コロニア・エスピラルでの邂逅

 

 そこは、ハーマポスタールの下町で、港にもほど近い界隈だった。

 ハーマポスタールには多くの外国人が住んでいる。

 近隣諸国である、ベアトリア人、ネファール人、今はフランコ公爵領となったが、つい先年まで自治領だったスキュラの人々などだけではなく、ザイオン人やもっと螺旋帝国に近いパナメリゴ大陸の東の小国の人たちもいた。

 そしてもちろん、パナメリゴ大陸の向こう側の東の果ての大国、螺旋帝国人も。

 例えば、トリスタンが最初に踊り子に化けてやって来たときに拠点としており、今は自立した生活を始めたシリルが仕事で出ている、「オリュンポス劇場」のある界隈は劇場や出し物小屋、それに付随した茶屋などが多く、そして、ザイオン人の一番多い界隈だった。

 他の国の外国人たちも、市内の一角に「ベアトリア人街」、「ネファール人街」などを形成しており、そこには各国の料理を提供するレストランテや屋台の食べ物屋、輸入品を扱う商店などが集まっていた。

 それは、やはり事情があって故郷を後にして来た彼らが安心して暮らせる場所、故郷の匂いのする場所に腰を据えて行くと、自然に発生していくものらしかった。だから、外国人街の大きさ広さはまちまちだった。

 というわけで、ハーマポスタールにもかなりの人数の螺旋帝国人がおり、螺旋帝国人の多い界隈は下町の港にも近い、運河に囲まれた場所に位置していた。

 他の国の場合も同じような法則で街の名前は形成されていたが、螺旋帝国人街は「コロニア・螺旋エスピラル」と呼ばれていた。革命前はともかく、それ以降は間違いなくこのハーマポスタールで一番大きな外国人街だっただろう。

 その理由は簡単で、数年前に螺旋帝国で起きた、「易姓革命」で、新王朝「青」に居づらくなった人々がどんどん西へ流れ出て来た結果だった。西側の国々でも、もっとも人口が多く、人種の坩堝であるハウヤ帝国は外国人には住みやすい街の一番だったのだ。

 つまりはこのコロニア・エスピラルは、ここ数年のうちに、急速に周辺の民家や店舗を普通より高値であっても買い取り、広がった街だった。

 だが、反対に螺旋帝国の方には、今、このハーマポスタールにいる螺旋帝国人の数の半分のハウヤ帝国人もいなかっただろう。

 そこは、外国人街の中でも特に異国情緒あふれる街だ。

 まあ、ハウヤ帝国と螺旋帝国といえば、遠く、このパナメリゴ大陸の西と東の果てに隔てられた二大帝国同士だ。文化や習慣、食物なども随分と違っては居たのだから。

 建物一つをとっても、元々はハウヤ帝国風の建物であったものが、壁の色を塗り替えられ、窓枠を変えられ、軒下のランタンの色が極彩色のガラスで出来た、螺旋帝国風のものに変えられただけで、そこには螺旋帝国の香りが漂う。

 その上に、食堂や屋台から漂う食べ物から香る、螺旋帝国特有の香辛料や油の匂い。

 道ゆく人の服装こそ、ハウヤ帝国風のものが多かったが、その顔立ちの多くが、象牙色から浅黒い小麦色の肌をした、東の国の人々の顔なのである。

 切れ長な目に、やや平板に見える顔立ちでも、ハウヤ帝国風の服を着、帽子でも被れば他の街へ出ればそうは目立たない。帝都ハーマポスタールは東西南北の人種のるつぼだったからだ。だが、この街の中では街の中の様子から、匂いから、彼らの顔立ちから、まるで螺旋帝国の小さな街を切り取って、ここへ持って来たかのように見えるのだった。


「おい、ラモン、治安維持部隊の見張りに見つからないかな」

 そんな、コロニア・エスピラルの中を、大柄でやや太っちょの若い男と、ラモンと呼ばれた、何か武道でもやっているのか筋肉質の引きしまった体つきの、浅黒い顔の男が並んで歩いて行く。二人ともハウヤ帝国人で、太っちょの方は明らかにきょろきょろと挙動不審である。

「お前さんは馬鹿だなぁ、ディエゴ。今、このハーマポスタールは非常事態宣言が出てるんだぜ。治安維持部隊なんざ、どこにでもいる。びくびくしてると余計怪しまれるぜ。堂々と歩いてりゃ、いいんだよ。連中だって、かわいそうなんだ。あのパレードの日からみんな、ろくに休みも取れずに働かされてるんだろうからな」

 ラモンの方は落ち着き払っている。顔立ちは平凡だが、鼻が丸っこいのにその上にある眼窩は深く落ち窪み、眉毛もまっすぐに伸びて濃かったから、そのギャップが見る者に印象深く映る。特徴的なのは彼の両耳で、それは上部が丸く盛り上がっていた。

 知る者は知る知識で言えば、それは何か組み合ったり殴り合ったりする武術を幼少の頃から修練してきた者特有の形だった。

「そ、そうかな」

 ディエゴと呼ばれた、大柄でやや太り肉の男は、あのマテオ・ソーサの私塾の教え子で、トリニやウゴ、それに医者のルカなどと幼馴染の、あの、ディエゴ・リベラだった。大きな両替商の息子で、今や、金持ちの商人の息子どもの作った「国家を憂うる」グループである、「賢者の群れグルポ・サビオス」の中心人物、まとめ役をやっている、あのディエゴである。

 ラモンと呼ばれた方は、ディエゴが「賢者の群れグルポ・サビオス」を始めてから知り合った男だ。

 元は南方で砂糖黍畑の農家だった彼の祖父が、高級ロン酒の生産を始めたところが大当たりした、という酒屋の息子の一人だ。実は大公宮のカイエンやエルネスト、それに大公軍団長のイリヤなども愛飲している、最高級の「青ラベル」次に高値な「金ラベル」の黄金色のロン酒の製造元の息子なのである。

 ラモンは店を継ぐ長男ではなかったし、子供の頃はやんちゃを通り越した乱暴者だったので、困り果てた両親が近くの「自由格闘ルチャ・リブレ」の道場に頼み込んで性根を叩き直してもらったという逸話がある。彼の変形した耳はその修練の結果なのだ。

「どうせ、俺たちゃ、向こうさんの居場所も知らねえんだ。ただ、このコロニア・エスピラルの大通りを歩いてろ、って言われただけ。こうして歩いてりゃ、向こうからなんか合図でもなんでもして来るさ」

 腕に覚えがあることもあって、筋肉質で引きしまった体つきのラモンの方は、クソ落ち着きに落ち着いている。身なりは悪くないが、その様子から見れば、ディエゴよりもこうしたことの場数を踏んでいるのは間違いなかった。

「おっと、ごめんなさいよ」

 二人は通りの端を歩いていたが、中央寄りにいたラモンの横を、取っ手のついた竹籠を持った螺旋帝国人の中年男が、危なくラモンに肩からぶつかりそうになりながら通り過ぎて行った。

 ディエゴとラモンがなんとなくそのおやじの後ろ姿を見送ると、竹籠から湯気が立っているのが見える。何か蒸し物の配達をする男なのだろう。熱々が一番美味しい食い物だから、普通は店や屋台で食うのが一般的だが、多少冷めてもいいから、どうしても家まで持って来てほしいという客もあるのだろう。

「ちっ」

 ラモンは肩のあたりを払うようにしたが、ふと麻の上着のポケットを見ると、ないげないふりで煙草の紙箱を取り出した。

「歩き煙草かよ、余裕だな、あんたは」

 それでもさっきよりは落ち着いた感じになったディエゴがそう聞くと、ラモンは浅黒い顔をディエゴの方へ向けもせず、黙って煙草の箱を一振りし、ディエゴの顔の前に箱ごと突き出す。すると、紙巻煙草が一本だけ、ディエゴの顔の前に飛び出して来た。

「なんだよ……」

 ディエゴは迷惑そうに顔をしかめたが、箱から出ている一本を手にしようとして、一瞬だけ身を強張らせた。

 それでも紙巻煙草をもらうと黙って口に咥え、ちょうど自分の煙草にマッチで火をつけたラモンの手元に煙草の先っぽを突き出した時には、もう普通の顔になっていた。これくらいの芸当はディエゴも出来るようになっていた。

 一瞬だったが、ラモンの突き出して来た煙草の箱の裏に、小さな紙が見えたのだ。

(さっきの出前の男が戻って来る。その後へ続け)

 文句はそれだけだったが、その紙っきれは間違いなく、さっきラモンとぶつかりそうになった蒸し籠の男がラモンのポケットへ入れたのだろう。

 二人は歩き煙草のまま、何気ない風で屋台の茶店に腰を据えた。

 本格的に螺旋帝国産の茶葉の香りや味を楽しみたい者はそんな飲み方はしないが、茶の屋台ではもう夏向けの冷えた茶を出している。喉の乾いた通行人がお客だから、種類も砂糖を入れたの、入れないの、柑橘や季節の果物の汁を絞ったもの、渋みのない種類の茶を真っ黒になるまで煮出してミルクを入れたものなど、数種類しかない。

 冷やした茶だから、陶器の大きめの湯飲みに注ぎ入れたのを受け取って、金を払えばそれでおしまいだ。

 二人がそろそろ蒸し暑くなって来た中、静かに待っていると、さっきの蒸し籠のおやじが向こうから戻って来るではないか。

 ディエゴとラモンは、おやじが目の前を通り過ぎるのを慎重に待ってから、腰を上げた。ディエゴなどは緊張で喉が渇いたのか、ラモンが残した分まで飲み干してからだ。

 そして。

 二人が蒸し籠のおやじの後をたどって行くこと、しばらく。

 二人は大通りからはもうかなり離れた、馬車も荷車も入れそうにない細い路地裏に入っていた。

 そこまで来ると、あたりの建物は大通りのような、螺旋帝国風な華美なたたずまいはしていない。だが、その代わりに通りにはハーマポスタールの他の街では嗅ぐことのない、香辛料やら漬物やら、ネギや胡麻の油の匂いが色濃く漂っていた。

 実際に漬物や、大豆を使った調味料だのの大きな陶器の壺がいくつか、粗末な真っ黒になった木の扉の前に並んでいる家に、おやじは入って行った。

 細い通りには、人気はない。上の方から赤ん坊の泣く声が聞こえて来たが、上を振り仰いで開いている窓を見ても、どこから聞こえるのかは分からなかった。建て増しに建て増しを重ねたと思しき建物群は、せいぜいが三階建てではあるが裏ではどう繋がっているのか判然としないのに違いない。

「行くぜ」

 ラモンはディエゴの顔を確かめると、おやじの消えた扉をコンコン、と軽く叩いた。

 すぐに扉は開き、そこに見えた顔を見るなり、ラモンはともかく、ディエゴもそこにへたり込みそうになった。

子昂シゴウさん!」

 そう、ディエゴは言いかけたが、まだ言い終わらないうちに彼は子昂に腕を掴まれ、家の中へ引っ張り込まれていた。ラモンの方は、黙ったままディエゴの背中を押して自分も素早く中へ入っていた。

 中へ入ると、そこは土間になっていて奥の中庭まで土間が続いている。その建物の建築様式は間違いなくハウヤ帝国のものだ。廊下のようになった土間の左右には、これは螺旋帝国風に引き戸に変えられたいくつかの部屋があるようだった。庶民の家で店舗でもないから、窓に張られているのはガラスではなく薄い獣の皮だ。

「あの……」

 ディエゴは子昂に何か言いかけたが、子昂は平板で無表情な顔のまま、黙ってディエゴの腕を掴んで奥へと進んで行く。ここで挨拶なんぞする手間を惜しむかのように。または、お前たち相手に丁寧な挨拶なんぞしている時間がもったいない、とでも言うように。

 中庭へ出ると、この建物と言うか、この長屋形式の「建物群」の様相が見えて来た。

 普通なら中庭の周りはバルコニーのような巻き廊下になっていて、廊下側に階段がある。中庭を通り過ぎれば、裏口に届くような作りのはずだ。

 だが、この家の中庭には、左右へも土間の廊下が続いており、隣家へも渡り廊下のようになった部分から自由に行き来できるようになっていた。二階三階の巻き廊下からも橋を渡すように左右の家に廊下が繋がっており、上の階へも中庭の階段だけでなく、裏にある梯子と階段の中間のような危なげな代物で行き来できるようになっていた。

「どうぞ」

 子昂がやっとディエゴとラモンに向かって言葉を発したのは、そのような入り組んだ階段や渡り廊下などをいくつも通過し、真下に運河の見える建物に到達してからのことだった。

 三人が建物に入ってからも階段を上り下りして、やっとディエゴとラモンの前で開けた扉の内側には、精緻な彫刻でアストロナータ神が天地を創造している場面が描かれていた。

 そう、そこはあの運河沿いの桔梗星団派のアジトだった。そして、その部屋こそは、彼らの党首であるチェマリの紺色の髪の色をイメージさせる、あの、紺色の部屋なのであった。

 もっとも、ディエゴもラモンも、そんなことは知りもしない。

 壁紙も家具も、絨毯も。そのすべてが紺色と青みがかった金色で彩られた部屋。

 窓のないその部屋には、午前も午後もなかった。

 昼間からランプの必要なその部屋の中では、二人の人物がディエゴとラモンを待ち構えていた。

「あーら。やっと来たのね。口では偉そうなこと言って、『私たちにお任せください』とか言ってたくせに、本番となったら……怖気付いて何も出来なかった、口先だけの賢者サビオさんたち!」

「オドザヤのあの美しい顔や体に、かすり傷一つ負わせることが出来なかった、その一番の功労者さんだよねぇ」

「最初は私たちと志を同じくしていた、あの哀れなザイオンのトリスタン王子は、もう、あのザイオン外交官官邸の仮面舞踏会以来、あの女大公と女皇帝に引っこ抜かれて連絡も取れなくなっちゃったのよ」

「そうそう。それに何しろ、今度のパレードでの襲撃で唯一、怪我をしたのがそのトリスタン王子らしいんだよ。なのに、ザイオンの外交官も、怖気づいてつなぎの役目も出来ない体たらくでね!」

 子昂は静かに自分たち三人の後ろで扉を閉めた。

 呆然と立ちすくむディエゴとラモンに、挨拶もなしにそんな言葉を浴びせかけて来たのは、奥の暖炉を背にして紺色のソファに座っている、真っ白な髪に青ざめた顔の若い女と、その隣のソファに、いくつものクッションで体を支えて座っている、銀色の髪に、銀色の瞳のかわいらしい子供だった。

 子供は、四歳くらいに見えるが、その口から出てきたと覚しい言葉は、成人した男の声音なのだから、ディエゴとラモンはびっくりというよりも気味の悪いものを見る目で子供を見ていた。

 ディエゴもラモンも、この二人、もちろんそれは桔梗星団派のニエベスとその息子のアルットゥだった……に会うのは初めてだったようだ。

「パレードでの襲撃に失敗したのは、まあ、半分はあなたたちのせいだわよね」

「半分くらいは、まともに働けるのかと思いきや、賢者さんたちグルポ・サビオス全員が逃げちゃうとはねえ」

「まったく、出来るのは埒もない酒飲み話の議論だけで、実行力は皆無、ってわけなんだねえ」

 ディエゴたちをここまで連れてきた子昂は黙ったまま、静かに部屋の扉を閉め、それからゆっくり歩いてアルットゥの座る上座のソファから九十度の角度で置かれている、三人掛けのソファに一人で座ってしまった。

 彼は口こそ開かなかったが、その様子は、思いはニエベスやアルットゥと同じである、と沈黙をもって示しているように見えた。

 ディエゴとラモンの二人には、座れという言葉さえかけられなかったので、二人は並んで入り口の扉の前に突っ立ったままでいるしかなかった。

 そして、ディエゴもラモンは、ここまで言われても何も言い返せなかった。二人とも、悔しそうに……特にラモンはこの若い女と子供をすごい目で睨みつけていた。もしかしたら、ラモンの方は何もしなかったわけではないのかもしれない。

 だが、ほぼすべての「賢者の群グルポ・サビオス」たちが何もせずに直前になって逃げ出し、持たされた火薬を使った手投げ弾も逃げながら道端や店舗の中に放り込んで、自分たちの安全を図ったのは厳然たる事実だった。

 そうだ。

 彼らは、子昂の仲間である、彼ら桔梗星団派にパレードでの襲撃計画に誘われた。

 その理由は、このハウヤ帝国の既存の貴族優位社会を変えるには、皇帝であるオドザヤをがつんと痛い目に合わせなければ、皇帝の権威を失墜させねばダメだ、と説得されたからだった。

 その時、子昂は周到にも、

「あなた方には火薬を使った、この投擲弾を使ってもらいます。……何、中身は小さな花火と同じです。馬車に当たったからと言って中の人間に危害を及ぼすようなものではありません。火をつけたらすぐに馬車に向かって投げて、そのままお逃げなさい。ぐずぐずしていたら治安維持部隊の連中に見つかりますから、投げたらすぐに後ろへ走るのです。……走り出したらもう、振り返ってあなた方のしたことの結果を確かめようなんてしちゃあ、いけませんよ」

 と、言い聞かせるように言っていたっけ。

 実は、子昂の側では彼ら「賢者の群グルポ・サビオス」の素人連中は、必ず後ろを振り返り、またはその場で自分のしたことの効果を確認しようとしてその場から脱出できず、治安維持部隊に見つかって捕まるだろう、と期待していたのだ。

 つまりは、子昂たちにとって、「賢者の群グルポ・サビオス」の連中は最初っから皇帝側へ用意した、「見せかけの実行犯」だった。なのに。なのにだ。

 まさか、実行さえ出来ずに逃げ出すとは、さすがの子昂も思っていなかった。子昂は「賢者の群グルポ・サビオス」の中から、工作員として使えそうなのを選ぶ目的もあって、今度の襲撃に彼らを加えたというのに! それも、彼らには怖気付かないよう、「中身は小さな普通の花火のようなもの」と周到に伝えたのにもかかわらず、だ。

 だが、今度のことで、それほどにこいつらは口先だけの集団で、実のところは何にも自分たちの手を汚すことなど出来ない素人以下の集団であることは確実に分かった。豊かな商家の息子たち。口では国の政策への不満、税制への不満などを声高にぶち上げているが、所詮はそれだけ。

 彼らの議論とて、不満をぶち上げるだけで、その解決策を具体的に考察できる者など一人もいなかった。

 今度のことで、彼らはいざとなっても体が動かない、怯懦な奴らなのだ、と子昂ははっきり知ることが出来た。そして、即座にディエゴたち「賢者の群グルポ・サビオス」の使い方を修正したのだった。

 修正した上で、今日ここへ呼び出したのにはもちろん、彼らの使い方を変更した上で、彼らには次の滑稽な踊りを踊ってもらうためだった。

 だが。

「……待てよ。全員じゃないぜ。賢者の群グルポ・サビオス全員が何もせずに逃げ出したわけじゃない」

 何一つ言い返せないだろう、と子昂たち三人が思っていたにも関わらず、ここでラモンがこう言ったから、子昂たちはやや怪訝そうな顔になった。

「俺はやったよ。あんたらが『小さな花火みたいなもの』って言ってたあれを、最後に馬車の中に投げ入れたのは、俺だ!」

「えっ」

 このラモンの言葉には、子昂もニエべスも、そしてアルットゥも、一緒に来たディエゴさえやや驚いたようだった。

「今日、俺がこのディエゴと一緒に来たのは、護衛がわりもあるがこのことを言いたかったからなんだ。……何が、小さな花火だ。……俺は投げた後、馬車の防御壁の隙間から血しぶきが飛び散るのも、しっかりとこの目で見たぜ。……子昂さん、あんた『馬車に当たったからと言って中の人間に危害を及ぼすようなものではありません』って言ってたよな?」

 子昂は黙っている。

 今や、ランプの光の中で、殺気さえ漂わせているように見えるラモンの顔を見て、ディエゴは一歩後ずさった。

「このハウヤ帝国の既存の貴族優位社会を変えるには、皇帝をがつんと痛い目に合わせるのが必要だ、って言ってたな。だから俺たちはあの女皇帝を驚かせるだけだと思ってた。それでも、目出度い婚礼のパレードに、花火みたいなのでも投げちまったら捕まる、ってんで俺以外の奴らは逃げちまったんだ。それがどうだい、さっきの話じゃ、花婿のザイオンの王子が怪我をしたんだろ? 何が花火だ。あの、バルコニーでの皇帝夫妻のお披露目に花火を打ち上げたのとは大違いだったじゃないか」

 子昂は、なおも口を開こうとはしない。その様子を見てか、ニエベスとアルットゥも黙って二人の様子を見守っている。

「あんたらは、十字弓を持ち込ませた奴らも、俺たち以外に手投げ弾を投げる要員も手配してた。俺が見てたところじゃ、あいつらは逃げずにちゃんとやったようだ。……もっとも、治安維持部隊がかなりの数、沿道の市民に紛れてたみたいで、実行するなり取り押さえられていたけどな。実のところ、俺が逃げだせたのは、ただの僥倖だったわけだ」

「ふうん、そこまで見ていたし、君はちゃんとやったんだね。それも、君のいうことを信じれば、最後の手投げ弾を投げたのが君だというなら、トリスタン王子に怪我を負わせたのは君だ、ということになるね」

 ラモンの言葉に答えたのは、意外なことに子供のアルットゥだった。

 もっとも、ディエゴたちは知らないが、アルットゥの「中身」がその父親である、アルトゥール・スライゴ元侯爵だったとすれば、この場で彼が子昂よりも上座にいるのも、こうした言葉を口にするのも当然と言えた。

「俺は嘘なんかついてない」

 ラモンは言葉短かに、それだけ言った。

「で? 君が怒っているのは、君たちが皇帝だのトリスタン王子だのに怪我を負わせたり、下手したら殺していたかもしれないような危険な武器を、ただの花火だと説明されて持たされて、危なく皇帝暗殺の犯人になるところだった、というところなのかな?」

 アルットゥの言葉にも無駄なところはなかった。

 ラモンはしばらく考えていたが、言葉を選びながら、ゆっくりとアルットゥの言葉に答えた。

「いいや、違うよ。今度のことで、俺は確信したってだけのことさ。あんた達、桔梗星団派のやりたいこと、目的の一部みたいなのを。……これから俺が話すことは、『賢者の群グルポ・サビオス』の集会でも話したことはない。だが、俺はもう皇帝襲撃をやっちまった一人だからな。あんた達には話してもいいだろう」

「おい、ラモン……」

 いきなり何を言い出すのかと、ディエゴは二人突っ立ったままのラモンの腕を取って自分の方を向かせようとしたが、ラモンは今や、正面の子供の姿でありながら成人した男の声で喋るアルットゥの方しか見てはいなかった。

「あんた達は、最終的には子昂さんの国で起こったみたいな革命、とやらをこの国でもやりたいんじゃないか? そうだろう。なんで外国人のあんた達が、ってのは、ハウヤ帝国をぶっ潰して自分たちのものにしたいのかな? まさか、なんの見返りもなく俺たちの活動のために手を貸してくれるなんて、俺は最初っから思っていなかったよ。きっとあんたらには別の目的があるんだよな」

 ラモンの言葉は静かで、落ち着いていた。もう、言うべきことは頭の中で組み立て終わった、と言う顔だった。

「前に、子昂さんが初めてディエゴの家の集会へ来た時、ディエゴ、お前言ってたな。『螺旋帝国での新革命が短時間で成功に至ったのは、新しい革命理論が使われたからで、それはこのハウヤ帝国の肥え太った貴族どもをやっつける場合にも有効だ』と。それをこの子昂さんから聞いたんだと!」

 それは間違いなく本当だったので、ディエゴはこくこくとうなずいた。

「俺は考えたんだ。このハウヤ帝国で、螺旋帝国でみたいな革命が起こせるものか、とな。今度の螺旋帝国の革命は、それまでの王朝交代の場合の、皇帝の失政によって地方の有力者の武力集団が国土のあっちこっちで立ち上がって、その中の頭領を次の皇帝に押し上げた過去の革命とは違って、民衆の力で一気に一人の新皇帝候補が担ぎ上げられて、その人数と勢いがあまりに多かったんで、大した戦闘なんかもないまま、短時間で王朝が入れ替わった、って聞いている。でもこれって、王朝が入れ替わっただけで、政治体制は変わってないんだよな。王朝が『冬』から『青』になっただけで」

 この、ラモンの言葉には大変な重みがあった。

 と言うか、子昂もニエベスやアルットゥも、「賢者の群グルポ・サビオス」ごときのメンバーに、ここまで物事の見えている人間が入っているとは、今まで思ってもいなかったのだ。ラモンは先ほど言っていたが、彼は彼らの集会でもこれまでは自論を展開するようなことはしてこなかったのだろう。ディエゴは真っ白な顔になって、ただただ、ラモンの浅黒い顔を見ているだけだった。

「俺が、このディエゴの作った『賢者の群グルポ・サビオス』に加わったのは、こいつの言ってることが、俺たち商人の不満を代弁していたからだ。入ってすぐは、俺はこのハウヤ帝国をどうこうしようというところまでは考えてもいなかった。だけど今度、実際に皇帝に武器を向けて、殺したかもしれない経験をして、急にわかったんだよ」

 何が?

 子昂たちはもう、その答えの半分くらいが分かっていた。だが、口は挟まなかった。

「俺は今のところ、あんたらの目的には興味がない。これははっきり言っておく。俺たちが袂を分かつのは今じゃない。だから、これから俺が話すことを聞いても、子昂さん、この家の奥かなんかから怖い人たちを呼ばないで欲しいね」

 ラモンには、ここまで話したこと、これから話すことで自分たちがこの家で始末されかねないことも分かってるようだった。

「俺たちはこの国の次の皇帝になりたいわけじゃないんだ。俺たちは商人だ。俺たちが排除したいのは働きもせずに優雅な生活を享受している貴族達だ。でも、俺たちは貴族になりたいんでもない」

 ラモンのこの言葉はとても分かりやすかったので、ディエゴも「その通りだ」とばかりに力強くうなずいた。

「俺たちが目指すのは、俺たちみたいな普通の市民が政治に参加することが出来るような国なんだ。自分たちの税金の話を自分たちで議論して決められるような社会なんだ。それには、最終的には皇帝や貴族どもを排除することになるかもしれない。いや、奴らの利権を、ええと、封建制度とか言うらしいな、貴族どもが皇帝から領地を安堵されて、そこから実入りを得る代わりに国防の助けとなる、って制度だ。螺旋帝国じゃ、まだこれも残ってはいるけれど、地方に中央から官吏を送り込んで監視をさせている、って聞いた。この封建制度とか言うのをぶち壊したら、少なくともこのハウヤ帝国じゃ、皇帝や貴族どもはいなくなるわけなんだろ?」

 ここで初めて、子昂が言葉を発した。子昂にとっては、今、ラモンが言ったことは彼の師だった、あの頼 國仁先生からとうの昔に教えられていたことだったからだ。もっとも、桔梗星団派の一員であり、チェマリに心酔する子昂はその考えに諸手を挙げて賛成する程、単純にはなれなかったのだが。

「……ええ。その通りです。ラモンさん、あなたはそこまでは我々は共闘できる、とお考えなのですね?」

 今日、ここへディエゴとラモンが呼び出されて来たのは、パレードでの失態を責められ、弱腰を叩き直されるためだったのだが、もはや話は様相を完全に異にしていた。

「ああ。その通りだよ。上手く話せたみたいで安心した。……あんた達も、俺たちには、まあ、逃げちまったやつらも含めて、皇帝襲撃の計画はあんたら桔梗星団派の仕業だ、ってことはもうばれちまってる。あんた達は俺たちが治安維持部隊に捕まるだろうと計算してたみたいだけど、そうはならなかったからな。俺たちにとっちゃ、怪我の功名だったのかもな。だからこそさ。今、潰し合うのはやめて、共闘できるところまでは共闘した方がいいんじゃないか、って、俺は思うのさ。ま、最後は潰し合いになるかも知れないけど、その頃にはお互い、今の組織の規模とは違っているだろうからな」

 ここまで言うと、ラモンの言葉には凄みがあった。ラモンは、皇帝や貴族階級を倒す頃には、自分たちの組織はもっと巨大になっているはずだ、と言っているのだ。外国人である子昂たちと違って、彼らはこの国の国民だ。味方にできる人数の分母が違うのだった。

「分かりました」

 子昂は、ちらっとアルットゥの方を見てから、そう答えた。ニエベスはラモンが話し始めてから、完全に蚊帳の外に置かれたままだが、彼女は毒気を抜かれたのか、話についていけなかったのか、黙りこくったままだ。

「ラモンさん、改めて、お名前をおうかがいしておきましょう」

 そう付け足したのは、アルットゥだった。彼の銀色の目は何も知らない幼児のように無邪気に澄み渡っている。

「ラモン・フリアン・テルミドールだよ。テルミドール商店のロン酒は、あんたたちも一回くらいは飲んだことがあるだろう」

 そう言うと、ラモンはそのまま、彼ら二人の真後ろの扉を開けにかかっていた。

「帰り道は、行きとは違うんだろう? 子昂さん、ちゃんと案内してくださいよ」

 

 子昂がディエゴとラモンを送って出て行き、戻って来た時もまだ、ニエベスとアルットゥは紺色の部屋で同じソファに座っていた。違っていたのは、二人の前のテーブルに高級な蒸留酒のグラスが置かれていたことだけだ。同じ蒸留酒でも、彼らの前にあるのは砂糖黍から作られた安価なロン酒ではない。

「……ちょっとあの、ラモン・テルミドールには驚かされましたね」

 子昂は自分も、夏の今は用無しの暖炉の上からグラスを持って来て、蒸留酒をそこへ注ぎ入れながら言う。

「誰に知恵をつけられたのかな。ディエゴ・リベラの方は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたから、奴とは違う方向から学んだんだろう」

 子昂はちょっと考える顔になった。

「あの男の耳、ご覧になりましたか」

 アルットゥは気がつかなかったらしい、首を振る彼へ、子昂はぼそぼそと説明する。

「あれは、組み合ったり殴ったりする武道を長年、やって来た奴らの耳ですよ。膨らんでいたでしょう? 私はそっち方面の師匠筋かなんかが怪しいと思いましたね」

「武道の師匠が、革命理論だの政治理論だのを語るのか?」

 これにはまだ答えなどありはしなかったので、子昂は何も答えなかった。アルットゥの方も答えを期待していたわけではないようだ。

「それでえ? あの『賢者の群グルポ・サビオス』どもと、本当に共闘するの?」

 やっと口が挟めた、と言わんばかりにぐいっと蒸留酒のグラスを傾けてからこう聞いたのは、ニエベスだ。

「最終的に、あいつらにはただの時代の生贄になってもらいます。これは今までの計画と同じですよ。最初の生贄要員候補なのも変わりません」

「あ、そう」

 ニエベスはもう、それでディエゴやラモンへの興味は失ったようだった。

「それよりー、もう桔梗星団派って名前も公表されちゃったし、チェマリのお墓は空っぽだってばれちゃったし、大罪人で皇統譜からも名前を消されちゃったみたいだし。きっとチェマリは大喜びだろうけど、ハーマポスタールに残っている私たちには動きにくくなったわよねえ」

「そうだね。でも、これは予想のうちだった事態でしかないよ。……子昂、天磊の様子は? まあ、代わりに北のマトゥランダ島の生み出す殺し屋のマトゥサレンが到着したから、もうあの皇子の成れの果ては、いなくても大した損害じゃないけどね」

 アルットゥが聞くと、子昂の方もどうでもいいことのように答えた。

「意識は戻りましたが、半身が動かないそうです。それでも、殺しの本能はそのままなので、何としても回復してみせると息巻いてますよ。……姉の星辰の方は、マトゥサレンが気に入って、いい玩具になってます。毎晩、首を絞められながら朝まで犯られるそうで、逃げられるものなら逃げたいでしょうが、弟があれでは動けますまい。こう考えれば、天磊の存在意義もまだ残っておりますよ」

 子昂はもう、天磊や星辰を皇子とも皇女とも呼ばない。

「それは良かった」

 アルットゥの方も、天磊たちへ期待するところなどもうないらしかった。

「さて。次の手はどちらへ向けようかな。……今少し、トリスタン王子を利用して揺さぶりをかけたかったが、王子は皇宮に完全に取り込まれてしまった。オドザヤがまさか一晩にしてああ変わるとは思わなかったからな。まあ、その点ではさっきのラモンとやらは使えるかもしれないね。子昂、まずはラモンの武術の師匠あたりに手を伸ばしてみたらいいんじゃないかな。せっかくの共闘のお約束だ。裏を取っておく必要があるよ」

「承知しました」

 子昂はそう言ったが、ふと思いついたようにこう付け足した。

「螺旋帝国の外交官二人はもちろんですが、ベアトリアのモンテサント伯爵へも、なんとか皇宮のマグダレーナに働きかけられないか、聞いてみたほうがいいですね」

「オドザヤが怪我してくれれば、マグダレーナとフロレンティーノ皇子には使い道があったのにねえ」

 ニエベスの声は残念そうだ。

「去年、オドザヤのオルキデア離宮の醜聞を広められなかったのは、痛恨の極みでしたね。大公が自分の体を張って女皇帝の所業に世間の目を寄せ付けなかった。そして、女皇帝もおそらくは大公に注意されて、オルキデア離宮での危ない所業を短期間で終わらせてしまった。……ですが、逆にあれはあそこまでして隠さねばならぬ程に、一時期とはいえオドザヤにはかなり危ない行動があったということでもあります。……私はあれはまだ追求する価値があるように思えてならないのですよ」

 子昂はそう言うと、最後にこう付け足したのだった。

「親衛隊長のモンドラゴン子爵、やつは今も間違いなく女皇帝の愛人ですが、その他にもあの女と関係した男がいたはずです。そいつを動かせれば、そこから綻びを広げることも可能なはずなのです」

 と。   








 カイエンがトリスタンのことで、オドザヤに皇宮へ呼ばれることは、七月の初旬になるまで一度もなかった。

 パレードでの事件後すぐ、もしオドザヤから「助けて」と言われても、カイエンはすぐには動けなかっただろうが、それがないということは、父のシリルが頑張って息子の心身の世話をしてくれているのだろう、ありがたい、とカイエンは心の片隅で思っていた。

 それが、一度、どんな時間でもいいから来て欲しい、という知らせが届いたのは、もう結婚式のパレードでの事件で捕まえた容疑者たちからの聞き取りも済み、大公宮もやや落ち着いて来た頃だった。

 捕まえられた十字弓や手投げ弾を投擲した実行犯は、ほとんどすべてが金で雇われたごろつきだった。それも、イリヤが大公軍団軍団長と兼任している「傭兵ギルド」を通さず雇われていた。

 街のやくざの一員でも、犯罪集団マラスの主要メンバーでもない、経済的に困窮している一匹狼の小悪党ばかりを狙って集めていた。また、口コミで「ちょっと危ない仕事だが、捕まっても島送りがせいぜいだ。島送りになっても、監獄島の事件のように逃亡は可能だ」とも流されていたらしい。

 本当なら、ザイオン王子のトリスタンが大怪我をしているのだ、島流しくらいでは済まないのだが、窮すれば鈍するで、金のない小悪党が結構釣れたようだった。

 彼らの雇い主については、予想はしていたことだがはっきりしなかった。桔梗星団派では日雇いの労働者を集めるように、日にちと場所だけを提示し、そこで武器を一人一人に渡したらしい。十字弓の方は分解して持ち込み、組み立ててから使わなければならないので、そちらは桔梗星団派の連中が担当していたらしく、集められた男達は、

「この場所へ行くと、こういう格好の男がいる。その男にこの部品を渡せ」

 と運び屋の役をさせられていたのだった。

 それも、十字弓での犯行が終わるまで、その実行犯のそばに待機するように言われていたものだから、実際に十字弓を使用した連中はほとんどが証拠となる十字弓を運び屋に持たせ、逃亡に成功していたのだった。

「あー、あー。もう、裏社会の親分達にはちゃーんと釘刺しておいたのになー。この頃、やくざには属さない、若い凶悪犯の集まりの犯罪集団マラスが横行しちゃってるからねー。もう、あいつら一斉に捕まえるか、余罪積み重ねて絞首刑にしちまうしかないかもねぇ! そうすれば流しの小悪党なんざ、びびって逃げ出すのにぃ」

 と、イリヤなどは過激な対応で「街をきれいに」しちまいたくてしょうがないらしかった。

 そんな中、カイエンのところへ届いたオドザヤからの書状には、是非、エルネストも一緒に連れて来て欲しい、と書かれていた。だから、カイエンは嫌々ながら、エルネストと同じ馬車に同乗して皇宮へ向かうしかなかったのだった。


 去年のあのザイオン外交官官邸での仮面舞踏会の帰り、馬車の中でうとうとしてしまったカイエンは、いつの間にやらエルネストの膝の上に抱きかかえられていたことがある。それ以上の行為をされたわけではないが、シイナドラドでの惨めで恐ろしかった記憶が蘇り、カイエンは馬車を出るなりヴァイロンに抱きついてしまった。

 あれ以来、カイエンはエルネストと一緒に行動する時は前よりももっと用心深くなっていた。

 カイエンとても、アルフォンシーナを大公宮へ迎える時には、もし彼女がエルネストを好きなら、寄り添ってやってくれないだろうか、と考えるほどにはエルネストのこのハウヤ帝国での境遇に同情……と言うか、理解は持っていた。

 大公のお飾りの夫、仕事もなく、ただ無為に過ごす毎日。それはカイエンがシイナドラドでエルネストにされたこととは違った意味で、残酷なことだった。

 シイナドラドでエルネストが自分にした無残な所業。

 カイエンはあれを赦すことは出来そうになかったし、男として夫として彼を見ることなどはとても出来なかった。だが、このハーマポスタールでのエルネストの無為な生活がどんなものか、想像できないほど、カイエンは人の心に無頓着ではなかった。

 もうすぐ六月、というオドザヤとトリスタンの結婚式の前、エルネストはイリヤとカイエンの「朝帰り」に出くわしてしまった。そしてそこでのイリヤとの口争いから腕試しをすることになり、エルネストが負けた。

 それ以降、エルネストはフィエロアルマや帝都防衛部隊の訓練に参加して体を動かすようになっていた。

 やらねばならないことが出来て、暇を持て余していた頃よりも、エルネストの顔つきは明るくなった。パレードでの警備に駆り出された時も、嬉々として請け負ったくらいだから、彼の中でも気持ちの持ちようは確実に変わっていたのだろう。

 それでも、カイエンがエルネストと閉鎖空間で二人きり、と言うのは、実に久しぶりのことで、カイエンはやっぱり緊張せざるを得なかった。

 ヴァイロンの優しさはもちろん、イリヤとの関係が始まり、進むにつれて、カイエンはやはりいきなりカイエンの意思を無視して自分の欲望を叩きつけてきたエルネストから受けた「恐怖」をより強く意識せざるを得なかったのだ。

 イリヤは本質的には、残酷で酷薄、自分のしたいことが一番大切、という面ではどんなやくざや悪党よりも始末が悪い性格だ。実際に罪人を拷問をするときも、彼にはなんの良心の呵責も後ろめたさもない。明らかに楽しんでやっていることが周りの人間には丸分かりに分かるほどに。それだからこそ彼は「恐怖の伊達男」なのだから。

 イリヤがそうでなかったら、大公軍団という組織は今や立ちいかないのかもしれないのだ。

 だが、そんなイリヤでも「心に秘めてきた愛すべきもの」、つまりはカイエンへの行動は慎重で慎ましいと言ってもよかった。二人が本当の男女の関係になるまでには、かなり時間がかけられたし、イリヤはカイエンが嫌がることはすぐにやめたし、二度としなかった。そういう意味で、カイエンは中身は毒が詰まっていると知っていても、イリヤには心も体も許したのだ。

 エルネストの方も、そんなカイエンの気持ちが分からないはずもないから、彼は向き合った馬車の中の座席に座る時、カイエンとは向かい合った席に、それも対角線上に座った。

「おい」

 それでも、カイエンはエルネストに話しかけられると、ちょっとびっくりした顔をした。あの惨めな「結婚契約式」以来、他に人がいる場所では、エルネストも普通にカイエンに話しかけていたが、二人だけの時はお互いにだんまりが普通だったからだ。

「なんだ?」

 カイエンはその日も大公軍団の制服姿で、皇宮へ上がるので髪の方はきれいに後ろ頭のやや上の方でまとめていた。もうその日は七月に入っていて暑かったので、いつもは左頬の傷を隠すように垂らしている前髪も、編み込みにして一緒に束ねていたから、年齢よりもかなり落ち着いた感じに見えた。

「聞いてねえのか。なんで、今日は俺も皇宮へ連れて行かれるんだ? あの踊り子王子がとうとう暴れ出して収拾がつかないとでも言ってきたのかよ」

 そう言うエルネストの方は、今日はハウヤ帝国風のシャツとズボンの上に、シイナドラド風の直線的な裁断の、涼しげなシャリ感のある袖の広い麻の膝下まである長い上着を重ねていた。色は彼の好みで黒から薄い灰色のモノトーンだったが、上着が紗で半透明だったので、涼しげでかなり洒落た装いに見えた。

「陛下からの書状には、詳しく書いてなかった。……でも、お前もということは、ちょっとシリルさんだけでは納めきれないのかもしれないな」

 エルネストはちょっと窓の外を見て、もう皇宮の威容が見えてきたのを確認していた。

「……これは本当に想像だが、私は右足が満足に動かないし、お前は右目がない。そういう人間じゃないと、トリスタンも納得しないだろうと、陛下は判断されたのかもしれないな。と言っても、私も多忙だったから、あの事件以降、陛下がトリスタンとどう関わったのか、もう面会したのか、話くらいはしてるのか、その辺りも分からんのだ」

 カイエンのこの言葉を聞くと、エルネストはちょっと苛立たしげな顔になった。

「まったく! 姉妹揃って不器用だな! あんたはともかく、皇帝陛下の方は人の親になったせいか、随分とさばけて肝の太い女になったと思ってたが、それでも困り果てれば『お姉様』頼りかよ」

 そう言うと、エルネストはせっかく出てくる前に侍従のヘルマンがくしけずってくれた真っ黒な髪の毛を、ぐしゃりとかき回した。

「まあいいさ。あのきらきらした王子様、一回はぎたぎたにやっつけてやろうと思ってたからな」

「ええ!?」

 カイエンはもう一昨年の十二月三十一日のことになる、新年会とトリスタン歓迎の舞踏会が行われた日、なかなか自分に踊りを申し込んで来ないトリスタンに動揺して化粧直しに立ったオドザヤを追いかけて出たことを思い出した。

 人気のない皇宮の廊下で、そんなカイエンを追いかけてきたトリスタンに、彼女は意味もわからず唇を奪われたのだ。

 それをこれまたカイエンとトリスタンの後ろから追ってきたエルネストが見るなり、同じことを男同士でトリスタンにお見舞いしたのだった。

 その時、エルネストがカイエンに聞こえないところで呟いたのが、今の「ぎたぎたにやっつけてやる」だったのだ。

 エルネスト自身は、もう指先でさえ触れることさえ出来ないカイエンの唇をいとも簡単に奪って見せたトリスタンへの、それは彼自身にしか理解もできず、正当性もありはしない言葉だったのだが。

「心配すんな。怪我人相手だってのはよおくわかってるぜ。最終的にはあんたの知り合いの装具師に義足を誂えさせて、あんたみたいに杖を使わなくとも普通に歩けて、皇配殿下らしく陛下と舞踏会で踊れるくらいにまで訓練させりゃあ、大成功、なんだろ?」

 それはその通りだったので、カイエンはうなずいた。

「だが、素直にそこまで応じてくれるかどうか……」

 トリスタン自身にとっても、カイエンの考える通りに訓練した方がいいに違いないのだ。だが、人間というものはそんなに単純ではない。

「どうせもう、皇宮の虜囚となったに等しいと諦めて、寝たきりの生活でも選ばれたら、周りで何を言っても無駄になるからな」

 まあ、そうなったらなったで、見張りやすくていいのかもしれない。それでも、カイエンとしてはザイオンへの慮りとは別の場所で「それは上手くない」と思えてしょうがなかった。

「ま、あんたや陛下の考えは俺もわかるぜ。皇帝陛下を庇って負傷した皇配殿下が、元どおりにお元気なご様子で復活した、ってなりゃあ、ザイオンも文句の言いようがないし、世間も安心すらあなあ」

 この言葉にはもう、カイエンは答えず、そのまま馬車は皇宮の中へ入って行ったのだった。


「お姉様!」

 皇宮の馬車泊まりから、裏玄関を通過し、広いホールに案内されて行くと、そこにはオドザヤとサヴォナローラ、それにコンスタンサの三人が待っていた。

 そして、カイエンを出迎えたオドザヤと、その横と後ろに立っている宰相サヴォナローラと、女官長コンスタンサの表情は、なんとも複雑なものだった。

「一体、どうしたのです?」

 そして、カイエンとエルネストに伝えられた、トリスタンの様子もまた、カイエンたちの予想の斜め上を行くものであった。

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