妾妃たちの逆襲


 三人の先帝サウルの妾妃たちが押しかけていると聞き、カイエンとオドザヤは、早足にトリスタンの病室の奥の方に繋がる控えの間に入った。

 すると、もうそこにはシリルが白衣のまま、青い顔をして夏向きの麻の青緑色の張り地のソファの上に、体を投げ出すようにして座っていた。大した距離を移動したのでもないのに、そして踊り手として現役で、体を動かすことに慣れているはずなのに、シリルはなんだか息をきらせているように見えた。

「よかった。先に出てくることが出来たのですね?」

 何の先なのかも端折ってしまって、これも夏物の毛足の短い絨毯の上を、ゴトゴトと杖の音をさせながら座り込んでいるシリルの前へ周り、カイエンが腰をかがめるようにしてそう聞くと、シリルはこふこふと痰を切るような様子をしてから、やっと声が出た、と言うように答えた。

「ああ。大公殿下……それに陛下も! ああ、ありがたい。……はい。向こうの控えの間の方から、突然、複数の女性の声が聞こえて来まして。それを、あの、いつもは大きな声など出さないコンスタンサさんが……ああ、あれはきっと私がこっちへ抜けられるようにわざと大きな声を出したんでしょうね……金切り声で『妾妃様方、お静かになさいませ』とか言うのが聞こえて来たものですから。焦りまくって、急いでこちら側へ下がって来たんです。私一人だったらおたおたするだけだったでしょうけれど、お医師の方や、トリスタンが早く早く、と急かしてくれたので……。お医師の方も、隠し扉から外へ出られたはずです」

 ふう、とカイエンとオドザヤは息を吐いた。まずはコンスタンサの機転で、シリルの姿を妾妃三人に見られずに済んだのは有難かった。

 カイエンはその時になって気がついたが、こちらの控えの間はもっぱらトリスタンやシリルのための食事を温めなおしたり、お茶の準備、そして着替えや沐浴などの便宜のために用いられていたらしかった。

 前にカイエンとエルネストが案内された、薬棚などのある医師の控え室や、トリスタンの兄王子、リュシオンの専用控え室などとは、トリスタンの寝室を挟んで反対側にあるこちら側の控え室には、皿に載せられて皇宮の厨房から運ばれてきた料理を温めるための湯煎の器具や、茶道具に敷布や寝具、トリスタンの寝巻きの替えなどがきちんと畳まれて入れられている大きな棚があった。

 床の近くには、トリスタンの体を清潔に保つために用いられているのだろう、大きな金盥かなだらいもいくつか置かれている。

 部屋自体も、大来な窓に面しているので明るい。

 開け放たれた、隣の横に付随した部屋への扉から見えるのは、窓が小さくて薄暗いが、寝台の置かれた部屋だった。

「シリルさんは、あっちのお部屋で寝起きされているんですね?」

 カイエンが気が付いてそう聞くと、シリルはやっと動転した状態から立ち直ったらしい。

「ああ、はい。私はあっちのお部屋を使わせていただいております。食事などはトリスタンと一緒にあっちの病室で摂っておりますが、夜はあちらのお部屋で休ませていただいています。私が使える浴室なども、あの奥にありますのです」

 そこまで話したところで、シリルは話している相手がこの国の皇帝と大公であること、そして挨拶もなしに本題に入っていたことに気が付いたらしい。

「ああ、ああ! 私としたらご挨拶もせずに……。陛下、大公殿下、よくいらしてくださいました。あの、私にはよく分からないのですが、先ほど、コンスタンサさんは『妾妃様方』とかおっしゃっていました。あの、それは先帝陛下の……ですよね? どうしてそんな方々がトリスタンの部屋に……」

 言葉の最後の方は、長年、ザイオンの首都アルビオンの王宮で暮らして来たシリルでも混乱する状況だったらしく、彼はそれきり口が動かなくなってしまったようだった。

「シリル様はしばらく、あの、あの方達が後宮へお戻りになるまで、こちらで……いいえ、もっと奥のお部屋で待機していてくださいませ。……あなた、奥からイベットを呼んで来て! そして、もしもの時には呼ぶから、ここへ控えているようにと!」

 オドザヤもカイエンと並んで、ソファに崩折れているシリルの前にひざまずくようにしながらも、侍従にそう命じる。カイエンたちを案内して来た侍従は、弾かれたようにオドザヤの暮らす皇帝宮の奥へ向かって早足で去っていく。

 そうなのだ。このトリスタンの病室はオドザヤの住む、皇帝宮の中にあるのだ。この国の皇帝の居室のある宮へ、後宮から先帝の未亡人たちが押しかけてくるなど、正気の沙汰ではなかった。

「お姉様、もう、あの方達は隣の部屋へ入ってしまったようですわ。さすがにもう大きな声はしませんけれど、トリスタン王子も困惑しているでしょう。……私、一人で入った方がよろしいかしら? それとも……」

 オドザヤは早く部屋に入って事態の収拾をつけた方がいい、ということは分かっていたが、相手の出方がわからぬ以上、カイエンと一緒の方がいいのか悪いのか、苦慮しているようだった。 

 その時、カイエンの頭を駆け巡っていたのは、妾妃たちが、どうして今、この時期に、それも大怪我の体を療養しているトリスタンの部屋を急襲……このいきなりの行動を急襲と言わずしてなんと言おう……したのか、その理由だった。

「……今度のことで、お怪我をしたのが陛下でしたら、マグダレーナ様はすぐにベアトリアの外交官モンテサント伯爵をお召しになり、フレンティーノ皇子を……おそらくは本国の国王、そして、最初のご結婚のお相手のご実家であり、ベアトリア公爵家でも筆頭のサクラーティ公爵の意を汲んで、陛下の推定相続人から法定相続人にすべく動かれるはずだったのでしょう」

 オドザヤの琥珀色の目が、きらり、と金色に光った。

「もし、そうなっていても、お姉様も宰相も、そしてザラ大将軍も、そのままにはしておかれなかったでしょう? 私が死んだのならともかく」

 オドザヤの言葉を聞くと、カイエンは体の芯から身震いがした。

 あの時、トリスタンの足ではなく、オドザヤの体が吹き飛んでいたら。

 今頃は、赤子のフロレンティーノ皇子が、第二十代ハウヤ帝国皇帝として即位していたに違いないのだ。

 そうだ。

 今更ながらにカイエンは意識した。あの時、自分はオドザヤを庇うため、イリヤに命じて馬車に飛び込んだ。だから、あの手投げ弾が馬車の真ん中に命中していたとしても、死んだのは自分で、オドザヤではなかっただろう。それでも、一秒でも遅れていたら、誰がどうなるかは分からなかったのだ。

「それはそうです。……でも、だからこそです。千載一遇の機会を逃したからこそだ。もう、こんな機会はしばらくは訪れない。私たちの警戒や警護も、相手の螺旋帝国を背後に持つ桔梗星団派や、外国の勢力の出方が分かりましたから、今後は前よりも要所をしっかり抑えることができます。それに、今はまだ非常事態宣言が解けておりません。次に陛下自らがが街中にお出ましになるような機会はしばらくはないでしょう。そうなれば、この機会に、たとえ怪我を負ったのが陛下の皇配だったとしても、なんとかそれを利用して少しでも事を有利に運んでおきたいのでしょう」

 カイエンはもう、予感がしていた。

 去年のオドザヤの秘密の出産。あれはカイエンの身を張った醜聞と、そして意図的にベアトリア風の胸元で切り替えのある、腹を隠すドレスを流行らせたことで乗り切った。

 乗り切ったと思っていた。

 確かに、かなり強引な手段だったから、おかしいと思った者、そこまで思わずとも違和感を感じた者はいただろう。それは仕掛けた側のカイエンたちも承知の上だった。

 だが、カイエンもオドザヤも、付け入られる一寸の隙も見せはしなかった。疑惑を持っていると思われる貴族には影使いを密着させ、その行動を見張り、過激な行動を取りそうな者は、その者の弱点を探り、それを暴露すると遠回しにチラつかせては黙らせさえしたのだ。

 アベルの出産が済んでしまえば、そういう者たちももう、何もいうことは出来なくなった。オドザヤの妊娠を疑っていたとしても、すでに子のアベルは大公宮へ引き取られ、執事アキノの家の前に捨てられていた捨て子として扱われていたからだ。

 オドザヤにとっては複雑な心境だったかもしれないが、アベルは祖父のサウルや伯母に当たるカイエンのような、シイナドラド所縁の黒っぽい髪の色と、灰色の目をしており、オドザヤとはあまり似ていなかった。出産に立ち会った、産婆のドミニカ・ホランはもう何度も貴族の奥方の秘密の出産や、中絶に立ち会っていると言っていた。彼女からことが漏れることもありえない。

 だから、捨て子と強弁すればもう何もオドザヤの秘密出産の証拠など、残っているはずもなかったのだ。

 オルキデア離宮での出産に立ち会ったのは、オドザヤの一番近くに仕える、女官長のコンスタンサや侍女のイベット、それに親衛隊長のモンドラゴンと、大公宮のカイエンの側近だけだったのだから。

 それでもだ。

 もう三人も子を生んでいるマグダレーナは誤魔化されなかったのだろう。彼女は大きな声をあげて、オドザヤの秘密を暴きたくてしょうがなかったはずだ。でも、出来なかった。

 カイエンもオドザヤも、微塵の隙も見せはしなかったからだ。それに、後宮にいるマグダレーナはサウルがなくなった今となっては、ほぼ、彼女らの祖国からの人質でしかなく、虜囚同然の警備の中にいるのだから、外部のベアトリア大使モンテサント伯爵などとの緊密な連絡なども出来はしない。

 だからこそ、今になって、千載一遇の機会をも逃した彼女は、直截的な行動に出たのだろう。後宮にいては、この後も動きが取れないことが身に染みて分かっただろうから。

 カイエンやオドザヤは簡単には崩れない。

 もしかして、ザイオンの工作でトリスタンへの恋心を募らせていた頃のオドザヤ、麻薬を盛られて正常な判断ができなくなっていた頃の様子をどこかからか聞かされて知っていれば、カイエンとの間に溝ができることも期待していたかもしれなかった。

 だが、それも潰えた。

 オドザヤは去年の春頃からは、妊娠を隠すためもあって、カイエンとの連絡は前にも増して緊密なものとなり、オドザヤの周囲は事情を知る女官長コンスタンサや親衛隊のモンドラゴン子爵によって、蟻の這い出る隙もない状態になっていたのだから。

 それならば、オドザヤの夫となったばかりのトリスタンを揺さぶって、なにがしかの真実を引っ張り出そうと企てたのかもしれない。

 マグダレーナも、そして、ラーラやキルケも、彼らはすべて外国人だ。その点では、今度新しくオドザヤの皇配となったトリスタンも同じなのだ。彼女たちはそこに何らかの活路のようなものを見出したのだろう。

 間違いなく、この騒ぎの中心人物は先帝サウルの第三妾妃のマグダレーナだ。

 だが、今までは大人しく従順な妾妃として長い年月をこの皇宮で過ごしてきたラーラやキルケまでもが、マグダレーナの行動に追従した理由はまだ分からない。

「陛下」

 カイエンはもう、トリスタンの部屋へと続く、扉の取っ手に手をかけながら、オドザヤの方を振り向いた。

 そして、オドザヤにだけ聞こえる声……それはため息ほどの音量しかない小声だった、でオドザヤに囁いた。

「向こうが何をおっしゃろうと、私がすべてを切り返してみせます。いざとなれば、すべては私の体に起きたことにすればいいのです。去年、ベアトリア風のドレスを流行らせた時には、私も率先して着込んで、公式の場に出たりもしましたからね。それに、あの方々は、私の体の事情なんぞ知りはしない。アベルは幸い、私に似ています。そして、この素行の悪い私には愛人が幾人もいることになっている。それも事実ですしね。あの方達には去年からずっと、ほとんど御目通りもしておりません。……エルネストの子ではないと最初からわかっている子供を、私が秘密裏に外へ出して育てている、と強弁すれば、それで文句はないはずです!」

 カイエンは最悪の場合の解決法を、最初にオドザヤに公開した。マグダレーナ達が見ていたカイエンは、皇宮へ、それも公式な行事などのために上がった時だけだ。それ以外の日々をどんな様子でいたかなど、知りはすまい。

「オルキデア離宮にも、私はいたのですから。さあ、トリスタンが何か口を滑らさないうちに、早くご対面、と行きましょう」

 その言葉が終わるか終わらないかのうちには、カイエンはトリスタンの病室へと続く、大きな木製の扉を侍従に開けさせ、狭いホールをゴトゴトと杖の音を響かせて横切ると、もうトリスタンの部屋へ乗り込もうとしていた。

「お姉様、お待ちになって」

 オドザヤはそんなことを言いながらも、もう肝は座ったのか、カイエンと腕を絡ませるようにして、一緒にトリスタンの寝ている寝台のある部屋へ、扉を突き破るような勢いで突入した。

 訪いを入れなかったことなど、妾妃たちの方の非常識を思えば、かわいらしいくらいだ。そもそも、身分はこっちが断然、上なのである。

 

 部屋に入って、まず目に入ってきたのは、色とりどりの色の洪水と、いくつかの香水の匂いが混ざったむせるような熱気だった。

 その中心が、トリスタンがいくつもの枕で体を支え半身を起こしている、天蓋付きの寝台の向こうに居並ぶ、三人の貴婦人から発するものなのは言うまでもない。

 三人の妾妃達の後ろには、扉を背に……というよりも、外への防波堤のようになって、女官長のコンスタンサが向こう側の入り口を背中にして張り付いていた。話の方向によってはそこらの侍従や侍女達には聞かせられない話になる。そう、コンスタンサも配慮したのだろう。

 彼女はカイエンやオドザヤを見ると、やや安心したのか、そそけ立っていた表情が普段の彼女の落ち着き払った様子に戻っていく。

 どうやら、医師はシリルと時を同じくしてどっかかからか逃げたらしく、部屋の中にいる男はトリスタン一人だった。

 そこへカイエンとオドザヤが入り込むと、部屋の中の人数は七人にもなった。

 たった一人の男性であるトリスタンは、とカイエンが見ると、彼は呆然とした表情ではあった。だが、それは半分以上は演技のようで、人工的なガラスのような緑の目は、面白そうに生き生きと光っていた。

 カイエンとオドザヤを見ると、彼は呆れたよ、とでも言うように、顎をわずかにしゃくって見せた。

 カイエンは先日、トリスタンとかなり長い時間、話し込んで来たエルネストから、トリスタンの様子を聞き取っている。最初こそ皮肉交じりでトゲトゲした感じだったが、話が進むに従って大人しくなっていったこと。前のように格好をつけ、勿体ぶった様子はなく、開き直ったのか一枚皮が剥けたのか、皮肉っぽさはあったものの、話している内容は素直で率直だったと聞いている。

 足の方も、カイエンの提案を受け入れたそうで、装具師のトスカ・ガルニカがいずれ彼の義足を調整するために皇宮へ上がることになるだろう、とカイエンはトスカの方へも話を通したところだった。

(まだなんかゴネやがったら、俺がちょっと撫でに行ってやるよ)

 頼もしいのかどうかは微妙だったが、エルネストはトリスタンを完全に「取り込んだ」ようで、そんなことも言っていたっけ。

 今、見た様子からも、トリスタンはカイエンやオドザヤ側として計算して良さそうだ。

 カイエンがそこまで考えた時、トリスタンの寝台の向こう側に三人並んで突っ立っている妾妃達の中から、マグダレーナが一歩、前に出て来た。

 ラーラとキルケの二人は、黙ったまま寄り添い合うようにして、マグダレーナの背後にいるが、その目にはカイエンやオドザヤが今まで見たことのない、何がしかの決心のようなものが見て取れた。

 まあ、そうでもなければ、この二人がマグダレーナに説得されたとしても、今回のような非常識な行いに出ることはなかっただろう。

「ああ、陛下と大公殿下が、まあ、ご一緒にいらしてくださいましたわ。か弱い女性の身でこの大国を治めておられる偉大なる方々が。……ですから、仰々しい謁見のお願いだの、日時の決定なんかで貴重なお時間をお使いにならずに済むように、と考えましたのよ」

 最初に口を聞いたのは、もちろん、三人の妾妃の中の首謀者であるに違いない、第三妾妃だったマグダレーナだ。彼女はこのハウヤ帝国へ嫁いで来てからというもの、ベアトリア風の装いを変えたことがない。

 彼女はアイーシャなき今、新しく「紅薔薇の君」と呼ばれている。今日の出で立ちも深い赤に、髪や目の色に合わせた栗色の切り替えの入った、ベアトリア風の、夏でもなんだか重たげな意匠のドレスだった。差し色に使った緑のリボンやエメラルドの首飾りが上手いこと全体を引き締めている。体が豊満で大柄なだけに、カイエンなどには真似のできない肉体的な圧力があった。

 そういえば、数年前に輿入れして来たばかりのマグダレーナだけでなく、ラーラも、そしてキルケも、このハウヤ帝国に「輿入れ」してもう二十年近く経つと言うのに、いまだに二人ともが、故郷のネファールや、今はフランコ公爵領に併合されたスキュラ風の服装や化粧を変えようとしていない。

 カイエンはその辺りに、この三人の共通点があるように思えた。彼女達は今でも頑なに母国を第一に想っているのだ。この辺りの彼女らの気持ちを変えられなかったのは、先帝サウルの明らかな誤算であり、力及ばぬところだったのだろう。

 もっとも、カイエンの方も口では負けてはいられなかった。 

「それはそれは、お気遣いいただいたようでありがとうございます。……しかし、それにしても私や陛下のところに直にいらっしゃるならともかく、どうしてまた、こちらの皇配殿下のお部屋へ? トリスタン皇配殿下におかれましては、いまだお怪我のご療養中。と言うよりも、まだお兄様のリュシオン王子殿下以外は、ほぼ面会謝絶の状態なのですがね」

 マグダレーナはカイエンとは五つ違いくらいだから、もう、二十七くらいにはなるのだろう。まさに女盛りの美貌は往年のアイーシャや、現在のオドザヤには及ばないにせよ、ベアトリア王女であることもあって、冒しがたい威厳があった。

 それでも、彼女の迫力に押されることもなく、カイエンが最初から低い声で、それも喧嘩腰に近い、つけつけとした物言いで正面から受け止めて答えたので、マグダレーナは意外そうな顔をした。彼女の後ろの二人の妾妃達などは、女としてはかなり低いカイエンの声に、恐らくは亡きサウルの声音を思い出したに違いない。

 ラーラとキルケの二人は、明らかに顔を青ざめさせた。

 アルウィンの顔を知らない彼女達からすれば、声だけではない。

 カイエンの顔によく似た顔といえば、先帝サウルとクリストラ公爵夫人ミルドラなのだ。この二人は彼女らにしてみれば、このハウヤ帝国皇帝家のいかめしさや厳しさ、尊大さを想起する顔なのだろう。

「あら、そうね。そう言えば、そこのコンスタンサもそんなことを言っていたわ。……でも、こうして拝見してみれば、トリスタン様はもうかなりご回復のご様子なのではありませんこと?」

 それでもさすがは一国の王女で、やっと気を取り直して言ったマグダレーナの答えは、肝心なことへの答えになっていない。それに新たな質問をくっつけて相手に迫る、そのくねくねした話の持って行きようは、まさしく魑魅魍魎うごめく宮殿育ちの王女様らしかった。ただし、それは相手が女だった場合の話だ。

 カイエンもオドザヤも女だが、彼女たちは仕事上は「男」と同じに考え、判断するのが当たり前になっている女だ。特に、カイエンは大公軍団の仕事では男どもを顎で使って長いから、こうした話の進め方に対しての反応は女よりも男の方のそれに近かった。

 つまりは、身もふたもない言い方をすれば、「面倒くさい女だ」と思ったのである。

 カイエンは、反射的に何か言おうとしたオドザヤを、そっと片手で制した。オドザヤの方はまだまだ、宮廷の奥での女の戦いのやり方が抜けきっていないようだ。

 トリスタンの怪我の詳細などは、この皇宮でもこの部屋に出入りする人間と、宰相サヴォナローラ、それに元帥大将軍のエミリオ・ザラくらいしか知らないはずなのだ。後宮の彼女らにはトリスタンの右足首から先が吹っ飛ばされたことなど、伝わってはいないはずだ。

 そんな目で見れば、枕で支えられてとは言え、身を起こしているトリスタンの怪我がそこまでとは思えないのだろう。

 それにしても、カイエンの方が「トリスタン皇配殿下」と言ったのに対して、「トリスタン様」と敬称をかなり簡略化し、親しげな呼び方をしたマグダレーナ。その様子からは、やはり、自分たちの側にトリスタンは同情的なはずだ、といった気持ちがあるように見受けられた。

 カイエンはトリスタンの方をちらっと見てから、ここは単刀直入に切り込むことにした。エルネストの話でも、トリスタンは怪我の予後も悪くなく、まだ痛むのは当たり前だが、怪我をした自分の応急手当てをしたカイエンには感謝していたと聞いている。装具を付けての「復帰」にも納得していたと言うから、傷の詳細を聞かせられて動揺することはなさそうだった。

「おやおや。まあ、こちらの皇配殿下のお怪我の詳細は、まだほとんど公開しておりませんから、そう思われても仕方がありませんね。……ですが、それは大間違いなのですよ」

 カイエンが「大間違い」というところを強調すると、マグダレーナ達三人の顔色が明らかに変わった。彼女らは怪我といってもその実態に実感などなかったに違いない。彼女達はあのパレードの時の騒ぎも、緊張感も、それ以後の非常事態宣言下のハーマポスタールの様子も知らないのだ。

「こうして、ご気丈にも寝台で起き上がっておられるが、容体がお悪かったらまだ高熱に苛まれておられても不思議ではないのですよ。何しろ、片足が吹き飛んでしまわれたのですからね」

 カイエンは意地悪く、「足首から先」という事実は端折ってしまった。足が爆薬で吹き飛ばされたのは事実だ。嘘は言っていない。

「え……っ?」

「そ、そんな……」

「ひっ!」

 案の定、マグダレーナも、ラーラもキルケも、カイエンがごくごく普通の声で告げた「現実」の恐ろしさと非日常性に、驚きよりも恐怖を覚えたようだった。

「……大公殿下、ご婦人達が怖がっておいでです。あの、パレードでの十字弓と手投げ弾での攻撃に対して、大公殿下は陛下や私を体をもって庇ってくださった上、私の大怪我の応急処置まで完璧にしてくださった。そんなことがお出来になる大公殿下の方が、女性としてはその、まあ、普通ではないのですよ」

 なんと、ここで当事者のトリスタンが、最後の方はくすくすと笑い声を抑えきれずに、こんなことを言ってのけたから、余計に妾妃達は固まってしまった。

 明らかに彼女らは、トリスタンも自分たちと同じ立場でこのハウヤ帝国に送り込まれてきたと思っていたのだろう。トリスタンが、母のチューラ女王の命令で、まだ何も知らない頃のオドザヤをたらし込み、陥れようとしたことまでは知らないにせよ。彼がカイエンの味方のような発言をするはずがないと思っていたに違いない。

 カイエンの方は、自分が決して女らしくはないことは勿論、自覚していたから、トリスタンの半分嫌味なこの言葉も利用させてもらうことにした。

「それは失礼いたしました。トリスタン殿下のおっしゃる通り、私は仕事で下々のむくつけき男どもと付き合っておりますから、粗野でいけませんね。……オドザヤ皇帝陛下は、今度のことで皇配殿下がこのような大怪我をなさったことに、いたく御心を痛めていらっしゃいます。ですから、こうしてご自分の宮でのご療養を御命じになったのですよ」

 カイエンは一度、そこで言葉を切った。相手にどう伝わったか、確かめるためだ。マグダレーナたちはまだ立ち直っていない。

「そんな重傷の皇配殿下の元へ、このように押しかけて来られた理由はなんでしょう? それも、御三人さまお揃いで?」

 カイエンはそこまで言うと、そろそろ杖があるとは言っても突っ立っているのは疲れてきたので、わざとトリスタンの枕元のすぐそばに置かれた安楽椅子に腰掛けてしまった。そこは、恐らくはシリルの定位置なのに違いなかった。オドザヤの方は、ここはカイエンに任せた方が安全だと判断したようだ。彼女は皇帝の身でありながら、あえて座ったカイエンの後ろに、威厳をもった姿勢で立った。

 オドザヤの夫であるトリスタンのすぐそばに、大公といえども臣下であるカイエンが座るのは本来ならば絶対におかしい。それでも、オドザヤはそうした。マグダレーナ達の言い分を聞く前は、まだ戦いは序盤戦だ。序盤戦で皇帝が前衛に立つ必要などない。

 そして、オドザヤは無言のまま、マグダレーナ達三人を睨めつけるように眺め渡した。確かに、カイエンよりはオドザヤの方が上背があったから、立ったまま相手を睥睨へいげいするには適してもいた。

 トリスタンがこちら側に立つ発言をした今、戦いは三人対三人になった。オドザヤはどんなにマグダレーナが際どいところを突いてきても、迎え打てると自分に言い聞かせていた。

「わ、わたくしは、わたくしは、わたくし供と同じく、人質としてこのハウヤ帝国に入られた方なら、ご理解いただけると、きっと、皇帝陛下に御口添えいただけると、そう、信じてここへ来ましたのです!」

 やがて、口を開いたのはマグダレーナではなく、意外にもアルタマキアの母のキルケだったから、内心でカイエンやオドザヤは驚いた。

「マ、マグダレーナ様の御子はこの国唯一の男児、皇子であられます。今までのこの国の慣例に従えば、恐れ多くも代替りの際には、お世継ぎの皇子ではなくとも皇子宮へ御移りになるのが普通です」

 キルケは、もう、今までカイエンやオドザヤに見せていた、儚げで北国の氷のようにすぐに溶けてしまいそうな様子には見えなかった。髪の色も目の色も、そして肌の色も、娘のアルタマキア皇女同様、色素の薄い彼女だったが、その空色の瞳はすわっていた。

「そ、それだけではございません。わたくしの娘、アルタマキアはスキュラであのような目にあったにも関わらず、強制的に結婚させられたとかいう、マトゥランダ島の男を連れ込んだまま、皇女宮へ入ったきり。この母にはろくに挨拶にも参りません」

 キルケは、カイエンでもトリスタンでもなく、オドザヤ一人をきっとした目で見た。

「アルタマキア一人が皇女宮にいるのなら、わたくしも我慢致します。あの子は紛れもなくこのハウヤ帝国の皇女なのですから、そして、もう十七になろうとしているのですから。他国へ行くにしろ、降嫁するにしろ、皇女宮に住むのは未婚の年頃の皇女として普通です。ですが、なぜあの子は無理矢理に添わされたというマトゥランダ島の男と一緒に……。人質なら地下牢にでも、別の場所にでも閉じ込めて置いたらいいではありませぬか! なのに、皇帝陛下にはあの子には何の沙汰もなさらず、放っておられます。それなら、わたくしはあの子を守らねばなりません。ですから、当然、皇子宮へ御入りになるべきフロレンティーノ皇子殿下とマグダレーナ様と共に、娘を守るために皇女宮へ参らねばなりません」

 キルケがそう言えば、ラーラもキルケのように激しい口調でこそなかったが、言葉を継いだ。

「マグダレーナ様、キルケ様のお気持ちと比べれば、私の思いは弱いものでございましょう。私の娘、カリスマは私の故国へ王太女として向かいました。向こうでは、我が兄国王の教えのもと、重責を担うべく励んでいるそうにございます。皇帝陛下には言うまでもないことでございますが、隣国シイナドラドが内乱状態となった今、ネファールは緊張状態が続いておりますとか。後宮におりましては、故国の状況もろくに聞こえては参りません。カリスマは定期的に書簡を送ってはくれますが、不安で仕方がないのです。もし、マグダレーナ様、キルケ様が皇子皇女宮へ御移りになれば、後宮には私一人が残されてしまいます。そうなったら、カリスマからの便りもきちんと届くかどうか……」

 ラーラは、浅黒い、娘のカリスマそっくりの顔を上げ、きっとした目でオドザヤに言った。

「カリスマがネファールの後継と決まりましたのは、先帝サウル陛下と我が兄、ジャンカとの間の約定でございます。それは陛下もお引き継ぎのはず。この国の友邦、シイナドラドがあのような状態の今、我が国の動向はこのハウヤ帝国にとりましても重要な事柄であるはずです。……私の願いは、マグダレーナ様、そしてキルケ様の願いが聞き届けられた、その後でお考えくださって結構です」

 ラーラの真っ黒な目には、涙があった。カイエンもオドザヤもこのラーラの涙に嘘偽りがあるとは思わなかった。だが、彼女の申し出を許せば、マグダレーナが皇子宮へ入り、今よりも自由に外部と連絡が取れる状態になりかねないのだ。

 それは、ベアトリアがフロレンティーノ皇子を擁してこのハウヤ帝国の政治に口を出してくる口実になり兼ねない。オドザヤにはすでにアベルという子がいるが、アベルは正式な婚姻の後に生まれた子ではないゆえに、オドザヤの後継にはなり得ない。皮肉なことだが、オドザヤがもし男帝であったら、婚前に生まれた子でも庶子として皇子の一人には数えられたに違いないのだ。だが、女帝の子としては、このハウヤ帝国初の女帝の子としてはそれは社会に認められようもなかった。 

「そうでしたの。その御口添えを、ここのトリスタン王子を通して私に、とのお考えが嵩じて、このような、普段の貴女がたならあり得ない行動となって現れた、とおっしゃるんですわね?」

 オドザヤはそう答えたが、トリスタンは黙っている。

 そのトリスタンのすぐ横に座っているカイエンの肩に、オドザヤの手が置かれた。その手は、彼女の表面には出てこない感情を表し、きつく、痛いほどにカイエンの黒い大公軍団の制服の肩を掴んでいた。

「私も、貴女がたを軽んじているわけではありません」

 オドザヤは一言ずつ、確かめるようにしながら、話を進めていく。

「ですが、私はこのハウヤ帝国の皇帝です。……今、キルケ様、ラーラ様がおっしゃった、まさにその理由で、私は貴女がたに後宮の外に御出でになるのを許可することはできません」

「え、でも、フロレンティーノは今、この帝国の唯一の後継者なのですよ」

 オドザヤの迫力におされたのか、マグダレーナの言葉はやや弱々しく聞こえた。オドザヤはそれに追っかぶせるようにして、次の言葉をマグダレーナに向かって投げつけた。

「ええ。それはもうよく分かっております。フロレンティーノは我が唯一の弟、皇子ですわ。ですけれども、私は皇女でありながら父、サウルの後を継いで皇帝となりました。元老院大議会でも、フロレンティーノは私の『推定相続人』としてのみ認められました。これはもし、私に今後、子が生まれましたら、次の帝位は私の子になるということです。そして、私というこのハウヤ帝国初の女帝が立った以上、私の子が男であれ、女であれ、その子はフロレンティーノの皇位継承順より上になりますのよ」

 カイエンはひやりとした。このオドザヤの発言には、異を唱える上位貴族も出てくるだろう。それくらい、このオドザヤの発言は際どいものだった。

「……そりゃあ、そうじゃなくっちゃねえ。僕はこれでもザイオンの王子だよ。僕の子供がないがしろにされたら、ザイオンの母上も黙ってはいないだろうなあ」

 前もって仕込んででもいたように、トリスタンがそう言わなかったら、マグダレーナは間違いなくオドザヤに反論していたことだろう。だが、皇配殿下のトリスタンがこう言えば、もう、マグダレーナは黙るしかなかった。

 ここはベアトリアとザイオンの国力の差がものをいった。ベアトリアはザイオンのような気候に恵まれぬ北国ではないが、国土の広さ、人口の多さとなれはザイオンとは比べ物にならない。こと軍隊、軍事力となれば、北のザイオンの方が動員出来る兵力は桁違いに多いのだ。

「キルケ様」

 オドザヤは、まずはキルケからやっつけようと決めたようだった。カイエンもそれには異議は無かったから、黙って聞いていた。

「私もお母上として、キルケ様がアルタマキアのことで御心を痛めておられることは理解しているつもりですわ。ですが、アルタマキアとも、そのマトゥサレン島の人質というリュリュという男ともとうに話し合いは済んでおりますの。アルタマキアは確かに、スキュラへ送られ、あちらで無理矢理に行われた二人の夫との婚姻には傷ついております。特に嫌な相手だった、マトゥサレン島の大惣領の息子、あのイローナの甥には恨みもあると言っていましたわ。でもその者は、もう一人のリュリュという者と、その大叔母とに殺されたそうですの。リュリュという男は今、公式にはこのハウヤ帝国への人質となっております。本人もそれは了解していて、皇女宮の外へは決して出ない、と誓約書も交わしました。……あんな田舎出の若い男には酷な約束でしょうに、平気な顔で署名しましたのよ」

「え、でも……」

 キルケは口を挟もうとしたが、オドザヤはそれを自分の言葉で残酷なまでにきっぱりと踏み潰した。

「アルタマキアは一度はスキュラの後継として、このハウヤ帝国から出された身です。スキュラはご存知の通り、今はフランコ公爵領となりました。私としては、向こうで散々な目にあったアルタマキアには、しばらくは心安くさせてやりたいんですの。アルタマキア自身もまだ、気持ちの整理がつかない、と言っていましたが、あのリュリュというのはアルタマキアがスキュラから救い出されてからは、皇女宮でそばに仕えていても、夫であるという主張や態度など、一切、見せないそうですわ。それでアルタマキアの心も安定しているようです。私はもう少し、傷ついたあの子の心を休めていてやりたいんですの。今、あの子を嫁がせられるような国もございませんしね。もちろん、アルタマキアがあのリュリュとやらを遠ざけたいと言うのなら、すぐにもそうしますわ」

 その次にオドザヤがキルケに言った言葉で、キルケは打ちのめされ、もう言葉を発する気力も萎え果ててしまったようだった。

「キルケ様。ご心配はもっともながら、もう、アルタマキアは大人になりました。私、実は母のアイーシャとは決して仲のいい母娘ではありませんでしたの。母がリリエンスールを産んで、気が違ってしまった時、私はやっと母から自由になりましたのよ。キルケ様とアルタマキアが私と同じだとは申しません。でも、アルタマキアの方は、キルケ様にそばにいて欲しいとは一度も言ってはおりませんの。その気持ちを汲んでやって欲しいですわね」

 今や、オドザヤの琥珀色の目は、輝ける金無垢のように輝いていた。

 彼女の次の標的は、キルケよりもより動機の薄いラーラへだった。

「ラーラ様。ラーラ様へのカリスマからの書簡は、申し訳ございませんですけれども、国家間のやりとりですので、私と宰相府とで検閲させていただいております。それに、ネファール駐留の外交官エンゴンガ伯爵からも通信が届いております。それが、カリスマは模範的な後継者ではないそうですの。ジャンカ国王からのお手紙でも、カリスマは水を得た魚のように学問に勤しみ、生き生きと知識を吸収し、ネファール各地へも赴き、見聞を広めているそうです。ですが、伯父様の言うことなど聞くことはあまりなく、自ら市井の者たちとも馴染み、もうすでに好き合ってそばに置いている者もいるとか。ジャンカ国王は『男女のことだから、しょうがない。それほど身分の低い者でもないから、夫にしてもなんとかなるだろう』との思し召しです」

 これを聞いていたラーラは、まさか、と言う顔つきだった。多くの母親がそうだろうが、年頃の娘が本心を母親に語るとは限らない。

「今、陛下がおっしゃったことは本当です。私も宰相もこのジャンカ国王からの書簡は見ております」

 カイエンがそう付け足すと、ラーラもまた、キルケ同様に打ちのめされた様子だった。

 だが、ここまで来ても、マグダレーナはへこたれなかった。

「あーら、そうですのぉ。それじゃあ、ラーラ様、キルケ様、あなた方はどうしようもありませんわねえ」

 そう言うと、マグダレーナは傲慢にも、コンスタンサが立ち塞がっている扉の方へ、顎をしゃくるようにしてラーラとキルケを追いやった。

(なんて頼りない人たち! 自分の娘の本心も推し量れずにいたなんて! もう用はないからさっさと後宮へお戻り!)

 腕組みしたマグダレーナの表情には、ありありと彼女の気持ちが現れていた。

 もう、この二人は自分への援護射撃にはならない、と切って捨てたのだろう。


「所詮、二十年も先帝のお側にありながら、皇女殿下お一人しか上げられなかった方々ですわね。あら、そう言えば、今は亡きアイーシャ皇太后もオドザヤ皇帝陛下をお産みになったのちは、リリエンスール皇女を孕られるまでは一人のお子もありませんでしたわねえ。皆様、一度のご懐妊で先帝陛下には飽きられてしまわれたのかしら」

 この、ラーラとキルケが部屋を出てから言った、赤裸々なマグダレーナの言葉には、カイエンもオドザヤもとっさにす言葉がなかった。だが、カイエンはふと気が付いた。

 サウルは、「時代の行方が見える者」だったらしい。

 彼には、未来の行く末がなんとなく見えていたようなのだ。

 晩年のサウルの様子を回顧すれば、彼は明らかに皇位を第一皇女のオドザヤに譲るしかない、と決めていた節がある。その上で、前の降嫁先サクラーティ公爵家で男女二人の子を産んでいるマグダレーナに最後の望みをかけたようなきらいがあった。

 アイーシャが十数年ぶりに身ごもったのも、もしかしたらリリの存在を未来に感じたからなのかも知れない。

 だが、もう、確かめる術はない。

 同じことを考えて、黙っているカイエンとオドザヤへ、マグダレーナは懲りずに爆弾を投げつけて来た。

「私は簡単に言いくるめられませんわよ。……去年、なんだか不自然にベアトリア風のドレスが流行しましたわね。あれは、春の終わりだったかしら、それとも夏でしたかしら?」

 ああ。

 カイエンもオドザヤも即座に納得した。

 去年、オドザヤの妊娠中にうごめいた貴族達の後ろには、この女がいたのだと。いや、ベアトリアの外交官、モンテサント伯爵も一枚噛んでいたのだろう。

「私、この国へ参ってからも、ずっとベアトリア風のドレスと決めておりました。それは、あのラーラ様、キルケ様も同じ心持ちだったのでしょう。大国に人質に出され……それも正妻ならともかく、妾妃として。拠り所は祖国しかなかったのですわ。先ほどのお言葉でもそれは明らかでしたわねえ」

 カイエンもオドザヤも、もちろん知っている。マグダレーナはベアトリアの第一皇女で、最初の嫁ぎ先は国内一の公爵家、サクラーティ公爵家の長男ラザロの元だった。そこで男女二人の子をもうけたが、ラザロは若くして亡くなってしまった。

 それに目につけたのが、サウルだった。

 隣国とはいえ、長年、国境紛争を続けていたベアトリアとは、ハウヤ帝国の勝利、ハウヤ帝国、ベアトリア間の国境をベアトリア内部側に仕切り直すことで終戦した。つまり、ハウヤ帝国はベアトリアの国土のかなり広い部分を割譲させ、ハウヤ帝国に取り込んだのだ。  

 当然、ベアトリア側には恨みが残る。その解決策としてサウルが求めたのが、ベアトリア王家の王女を妾妃に差し出させることだった。サウルはここで、皇子誕生の最後の望みをかけるため、若い未婚の王女では無く、すでに嫁ぎ先で子をなしている寡婦のマグダレーナを指名したのだ。

「ほほほ。それでもみな様、お子が皇女だから、粘りが足りませんのね。あんなに簡単に言い負かされてしまわれて。でも、私は違いますわよ。私には先帝陛下の唯一の皇子、フロレンティーノがいるのですから」 

 カイエンは内心で、うんざりしていたが、受けて立つしかなかった。

「それがどうしたのです。先ほどの、陛下のお言葉を聞かれたでしょう? 陛下がトリスタン皇配殿下を得られた今、フロレンティーノ皇子殿下の身分は、未だ『先帝の皇子』の域を出てはいないのです」

 カイエンの言葉を聞くと、マグダレーナはその妖艶な顔に、にたり、と危険な微笑を浮かべて見せた。

「お話を他へ向けようとしても駄目ですわ。私が先ほど申し上げたのは、去年、不自然にベアトリア風の、ええ、切り替えが胸のすぐ下にあって、お腹のふっくらしたドレスがこのハーマポスタール『だけで』流行したことですのよ。ふふ、私、あの時ね、何としても真相を探りたかったんですの。でも、後宮からでは手が届きませんでしたわ。モンテサント伯爵も頑張ってくれたのですが、陛下や大公殿下が率先して流行に取り入れようとなさった、それ以上の『真実』には近寄れませんでしたわ」

 オドザヤの顔も、トリスタンの顔も、やや血の気が失われてしまったのは仕方がないことだろう。

 カイエンはここで踏ん張れるのは、自分だけだ、と覚悟を決めた。

「なんだかよくわかりませんね。お国のお衣装が、このハーマポスタールで流行したのです。マグダレーナ様にはお喜びこそすれ、文句などないはずだと思いますけれども。……違うのですか」

 もう、この部屋にいるのは、マグダレーナの他には、カイエンとオドザヤ、それにトリスタンとコンスタンサの四人だけだった。彼らはみな、アベルの誕生のことを知っていた。

「あら、だってそれまでは私のドレスは野暮ったいって、ここの皆様は馬鹿にしてらしたのに。それが急に流行するなんてねえ。嘘くさくって!……まあ、偶然だと強弁なさるのなら、それならそれはそれでいいですわ。このベアトリア風のドレスが、『身重でもない娘を妊娠しているように見せる』から野暮ったいと言われていたこともね! それが何の前触れもなく流行し始めて、それと同時に、大公殿下の派手な男関係の醜聞が、卑しい醜聞専門紙だけではなく、高級紙の『黎明新聞アウロラ』だの、『自由新聞リベルタ』だのにまで載り始めたのも、偶然なのでしょうねえ」

 (はあ……)

 カイエンはそろそろ、この面倒臭い女の相手が、心底、嫌になってきていた。

 彼女の二十二年の人生の中で、貴婦人と付き合うような時間はほんのわずかなものでしかなかったからだ。

 カイエンは回りくどい思考のみを使って貴婦人が憎い相手を攻め立てる方法、それは、しつこく同じことを蒸し返し、繰り返し責め立て、相手がボロを出そうものならすかさず鋭い針を差し込んで仕留めるようなやり方だったが……には慣れていない。

 つまり、カイエンは非力な女性特有の、周囲から絡め取って喧嘩の相手の自滅、自崩を誘うようなやり方、相手の失敗を誘い、そこから自分は力を出すことなく相手を陥れ、相手が自壊して行くのを待つようなやり方への応対には経験が足りないのだ。相手の質問には答えず、しつこく同じことを繰り返して相手が痺れを切らす瞬間を狙うような、ねちっこくて辛抱強いやり方にも。

 そもそも、本来のカイエンは性格も生真面目でまっすぐ、単純明快で裏も表も無いような、喧嘩するなら、正面から撃破! という前に向かって突進するしか出来ない、猪武者のような単細胞なタイプだった。

 去年の始め、腹を刺されて療養中のイリヤとあれこれあった頃、イリヤの発言にカッとなった時などは、もうどうしていいのかわからないところまで追い込まれ、まだ怪我人のイリヤに頭突きをぶっかましてしまったくらいだなのだ。

 最近はそんな彼女も、政治や外交の薄暗い世界をくぐり抜けて来て、かなり人が悪くなって来ていたが、それでも、このマグダレーナの話の持っていきようには、さすがに精神の我慢がきかなくなり、キレかかって来た、ということだった。

「はあ、あれには私も困惑しました。でもまあ、事実とそれほど乖離している訳ではなかったので、ほっぽっておきましたけどね」

 カイエンは、マグダレーナが仕掛けて来ている方法は理解出来ていた。

 だが、マグダレーナが密かに狙っていたように、カイエンは言葉を濁したりはせず、彼女らしく、すっぱりと正直にことを認めてしまった。だが、そこには昔と違ってちゃんと作戦があったし、確かにそれは、マグダレーナに付け入る隙を与えないきっぱりとした態度だった。

 カイエンがいともすっぱりと認めてしまうと、さすがのマグダレーナも鼻白んだ顔になった。彼女の方も今までの貴婦人相手の喧嘩とは勝手が違うことに気が付いたのだろう。

「あら。それじゃあ、エルネスト皇子殿下とは不仲で、元からいる男妾の元将軍以外にも、大公軍団軍団長にまで手を出されたというのは本当ですの?」

 それでも、言葉には毒のこもった棘がいくつもくっついている。

「……そこまでご存知なら、話は早い。その通りですよ。エルネストには、あいつの兄の結婚式のためにシイナドラドへ行かされた時に、いやらしい目に合わされましてね。婿入りしてくるというのは断れなかったのですが、夫として見る気にはなれませんでした。それでも、奴は奴なりにこの国で楽しんでいるし、先日も、こちらの皇配殿下の見舞いに残したら、仲良くなってくれて助かりましたよ。軍団長の方も、今さらでしょう? あなただって、ああいうとんでもなく外見の整ったのには心惹かれるのでは? あいつの場合、中身は真っ黒で、どんな汚れ仕事だって任せられますから一挙両得以上なのですよ」

 ここまでカイエンがずけずけと言い放つと、オドザヤもトリスタンも「そこまで言うか」と、呆れた顔になったが、マグダレーナの方は呆れる以上に、不気味に見えてきたらしい。

「そこまでご自由気ままに楽しんでおられるのでは、そろそろ、お子がお出来になってもおかしくありませんわね」

 マグダレーナの次の言葉は、カイエンには痛烈な皮肉だったが、カイエンの体の事情を知らないことを暗に知らしめることともなった。

「あははははは」

 カイエンは思わず笑ってしまった。これなら、今のマグダレーナを煙に巻くのは簡単だろうと分かったからだ。

「そうですねえ。ヴァイロンとはもう四年目、エルネストとも二年目ですか。軍団長とも一年以上になりますねえ。確かに、そろそろ子供が宿ってくれてもいいとは思うのですが……誰に似たのだか、なかなか上手くいかないのです」

 カイエンは面白そうに言い切ったが、事情を知っているオドザヤや、先日、エルネストから遠回しに聞かされているトリスタンは何か言いたそうにして、そして黙ってしまうしかなかったようだ。

「ま、大公の私の子など、どこかの上位貴族の家に婿入り、嫁入りするしかないのですから、どうでもいいことですよ。さすがに、さっき申し上げた三人以外の子供だとなると、ふふっ、誤魔化して秘密裏に産まなければならないかもしれませんけどね」

 カイエンはまだサウルが生きていた頃には、そんな顔はしたことがなかった、人の悪い顔つきになっていた。その表情は、もし、アルウィンをよく知る者がそこにいたとしたら、「おやまあ、前よりももっと似てきたわい」と評したに違いなかった。だが、カイエン自身は必死で否定し、嫌がったことだろう。

「……それでは、ご不明の点も晴れましたでしょう? マグダレーナ様」

 カイエンがおっ被せるようにそう聞くと、オドザヤによってラーラとキルケの二人を陣営から失い、カイエンによって、すっかり毒気を抜かれてしまったマグダレーナはもう次の手も、その前置きの憎まれ口も出てこなくなってしまったように見えた。

 どんな意地の悪い言葉で、切り込んでも切り込んでも、カイエンもオドザヤも正面から受けて立つ用意ができていることにも気が付いたはずだ。

「コンスタンサ! マグダレーナ様は後宮へお帰りだ。しっかりと送り届けて差し上げるように」

 だから、本当ならオドザヤが言うべき言葉を、カイエンが言っても誰も咎め立てはしなかった。







 同じ頃。

 ハーマポスタールのとある場所で、目立つ男二人が煤けた古い机を挟んで向かい合っていた。

「ええー。そこんとこは今後、しっかり見極めてくれないとぉ。今、俺たちのこの傭兵ギルドは儲け放題のはずですよ。ただ、ヤクザの親分さんとこにちゃんと正式に所属してない半グレの凶悪犯マラスのグループはお客にしないで、って言ってるだけじゃん」

 机はかなり大きく、雑多な書類や物が積み重なっていた。そこへ、両側から二人の男が長い足を乗っけていたから、男たちの前に置かれたロン酒の陶器の容器が倒れたり、壊れたりしないのがいっそ不思議なほどだった。

「イリヤ、あんたはそう簡単に言うが、半グレの凶悪犯マラスってのはここからがどっち、って線引き出来るほど単純じゃねえんだよ。俺だって、あんなやつらをどっかに紹介して、悶着起こされて仲裁に入るのはもううんざりなんだ。わかるだろ?」

 男の一人は、夏でも黒い大公軍団の制服、それも大公のカイエンの次に位置する地位、大公軍団長にふさわしい、ボタンに日光下とランプの下でその色を変える金緑石アレハンドリータが使われた制服を着込んだ、「大公軍団の恐怖の伊達男」だった。

 そこは、このハーマポスタールの傭兵ギルドの総長の部屋で、イリヤに向かい合っている男の方が、実務を一手に引き受けているイリヤのこっちでの腹心だった。

 名前はジャルガラン・ロコ。

 イリヤの本名、イリヤボルトもこのハウヤ帝国風の名前ではないが、彼の名前、ジャルガランも同じだ。ともに、片親の祖先は螺旋帝国に近い小国の出身で、その名残が彼らの名前に残っているのだった。

「今度の皇帝陛下のパレードでの襲撃、ありゃあ、ここの紹介した連中じゃない。帳簿見せてもいいし、命かけて誓ってもいいよ。ま、あんた相手じゃどっちも効き目なさそうだけどな」

 イリヤの皮肉げな微笑を浮かべた顔を、こいつの顔ももう、うんざりだ、と言う目で見たジャルガランには、一つだけイリヤと共通したところがあった。

 鉄色の目。

 濃い、やや黒みがかった緑色。

 その鉄色の目は、金属製の枠に丸いガラスの嵌った眼鏡の向こうにある。ここで面接だの、膨大な帳簿仕事だのを長年やってきた彼は、すっかり近目になってしまったのだ。

 ジャルガランの短めに刈られた髪は真っ黒な癖っ毛で、皮膚の色もイリヤよりは東方の血が濃いのか、象牙色がかっていた。だが、彫りの深い、奥目だが目の大きい顔つきには、なんとなく共通点もある。

 だが、職業柄、筋肉質で引き締まったイリヤの体つきとは違い、ジャルガランの方は背の高さはかなりあったが、体つきの方はがりがりに痩せていた。だから、深い眼窩の奥の、鉄色の目がイリヤよりもよほど目立って見えた。

「……でもまあ、対策は言われた通りにやってるよ。うちで紹介した奴らにはもう通知済み。どこに入り込んだやつにもね。雇い主が誰でも、どんなお役目でも、絶対に大公軍団には逆らわない、ってね、言い渡して、誓約書も取ってる」

 そう言うと、ジャルガランは紙巻き煙草に火をつけ、ふーっと紫煙を吹き出した。

「もっとはっきり言おうか。……絶対にあんたの『殿下ちゃん』には逆らうな。『殿下ちゃん』に敵対するなら、雇い主でもぶっ殺せ。……これでいいかよ、相棒コンパニエロ

 これを聞くと、イリヤはこれ以上ない、と言うほどの満面の笑顔を作ってジャルガランを見た。街中の似顔絵屋で歌劇俳優と並んで売られているイリヤの似顔絵を大事にしているような婦女子が見たら、「ああ……」とでもため息をつくか、下手をすれば気絶しかねないシロモノだった。

 だが、そんな破壊力満点のイリヤの笑顔も、ジャルガランはちらりと見ただけで、視点を合わそうともしなかった。

 もちろん、長年の付き合いであるジャルガランにとってはそんなものは、ただ薄気味悪く、気色悪いだけだったからだ。

「いい、いいよー。相棒コンパニエロ! ああ、でも大物相手の時は俺に相談してね。殿下ちゃんの足引っ張るわけにはいかないからさぁ。秘密裏にやって殿下ちゃんにバレると怖いのよぉ。ああ、そうだ! 『殿下ちゃん』は俺専用の呼び方だから。君は使っちゃだめ! 君にはなんて呼んでもらおうかなー。うーん」

 イリヤは真面目に考えているようだが、ジャルガランの方は、もう他の書類仕事に取り掛かっていた。イリヤのこんなおしゃべりに付き合っていたら、彼のほうが数年前のイリヤ以上に過労死する危険があった。

「あー、これがいいや。『ご主人様』! これだねぇ。殿下ちゃんの足元にひれ伏して許しを乞う皇子様の使っている呼び方だあ。ジャルガラン、お前も次からはこう呼ぶように!」

 イリヤは結構真面目にそう提案したのだが、ジャルガランにはどうでもいいことだった。

 彼の知っているイリヤボルト・ディアマンテスは、たとえ相手が高貴な身分とはいえ、一人の、それも女に自分の全部を捧げるような男ではなかった。

 この街の大公が変わった時から、なんだか態度がおかしいとは思っていたが、今の大公の愛人に収まった途端にイリヤの生きる目的も、この傭兵ギルドの方向性も、きれいさっぱり大公寄りになってしまった。

 まさか、こんな次元を超えた美貌なのは皮一枚のことで、その下は悪魔よりも真っ黒けの最悪な男が、この街の支配者である大公にめろめろだとは、しばらくの間信じられなかったほどだ。だが、大公の愛人に収まって一年以上にもなるのだから、これは悪の権化でも、本気の恋には逆らえないと言うことなのだろう。

 人間味があることが分かって安心したところもあったが、今度はその大公殿下に逆らう者は消去していいよ、と言われた時には、ちょっと呆れた。

 もっとも、元から実務的な仕事には熱心で、やる気もあったが、自分たちのギルドの方針などには興味のなかったジャルガランにとっては、些細な変更でしかなかったが。

「ジャルガランくぅん、ねえ、わかったぁ?」 

 とぼけたイリヤの声も、もう次の事務仕事と、求職者の面談結果の方に気を取られてしまっていたジャルガランには半分も聞こえてはいなかった。それでも返事だけはしたのは、まったく聞こえていないとなったら、イリヤは途端に真っ黒残酷非道のイリヤに変貌することを、骨の髄から知っていたからだけだ。

「わかった。ご主人様だな。俺は別に呼び方なんぞ、なんでもいい」

 イリヤはなおも何かぶつぶつ言っていたが、それはもうジャルガランの耳には入らなかった。

 わかったよ、相棒コンパニエロ

 俺も大公殿下万歳で構わない。

 この街では、これから、戦える男の周旋仕事はウケに入るはずだからな。俺はそれなり以上に儲かればそれでいい。

 ジャルガランは、汗でずり落ちてきた眼鏡を高い鼻の上へ押し上げながらそう思っていた。

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