家出を図る貴公子

 それは、アメリコの船、「デメトラ号」に、バンデラス公爵家の長男、フランセスク・バンデラスが現れ、身分を隠したまま、

「乗組員募集の張り紙を見た。紹介状はないが、採用試験を受けたい」

 と、ちょうど船を降りてきたアメリコに話しかけた日と同じ日だった。もう六月も終わりまであと二日、三日、という日のことである。


「え? じゃあ、事件の翌日にジェネロがお前に言ったことが、マリオやカバジェーロ署長なんかが、あれから隊員たちに聞き取った目撃証言その他とぴったり合ったって言うのか?」

 カイエンはその日、朝からずっと大公宮の表の自分の執務室にいた。あの皇帝夫妻暗殺未遂事件からずっと、カイエンは他の大公軍団の団員たちと同じく、多忙を極めていたのだ。この日はずっと上がって来た書類に目を通していて、午後も真ん中ごろになって、やっと終わりが見えて来たところだった。

 今日のような書類の決済も通常の量をはるかに超えていたし、皇宮と大公宮を下手をすれば一日に何度も行き来してあれやこれやの事態に対応し、アルウィンの墓暴きなども行った。

 墓暴き以降も、被害者のトリスタン王子の容体を聞いたり、オドザヤやサヴォナローラ、それに宰相府のマルコス・イスキエルド国立大学院教授以下の諮問機関の先生方を集め、非常事態宣言を継続するのか否かについて論議したりもしていた。こっちの方は、まだしばらく様子を見た方がいいという方向が全員一致で決まっていた。

 ハウヤ帝国の国境を守る、東のクリストラ公爵、北のフランコ公爵、それに南のバンデラス公爵へは早馬で今度の事態が毎日、伝えられており、彼らからは「一層の警戒を続ける」という返信が届いていた。

 南のバンデラス公爵へは、その上に、アメリコやその後にデメトラ号の船長らから聞き取ったデメトラ号の事件の詳細が伝えられ、モンテネグロで起きた、ラ・パルマ号の事件との照合を依頼していた。

 ラ・パルマ号は無人の血まみれ状態でモンテネグロの港へ入って来たのだが、バンデラス公爵は事件のあまりの異様さ、残虐さを鑑み、まだ船を港の隅に繋留したまま保存しているはずだった。

 振り返れば、一週間程度の日にちなのだが、その間、皇宮と大公宮の関係者たちは寝る時間も惜しんで動き回っていただろう。

 今、カイエンの執務室に来て、新しい情報を直接、彼女に伝えているのは、帝都防衛部隊長のヴァイロンだった。

 彼は話が長くなることを予想していたし、長身の彼が突っ立ったまま執務机の向こうに座ったカイエンに話し続けると、カイエンはずっと頭を上向けていなければならないことも考え、最初から執務机の前の肘掛け椅子に座っていた。

 カイエンの背後には護衛騎士のシーヴがいたが、これもカイエンが朝からずっとここで仕事をしていたので、こう言う場合の彼の仕事……それは秘書にかなり近い仕事だった……に専念していた。

 彼は静かに部屋の奥の方の扉を開けると、控えの間に常駐している侍従に、お茶の準備を命じてから戻って来た。

「はい。ジェネロは事件当日のうちにこちらへ伝えたかったそうです。ですが、こっちはここの表の地下留置場へ逮捕した連中を放り込んで尋問していたり、皇宮へ上がっていたり、街中で対応していたりで幹部が誰も捕まらなかったそうで、それで翌日になって私が彼と一緒に現場へ検証に赴きました」

 カイエンはあの日、ヴァイロンがジェネロと現場検証に行っていたことは勿論、覚えていた。だから、ヴァイロンはアメリコの話の途中にやっと大公宮へ戻って来たのだ。

「ジェネロには申し訳なかったが、あの日当日ではどうにもならなかったな。それで、ジェネロは何に気が付いたんだって?」

 カイエンはジェネロがわざわざ、現場の金座の大通りでヴァイロンに告げた話の方はまだ聞いていなかった。ヴァイロンは先に、あの日、ジェネロが気付いたことの裏付けを取ったところ、ぴったり合ったことをカイエンに話したのだ。ジェネロの言ったことだから、ヴァイロンはほぼ間違い無いと考えていたが、カイエンへの報告は裏を取ってからでいいと判断したのだろう。

「順にお話ししますと、ジェネロがあの事件の後、周囲を見回して気が付いたことが二点、あったそうなのです」

 ヴァイロンが話し始めると、今は護衛ではなくカイエンの秘書役のシーヴが、執務室の奥扉で侍従から茶菓の載った大きな四角い銀盆を受け取って戻って来た。

 そして、シーヴは銀盆の上の砂時計が落ちきるとすぐに、布の被せられたポットから三つのカップに熱い紅茶を注ぎ始める。本来ならここで茶が飲めるのは、身分的にはカイエンだけか、緩くてもヴァイロンまでなのだが、現在の大公宮では護衛騎士のシーヴもお茶の御相伴にあずかれるのである。

 もし、シーヴだけ飲まないで見守っていたら、カイエンは何だか落ち着かない気持ちになっただろう。だが、それは彼女の代になってからのこの大公宮の開放的な雰囲気の中で培われたもので、他の貴族の家などではありえないことだった。

「おっ、もう夏の新茶葉が来ているのだな。色が薄くて香りが強い。……これはミルクを入れない方がいいかな」

 この大公宮の主人であるカイエンのカップは他の客人などに出すものとは別に決まっている。それは、表と奥の自分の居間で飲むときとも、もちろん違う。その上に、茶の色みや季節によっても変えるようになっていた。

 服を誂えるのにノルマ・コントを呼ぶのと同じように、毎日使われる紅茶のカップも、大公宮御用達の店が吟味したものが定期的に持ってこられ、その中からカイエンが選んでいたのだ。贅沢なことだが、それがハウヤ帝国の貴族たちの中で「粋」とされる習慣だった。

 今日の茶葉は、いつもカイエンが好むミルクを入れて飲むのに向いた、色が濃くてやや甘みのあるものではなく、季節の香りを楽しむように用意された、黄金色の香りの強いものだった。

「ああ、ヴァイロン、余計なことで時間を取らせてすまない。……話を始めてくれ」

 そう言いながら、カイエンは明るい緑色で、内側に鮮やかに花模様の描かれたカップに唇を付けた。確かに、このカップの意匠は透明で薄い色の茶のためのものだ。

 ヴァイロンやシーヴのカップも色は合わせてあるが、内側は金の線画だけが描かれたものだった。 


 あの、オドザヤの結婚式の翌日。

 大公宮で、ハウヤ帝国海軍所属(一応)の「デメトラ号」の下士官、アメリコが黒衣の怪人について聞き取りをされていた日。

 ヴァイロンはかなり遅れて、大公宮へ戻ってきた。

 それにはもちろん理由があって、彼はわざわざ、「気になることがある」と言ってきた、フィエロアルマの将軍、ジェネロ・コロンボに付き合って、現場検証を続けていたのである。

 時刻はもう夕方になっていたが、六月の終わりのこととて、日はまだ夕暮れというには明るかった。

 ジェネロはヴァイロンが来るのを、金座の通りの真ん中で待っていた。

 事件のあった翌日である。金座の大通りはまだ封鎖中で、通っていく馬車も人もない。だから、ジェネロのいる場所は遠くからでも分かった。

「おおい! ああ、忙しいところにすまねえなあ」

 そう言った現フィエロアルマの将軍、ジェネロ・コロンボは緑色の夏の制服姿だ。そばには前の将軍だったヴァイロンの愛馬ウラカーンが轡を取られることもなく歩き回っている。普通ならありえない光景だが、この馬の場合にはこれが当たり前なのだ。それは、まだヴァイロンの馬だった頃から変わりなかった。

 ウラカーンは、ヴァイロンが先帝サウルの命令で、カイエンの男妾に落とされた時からジェネロに引き継がれたのだが、最初のうちはジェネロは乗るどころか触ることも出来ず、大変な思いをしたものだ。だが、そこは「豪腕ジェネロ」だった。彼は落とされても落とされても諦めず、遂にはウラカーンの方が根負けした。もっとも、ジェネロに言わせれば、

(いいや、ウラカーンの方が、俺の面子を立ててくれたのよ)

 ということになる。

 そのウラカーンは、前の主人であるヴァイロンのことを忘れたりはしていない。

 その後も、何度かヴァイロンとウラカーンは会うことがあったが、その度にこの真っ黒な巨馬はヴァイロンに、まるで大公宮でカイエンが飼っている、ヴァイロンがロシーオから貰って贈り物にした飼い猫のミモのように、長い顔をヴァイロンの顔にすりすりと寄せ、まとわり付くのだった。

「おお。よかったなあ、ウラカーン。今日は俺たちゃ、話しができりゃあいいんだ。精一杯、甘えさせてもらいな」

 ヴァイロンはウラカーンを撫でてやりながら、自分の乗ってきた馬の方も立木に繋ぐでもなく、自由にさせている。馬は巨馬のウラカーンとは目を合わせないが、すっと道の脇へ寄ると、立木の下の草を食みはじめていた。これも普通ではあり得ないが、どんな馬もヴァイロンが乗ればこうなるのである。獣人の血を引くヴァイロンの周りにいる動物は大抵がこうなる。ヴァイロンは何も命じないが、彼の意図は完全に伝わるものらしい。

「ジェネロ、何か気が付いたことがあったそうだな。昨日のうちに話を聞けなくてすまない」

 ヴァイロンがこう言うと、ジェネロは黙ってぶんぶんと首を振った。

「いいよ。まだ戦争にゃなってねえから、俺よりあんたの方が忙しいもんな。時間がもったいねえや、早速、話にいくぜ。……あのな、ここ、ここからだろ? 皇帝陛下の馬車に矢だの手投げ弾だのが浴びせられ始めたの」

 言いながら、ジェネロは金座の大通りの石畳の上を指差した。時間がもったいない、と自分から言うだけあって、話は何の前振りもなく始められた。

 ヴァイロンもジェネロの言う通りだったな、と思いながら石畳を見て、はっとした。

「……ああ。間違いない。そうだ、確かにここから石畳の感じが変わった。なるほど、ここから先……どこまでが新しく敷き直されたんだろう」

 ヴァイロンは目で見てもはっきり分かる石畳の違いを確かめるように、巨躯をかがめて確かめた。一を聞いて二を知る、でヴァイロンはもうジェネロの言いたいことがほとんど分かったようだ。

「な。パッと見には気が付かねえけど、ここっから石が新しくて、表面の高さが合わせられてるよな。ここまでは石も小さいし、表面の高さも合ってねえ。随分と昔のまんまだな。でも、なんか理由があって、ここから先しばらくは新しく敷き直されているのよ」

 灰色がかった緑色のジェネロの目が見た先は正に、最後の一発、トリスタンの足を吹っ飛ばした一発の投げられた辺りだった。ここにイリヤでもいたら、ひゅぅーと口笛でも吹いただろう。

「ジェネロ、言いたいことは分かった。では、敵はここから先、あそこまでは馬車の揺れが小さくなることを知っていた、というわけだな?」

 さりげない口調だったが、ヴァイロンが言った言葉は、大変な意味を含んでいた。

 ジェネロの示唆によって確かめられた事実は、桔梗星団派の連中が、いや、彼らの傭った連中もいるだろう、が、馬車の揺れが小さくなり、十字弓の矢や、火薬を使った手投げ弾が馬車に当たりやすくなる場所に差し掛かった時を選んで攻撃してきた、ということを示しているのだ。

 ジェネロは懐から紙巻の煙草の紙箱を取り出して、一本、口に咥えた。

 大公軍団では軍団長のイリヤが喫煙者だが、この時代、金に余裕のない市民から貴族階級まで、煙草を嗜む者は少なくなかった。もっとも、煙草は決して安価ではなかったから、貧乏人は箱では買えず、一本いくらで道端の商店や流しの煙草売りから買うのが普通だった。

「ま、結果と照らし合わせると、そうなるな。余計なこったけど、ここの石畳が新しく貼り替えられたのがいつか、ってのも問題になるかもな。ま、直前じゃないだろう。さすがにそれやっちゃあ、金座の大通りだ、急な工事じゃ気が付く奴が出るかもしれねえ。これはあんたんとこの治安維持部隊で調べてもらったほうがいいや。もし最近だったら、敵の奴らの中にこの街の道路整備計画に手を伸ばせる奴がいるってことになるし、そうでなくとも、奴らは道の状態を計算に入れてたことになるよなあ」

 ジェネロはそう言うと、紫煙を吐き出しながら、ぎゅっと表情を引き締めた。

「ま、そっちはあんたのとこで、ここの石畳が貼り替えられたのがいつか、ってのを調べてもらえばいいこった」

 ジェネロがそう言うと、もうヴァイロンはジェネロが次に言いたいことが分かったらしい。

「そっちは、と言うことは気が付いたことは他にもある、と言うことだな?」

 ヴァイロンの翡翠色の目が、燃え上がるように光る。そうすると、それまでは普通にヴァイロンの周囲を歩き回っていたウラカーンはともかく、新しい彼の馬の方は、驚いたように嘶いた。

「ああ。……あの時、あんたたち大公軍団や親衛隊、近衛の奴らはすぐに馬車の警護に回ったな。こりゃあ、当たり前のこった。あんたは十字弓から放たれた矢を撃ち落とすためにウラカーンごと飛び上がったっけなあ。あれを街中でやるとは思わなかったから魂消たぜ」

 街中で、と言うからには、ジェネロはヴァイロンが戦場で似たようなことをやったのは、見たことがあるのだろう。

 そうなのだ。あの日は、特別に大槍を手にしたヴァイロンが巨馬のウラカーンに乗っていた。

 ジェネロは黙って聞いているヴァイロンの燃える目を、恐れ気もなく見上げた。副官としてベアトリアとの国境紛争に当たっていた彼は、こんな目をしたヴァイロンなど見慣れていた。

「あんたたちと違って、俺は違う方を見てたんだ。まー、あんたが出てくると、俺ゃあ周りの方を見るようになっちまってるんだな。しょうがねえ、こればっかりは副官根性だ。将軍様になってもなかなか治らねえ」

 ジェネロはそう言うが、その「副官根性」で周囲に目をやっていたとすれば、事態に直接対応していたヴァイロンたちには見えなかったものが見えたのだろう。

「何を見た?」

 ヴァイロンも気が付いていた。そうだ、あの時ばかりは自分もイリヤもカイエンも、馬車の方しか注意していなかったと言うことに。

「あの、十字弓の矢が放たれる直前……いや、もうちょっと前か。俺はなんだか変な動きがあるのに気が付いてたんだよ。でも、それがあの事態に繋がるとは思わなかった。……あのな、逃げた奴らがいたんだ。馬車があの平らな石畳のところに差し掛かる直前に、沿道の人垣からバラバラ外に出て行った奴らを見たんだよ。まるで、事件が起こるのが分かってたか、決行寸前になって怖くなったってえみたいにな。それも走って逃げてた。ありゃあ、もう体の重たくなった中年や、足元の危なくなった爺さんたちじゃねえ」

 ジェネロは、金座の普段はあり得ない人気のない大通りを見渡しながら、低い声で続ける。

 彼ら二人の視界に入るのは、時折現れる治安維持部隊の黒い制服の影だけだった。この西の大国ハウヤ帝国、その帝都ハーマポスタールの中心街、金座の大通りがこんなに閑散として見えるなど、この国建国以来、あったかどうか。そう考えれば、今度の事件の重大さがよくわかると言うものだ。

「これは俺の考えなんだがな、きっと多分、証拠品もそこらにまだ落っこってると思うんだ。それと、昨日の事件じゃ、本当は十字弓はともかく、火薬を使った方はもっと派手にやる予定だったんじゃねえかとな」

 ヴァイロンは、このジェネロの言葉を聞くと、彼にも似合わず身震いしそうな気がした。

「ジェネロ。十字弓はともかく、と言うからには、逃げて行ったやつらに見当が付いているんじゃないのか? 十字弓は大弓ほど訓練は必要じゃないが、連中はバラバラにして持ち込んで、群衆に紛れて歓声をあげながら手元で組み立てたようだ。となると、十字弓の方はやり慣れたやつの可能性が高いからな」

 ヴァイロンがこう訊くと、ジェネロは普段の彼には見ることのない、無表情な顔をヴァイロンの方へさっと向けた。付き合いの長いヴァイロンだから知っているが、こういう顔の時のジェネロは完全に自分の言うことに自信があるのだ。

「……俺のかみさん、ちょっとした商店を営んでる、って知ってるよな。俺が大公殿下に付いて、シイナドラドへ行ってた時、あんたが何度か訪ねてくれたってかみさん、言ってたからよ」

「ああ」

「かみさんが女だてらに商店主やってっから、俺も何とはなしに顔見知り、ってぇ店主は多いんだ。かみさんの店はもう何代も前っからの老舗なんで、ギルドの寄り合いみたいなのにもよく行くんだよ。夜遅くなったりして、迎えに行ったりしたこともある。……そんなんで、知ってる大店の跡取り息子の顔が、その中にあったんだよ」

 ヴァイロンの頭の中で、何か引っかかるものがあった。

 あれは、カイエンのそばにいた時に、大公軍団長のイリヤと一緒に、マテオ・ソーサの話を聞いていた時のことだった。

 それは、宰相府に諮問機関を作るにあたり、教授が国立大学校の元同級生、ママルコス・イスキエルドの研究室へ、お忍びのサヴォナローラと一緒に行って帰ってきた時だったはずだ。

(イスキエルドが言ってたんですけどね。彼が今、一番、恐れているのは、私の寺子屋の教え子のディエゴ・リベラ、彼が集めている『素人のにわか論者』とでもいった連中のことなんだそうです。確かに、ここんところディエゴは幼馴染のウゴやトリニ、それに医師のルカなんかと道で会っても、ふっと顔を背けるそうでしてね。ウゴには貴族階級をぶっ潰せ、みたいな論調の記事を書かないか、なんてことも話したこともあるそうです)

 そう聞いて、すぐにヴァイロンはカイエンと一緒に、トリニの営んでいる下宿へマテオ・ソーサを迎えに行った時のことを思い出したのだった。

 あれはもう二年以上前のことになるが、連続男娼殺人事件があった時で、カイエンを紹介されるなり、ディエゴは食ってかかってきたのだった。教授を大公軍団の最高顧問に、という話を持ってきたところへ現れた彼は、いきなりカイエンに向かって身分も顧みず、

(出て行け! この呪われた皇帝の傀儡め! 先生をたぶらかす魔女め!)

(この金食い虫のお貴族野郎ども。ただでさえ、ここ数年、税金は上がる一方なんだぞ! それなのにまた大公軍団に新しい部隊を創設するなんて、何考えているんだよ? ええ? この帝都ハーマポスタールの防衛だってえ? どこの国がここまで攻め込んでくるって言うんだよ。ああ?)

 と、怒鳴りつけたのだ。

 今になってみれば、ハウヤ帝国はスキュラのことがあり、ザイオンやベアトリア、そして遠い螺旋帝国とも確執が生まれようとしている。

 先帝サウルが帝都防衛部隊を設立させたのは、彼の「未来の道筋が見通せる能力」とでも言うものが作動して作らせたのだろう。それは今、正に図にあたっている。あの時、ディエゴの言っていたことは、サウルなどとは違い、時代を見通したものではなく、ただ、自分の身近な事象から考えただけの浅い考えだったったことが分かる。

 あの場には、ヴァイロンもいたから、ディエゴの考え方の浅さや偏りも、激しい思い込みも、彼の階級がこの国の何に対して反感や反抗心を持っているのかも知っていた。

 イスキエルド教授のところから戻った教授が話していたのは、あの、ディエゴ・リベラが、「賢者の群れグルポ・サビオス」という、大店の二代めなどである程度は教養がある者の集まりというか、金持ち商人の息子たちの政治活動……とでもいうのか。つまりは政治談義のグループを作って、政治結社を気取り、盛んに気炎を上げている、という話だった。

 マテオ・ソーサから聞いたところでは、イスキエルド教授は、

(彼らはいま、自分たちの生活には困っていない。なのに、現状の社会構造には不満を抱いている。主に、税制問題についてのようだ。商人たちへの課税が多すぎる、自分たちは本当ならもっと肥え太って、貴族よりも上の暮らしができるはずなのに。自分たちはの富は毎日、客相手に汗水垂らして働いて得た富なのに。貴族たちの富は全部、領地からの上がりで、彼らは何の苦労もしてないじゃないか、って論調だ)

 と言っていたそうだった。

 イリヤは、

(あらあら、そんな甘ちゃんたち、悪い人に利用されちゃったら面倒なことになるんじゃなーい?)

 と言っていたが、もう早くも面倒な連中、つまりは桔梗星団派と彼らが接点を持ったと言うことだろうか。あり得ないことではない、とヴァイロンは思った。

「まさか……。賢者の群れグルポ・サビオスとかいう大店の息子たちの政治結社みたいなのの連中が今度の事件に絡んでいたというのか?」

 ヴァイロンがそう言うと、ジェネロはびっくりした顔をした。

「おお。さすがだな、大公軍団じゃもうそこまで知ってんのか。それだよ、それ。かみさんに昨日、夜中にやっとうちへ帰って、俺がその大店の息子が逃げて行くのを見たって言ったら、でっかい両替商の息子が中心になって変なグループを作って定期的に集まっているみたいな噂を、同業者のギルドの寄り合いで聞いたことがある、って言うんだよ。かみさんはまさかねえ、とは言ってたけど、こりゃあ、当たりかなあ」

 当たりかハズレかなどはまだ証明できないが、死地から命を拾ってくる神がかり的名人、「豪腕ジェネロ」の言うことだから、なんだか説得力がある。

「目撃者が他にもいるんじゃねえかな。それに、奴ら、火薬だのなんだのを持たされてたんだろう? それ、さすがに家まで持って帰る馬鹿はいねえや。どっかに未使用の手投げ弾だのなんだのが捨てられてるんじゃないかねえ」

 ジェネロの話はここまでだったが、ヴァイロンはその後すぐに治安維持部隊長のマリオとヘススの双子のところへ行って、目撃者や証拠品の発見がないかどうか隊員に聞き取りを要請した。もちろん、自分の管轄する帝都防衛部隊へも同じことを通達したのだと言う。近衛の方へは、ジェネロが聞いてみる、と請け合ったそうだ。


「じゃあ、その後、各方面からそれに関する情報が上がってきたわけだな?」

 カイエンがそう言う頃には、もう、カイエンもヴァイロンもシーヴも、とっくに一杯目の紅茶を飲み終わっていた。

「あ、すみません。話に夢中になっちゃって、出し忘れちゃってました」

 ヴァイロンの話に、カイエン共々に夢中になっていたシーヴが、申し訳なさそうに銀盆から菓子の皿をカイエンたちの前へ出し、もう冷めかかってはいたが、二杯目のもうかなり濃くなってしまっていた紅茶をカップへ注ぎいれる。

 カイエンもヴァイロンも、頭は話題から離さず、手だけを動かして菓子を摘み、新しい茶をぐびりと一口飲んだ。シーヴはそんな二人を見て、内心で、

(外見は全然、似てないし、性格も違うんだけど。もう付き合いが三年にもなると、なんだか似てくるんだなあ。全然、夫婦みたいな感じには見えないんだけど。実態は同じようなもんだしなあ)

 と、思って感心して見ていた。

「はい。治安維持部隊から出していた人員からも、私服で出ていた私の帝都防衛部隊からも、フィエロアルマの助っ人や近衛からも、確かに事件の直前に人垣から離れて横丁の方へ何人か走って行くのを見たようだ、と証言が出ました。その直後にあの騒ぎになったので、みんなそっちは見たきり忘れていたそうですが、聞かれてみれば、間違いなく見たそうです」

 カイエンは油断なく尋ねた。

「さすがに名前まで知っている目撃者はいないか」

「はい。ただ、みんな走って逃げて行ったのは間違いないそうです。まるで、決行の寸前で怖くなったみたいに」

 カイエンはここまで聞くと押し黙った。

 桔梗星団派が、ディエゴ・リベラの「賢者の群れグルポ・サビオス」を取り込んだか、何かしらの形で手を握ろうと持ちかけ、ディエゴたちはそれに乗ってしまったのだろうか。

「遺留品の方は? それと、金座の通りの石畳を貼り替えたのはいつだった?」

 ディエゴたちの方はとりあえず頭の隅に置いておいて、カイエンがそう聞くと、ヴァイロンは完全に仕事に入っている目付きでカイエンの顔を見た。その顔には、二人だけの時に見せるような甘さは微塵もない。

「ございました。金座から裏へ抜ける横丁や、あの日は人気がなかっただろう、道筋の店舗の中などに、十字弓やらその部品など、それに調合した火薬を木の容器に詰め、導火線を付けたものが投げ込まれていたそうです。……石畳の方は、これは先帝陛下の時代のことで、それも……」

 そこでヴァイロンが言い淀んだので、カイエンとシーヴは何かあるのか、と身を固くした。

「……実は、先帝サウル陛下とアイーシャ皇后との御結婚式の折にも、あそこを無蓋馬車でパレードしていたのだそうです。その時に、通りの石畳の一部がかなり轍ですり減っていたので、修復をした記録があると。ただ、轍のついた部分だけを直したのではなく、あの部分だけはほとんど中央部の全面が貼り替えられているんです」

 カイエンははっとした。

 では、もしかしたら二十年前のサウルとアイーシャの結婚式のパレードの時、すでに今回のような計画が企てられていたのかも知れないと気が付いたからだ。

 その頃、もう大公となっていたアルウィンは、桔梗館で怪しい動きを初めていた頃だった。

「じゃあ、じゃあ、もう二十年前から今度のことの下地は、奴ら桔梗星団派の中で構想されていたと言うことか……」

 カイエンが呟くようにそう言うと、ヴァイロンは顔色を変えなかったが、さすがにシーヴは青ざめた。

 今度のオドザヤとトリスタンの結婚式で、パレードを行ったのは、サウルやその前のレアンドロ皇帝の結婚式の時の先例に倣ったものだったのだ。危険だから止めよう、との意見も出た。しかし、二十年前のパレードを覚えている者もいるだろう、止めれば、今回はどうしてしないのか、と要らぬ腹を探られるのでは、との意見も出て、熟慮の末、オドザヤはハウヤ帝国の平和と安定を保っているという威信をかけたものとして、先例通り行う、と決定したのだった。

 オドザヤは何が起きても、それを乗り越えて見せると言っていた。だが、トリスタンの方があんなことになり、今、彼女は自分は正しかったのか、と自問する葛藤の中にいるはずだ。

 オドザヤはそのことについてはカイエンの前でも口にしなかった。確かに、もう終わってしまったことを悔いても前には進めない。

「パレードの前日に、桔梗星団派の連中は私だけは殺せないからと、私も馬車の脇にイリヤの馬で付くことになったが、それでも連中は攻撃してきたな。……ディエゴたちも人員の中に入っていたとすれば、彼らは私だけを特別視などしないだろう。結果的には怖気をふるって逃げてしまったとしても。他にも傭われた犯罪者どもがいたはずだ。だから……」

 カイエンが続きを言いかけると、それをヴァイロンは手で押し留めた。

「いいえ。最初の十字弓の攻撃は、馬車に対してだけで殿下の方へ飛んだものはありませんでした。事前に私はイリヤに、『変な気配をかなりの数で感じる。一人一人は強くなさそうで、連携を取って動いているようにも思えない。複数のグループが違った意思で動いている感じがする』と意見を言ったのです」

 カイエンはうなずいた。

「それは、パレードの前にイリヤから聞いた」

「私の感じたことは間違いなかったようです。桔梗星団派の手の者のほとんどは十字弓の攻撃の方で、火薬を使った方がそのほかの傭った犯罪者や、ディエゴたちだったのでしょう。だから、最初の攻撃の時は殿下を狙いから外していた」

 ああ、とカイエンは分かった。

「私がイリヤに頼んで、馬車の中に降りたので事情が変わったということか」

 ヴァイロンは彼らしくもなく曖昧に首を振った。

「それは確かにあるでしょう。向こうでも慌てた者がいたかも知れません。しかし、これから先はもう、殿下を殺すな、という桔梗星団派の党首の命令も、それほど徹底されなくなっていく気が致します」

 ヴァイロンは慎重にアルウィンの名も、チェマリという呼び名も出さないで話した。カイエンはすぐにそれに気が付いて、ヴァイロンらしいと思って苦笑した。

「何しろ、奴は今やこのハウヤ帝国の大逆罪の罪人だからな。もう、言うことを聞かなくなった娘なんぞ、切り捨てることにしたのかもしれん」

 カイエンはかえってスッキリした気持ちだった。

 これからは自分だけが安全な場所にいるような、変な状態で連中と対峙することはない。向こうもこっちも殺す気で来る、と思えば、身が引き締まるような心地だった。

「ヴァイロン、報告書はもう作ったか」

 カイエンはいきなり事務的なことを聞いたが、ヴァイロンも国立士官学校を首席で卒業してから帝国軍、それから帝都防衛部隊長になって三年以上になる。腕っ節だけではなく、官僚的な仕事の方もちゃんとしていた。

「はい。こちらに持って来ております」

 ヴァイロンはそう言うと、それまで行儀よく膝の上にのせていた書類ばさみから、几帳面な文字で書かれた紙の束をカイエンの執務机の上に置いた。

「さすがだな。では、すぐにこれから皇宮へ参る。……『賢者の群れグルポ・サビオス』の連中をどうするか、これは慎重にしないといけない。逃げ出したのが奴らだろうという目撃証言は、ジェネロの見た大店の息子一人だけで、他は誰だか分かってもいない。フィエロアルマの将軍の見たことだから、その一人だけは引っ張れないことはないが、ただ沿道からその時立ち去った、というだけでは何か急な用事が起きたとでも言われればそれまでだ。宰相府やあそこの諮問機関の先生たちの意見を聞くとしよう」

 カイエンがそう言いながら、執務机の向こうの椅子から杖を突いて立ち上がると、シーヴは気を利かせて先に執務室の表側の扉から出て行った。馬車の手配をしに行ったのだろう。

「大丈夫ですか。今日は朝からここでずっと書類を見ておられたんですか」

 執務机の周りを回って来ようとするカイエンの歩き方は、杖を突いているにも関わらず、常よりものろのろしている。ヴァイロンは朝起きた時はそんなことはなかったので、心配になったのだろう。

 彼は即座に立ち上がると、カイエンのそばに来て腰の辺りを支えるように手を伸ばした。痛むのだったら、表の馬車どまりまで抱いていこうと思っていた。

「うん。ずっと座りっぱなしで、座っているのはいいんだけど、長時間同じ姿勢でいると、痛くはないんだけど、伸ばした時に上手く動かないんだよ。……ああ、大丈夫、歩いて行けるよ。よいしょっと、ちょっとこうやってゆっくり伸ばしていくと違和感が徐々に取れるんだ」

 お婆さんのようなことを言いながら、まだ二十二の女大公殿下はヴァイロンの逞しすぎる腕に体重をかけて、ゆっくりと腰を伸ばした。そのまま背骨も反らすようにすると、腰の辺りがぽきぽきと鳴った。これではお婆さんのよう、ではなくそのものである。

「あいたた。あの日以来、ただ仕事して部屋に戻って、風呂入って寝ているだけなのになあ……」

 カイエンが愚痴をこぼすようにそう言うと、彼女の腰に当てられていたヴァイロンの大きな手がぴくり、と動いた。

 カイエンは意味深な謎かけのつもりで今の言葉を言ったのではない。そんなことはわかっているが、こうして服越しにでもカイエンの体に触れていると、体力的にはカイエンと違ってまだまだ余裕のあるヴァイロンの方はなんだかむずむずするものがある。

 有り体に言えば、オドザヤとトリスタンの結婚式のあの日以来、ヴァイロンはカイエンを抱いていない。

 いや、一緒の寝室、一緒の寝台で寝起きしているのだから、毎日、腕に抱いて寝てはいる。だが、それ以上のことはなかった。寝台に倒れる前からもう半分、眠ってしまってふらふらしているカイエンにそれ以上の行為を強いることは出来なかったのだ。

 これは、もう一人の「女大公の男」であるイリヤの方も同じで、ヴァイロンは昨日だったか一昨日だったか、イリヤに仕事で会った時、「まさか、あんただけやってるんじゃないよねぇ」と、かなり真剣な顔で言われたくらいだ。もちろん、ヴァイロンはきっぱりと否定した。

 去年、オドザヤのオルキデア離宮でのことを隠蔽するため、居酒屋バルアポロヒアで三人一緒に朝を迎えてから、イリヤはかなり明け透けにヴァイロンにこんなことを言うようになっていた。

 普通の王族や貴族の正妻と側室などは、嫉妬と嫌がらせの応酬に夢中で対立するばかりで、現実的に夫を独占するための交渉などはお互いにしないらしいが、男女が逆になるとことが直截的になるようだ。

 それでも、ヴァイロンは同じ部屋から仕事に出るから、朝、お互いが行って来ますの抱擁と口付けだけはしていたが。イリヤも要領がいいから、同じようなことは、人目がなければカイエンと会った時にはしているだろう、とも思っていた。

「どうした? 何か気になることでも……」

 カイエンはヴァイロンの、立って向かい合うとかなり上の方にある顔を見上げて、そう言いかけたが、言葉を最後まで言うことは出来なかった。カイエンの腰に当てられていたヴァイロンの手がぐいっと彼女の体ごと自分の胸元へ抱き寄せると、そのままもう一方の手で膝裏をすくって、執務机の上に押し倒して来たからだ。

 ヴァイロンはシーヴが二人に気を利かせて、さっさと馬車の手配に出て行ってくれたことに気が付いたのだった。

「ええっ! ちょっと、ヴァイロン、私はこれから……皇……宮、へ……」

 カイエンはびっくりしたが、まさか、とも思っていた。

 だが、もうその時には彼女の唇はヴァイロンのそれで塞がれており、深い口付けが始まってしまっていた。制服の胸元のボタンが器用に外されていく。カイエンは一気に体の中心に火を付けられたような感じがして狼狽した。

 まだ、ぎりぎりで男女の仲になってなかった時、同じようなことを、この同じ場所でイリヤにやられたが、まさかヴァイロンにされるとは思ってもいなかったのだ。

「ん! んんっ。んっ、んんんぅ……あっ」

 早くも大きな手で直に胸を掴まれたと思ったら、唇は解放され、その代わりに首元や胸元にヴァイロンの唇や舌が這いまわる。久しぶりなので、カイエンの方も体に欲望の火が点りそうになって慌てた。イリヤの時も断固拒否したのだ、今、ここでヴァイロンと言えどもこれ以上のことは許すわけにはいかなかった。

「ヴァイロン! ちょっと、しっかりしてくれ! 気持ちと言うか、その、分からないことはないが、今はダメだ!」

 ヴァイロンはカイエンの胸の頂に吸い付いたまま、うなずきはしたが、すぐには離してくれなかった。

 やっと、彼が正気に返ったのは、侍従が馬車の用意が出来た、と執務室の扉をノックしながら扉の向こうから告げたからだった。この大公宮では侍従の教育もアキノを通じて行き渡っており、こんな場合にも主人であるカイエンがばつの悪い思いをしないよう、訓練されているのだ。

 カイエンはきちんとヴァイロンの手で制服や、髪をなおされ、大公宮表の馬車どまりまで彼に手を借りて歩いて行ったが、その途中でヴァイロンにこう釘を刺すのは忘れなかった。

 カイエンとてもさっきのあれで下腹部に熱が残ったままだ。もうとっくに、何も知らない小娘でもない。そろそろ人肌恋しくもなってはいたのだ。でも、彼女は冷静だった。今の情勢で、明日、動けなくなって休むわけにはどうしてもいかなかったのだ。

「皇宮から戻るのは遅くなると思う。だから、さっきの続きは、な・し・だ・ぞ!」

 囁くような声は、もちろんヴァイロンには聞こえていたはずだが、彼の方ももう表情を変えることもなかった。二人だけの時の暑苦しさと、公の場所とでは彼の態度は全然、違うのだ。

 こういう時のヴァイロンの様子ばかりは、カイエンには小憎らしくてしょうがないものだった。







 一方。

 アメリコの乗り組んでいるデメトラ号から戻って来たフランセスク。

 帝都ハーマポスタールのバンデラス公爵家の屋敷では、領地を守るバンデラス公爵ナポレオンが、ラ・ウニオン共和国と協調しないよう、人質としてこの街にやって来たフランセスク・バンデラスは、祖母のサンドラの小言を聞かされていた。

「一体、どこへ行っていたの? あなたも今、この街が非常事態宣言下にあることは知っているでしょう。なのに……」

 サンドラは日中、長い時間、フランセスクが一人で外出していたのを心配しているのだ。

 サンドラはザイオン出身で、それも、今の女王チューラの王配であるユリウスの妹だった。サンドラの父、先代侯爵がハーマポスタールへ外交官として赴任していた時、彼女は先代バンデラス公爵と出会い、結婚したのだ。

 だから、サンドラの容姿は孫のフランセスクには一見するとほとんど似ていない。

 孫のフランセスクとは違い、サンドラの皮膚は青白く、髪の色は金茶色で、目の色だけが息子のナポレオンと同じ鋼鉄色だった。フランセスクは目の色もモンテネグロの顔役の娘の母親に似て赤銅色だったから、本当によくよく見なければ、この祖母と孫の共通点には気が付かないだろう。

 だが、直線的でかっきりとした、鼻筋が細く通った顔立ちの骨格が、間違いなくこの二人の血縁を語っていた。

「お祖母様、ちょっと息抜きに海を見に行って来ただけです。港の手前までは馬車で参りましたし、港は今、お祖母様がおっしゃった非常事態宣言のせいで、入った船が出ていかれないものですから、普段よりも賑やかなくらいでした」

 実は、フランセスクはもうかなり前から、港の周旋屋や口入屋、港湾事務所などへ船の求人がないかどうか探りに出ていた。父のナポレオンにも、祖母のサンドラにも絶対に悟られぬよう、慎重に慎重を重ねて、彼はこのバンデラス公爵家から出て行く算段を巡らせていたのだった。

「そうなの? それでも危ないですよ。出かけるときは、必ず私に断って、っていつも言っているでしょう?」

 サンドラは孫たちの中でも、特にフランセスクに甘かった。それは彼が正妻のいないナポレオン・バンデラスの長男である、ということもあったが、同い年の異母妹のエンペラトリスが、父のナポレオンの第一の愛情を受けていたからでもあった。

 エンペラトリスの母親は、元は海賊だが今はラ・ウニオン共和国元首ドゥクスの娘だ。モンテネグロの顔役の娘であるフランセスクの母親との折り合いは悪くはなかったが、バンデラス公爵家の家中では、次代の公爵に女のエンペラトリスを推す者もあったのだ。

「すみません、お祖母様。以後、気を付けます」

 フランセスクは元々、仏頂面で表情があまり変わらない。だから、サンドラもそれ以上は追求できなかった。

 まだ、晩餐までには時間があったので、フランセスクは自分の部屋へ下がった。

 そして、扉を閉じるなり、常の彼を知る者ならびっくりするような行動に出た。

 声こそ上げなかったが、フランセスクはいつもは無表情な顔に喜色を浮かべ、部屋の中をぴょんぴょんと飛び跳ねるようにして歩き回ったのだ。

(ついにやった!)

 今日、フランセスクはアメリコの乗組む「デメトラ号」の求人に飛び込みで応募し、しっかりと合格をもらい、一日も早く船に乗組むように、と言われて帰って来たのだった。

 今までも、彼はいくつもの船の求人に応募していたのだが、本名を名乗れないので身元保証人を確保できず、そのために周旋屋で紹介状を書いてもらうことも出来なかった。だから、いつも門前払いを食っていたのだ。

 その点、今度のデメトラ号では、あの黒衣の皆殺し怪人のせいで、大量の求人をかけていたところで、紹介状なしでも試験だけは受けさせてもらえたのだった。

 試験さえ受けさせてもらえれば、フランセスクには確実な勝算があった。祖父は元海賊だというのに、船酔いがして船に乗れないエンペラトリスと違って、船には子供の頃から父に連れられて乗っていた。そこでは海賊との海戦も経験していたし、船乗りとして、操船術も航海士としての測量についても、もちろん剣を取っての武術、大砲の撃ち方まで、一通りのことは学んでいたからだ。

 案の定、デメトラ号の試験でも、彼はほとんどすべての技能で実力を発揮して見せることが出来た。

 剣技こそ、あの彼を船に上げてくれた下士官のアメリコや数名の士官たちには遅れをとったが、特に航海士としての技能には皆が今すぐに航海士になれる、と太鼓判を押してくれた。

「なんだか事情がありそうだけど、まあ、仕事の腕の方は確かそうだね。年齢は……十九か。それじゃあ、士官としては登録できないけれど、下士官で航海士候補生としてなら雇えるよ」

 デメトラ号の船長がそう言ってくれた時には、フランセスクは思わず船長に抱きつきそうになったほどだった。

 あの、フランセスクと同じ珈琲色の顔に青い目が印象的なアメリコという下士官も、良かったな、と肩を叩いてくれた。

「いいんじゃね。一通り、なんでも出来るってんなら俺とおんなじで重宝されるぜ。でも、お前、いいとこのお坊ちゃんだろ? 船に乗ったことがあるんだから、海沿いに領地のあるお貴族様とか? だから問題はお家の方なんじゃねえの?」

 だが、アメリコがとっくに見抜いていたように、フランセスクの大問題はデメトラ号に乗り組むなら、家を捨てて家出するしかない、ということだった。フランセスクは「海沿いのお貴族様」までばれていると知り、もうしようがないと覚悟した。

「なんだ、やっぱりばれてたんだな。そうそう、出身階級は誤魔化せないって、今までも言われて来たよ。紹介状も保証人もなかったから、今まではずっと門前払いだったんだけど、この船には何としても乗り組みたいと思ってる」

 アメリコはそう言って、合格したというのに不安げなフランセスクを送りがてら、近くの珈琲屋へ誘ってくれた。時間が中途半端だったせいか、店には他に客の姿はなかった。

 そこで、フランセスクは自分よりもやや年長のアメリコに、そんなことを話しさえしたのだ。

「家を出るのは、今夜にでも出来るんだが、今の状況じゃ、しばらくは出航できないんだろ? うち、あの、うちの名前は勘弁して欲しいんだけど、一度、見つかったらもう二度目はないんだ。家から出してもらえなくなる。だから、出航の直前に乗り込みたいんだよ。さっき、船長さんたちには言えなかったけど……」

 フランセスクが熱い珈琲に砂糖を入れながらこう話し始めると、意外や、アメリコはなんだそんなことか、という顔つきになった。

「あーあー、それね。そのことなら船長も士官たちも分かってると思うよ。あのさ、今度、うちのデメトラ号が大量の求人を出したのにはちょっと話しづらい理由があるんだよ。と言うか、外部にはしばらくどころかずうっと話せない種類の事情だな。別に俺たちゃなーんにも悪くはないんだけどさ。そいつはお前がちゃんとうちの船の乗組員になったら話してやるよ。だから、なんか確実な連絡手段があれば、出航直前に乗り込むのもありだと思うぜ」

 フランセスクはまだモンテネグロにいた時、あのラ・ウニオン号の事件を見聞きしている。もし、デメトラ号もあの二の舞をする寸前で助かったのだと知っても、この船に乗り組もうと思っただろうか。

 後々、フランセスクは回顧したが、それでも彼はデメトラ号に乗り組むことを選んだだろう。

「確実な連絡先か……」

 フランセスクが困ったように顔を伏せると、アメリコの方からこう言い出してくれたので、フランセスクはびっくりした。

「お前、金はあるんだろ? 金さえ使えば、うまーく連絡係を代行してくれる人がいるんだぜ。お前んちの名前を知っても金さえそれなりに払ってりゃあ、喋らない。信用第一だからな。お前のうちのちょうど小金が足りなくて困ってる使用人かなんかをうまーく使って、連絡係にしてくれるんだ」

 これを聞くと、フランセスクは急に厳しい顔つきになった。彼がいくら世間知らずの公爵家の御曹司だからと言っても、こんなうまい話がそうそうあるとは思えなかったのだ。

 アメリコはそんなフランセスクの気持ちの方も、もう読み込み済みのようだった。

「疑ってるな。……おい、おやじさん、どうかな? こいつのうちと、うちの船との間のお使い役、やってくれないかい?」

 アメリコがそう言うと、珈琲屋のおやじが前掛けで手を拭きながら出て来てこう言うではないか。

「はいよ。まー、金はたんまり取らせてもらうよ。その若いのの見てくれからすると、相当なお家だろうからな。でも、相手が大公宮でも皇宮でも、金さえもらえりゃ、ばれずに連絡はしてみせるよ」

「ええっ」

 フランセスクはまじまじと珈琲屋のおやじの顔を見てしまった。

「まあ、信用するしないはあんたの自由だ。でも、考えてみな、今、この街は非常事態宣言発令中だ。金はいくらあっても困ることはない。海軍もこうなったら一気に組織化が進むだろうね。この国の西の守りは船でないと出来ないんだから。そんな海軍に恩を売っとくのも悪くない」

 フランセスクはしばらくの間、アメリコと珈琲屋のおやじに見つめられながら、黙って考えていた。そして、やがて顔を上げた時、もうフランセスクの顔には迷いは見えなかった。

「アメリコ君、君は、最初っからここへこの話があったから僕を連れて来たんだよね?」

 アメリコはにやにやしながらも黙ってうなずいた。

 喰えない男だ、とフランセスクは思ったが、心の底で感謝もしていた。

「君を信用できないとなれば、デメトラ号にも乗れないってことだ。それなら、僕はこちらのご主人にお願いするよ」

 フランセスクはもう、身分出身を隠そうとはせず、自分の普段の話し方で話していた。

「これから、よろしく頼む。船長にもそう伝えてくれ」

 フランセスクはそう言うと、店のおやじと契約と金勘定の交渉に入ったのだった。


 フランセスクがそこまでして、バンデラス公爵家から出て行きたがっていた理由は、単純といえば単純なことだった。彼は船に乗るのは好きだったが、父のナポレオンのように、ラ・ウニオン共和国の脅威をいなしながら領地経営をする気には全然、なれなかったのだ。年々、強くなってくるラ・ウニオン共和国との折衝なら、元首ドゥクスの孫にあたるエンペラトリスの方が向いている。

 それに、初めて上がって来たこのハーマポスタールでの公爵家の息子としての生活は、彼にはただただ息苦しいだけだった。そのとどめは、去年のザイオンの外交官官邸でのトリスタン王子のお披露目の日にあった、決闘騒動だった。

 肌の色で人を差別する風潮は、この港町のハーマポスタールでは表面上は見えないものとなっている。だが、貴族社会では違うのだ、とあの時思い知らされたのだ。

 彼の父のナポレオンがずっと帝都に上がろうとしなかったのも、それが理由のどこかにあったのかも知れない。フランセスクは父が皇后のアイーシャに対して持っていた気持ちなどは知らなかったから、彼にはそう見えていた。

 連絡屋との契約は済み、後はデメトラ号がいつ出航できるか、その許可が下りるか、ということだけだった。

 フランセスクは何ヶ月もかかかるだろうと、それだけは待ち遠しく、今のこの街の情勢を恨んだ。

 だが。

 フランセスクは彼が思ったよりも早く、デメトラ号の上の人になることとなる。

 それにはまず、忙しさでてんてこ舞いの大公宮へ、アメリコと船長が鉄砲と短銃を納めに行くことが必要だった。

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