タミュリス神殿の幻影は歌う
タミュリス、タミュリス
神々と競い盲目とされ
それから、どこへ
一体どこへ消えたのか
幼き時よりその歌声秀で
遂には詩人となりて諸国を歩く
彼はタミュリス
その才ゆえに滅ぼされしもの
彼の魂に人も神も違いはなく
まことその歌声は天界へも届き
美声、天界に響き、大地へ降り
地上の人々はこれを神の声と信ず
天空の神、これを恐れ
神の
タミュリスの両眼を撃つ
タミュリス、燃える流星となって地に堕ち
それより先の話、誰も知らず
アル・アアシャー 「タミュリス哀歌」
エルネストに火の鳥の歌や踊りをどこで知ったのか、と聞かれると、シリルは一瞬、ぽかんとした顔をした。息子のトリスタンの方は、この話はまだ父に聞いたことがなかったのか、無言でよく似た顔の父の口元を見ている。
その様子はそこから、いつ、どこで彼の父があの歌に出会った話が始まるのかと子供のように待っているように見えた。
シリルはちょっとの間、考えていたが、すぐに自分の話しやすいところから話すことにしたようだった。
「ええと。あれは……あのですね、私の故郷というのは、このハウヤ帝国とザイオンとの境にある、オリュンポス山脈が、北からベアトリア北部の国境にたどり着いて、平地に繋がる場所なんです。かろうじてザイオン領なんですが、ベアトリアとも、西はハウヤ帝国のクリストラ公爵領とも近い、微妙な場所なんですよ」
そこはシリルの一人息子だから、トリスタンはこのことは知っていたらしい。
「ああ! なんとかっていう休火山のすぐそばの小さな町だって言ってたね、お父さん。もう何百年も噴火はしてないけれど、昔、何度か噴火して周辺のいくつかの町が灰に埋まったとか……」
トリスタンがそう言うと、昔、自分が話したことを息子が覚えていてくれたことが嬉しかったのか、シリルは優しい笑顔になった。
「そうそう、お前にはもちろん話していたね。トウィーラ・ルプダ山って言う山で、オリュンポス山脈みたいな、下から見上げれば空の壁みたいなのとは違って、そんなに標高は高くないんだけど、……それでも、山頂にはいつも雪が消えることはなかったね」
エルネストの方は、パナメリゴ大陸の地図を頭の中で辿っているらしく、部屋の壁の方を視点の合わない目で見ていたが、やっと大体の位置が把握出来ると、話に加わってきた。
「……あの辺なら、本来はこのハウヤ帝国、ザイオン、ベアトリアで分捕り合戦になってもおかしくないが、パナメリゴ街道からは離れてるし、土地にもさしたる産物はなし、って場所だな。クリストラ公爵領に近い方は確か高原地帯だが、そっち側じゃないんだろ?」
エルネストがこう聞くと、シリルはうん、うん、とうなずいた。
「私の故郷はザイオン側で、本当に小さな町なんです。そこを舞踏団が通りかかって、どうしてだかあんな辺鄙な田舎町で興行をしてくれたんですよ。もうよく覚えていないけれど、近くにアルビオンの宮廷から遠ざけられた貴族の別荘かなんかがあったからだと思います。その時に、私は町役人の父と金貸しの母の冷たい家から逃げ出して、舞踏団に入ったんです。確か、十四かそこらでした」
「それで? それとさっき聞いた火の鳥の出てくる歌だの踊りだのの件と、どう繋がるんだい?」
あまり気が長い方でないエルネストは話を急かしたが、シリルの方は自分のペースを崩さなかった。
そんな三人の様子を見ながらも、窓際の椅子に掛けたまま、大公軍団の外科医は眠気に負けそうになっている。まあ、彼にとってはシリルの話など「お伽話」のようなものだろうから仕方がない。
「ええ、ええ、ちゃんと繋がるんですよ。すみません、理路整然と話すのは苦手で。……そうして旅の舞踏団に入った私なんですが、ザイオン中を回って、たまにはベアトリアやなんかへも行きました。それが、何年かした後、私の故郷のそばをまた通りかかったんです。私は舞踏団へ入るまでは、自分の生まれた町を出たこともなかったから知らなかったんですが、そう遠くない場所に、ハウヤ帝国やらザイオンやらが建国する前からある、もう崩れかけた神殿があるんです。……タミュリス神殿と言うのですが、これが大昔の大詩人タミュリスを祀った神殿で、舞踏団では近くを通ると必ずお参りするそうでした。舞踏団にはもちろん、伴奏の音楽隊もいましたし、人数は少なかったですが、歌い手もいたので」
「タミュリスなんて名前、聞いたことないけど。神殿が建つくらいだから、昔は有名な詩人だったのかもね」
トリスタンは首をひねっているが、エルネストの方はタミュリス、という名前を耳にすると、ふっと息を止めた。驚いた顔を見せまいと、ぐっと息を詰めたのだが、シリルやトリスタンは気が付かなかったようだ。
「……ここから先の話は、こんな私でも眉唾物だなあと思うんですけれども。でも、舞踏団の皆が同じものを見たので、私だけがおかしいんじゃないんです。タミュリス神殿を我々が通りかかったのは、初夏の頃で、神殿の池には白い睡蓮がいっぱいに咲き誇っていましたっけ……」
睡蓮、と聞くと、エルネストははっきりと顔色を変え、トリスタンも怪訝そうな顔になった。
「睡蓮といえば、オドザヤの婚礼の時のドレスが睡蓮だったね。そう言えば、ザイオンじゃ、睡蓮の花嫁衣装ってのは見たことがないなあ。なに? ハウヤ帝国じゃ睡蓮って結婚式に所縁のある花なの?」
今、この部屋にいる四人の中で、ハウヤ帝国人は大公軍団の外科医だけだったから、トリスタンがそっちへ向かってそう聞くと、外科医は船を漕ぎそうになっていた顔をはっとして上げた。
「ええ? 結婚式と睡蓮の花ですか? いやあ、私の故郷じゃそんな話は聞いたことがありませんが……」
トリスタンはくるりと顔を回すと、今度は意地の悪そうな顔になって、話の矛先をエルネストへ向けてきた。
「あれえ? なんだか顔色が悪くなったみたいですね、皇子殿下。まさかオドザヤは皇子殿下の故郷のシイナドラドの習慣に倣ったの? さっき、ご親切に僕がたらしこんで思うがままに操るはずだったオドザヤに、知恵をつけたのは自分だって言ってたよね。まさか、あの女、あんたにも手を出してたってこと?」
いつものエルネストなら、「ふざけんな」と一喝しただろう。
だが、今、睡蓮と聞いて彼の頭の中に見えていたのは、生まれる前のリリと、彼とカイエンとの間に出来た、この世に生まれることが出来ないと初めから決まっていた、あの死人のような顔色の子供のいた、夢の世界の淀んだ沼に咲く睡蓮だった。
エルネストが青い顔で黙ってしまい、彼の茶々にも反応しなかったので、トリスタンは本気で眉をひそめた。一昨年、オルキデア離宮で怪しげな会合を開いていた頃の、自分の魅力の使い方に気がついた頃のオドザヤなら、「
エルネストの方も、オドザヤへ世間の目が向かないよう、ここ一年以上、わざと読売りに自分の醜聞を書かせているカイエン同様、醜聞専門紙の常連なのだ。享楽皇子と言う人もいるくらいだ。
そこで、シリルが助け舟を出さなかったら、二人はかなり剣呑な雰囲気に突入したかもしれない。
トリスタンにとって、オドザヤはいくら美しくとも、母親のチューラ女王に命じられて
その後は脅し半分で自分を皇配に据えようとしてきた、母のチューラ女王そっくりの、権力を嵩にきた嫌な女だったのだが、それでも正式に結婚式を挙げたとなると心の中は複雑らしい。
「トリスタン! トリスタン! 違うんだよ。あの睡蓮は……あれはおそらく、オルキデア離宮の湖に咲いていた睡蓮を思い出されたんだと思うよ。あの時、私と話して、その、アベ……あの子のことを決心されたんだろうからね」
シリルは危ないところで、「アベル」という名前を飲み込んだ。そして、そういえばしばらく会っていないが、元気にしているだろうか、と思い、アルフォンシーナに任せてきているし、あのアパルタメントには他にも子持ちの母親が住んでいるのだから、大丈夫だ、と思い直した。
もちろん、オドザヤが婚礼衣装に白い睡蓮を選んだのは、あの時、アベルを産むかどうするか、と思い悩んでいた時オルキデア離宮の側の湖でシリルと会った、あの時の白い睡蓮からだった。
「そ、それでね。その睡蓮の池のある神殿に到着したのはもう、夕方でね。私たちは神殿で夜明かしをすることにしたんだよ。舞踏団は衣装だの道具だのを積んだ大きな荷馬車を引いているし、人数も多いしで、旅籠に泊まると結構金がかかるから、そんなのはいつものことだった」
シリルは黙ってしまった二人の若者を、やや強引に元の話に引きずり戻さなければならなかった。
「神殿ってね、壁や柱は大理石とか石組みとかだから、何百年も残るんだけど、屋根だけは木造だから最初に屋根が朽ち落ちてしまうんだね。あの時のタミュリス神殿も屋根がなかったから、雨でも降ってたら厄介だったけど、季節は初夏だし、夜は冷え込んだけれど、火を焚いて毛布を被ってればなんとかなったんだ」
シリルは最初のうちはエルネストを意識して、丁寧な言葉遣いで喋っていたが、だんだん、トリスタンと話すときのくだけた話し方になってしまっていた。エルネストはもう、睡蓮の幻影からは立ち直り、普通の顔つきで話を聞いていた。
「大鍋でスープを作って、それと大麦のお粥かなんかで晩御飯を済ませて、ちょっと酒でも飲んだら、普段ならもう寝てしまうんだけど、その日はなんだかみんな気が立っていたのか、誰も寝ようとしなかったんだ。楽団の連中の何人かが神殿に敬意を評して、って楽器を鳴らし始めて。……でも、タミュリスなんて昔の詩人の歌なんか知りゃあしないから、知っている古い曲を片っ端からね。……そうしたら、私ら踊り手も手足がむずむずしてくるじゃないか! それで池に面した、そこね、池に入っていくみたいに池の底まで階段が続いていて、ちょっと舞台みたいになっていたんだ。そこで即興の一幕が上がったんだ!」
シリルはもう、三十年ほども昔の話を、その時のことがまざまざと心の中で見えているように語り出した。
「トリスタンは分かるだろうけれど、音が体に入って、体が踊りにのってしまうと、視界が狭くなると言うか、半分、こっちの世界から遊離してしまうだろう? 多分、あの時の私たちは場所柄もあって、かなり吹っ飛んだ状態だったんだろうね。ただでさえ夜の野外での興行は、灯の関係でなんだか神秘的だし、影が別の自分みたいに踊るから音や踊りに入り込みやすいじゃないか。あの夜は新月だったのかな? 月がなかったから灯は焚き火だけでね。踊りの出来を気にするお客さんもいない。……私たちはすっかり自由な気分で、踊り狂ったんだ」
「それ、まさか変な麻薬でもやってたんじゃねえだろうな?」
ここで、いつもの状態に戻っていたエルネストが、トリスタンがオドザヤに盛っていた「麻薬」という際どい言葉を使って憎まれ口をきいたが、トリスタンはともかくシリルは気にも留めなかった。
「いやいや、そんな特別な薬なんか使うほど裕福な一座じゃなかったんですよ。奇術団なんかの中には、お香を
「じゃあ、そこで?」
シリルは人工的な緑色の、だが息子のそれよりも透明な瞳で遠い昔を透かし見ているようだった。
「そう。曲も踊りも最高潮に達した時だったね。白い睡蓮で一面に覆われた神殿の池の向こうに、まだ朝でもないのに
シリルの声は静かだったが、エルネストもトリスタンも、やっと話が佳境に差し掛かったのを感じて緊張した。
「あれは何色、って表現したらいいんだろう。池の水は夜だから、それまでは真っ黒に見えた。でも、その
エルネストは実のところ、芸術方面は皇子としての嗜み以上のものはからっきしだったから、頭の中にシリルの語る情景が見えていたわけではなかった。
だが、トリスタンの方は芸術家同士の「共感能力」を持っていたから、彼の頭の中にはシリルの語る同じ光景が見えているようだった。
「そして、私たちの目の前で、その朱色の炎が、金色と銀色の、ああなんて言ったらいいんだろう、そう! 色ガラスのモザイクのタイルみたいに、神殿の薔薇窓みたいにきらきらと瞬きながらわっと立ち上がったんだ! その輝く色ガラスたちが瞬きながら金色の
シリルの目はこの皇宮のトリスタンの病室の中を見ていない目だった。窓際に座っていた外科医が、ちょっと大丈夫かな、という顔つきで腰を浮かしかけ、エルネストに目で止められて元どおりに椅子に座る。
「そして、私たちは、見たんだ。……いかにも古代風の、生成りの荒い生地の質素な長い服を着た、まだ少年のような面差しの……美しい、とても整った顔立ちの人の姿が水面から立ち上がるのをね。きらきらと蝶の鱗粉みたいに輝く
シリルの顔は、極めて真面目なものだったので、このとんだ幽霊話を笑うものはそこにいなかった。
「真っ白な顔がはっきり見えたんだよ。その目は閉じられていた。うっすらと微笑みを浮かべた唇だけが珊瑚色で。これは翌朝になってみんなで確かめたんだから間違いない」
「で? その幽霊だか亡霊だかが、例の歌を歌ったってえのか?」
エルネストがしびれを切らした様にそう聞くと、なぜかシリルは首を振った。
「いいえ。それだけなら、私たちも幽霊を見たと思っただけだったでしょう。違うんです。そこへ、もう一人の人物が、忽然と現れたんです」
「もう一人? 幽霊が増えたっての?」
さしものトリスタンも、父の話には付いていきかねたらしい。
「違う。多分、池の上の金色と朱色の火焔に包まれた幻の方は、幽霊だったんだろう。場所からしてきっとあれがタミュリスだったんだ。でも、気がついたら私たちのすぐそばに立っていた人は……違う」
シリルの目はもう遠くなった昔の記憶と映像を確かめるように、細められた。
「タミュリスの方は、ゆらゆらと揺らいで見えた。でも、私たちのすぐそばにいつの間にか現れた人物は違った。彼はしっかりと神殿の大理石の床の上に立っていたよ。なのに、なのに、彼の姿は違っていた……」
「何が」
エルネストがシリルの記憶を揺るがすのを恐れるように小声で聞くと、シリルは遠くを見る目のまま、彼の見たものをなんとか言葉にして語ろうとした。
「あの頃の私は、本なんか故郷の町の小さい学校で少し読んだだけだったから、あの時見た情景を語る言葉を知らなかった。でも、今はあなた方に分かる言葉を知っている。……私たちのそばにいきなり現れた彼は、その、体の『密度』が我々とは違っていたんです。そこにちゃんと在るのに、触ったらぐんにゃりと崩れてしまいそうな。いいや、触ろうとしたら霧散してしまいそうな、危うい感じだったんです。それでも、池の幽霊とは明らかに質感が違っていた」
トリスタンは鳩が豆鉄砲を食ったような顔つきだったが、エルネストの方は、我が意を得たりとばかりに乗り出した。彼には後から現れた存在の在りどころが理解出来るとでも言うように。
「そいつの方は、『ちゃんと生きて、あんた達と同じ場所にいた』なのに、あんた達とは存在の『濃さ』が違っていたんだ。なあ、そうだろう?」
このエルネストの言葉を聞くと、シリルの遠いところへ行っていた目が、即座にこの部屋に戻って来た。
「ええ! そうです! まさに、まさにそうだ。そういう感じでした。ああ、パナメリゴ大陸最古の国、シイナドラドではああいった存在のことも知られているのですね。そうなのです、そして、私たちは聞いたんです。そこで、彼が歌う歌を。彼は竪琴を背中から下ろすと、おもむろに歌い出したんです。彼には我々の姿は見えないようでした」
「それが、あんたがさっき歌っていた歌だったのか?」
シリルは、はっきりとうなずいた。
「はい。『貴女と共に、太陽の黄金の階段を昇って参りましょう。そして、焼き尽くしてしまいましょう。この大地にあるすべての思い出を焼き尽くしてしまいましょう。……私が次にここを訪れても、何処だかわからないように。何も残すな、何も忘れてくるな、火焔よ焼き尽くせ……私が悲しまないように……』初めて聞いた歌だったのに、そこにいた皆が翌朝になっても覚えていました。それは、あまりにその声が……声が美しく、そして天地に響くほどに夜空へまで届かんばかりに豊かだったから。彼はまさしく名人、いや、歌の神のような存在でした。あんな声は、あの前のあの後も、あれっきりどこの国でも聞いたことなどない。あれは、ただの歌のための声じゃない。あれこそ、一大叙事詩を一人で、伴奏も何もなしで、それでも聞いている人々を棒立ちにさせたまま、最後まで客を逃がさずに歌い切ることの出来る声というものでした。……タミュリスの亡霊を呼んだのは、恐らくは私たちの踊りや音楽ではなく、彼の存在がそこに現れたからだったのでしょう!」
シリルは興奮しすぎて、少年のように頬を紅潮させて、一気に喋り切った。
「その歌を歌っていた方は、どんなやつだった?」
エルネストにはそっちの方が興味深かったらしい。と言うか、彼には明らかにその歌い手に心当たりがあるように見えた。彼がやっと口をは挟むと、シリルはきっとそっちこれから話そうとしていたに違いない。
よく聞いてくれました! とでも言うように、話を続けていく。
「ああ。そうでした、あの人は、変わっていた。だからこそ、今も忘れもしないのです。これは、これもあの頃は言葉を知らなかったが、彼は、彼は
シリルの目の奥には、いまでもその人物の姿が鮮明に見えているのだろう。体全体を使って、踊りでその
そんなシリルから目を話すと、エルネストは事実を確信し切った表情になっていた。
「それは、間違いなく、アル・アアシャーだ。まさか、そんなところへ現れるとはな」
エルネストの声はあまりにも低かったので、それはその場の誰にもはっきりとは聞き取れなかった。
「えっ?」
「……なるほど。彼なら知っていておかしくない。俺たちのすべきことのすべてが終わった先にいるはずの彼ならな。それを間違いなくあんた達が見て、そして聞いたのなら、大丈夫だ。俺たちはまだ間違っちゃいない。今の所はこの世は火焔に燃え尽くされることはなく、世界は続く方向で推移中なのだろう」
「何を言っているんだ?」
トリスタンは体をもたせかけていた枕から身を乗り出して、エルネストの顔を覗き込んだが、シリルの方はちょっと違っていた。
「それは、よかった。……火の鳥の踊りを振り付けたのは、実は私なのです。あの時の『彼』の歌声が耳から離れなくてね。それまでは舞踏団の振付師の考える通りに踊っていたんですが、あの踊りだけはあの歌を聞いた途端に思いついたんだ。すべての振りがもう出来上がった踊りみたいに体から湧き上がって来た。そんな踊りを、どうしてだか、私はザイオンにいた時にたった一つだけ、このトリスタンに教え忘れていた。それを思い出させたのが、あの時聞いた、チューラ女王と王配ユリウス様の会話だった。螺旋帝国のお使者が言ったという言葉でした。だからきっと、こうしてハウヤ帝国まで息子を追って来て、こうして皇子殿下にあの踊りの由来を話しているのも、これもきっと……」
(これは歴史を紡いで
頭の中で考えた言葉は違ったかもしれないが、その時、エルネストとシリルは同じようなことを思っていた。
「ああ。そうなんだろうな。未来を決められているみたいで気味が悪いが、今の話みたいに未来はまだ揺らいでいて、俺たちにも選択する幅が残されているんだ。織っている途中の布のように、縦糸に絡む横糸の色はまだ決まっていない」
そう言うと、もうエルネストは立ち上がっていた。
「それだけ聞けば、俺はもう大満足だ。今日この部屋へ来たのは、
エルネストは扉の方へまっすぐに向かいながら、背中で言った。
「おっさん、ありがとうよ。あんたもすげえぜ。あんたの見た
「なるほど、そういうことでしたか」
シリルは納得したようにそう言ったが、トリスタンにはこのエルネストの言葉は辻褄の合わない話としか言いようがなかった。実際、納得しているシリルの方がおかしいのである。
「え? ちょっと待って、それ、おかしいじゃないか! ねえ、お父さん。……って、お父さんもだよ! 二人だけで分かってないで、ちゃんと説明を……」
ばたん。
トリスタンがシリルとエルネストに食ってかかろうとした時にはもう、エルネストはトリスタンの病室を出て行ってしまっていた。
同じ頃。
モンドラゴン子爵邸の屋根裏で、二人の見分けがつかないほど平凡すぎる顔をした男二人が、はたから見れば暢気な様子で、仕事の引き継ぎをしていた。この屋敷には、オドザヤとトリスタンの結婚より前からずっと、大公宮と皇宮の影使いたちが交替で見張りに付いている。
今、そこで影使い特有の相手にしか聞こえない声で話している二人の身分は、「大公宮の影使い」だ。
大公宮の所属になる前は、東西南北四人一組で、近衛のエミリオ・ザラ大将軍の手下だった。
だが、カイエンのシイナドラド行きの随行中、東西の二人は死に、残った
大公宮の影使いとしての仕事の範囲は多岐に及び、そろそろ、二人とガラの三人では心もとなくなって来ていた。彼らは大公軍団と連携した仕事も多く、今、親衛隊長であるウリセス・モンドラゴン子爵の邸宅に忍んでいるのも、その仕事の一環である。
親衛隊長のモンドラゴンは皇帝オドザヤの親衛隊長でありながら、現在唯一の「隠された愛人」でもあった。
そして、桔梗星団派のニエベスの工作で、無邪気で何も知ろうとはしなかった夫人のシンティアは入り婿であるウリセスと、皇帝オドザヤの不倫を知ってしまった。
オドザヤとトリスタンの結婚式でシンティアが担うはずだった工作は阻止されたが、その後もシンティアは皇宮と大公宮双方の影使いの見張るところとなっていた。
もう、桔梗星団派の付け入る隙間はなかったが、シンティア自身は夫への疑いを抱き続けて鬱々とした日々を過ごしている。皇帝の結婚式の準備からこの方、夫のウリセスも居心地の悪いこの屋敷に戻ることはほとんどなかった。
それは、ウリセス・モンドラゴンが自分への疑惑を認めたように勘ぐることもできた。だが、あのパレードでの襲撃事件が起きた以上、皇帝の親衛隊長が家に帰るいとまもない、というのはもっともなことでもあった。
カイエンたちの方では、皇帝夫妻の結婚式のパレードでの襲撃事件の始末が着き次第、かわいそうではあるが、もはや夫の心が戻るはずもないシンティアにも何らかの工作をせねばなるまい、と苦渋の選択をしたところだった。
「様子はどうだ」
交替に来たのはシモンの方で、ナシオはこれから大公宮へ戻るのだ。
すでに、結婚式前からもしもの時のために、屋敷の執事を含め、屋敷の使用人の幾人かはすでに買収済みだ。下働きだの出入りの商人だのに大公軍団の隊員が化けて出入りしてもいた。
カイエン達が恐れていたのは、シンティアが上位貴族の奥方達に、夫とオドザヤの不倫関係を広めてしまうことだった。結婚式への出席は
「相変わらず、執事や乳母は奥様を部屋に閉じ込めている。周りはお家大事だから、皇帝陛下との醜聞なんかを奥様自らが触れて回ったりしたらどうなるかって方を恐れているからな。問題はいつまで奥様はお病気、と言い繕っていられるか、というところだろう。軟禁状態というのが知れるのもまずいからな」
シモンがそう言うと、ナシオは黙ってうなずいた。
結婚を機にオドザヤとモンドラゴンの仲が切れればいいのだが、たとえ切れてもシンティアが過去のことを蒸し返そうとすれば無意味になってしまう。
「桔梗星団派が、奥様は軟禁状態ってことを世間に流す可能性もある。今は非常事態宣言下だからいいが、普通に貴族の社交が始まると問題だ。季節はまさに社交の季節だしな。ま、俺たちの考えることじゃないが」
そう言うシモンを置いて、ナシオがそこから出て行こうとした時だった。
「なあ、ナシオ」
いつもだったら長話など決してしないシモンが引き止めたから、ナシオはちょっと驚いた。もっとも、表情はまったく変わっていない。二人ともに特徴のない、人の記憶にほとんど残らない顔つきなのだ。
「なんだ」
ナシオが振り返ると、シモンは静かに言った。
「俺な、非常事態宣言が解けたら、影使いから帝都防衛部隊に配置換えを願い出るつもりだ」
「なに?」
二人ともに、ザラ大将軍のもとから大公宮へ送り込まれてからは、ガラと一緒で帝都防衛部隊やたまには治安維持部隊の隊員に化けて、というか「なって」行動することもあった。だが、影使いというのは一度なったら、通常、陽のささない場所で死ぬまで働くものだった。
影使いには所属はあっても階級はない。人間であって人間ではない、というのが彼らの本分のはずだった。
「帝都防衛部隊とは隠密行動で連携してきた。仕事の性格も似ているところがある。今の大公殿下なら、お許しいただけるかもしれない」
「理由はなんだ」
ナシオとシモンは南北の二人だけになってからも、組んで仕事をすることが多かった。もし、シモンが影使いをやめるとなれば、ナシオは影使いとして組む相手がいなくなる。
「……所帯を持ちたい相手が出来た」
ナシオは影使いになって初めて、一瞬だがすぽんと気が抜けて、呆れた表情を作ってしまった。だが、すぐに周囲の気配に意識を張り直すと、冷静に話を進めることにした。
シモンの言葉は影使いとしては気が狂ったとしか思えないが、話だけは聞こうと思ったのだ。一度、こんな考えを持った影使いの男とは、もう影使いとしては連携した仕事など危なくて出来はしないが。
「相手は誰だ」
シモンも、さすがに周囲へ張り巡らせた五感の網は緩めていない。だが、その返答は意外な人物の名前だった。
「ロシーオ・アルバだ」
ロシーオは大公軍団の女性隊員第一期生で、トリニやイザベル、ブランカやルビーと同期の帝都防衛部隊員だ。女手一つで息子を育てながら活躍している。
息子がヴァイロンと同じように生まれた時に獣のような赤子だったことから、自分が獣人の血を引いていることが分かったということで、猫のような身の軽さで影使いの彼らと一緒に動ける、帝都防衛部隊でも変わり種の隊員だった。
住まいはシリルとアルフォンシーナがアベルとともに住んでいる、コロニア・ビスタ・エルモサで、昼間は母親がロシーオの息子のティグレの面倒を見ていると聞いていた。家はシリルたちの住むアパルタメント・サントスにも近いはずだ。
「子持ちだぞ」
ナシオは反射的にそう言ってしまってから、自分はどうかしているな、と改めて身を引き締めた。
「色はともかく、恋だの家庭だのは俺たちにはご法度だ。それを押し通そうってのか」
ナシオの言葉は正論だった。だが、シモンは落ち着いた声音で切り返してきた。
「そうだ。俺は、心に大切なお方を隠しているお前なら、分かってくれると信じて話している」
ナシオは今度こそぎょっとして、体が強張って固まってしまいそうになった。まさか、自分の事情の方が、先にシモンにばれているとは思わなかったのだ。
「ナシオ、お前は俺とは逆だ。死ぬまで影使いのままいるんだろう。……お前は自分が、畏れ多い方への気持ちを隠しおおせていると思っていたのか?」
今度こそ、ナシオは背中に冷たい刃物でもあてられたような気がした。同じ影使い同士とはいえ、シモンにここまではっきりと悟られているとはまったく思ってもみなかったからだ。
「そんな顔をしてもだめだ。大公軍団の殿下周りの連中にはもう、ばれているぞ。間違いなく、ガラと
「そうか」
ガラはともかく、軍団長にばれていると聞かされれば、もう半分殺されたも同然だった。
俺もやきが回った。影使いをやめると自ら言い出したシモンの方が冷静な判断をしている、ということだ。ナシオはそう思って、一瞬のうちに覚悟を決めていた。
「分かった。シモン、お前は抜けろ。暗がりの世界からな。そうしないと早死にする。それよりは明るいところへ出て、生きてあの方の役に立った方がいい。……お前は自分がよく分かっているな。俺の方が覚悟が足りなかった。今日この時から、自分を締めてかかるよ……まだ死にたくないからな」
そう言うと、もうナシオはするすると屋根裏から壁伝いに地下の倉庫の方へと続く方へ消えていた。
その背中を見送るシモンの複雑な表情など見ようともせず。
カイエンがトリスタンの見舞いをしたのは、エルネストがなんだか興奮した様子で戻って来てから数日後だった。
それは、イリヤや双子、ヴァイロンなどがパレードを襲撃した連中からの聞き取り……それはもちろん荒っぽい方法を取らざるを得なかったが……を終えた頃だった。
看守などが皆殺しに遭い、空っぽになっていた
「下町、特にコロニア・エスピラルなんかは封鎖しちゃいたいところなんだけどねえ。それやっちゃうと、困るのは大多数の普通の一般市民の方だしさぁ。螺旋帝国の外交官がぶうぶう言ってくるんでしょ? まあ、出来るのは危険地域の住民台帳をしっかり取り直しさせてぇ、それから、危険地域を囲んでるコロニアの自警団と、ウチの署の隊員たちに人の出入りを厳しくしてもらうくらいしかないんだろうねえ。しばらくは近衛さんと、フィエロアルマさんとこに人員を出してもらって、それをウチの管理網に上手に組み込んでいくしかないですぅ」
生ぬるいこったわ、とイリヤはぼやいたが、それ以上の対応は戦争でもしている最中ならともかく、今の段階では出来なかった。
それでも、桔梗星団派との繋がりは判明したものの、パレードでは怖気付いて逃げてしまったために、逮捕できなかった、ディエゴ・リベラの「
カイエンが馬車で裏から皇宮へ上がると、オドザヤが腹心の侍女のイベットを後ろに、もう待ち構えていたので、カイエンはちょっと驚いた。
いくらそばにはシリルがいるとはいえ、カイエン一人で見舞いをするのは気が重かったので、オドザヤが一緒なのは嬉しかった。だが、オドザヤが慌てた様子で言う言葉を聞くと、カイエンはえっとばかりに聞き返してしまった。
「なんですって。マグダレーナ様が……?」
「まあ、予想はしていたのです。本来ならば、先帝の妾妃様方は離宮などに移り住むか、皇子皇女をあげたお腹様なら、皇子宮、皇女宮へお子様とともにお移りになったりするものなのですから」
オドザヤの話によると、今日カイエンがトリスタンを見舞うのを知ってかしらずか、急に後宮の三人の先帝サウルの妾妃たちが、お見舞いに来ると言ってよこし、返事を聞くか聞かないかのうちに後宮から練り歩いて来てしまったのだと言う。
そして、控えの間にオドザヤが急いでやって来ると、いきなりの話が見舞いどころか、自分たちはもう後宮にいるいわれがない、皇子宮、皇女宮へ移りたい、という話だったのだそうだ。
「今は、コンスタンサがお相手しています。……結婚式の前に一度はご納得されて後宮におられることに決まったのに。やっぱり、ベアトリアは間違いなく、あの襲撃事件に関係しているのでしょうね。それをこちらが勘付いていることもご承知で、開き直られたのでしょう」
オドザヤの言葉にはうんざりした響きがあった。
そう言うオドザヤは、今日も執務中だったのだろう、かっちりした意匠の、それでも夏らしいやや強い緑色のドレスを着ていた。耳と指に光る控えめな宝石はエメラルドだろう。小さいが、色は最高のものだった。
カイエンの方はいつもと変わらぬ大公軍団の制服である。もう、かなり暑くなって来ていたから、真っ黒な大公軍団の制服の色は、いくら布地が麻や絹でも暑苦しく見えた。
「皇女宮にアルタマキア皇女がおられるキルケ様はともかく、ラーラ様も同調なさっているんですか?」
歩きながらカイエンが聞くと、オドザヤは侍女のイベットの方をちらっと見た。他には侍従も付いて来ていない。もちろん、廊下の要所要所には侍従が立って控えているが、話を聞かれることはないだろう。
「恐れながら申し上げます。アルタマキア皇女殿下がお戻りになるまでは、キルケ様も同じだったそうですが、ラーラ様のお付きの侍女の話ですと、カリスマ皇女殿下がネファールの王太女に立たれるため、お国許へいらっしゃってから、ラーラ様はすっかり塞ぎ込んでしまわれたそうです。元から、ラーラ様、キルケ様は、アイーシャ皇太后陛下がお元気であられた間は息をひそめるようなお暮らしでした。ですから、その後もお変わりなく、お二人ともに皇女様方がお国許の世継ぎとして旅立たれてからも、お静かにお暮らしでしたが……」
どうやらイベットは後宮のラーラやキルケの周囲の侍女の中に、自分の目や耳になる朋輩を持っているようだ。口が固い以上に、なかなかに使える侍女のようだった。これなら、今も地下牢にいるカルメラよりもはるかに皇帝の侍女にふさわしいだろうとカイエンは思った。
「マグダレーナ様は違っていた、と言うことだな。皇子をお育てのお立場だと、後宮での力関係もお強くなるのだろう。それに、お二方も引っ張られたと言うことか」
カイエンが話を先に進めると、イベットは、はいともいいえとも言い難い、といった顔つきになった。
「もちろん、それは確かでございます。ですが、此度はそれだけではなく、キルケ様が、アルタマキア皇女殿下を心配なさり……その、皇女宮にスキュラの……マトゥサレン島の人質の男がおりましょう? あれをアルタマキア様からなんとか引き離したいとお思いのようなのです。それで、いつも儚げな方が、積極的にラーラ様に働きかけた模様です」
ネファールはベアトリアと内戦中のシイナドラドに挟まれているが、北のザイオンとの間には急峻な山脈が控えているので、今のことろは安定している。それでも、閉鎖的な後宮にいるよりは、皇女宮へ出てこられるのなら一緒に出て、ネファールの外交官などと、もっと緊密に連絡をしたいのだろう。
カイエンはそう考えたが、オドザヤは違う方向から見ているようだった。
「マグダレーナ様と、キルケ様が後宮を出られたら、ご自分お一人だけ取り残されてしまいます。もとより寂しいお暮らしでしょうから、それを恐れておいでなのではないかしら」
なるほど、とカイエンもうなずいた。
日頃、仕事で忙しいは忙しいが、その仕事があるからこそ街中へも出られるし、多くの人とも会える自分とは違い、すでに夫だったサウルも亡く、皇宮の後宮に垂れこめているだけの生活は、客人もなく、新しい人間関係が出来ることもなく、無味乾燥なものなのだろう。自分だったら気が狂いそうだ、とカイエンは納得した。
納得は出来たが、困ったことになった、とも思った。
「困りましたね。はっきり言って、キルケ様とラーラ様が後宮を出て、皇女宮へ入られるのは大した問題じゃない。問題はマグダレーナ様なのですから。我々は、一番大きな建前と理由をお持ちの方こそ、後宮の外へは出したくないのに」
オドザヤも苦い顔だ。
「トリスタン王子の見舞いと言って出てこられたのは、私たちとの間に、トリスタン王子を挟むことによって、トリスタン王子の口から『それならば私が後宮に入りましょう』とでも言わせたいのでは、と思うのです」
なるほど。
カイエンはこれは先にトリスタンに会って、口裏を合わせておかなければならないな、と思った。トリスタンの部屋から戻ってきたエルネストの様子と話からすると、トリスタンは足のことでは前向きに考えてくれそうだ、とのことだった。兄のリュシオン王子の方も、ザイオン側は螺旋帝国の脅威をなんとなく感じていて、しばらくトリスタンの監視役も兼ねてこのハーマポスタールに置いておくつもりだったようだ、とエルネストは言っていた。
シリルが話した不思議話も、エルネストは「ご主人様」のカイエンにはちゃんと話したのだが、自分だけが分かっているところは「今はまだ話せない」と貝のように口を閉ざしてしまった。
「エルネストがシリルさんから聞いた話だと、ザイオンには螺旋帝国からの使者が来ていたらしいですね。シリルさんが知っているのは一回だけだそうですが、きっともっと頻繁にやりとりがあるに違いないんだ。だが、もうそれを知る手段はない。リュシオン王子も新しいチューラ女王の命令なんか運んで来ていないとなれば、とりあえず、遠いザイオンの方は置いておいてもいいでしょう。ですが、ベアトリアはまずい」
カイエンがそう言った時には、数日前に通されたのとは違う控えの間の前に、彼女たちは着いていた。
「今度のことで大怪我をしたのが私でしたら、マグダレーナ様もベアトリアの外交官のモンテサント伯爵も、一回はおとなしくなったあのモリーナ侯爵たちのグループも、フロレンティーノを押し立てるために協力したでしょう。大公軍団を率いるお姉様がいらっしゃるし、近衛もフィエロアルマもおりますから、大ごとにはならないでしょうけれど、彼らが一致団結するきっかけにはなったでしょうね」
もしそうなっていても、武力ではオドザヤやカイエンの側が圧倒的に有利だが、世論の行方がどうなったかはわからない。
そう考えれば、なおさら今、マグダレーナとフロレンティーノを後宮から出すわけにはいかなかった。自分たちから国を二つに割るようなことは、絶対に避けなければならない。
「お姉様、こちらの控室は、病室の奥の控えの間の方へ続いておりますの。マグダレーナ様たちはこの間、お姉様方をお通しした、リュシオン王子の控えの間の方にいらっしゃるはずですから……」
先にトリスタンと話をつけておきましょう。
オドザヤがそう言おうとした時だった。
「陛下、大変でございます!」
控えの間の扉が向こうから開き、いつもなら慌てた顔など見せるはずのない、老練の侍従が飛び出して来たので、カイエンもオドザヤも驚いた。
「どうしたの?」
嫌な予感を感じながらも、オドザヤが落ち着いた声で聞くと、侍従ははっとして礼をし、すぐに小声で早口にこう言ったので、カイエンもオドザヤも事態の急激な動きに驚きを禁じ得なかった。
「今、コンスタンサ女官長が応対しておりますが、その、妾妃様たちお三人が、押しとどめる侍従を押し切って、トリスタン王子のお部屋へもう、その、訪いを入れてしまったそうなのです」
「ええっ。そんな礼儀知らずなことを? まさか!」
「そんな、貴婦人が力技で押し入ったのか?」
オドザヤとカイエンがやや大きな声を上げると、侍従は「お静かに」と手で示しながらも、カクカクと首を縦に振る。
「とにかく、こちらも早く行ったほうがいい。そんな非常識なやり方までするとなると、コンスタンサでも押し切られかねない。どう言い訳するつもりか分からないが、マグダレーナ様は今度は引く気がなさそうだ」
カイエンがそう言うと、オドザヤは動揺した顔ながらもうなずいた。
「エルネストの話だと、トリスタンは心配なさそうだが、シリルさんが逃げ残っているとしたら困ったことになる」
トリスタンの実父のシリルがこのハーマポスタールに来ていることは、そして街中で踊り手として暮らしていること、それもオドザヤの子であるアベルを育てていることなど、極秘中の極秘なのだ。
アベルのことだけは、余人に知られるわけにはいかなかった。
まず、会ってしまえば、シリルとトリスタンはよく似ているから、血縁を疑われるのは間違いない。
「ああ、どうしましょう」
カイエンは左手の黒檀の杖に力を入れると、早足におろおろするオドザヤの前にたった。
「どうもこうも……なんとかしなくては! 早くッ!」
カイエンはオドザヤへはそう言いながら、慌ててついてくる侍従へはこう命じていた。
「宰相と元帥に連絡! それからコンスタンサのすぐ下の女官たちをすぐにここへ寄越すんだ!」
「はいっ!」
いざとなったら、向こうはもう力技で来ているのだから、こちらも人数で押し出すしかない。カイエンはトリスタンのこの皇宮の中ではだだっ広いとは言えない病室に、いったい何人がなだれ込むことになるのか、想像しただけで気が遠くなりそうだった。
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