大公は短銃の取扱説明書を熟読する


 頭を上げ、頰を真っ赤に紅潮させ

 パナメリゴ街道を西へ向かい

 必死に探していたのは何だっただろう

 伝説になれるのだと

 俺だって歴史の愛し子になれるのだと

 呪文の言葉を繰り返していた

 幾度、叩きのめされても

 晴れ舞台で喝采を受ける自分を夢に見ては

 甦り、蘇り

 吟遊詩人達の触れ回る物語の寵児になり

 華々しく散って消えるまでを

 勝手に夢想し、うわごとのように呟いて

 それだけを心に燃やし

 「そうさ」

 人に忘れられて終わる短い人生なんて

 あり得ないと思っていた


 それは故郷への道

 街道を戻って行く道

 それ以外のなにもかもを諦めたとき

 呪文をこなごなに打ち砕いた

 顔を下げて

 故郷へ帰るための手形を握り締めたとき 

 伝説はかたわらでさえなく、

 遠い遠い俺の人生の道の彼方を

 通り過ぎて行った


 顎を首にくっつけて

 たわいのない思い込みに別れを告げて

 今度は心の隅からささやく声に身をまかすのか

 いや

 俺の腹から食道をせりあがってきた欲望が

 俺の体を再び支配する

「殺されてなんかやらない」

 そうさ

 俺は歴史に殺されたりなんかしない

 故郷へすべてを諦めて戻ったりしない

 俺はみっともなく足搔くだろう

 夜が訪れても

 闇が訪れても

 俺は墓穴からでも這い上がる

 そして

 歴史が俺を見つけるまで

 俺は西へ向かう

 西へ西へ

 もう振り返ることはない



     アル・アアシャー 「街道脇で見つかった行旅死亡人の日記」より


   

 

 

 


 カイエンとエルネストが皇宮の裏側の入り口から密かに皇宮へ入ったのは、もう、七月の夕暮れに近い時間帯だった。待ち構えていた、オドザヤと宰相のサヴォナローラ、それに女官長のコンスタンサの三人に引っ張られるようにして連れて行かれたのは、思っていた通り、トリスタンの病室となっているオドザヤの住む皇帝宮の中だった。

 ここでは、先帝サウルの時代から、オドザヤの寝室と一番私的な居間などを例外として、調度品などが変えられることもあまりなく、そこは落ち着いた色の調度でまとめられている。広さはこの国最高の皇帝の住処であるから、奥の後宮ほどではないがかなり広く、空いている部屋も多かった。

 当初は、トリスタンの居所としては、先先帝レアンドロの皇后だった、シイナドラド皇女のファナ皇后が夫の死後、皇太后となってから短い時間を過ごした宮が目され、準備もされていた。

 だが、今回のパレードでの襲撃事件で大怪我をしたトリスタンの状況を外へ漏らさぬため、彼の療養場所はこの皇宮でも一番警備の固い、そして入れる侍従や女官も限られている皇帝の宮の中の一角が選ばれたのだ。

 その後、トリスタンが怪我をしたことは公表されたが、怪我人を移動させるのはまだ控えるべし、との医師団の見解で、トリスタンはまだこの場所にいたのだった。

 トリスタンの病室は小さな中庭に面しており、扉の外には控えの間もある。

 控えの間の反対側の部屋には、あれから寝台などが運び込まれ、シリルの部屋として使われているのだという。元は予備の衣装部屋か化粧部屋などに割り当てられていたらしいその部屋は、浴室などにも面していた。浴室の外には井戸があるので、水運びの便にも適していた。

 控えの間の方は、あの結婚式の日当日、トリスタンが運び込まれた時点では、あり合わせの椅子やテーブルが周りの部屋から運び込まれて雑然とした状態だった。

 だが、あれからすぐに医師達の控えの間として使われるようになったので、今は大きな机やテーブルがいくつも持ち込まれ、医師達が治療方針を決めるために座れるよう、ソファも入れられ、さらには薬棚も入れられていると言う。

 カイエンとエルネストが案内されて入ったのは、そのトリスタンの病室の控え室の、そのまた手前のいくつかの小部屋の中の一つだった。

 そこのいくつかの小部屋も、普段は使われていなかった部屋部屋に家具を入れて、医師の仮眠室にしたり、今、カイエン達が引っ張り込まれた部屋のように、ちょっとした応接間のようにしたりしたらしい。

「へえ、随分と小洒落た……というか、妙にかわいらしい部屋にしたもんじゃねえか」

 エルネストがそう言う通り、たいして広くはないその部屋は、壁紙や天井、床などは元のままなのだろうが、家具の方はあまりハーマポスタールらしくない色味の家具が入れられていた。

 白っぽい木材に艶のあるニスをかけ、ところどころに空色や金銀で花模様の描かれた枠に、少し濃い空色と桜色の縞模様の絹地のソファ。ソファには張り地の色に合わせ、それよりもやや濃い色のクッションが置かれているが、それには四隅にかわいらしい絹のレースのリボンが縫い付けられている。

 それに合わせたテーブルも白木で、金色に縁取られた天板は、青いガラスの下に華やかな花々の絵が描かれているものである。床に敷かれた絨毯は夏物の光沢のある絹だが、こちらはベージュに桃色や桜色、薔薇色で、かわいらしい小花模様が織り込まれている。

「カーテンの色まできれいに合わせたものだな」

 カイエンがそう言って見やったカーテンの向こうの窓の外は、本当に小さな箱庭だが、桃色の薔薇が咲き誇っている。そこのカーテンも空色と薄い桜色に金糸銀糸の重たげな刺繍のある高価そうなものだった。

「はあ。トリスタン殿下のお兄君、リュシオン殿下には皇宮のここからは反対側の宮にある、国賓の間にご滞在していただいておりますのですが、毎日、ここへ見舞いにいらっしゃるもので……」

「毎日?」

 エルネストの言う小洒落た、と言うより、かわいらしいと言った方がしっくり来るソファに、オドザヤと並んで座りながらカイエンがそう言うと、こちらはソファの周りに置かれた、一人がけの椅子二つに腰を下ろした、サヴォナローラとコンスタンサがため息をついた。

 確かに、毎日ここからは遠い「国賓の間」から、従者たちを連れて仰々しくやって来られたのでは、堪らないことだろう。

 エルネストの方は、カイエンとオドザヤの向かいのソファに黙ってその長身を斜めにして座る。

 その様子は、彼の着ているモノトーンの硬質な印象の服装と、このかわいらしい意匠の部屋とがまったく違うので、なんだか本人よりも見ている方がその落差が気になった。大公宮にはリリの部屋を除けば、こんなかわいらしい部屋はない。

 そのリリも、二歳になって歩けるようになり、達者に喋るようになると部屋の意匠にも口を出すようになり、レースの縁取りなどは嫌がったので、今では当初ほどかわいくもなくなって来ている。

 エルネストは珍しがってリボンの付いたクッションを両手で持ち上げ、めつすがめつしている。

「へえぇ。見上げた兄弟愛ってやつかな? 俺と兄貴なんかは母親が違うから、別れる最後までどことなく他人行儀だったけどな。昔、俺が怪我した時なんぞも、兄貴なんざ、お使いに見舞いを持たせて寄越しただけだったぜ」

 エルネストの性格だの、カイエンとの間にあったことも、話し方が乱暴を通り越していることなども、ここにいる皆にはもう知れているので、彼は普段通りの話し方だ。侍従が茶でも運んできたら、すかさずまともな「皇子様」らしい喋りに変えるに違いない。

「そっちの方はよくわからないのです。リュシオン王子殿下がトリスタン殿下のお部屋に入るときには、お父上のシリル様は外に出られます。代わりに必ず侍従や私が立ち会うのですが、別に重要なお話があるわけでもなく……」

 コンスタンサは渋い顔だ。

「ああ。シリルさんが今、看病に来ている事はリュシオン王子には……?」

 カイエンがそう聞くと、オドザヤが答えた。

 オドザヤは気分だけでも上げようとしたのか、今日の彼女のドレスは普段、執務の時に選ぶような淡い色や地味な色ではなく、レモン色、とでもいうような夏らしい色合いだった。それは、オドザヤの黄金色の髪にも、真珠のような肌の色にも、琥珀色の瞳にもよく似合っていた。 

「シリルさんは一時期、ザイオンの外交官官邸におられましたから、今の状況はザイオン本国へも伝わっているはずです。でも、シリルさんは元は女王チューラ陛下の愛人、ダヴィッド子爵でいらっしゃいますから、王配ユリウス殿下の息子のリュシオン王子とは、出来れば顔を合わせたくないそうです。まあ、お気持ちは分かりますけれど」

 カイエンは話がここまで来て、やっとこの話がどこから始まったのか、思い出した。

「では、この部屋は……?」

 確かに、この白っぽい淡い色は、なんとなく儚いザイオンの夏を思わせる色だ。それにしても、かわいらしすぎる感じは否めないが。

「これは、リュシオン殿下のご趣味なのです。……毎日、気まぐれなお時間にいらっしゃるので、トリスタン殿下の方は医師の診察中だったり、お食事中だったり、お茶のお時間だったりするので、待っていただくことばかりで。最初のうちは他のお部屋でお待ちいただいていたのですが、そのうちに……」

 コンスタンサが言いにくそうにすると、後半はサヴォナローラが引き継いだ。

「ご訪問のお時間を先触れしてください、とはお願いしたのです。ちゃんとザイオンから侍従も従って来ているのですから。日々のご予定などは周囲の者が管理してしかるべきです。なのに、それがどうしてもお出来にならないようでして。お付きの者の責任者も申し訳ないと謝るばかりでどうにもならないのです。終いにはあの方、『どうせ待たされるのなら、私専用の部屋を用意してほしい』などとおっしゃり……」

 カイエンとエルネストは、話の進む方向がもうわかったような気がした。

「まさか、この家具は向こうから持ち込んで来たのか?」

 カイエンが呆れ声でそう聞くと、オドザヤもサヴォナローラも、そしてコンスタンサもうなずくではないか。

「はい。あの、国賓の間の方も、トリスタン王子のお怪我で滞在が長引くと決まると、もうすぐに家具調度を入れ替えたい、とのことで。リュシオン王子の寝室とお居間だけですが、今は、ここと同じような感じになっているそうです」

 カイエンとエルネストは、本人たちは意識していなかったが、同時に、改めてぐるりとこの瀟洒な応接間を見回さずにはいられなかった。

「……なんというか、少女趣味? だな。それもかなりかわいらしい……」

 去年の一月、腹を刺されたイリヤが療養していたカイエンの子供の時の部屋は、優しい桃色がかった色合いでかわいらしかったが、これはその遥か上をいっている。

 カイエンも、子供の頃はああした部屋で過ごしていたが、今ではもう、落ち着いた色味の部屋を好んでいる。その辺りはアルウィンも同じだったようで、だからカイエンが今、生活している部屋の意匠はアルウィンの頃からあまり変わっていない。

 カーテンや寝台、化粧部屋、浴室などは家具調度の入れ替えも行なったが、花柄とか桃色などに変えたところはない。レースを使ったものなどは、二重になったカーテンの内側のものだけだろう。

「世間知らずで、両親に甘やかされるだけ甘やかされた、頭の中はお花畑みてえな夢見る娘っ子の部屋だな」

 エルネストの評はまさに正鵠を射ていたようだ。

「そうなのです。トリスタン王子のお部屋に入られてからの会話も、リュシオン王子の話は国賓の間に閉じ込められて退屈なことと、その不満解消のためにお部屋を改装させたこと、ザイオンでお気に入りの仕立て屋だの、お芝居の俳優、それにお菓子だのの話ばかりで……。お衣装の方も、歓迎式典や結婚式の時は派手ではありましたが、まあ重厚なお召し物でしたが、この頃はなんと申しますか、このお部屋のような……」

 コンスタンサは、そこまで言うと、黙ってしまった。

 この部屋のような、の次に続くのは、話の流れから行けばおそらくは服装のことなのだろう。もう、それを何度も見ているのだろうオドザヤやサヴォナローラは、黙ってわずかに首を振るばかりだ。

「もう、トリスタン殿下のお怪我のことは公表してしまいましたから、リュシオン王子殿下が毎日、お見舞いにいらっしゃるのも大っぴらなものです。ですが、あのお衣装やら何やらの感じは……。ここが今の厳戒態勢の皇宮でなかったら、もうとっくに噂になっていますわ」

 カイエンは頭の中で、この部屋のかわいらしく優しい印象のままの、淡い色にレースのあしらわれた衣装を、あの、トリスタンに似てはいるが、どこか緩んだ印象の顔立ちや体型のリュシオン王子に着せてみた。

「ああ! あれかあ!」

 大公殿下とは言え、大公軍団の仕事でありとあらゆる現場に立ち会って来たカイエンは、記憶の中のある場面と今、頭に思い描いたイメージとを重ねあわせることが出来た。

「あれか! イリヤみたいな話し方をする、なんだかくねくねした男が大勢いる店の、お姉さんみたいなお兄さんたちの感じだな。最初はびっくりしたけれど、話してみたらすごい話しやすい人達だったっけ」

 オドザヤとサヴォナローラ、それにコンスタンサも、カイエンが今言ったような店は知らないらしく、首を傾げていたが、さすがにエルネストは知っていたらしい。

「あっはあ、あれか! ああいう嗜好の連中は、オカマとか、オネエマリコン、とかいうんだぜ。確かに話し方はあの伊達男そのまんまだな。あいつ、なんで話し方だけああなんだ? まあ、腹ん中真っ黒なのを隠す煙幕の一つなんだろうな。ははあ、じゃあ、リュシオン王子殿下の本性は、あちら方面の奴なのかな?」

 あはは、と所詮は他人事なので、エルネストは気楽に笑いながら言う。

「確か、トリスタンがこっちに来てからすぐに、ザイオン国内の公爵だか侯爵だかの家に婿入りしたんだろう? 兄貴のジュスラン王子と同じ頃に? 前にああいうお兄さんやおじさんの集まる店での事件があって、そこで店の主人に世間話みたいな感じで聞いたんだけど、あの人たちは別に男が好きな人ばかりじゃないらしいよ。女のきれいな優しい色の服が着てみたい、ってだけの人も多いんだって」

 カイエンが、リュシオン王子は婿入りして役に立つ方なんだろうか、と思いながらサヴォナローラの方を見てそう言うと、サヴォナローラも、カイエンとエルネストの言葉で、リュシオン王子のような者がどんなものなのか、おぼろげには理解したらしい。

 イリヤのような喋り方、というところでは「ああ!」という表情だったから、もしかすると、本来の予定よりもかなり長い滞在となり、本性を隠そうとしなくなったリュシオン王子も、ああいう喋り方になっているのかも知れない。

「はい。ですが、トリスタン王子のお怪我以来、このハーマポスタールは非常事態宣言の最中というのに、一向にご帰国なさりたいというお話はありません。察しますに、母国の婿入り先へお帰りあそばすよりも、国賓としてこのハウヤ帝国にいらっしゃる方がお気楽なのかも、とは思っておりました」

「それで、トリスタンの方はどうなのですか? 毎日、兄王子にお見舞いされて、どんな具合なのです?」

 カイエンが知る限りにおいて、トリスタンの性的嗜好は、あのきらきらしい装いを差っ引けば普通の王族貴族男性の範囲内だ。女のような言動や服装を愛しているようでもないし、まだ何も知らない頃のオドザヤを麻薬の助けを借りてはいたものの、いやらしくたらし込んだ様子から見ても、男よりは女好きには違いないだろう。

 もっとも、トリスタンには女を憎んでいるような、女に対する残酷さがなんとなく垣間見えたが。

「それは……。きっと、お兄様相手ではあれが普通なのでございましょうね。聞くだけは聞いておられます。でも、リュシオン王子殿下がお帰りになった後は、いつも不機嫌でいらっしゃいます。シリル様がなだめておられますが、時にはかなりきついお言葉で……その、お兄様を罵られることも」

 コンスタンサにはトリスタンのその時の台詞は言いにくいようだ。まあ、聞かずともトリスタンがリュシオン王子を罵る言葉は、この会合のメンバーの中では世間擦れしているカイエンやエルネストには想像出来た。

 オドザヤやコンスタンサにはあまりにも下品すぎて、意味の方はあまり分かっていないのかも知れないが。口調から、罵っていることは分かるのだろう。

「ところで、今、私たちはここにいて大丈夫なのですか? 今日のリュシオン王子のお見舞いはもう済んだのでしょうね」

 この部屋にカイエンとエルネストを通したのは、リュシオン王子のことを理解させやすくするためなのだろう、と気が付いたカイエンがそう聞くと、オドザヤがなんだか疲れた様子でうなずいた。

「はい。今日はちょうどお昼時に。もう、自分は朝餐兼昼餐は済ませた、とおっしゃって。トリスタン殿下はお食事中でしたから、今日もこちらのお部屋で待っていただきましたの」

 オドザヤは、カイエンやエルネストがリュシオン王子の「事情」を手早く理解してくれたのには、安心した様子だった。

「今日、お忙しいと知っていながら、お姉様方をお呼びいたしましたのには、リュシオン王子のことも関係がありますの。なので、このお部屋にお通ししました。トリスタン殿下なのですが、先日、もう我慢の限界だとおっしゃって……」

「兄王子をザイオンへ追い返せ、と言うんですか」

 カイエンがそう言うと、オドザヤもサヴォナローラも、そしてコンスタンサも首を振ったので、カイエンはかえって驚いた。

「違うのですか」

 カイエンが意外そうな顔をすると、オドザヤはちょっと難しい顔になった。

「はい。リュシオン王子には、もう会う必要もないから、なるべく面会は気分がすぐれないとでも言って、断って欲しいと。……その、トリスタン王子は、シリル様がお側におられるせいもあるのか、ご自分のお怪我の具合に関しては、落ち着いて医師から状態をお聞きになりました。お姉様のなさってくださった応急処置についても感謝しておられたそうで。あの、その話を聞いて、私も罵られるのを覚悟で面会も致しました」

「え? もう、会われたのですか」

 カイエンはちょっとまた驚いた。

「シリル様が同席してくださって、もしもの時はなんとかする、とおっしゃってくださったので、勇気が出ました。こればっかりは先延ばしにすると、余計にぎくしゃくしそうだとも、かねてから思っておりましたので。……私が部屋に入ると、あの方、私の顔なんかはろくに見もしないで、すぐに『リュシオン王子をザイオンへ帰すな』っておっしゃいましたの。理由を聞いたら、『ザイオンでは、まさか結婚式に何か起こるとは思いもしないから、リュシオン王子を送り込んできたのだし、結果的に自分が乗っているにも関わらず、馬車は襲撃されたのだから、今度のことではザイオンは蚊帳の外なのだろう、と。それなら、情勢が収まるまでは帰すべきじゃない』とおっしゃるのです。お顔色は悪かったですけど、顔つきは真面目でらして、最後に、『僕はもうザイオンへは帰れないし、帰るつもりもない。ここでやっていくしかないのだから、ここでどんなに虐げられてもここに居座る』とまでおっしゃいました」

 オドザヤはそう話しながらも、その様子、このトリスタンのあからさまで開き直った言いようには、呆れるよりもびっくりしたようなのがうかがわれた。

 これを聞くと、カイエンよりもエルネストの方が笑いを抑えられなくなったようだ。

「はっは! そりゃあ潔いいじゃねえか。ある意味じゃ俺と同じだな。国の事情で放り出されて、しばらくはそのまま居座るしか能がない、ってわけだ! あのきらきら頭でよくも短時間にそこまで得心したもんだな」

 カイエンの方はここまで聞いて、トリスタンが失った足のことでゴネていない事には安心した。

 エルネストに関しては、彼はいつか彼が父であるシイナドラド皇王バウティスタに命じられた「使命」を果たすためにこの国から出ていく、ことはもう承知している。カイエンの「夫」としてここにあるのはそれまでの間だけだ、ということも。

 だが、トリスタンには母のチューラ女王からそんな「命令」は出ていないはずだ。彼が受けた命令は、「初心な若き女皇帝をたぶらかし、皇配殿下になりおおせたら、意のままに操れ」ということだったに違いないのだ。

 そしてそれ以降、新しい命令は……。

 カイエンは、はっと気がついた。

「陛下」

 カイエンはまっすぐに顔を上げると、オドザヤの琥珀色の目をまっすぐに見た。

「まさか、リュシオン王子はトリスタンへ、チューラ女王からの新しい命令を持って来たのではないでしょうね?」

 カイエンがそう聞くと、オドザヤよりも先に、サヴォナローラが厳しい顔になった。

「さすがは殿下。……私もそれは考えました。今日、お二人をお呼びしたのもそれに関する事なのです」

 サヴォナローラは驚いた顔のオドザヤや、コンスタンサには目もくれず、まっすぐにカイエンの灰色の目を見つめて来た。この様子だと、チューラ女王の新しい指令をリュシオン王子が持って来たのでは? との疑惑については、まだオドザヤとは話していなかったらしい。

「リュシオン王子を帰すな、とのトリスタン王子のお言葉はまさにそれに関係があるのでしょう。恐らくですが、リュシオン王子が毎日、トリスタン王子のお見舞いにいらっしゃるのは、隙を見てチューラ女王からの指令を伝えるためだと思うのです。そもそも、婚礼のためにこのハウヤ帝国へいらしたのは、実はそっちの方が重要な任務だったのかもしれません。ですが、いつもこちら側の立ち会いがあって、今に至るまでそれが出来ない。だから、あのあまり頭は回りそうもないリュシオン王子は毎日、同じことを繰り返しておられる」

「周囲の取り巻きに頭のいいやつはいないのかな?」

 いない方が結構なのだが、カイエンは一応はそう聞いてみた。 

「……いたとすれば、もう話は伝わっているはずでしょう。トリスタン王子はもうリュシオン王子の本当の目的に気が付いておられて、それを聞きたくないと思っておられるのでしょう。兄王子の持って来た話は聞きたくない。だからと言ってそのために、毎日、兄王子のうだうだとたわいのない話を聞かされるのも、もううんざりだ、と言うところでしょう」

「なるほど。それなら、リュシオン王子がなかなか帰りたがらない事もうなずけるな」

 カイエンがそう言うと、そこにいた皆が、納得した顔になった。

「それで? 今日ここに二人一緒に呼ばれた理由はなんだい?」

 なるほど、大公のカイエンがオドザヤやサヴォナローラに呼ばれた理由はわかった。

 だが、エルネストも一緒に、という方の理由はまだ何も語られていない。エルネストがそう聞くと、これにはオドザヤが答えた。

「先ほど申しましたように、トリスタン王子はもうザイオンへお帰りになることはない、とのご決心です。それで、恐らくは同じお気持ちでこのハウヤ帝国に婿入りなさったのであろう、エルネスト皇子殿下とお話になりたいことがあるとのことです。……もしかしたら、トリスタン王子はリュシオン王子が持って来た、母女王からの新たな指令に心当たりがあるか、それを確かめたいか、なのではないかと……」

 これを聞くと、エルネストはいかにも面倒臭そうな顔になった。まあ、それはそうだろう。

「私は細かいことは存じませんが、このハーマポスタールへおいでになって、新年会を兼ねた舞踏会でこの皇宮へいらした時、エルネスト殿下とは大層、その、印象的なお語らいがあったとか。だから、今のご自分の話を親身になって聞いてくださるだろう、と言っておいででした」

 うわ。

 カイエンはすぐにわかった。

 もう二年以上前になるが、トリスタンがこのハーマポスタールへやって来た歓迎と、新年の宴を兼ねて行われた、皇宮でも本当に久しぶりだった舞踏会。

 あの時、なかなか踊りを申し込んで来ないトリスタンに苛立ったオドザヤは、化粧直しと称して席を立った。

 その後を追ったカイエンは、夜の皇宮の廊下で迷い、なぜか彼女を追って来たトリスタンと遭遇し、どうしてだかは今だに分からないが、多分、からかい半分で唇を奪われたのだ。

 それを見ていたエルネストが、お見舞いだとばかり、トリスタンに同じことを男同士でやってのけた。

 今、オドザヤが取り次いでいることは、あれに繋がっているに違いない。

「……トリスタン王子の方もそうだが、自分が撒いた種だな。ここはゆっくりとお話を聞いて差し上げるといい」

 カイエンがそう言いながら、にんまりと微笑むと、エルネストはしょうがない、とばかりな仕草で両手のひらを滑稽な様子で上へ上げた。

「しょうがねえな。兄貴のリュシオン王子があっち方面で、弟はどっち方面なんだか。……まあ、俺は暇人だ。お相手しても構わねえぜ。でも、誰か立ち会ってくれよ。そうじゃねえと、どっちに転がってくかわかんねえからな」

 カイエンとしては、妻のオドザヤがもうトリスタンに何の愛情もない今、トリスタンとエルネストがどうなろうと知ったことではなかった。今のエルネストがカイエンよりも、トリスタンと手を組むなどあり得ない。

 カイエンは話が一段落するのを待っていたように、侍従が持って来た茶菓をありがたくいただくと、すぐにエルネストを置いて、皇宮を後にしたのだった。

 それは、もう今頃、大公宮では別の用事の客人が待っているはずだったからであった。






「皇宮に突然呼ばれてしまってな。遅れて申し訳ない」

 カイエンが護衛騎士のシーヴ一人を連れて、大公宮の表にある、彼女の公式な執務室に戻って来たのは、もう、夕飯時に近い時間のことだった。

 この用事はもう何日も前から予定に入っていたことで、他の用事ならこっちを優先したはずだった。

 執務室で待っていたのは、大公軍団軍団長のイリヤと、帝都防衛部隊長のヴァイロン、それに最高顧問のマテオ・ソーサ、それに一人の海軍軍服の中年男と、あのデメトラ号を危なく皆殺しにしかかった、黒衣の怪人を追いかけていて治安維持部隊のトリニにぶつかった、海軍下士官のアメリコの五人だった。

 カイエンとイリヤ、それにヴァイロンが予定を合わせるのも今の時勢では結構大変なことで、それもあってカイエンは自分が遅れたことが申し訳なかった。

 五人は、執務室の真ん中の大きなテーブルの周りのソファにばらばらに腰掛けている。それでも、カイエンの執務机を背中にした側に、イリヤと教授とヴァイロンが並び、反対側にアメリコと中年の海軍士官が座っていた。主客別れて座っていたわけだ。

 カイエンとシーヴが入っていくと、彼ら全員が立ち上がり、それぞれの役職に合った礼をして来たので、カイエンはそれに簡単に応えながら、教授の座る三人がけのソファに並んで腰を下ろした。

 そして左右の一人がけにはイリヤとヴァイロン。護衛騎士のシーヴはカイエンの後ろに立った。

 反対側の三人がけに、居心地悪そうに座ったのがアメリコと中年の海軍士官だった。二人ともに目立ったところのない人相だ。もちろん、アメリコの場合には珈琲色の顔の中で、青い眼だけが大層目立っている。中年男の方はそういう観点でも目立ったところのない外見だった。

 強いて言えば、大公軍団治安維持部隊の各署の署長級の人材によくあるような、正義感と要領の良さ、人当たりの良さとしぶとさという反対の要素が、ちょうどよく融合して、顔にも仕草にも見え隠れしている、というところだろうか。

「大公のカイエンだ。……遅れて申し訳ないが、早速、話に入ろう」

 カイエンがこう言うと、すぐにアメリコの隣に座った中年男が自己紹介を始めた。

「バルトロメ・グレコ、と申します。デメトラ号の船長をしております。この度はご直々に御目通りが叶い、きょ、恐悦至極でございます」

 たぶん、ここへ来る前から練習して来たのだろう。日に焼けた茶色い顔の中で、茶色の目がやや左右に泳いでいる。反対側にい並んだ、大公軍団側の男どものアクの強い人相骨柄を見れば、誰でもこんな感じになるだろう。

「グレコ船長か。なかなか日にちが合わせられなくてすまなかった。……そこにあるのが、例のものか」

 カイエンがそう聞くと、アメリコがさっと立ち上がって、床に置いてあった、細長い箱の方を持ち上げてテーブルの上へのせた。

「短銃の方は、このアメリコが前にお邪魔した時に一挺、こちらにお預けして来ております。まず、これが鉄砲フシルの方でして、今回は三梃しか手に入りませんでした。取り扱いはここに簡単な取り扱い方を書いてまいりました。私どもがこれを仕入れた時にも、似たような物はもらったのですが……一応、ここへ持ってまいりました。……この通り、例の皆殺し男の事件で船長室が襲われた時に、ちょうどこれを読んでおりまして、倒れたインク壺で汚れてしまいまして。ああ、お買い上げの暁には、お時間がある時に取り扱いのご説明と、広い場所をお借りして、実射をさせていただけたら、と思っとります」

 グレコ船長がそう言いながら、テーブルの上へ出したふた束の紙の束は、なるほど、一つはインクまみれでかなり読みにくい状態だった。

 それから船長が細長い箱を開けると、そこには五つ、同じ形の細長いものを入れられる仕切りがついており、その中の三ヶ所に同じ細長い鉄砲が入っていた。

 船長が差し出した、何枚かの紙に図とともに書かれた「取り扱い説明書」の方は、マテオ・ソーサがテーブルから拾い上げて、早速、読み始めている。

「どれも、まったく同じ形だね。長さも部品もおんなじだ。ちゃんとした設計図があるんだね」

 イリヤがもっともな感想を述べた。

 現在、武装船に搭載されている大砲の砲身も、火薬の爆発に耐え得る強靭さが求められる。だから、設計図通りに鋳型に入れて鋳造されているのだ。小型化したとは言え、同じことはこの鉄砲にも言えるはずだった。

 少しでも狂いが生じれば暴発したり砲身が破損することもある。そうすれば周囲の人間は死傷するのだから、鋳造である程度、量産出来るとは言え、それにはそれなりの設備も熟練の職人も必要だった。

「その辺りは、こいつを持って来て、あの、場所は勘弁してください……競りにかけた男も知らないようでした。そいつも運び屋で、シイナドラドから密かに外へ出されたのを、市場へ持ち込んだだけだそうです。でも、大砲もほとんどが同じような設計図を元に作られてますから、これもその可能性は高いですね」

 グレコ船長は海の商売人ではあるが、普段から船を操船し、海賊に遭遇すれば実際に大砲も撃っているのだから、イリヤの言っていることの意味もわかっているようだ。

「その、設計図の方は、まだ流れて来ていないのかね?」

 前にアメリコが自分の持たされた短銃を見せた時も、しげしげと興味深げに調べていた教授が、鋭い質問を繰り出した。

 そのあたりの際どさは、グレコ船長にはすぐに分かったらしい。

「それはまだのようです。でも、実物がこうして出回っちまってますから、分解して設計図を引くのは、大砲の製造に関わってる奴らなら多分、時間さえあれば可能なこってしょう」

「火薬の量り方とか、弾丸の方は?」

 カイエンが聞くと、グレコ船長はどきりとしたようにしばらくカイエンの顔を眺めたのち、慌てて顔をそらした。

 女が、それも一国の大公殿下が、こんな質問をして来るとは思いもしなかったのだろう。アメリコと比べれば父親のような年齢だが、カイエンのような貴族の女の顔を間近に見たことはあまりないのかもしれない。

 質問したカイエンの方は、今日に合わせて忙しい中、睡眠時間を削って大砲関係の本を読み漁って用意していたから、当たり前のことだったのだが。

「弾丸もちゃんと買い込んでおります。紙製の薬莢という細長い塊になったもので、あらかじめ量っておいた火薬と弾が一緒に包まれているものです。この辺りはかなり使用法がこなれておりますな。薬莢になっておるおかげで、必要な火薬の質と量も自然と分かるわけで、売る側もこれが早く普及するよう、計画的にことを運んでいるな、と思いました。まあ、あたしなんかにゃ、こんなもんを各国に広めようとするシイナドラドの思惑なんかは分からんですが」

 さすがは海千山千の海の商売人で、グレコ船長の読みはなかなかに鋭い。シイナドラドの思惑にまで言及した理由は分からないが、もしかしたらこれを売買した時に何か感じるところがあったのかもしれない。

「威力はどのような?」

 今度はヴァイロンが口を開いた。

 後から後から無駄なく質問して来るので、最新武器を持ち込んだ方のグレコ船長やアメリコの方が押され気味だ。

 グレコ船長は別の小さな箱から、丈夫そうな紙に包まれた、細長い薬莢を取り出すと、その火薬の入っている側を歯で食いちぎって中身を見せた。

「この後、本来はこれを逆さまにして、火薬の方を先に銃の先から入れます。今日は危ないから入れませんけど。それから、この鉄の弾を入れるんですが……結構、弾が大きいでしょう? 距離にもよりますが、鎧じゃ防げないこともあるそうです。実際、船で試射した時も、標的にした鉄製の胸甲を撃ち抜けました」 

「じゃあ、近距離なら十字弓とそう変わりないんですか。銃身が長いから近接戦じゃ取り回しが難しそうだし、重さも十字弓よりは重いでしょう?」

 首を傾げながらシーヴがそう言うと、今度はアメリコが答えた。シーヴとは先日、初めて会ったばかりだが、年齢が近いので、親しみがあるようだ。

「そこが微妙なところだよね。近距離で静かにやりたいなら十字弓だよ。ただ、とにかく音が確実に違う。すごい音がするから、いきなり撃たれたら敵方はびっくりするよね。それに、この鉄砲の方はある程度、長距離でも狙えるみたいだし、飛ぶ速度が早いから、同じ距離なら狙い通りに当たる確率も破壊力も、こっちの方があるんじゃないかな」

 アメリコがそう答えた時には、もうグレコ船長はもう一つの売り物の箱も開けようとしていた。

「その、十字弓との違いが出て来るのが、こっちの短銃なんですわ。ああ、こっちも使い方はだいたい鉄砲の方と同じですが、ここに取り扱い説明書を持ってまいりました」

 グレコ船長は、鉄砲の箱と違って、横に長い長方形の木箱の方を開けにかかっていた。

 新しく開けられた箱の中には、九挺の短銃が横に並べて収められていた。一挺分空いているのは、先日、アメリコが大公宮で事情説明した時に彼の持っていた一挺を置いていったからだ。

 グレコ船長とアメリコがそれをテーブルの上へ並べていくと、カイエンの執務机の方から、シーヴが先日、アメリコが置いていった一挺を持って来た。

 十挺の短銃が並べられると、なかなかの迫力だ。先ほどの鉄砲の方は鉄の銃身にも、木製の銃床にも飾りは何もなかったが、こちらにはどちらにも曲線で蔦のような模様が彫り込まれている。後で知れたことだが、短銃の方は貴族などが護身用に持つことも想定していたものらしく、この飾り彫りは鉄砲との用途の差によるものだった。

 並べられた短銃の上を皆の視線が流れていくと、すぐにカイエンだけではなく他の皆も気が付いた。

「あれ? これだけ火縄がないね」

 代表して言ったのはイリヤだったが、思いは皆同じだった。

 アメリコが置いて行ったのも含めて、九挺は火縄が後ろに付いており、火皿があったが、一挺だけは撃鉄の先端に何か、石のようなものが付いている。

「さすがですな。そうなんです。競りじゃ、一緒くたに売られてたんですが、これだけ点火方式が違うんですよ。火縄は私どもが試射した時に装着した、そのままで持ってきました」

 確かに、アメリコの置いていった短銃のも、他の九挺のも、火縄の端が黒くなっていた。

「えっ?」

 皆がその特別な一挺へ目を向けると、グレコ船長は難しい顔でいとも簡単そうにこう言った。

「直接、火薬に火をつけるんじゃなくって、ここに取り付けられている火打石の火花を使うんです。火花錠式ジャベ・デ・チスパとか言うそうで。大した違いはないって最初は思ってたんですが、実射してみると、大違いなことが……」

「匂いか!」

 カイエンはあのパレードの襲撃の時、トリニが火薬の導火線に一斉に火がつけられた匂いで気が付いた、と言っていたのを思い出したのだ。グレコ船長はびっくりした顔をしたが、大公軍団の皆はもう同じことに気が付いていた。

「……はい。それと、常に火種を携帯する必要がないことが大きいです。戦闘中に火縄式のを何発も撃つとなれば、常に火種を携帯する必要がありますから。それに、雨の日には火縄より有利です。使うのは火花なので。それと、夜だと光ですね。多分、撃つ前に光で見つけられる可能性も違ってくるでしょう」

「なるほどね。……本来、火縄式からこの火打ち石方式へと、段階的に発達すべきものが、同時に表の世界へ放出されてきた、という訳だね」

 グレコ船長の言葉を聞いた教授はなんでもないことのようにそう言ったが、その言葉には恐ろしい意味が含まれていた。

 そして彼が次に言った言葉は、グレコ船長やアメリコにはわからなくとも、カイエンたち、エルネストからシイナドラドの石碑の森ボスケ・デ・ラピダの話を聞いた者たちには、戦慄をもって迎えられた。

「これは普通なら時間をおいて、段階的に進化して現れて来るはずの技術が、同時に出現している、と言うことですよ。……極めて不自然だ。理由は分からないが、シイナドラドではあのホヤ・デ・セレンの封鎖のことといい、エルネスト皇子を外に出したことといい……」

 皆はもう、黙って教授の次の言葉を待つしかなかった。

「ここで分かるのは……シイナドラドでは、来たるべき事態はかなり前の時代から想定していたが、その時期についてはあまりはっきり分かっていなかったようだ、ということだ。これは、仕組まれたあの殿下のシイナドラド行きのことや、星教皇のこととも関係があるのかも知れない。かなり慌てて事態に対処したのだろうね。だから今までみたいに、『技術を小出しにしている』ゆとりがなかったのでしょう」

 話がここまでくると、グレコ船長とアメリコには全然、話の内容が分からなかっただろう。

 教授も、そのことにはすぐに気が付いたようだった。

「殿下、この合計十三挺の鉄砲と短銃についての値段交渉は、こちらのグレコ船長の言い値で購入してさしあげてください。先ほどのお話だと、撃ち方説明と、実射も見せてくださるとのことでしたからな。そちらの予定も決めてしまいましょう。グレコ船長、まさかこの非常事態宣言発令中に、密かに出航、なんてお考えじゃないでしょうね?」

 教授の言葉の最初の方は、えびす顔で聞いていたグレコ船長だったが、最後の方ではやや青ざめてきた。だが、彼はしっかりと太い首を振った。

「え!? いやいやいやいや、とんでもございません! これでも所属はこのハウヤ帝国海軍であります! 今度の事件で、海軍の構成を最優先で構築し直す、という通達もいただいております。今、この時点で軍港から出航出来る船はございませんです、はい」

「そうか。それなら良かった。グレコ船長、購入の納品書と受け取りは、こちらの執事のアキノと別室で行ってくれ。……アキノ、契約が済んだら、グレコ船長とアメリコ君に、別室で晩餐を差し上げてくれ。それが済んだら、私たちは奥の食堂で待っているから」

 いつの間にかカイエンの大公宮表の執務室に入ってきていた、執事のアキノは静かにうなずくと、グレコ船長とアメリコを別室へ案内していく。

 彼らの姿が見えなくなると、カイエンは即座にテーブルの上の短銃の取り扱い説明書に手を伸ばした。鉄砲の方の説明書は教授が最初に手を出して持ったままだからだ。

「あらやだ。この人たち、こうしているとまるで親子みたい」

 イリヤがまぜっ返すのもうなずける感じで、カイエンと教授はソファに並んで座ったまま、同じような体勢で取り扱い説明書に見入っている。顔は似ていないが、髪の色目の色、背格好が似ているので、そう言われれば親子か年の離れた兄妹のようにも見える。

「殿下。先ほど、ご自分で奥の食堂で待つ、とおっしゃったでしょう。アキノ様が契約を済ませて戻る頃にはちょうど晩餐どきだから、ああおっしゃったのではないのですか?」

 夢中で説明書を読みながら、グレコ船長の置いて行ったテーブル上の鉄砲と短銃を手にして、いじくりまわし始めた二人を諭すようにヴァイロンがそう言ったが、カイエンも教授も聞こえた様子ではない。カイエンの方は火縄式のと、火花錠式ジャベ・デ・チスパのと二つの短銃を見比べては説明書の記述を確認している。

「ヴァイロンさん、殿下ちゃんはあんたがそこの短銃と一緒に運んでいくしかなさそうね。シーヴは侍従のベニグノさん呼んで、その箱三つ、奥へ運んでちょうだい。……俺は、しょうがないからこっちの萎びたおっさん先生を鉄砲ごと運ぶから!」

 そうイリヤが勝手に決めて言わなければ、カイエンも教授も自分が満足するまでそこを動きそうもなかった。

 その後、支払いを済ませたアキノが、厨房へイリヤやシーヴの分までの晩餐の用意を頼んでから、奥のカイエンの食堂へ戻った時には、もう、カイエンもマテオ・ソーサも、ヴァイロンとイリヤも、そしてシーヴも食堂の大きな長テーブルの周りの椅子に座っていた。

 もっとも、カイエンは二挺の形式の違う短銃を代わり番こに手にして、取り扱い説明書を真っ白なテーブルクロスの上に置いたまま、あちこち確認していた。教授の方は、鉄砲のからくりはもう頭に入ったようで、カイエンの真横に座って、一緒になって今度は二挺の短銃の取り扱いの方に夢中だ。

 二人は時折、説明書と見比べては、ああでもないこうでもないと話に花を咲かせている。

「お食事をお持ちしてもよろしいでしょうか」

 アキノは、年齢は親子ほどに違うものの、新しい玩具に夢中な子供状態になっているカイエンとマテオ・ソーサの方を見てそう聞いたが、そちらから答えが返ってくるとは期待していなかった。

「いいんじゃないー? 多分、もうちょっとしたら短銃の方の取り扱いとか構造とかにも納得がいくと思うからぁ。まあ、そうなったらなったで、早く実射が見たい、って二匹でさえずり出すんだろうけどー」

 イリヤがそう言ったので、アキノは料理を運び込むため、侍従長のモンタナと一緒に下がって行った。

「ヴァイロンさんも俺も、興味がないんじゃないんだけどねぇ。シーヴ、あんたも興味はあるでしょー?」

 イリヤは諦め気味というか、彼には珍しく呆れた声でそう言った。

「はい。でも、こっちの火花錠式ジャベ・デ・チスパの方は、普段から殿下にお持ちいただいたらどうかと思いませんか。火種の用意がいらないそうですから、銃単体で携帯できますよね。火薬が湿気てしまったらダメでしょうけど」

 シーヴがこう言い返すのを聞くと、イリヤもヴァイロンも、急に真面目な顔になった。

「十字弓みたいにかさばりませんし。殿下が無理なら、護衛の俺が持ってもいいですよ。グレコ船長達の実射を見せてもらったら、殿下の力でも使えるかどうか分かりますよね。これは俺の単純な考えなんですけど、殿下やソーサ先生みたいに剣術とか体術とかがさっぱりな人でも、この短銃ならいざって時にご自分の身をご自分で守れるかもな、って思うんです。すごい音がするだけでも、曲者は逃げ出すだろうから効果がありますよ。取り扱いを習得なされるなら、それがいいんじゃないかと思います」

 しばらくの間、ヴァイロンもイリヤも黙っていたが、沈黙を破るようにイリヤが言った言葉には感嘆の思いがこもっているように聞こえた。

「シーヴ君、君は護衛の鏡だわー。俺は大砲の実射しか見たことないけど、打った後の反動の具合次第じゃ、殿下やせんせーでも、この短銃なら撃てるかもしれないよねぇ。試してみる価値はあるねぇ」





 

 同じ頃。

 コロニア・エスピラルで、桔梗星団派と奇妙な邂逅を得た、ラモン・フリアン・テルミドールは、ハーマポスタールの旧市街にある、ある場所を訪れていた。

 そこはかなり大きな共同蒸気風呂の隣で、あの、今はザイオンの外交官官邸の地下のように、昔々に作られた地下闘技場の跡地の上に建てられた建物だった。

 闘技士による闘技がこのハーマポスタールで流行ったのは、なんでも派手好きで舞踏会も宴会も大好きだった、先先帝レアンドロと、その父親の皇帝の時代のことで、その頃には市内にも多くの闘技場があった。

 だが、レアンドロがそうした趣味に飽き、先帝サウルの時代になった頃には、市内の闘技場はかなり少なくなっていた。

 今でも闘技場は存在するが、もうそこでは剣闘士による「殺し合い」は行われていない。そうした催しは先帝サウルが即位と同時に禁止してしまっていた。

 だから、今、このハーマポスタールにある「闘技場」はもっぱら体術を競う場所となっていた。

「アポロ・ウェルタ道場」

 そう、力強い文字で大きく書かれた看板。

 そこは総合体術である、自由格闘ルチャ・リブレの道場兼格闘場だった。

 ラモンが木製の古びた大きな入り口扉の前に立つと、ノックも何もしないのに、内側から扉が開いた。

「おお。ラモンか」

 顔を出したのは、もう五十を過ぎたと思われる、それでも未だ覇気も闘気も失っていない、浅黒い引き締まった顔だった。目鼻立ちはくっきりとしており、何よりも印象的なのは大神殿の神官長のような、「もう何にも驚き慌てるようなことはありません」と言っているような、何事にも恐らくは揺らぐことはない明るいオレンジ色の目だった。

 その普段は明るく、時には甘くさえ見えるオレンジ色が、闘技場に入った途端に猛獣の目になることを、ラモンは骨身にしみて知っていた。

 アポロ・ウェルタ。

 彼こそがこの道場の主であり、師匠であり、闘技場の主人であり、現役の闘技士だった。

「入りな。なんだ? 今日はなんだか剣呑なもん、持ち込んで来やがったな」

 ラモンはぎくり、としながらもさすがは師匠だ、と思った。この師匠の研ぎ澄まされた体感と感覚は、年齢とともに衰える体力を補うために研ぎ澄まされていくようだ。

「はい。……でも、師匠には関わりのねえことです。俺が勝手に自分で引き寄せたことで、師匠に意見を聞きた……」

 言葉を最後まで言わないうち。

 ラモンの後ろで扉が閉まるのと同時に、ラモンのみぞおちに目にも入らない一撃が襲って来た。

「……おめえ、増長してるなこの頃。なんか、面白い人生の玩具でも見つけたんだろうが、そりゃあ、きっとロクでもないもんだろうな」

 扉の前の土間に崩れ落ちたラモンの脳天に降って来た言葉は、ラモンが予想していた通りに正鵠を射ていた。

「先生……」

 ラモンの見上げた先にあったのは、彼と同じくらいの、普通よりもやや高い身長に、鍛え上げられた体つきの老年に差し掛かった男の体だった。

 だがそれは、まだ二十代はじめのラモンがどうしても勝てない、今だに最高の闘技士の体だ。

 練習の途中だったのか、簡単な、洗うだけ洗い尽くして柔らかくなった木綿の貫頭衣に腰を紐で絞るズボン姿のアポロ・ウェルタの後ろに見えるのは、筋肉を鍛える器具や、固く砂を詰め込んだ打撃練習用の砂袋。それに簡単に縄を張っただけの練習用の闘技場だけ。

 今、そこで鍛えている門弟も、たった一人だけだった。

 だが、そのたった一人の顔を見た途端、ラモンは自分が最悪のタイミングでここを訪れてしまったことを悟った。夕暮れの夕飯時。この時間帯なら、師匠以外の門弟はいないだろうと見込んでいたのに。

「なんだ、ラモンか。……その顔じゃ、なんか揉め事かな。すまんな、俺は今、こんな時間じゃないとここへ来る時間が取れなくてな」

 師匠に一撃をくらって、床に膝をついているラモンへ、のんきとも言える言葉をかけて来た男も、もう中年だ。ことに頭は顕著で、頭の両脇を残して真ん中のあたりは綺麗に禿げ上がっている。だが、体躯は大きく、立派な筋肉が体を覆っている。

 だが、この中年男は地下の闘技場へは出ない。彼の目的は誰よりも強い男になることではないからだ。彼の求めるのは、ただただ、自分の体と精神の鍛錬でしかなかった。彼の「闘い」は自分対自分だったのだ。

「俺はもう上がるから。……師匠に用事があったのだろう」

 そう、気遣うように言った中年男は、そそくさと重量挙げの器具から体を起こし、慣れた様子で道場のすみの水瓶の方へ行くと、瓶から手桶で水をすくい出し、それに浸した布切れで体の汗をぬぐい始める。

「マルコス、気を遣うこたあねえぜ。ラモンのことじゃ、あんたもなんか言ってただろうがよ」

 アポロ・ウェルタがそう言うと、もう体を拭き終わり、白い立襟のシャツのボタンを首元までしめ、黒の上着の方も襟までしっかりとボタンをかけた、マルコスと呼ばれた大柄な男がまだ立ち上がれないラモンのそばまで歩いて来た。

 そうして、服装を整えると、もう彼の身分は明らかだった。

 黒の詰襟は学究の徒たちの衣装だ。

 マルコス・イスキエルド。

 彼は国立大学校の現役の教授だった。それも、戦史学と政治哲学の。

 彼は、アポロの言葉を聞くと、もうこのまま帰るわけには行かないことを悟ったようだった。

 マルコス・イスキエルド教授は、まっすぐにラモンへ切り込んで来た。

「ああ。……ラモン、お前、ディエゴ・リベラの『賢者の群グルポ・サビオス』に入ったんだってなあ」

 肉体派の国立大学の教授、今は大公軍団の最高顧問であるマテオ・ソーサの同窓である彼。

 ラモンに中央集権制度やら、封建制度だのの知恵を授けたのは、アポロ・ウェルタ道場の門弟同士だった、彼だったのだ。

(俺たちが目指すのは、俺たちみたいな普通の市民が政治に参加することが出来るような国なんだ。自分たちの税金の話を自分たちで議論して決められるような社会なんだ)

 馬 子昂シゴウの前で、そう言ったラモン。

 その知識を授けてくれたのは、このアポロ・ウェルタ道場の先輩だったマルコス・イスキエルドだった。

 だが今。

 マルコス・イスキエルドは、このハウヤ帝国の宰相サヴォナローラの諮問機関の一員であり、ラモンは貴族階級排除を目論む『賢者の群グルポ・サビオス』の一員となっていたのだった。

「急激な社会の変化は、大抵はろくなものを生まないんだ。これは、歴史が証明している。……ラモン、お前には中途半端な知識を与えてしまったようだ」

 そう言うと、マルコスは師匠のアポロに深々と頭を下げた。

「師匠。私はこの若者を惑わせてしまったようです。……先ほど、師匠はこの男が『剣呑なもん、持ち込んで来やがったな』とおっしゃいましたな。私が今日、ここに居合わせたのは天の采配かもしれません」

 ラモンは、マルコス・イスキエルド教授の言葉を最後まで聞いてはいなかった。

 彼は、彼の中にある納得しきれないもやもやを、きっと格闘の師匠であるアポロ・ウェルタなら解消してくれるのではないか、と思って今日、ここを訪れたのだ。 

 だが。

 ラモンはまさかここに、偶然でもなんでもマルコス・イスキエルドが居合わせるとは思ってもみなかった。

「ラモン!」

 アポロ・ウェルタと、マルコス・イスキエルドの二人の叫びを背中で聞きながら。

 もう、ラモンは道場の扉を開け、外の通りへと逃げ出していた。

 俺は間違っていた。

 それだけはラモンに分かっていた。

 マルコス・イスキエルドだけではない。彼の師匠であるアポロ・ウェルタもまた、今日彼が話して相談しようと思っていたことなど、容認するはずがないのだ。ラモンはもうやってしまった。もう、戻れる道などないのだ。彼は、貴族の中の貴族であるとは言っても、この国の皇帝の婚礼のお披露目の馬車に向かって手投げ弾を投げつけてしまった。相手がもしかしたら死ぬかもしれないと知りながら。

 アポロは「自由格闘ルチャ・リブレ」の第一人者であるにとどまらず、無法な暴力を完全に否定する、真に勇気ある男だった。弱い者を守って、喜んで死ねる心を持っている男だった。 

 だからこそ、ラモンは彼の元で、自分を鍛えたのだった。

 なぜ、そんなことが分かっていなかったのか。

 いや、違う。

 そんな大きな男に否定されるであろう行為に、身を沈めていこうとする自分。

 自分の方が間違っているのだ。自分が鍛えたのはただ、この体のみだった。

 それだけは、ラモンは心の底から理解していた。

 だが、それでももう、自分は引き返す道を選ぶことはない、と分かっていた。

 ラモンは通りをものすごい速さで走り抜けながら、両眼から吹き出てくる涙を拭うこともせず、朧にかすむ黄昏の旧市街を目の焼き付けていた。

 この、彼の師匠の道場のある通りには、もう来ることはない。

 もう、決めてしまったのだ。

 俺は、いつか師匠やあのイスキエルド教授を殺すかもしれない。

 それでも。

 彼の身を灼く炎の色はラモンを虜にして離さなかった。

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