの?」

 この人は何を言っているんだろう、とアルフォンシーナは思った。今日ここにこうして大公自らが来ている以上、もう、カスティージョの身請け話は消えたも同然ではないか。

 意外なのと、呆れたのとで、言葉が続かないアルフォンシーナに、カイエンはどんどん質問をぶつけてくる。アルフォンシーナはやや受け身の態勢となった。

「それは……旦那として面倒を見ていただき、今度は身請けもしてくださるとおっしゃいますので、それなりの気持ちは……」

「それなりって、どのくらい? 一生、一緒にいたいの? カスティージョには奥さんがいると思うけど、どこかに家を用意してくれるのかな。それとも、ハーマポスタールの伯爵家の本邸に入るのか」

「え、ええと、郊外の別邸に、と聞いております。き、気持ちは……」

 自分のカスティージョへの気持ち。

 実のところ、アルフォンシーナはそんなことは頓着したこともなかった。少しでも若いうちに金持ちに身請けされる、それがこうした商売の花道だった。そういった意味では、裕福な伯爵家の当主でコンドルアルマの将軍でもある、マヌエル・カスティージョは、年齢はさておき、理想的な身請け先だった。

 郊外の別邸をもらい、ゆくゆくはハーマポスタール市内に店でも持たせてもらえたら、カスティージョに飽きられても一人で生きていける。そこまで計算していたのだ。

 だが。

 そこまで考えた時、アルフォンシーナは初めて、自分の考えの卑しさを感じた。そして、それを感じさせた、目の前の存在を初めて、憎らしいと思った。

 多少は苦労もしたようだが、所詮はお姫様。下賤な娼婦が、必死で掴み取ろうとしているいい話を壊しに来ただけではないか。身柄の安全を図る、とか言っても、ほとぼりが冷めればどこまで面倒見てくれるというのか。

 しばらく黙っていたアルフォンシーナが、次に顔を上げてカイエンを見た時。

 受け身に流れようとしていた感情から、彼女は足を踏ん張って攻勢に転じた。

「あなた様はもう、私の処遇は決めておられるのでしょう? それなのに、何をいまさら、私の気持ちなどお聞きになるのですか」

 アルフォンシーナの前のグラスの中身は、それまで、一度も手をつけられぬままだった。それを思い出したように、アルフォンシーナはぐいっと一口飲んだ。喉が焼けるような辛口の蒸留酒が、彼女の心に火を点けた。

 これを言ったらお仕舞い、とは理解していた。カイエンは身柄を保護してくれる、と言った。それを反故にしかねない物言いだと。

 それでも、彼女は男のカスティージョや、エルネストには感じない反発を、同じ女のカイエンには感じずにはいられなかったのだ。

「私の意思など、関係ないではありませんか」

 カイエンの方は、急にアルフォンシーナの態度が硬化したのに驚いた。

 だが、カイエンもアルフォンシーナがそう言いだすかもしれないという予想はしていた。自分と関係ないところで、身請け話は反故にされ、この先、どう扱われるのかもわからないのだ。「はいわかりました」と言う方が怪しい。

「そうだね。私はあなたの身柄を直ちに確保し、無理やり話を聞き出したら、すぐに醜聞を流し、あなたはしばらく軟禁しておいて、ほとぼりが覚めたら放り出す、という方法を取るのが、一番賢い方法だったんだろう」

 カイエンもまた、グラスを傾けた。ちょっと考えてから、彼女は水のグラスからも一口飲んだ。口の中の酒とレモンの香りが、いい感じに薄くなる。

「……でも、そうしたくなかったんだ」

 カイエンがそう言うと、アルフォンシーナは細く整えられた眉を、厳しくしかめた。

「良心の呵責を感じる、とでもおっしゃいますの?」

「そう、それもある」

 カイエンがその時、思い出したのは教授と話した時に、彼に言われた言葉だった。

(殿下。殿下がその娼婦、アルフォンシーナの身の上を心配しておられるのは、本当でしょう。わかりますよ。ですが、殿下自ら会いに行く、とおっしゃるのには、他に理由がおありでしょう?)

 そうだ。

 理由は、あるのだ。ここへ、わざわざ来た理由が。

 それは、カイエンにとってはとても話しにくいことだったので、彼女はもう一口、酒をあおった。今度は水で薄めずに。

「あなたは……エルネストのことは、どう思っている?」

 アルフォンシーナは、またまた、意外な方向へ話が行ったので、すぐには返事をしなかった。できなかったと言うべきだろう。

「どうって、お客様です。奥様に冷たくされて、こんなところへ奥様に声の似ている娼婦を買いに来る、かわいそうな旦那様ですわ」

 やがて答えた言葉には、かなりの棘があった。

 カイエンが激昂して席を立ってくれれば、いっそすっきりする、とアルフォンシーナは思っていた。そうしたら、窓の外に立っていた、あの見張りの男に拉致されて、直ちに連行されるかもしれないが、お姫様のきれいごとに付き合っているよりはいい、と自暴自棄な気持ちだった。

「さっきから、変なことばかり訊く、と思っただろうね。気を悪くさせてしまったようだ。……今日、ここへ来たのはね、私は聞きたかったんだ。エルネストが身請けする、と言ったら、あなたはカスティージョとエルネスト、どっちを選ぶかって。それで、カスティージョを選ぶなら、醜聞を流すのはやめようと思っていた」

 今度こそ、アルフォンシーナは驚愕した。

 自分がカスティージョを選ぶ、と言ったら、この大公は政治的に有効な美味しい策略を諦めた、と言うのか。そのために、ここに自ら乗り込んできて、先程までの質問をしたと言うのか。

「さっきの話ぶりじゃあ、あなたは、カスティージョに特に思い入れがあるのじゃなさそうだ。それなら、一時的にでも、エルネストのところに引き取られても構わないんじゃなないか? うまくいかなかったら、それはその時に、ちゃんとあなたの身が立つようにするから」

 わけがわからない。

 アルフォンシーナは混乱した。この大公殿下ひとは、頭がおかしい。

 どこの世界に、夫にあなたを身請けさせたいんだが、どうですか、などと言い出す妻がいると言うのか。夫婦の仲がこじれているにしてもだ。

 アルフォンシーナが黙っているからか、カイエンは一人で話し続ける。 

「まあ、エルネストが嫌いだと言うんなら、私があなたを直ちに身請けしよう。私の名前は使えないけどね。ああ、これはエルネストが引き受ける場合も同様だ」

 とんでもないことに巻き込まれた。身請け話が壊れ、自分の身柄は風前の灯。そういう覚悟はしていた。だが、話がこんな風に転がって行くとは思ってもみなかった。

 アルフォンシーナは、しばらくの間、口がきけなかった。

「ねえ、どうだろうか」

 俯いて、考え込んでしまったアルフォンシーナを、カイエンは急かしているように見えないようにしながらも、覗き込むようにした。

(この人、本気なんだ。……怖い。天然だから逆に恐ろしい。でも、あれ? 皇子様の方は?)

 そうだ。カイエンはこう言っているが、エルネストの方はどうなのか。アルフォンシーナは怖々、顔を上げた。

「あの、あなた様はそうおっしゃいますが、あの方の方は、どうなのでしょうか」

 カイエンはまっすぐに伸びた眉毛を、ぴくりと震わせた。

「あの方、ってエルネストのこと? 知らないよそんなこと。でも、あなたのことは私が決める、って、あいつはあなたに言ったんでしょう? だったら別にいいじゃないか、そうじゃない?」

 同意を求められても困る、とアルフォンシーナは目で訴えてみたが、伝わらなかった。

「わかりました」

 もう、アルフォンシーナはこう言うしかなかった。だが、カイエンはそれだけで許してはくれなかった。

「そうか、よかった。で、エルネストのことはどうなの。それによって、あなたの身柄を置く場所が変わるんだよ。帰ったら、すぐに受け入れ準備をしなければならないからね」

 カイエンはちょっと考えてから、続けた。

「大公宮へ来るんなら、もういずれ知れるだろうから、言っておくか。……私が去年、シイナドラドへ行ったことは知っている?」

「はい、もちろん。こんな店でも読売りに出るような話は、みんなで話しますから」

 カイエンは、言いにくそうにまた、グラスを傾けた。灰色の目の目尻が、うっすら赤くなってきたようだ。

 結構飲んでいるようだが、大丈夫だろうか、とアルフォンシーナは思ったが、黙っていた。

「あいつとは、シイナドラドで最悪な出会い方をしてね。結婚なんか、したくなかったんだけど、国と国との間の事情があって……。まあ、いずれ誰か婿にしなければならなかったから、しょうがないんだ。でも、ああしてふらふらさせとくのも、ね。好きな人がいるんなら、一緒になった方がいいと思って」

 いや、あの方が好きな人はあなた様です、と言いたかったが、カイエンの哀しげに変わった表情を見ると、アルフォンシーナはもう、何も言えなかった。かなり、根深い事情があるのだ、と、カイエンの表情だけでも感じ取れた。それに、噂では他にも愛人がいるようだし、そっちが彼女の本命なのかもしれない。

「では、私は……あなた様、いえ、大公殿下のお世話になりたいと思います」

 店で、客と娼婦の関係ならいいが、大公宮へ引き取られてまで、あのエルネストにカイエンの代わりとして扱われるのは勘弁したかった。

 アルフォンシーナが、意を決してそう言うと、カイエンは意外そうな顔をした。

「ああそう。……そうそう上手くは行かない、か。わかった、じゃあ、後宮に別の部屋を用意しよう。しばらくはあそこにいるのが、一番安全だろうからね。ああ、心配はいらないよ。あそこにはさっきの最高顧問……マテオ・ソーサ先生も住んでいるし、もう一人も、至極まともだから。変なのはエルネスト一人だけど、一番奥の部屋に押し込めているし、生真面目な侍従が四六時中見張っているから、あなたが嫌ならちょっかいを出すことはできないよ」

「えっ。でも、後宮でございましょう?」

 さっきのおじさんも後宮の住人で、他にも囲っているようなところに、女の自分も入れられるのか、と、アルフォンシーナは目を白黒させたが、もうカイエンは話は終わったと決めてしまっていた。

「そうだけど。別に男女で差別はしてないし。……よし、話は決まった。じゃあ、先生を起こしてこよう」


 カイエンが杖に手をかけて立ち上がる前に、アルフォンシーナがそれを押しとどめて寝室へ入ると、マテオ・ソーサは寝台の上で、布団を被って熟睡していた。その脇に、窓の外に立っていた怪しい男が幽霊のように佇んでいて、アルフォンシーナは死ぬほどびっくりした。

 だが、起きた教授は、その男に、

「ああ、シモン君。ご苦労だったね」

 と声をかけたので、不思議に思った。客商売の彼女は、一度聞いた人の名前は忘れないのだ。窓の外にいた男には、確か、「ナシオ」と呼びかけていなかったか。

 シモンと呼ばれた男は、黙って寝室の窓の外に出て行く。アルフォンシーナは知らなかったが、影使いである彼らは、外の壁伝いに移動できるのだ。

 部屋を出て行こうとするカイエンと教授を、毒気を完全に抜かれたアルフォンシーナは、無言で見送りかけたが、そこではっとした。

「私を連れていかないんですか」

 明日も、明後日も予約が入っている。カスティージョから申し込みがあって、ちょうどその日の客がキャンセルになったら、普通にあしらえる自信がなかった。もう、すっかり彼女は気持ちを大公宮の方角へ持って行かれてしまったようだ。

 一旦はカイエンに反発する思いを抱いたが、話がこう転んでは、もう男よりも女の方が信用できた。現金なものだ。

「うん? 大丈夫だよ。明日から先のあなたの予約は、身請けの日まで全部、私の方で抑えてしまうからね」 

 カイエンはなんでもないことのように、そう言った。

「身請けの方も、明日にでも話を進めさせるよ。金がかかるが、これでもこの街の大公だ。人脈もあるし、手早く動くよ。あなたの身請けが済んだら、その日のうちに醜聞を流す。カスティージョには出元がわかるだろうが、娼館から出た噂だ。声高にいいたてる事も出来まいよ。あなたがここにもういない、とわかったら、この店に尻を持ち込む事も出来ないだろう。下手をすると、やぶ蛇になるしね。大丈夫、しばらくはこの店の周りに治安維持部隊の監視をつけるから」

「そうですか……」

「明日から来る客だけど、うちの隊員たちはみんな忙しいから、エルネストを寄越すかもしれない。さっき、あんな話をしていて、申し訳ないけれど、そうなったら相手をしてやってくれ。嫌われたことは伝えておくし、なんなら真面目な侍従に見張らせるよ」


 その夜から、一週間もしないうちにアルフォンシーナの姿は、店から消えた。だが、カスティージョがそれを知るのは、そのことが起こった当日になってからだった。







 そして。

 十一月下旬に差し掛かった、ある朝。

 とある伯爵家の広大な屋敷。その自室の中を、熊が徘徊するように回りながら、怒りをぶつけているのは、伯爵家の当主その人だった。

「やられた! してやられたわ! 畜生、宰相か大公か、どっちもだろうな! やってくれおった! あのすまし顔の神官崩れに、生意気な尻軽女め! 悪どい手を使いやがって!」

 がしゃん。

 もう五十がらみだが、たくましい体格の男の手から飛んだグラスが、暖炉の大理石に当たって砕けた。

 闘犬のように肉のたるんだ顔の中、ぴんと糊で固めた口ひげが、虫の触覚のようにひくひくと上下に揺れている。

「ち、父上……」

 その日の読売り数紙を手に、部屋の隅でがたがたと震えているのは、これも体の大きい若い男だ。

 家族の誰もが、本人にこの話を伝える役割を拒んだ。だから、最後に「死者の日ディア・デ・ムエルトス」に不祥事を起こし、謹慎中の息子がその役目を押し付けられたのだった。

 さすがに、このことを伝えないままに、伯爵家の当主が出かけるようなことが無いよう、誰かが伝えないわけにはいかなかったのだ。

 この日、一部の正統派からは外れた、貴族や大商人の醜聞や扇情的な事件ばかりを扱う読売りによって帝都にばらまかれたのは、コンドルアルマ将軍、そして伯爵のマヌエル・カスティージョのとんでもない閨での性癖を暴露するものだった。

 それは、先帝サウルの死後すぐにばら撒かれた、彼と妹のミルドラの醜聞が流された時と、同じ手法だった。

 いつも、発禁処分を恐れているような際物の読売りだったが、一方では財力はあるが爵位などはない、裕福な市民たちをパトロンに持っていた。

 それに、先帝サウルはこういう方向には寛容というか、無関心な姿勢を貫いたので、醜聞を書き立てられた貴族が処罰を願っても無視されるのが常だった。

「アルフォンシーナだ……あの売女め、俺を売りやがった」

 言いながら、マヌエル・カスティージョ伯爵は、息子のホアキンの手から読売りを奪い取ると、びりびりと破き始めた。

「ホアキン、お前すぐにアルフォンシーナの店へ行って来い! あの売女をここへ引きずって来るんだ!」

 マヌエル・カスティージョは叫んだが、息子のホアキンは動かなかった。

「駄目だよ。俺は謹慎中だよ! 外に出たのを知られたら……」

「ぐぅ」

 息子の意見は、もっともな主張だったので、マヌエル・カスティージョは、すぐには次の言葉が出てこなかった。ホアキンは親衛隊員だったが、「死者の日ディア・デ・ムエルトス」の事件で謹慎中なのだ。

「じゃあ、執事をやれ! うちの郎党をつけてな!」

 将軍であるカスティージョの屋敷には、居候のような輩がおり、見所があると見た者をカスティージョがコンドルアルマの兵卒として推薦し、雇い入れるようになっていた。本来は兵卒の募集は公募だが、将軍のお墨付きを持たせて、自分の息のかかった者を優先的に採用させていたのだった。

 ホアキンは慌てて部屋を出て行き、それから昼前になるまで、誰もこの家の当主の部屋に入って来る者はなかった。

 やがて、けたたましいノックとともに扉が開かれ、部屋に入ってきたのは、真っ青な顔をしたこの家の執事だった。

「だ、旦那様……」

 マヌエル・カスティージョは血走った目を剥いて怒鳴りつけた。

「遅い! アルフォンシーナはどうした!?」

「それが……もう、何日か前に、急に身請けされたとか……」

 その答えを聞くと、カスティージョは狂ったように喚き散らした。

「あの店もグルか! 火をつけて来い! 火をつけて叩き壊して来るんだ! 売女どもみんな焼き殺してやれっ!」

 カスティージョは太い腕を振り回しながら喚いたから、執事は後ろに下がって行ったが、それでも言うべきことは言った。

「そんな……あそこは帝都の一等地、有名な商店やレストランテもございます。火事など起こしましたら、大変なことに……」


 それから小一時間、執事はカスティージョの怒りの矢面に立たされた。

 彼は一人ではどうしようもないので、屋敷の郎党たちを部屋に入れて、主人を取り押さえさせ、その間に医者を呼びにやった。

 やがてやってきた医者は、数人がかりで取り押さえられ、それでも床の上でのたうち回るカスティージョの顎を固定させ、鼻をつまんで鼻呼吸を遮断して口を開けさせると、瓶に入った液体をトロトロと口の中に注ぎ入れ、むせる間も与えずに丸薬も放り込んだ。

 やがて、大男のカスティージョが静かになった時には、部屋の中は壊れた家具が転がり、調度品が壊れ、あるいは破れた凄まじい様相となっていた。その中で、郎党たちと執事、それに医師がへたり込んでいた。

「あああ。もう、どうすりゃあ、いいんだ」

 そして、力なく扉のところにうずくまった、ホアキン・カスティージョに答えてくれる親切な声は、一つもなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る