結べば解ける運命の糸


 ラモンが駆け出して逃げ去っていった後。

 ここの道場主であり、五十になった今も「自由格闘ルチャ・リブレ」の第一人者である、アポロ・ウェルタは、彼よりもいくつか年下で闘技に出ることはないが、ここ十五年近く、いつもここで体を鍛えている国立大学院教授、マルコス・イスキエルドを、道場の奥の中庭へ案内した。

 マルコスがここへ来る目的は、当初はもっぱら体を鍛え上げることだった。だが、アポロに、

「先生よぉ、鍛えて筋肉つけるだけじゃつまらねえだろうよ。頭大事の先生に、試合に出ろたぁ言わねえが、柔らかくて素早く動ける、『使える筋肉』じゃねえとなぁ。体が重たくなるだけで実利はなーんにもないぜ。ま、格好しか見ねえ女にゃモテるかも知れないが、いざってえ時に娘さんやらお孫さんやらも守れねえや。こんな例じゃ分からねえかもしれないが、……先生だって使えねえ学問に血道を上げてるわけじゃあるめえ」

 と言われると、マルコスの方も「それもそうだ」と、朝は家の周りを走って心肺を鍛え、昼は大学院で柔軟体操、そして夕方からは地下闘技場に出る若手の闘技士たちと練習を始めた。

 「自由格闘ルチャ・リブレ」とは言っても闘技にはちゃんとルールがあり、技が決まればそこでその試合は勝負がつく。遥か昔に剣闘士たちが貴族たちの前で行なっていた、「どちらかが死ぬまで行う」ものではなかった。剣だの槍だのの武器も使わない。

 それでも、興行が成り立つのは、歌劇場の歌手のように、闘技士一人一人に固定のひいき客が付いているのが大きい。そのために闘技士たちは仮面マスカラを決めて決して素顔を見せない演出をしたり、派手な衣装や鳴り物入りの入場など、工夫を凝らしていた。中には歌劇場の歌手や俳優、それに高級娼婦達と同じように、街中の「似顔絵屋」で似顔絵が飛ぶように売れる人気者もいたのだ。

 マルコスも自分は出ないながらも、日頃、一緒に技の鍛錬を行なっている若者たちが出る闘技会には、国立大学院の授業が終わってから応援に駆けつけることもあった。

 そんな、アポロ・ウェルタ道場には、練習用の闘技場や筋肉を鍛えるための器具の並ぶ土間の奥が中庭になっており、その奥が炊事場と井戸のある洗濯場兼風呂場のような感じになっていた。こうした民家では水場は井戸の近くに集中しているのが普通だ。

 ハウヤ帝国では、民家は皆表通りに面しては長屋のように繋がった玄関を持ち、中では家の中心に中庭を持つ家が多い。金座などの大通りの商店でもこの形式は似ていて、大きな建物では道に面したアーチ型の馬車が優に通れる入り口を潜ると、その奥が馬車止まりとなっており、建物の中に入れば、やはり中央に広い空間がひらけているのだった。

 炊事場には食堂兼居間のような部屋が隣接しており、そこには、大きな古い分厚い板で出来たテーブルと椅子がどっしりと置かれていた。

 週末に行われる闘技会は、地下の古い客席に囲まれた闘技場で行われる。そこへは、表の道場の横にある階段から地下へ降りられるようになっており、客などが地下へ入って行けるようになっていた。

 それとは別に関係者や闘技に出る闘技士たちが使う裏階段があり、それがこの奥の炊事場と食堂の間になっていた。それは石造りの狭い階段で、木の手すりがついてはいるが、覗くとその下は真っ暗だった。階段を下りきった先は闘技士の控え室のようになっており、闘技を終えた闘技士たちはこの階段を上がって井戸の周りで汗を流せるというわけだ。

 中庭に入った二人は、中庭を囲む部屋には入らず、小さな木や草花が植え込まれた一角にある石作りの丸テーブルと簡単な板の背の付いた木の丸い椅子に腰を下ろした。もう夏だが、夕涼みがてら休むには食堂よりもそちらの方が向いていた。

 中庭を囲む厨房方向以外の三方には、アポロの私室やら闘技士たちの衣装部屋などがある。

 闘技士の中には顔を出さず、布製や革製の仮面マスカラを被ったり、凝ったなりで登場する者も多く、地下の狭い控え室には置ききれないので、ここに保管されていたのだ。

 ここの二階はアポロの家族たちの住まいとなっており、そこへ上がる階段は奥の炊事場と、この中庭にあった。

「じいじ、おしごと、終わったの? あ、マルコスせんせいだ。こんばんはぁ」

 二階をぐるりと回っているバルコニー兼廊下から、五、六歳の子供の声がする。呼びかけの言葉からして、アポロの孫なのだろう。アポロはそれに、こう言いつけた。

「ああ。すまねえが、マルタか婆さんかに言ってくれや。夕飯はこっちへ持って来てくれってな。なあに、マルコスだからいつもの簡単なのでいいんだ」

 これを聞くと、マルコスは何か言いかけた。夕飯までには帰るとかなんとか言おうとしたのだろう。

 だが、アポロの顔つきと、早くも「いつもの簡単なのでいいんだ」と、言いつけられたことを何度も反芻しながらぱたぱた走り去る子供の足音を聞くと、言葉を飲み込んでしまった。

「すみません、師匠。私が余計なことを言ったばかりに……」

 マルコスがそう言いかけると、アポロは太い首をゆっくりと左右に振った。

「……ラモンのことなら、あいつももう大人だ。別にあんたが教えた知識だけを拠り所にして動いている訳でもあるめえ。あの様子じゃ、もう自分からここへ顔を出すこたぁしばらくなさそうだが……」

 アポロの目と同じオレンジ色に代わり、もうすぐに赤紫から宵闇へと向かうのであろう空を見上げ、マルコスは先ほど、自分がラモンに言った言葉を思い出していた。

(急激な社会の変化は、大抵はろくなものを生まないんだ。これは、歴史が証明している。……ラモン、お前には中途半端な知識を与えてしまったようだ)

「今、私は宰相府の諮問機関に首を突っ込んでおりますが、それを頼まれた時に、今は大公軍団の最高顧問をしている、友人のマテオ・ソーサに偉そうなことを言ったんです。なのに、今度は私の方が同じことをやってしまった」

(私が今、一番、恐れているのはな、ソーサ君。君の寺子屋の教え子のディエゴ・リベラ、彼が集めている『素人のにわか論者』とでもいった連中のことなんだよ)

(わかるだろう? 彼ら新しい富裕階級で半知識階級、とでも言ったグループは、この国をどうこうしようとしている外部の勢力には、まことに好都合な連中なんだよ!)

 あの時だって、別にディエゴ・リベラの寺子屋の師匠だった、マテオ・ソーサを責めるつもりはまったくなかった。彼の教え子の中でおかしな具合になっているのは、ディエゴ一人だけなのだから。他の教え子たちは医師になったり、読売りの記者になったり、大公軍団へ入ったりした者もいると聞いている。

「彼の教え子のディエゴ・リベラ。今は、『賢者の群グルポ・サビオス』というにわか政治論者の集団の頭になっているという男。大きな両替商の息子だそうですが……それとラモンがこの頃つるんでいると聞いていて、会ったら気持ちを確かめなくては、などと思っていたものですから。勇み足もいいところでした」

 アポロは表情をまったく変えずに聞いていた。

 その間に、厨房の方から二十、五、六の若い女が出て来て、二人の向き合う石の丸テーブルに、粗末な陶器の器に入れられた珈琲と、玉蜀黍の粉を練ったものを塩味で軽く揚げただけの茶請けを置いていく。

「ああ、マルタお嬢さん、すみませんね」

 マルコスがそう言うと、父親そっくりのオレンジ色の目をしたマルタはちょっと口元だけで笑って答えた。

「父さん、本当に黒豆のスープフリホーレスとチーズ、それに卵くらいしかないよ。ああ、隼人瓜グィスキルがあったか。あれ、塩茹でにするわ。夜に油は良くないからね」

 マルタは実は闘技場の前座として出る、女性闘技士の一人だから、上背もあるし、体格もいい。さっき二階からのぞいていた子供の母親だが、夫は下級官吏として役所で働いている線の細い優男だ。だが、この優男が「自由格闘ルチャ・リブレ」の熱烈なファンで、それが出会いなのだから人生はわからない。

「ああ、ああ。それで十分さ。この先生だって、いつも晩飯はそんなものだろうからな」

 アポロはマルタが厨房の方へ下がっていくと、ちょっと椅子の位置をずらして、奥からは自分の顔や声がわかりにくいようにした。

「あのな、マルコス。これは俺の想像……というか、実は近所の治安維持部隊の署長に密かに耳打ちされたことなんだが……。俺はこの辺りの自警団の団長を仰せつかってるからな」

 各コロニアには一昨年から自警団が組織されている。アポロはこの界隈の団長なのだ。

 彼自身が素手ではその辺の悪党どもなど片手で放り投げるような男だし、道場には若い闘技士たちも出入りしている。同じコロニアに住む闘技士もいたから、この人選はまさに適材適所と言えた。

「あんたは別の方面から聞いているんじゃないかと思うが、あの、皇帝陛下のご婚礼の日、金座で馬車が襲われた。あの時、馬車に手投げ弾が投げ込まれたっていうだろう? あの時、直前になって、急に意気地がなくなって逃げ出した連中がいたんだそうだ」

 これを聞くと、マルコスはぎくりとした。その話ならば、宰相府の諮問会議でもう聞かされていた。ディエゴ の「賢者の群グルポ・サビオス」が関与しているのではないかと言うことも。

「え……。やっぱり、あのラモンや……『賢者の群グルポ・サビオス』の連中が……?」

 決行直前に逃げ出していることから、カイエンたちは彼らは素人連中で、「賢者の群グルポ・サビオス」も絡んでいるかもしれない、と目してはいた。だから、マルコスもそれは聞かされていたのだが、自警団の団長とはいえ普通の市民の一人であるアポロから聞かされると、ことは急に現実味を帯びて聞こえた。

「……まあ、俺のはカンでしかないけどな。今日、ラモンは弟子どものいない時間を選んで来ただろう? まさかあんたが一人で鍛えに来ているとは思いもしなかったのだろうよ。……なんと言うか、間が悪いと言うよりも、なんだか運命の采配というか、人間同士の未来が繋がっている、糸みたいなのを感じるな」

 アポロがこう答えると、マルコスはちょっと驚いた。このアポロ・ウェルタという闘技士の中の第一人者は、非常に現実的な地に足が付いた性格で、普段なら「運命」などという言葉は使わないからだ。

 そして、次にアポロがマルコスに投げつけた言葉は、まさに爆弾同様の破裂力を持っていた。

「今、急に思いついたことだが、ラモンも他の『賢者の群グルポ・サビオス』の連中同様に、あの日、手投げ弾を投げられずに逃げちまったんなら、今日、ここへ来なかったんじゃないかって気がするぜ」

「ええ!?」

 アポロの言葉は、マルコス・イスキエルドにとっては、冷水を浴びせるようなという普通の表現を超え、氷水を頭からぶっかけたような効果があった。マルコスは大柄な、それも頑丈な筋肉で覆われた体の偉丈夫だというのに、その言葉は確かに彼を身震いさせるだけの効果があったのだから。

「さっきのラモンは、道場の扉を開けた時から、いつになく殺気立ってやがった。それを指摘したら、言ったのが、『師匠には関わりのねえことです。俺が勝手に自分で引き寄せたことで』ってえあれだ。俺に関係ないことをなんで俺に聞きに来るんだい? おかしいだろ」

「はい、確かにあの時のラモンの様子も言葉も、妙でした」

 厨房の方からは、黒豆のスープフリホーレスを大鍋で煮返している匂いがして来ていた。それと、卵を焼いているとおぼしきやや甘い香りも。

「俺も、若い頃はバカなことばかりしてたもんだ。別に国がどうこう、なんてぇ話じゃなかったが、徒党を組んで、肩いからせてよ、暴力的な振る舞いを集団でやってたこともあったな。二十年ちょっと前に、サウル皇帝陛下の時代になってからは落ち着いてたが、その前のレアンドロ帝の時代はちょっと乱れたところもあったからな。今日のラモンのあの顔つきやら言いようやら、あれは昔の俺に照らし合わせて見りゃあ、正に『もう、やっちまった』もんが、その後ろめたさを年長者にぶつけて、『大丈夫だ。おめえは悪くない』って言ってもらって安心したいって感じだった。俺も覚えがあるから分かる」

 マルコスはじっとりと汗が背中を伝うのを感じていた。もう、七月だから日中は暑いが、宵闇の今は涼しくなって来ているのにも関わらず。マルコスはアポロの言葉が真実であるのだろうということが、すとんと腑に落ちてしまっていた。

 もう薄暗くなった中庭は暗く、奥の厨房の方で灯されているランプの光が、おぼろげに向かい合っている二人の顔を浮かび上がらせているだけだ。

「はっきり言っちまおう」

 アポロは厨房でマルタが夕飯を盆に載せているのを、目の端でとらえながら口早に言った。

「ラモンは逃げなかったんだろう。……だとしたら、あいつは皇帝陛下の馬車に手投げ弾を投げ入れたんだ。だから、心の上っ面のところじゃ得意満面さ。でも、自分がやったことが、この国、この街に住んでいる市民の一人としてやっちゃいけねえこと、自分勝手で無法な暴力でしかないことにも気が付いてはいるんだろうな。なにせ、やつらがやったことは、一歩間違えば、ちょっと手元が狂えば、近くの見物人達を吹っ飛ばしちまう危険があったんだからな。そうだろ?」

 アポロは珈琲をごくりと飲み、玉蜀黍の塩揚げを乱雑に掴んで口の中に放り込んだ。それが口の中から無くなるまで、彼はこれから話すことを頭でまとめていたのかも知れない。

「そんなのはぁ、話したんじゃ時間がかかるし面倒臭い。上手く話す自信もない。だから、力でねじ伏せよう、って安直な考えの、努力しねえ最低の馬鹿者がするこった。簡単に言っちまえば、手っ取り早く力づくでなんでも自分のいいように動かせばいい、弱い方が悪いんだ、防げねえ方が抜けてるんだ、巻き込まれるやつは運がなかったんだ、っていう、ヤクザもんの考えだ。そんなこたあ、ここで俺も弟子どもに、ここへ来ると直ぐ、何よりも第一によくねえからやめろって教えてるこった。俺たちが身に付けた肉体の力は、力があるもん同士の間でだけ使えるもんだ。ま、建て前と言えば建前だが、軍隊だって相手は軍隊って決まってら。一般人襲い始めたら、略奪だからな。軍規に反するんだろ。……マルコス、こんなことは、あんた達先生方の話す難しい話でも最終的には同じだろ?」

 アポロはもう冷め始めている珈琲を、もう一度、ぐびりと口に含み、ゆっくりと飲み下した。マルコスの方は石像になったように動けない。

「だから、あいつはもう手遅れだ。確か、ザイオン王子の皇配殿下が怪我をしたんだろう? それはあいつのやったことの結果なんだ。……多分な。死人が出なくて僥倖だったが、それでもやつのやったことに大した違いはねえ。……あいつは、ラモン達はもう、反社会分子……とか先生達の学問じゃ言うんだろ? こりゃあ、前にラモンから俺が教わったことなのにな。その当人にラモン自身がなっちまったのさ。あいつ自身はそう思いたくなくて、だから今日ここへ来たんだろうけどな」

 だからもう、あいつはここへは戻って来ない、とアポロは最後に小さな声で付け足した。もう、直ぐそばにマルタが来ていたからだ。

「お待ちどう様!」

 マルタが暖かいが、簡単な食物を載せた大きな盆を、さすがは女性剣闘士でふらつきもせずに持って来ると、もうアポロもマルコスもラモンのことは話さなかった。

「ああ、ありがとう。おや、黒豆のスープフリホーレスだけでなく、黒豆の混ぜご飯カサミエントにもしてくれたのか。大好きなんだよ。これ、この香草シラントロがのっかったのがね!」

 大して大きくもない中庭の石の丸テーブルに置かれたのは、大皿にまとめて盛られた隼人瓜グィスキルの塩茹でと柔らかい炒り卵や、黒豆の混ぜご飯カサミエント、各種のチーズ。それにこれは個別の容器に盛られた、黒豆のスープフリホーレスと玉蜀黍のパン。これすべてが置かれると、もう丸テーブルの上は満杯だった。

「おい、マルタ、気が利かねえな。今日はもうこのイスキエルド先生はうちに泊まるっきゃねえんだ。ロン酒でも持ってこいや」

 ハーマポスタール市内は、依然として非常事態宣言中で、夜間のコロニア間の移動は出来ない。

 最初にマルコスが夕食を固辞したのも、それが理由だった。だから、今夜、マルコスはこの家に泊まるしかなかった。

「はいはい。……先生、ごゆっくりなさって行ってくださいね。今日のこのチーズは山羊のもありますから、塩気が効いていて、お酒のお供にも最適ですよ」

 マルタはにこにこと愛想がいい。マルコス・イスキエルドも妻とは離婚したとはいえ、マルタよりは少し若いが、もう結婚して家を出た娘を持つ父親だから、マルタの様子には目を細めている。

「すまないな。下の娘さんはまだ乳飲み子だろう? 世話をかけて申し訳ない」

「大丈夫ですよ。もう夫が帰って来ましたし、お兄ちゃんもいますから」

 子供達が寝てしまうと、マルタの夫も話に加わったが、話題は闘技会のことや一般的な世情のことなどで、下級でも官吏の端くれであるマルタの夫もオドザヤの結婚式以降はあれこれと忙しかったから、街中の役所がどう動いているのか、マルコスは直に聞くことが出来た。サヴォナローラの諮問機関に属している彼だが、下々での事態の捉え方を聞くのは重要なことだった。

 マルタの夫によれば、前から町役場では大公軍団の治安維持部隊とは連携を取っていたが、今度のことで街中の治安維持部隊の各署と町役場との連絡を密にしようと、新しい連絡網が敷かれようとしているのだという。

 その夜、二人の中年男の間で、もうラモンの名前が話題に上がることはなかった。

 彼らは二人とも、もう知っていたのだ。

 ラモンの名前を次に聞くときは、この街がもっと剣呑な状況に陥った時に相違ないと。






 一方。

 皇宮ではカイエンに置いていかれたエルネストが、女官長コンスタンサの案内で、トリスタンの病室へ向かっているところだった。   

「……さっきの部屋はすごかったな」

 カイエンはあれでも女だからか、子供の頃はピンクや薔薇色、すみれ色のかわいらしい部屋で過ごしていたことがあったからか、あのとんでもない『少女趣味』の極致の部屋でも、呆れつつも『まあ、こういうのが好きな人もいるな』くらいの認識だったようだ。それを命じたのがいい年をした男だと知っても、

(あれか! イリヤみたいな話し方をする、なんだかくねくねした男が大勢いる店の、お姉さんみたいなお兄さんたちの感じだな)

 などと言って納得していたが、エルネストの方はそうでもなかった。

 所詮は弟の結婚祝いにやって来た、まさに「一時の客人」であるザイオンの王子のことなど、このハウヤ帝国の女大公の婿であるというのに、未だ「お客様」的存在でしかない、女大公の招かれざる婿のエルネストにとっては他人事だ。

 だが、あの部屋の意匠と合致した「服装」でこの皇宮の中を歩き回っていると聞けば、同じ「外国人の皇子・王子さま」というくくりで見られかねない身としては「勘弁してくれよ」という感想はあった。

 エルネストの服やら身の回りの家具などの趣味は、あれとは正反対なのだ。

 彼の好む色は黒から銀色、灰色から白へのモノトーンの色合いで、服も直線的な仕立てのシイナドラド風のものを、このハウヤ帝国へ来てからも好んで着ている。もちろん、シイナドラド風そのままでは浮いてしまうから、今日のようにハウヤ帝国風のシャツとズボンの上に、シイナドラド風の直線的な裁断の、涼しげな袖の広い麻の長い上着を重ねていたりしている。

 服以外の家具やら何やらの意匠の方も、彼は幾何学模様などの無機質な柄ゆきのものを好んでいた。これは、こちらもあまりかわいらしい意匠は似合わないし、好きでもないカイエンと並ぶには好ましいものだった。

「……確かに、現在、この皇宮ではあのような意匠のお部屋は珍しゅうございます。ですが、後宮では皇女殿下方がお子様でいらした頃には、ああした感じのお部屋もございました」  

 エルネストは特にコンスタンサの返事を期待していたわけではなかったのだが、コンスタンサは生真面目に廊下で立ち止まり、エルネストの方を振り返ってから、静かに返答した。

「いま少し、お色味や絹地の素材などが重厚ではございますが、フロレンティーノ皇子殿下のお部屋などは、何とは無しに似ているところもございますようにお見受け致します」

 コンスタンサはなんでもないことのように言ったが、この言葉にはなにがしかの意味が込められているようにエルネストには思えた。

 皇帝の女官長であるコンスタンサが、後宮にいる先帝サウルの第三妾妃マグダレーナの産んだ、未だ若干二歳の第一皇子フロレンティーノの名前を、カイエンの婿であるエルネストにわざわざ、それもこんな時に出して聞かせる必要などないのだ。

「へえ。……フロレンティーノ皇子殿下の方じゃ、お部屋のことで何か問題でもあるのかな」

 独り言のようにエルネストがそう言うと、コンスタンサの目がきらりと光ったように見えた。彼女は糸杉のように姿勢がいい上に、女としては長身だから、その顔は小柄なカイエンなどと向き合った時よりもかなりそばに見える。だから見間違いではないだろう。

「……まだ、表には出ておりません。向こうさまも時期を計っておられるでしょう。ですが、現在、皇女宮にはアルタマキア皇女殿下がいらっしゃいますが、皇子宮は空いておりますから」

 なるほど。

 エルネストは頭の中にメモをした。

(今始まったことじゃないだろうが、ベアトリア王女のマグダレーナは、本格的に出入りの厳しい後宮を出たがっていると言うことか。だが、故国からの人質的な立場の、他の二人の妾妃が後宮にいるのに、自分だけが例外となるのは難しい。これは、娘のアルタマキア皇女が皇女宮にいる第二妾妃のキルケあたりを巻き込んで、自分も後宮よりは監視の緩い皇子宮に出たいというところか)

 オドザヤとトリスタンの結婚式のパレードの襲撃事件では、自国の王子が怪我をすることになったザイオンの嫌疑は薄い。だが、皇帝のオドザヤが大怪我をしていれば一気に表に出てこられたはずの、オドザヤの「推定相続人」であるフロレンティーノ皇子を擁する、第三妾妃でベアトリア第一王女のマグダレーナの里であるベアトリアは警戒されることとなった。だから、言い出す時期を探っているのだろう。

 もう、その頃には二人はトリスタンが怪我をした体を横たえている部屋の前にたどり着いていた。

 そこは奥医師や、近衛と大公軍団から派遣されている外科医たちの控え室であるらしく、薬棚やら医学書の本棚、外科的な処置用の器具の入ったガラスのはまった戸棚などが所狭しと部屋を囲んでいた。

 そこの真ん中の大きなテーブルとも机ともつかぬところに向き合って、エルネストも去年、イリヤが腹を刺された時の騒動で顔に見覚えのある大公軍団の外科医が、鹿爪らしい顔で座っていた。

「ああ、皇子殿下。トリスタン皇配殿下がお待ちかねです。お部屋には父君のシリル様がいらっしゃいます。女官長殿、あなたは他にもいくらでもお仕事がおありでしょう。こっちは私も立ち会いますし、他にも侍従が向こう側の部屋に控えております。……このところのご様子だと、興奮なさることもないでしょうから……」

 外科医がそう言うと、コンスタンサは一礼してさっさと部屋を出て行ってしまう。エルネストはちょっと呆れたが、まあ、帰りは帰りで誰か案内に出てくるだろう、と思い直した。

 そして、大公軍団の外科医と一緒に病室へ入ると、そこには大きな天蓋付きの寝台がど真ん中に据えられ、そこにまだ青白い顔のトリスタンが、いくつもの枕で体を支えられて起き上がっていた。とは言っても、腰から下は夏向きの薄い掛け物の中で、失った右足の先のあたりの様子はまったく分からなかった。

 もともと、北方のザイオン人だから色の白い顔が、まだ失った血が戻らないのか蒼白で頰のあたりもやつれて見えたが、表情は落ち着いている。色ガラスのような緑の目もしっかりしていた。

「これはこれは、ごきげんよう、皇子殿下。おや? エルネスト皇子殿下には、わざわざお一人でいらっしゃったんですか」

 トリスタンはエルネストが部屋へ入るなり、そう声をかけたので、枕元で何か片付け物をしていたらしい、医師の白衣姿の父のシリルはちょっと驚いた顔をした。彼はいまだに医師の一人としてここの頭数に数えられているようだ。

 シリルはアベルのことで大公宮へ出入りもしていたから、エルネストと顔くらいは合わせたことがあったが、挨拶以上の話などはしたことはないから、息子の、言葉だけは丁寧なものの、中身は喧嘩腰の挨拶に、慌てたような顔つきになった。

 それでも黙ってエルネストと一緒に入って来た外科医に黙礼したのみで済ませたのは、ここでのおのれの身分や役割を考えたのだろう。

 芸術家気質で夢見がち、というか、変わったところもあるシリルだが、物事の本質はしっかり見えている男だ。

「エルネスト皇子殿下の『ご主人様』は? 事件の時は応急手当てをしてくださったし、それが非常に功を奏したと聞いておりますから、是非、お礼を申し上げたいとずっと待っておりますのに。……まだ見舞いにもいらしてくれてはいないのですよ」

 エルネストがシリルとは寝台を挟んで反対側の安楽椅子へ向かう間も、トリスタンは嫌味っぽく言葉を続けたが、エルネストだけでなく外科医の方にも、もうトリスタンのこんな「地」は知れていたので、二人ともに沈黙を守った。外科医の方は窓際の机の方へ行って、今日の治療、看護記録を開き、そっぽを向いて座ってしまった。

「へぇ、よく覚えてるな。もう二年以上前になるのに、あの新年の舞踏会で俺がカイエンのことをご主人様、って呼んでたの、ちゃんと聞いてやがったか。お前や俺と違って、ご主人様はお忙しいんだよ。大公宮じゃ、別口のお客さんがお待ちかねのはずだからな。……そっちの客人の御用向きの方には、俺だって興味津々だったんだぜ。そこをあんたのご指名だってぇから、わざわざ残ってやったのによ。……まあ、帰ったら間違いなくカイエンと最高顧問のおっさんは新しい玩具に夢中だろうから、話はその時聞いてもいいけどな」 

 エルネストの言葉の最後の方は、アメリコとグレコ船長が大公宮へ持ち込んだ、鉄砲と短銃のことだったが、ここにいる誰もそんなことは知らない。それに、そのあたりは独り言に近かったので、トリスタンやシリルにはよく聞こえなかった。

 トリスタンもトリスタンなら、エルネストもエルネストで、彼は「ごきげんよう」的な挨拶さえはしょってしまった。口調の方も、皇子様らしくない、いつもの乱暴極まる言葉遣いが全開だ。

 シリルはともかく、トリスタンの方はこの口調の洗礼は二年前、歓迎の舞踏会の舞台裏で初めて話した時に受けているから、別にそっちには驚いてはいない。

 二人はちょっと怪訝そうな顔はしたが、エルネストはシリルの方へは目だけで目礼のような感じは見せたので、シリルは黙ったまま、静かに奥の方の扉へと下がって行く。扉の向こうからかちゃかちゃと、わずかに茶器をいじる音が聞こえたので気を利かせたのだろう。

 ともあれ、エルネストとトリスタンが二人で話したのなど、あのトリスタンがこの国へやって来た二年前の歓迎会兼新年会の夜以来なのである。結婚式では顔は合わせたが、挨拶以上の会話はしていない。

 そう言うわけで、トリスタンも負けてはいなかった。

「お忙しい大公殿下さま、か。あの女、とんだ偽善者か、人気取りが大好きなのかな。それとも、ただのお人好しか、火中の栗を拾うのが趣味の大馬鹿者か……。どっちにしろ、去年、仮面舞踏会で僕がオドザヤにしたことなんざ、もう終わったこと済んだことで、無理やりの力技で飲み込んじまったってわけだ。いや、もう僕なんざ、あのいかれた姉妹にはこの国を守るための道具の一つでしかなくなってる、か……」

 このトリスタンの言葉を聞いたら、さすがにカイエンもオドザヤも「ふざけるな」と言っただろう。

 まずは、カイエンはパレードでの襲撃では身を張ってオドザヤとトリスタンを守ろうとしたのだし、足の先を吹っ飛ばされたトリスタンの応急処置を行ったのにはトリスタンが言ったような「計算」などありはしなかった。とっさの判断でやっただけだ。

 まあ、あのまま放っておいてトリスタンが失血死でもしたら国際問題になっていたから、カイエンのやったことには大いに意味はあったのだが。

 それに、彼の言う、「無理やりの力技」には、トリスタンの子かも知れないアベルのことがまずあって、その上にカイエンが自分の醜聞を意図的に振りまいて情報操作を図った離れ業のような毎日があったのだから。

「おいおい。言うに事欠いてそれは言い過ぎだろ。怪我人だからって甘えてんじゃねえぞ、コラ!」

 エルネストはカイエンやオドザヤよりもはるかに冷酷で、あざといところがある。シイナドラドでカイエンにしたことを思い出せば、自分勝手で傲慢な性格の方が地なのだ。

 ハウヤ帝国に婿入りしてからは、周囲があまりにも個性的、かつ肉体的にも精神的にも「強い」連中で取り囲まれているので、無理やりに矯正させられてきただけだ。

 エルネストは「コラ!」と声に脅しを効かせたところで、トリスタンの傷ついた右足のあたりを掛け物の上から軽くだが、ぽん、ぽん、と叩くようにしてやったから、トリスタンは危うく悲鳴を飲み込むことになった。

「……あの、ちょっと」

 知らん顔を決め込んでいたはずの大公軍団の外科医の方が、慌てた顔で椅子から腰を浮かせた。悪党のやることだけあって、父親のシリルが隣室へ入った瞬間を見計らってのことだから、見ていたのは彼だけだったのだ。

「ふん、このくらいで傷が開くような処置はしてねえだろ、先生。あんたも知ってるだろうが、この王子様のおっしゃる『お人好し』の俺のご主人様カイエンは、皇配殿下のお怪我のご様子もご心配なさっていらっしゃるだろ? 帰ったらどんな按配か、ご報告しねえとまずいからな。そうでもしないと、俺は子供の使いかって叱られちまうよ」

 そう言いながら、エルネストは掛け物の上から、トリスタンの右足の先の形をなぞるように手を動かす。トリスタンの傷ついた足には分厚く包帯が巻かれてはいたが、その形で足首から先がなくなっていることは容易に知れた。

「……どういう意味だ?」

 眉間に皺を寄せ、脂汗を滲ませて、トリスタンがそう聞く。そんな風に触られれば、まだかなり痛いのに違いない。だが、その様子ではオドザヤからも医師たちからも先のことは何も聞いていないようだ。

「さっき自分で言ってたじゃねえか。自分なんざ、あの姉妹には道具の一つだって。……道具けっこう。俺だって今はこの国の役立たずの道具の一つだ。皇帝とお前の結婚式のパレードじゃ、目立つ護衛役にも抜擢されただろ? 今思えば、あれ、俺だって吹っ飛ばされる可能性はあったんだぜ。……お前もこれっくらいのお怪我で寝たきりの引退が出来るとは思っちゃいないだろ? 俺と違って、ご主人様オドザヤの寝室から締め出し食うと決まったわけでもねえ」

「え? 寝室から……締め出し?」

 トリスタンもそこは若い男だけあって、一番耳に残ったのはそこの部分だったらしい。だが、それはエルネストには一番面白くない部分への反応だった。

「ああ、俺はな。お前の場合はどうかな、そんなたあ、どうでもいいよ」

 そもそも、オドザヤとトリスタンの方は、あのアベルが二人の子なら、結婚前の間違いで出来た子供、皇位は継げない子供でも、ちゃんとこの世に生まれ出てきているのだ。リリの半分に残っているのかどうかもわからない、カイエンとエルネストとの間に「発生しただけ」の命よりもよっぽどましだった。

 オドザヤがこれからトリスタンをどう遇するのか、自分の寝室へ招くのか招かないのかなど、エルネストには本当にどうでもいいことだった。

「お前には、一日も早く『全快なさった皇配殿下』として、国民の前に出てもらわなきゃどうしようもねえだろ。まだ、非常事態宣言は解かれちゃいねえ。この国はまだ非常時なんだぜ」

 トリスタンは明らかにそういう方向へはまだ考えが至っていなかったのだろう。彼は黙ったまま、緑の目を大きく見開いている。

「今日、お前から俺に何の話があったのかは後で聞くよ。ここまで話したから、この話を先に俺から言っちまおう。考えてみれば、俺たちのご主人様の女どもから言うと、上からの命令になっちまうしな。……カイエンのところには、お前のところの仮面舞踏会の変装の時から、腕のいい装具師が出入りしてるんだ。あれから色々、工夫して、装具を工夫すれば短い時間なら杖なしでも歩けるようになって来てるんだよ。カイエンはそいつにお前の足を診せて、普通に歩けるようにしようとしてるんだ」

「えっ!?」

 この言葉には、奥の部屋から侍従と一緒に茶菓を運んで来た、シリルもそっとうなずいたから、トリスタンはかなり驚いたようだった。

「カイエンは生まれつき、足がああだろ? おっそろしいもんだぜ。もう、事件でお前の足が吹っ飛んだ瞬間からそこまで考えて動いてたんだって言うからな。何とか、足首の関節を残せないか、って先生たちにも言ったんだろ?」

 エルネストがそっちを見ると、外科医もはっきりと首肯した。

「……トリスタン、大公殿下は、お前の踊りのことを考えてくださっていたんだよ」

 シリルがそう言うと、トリスタンの蒼白だった顔が、怒りだか何だかで紅潮してきた。

「な……何で? どうしてそんなことを! 余計なお世話だよッ! だってそうじゃないか? どうせ、この国に婿入りした僕に踊りなんか今さら……」

 今さら、踊りなんか踊れても踊れなくても、上手くても下手でもどうでもいいじゃないか。

「第一! あの女に僕の踊りの何がわかるって……!」

「トリスタン」

 シリルがやんわりと止めるまでもなく、踊りを通じて共感性に富む心を持っていたトリスタンは、もう気が付いてしまっていた。

 それでも、怪我をする前の彼ならば、決して実感は出来なかっただろう。踊りを通じて他の人間の役割を演ずることが、言わば役に入ることが当たり前だった彼でも、その時にはまだ、彼にはちゃんと踊れる足があったからだ。

 だが、今は違う。

 だから。

 トリスタンはエルネストの話を聞いているうちに、もう、自分の失った足を通じてカイエンという生まれつき右足の不自由な女の役にすんなりと入れてしまったのだ。

 カイエンには生まれた時からもう、踊りなど出来るともしようとも思わないこと。杖があって歩ければ、それで上等、というのが彼女の世界。杖がなくても歩けるように、短時間でもそう出来れば御の字。それが彼女の世界なのだということ。

 そのカイエンの「役」が、言わばカイエンという人物の「踊りの節」が、トリスタンの中で一つの振り付けに変わって視覚化できてしまったから。それは、終わらぬ痛みをともなう踊りだった。

 そう分かっても、トリスタンはまだ反発しないではいられなかった。

「くそ! 生意気な女め……。何でもわかったみたいな顔しやがって。オドザヤだって、あの女が知恵をつけなければ、今でも僕の思い通りになっていたのに……」

 今度はエルネストの方が、ちょっと驚いた顔をした。彼はトリスタンがオドザヤの、あのトリスタンとの一夜のあったすぐ次の日には、麻薬からもトリスタンへの一途な愚かな恋心からも立ち直っていた、急激すぎる一夜の変化を、カイエンのせいだと思っていたのを知ったからだ。

「ああ! あれならそれはちょっと違うぜ」

 トリスタンは聞くなり、エルネストの方を、きっとした目で見た。

「何が違うんだよ?」

 エルネストは安楽椅子に仰け反りかえると、長い足を大きく組んで、トリスタンを見下げるように斜め上から流し目で応じた。その真っ黒な、一つだけの目には明らかに面白がっている色と余裕があった。

「違うんだから、違うんだな。まあ確かに、あの二人はあの仮面舞踏会の翌朝、大公宮で初の姉妹大喧嘩になったんだよ。まあ、女だし、キーキーと口先だけだけどな。そこで俺様が、愛人までいるお姉様には分からないわ、ってツンツンしてた皇帝陛下のお帰りを待ち伏せして、本物の男女のどうしようもなく絡み合って、焦げ付いて、もう死ぬまで修復しようのない愛憎劇ってのを解説してやったのさ。俺とカイエンとのもう取り返しのつかない夫婦仲を例に挙げてな!」

 エルネストは自分に都合が悪い細かいところは全部、乱暴にも省略してしまった。その上に、エルネストはあのあと、オドザヤがアイーシャの本当の心、アルウィンへの一途で報われなかった想いに気が付き、それによって真に目覚めたことも知らなかった。それでも、トリスタンには辻褄だけは合って聞こえたようだ。

「……なるほど。あの女がシイナドラドへ行って帰ってきてすぐ、ぶっ倒れてしばらく寝たきりになっていた、ってのと関係があるのかな。さすがにそれ以上の事情はザイオンの外交官でも探れなかったみたいだけど。婿入りしてきたあんたは右目が無くて、もう結婚して二年以上になるのに子供もない。そして、結婚式の時に見て驚いたけど、あんたはあの養女のリリエンスール皇女を実の父親みたいにかわいがっている。なのに、オドザヤのあれを隠すための醜聞作りのためじゃなくても、大公殿下は夫を無視して愛人どもに夢中。……なるほどね」

 シリルと外科医、それに無表情を装って紅茶をカップに注いでいる侍従は、内心ではすぐにでもここから逃げ出したいくらい居心地が悪い言葉の応酬だったが、当事者二人は平気だった。

「ま、皇帝陛下には、男ってのが、いっ時もそばから離したくないような、いつでも匂いが嗅げるような近くに置いておきたい、大好きな女に『愛してます』なんて、芝居みたいに連呼すると思ってるのかよ、って言ってやったら、かなり効いてたみたいだったぜ。お前もまだ、ベタな演技しか出来ねえ大根役者だな。踊りはともかく、人誑たらしの方は、生娘じゃなきゃ騙されない程度のあざとい演技力だ」

 エルネストにここまでずけずけと言われれば、もうトリスタンも苦笑するしかなかった。

「わかったよ。あの女、大公殿下は真実、本当のお人好し、でいいってことか。僕はじゃあ、せいぜい頑張って訓練して、早く皇帝陛下の御手を取って皆々様の前に出られるようになれ、ってことだな」

 トリスタンは心配そうなシリルには、まだやや反抗的な顔を向けたが、エルネストにはもう嫌味な言い方はやめたようだった。効果がないのが分かったのだろう。


 侍従が外科医も含めた皆の手に、かぐわしい初夏の紅茶のカップを配り終えて下がると、トリスタンは自分がエルネストを指名して呼び出した方の話をすることにしたらしかった。

「いまいましいけど、この国は南に領土が広いし、モンテネグロ山脈があるから、お茶の味は最高だね。ザイオンじゃ全部、ネファールや他の国からの輸入だから、夏の紅茶なんざ味わえないよ。だから、濃く入れた紅茶にジャムだの甘い蒸留酒だのを入れて飲むんだ」

 トリスタンの趣味は兄のリュシオン王子とは違うらしく、エルネストが渡されたカップは夏らしい、白磁に紺色一色の見事な筆使いで、花に群がるハチドリが描かれたものだった。縁だけに金色がすっと引かれているのも好もしい。エルネストは内心で後で誰かに窯元を聞こうと思った。ハチドリは彼の趣味としてはかわいらしすぎるが、硬質な植物柄などなら彼の趣味にも合いそうだった。縁も燻し銀なら完璧だ。

「確かに、北国まで運ぶんじゃ、春や初夏の発酵が浅くて葉の大きい、瑞々しい茶葉も乾燥しちまうだろうな。……大公宮じゃ、珈琲もなかなかいけるぜ。後宮に庶民的なのがうろちょろしてるからな。砂糖黍のロン酒も俺は好きだぜ。無駄な味がしなくて辛いのがいい」

 南国の暑い気候のもとでしか栽培できない珈琲は、ハウヤ帝国では庶民の味だが、ザイオンではそもそも需要がなかった。紅茶は西のハウヤ帝国でも、東の螺旋帝国でも貴族や上流階級の飲み物だが、庶民の飲み物の珈琲の方は高い金をかけて輸入してまで飲もうとはしないからだ。

「ああ。珈琲ならここのお父さんが好きで、たまに僕もお相伴させられているよ。カカオを使ったような濃い味の菓子にはちょうどいいね。……ああ、無駄話じゃなかったけど、他の話が長すぎたね。手っ取り早く言おうか。お茶にはもう遅い時間だし、晩餐に皇子殿下を招待するわけにはいかないから」

 トリスタンは、黄金色の紅茶を一口飲むと、茶受けの夏の果実を使ったタルトに華奢なフォークを突っ込んだ。

「ねえ、僕の兄のリュシオンが、すっかりこの皇宮に腰を落ち着けちまっているのは、もうさっき、聞いてきただろう?」

 エルネストは黙ってうなずいた。

「さっきの話の具合だと、あんたはシイナドラドであの大公をたらしこもうとして失敗して、それでも婿入りしてきたんだよね。それで、僕は母上にオドザヤをたらしこんで皇配におさまって、意のままに操れって言われてきたんだけど……それは、あんたがオドザヤに知恵をつけたせいでおじゃんになったんだって、さっき聞いた。お互い、ケチなことで無駄な努力をしたもんだね」

 エルネストは苦笑したが、文句は言わなかった。

「お前、開き直って、もうザイオンには帰らない、いじめ抜かれてもここに居座る、って宣言したんだってな」

 エルネストがそう言うと、トリスタンはさっきの会話で毒気を抜かれたのか、静かな目でエルネストを見た。

「うん。でも、それはリュシオン兄さんがなかなか帰ろうとしないし、毎日、僕に会いに来るからでもある。パレードでの襲撃事件の性格からして、ザイオンがこの件に関わりがないのはそっちでもわかっていると思う。リュシオン兄さんを間違っても帰国させたりしないようにって、僕はオドザヤや宰相に言ったけど。僕が言わなくても兄さんは事情がはっきりするまで帰れやしないだろう。だったら、ザイオンは王子二人もこの国に人質に出していることになる。リュシオンが来た時点で、ザイオンはこの結婚に茶々を入れる気はないんだってわかっただろ。……それに、僕はもう二年もこの国にいるけど、その間に母上から新たな命令が来たこともないんだ」

「へえ、それで?」

「だから、母上はまだ僕がオドザヤに影響力を持っていると思っているんだ。ザイオンの外交官も僕の失態を本国に報告すれば、自分の科にされかねないから、オドザヤはまだ僕に首ったけだと報告しているはずなんだよ」

 この言葉には、エルネストはちょっとだけ驚いた。

 外交官の保身とはいえ、ザイオンはまだそういう認識のままにあり、だからリュシオン王子を結婚の祝いの使者に立てて来たと知ったからだ。

「あれ? でもそれじゃ、毎日見舞いに来るお前の兄貴の意図はなんだ? おかしいじゃねえか」

 エルネストはさっき、カイエンと一緒にオドザヤから「リュシオン王子はザイオン本国からの新たな指令を持って来たのでは」と聞いている。

「それなんだ。……知ってると思うけど、僕はジョスラン兄さんやリュシオンとは、父親が違うんだ」

 エルネストはまさにそこにいる元、ザイオンのダヴィッド子爵だったシリルの方へ目をやった。

「そうだってな。……ん? まさかお前、俺と兄貴のセレスティノが腹違いだからって……」

 トリスタンと兄二人の父親が違うのと同じように、エルネストとシイナドラドの皇太子である兄のセレスティノの母親も違っているのだ。

 トリスタンは首を振った。

「あんたの事情は知らないよ。知りたくもないね。でも、今のシイナドラドの皇都ホヤ・デ・セレンの封鎖の裏には、螺旋英国があるんだろ? シイナドラドの内乱はザイオンにも無関係じゃない。あんたの国の反体制勢力は元はザイオン系の民族だ。それに、これはお父さんに聞いたんだけど、お父さんが国を出て来る直前に、ザイオンに螺旋帝国から使者が来ていたっていうんだ」

 えっ、とエルネストがシリルの顔を見ると、シリルは申し訳なさそうな表情でこう言った。

「私はザイオンのアルビオンでは、保身のために政治には関わらずにいたんです。まあ、元は踊り手です。分かりもしませんしね。でも、トリスタンに聞かれてみれば、ザイオンを飛び出して来た理由は火の鳥の踊りのことで、火の鳥の踊りをまだこの子に教えてないってことに気が付いたのは、女王陛下と王配ユリウス殿下の会話を小耳に挟んだからなんです」

 おいおい。

 エルネストは冷や汗が背中を伝うのをありありと感じた。このシリルがザイオンを出て来たのは、もう二年近く前だ。そんなところまで遡る話が、今からまだ間に合うのか、と思ったのだ。

「私が女王陛下と王配殿下のお話で小耳に挟んだのは、螺旋帝国の使者が『我が皇帝からは、共に太陽の黄金の階段を昇って参りましょう、との言葉を預かって参っております』と言った、という下りだけなんですが、これ、この太陽の黄金の階段、というのは、古い古い歌の一部なんです」

 シリルはそう説明すると、座ったまま、朗々と歌い出した。エルネストはびっくりしたが、トリスタンは自分の父のことだから今さら驚きもしない。

(貴女と共に、太陽の黄金の階段を昇って参りましょう

 そして、焼き尽くしてしまいましょう

 この大地にあるすべての思い出を焼き尽くしてしまいましょう

 ……私が次にここを訪れても、何処だかわからないように

 何も残すな、何も忘れてくるな

 火焔よ焼き尽くせ……

 私が悲しまないように……

 焼き尽くされた瓦礫の山……

 燃え残りの熾火おきびから蘇る

 世界が燃え尽きた後に、火の鳥だけが蘇る)

「私は、ただこの歌から火の鳥の踊りを連想したんですけれど、螺旋帝国の使者が、わざわざチューラ女王に謁見してこの歌の最初のくだりを口にした、というのをこの子に話したら……なんだか変だって言うんです。そう言われれば、私も国家間のお使者が奏上するにしては、詩的すぎる表現かな、と思いまして……。まあ、両国一緒に栄えましょう、とでもいう意味にしか取れはしないのですけれど」

 シリルもトリスタンも、エルネストの顔をまっすぐに見ていた。その二対の人工的な緑の目にあったのは、このことに、意味はわからないながらも危険を感じる、という、動物的な怖れだった。

「それ、チューラ女王だのユリウス殿下だのには、全部の意味が通じてたのか?」

 エルネストが聞くと、シリルもトリスタンもそれには首を振った。

(そう、それ! いきなり何を言い始めるのかと思ったわ。気味が悪いったら! 何か、あちらの格言かなんかなのかしら?)

「いいえ。女王陛下も、ユリウス殿下にも、螺旋帝国の使者の意味はともかく、あの歌の言葉を選んだ意図は伝わっていませんでした。気味が悪い言葉だ、とおっしゃっておられましたから、歌の後半部分ももちろん、ご存知なかったのでしょう」

「つまりは、ザイオン側では、その、螺旋帝国の使者の詩的で気味の悪い謎かけが理解できなかったってわけだ。僕は今でも確信はない。でも、今度の事件の背後には確実にベアトリアと螺旋帝国があるんだろ? 確か、大公の実父だった前大公が大罪人として告発されたよね。僕もこの国に来たばかりの時に接触したことがあるけど、桔梗星団派を操って、螺旋帝国からこの西側の国々に放った手下を操っているんだって」

 トリスタンが踊り子に化けてハウヤ帝国に来てすぐ、接触したのは馬 子昂達、桔梗星団派だった。それは桔梗星団派がザイオンから来た奇術団、コンチャイテラの背後組織であったからだ。つまりは桔梗星団派はその頃からザイオンに食い込んでいたということだ。

 だが、それなのにザイオンの中枢は螺旋帝国の使者の意図に気が付かなかった。つまり、螺旋帝国や桔梗星団派はザイオンを利用する気はあって、実際にトリスタンと接触したが、最終的に一緒に動く気はなくなったということだろう。

 エルネストは、こんなことならカイエンを帰すのではなかった、と思った。海軍や鉄砲などよりもこちらの方が重要だったかもしれない。宰相も今からでもここへ呼んだ方がいいのではないか。  

「……今度のことじゃ、俺たちは、お前自体は関与してなさそうだし、ザイオンもシロだろうと思ってた。螺旋帝国やらベアトリアだのは皇帝陛下がお怪我でもしてくれたら、って期待してたんだろうけどな。ベアトリアは皇帝陛下が大怪我でもしていたら、すぐに推定相続人だって言いたてて、フロレンティーノ皇子を押したてて来たに違いねえ。それにザイオンが乗っかるにはお前が皇配になってちゃうまくねえからな。いや、オドザヤの代理で出張らせれば……ああ、どっちにしろ、もしもの話でしかねえな」

 トリスタンは黙っている。

「じゃあ、お前の兄貴のリュシオン王子は、この国へ来た最初から、すぐに帰る気はなかったってえことか? 結果的に、ザイオンは皇子二人をわざと螺旋帝国に近い自国から、遠い西のハウヤ帝国へ逃して寄越したってわけだとでも?」

 エルネストが思い切ってそう聞くと、トリスタンは曖昧にうなずいた。

「逃して、かどうかは知らないけれど、こうなってみれば母上たちがどこまで意識していたかは分からないけれど、そういう意味もあることはあったのかも、とは思うね。それに、リュシオンはあの通りの趣味の人だから、婿入り先じゃ面白くなかったに決まってる。多分、母上からはしばらく暖かいハウヤ帝国で羽を伸ばしておいで、くらいに言われて来たんだ。でも、僕がこの通りの怪我を負ったから、どうしていいか分からない。それで毎日……」

 トリスタンの言葉は、その頃にはエルネストの耳をかなりの部分、すり抜けてしまっていた。

 実は、エルネストは、さっきシリルが歌ってみせた歌を知っていたからだ。

 あれは、あれはシイナドラドの皇王一族なら、誰でも知っているはずの、古い、古い、忌むべき歌だったから。

 あれは古くから伝わる呪いの歌だった。

 この世が滅ぶことだけを願ったという、もう忘れ去られた太古の権力者の遺した歌とされている。

 この世のすべてを呪い、滅ぼそうとし、その後に自分だけが浄化し、火の鳥として唯一無二のものとして世界に残り、自分以外のすべての記憶と歴史を世界からぬぐいさろうとした、心の壊れた破壊者の歌だ。

 エルネストは歌を聞くと同時に、頭の中で、自分が母国シイナドラドを出る時に、父の皇王バウティスタに、こんこんと諭すように言われた言葉を思い出していた。

 今、あの時の父王の言葉通りに、歴史は進んで行こうとしていた。


(エルネスト、螺旋帝国は必ずこのシイナドラドをザイオン系の民族を操って内戦で引き裂き、皇都ホヤ・デ・セレンの大図書館にあると信じている革命理論のその先の知識を奪いに来るだろう)

(私は第二皇子のお前をこのパナメリゴ大陸の西の端、友邦ハウヤ帝国へ逃す。お前は時が来たら、星教皇猊下の命令のもと、東の小国を螺旋帝国の支配から解き放て)

(ザイオンは気が付くだろうか。大陸の北を西から東まで支配出来るだろうか。それにはスキュラを手に入れねばならぬ。マトゥランダ島まで手を伸ばさねばならぬ。ハウヤ帝国はベアトリアを併合できるだろうか。そうしようとするだろうか。つまりは、ハウヤ帝国、ザイオン女王国、螺旋帝国、この三つの大国が三竦みになる構造となることこそが望ましいのだが)

(だが、そうはあの男がさせぬだろう。あの男はザイオンもハウヤ帝国も混乱に陥れるだろう。あの、この世を火焔の中に放り込み、自分だけは大海を渡って新世界とやらへ逃れ去ろうとしているあの男が、あのすべての破壊を目論む螺旋帝国の主人とともにある間は)

(私は、この古き国シイナドラドは、お前にあの男を牽制できるだけの兵力を与えることができない。お前はハウヤ帝国をあの男の勢力のもたらす混乱から遠ざけるべく星教皇猊下をお助けし、時期が来たら、即座に彼の国から、アストロナータ神の使徒として出撃するのだ)

(私が出来たのは、あの男を一時、騙しおおせることだけだった。だが安心せよ、これだけは間違いなく成る。それは我らの宝、石碑の森ボスケ・デ・ラピダの秘密だけは渡さずに済むこと、これだけが幸いだ)

(エルネスト、いや、新しき名「ガロピン」よ、これだけは心得よ。お前が星教皇猊下の命のもと、ハウヤ帝国から出撃するときまで、私のこの言葉を誰にも語ってはならぬ)

(……これは、未来を操る言葉。未来は揺らぐ余地を確かに持っている。時期が来る前にこれをお前が世界へ向かって吐き出せば、これは世界への忌み言葉となるであろう)

 バウティスタ皇王の言葉には、まだまだ続きがあった。もっと先の未来のことまで。


「ちくしょう……」

 エルネストは呻くように言うしかなかった。

 自分は知っているのに。

 なのに、言えないのだ。

 カイエンにさえ。

 星教皇であるカイエンにさえ、まだ時が満ちる前に、忌み言葉とまで言って父王が彼に禁じた未来を語ることは出来なかった。

 それが未来であるうちは。

 それなら?

 エルネストははっと、見落としていた大事なことに気が付いた。


「そうだ。……未来の方を引っ張って来るしかねえか」

 

 エルネストは顔を上げると、シリルの顔をまっすぐに見た。

「おい、おっさん。いや、踊り子王子のお父さん。あんた、さっきの歌、誰から聞いたんだ?」

 エルネストは細い糸ではあったが、確かに未来への鍵へつながる何かを掴み取ったと確信していた。

 火の鳥の踊り、とやらもそうだ。

 それは、シイナドラドでは皇王一族のみが知っているはずのものだったのに。

 ここに例外がいる。

 もしかしたら、あの歌はシイナドラドの皇王一族が思っていた以外のところでも伝えられていたのかもしれないのだ。

 だから、今日ここで、トリスタンとシリルから、カイエンでもオドザヤでもなく、シイナドラドの皇子であるエルネストがこの話を聞いたのには意味があるはずだった。

 運命の糸は結ばれたり解かれたりを繰り返しているものなのだから。

 

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