ある細工職人の死


 我々の兄弟を殺したのはあいつ

 あの豚野郎を打ち倒せ

 自分たちの言いたいことのために戦え

 それが我らの熱狂

 それが我らのための標語エスロガン

 汚れた奴らのやったことを

 奴らの造りあげた虚栄の城を

 打ち壊し、太陽の元に晒せ 

 仲間の、兄弟の屍をも乗り越えよ

 新しい世界をこの手で創るまでは

 おまえは屍のまま

 葬られることもなく

 忘れ去られることもなく


 ああ、あれから長い時が過ぎ

 道の向こうから、あの時代の自分がやって来る

 虚栄の城を築いた自分を打ち倒せと

 徒党を組んでやって来る

 そんな目で見ないでくれ

 そんな目で殺さないでくれ

 私もそんな目でいたことがあったのだから


 殺される一瞬まで覚えている

 あの熱狂

 いつまでもおまえと一緒に行きたかったよ

 いつまでもあんな目のまま

 生きていきたかったよ




    周 暁敏ギョウビン「革命夜話」より「復興レナシミエントの末路」







 カイエンがその事件の報告を受けたのは、事件が起こった、ほぼ直後のことだった。

 その日、大公宮表の大公の執務室にいた彼女は、すぐに護衛騎士のシーヴを引き連れて、大公軍団の黒い馬車に乗り込んだ。大公家の紋章が、鋼鉄を木で挟んで作られた扉に打たれている、特別な馬車だ。

 軍団長のイリヤも、その日は秋募集の新隊員の訓練で大公宮の裏にある訓練施設にいたので、カイエンと同じ馬車で現場へと急いだ。馬車には並走する形で、ここまで知らせに来た隊員数名が同行している。

 一方、治安維持部隊の双子の元へも隊員が走った。だが、双子のマリオとヘススは、この頃、港で起こっている大掛かりな密輸グループの摘発に出かけており、すぐには駆けつけることができなかった。

 日頃は帝都ハーマポスタールの周辺の警備に当たっている、帝都防衛部隊へも連絡を送ったから、後から集まって来るだろう。


 十一月の終わりに近い、天気のいい日の正午ごろ、その事件は勃発し、直後に近くの大公軍団の署から隊員が駆けつけた。だが、その場の様子を見ると、今までに見たことのないその場の情景に、熟練の隊員でも咄嗟にはどうしたらいいのか、判断がつかなかった。

 それでも、事態の収拾に当たらねばならない事だけは確かだったので、現場の署長は大公宮と近隣の署へ、事態の報告と、その対処への指示、そして応援を頼むために、若手の署員を走らせた。

 事件の場所は、皇宮からそう遠くない場所だった。一方、大公宮は皇宮のある高台の、隣の丘にある。

 皇宮の周りは、由緒正しい子爵以上の貴族の屋敷が多いが、大公宮の周りは違っていた。

 歴史的に大公宮はハーマポスタールの治安を預かってきたから、大公宮前広場から市内へと続く通りは、馬車が悠々とすれ違える程に広く、その両脇には屋敷などはない。あるのは、帝都一治安のいいこの場所に店を構える、帝都でも指折りの商店や銀行だ。金座にも近く、周りは商業地域となっている。

 この日、カイエンの馬車が向かったのは、皇宮の方角だった。

 事件は、皇宮にほど近い、貴族たちの屋敷が建ち並ぶ地域で起きたのである。

「おい、人数はどれくらい集まっているんだ?」

 イリヤが馬車の窓から声を張り上げる。

 事件の内容が内容だったので、報告に来た隊員から詳細な話を聞くよりも先に、彼らは馬車に乗り込んだのである。

 実は、イリヤはカイエンが来るのには反対だったのだが、カイエンに押し切られている。貴族中の貴族である大公、大公軍団の頂点が出ないと収拾がつかないかもしれない。それくらい、この日の事件は最近は聞かなくなった種類のものだったのである。

 彼だけが隊員と馬で先行しなかったのも、同じ理由からだった。集まった群衆に取り囲まれ、動きが取れなくなるのを避けるためだ。隊員の乗った馬を引き連れた馬車なら、取り囲まれても、群衆に怪我人が出ないように動きようがある。

「自分が現場から離れた時点では、群衆の数は二百人ちょっと、と言ったところでした」

 馬車の音と、馬が石畳を蹴る音で、ろくに聞こえないのを、カイエンとイリヤは窓から首を出すようにして、無理矢理に聞き取った。

「なんで、そんな大勢が集まって、やって来るのに気がつかなかったのよ!?」

 イリヤが叫ぶと、馬上の隊員も叫ぶ。

 目一杯の速度で、石畳の上を疾走する馬と馬車の中では、舌を噛まないか心配になるが、それくらいの非常事態だった。

「……それが、近くのマスフェレール広場に集まってから、一気に現場の屋敷へなだれ込んだようで……」

「くそっ」

 イリヤが舌打ちする音。

「マスフェレール広場か。あそこは広場の真ん中に、木の植えられた、小さい公園みたいなのがありましたね。その真ん中にハウヤ帝国の旗が翻っている……」

 そう言ったのはシーヴだったが、もちろんカイエンにもそのことはもう、わかっていた。人々はばらばらにそこへ赴き、木の向こうに潜み、ある程度の人数が集まってから、行動に移ったのだろう。

「マスフェレール広場が見えて来ました! 現場はこのすぐ先です」

 騎馬の隊員が言うまでもなく、カイエンたちにもこの辺りの地理は頭に入っている。マスフェレール広場を右に折れれば、あとはまっすぐ、皇宮まで続く道なのである。

 その広場に入ると、馬車は皇宮のある右側ではなく、ぐるっと広場を半分回って、正面の道へと向かう。

 広場の手前から両脇は貴族の屋敷の敷地ばかりだったが、広場を越えるともう、道は大騒ぎとなっていた。

 とは言っても、貴族の屋敷は広大で、周りは鬱蒼とした生垣やら、鉄の塀だので囲われているから、すぐにはどの屋敷が事件現場なのかはわからない。

 集まった人々を、近所の署から応援に来たらしい、治安維持部隊の隊員たちが道の両脇に散らしていた。

 貴族の屋敷の地域だから、集まっている野次馬は皆、周辺の貴族の家の召使い達らしかった。地味な押し着せ姿が多いから、すぐにそれとわかる。

 それを見て、さすがにカイエン達の乗った馬車も、並走していた馬も、速度を落とす。

「ああ、現場はあそこだな。もう、屋敷の門の周りに縄が張られてら。自画自賛だけど、日頃の訓練が行き届いてるねえ」

 イリヤはなんだか満足そうだ。

「ああ、そこか」

 カイエンが叫んだ時には、馬車と馬はもう、隊員達が張った縄の前で止まろうとしていた。縄は門を丸く囲むように引かれており、野次馬がよじ登ったりできないようになっていた。

 すぐに、ばらばらと黒い制服が走り寄って来る。野次馬を抑える一方で、縄が退けられる。すぐに鉄の門扉が開かれ、馬車と馬は石造りの門の中へ入った。

 カイエンはちらっと見たが、石造りの門にも、鋼鉄の柵にも、由緒正しいある伯爵家の紋章が付いていた。そして、門扉の真ん中にある錠前が壊されているのが見えた。

 門を入ると、左右に立木が茂る中、石の敷かれた道が、奥の屋敷の前まで続いている。屋敷の前には馬車止まりがあり、ひらけた広場のようになっていたが、そこでは異様な光景が繰り広げられていた。

「なんだよ! 二百人どころじゃないじゃん!」

 イリヤが叫ぶ。

 そこでは、二百人ではおさまらない人々が、治安維持部隊の隊員の囲む輪とにらみ合っていた。群衆は男だけではない。中には少数だが女性の姿も混ざっていた。彼らは斧だの鉈だの、田舎の農夫が腰に下げている、山刀マチェテだのを持ち、屋敷に背中を向けて治安維持部隊と向き合っていた。

 治安維持部隊の方でも、上からの指示がないままに、市民を力で押しのけるわけにはいかないのだ。その点では、大公軍団の命令系統、そして地位や所属による権限の境界線は、きっちりと区分されていた。

 今日のような場合には、対処が遅くなることもあるが、個人の暴走を防ぐために過去の反省から築き上げられ、明文化されたものなのだ。

 人々の奥の方は、屋敷の中に入り込んでおり、中から物の壊れる音や、怒号が聞こえて来た。見れば、一階の窓はほぼすべてが割られていた。ガラス窓は高価なもので、貴族の屋敷や豊かな商人の家でなくては見られることのないものだ。それが、叩き壊されている。

 ここで隊員とにらみ合っている人たちは、中で暴れている仲間を守っているつもりらしい。 

 カイエンが、馬車から降りようとすると、イリヤはそれを片手で遮った。まだ、事態をすべて把握できてはいなかったからだ。

「あっ、皇宮前大広場プラサ・マジョール署のヴィクトル・カバジェーロがいるわ! おーい!」

 イリヤが頓狂な大声を出すと、さすがはイリヤが選んだ、帝都でも重要な皇宮前署の敏腕熱血署長らしく、向こうもすぐに気が付いた。

 彼は、群衆とにらみ合っている隊員達の指揮をとっていたらしい。

「団長!」

 三十代に見える、ガッチリとして、背の高い男がすぐに馬車の側へ駆けて来た。黒い制服の襟章や肩章を見れば、署長であることがすぐにわかった。

 彼が馬車の側に来ると、イリヤは馬車の扉を開けた。群衆は馬車に気が付いて、ざわめいている。

「ちょっと入って」

 カイエンとシーヴに向き合って座っていたイリヤが、奥へと身をずらすと、カバジェーロはすぐにわかって中へ乗り込んで来た。

 乗り込んで来て、そこで彼は硬直した。

 もちろん、そこにカイエンの姿を間近に見たからだ。カイエンが署長級の隊員と会うときは、普通は、一対一ではないから、彼はまだカイエンの顔をこんな近くで見たことはなかったのだ。

「ひぇっ。た、大公殿下!」

 カバジェーロは、賢明にも自分で自分の口を抑えたので、その声は馬車の外へは聞こえなかった。

「驚かせてすまなかったな。あの人々はともかく、この屋敷の主人が出て来たときのことを考えて、私が来た方がいいと判断したんだ。まあ、向こうは私など恐ろしくはないだろうが、まあ、こちらの方が上位貴族なことは間違いないからな」

 カイエンがそう言うと、カバジェーロは目を見張った。

 今年、三十路に突入した軍団長のイリヤより、カバジェーロの方が年上だろう。浅黒い顔は引き締まっていて強面だが、あたたかい茶色の目に愛嬌がある。

「ああ。それは……ありがとうございます。あの日、『死者の日ディア・デ・ムエルトス』の事件では、私が平民だったばかりに、親衛隊のお貴族隊員に押し切られましたから」

 そこまで言って、カバジェーロは慌てた。大公であるカイエンは「お貴族」の頂点であることに気が付いたのだ。

「いえ、あの、お貴族と言うのは言葉のあやで……」

 カイエンは黙ったまま、手を伸ばしてカバジェーロを抑えた。

「いい、いいから、事件の発端はあの人たちが、マスフェレール広場で集まって、この屋敷へ押し寄せたんだな?」

「はい。マスフェレール署の署長の話じゃそうです。署長は裏に回ってます。あの、『死者の日ディア・デ・ムエルトス』の事件で最初に暴行された細工職人が、一昨日、意識が戻らないまま、亡くなったそうで……」

 カイエンは目をつぶった。イリヤもシーヴも、それぞれにため息をついたり、顔を俯けたりしている。

「……それで?」

「はい。被害者の所属する装飾品細工職人ギルドでは、皇宮へ直訴したそうですが、いまだに加害者の親衛隊員たちは罷免もされずに、謹慎のまま。まあ、彼らも被害者が死ななければ、こんな暴挙に出ることはなかったんでしょうが……つい先日、あの、カスティージョ将軍の醜聞を書き立てた新聞社を、ここの屋敷の郎党が襲いましたでしょう。あれは、治安維持部隊でも予測していたので、大ごとにはなりませんでしたが、あの読売りも黙っちゃいなかったですから、記事になって衆目の知るところとなりました。それで、装飾細工師ギルドの連中、頭にきたんですな。親も親なら子も子、同じ目に合わせなきゃ、分からない輩だと意見が一致したんだそうです」

 カイエンはちょっと首かしげた。カバジェーロはおかしな話だとは思っていないようだが、彼女からすれば、それだけなら、装飾細工師ギルドは他の、もっと効果的な手を使ったはずなのだ。

 カイエンは大いに疑問を持ったが、それでも聞かないわけにはいかなかった。

「……では、この屋敷はコンドルアルマの将軍、マヌエル・カスティージョ伯爵の屋敷で間違いないのだな?」

 カイエンがそう聞くと、カバジェーロははっきりとした声で答えた。

「はい。ここはカスティージョ伯爵家の屋敷です。『死者の日ディア・デ・ムエルトス』の事件を起こした、息子のホアキン・カスティージョはこの屋敷で謹慎中のはずです」

 と。



「じゃあ、あの時、『死者の日ディア・デ・ムエルトス』の事件に駆けつけた、あんたが来たから、なんとかあの連中は暴れないで、ああして人間の壁を作ってるわけだな?」

 イリヤが聞くと、カバジェーロは深くうなずいた。

「ええ、そうです。私がここへ来たら、すぐに何人かが『皇宮前大広場プラサ・マジョールの署長だ』って言いましたから。あの事件の後で、目撃者の聞き取りもしましたし、被害者の所属する装飾品細工職人ギルドの長に説明したのも、私です。だから、彼らも我々に対して向かって来ることはなかったのでしょう。もっとも、そこをどいて我々を中に入れてくれ、と何度言っても、どいてはくれないんですがね。そこまでの信用はない、と言うことでしょう。ここまでやるからには、生半可な決心じゃないでしょうしね」

 カイエンは片手で両目の上を覆った。

「装飾細工職人と言ったら、器用な手先がすべてだろうに。その手に鉈だの、山刀マチェテだのを持って、暴力沙汰も辞さないとは……。誰か、焚きつけた者でもいるんじゃないかな」

 カイエンがそう言うと、イリヤの気配も固く冷たくなった。カイエンもイリヤも、頭に思い描いたのは同じものだっただろう。

 桔梗星団派か、ザイオンか、それともその両方か。はたまた、ベアトリアと螺旋帝国の外交官か。どうにせよ、この国に騒乱を起こしたい者の関与が疑われる。

「で? この屋敷にはその、新聞社にカチコミかけた郎党ってのがいるんでしょ? 腕に覚えの将軍の当主さんも、親衛隊員の息子さんも。……中に突入した、細工職人さんたちは大丈夫なの?」

 イリヤがそう言うと、カバジェーロも不安そうな顔つきになった。

「それですよ。今はまだ、中から暴れている声や、物の壊れる音がしてます。でも、静かになっちゃったら大変です。だから、早く中へ入りたいんですが……あの頑なな人垣があって、中に入れないんです」

「裏に回った、マスフェレール署の連中は?」

「もう、中に入っているはずです。だから、まだ騒いでいる音がしているんでしょう。でも、こちらは下手すると両方の側から攻撃されますからね。それに、隊員は殺さずに抑えるつもりですが、この屋敷の連中はそうじゃないと思われます。動きにくいでしょう」

 そこまで聞くと、カイエンはもう、黙ったまま立ち上がった。もう、一刻の猶予もないではないか。

「えっ、ちょっと殿下!」

 さっさと馬車の扉から、杖を突いて外へ出ようとしたカイエンを、イリヤとシーヴが止めようとしたが、もうカイエンの姿は人々に見えてしまっていた。

「女だ!」

「あれ! 大公殿下じゃないか?」

「大公殿下だぞ」

「あの杖、間違いない」

 カイエンが男だったら、そんなにすぐにはバレなかったかも知れないが、小柄な体に黒い制服、それも襟元や肩の肩章にきらびやかな刺繍の施された制服である。ボタンも宝石作りで胸元にも刺繍がある。後ろでまとめた髪も長い。何よりも、左手に持っている銀の持ち手に、黒檀の杖だ。

「やーだ、もう」

 イリヤはそう言ったが、その直後にはもう頭を切り替えていた。確かに、すぐにこちら側からも隊員を突入させるには、その手しかなさそうなのも事実だった。

 カイエンは腕を掴んでいたイリヤとシーヴの手が離れるのと同時に、もう馬車の入り口の手すりに右手をかけ、ゆっくりと馬車から降りてしまった。

「さて、と」

 カイエンが人々の方を見回した時、後ろから降りてきたシーヴが、カイエンの真っ黒な外套を後ろから黙って着せかけた。

「ああ、ありがとう」

 カイエンが落ち着いて、外套の袖に両腕を通した時には、あたりはしーんとしていた。杖を突いているから、杖を持ち替えたりして、着るのもゆっくりになるが、人々にはその一連の動作が、いやに余裕のあるものに見えた。

 そして、図ったようにその時、カイエンの馬車の背後から複数の馬の走り寄る音が聞こえてきたのだ。

「あっ!」

「あの方は!」

 驚きの声を上げる人々につられて、カイエン達も後ろを振り返った。

 その瞬間、土煙をあげて駆けてきた十頭を超える一団の、先頭の馬から、なんだか真っ黒で巨大な影が落ちてきた。

 みんなにはそう見えたが、それは、並外れた体格の大男が馬から飛び降りたのだった。

「ヴァイロンか!」

「あら、大将。早いのね」

 カイエンとイリヤ、それにシーヴはすぐにわかったが、そうでない人々にも、彼の正体は明らかだった。それは、カイエンの正体が一瞬でバレたのと、同じ性質のものだ。

 カイエンの真横に降り立ったヴァイロンの後ろで、乗ってきた馬が汗だくになっている。普通よりも大きな馬ではあるが、将軍時代の彼が乗っていた、あのウラカーンのような巨大馬ではない。ハーマポスタールの郊外からここまで、ヴァイロンの巨躯を乗せてきたのでは、そこに倒れないのが不思議なほどだ。

「……遅くなりました」

 そう言うと、ヴァイロンはカイエンを守るように前に出る。真っ赤な髪の下の、いつもは翡翠色の目が、金色に光っている。それを見るなり、そこで隊員とにらみ合っていた人々に、動揺が走った。

 街中にいきなり、燃え上がる炎のような色をした、巨大な獅子が現れたように見えたのかも知れない。

 彼の目の前で、前の方の人垣が崩れ、ぐすぐすと左右に別れて、屋敷の玄関まで細い一本の道が出来た。

 ヴァイロンの後ろからついて来ていたはずの、帝都防衛部隊の隊員達はヴァイロンの後について来ない。カイエンは奇妙に思ったが、一瞬、彼女と目を合わせて来たヴァイロンの緑の閃光のような目の輝きを見ると、ゆっくりとした瞬きを返した。

(他の帝都防衛部隊員は、左右に散ったか……)

 ヴァイロンの派手な登場で人々の注目を集め、その隙に馬車や後ろの木立に隠れて、彼の部下達は屋敷へ突入するつもりなのだろう。帝都防衛部隊の訓練には、こういう街中での不測の事態に対応したものが多いのだ。

「ああ、ちょうどいいところに来てくれたな」

 カイエンは何食わぬ顔で、そう言うと、ヴァイロンとイリヤ、それにシーヴとカバジェーロ達を従えて、人々と向かい合った。

「事情は、ここのカバジェーロ署長から聞きました。あなた方のお気持ちは、私も理解したつもりです。皇宮前大広場プラサ・マジョールでの事件の親衛隊員達の処罰が決まらぬまま、今に至っている事情も、よくわかっています。ですが、このような形で、法を通さずに解決を図ろうとするのは危ないことです」

 カイエンがよく通る声でそう言うと、何人かがはっとして、きっとした眼差しを上げた。

「その法が、俺たちを守ってくれないから、こうしてやって来たんだ! 無辜の市民が、皇帝の親衛隊に殺されたんだぞ! 皇帝は何をしているんだ?」

 カイエンはその反応は予想していたので、動じなかった。

「皇帝陛下は、事件後すぐに親衛隊長モンドラゴンを呼び、厳しく叱責されました」

「そんなの、口だけだ! モンドラゴンは今も親衛隊長のままじゃないか!」

 ヴァイロンが前に出ようとするのを、カイエンは右手を伸ばして止めた。

「装飾細工人ギルドのギルド長はいるか?」

 カイエンがそう聞くと、人垣の中から、年配の男が前に出て来た。一筋縄ではいかない、頑固そうな顔だ。

「私がそうだ」

 半分以上、白髪になった髪は、ぼうぼうに乱れている。革の前掛けをし、腕まくりをした右手に、山刀マチェテが光っていた。彼には、大公のカイエンを恐れる色はなく、それはヴァイロンに対しても同じだった。

 彼は、カイエンとヴァイロンを順繰りに睨みつけた。不遜極まりない態度であったが、カイエンは気にしなかった。 

「オドザヤ陛下は、モンドラゴンを呼び出したとき、黄金と銀作りの王冠を戴いておられた。小さいが精緻な細工のもので、金工細工の文様は迫り来る波を幾重にも折り重ねた意匠でした。その上に、真っ青な青玉サフィオと大粒の真珠が散りばめられていた。……あれを作ったのは、あなたでしょう」

 カイエンがあの日、オドザヤが黄金の髪の上に頂いていた、あの冠を思い出しながら言うと、ギルド長の顔つきが変わった。

「……波の文様に、青玉サフィオと大粒の真珠。黄金と銀作りの……」

 カイエンはうなずいた。

「そう。あの波の意匠は他の冠では見たことがなかったから、よく覚えている」

「それは、皇帝陛下が皇太女になられた時に、前のサウル皇帝陛下に命ぜられ、私が作ったものだ。間違いない」

 ギルド長はそう認めると、カイエンの目をまっすぐに見て来た。

「陛下は、冠を例に、あなた方は貴族の中にこそお得意が多い。そして、装飾品を問屋や店から引き上げることも出来るし、他のギルドに働きかけて、市場の流通を妨げることもできる。そうなったら、貴族の内部からも反発が出る。だから親衛隊を、そして陛下ご自身をも、そうして懲らしめることもできるのだ。だから、貴族への不敬だの、なんだの理由をつけて誤魔化すのはやめろ、と親衛隊長を攻め立てたのです」

 これを聞くと、ギルド長は一瞬、目を見開いたが、すぐに元の怒りを押さえ込んだ目つきに戻ってしまった。

「だが、皇帝陛下は親衛隊長も、ここの屋敷の息子を初めとした人殺し達の罪も裁いてはくれなかった。前の皇帝陛下の時代だったら、きちんとした裁きが下ったはずだ。その前に、酔っ払った親衛隊員なんかが街中の警備に出てくるなんてこともなかったはずだ。そうじゃないですか!?」

 これには、カイエンはうなずくしかなかった。

「そうだろうな。だが、それでも私は疑問に思う。あなたは、どうしてさっき私が言ったような方法、オドザヤ陛下がおっしゃったような方法を取らず、このような、あなた方もまた傷つくような方法をとったのですか」

 カイエンは本当に心の底から、これが疑問だった。そして、この質問への答えにこそ、今日の事件の原因があるのではないかと思っていたのだ。

 ギルド長の返答は、まさに、カイエンの疑問を真正面から晴らすものだった。

「それは! だってそうでしょう? ここの将軍は、自分の家のならず者どもを使って、自分の恥ずかしい性癖を暴露した新聞社を襲った。同じように、私たちの工房のある街や、家も襲う用意があるそうじゃないですか! こうなったら、やられる前にやるしかない! そうでしょう? 違いますか」

 ギルド長がそう叫ぶと、後ろでそれまで慄いたように黙っていた人々もいきり立った。

「そうだ、そうだ! こんな奴らに虫けらみたいに殺されてたまるか!」

「ちょーっと、待ってぇ」

 そこへ割り込んで来たのは、それまで黙って聞いていた、イリヤの声だった。

「それ、おかしいよぉ。二つも三つもおかしいところがあるよ。まずさぁ、その情報の出どころはどこ? それに、ここの郎党、ならず者? が押しかけて来るってわかってるんなら、俺たち大公軍団治安維持部隊の署に駆けこんで来るべきじゃないの? そうしたら、そんな乱暴者は逮捕しちゃいます。まさか、ここの将軍で伯爵さんが自ら乗り込んで行くわけがないからね。それこそ、貴族でもないならず者なんか、俺たちは恐れはしませんよ」

 イリヤが言ったことは、カイエン達には正論極まりなかった。だが、装飾細工師ギルドの人々には違っていたようだ。

「誤魔化そうったってだめだ! ここの将軍と、親衛隊長はグルだって聞いているぞ。皇宮前大広場プラサ・マジョールの事件の時も、あんた達はお貴族の親衛隊員に負けて、引き退っちまったじゃないか。俺たちが襲われた時に、そこに親衛隊員がいたら、あんたたちじゃどうにもできない、そうだろ!」

 ああ、そうだったのか。

 カイエンとイリヤ、それにヴァイロンやシーヴには、真っ黒な雨雲が退いて、晴れ渡った空が広がったように、すべてが分かった。

 モンドラゴンとカスティージョ、それにモリーナ侯爵等が同じ穴のムジナなのは、カイエン達にはとっくに自明のことだ。だが、カスティージョ親子の事件のために、モンドラゴンが一肌脱ぐなど、今となっては、あり得ないことだ。

 そんなことになったら、彼は今度こそ親衛隊長の任を解かれる。それどころか、子爵家の存続も怪しくなるだろう。モリーナ侯爵や、モンドラゴンは、カスティージョと手を切りたがっているはずなのだ。

 それなのに、間違った情報をこの人たちに吹き込んだ人間がいる。

 だが、カバジェーロ達には、もちろん、わからない。あの事件の時、親衛隊のお偉方に押し切られたのは事実だから、彼はうなだれてしまった。

「あーあー。カバジェーロ、あんたは悪くないのよ」

 イリヤがカバジェーロの肩に手を置いて、慰めながらも追求する。

「あのね、ここの将軍様の味方なんか、もうモンドラゴンさんはしないの。そんなことしたら、自分の首も一緒に絞まっちゃうんだから。やられる前にやれ、なんて馬鹿な話、持って来たのは誰? そいつこそが一番の悪人だよぉ。ここであんた達が傷ついたり、殺されたりしたら、得するヤツ。ここでまた市民を手にかけた、なんてことになったら、カスティージョ親子ももう、助からないよ。それで得するヤツ。団体としてはもう、心当たりがあるんだけど、あんた達にどうやって取り入ったのか、そっちが知りたいわ」

 イリヤの横で、カイエンもうなずいた。この話では時間を食い過ぎた。帝都防衛部隊の隊員達が、中にうまく入れているといいのだが。

「そこまで言うのなら、教えてやろう。……お得意様だよ。お得意様のお貴族様の奥様達だ。それも、一人や二人じゃない。ここにいる幾つもの耳が、違う人間から聞いたんだ。俺たちが信じるのも当然だろう?」

 ギルド長がそういった時、彼らの後ろの屋敷の玄関ホールから、複数の男達の悲鳴が聞こえた。

 それだけでなく、すでに割られている窓から、勢いよく、二人の男が外へ放り出されて来た。そのまま、地べたに落ちて動かなくなる。服装からいって、この家の郎党のようだった。

 そして、カイエンやイリヤには、聞き覚えのある声も聞こえて来た。

「何をするか! 俺は今、この無礼者どもを懲らしめているのだ。邪魔をするなっ」

 それは、カスティージョ将軍の声だった。

 装飾細工師ギルドの人々は、この事態に、屋敷の方を振り返ったきり、動けなくなってしまった。

 その瞬間をついて、カイエンの周りの彼女の護衛のシーヴ以外の男達が、一斉にさっきヴァイロンの派手な登場で人垣がくすれてできた小道を突っ切って走った。残りは人垣から離れ、カイエンとシーヴの周りを囲む。



「今だ!」

 イリヤとヴァイロン、それにカバジェーロと数人の治安維持部隊の隊員は、人々の目線が自分たちの上から消えると同時に走り出していた。

 先頭がヴァイロンなので、彼らの突入に気が付いた人間も、怖くて手が出せない。

 数秒で彼らは屋敷の中へ入っていた。

 そして、見たものは。

 玄関ホールから、奥へと続く廊下には、大きな石がいくつも落ちていた。おそらくはあれで窓ガラスが割られたのだろう。

 だが、一階の見える部分に人気はない。奥の方から唸るような声が聞こえて来たので、隊員達がそっちへ走った。

「怪我人複数発見!」

 イリヤはすぐに聞いた。

「どっち?」

「細工師ギルドの人です。他にもいそうです」

「じゃ、あんた達は一階をさらっちゃって。厄介なのは、多分上だから。でも油断するんじゃないよぅ」

 イリヤが言う通り、争うような声や音は、大理石張りのホールの真ん中にある、大階段の上から聞こえてくるようだ。一階からは争う音は聞こえない。

 イリヤが指示している間に、ヴァイロンは一階の反対側の廊下へ走っていた。そっとのぞいて見てから、一室に入り、中の壁や床をそっと叩いて、様子を探る。

 やがて出て来たヴァイロンは、イリヤ達のところへ戻って来た。

「待っていろ」

 上の気配をうかがいながら、ヴァイロンが短く口笛を吹く。すると、ホールの吹き抜けの上から同じような音が聞こえて来た。

「行くぞ」

 階段を登り、中二階の踊り場にでる。すると、上から帝都防衛部隊のアレクサンドロが出て来た。

「隊長、だいたい、制圧しました。怪我人はいますが、死人は出てません。郎党の奴らは黙らせました。ここの家の女や、召使い達は、最初の段階でみんな逃げたようです。屋敷の外に引き摺り出せた人たちは、ロシーオたちが手当てしてます。ですが……」

 イリヤはわかっている、と言うように手のひらをひらひらと振った。

「ここの旦那さんが、まだ暴れ足りてないんでしょ?」

「ええ。将軍さんが、この先の部屋で、素人の職人さん何人か、押さえつけたり縛り付けたりして、いたぶろうとしてます。他にも床に何人か転がってますが、こっちは生死不明です。皇宮前大広場プラサ・マジョールで事件起こした息子ホアキンも、親父の手伝いさせられてます。どうも、あの将軍さん、ちょっと頭がいかれてますね」

 ヴァイロンとカバジェーロは嫌そうな顔になったが、イリヤはうれしそうだ。

「あらあら、あの方はもう、十年前からいかれているのよ。じゃあ、行きましょか」

 そう言って、先に立って部屋へ入ろうとするのを、ヴァイロンが止めた。

「待て。カスティージョ将軍とは、因縁があったんじゃなかったか?」

 だが、イリヤは止まらなかった。

「あるよー。恨みつらみだよー。さっきまで忘れてたけど、今、思い出したとこ」

 言いながら、アレクサンドロの指し示す部屋へ、ふらふらと長身を揺するようにして入っていこうとする。

 その様子を見ると、ヴァイロンはアレクサンドロに、隣の部屋に入るように目配せした。カバジェーロには、手で外に知らせろ、と合図する。カバジェーロは静かに階段を降りて行った。

 そして、自分は黙ったまま、イリヤの入ろうとする部屋の反対側の隣へ、音もなく走った。さっき、正面から屋敷の窓の配置、バルコニーの繋がりなどを見て、間取りは頭に入っている。この真下の一階でも床や壁の作りを観察していた。だから、ここは道具部屋かなんかだろうと踏んでいた。

 部屋に入ると、狭い物置のような部屋で、ヴァイロンはそこに先客を見つけて感心した。

「サンデュか」

 帝都防衛部隊一期生のサンデュは、筆記試験で落第しまくり、マテオ・ソーサを面倒臭がらせた隊員だ。だが、こういう実地の場面では、他の隊員にはない感覚の良さがある。

 彼はカスティージョ親子のいる部屋の方の、壁際の床に寝そべっていた。

 ほとんど音を出さずに、サンデュはヴァイロンに話しかけた。

(軍団長、鼻歌歌いながら入って行きましたよ……)

 どうしてそんなことがわかるのか、とヴァイロンがサンデュに倣って寝転ぶと、サンデュはそっと壁と床の接点を指差し、そのまま壁の上方へ流してみせた。そして、唇だけでこう言った。

(ここ、召使いの控える場所らしいですね。なので、この向こうの部屋の屏風ビヨンボの影に出られるようになっているんです。ほら、ちょっと壁と下に隙間があります)

 ヴァイロンも、そっと壁を観察する。確かに、そこには小さな隠し扉があった。向こう側に立てかけられている屏風ビヨンボも、下に隙間があるので、そこから部屋の内部が苦しいながらも見て取れた。 

(まあ、なんとか通れるだろう)

 ヴァイロンは、いざという時の動き方を頭の中でイメージした。サンデュもかなり大柄な方なので、彼もヴァイロンの様子を見て、ふんふんとうなずいている。


 ヴァイロンとサンデュが床の隙間から見ている間にも、隣の部屋に入って行ったイリヤと、中で待ち構えていたカスティージョ親子との間には、なかなか興味深い会話が交わされていた。

「なんと! 軍団長自らのお出ましか? お久しぶりだな、生意気な、顔がいいだけの若造め」

 イリヤが部屋に入るなり、カスティージョ将軍は頓狂な大声を出した。

 彼は縛り上げた、二人の細工師らしい男達を重ねた上にどっかりと座り込んでいる。その手には、右手に大剣、左手に酒瓶が、無造作に握られている。縛られた若い細工師達はあちこちから血を流し、うめき声をあげていた。

 その他にも、動かないまま転がっているのが数体。こっちは生きているのかいないのか、わからない。

「おい、色男、その腰の剣をこっちにもらおうか。ほら、早くしろ!」

 カスティージョは、そう言いながら、尻に敷いた男の手の甲に、無造作に自分の剣を突き刺した。

 若い細工師の喉から、なんとも言えない、苦しげで悲しげな声が漏れる。イリヤはそれを見聞きして、先ほどカイエンが言った言葉を思い出してしまった。

(装飾細工職人と言ったら、器用な手先がすべてだろうに。その手に鉈だの、山刀マチェテだのを持って、暴力沙汰も辞さないとは……)

「はっは。殿下やっぱりいい人すぎるわ。サイコー」

 言いながら、イリヤは腰の剣をがらりと床に落とし、カスティージョが何か言いかける前に、それを部屋の端まで蹴り飛ばした。

 窓の近くでは、これも大段平を抜き放った、息子のホアキンが真っ青な顔で、こっちは椅子に縛り付けられた二人の男の見張りをさせられていた。彼の方は、窓のカーテンの陰から、外を見張る係でもあるようだ。

「父上、外の細工師どもはみんな、大公軍団に武装解除されちゃってるよ。ああっ、うちの郎党どもが運ばれてる。ピクリとも動かないな、生きているのかな」

 ホアキンの様子を見ると、イリヤは面白そうに、唇の端を吊り上げた。

「息子くんもかわいそうにねえ。俺たちにこんなところを見られなきゃ、今回は、かわいそうな被害者でいられたものを。こんなことするお父上のせいで、全部、おじゃんだ」

 それを聞くと、カスティージョはけらけらと笑った。

「お前の口を塞げば、そうでもないさ。それにしても、嫌な男だな、お前は。女を二度も寝取られるとはなあ」

 この言葉には、イリヤはちょっと呆れたように黙っていた。

「へー、そう思ってたの。……今度のは俺じゃないのよ。俺ももう、若造なんて歳じゃないしねえ。殿下にこきつかわれて、女を買いに行く暇もねーのよ」

「嘘をつけ! アルフォンシーナは分を知った、まともな女だと思ってたが。所詮、女は面食いだな。十年前のあの女……ああ、名前なんかもう忘れちまったが、あの女と同じだ。愚かにも、困ったら尻尾を振って戻ってくるだろうて」

 これを聞くと、イリヤの表情がふうっと変わった。

 それまで、馬鹿にしたような笑みを浮かべていた口元から、一切の甘さが消えた。

「ねえ、今、なんて言ったの?」

 イリヤはそう言うと、カスティージョの方へ一歩、近づいた。

 すぐに、カスティージョは握っていた大剣の刃を、尻の下に敷いている男の一人の首に押し当てた。

「動くんじゃない! こいつらぶち殺すぞ。……困ったら尻尾を振って戻ってくる、と言ったのだ。あの女、お前について行ったと思ったら、故郷の両親に仕送りせにゃならんから、心を入れ替えて働くから、女中に戻してくれと戻って来おった。コンドルアルマを首になったお前からは、金はせびれないからってな。調子のいいことを言いおって。だから、ネグリア大陸の最南端へ行く船に売り払ってやったわ。あっちでは肌の白い女は高く売れるからな」

 これを聞くなり。

 すうっと、イリヤの鉄色の昏い目が細められた。

「あのコ、故郷のソンソナテに帰るって言ってたけど。ハーマポスタールで女中仕事して箔がついたから、向こうで真っ当なうちへ嫁に行ける、って」

 カスティージョはイリヤの言葉を聞くと、せせら笑った。

「馬鹿を言うな。なんだ、お前も騙されたのか。あの女には金が必要だったのだ。弟だの妹だのがうじゃうじゃいたらしくてな。だったら、俺にかしづいていればよかったのだ。田舎娘に分不相応な金をやっていたのに」

 これを聞くと、イリヤの唇から、ふ、ふ、ふ、とため息のような笑い声が漏れた。

「あー、そうだったの。そりゃ、俺も騙されたわ。そう、そうだったのぉ」

「ああ、そうだったんだよ」

 言いながらカスティージョは左手に持った、酒瓶を傾けた。最上級の蒸留酒の瓶だ。

「ねえ」

 イリヤは苦しげな声で呻く、細工師たちの方を見もしなかった。彼には彼らなど、本当はどうでもよかったからだ。ここへ突入してきたのは、それが自分の仕事であり、ひいてはカイエンの仕事だったから。ただ、それだけだった。

 毎日を、普通の人間として生きて行くには、与えられた仕事をしなければならなかったから、ただそれだけだ。

「あんたさっき、あのコの名前も忘れちゃったって言ってたよね」

 カスティージョはいとも簡単に答えた。

「ああ。思い出せんな。この家にあれから何人の女中が来たと思っている? いちいち、覚えちゃいられないさ」


「そうだよねえ」


 イリヤがそう、楽しげとでも言える口調で言うのを、ヴァイロンは隣の小部屋で聞いていた。

 これはいかん。

 ヴァイロンも、イリヤとの付き合いは来年の春で三年になる。残念なことに、親友とはとても言えず、ただの上司、またはカイエンを支える男の一人、という認識にしかなっていない。

 だが、毎日のように会っている間柄には相違ない。

 そのイリヤは、アルウィンの子飼いで、グスマンの薫陶を受けた男だ。そのイリヤは、もう、大公軍団の軍団長以外の何者にもなれはしない、ということだけが、三年近くかかって、やっとヴァイロンにわかっていることだった。

 そして、これには逆も成り立つ。

 今の大公軍団の軍団長には、イリヤしかなれないのだろう、ということだ。この理由は、ヴァイロンには説明しろと言われても上手く説明など出来ない。だが、自分とイリヤが、カイエンを挟んで立っている位置からして、イリヤは彼女のそばを離れることは出来ないのだろう、ということだけを理解していた。

 そのイリヤに、ここでカスティージョを殺させるわけにはいかない。

 最近、あまり焦ったことなどなかったヴァイロンだったが、この時ばかりは冷や汗が出て来た。いくら考えても、いい案は浮かんで来なかった。だいたい、イリヤのような複雑怪奇に歪みまくった男に対する作戦など、考えたこともない。

(どうしたらいいのだろう)

 壁の隙間を凝視したまま、ぴくりとも動かないヴァイロンを、サンデュの真っ黒な目が、不思議そうに見ていた。

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