大逆罪の罪人は歓喜にむせぶ
あの、オドザヤとトリスタンの結婚と、金座でのパレードの日以降。
まず最初に、読売り各紙は、ハウヤ帝国皇帝オドザヤとザイオン第三王子トリスタンとの婚礼披露の金座でのパレードが、十字弓と、火薬を使った手投げ弾によって襲われたこと。つまりは皇帝暗殺が何者かによって企てられたことを報じた。
次に、この事件で、皇帝オドザヤは大公と大公軍団、親衛隊、それにフィエロアルマと近衛の警備によって無事であったこと、それに皇帝襲撃犯たちのほとんどが、大公軍団の治安維持部隊と帝都防衛部隊よって逮捕、拘留されたことが。
その後を追うように伝えられたのが、トリスタン王子がオドザヤを庇って怪我をした、という事実だった。
それらは、現場で事実を目撃した記者たち、皇宮に張り込んで負傷者がトリスタンであることを掴んだ記者たちが徹夜続きで書き上げた記事であった。
だがその後すぐに皇宮から出された「重大な発表」を聞くと、彼らはもう一度、疲れ果てた体に自ら鞭打って、こんな記事を立て続けに書き上げたのだった。
最初の一報は「号外」として、ザラ紙に印刷したインクも乾かぬうちに街中で配られ、市民たちは手を真っ黒にしてそれを読んだ。中には、書き慣れぬ「大逆罪」だの、「国家反逆」だのという言葉の綴りを間違えたまま、印刷され、配られたものもあったほどだった。
「皇宮より重大発表。前大公を国家反逆、大逆罪人として告発」
「七年前の前ハーマポスタール大公の死去は佯死。今、大逆罪の罪を問われる」
「七年前、自らの死を偽り行方をくらます。以降、国家反逆を目指し地下活動か」
「前大公廟、大手読売りに公開の上、調査さる。遺体は発見されず、棺はもぬけの殻」
「棺の内部から、桔梗星団派の紋章を縫い取った大旗、発見さる」
「本誌記者は見た! もぬけの殻の棺の意外な中身」
「前大公の生存は疑うところなし。死を偽っての大逆の真実とは」
「桔梗星団派の名前の原点はアストロナータ神教から分派した組織」
「アストロナータ大神殿大神官、桔梗星団派を歴史上の同神教の一派閥の名称を勝手に使用したと非難」
「前大公、先帝ご存命時より、大逆を目指し国家をも跨いだ結社を結成か」
「先帝陛下に露見する寸前に、前大公は佯死逃亡。秘密結社の屋敷は召使いもろともに炎上」
「この度、皇帝陛下ならびに皇配殿下の暗殺を企てた罪により、他国へ身柄の引き渡しを請求」
「宰相府では前大公の潜伏先は螺旋帝国と推測」
「すでに先帝陛下ご存命中、シイナドラドよりご帰国の現大公殿下により前大公の生存と大逆の告発ありとも」
「先帝陛下のご兄弟であることを鑑み、今日まで国家としての告発はせず」
「桔梗星団派の皇帝陛下ご夫妻暗殺未遂事件への関与は濃厚」
「皇帝陛下、前大公アルウィン・エリアス・エスピリディオンを皇統譜から抹消すと宣言」
「皇帝陛下苦渋のご決断。前大公は陛下の叔父」
「今後一切、皇家の一員とは扱わず、大逆罪の犯罪者として各国へ身柄の拘束を要請」
「螺旋帝国外交官、皇宮に呼ばるるも大逆罪人との関与を否定」
「市民よりの桔梗星団派のアジトの通報相次ぐ」
「治安維持部隊による桔梗星団派のアジト捜索。近隣住民緊張の一夜」
「夜間のコロニア間移動の制限や、自警団の結成も桔梗星団派による工作を防止するためとの発表」
「宰相府、元帥府では国家非常事態宣言を発動」
「すでに一昨年より、三大公爵は自領にて国防に従事。国防の要に隙間なし」
「日中の市民活動は自由なれども、夜間のコロニア単位での警戒を強化すべし」
云々。
読売りの見出しは、皇宮からの発表に始まり、事態の推移を伝え、そして、すでに皇宮が行なっていたこの事態に関わる対応への理解を求めている。
それは一ヶ月もしないうちに、「この国を挙げての危機に際し、国民一人一人がせねばならぬ心得」へと変わっていった。
オドザヤ三年の六月下旬。
前大公、アルウィン・エリアス・エスピリディオン・デ・ハーマポスタールは、第十九代ハウヤ帝国皇帝オドザヤによって、「国家反逆罪」「内乱罪」つまりは「大逆罪」を正式に問われた。
またその「生存」が公開されたのは、オドザヤとトリスタンの結婚式の日からまだいく日も経たない日のことであった。
その間に、前大公の墓のある、帝都ハーマポスタール郊外の皇帝直轄地にある皇帝一族の廟には、親衛隊と共に、治安維持部隊を率いた大公カイエンが向かった。他に、皇帝オドザヤの命を受けて宰相のサヴォナローラが、護衛の武装神官リカルドを伴っており、元帥大将軍のエミリオ・ザラの姿もあった。
彼らの多くは、とっくの昔にアルウィンの生存を知っていたが、さすがにこの日までその墓を暴いて、佯死の事実を公にすることは控えていたのだ。だが今、それはハウヤ帝国中に知らされた。そうなれば、これはアルウィンの生存を証明するためにも必要な手続きとなったのだ。
これには、「事実を実際に見させて報道させる」ために、大手の読売りの記者たちも同行を求められ、彼らは嬉々としてそれに応じた。
このハウヤ帝国では、皇帝と皇后の墓のみが皇宮の地下に葬られる。
その他の側室や皇子、未婚のままに亡くなった皇子皇女、そして歴代の大公は、ハーマポスタール郊外の小さな湖の中に浮かぶ小島に建てられた、大理石造りのなかなかに壮麗な「霊廟」に葬られるのが普通だった。つまりは「殿下」の称号を持つ人々は皆、ここへ埋葬されて来たのだ。
この壮麗な霊廟に渡る船などは、世襲の墓守りによって厳しく管理されており、日常、一般人の立ち入りは不可能だった。
皇帝の一族に連なる皇子皇女の中には、この寂しい場所への埋葬を嫌い、他の場所を望んだ者もいたが、それはごく少数の例外だった。また、降嫁した皇女、公女たちは嫁入り先の墓に入るのが普通だった。
だから、若くして遺言なども残さぬまま亡くなった「はず」の前大公の墓は、この「霊廟」に造られていた。
その、霊廟で、大公カイエン以下の人々の見守る中、親衛隊員たちの手で前大公アルウィンの名の彫り込まれた墓石が大理石の床から取りのけられ、墓は暴かれた。
七年前、三十八歳の夏に体調を崩し、
大理石造りの棺の蓋が開けられると、中には緻密な彫刻の施された木製の棺が入っている。これは、大公宮の外宮に安置されていた棺だ。
カイエンもその文様には、もちろん見覚えがあった。大公宮の外宮からこの木製の棺がここまで運ばれる間、同行する馬車で見守っていたのも覚えている。十五だったあの日、カイエンは男手一つで自分を育ててくれた、愛情深い父親の突然の死に打ちひしがれていたのだ。三年後にアルウィンの生存を知ったときには、あの日の、完全に騙され、いいように操られていた自分を憐れに思い、ついで唾したいほどの怒りを覚えたものだ。
親衛隊員たちは、その木製の棺の蓋に打たれた釘を引っこ抜くと、慎重に蓋を開けていった。
すると。
その中にはまだ色褪せぬ、紺色の大きな布……それは、その場で注意深く広げられ、桔梗星紋を描いた大旗であることが判明した……で包まれたアストロナータ神の等身大の木像と、紺色の絹の布で包み、同じ色のリボンで上部と真ん中で括られた紺色の髪の一房のみが入っており、死者の遺骸などかけらも見当たらなかった。
カイエンは副葬品として、彼の日常使っていた小物類などを入れたはずだが、それもすべて消えていた。
カイエンは七年前、アルウィンの重厚だが木製の棺がこの霊廟のこの大理石の外棺に納められるのを見ている。
だが、今思えば、あの時にはもう、棺の中は今と同じ状態だったのだろう。恐らくはアストロナータ神の木像は重さを誤魔化すためと、こうして後日墓が暴かれた時、周囲を嘲笑する意図があったのだと思われた。
「なんだこれ。こんな旗を掲げ、自分を神とでも偽って、いつかハーマポスタールに凱旋でもするつもりだったのか、あいつは!」
馬鹿にするのもほどがある、と口には出さなかったが、カイエンは歯噛みするような声を出した。
そんな彼女を、ヴァイロンと一緒になって、まあまあ、と抑えながらも、
「本当に趣味がお悪い方なんですねえ」
と、横に立ち、肩を並べて嘆いたのは、若い頃、アルウィンに桔梗星団派へ勧誘されたことがある、と言っていたマテオ・ソーサだった。
カイエンのそばには、軍団長のイリヤと、帝都防衛部隊長のヴァイロン。カイエンの護衛のシーヴ、それに最高顧問のマテオ・ソーサと、その護衛のガラ。他にはこれは実は大公宮の影使いで隊員ではなかったのだが、不測の事態に備えて同行させた、大公軍団の制服を身に付けたナシオとシモンの二人に、記録として見させ、スケッチを描かせるために連れて来た、治安維持部隊の“メモリア”カマラが控えていた。
一方、そこにいる親衛隊員もまた、親衛隊長のウリセス・モンドラゴン子爵以下、選りすぐりの隊員のみ。彼らもまた、棺の中のこの内容物には、呆れを通り越して意味がわからない、と言いたげな表情だった。
それはカイエンの連れて来た治安維持部隊の皆も同じだ。
霊廟は皇宮の地下の墓所ほどではなかったが、時代とともに増築を重ね、いくつもの墓標の並んだ部屋に別れており、今ではかなりの広さを持っていた。天井も高く、カイエンや教授の声は意外なほど周りの壁に反響してから、皆の頭の上へ落ちて来た。
「この墓がもぬけの殻であることは、もちろん予測しておりましたが、中には替え玉が入れられているのでは、と想像しておりました。……桔梗館の火災では、内情を知る使用人が皆、巻き込まれて死亡しております。いくらでも替え玉に出来る死骸はあったでしょうから」
そう言ったのは、宰相のサヴォナローラだ。これはそこにいた皆も同じような予想をしていたから、余計に事実の方の「今になって気がついたのか」と余人を馬鹿にしているような内容物の異様さが際立って感じられた。
「なに? このいかにもな『ご遺髪』みたいなの。キモっ。俺たちゃ、二年前に本体がぴんしゃんしてるの見てるっての! 触るのも汚らわしーわぁ。さっさと捨てるか燃やすかしちゃいましょー」
カイエンの真後ろから身を乗り出すようにして、アルウィンの棺の中を覗いていたイリヤは同意を求めるように、反対側から中を覗いているザラ大将軍へそう言う。
「そうだなあ。わしはよく知らんが、これは
エミリオ・ザラにかかっては、おしゃべりイリヤも形無しである。
カイエンはサヴォナローラと顔を見合わせた。彼ら二人は片方は本の虫、片方は神官だから、もちろん「
「えっ、なーに、かたしろって。あ、殿下ちゃんたちはさすがに知ってる顔してるね、教えて、教えて!」
イリヤのとんでもなく元気で明るい言葉だけ聞いていると、霊廟の周りは森のような場所で、自然の花々が咲き乱れ、その向こうには青く澄んだ湖も見えるから、まるで休みの日に見晴らしのいいところへ家族で来て、昼の弁当でも食べているような気になってくる。
カイエンはそんな考えを振りやるように、黒っぽい紫色の、傷のある頰を隠すように顔の左右に垂らした前髪を左右に振りやった。カイエン自身は左頬の傷など気にしてはいないのだが、周囲のサグラチカやルーサなどの方が気にして、こんな髪型にさせているのだ。前髪以外の髪は、いつものように後頭部で銀製の櫛で巻いて留めていた。
「
「それは、前催眠とかいう幻術を施された人間にだけ通用するものです。馬鹿らしい。現に、我々の中で、この棺の中に横たわる遺骸が見える、なんて人はいないでしょう。恐れ多くもこのアストロナータ神像と共に置くことで、夜中の墓暴きなんかに掘り出されても騙せるだろうと踏んでいたのですよ!」
カイエンの話の後を締めくくったのは、サヴォナローラだった。横で、武装神官のリカルドが、よく似た髪と目の色のシーヴと二人、うん、うん、とうなずいている。彼ら二人はこのハウヤ帝国が出来る前に、ここで栄えていたラ・カイザ王国の末裔なのだ。
「へー、確かに。夜中の墓泥棒なら見間違ったかもしれないねぇ。この髪の毛、紺色の布で包んで、なんとなく人型に見えるように作ってあるのはそのためかあ。まー、変なところで芸がこまかいやねぇ。やだ、やだ」
イリヤがそう言うまでもなく、そこにいた皆が同じ心境だった。
「では、大公殿下、読売りの記者どもを入れますか」
そこで、無表情な顔のまま聞いて来たのは、臙脂色の制服の親衛隊長、ウリセス・モンドラゴンだ。彼もあのオドザヤの婚礼の日からろくに休む間もないのだろう。白皙の額のあたりに疲労がにじんでいた。
この霊廟のすぐ外では、帝都の読売りの中から選ばれた、数社の記者が専属の絵描きを伴って待っているのだ。もちろん、それは彼らに真実を見せ、市民たちに前大公のアルウィンが佯死を「演出」した事実を記事に書かせるためだった。
ここまでやれば、大逆罪の前大公が生存し、今も暗躍していることを疑う者はいないだろう。
「そうしてくれ。……カマラ、スケッチは出来たか。しっかり見ておいてくれ。記者たちの仕事が済んだら、この気味の悪い髪の毛だの、神像だの、旗だのを退ける。そこも見ておいて欲しいから」
カイエンがそう言うと、日頃はまともに人の目を見ることも出来ず、言葉も出ないカマラがこくこくとうなずいた。彼は女性隊員一期生のイザベルの従兄弟で、もう二十代も後半にさしかかっているはずだが、こんな仕草はまるで子供のようなのだ。
その頃には、もう帝都二大新聞の「
彼ら普通の市民たちにとっては、皇宮関係の霊廟になど足を踏み入れる日が来るなどとは思ってもみないことだ。だから、彼らはおっかなびっくりの歩みで、中へ入って来る。
カイエンはその中に、ホアン・ウゴ・アルヴァラードや、レオナルド・ヒロンなどの見知った顔を確認したが、特に声はかけなかった。新聞社の方では、今日この場に大公のカイエンが立ち会うことは知っていたから、彼らが取材の記者に選ばれるのは当然といえば当然だった。
「……前大公の棺はここだ! 蓋は開けたが、中身はこの旗以外はいじっていない。しっかり中身を確認して、真実を記事にしてくれ」
カイエンはそう記者たちに向かって言うと、霊廟を出た。
そして、霊廟の中のよどんだ空気から解放され、外の新鮮な空気を吸い込んで、お参りに来た一族のために置かれているらしい、外の木陰の下の芝生の上に置かれた、石造りの長椅子に身を預けた。ここの芝生も、あの世襲の墓守りたちがきれいに整備してくれているのだろう。
カイエンは、自分が前大公の実の娘、それも一人娘であることを知るのが貴族階級の一部の人間だけであることを、この日ほど感謝したことはない。大公妃としてカイエンを生みながら、カイエンが蟲を体に宿していることを知ると、惑乱した挙句、夫の兄である当時の皇帝サウルの元へ走り、皇后として冊立されたアイーシャ。
それによって、彼女はハウヤ帝国皇帝一族の皇統譜の中では、先々皇帝レアンドロの最晩年の末の皇女として記載されているのだ。アルウィンの名前が皇統譜から抹消されることはもう決まっていたが、彼には妻も子もなかったことになっていた。
だが、アルウィンがどこの国家でも最悪である、大逆罪の罪人となった今、真実を釣り上げる新聞社が出て来るかもしれない。
そうなっても、今のカイエンはこの街の大公として、一歩も揺らぐことはないだろう。それだけのことを彼女は大公としての仕事を通じて市民たちに見せて来ていたはずだった。
そして、それでも自分を疑う者がいたら、彼女ははっきりとこう言う覚悟ができていた。
「それでも今、私がこの街の大公である。私は公的には先帝サウルの末妹であり、事実としても、母を同じくする皇帝オドザヤの従姉妹にして姉にあたり、大公となる資格を満たしている。私がして来たことの中で、市民であるあなた方に仇なす所業があっただろうか。私は今までもこれからも、このハーマポスタールの治安維持のために全力を尽くす。そして、私の真実の父であるあの大逆罪の男に対しては、彼が死ぬまで攻撃の手を緩めるつもりはない。これでも言葉が足りないのなら、私の体に残る、あの男の浅はかな所業によってつけられたこの左頬の傷を見てほしい。これはあの男の愚かさによって、シイナドラドで私が負った傷なのだから」
と。
私以外に、今、この街の大公になれる者がいるのなら、私はその者にこの地位を譲る。
カイエンはきっと、最後にそう言って自分の言葉を締めくくるだろう。
彼女は知っているからだ。
自分以外に今、この街の大公になれる存在などいないことを。
狡いと言えばこれ以上狡い言い訳はなかった。それでも、事実は変わりはしない。
現皇帝オドザヤの成人、またはそれに近い年齢の兄弟姉妹には、ネファールの王太女となったカリスマ、そして、スキュラから帰国したアルタマキアがいる。だが、彼女らは今更、ハーマポスタール大公になろうとはしないだろう。アルタマキアはともかく、カリスマには絶対に無理だ。
他にいるのは、まだ幼児でしかないフロレンティーノ皇子と、カイエンの養い子であるリリエンスール皇女。
フロレンティーノは、一度大公になってしまえば、オドザヤの「推定相続人」たる資格を失う。そんな決断を、彼の母、ベアトリア第一王女のマグダレーナがするわけがなかった。
「いつでもかかって来い。私をこの街の大公から引きずり下ろしたいなら、お前自らがこの街の大公に成り代わってみせるがいい」
傲慢と人は言うかもしれない。それでもカイエンはそう思い、そう思えるまでにずうずうしい大人になった自分をほろ苦い思いで肯定していた。
そんな彼女の頭の中を覗いたわけでもなかろうが、ヴァイロンが無言で座っている彼女の肩に手を置いて来たが、カイエンは「大丈夫だ」と、彼の翡翠色の目を見上げてうなずいて見せた。
カイエンは、アルウィンの棺に群がり、手帳にメモを取り、連れて来た絵描きに棺の周りの様子やら、棺の中の様子やらを描かせている記者たちの姿を、その輝く灰色の目で追っていた。
そして、不意に強く思ったのは、自分は死後、この霊廟には納まりたくない、ということだった。
そう思った途端に、カイエンの目の奥を通り過ぎて行ったのは、明るい太陽の照らす残像のような風景。一瞬の幻のような風景だった。
そこでは、遠く西の大海を望む、ハーマポスタールの高い丘の上に、大小の墓標が潮風に吹かれて立っていた。そこからは港の船が見え、ハーマポスタールの市街が海のすぐそばまで広がる様が一望できた。
市街は騒乱に襲われることなく繁栄し、静かにそこにあり、港にはいくつもの船が停泊していた。
ああ。
あんな所に、ここにいる大公軍団の皆と一緒に眠りたい。カイエンはそう思い、六月終わりの陽光の眩しさに目を細めた。
「もうそろそろ、殿下ちゃんは戻っていいってよぉ」
そして、いつもと同じ、能天気な響きのあるイリヤの言葉に、カイエンははっとして現実に戻って来た。
あまり長く強い陽光に晒されると気分が悪くなったり、皮膚にできものができたりするカイエンは、六月も終わりの強い日差しから避けるために、この木陰の椅子に座っていたのだ。だが、それでもむしむしするような気がして、カイエンは大公軍団の制服の襟元に指を入れ、少し緩めた。
「ああ、わかった。確かにもう後は親衛隊の連中に任せておけばいいな。……モンドラゴンももう、新聞記者たちの使い道はわかってるはずだ。彼らが満足するまで、辛抱するくらいの事は出来るだろう」
「大丈夫ですか?」
座っているカイエンの顔を覗き込むようにした、サヴォナローラの左右には、よく似た色合いのシーヴとリカルドが見えた。リカルドはサヴォナローラの方が気になるようだが、シーヴの方はカイエンの普段と違う様子に眉をひそめている。シーヴがあれでは、ヴァイロンやイリヤもとっくに気が付いているに違いない。
「……あいつの娘だってバレたら、どうやり過ごすかなって考えてた。それと、私はここには葬られたくないって思ってた……かな」
カイエンが素直にそう言うと、皆が同じような顔をした。そんな事は今、心配しなくともいいのに、心配せずとも、誰もあなたを責めたり、あなたの意志を違えたりなどしないのに、と。
「そうでしたか。ちょっと気が立っておられるようですね。……じゃあ、こう考えたらどうでしょう」
サヴォナローラがこんなことを言い始めたので、イリヤの後ろから来ていたザラ大将軍や、ナシオとシモンたちまでもが木陰に集まることになった。
「今の、このハーマポスタールでのこと。来月には螺旋帝国まで一気に伝わっていくでしょう。こちらも連絡網を敷き詰めておりますが、それは向こうさまも同じでしょうから。螺旋帝国に潜んでいるあの方、こうしてやっと仕掛けていたご自分の墓の中身が公開されて、さぞやお喜びになるでしょうね」
サヴォナローラは慎重に誰のことだか分からないように話してはいたが、そこにいた皆が、「あの方」がアルウィンであることに気が付いていた。
「しかし、一方であの方は失敗もしているのです。この度のことでお怪我をなさったのは、ザイオンのトリスタン王子で、皇帝陛下ではございません。皇帝陛下がお怪我をなさるかどうかして、政治を見ることができぬ状態になったとしたら、ベアトリアがマグダレーナ様とフロレンティーノ皇子殿下を担いで、早速出張ってくる予定だったのでしょう。ですが、それは皆様の御尽力で防ぐことが出来ました」
ここでサヴォナローラは言葉を切ったが、すぐにその顔には皮肉そうな表情が浮上して来た。
「でも、あの方ご自身は、きっと歓喜しておられるでしょうね。……ご自分がやっとこのハウヤ帝国の大逆罪人になれたことに……」
「それじゃ、
イリヤはそう口を挟んだが、ザラ大将軍の意見は違うようだった。
「ははあ。姪のオドザヤ陛下のことなど、あやつにはどうでもいいことだろうからのう。本気でお命を狙わせたのかもしれん。ベアトリアもそろそろ動き出したい頃合いだっただろうしの。……だが失敗した。トリスタン王子の方が怪我をしたせいで、この国とザイオンとの間にはどうしても多少のひびが入ろう。まあ、スキュラの件で暗躍していたかの国だ、こちらから見れば、とっくにひびは入っておるのだが。それにしても、トリスタン王子のお怪我の元となった皇帝暗殺未遂の首謀者は、もはや公的にこの国の皇子ではなくなる。なんぼでも言いよう、かわしようがございますよ……大公殿下、前大公の名前は、皇帝家の皇統譜から抹消されるのでしたな?」
カイエンはうなずいた。
「その通りです。その代わりに、螺旋帝国の外交官、朱 路陽を呼び出し、身柄の引き渡しを要求します。まあ、当然、知らぬ存ぜぬでしょうが」
カイエンがこの時そう言ったように、皇宮からの呼び出しに応じた朱 路陽は言を左右にして、決してアルウィンと桔梗星団派、それと螺旋帝国との関係を認めなかった。まあ、認めるはずがない事は皇宮でも計算済みだ。それは、「ハウヤ帝国は前大公の率いる桔梗星団派の背後に螺旋帝国あり、と既に知っているぞ」という事実の通達に過ぎなかった。
カイエンたちが木陰でそんな話をしているうちにも、記者たちの「取材」はそろそろ終わったらしく、その日はカイエンたちもそのあたりで霊廟を後にしたのだった。
死んだはずの前大公が生きており、そして大逆罪に問われる、という一連の事件を扱った読売りも、国家非常事態宣言の報道を最後に読売りの一面を飾ることもなくなり、一見しては普段の落ち着きを取り戻した頃。
宰相府と元帥府から「国家非常事態宣言」が発動されたものの、日中の市内の賑わいや人々の生活に影響するような制限は主に夜間に限られていたので、市民たちは概ね、平静を取り戻していた。
あの、六月の皇帝オドザヤの結婚式の日。桔梗星団派の一員らしい黒衣の怪人について、大公宮へ引っ張っていかれて話を聞かれた、アメリコ・アヴィスパ・ララサバルも、もうとっくに自分の所属する「デメトラ号」での勤務に戻っていた。
アメリコは一般的な水夫の上の下士官である。だが、この間に大した違いはない。あるのは、下士官から上は海軍の制服を支給されて着ていることと、帯剣していることくらいだ。
帯剣しているということは、剣の腕にある程度以上、つまりは船長やら士官たちから認められるだけの技量があるからだ。アメリコの場合、ナイフ使いの方もなかなかだった。特に投げナイフが得意で、
この辺りの技量から、今度の公開で仕入れて来た短銃の船内腕自慢大会で一番になったのだろう。武器の扱いも手慣れていたが、何よりも彼の青い目はかなり視力がいいのだ。
その上に、彼はアンティグア語の読み書きも計算も出来た。これは実は陸でも海でも大切なことで、これが出来ないと一生を水夫のまま終わってしまう。
そんな彼だったが、黒衣の密航怪人を追いかけ、すんでのところで逃げられてしまった。そして、そのままトリニたち治安維持部隊と、後から出て来た帝都防衛部隊の隊員たちによって、大公軍団の本部である大公宮へ引っ張っていかれてしまったのだ。
そして、大公宮で、それも大公殿下直々に、一人また一人と背人が消えていく恐怖の航海の事情を聞かれ、無事戻ってくると、他の船員たちの彼を見る目が少々変わったことを意識せずにはいられなかった。
「大公宮から、直々に……それも大公殿下のご署名入りの感謝状を頂戴したぞ! その上に、長鉄砲も短銃も、すべて買い取ってくださるそうだ」
船長などは栄誉と儲け話にニコニコで、どうせ怪人にやられた乗組員の代わりの補充が済むまでは出航できないのだから、お前、納品に行くついでに大公宮へ鉄砲の扱いについてご説明に行け、などと言う。
「お前、まかれずに追いかけてって、あのバケモノの顔見たんだろ? それで生きて戻って来たんだから、まー、運が強いってぇか、怖いもの知らずってか、まあ、すげえよ。あんなの捕まえて来ても船でまた暴れられたら困りもんだったからさ。くわばら、くわばら。
士官たちも、とりあえずの恐怖の対象がもうこの船に戻ってくることはない、と知ればアメリコへの目も優しげになる。
「いや、あれはあのトリニさんっていう、めちゃくちゃ強い治安維持部隊員のお姉さんが出て来てくれたからで、俺一人だったらすぱっと殺されてたと思います。街中で短銃ぶっ放すわけにはいかないですから」
アメリコは正直にそう答えたが、それを聞くと、皆はもっと喜んだ。皆、一人、また一人と消えて行った航海の間は、真っ青な顔でろくに食事もできず、緊張を強いられていたのだ。だから、ちょっとでも景気のいい話ならすぐに飛びついてくる。
「へえ、さすがは大公軍団の治安維持部隊だなぁ。男ならまだしも、そんなに強え姉さんがいるのかい?」
「女性隊員がいるとは耳にしてたけど、そんなのがいるんだな。……でも、でっかくて、男にしか見えないような筋肉もりもりの大女なんだろ?」
これにはアメリコはしっかりと訂正を入れておかなければならなかった。
トリニは命の恩人でもあるし、その上にあの真っ黒怪人相手に一歩も引かずに向き合っていた強者だ。あれは後ろから見ていて背中がぞくぞくした。それに、トリニは後でアメリコに、
(あんたが出て来てくれて助かった。あのままやりあってたら、何人も殺しているあいつの方が間違いなく勝っていただろうからね。私は市民を守るのを第一に戦うしかないけど、あいつの方は関係ない人でもいくらでも巻き添えに出来たんだし)
と言ってお礼の言葉も言ってくれた。
「先輩、それだけは違いますです! トリニさんは確かに俺よりかなり背が高かったですが、すらっとしてて、それにかなりの美人さんでしたよっ! 強いのも間違いないっす。俺、怪人と対峙してるの見てて、背中がゾクゾクしましたもん」
アメリコがちょっとムキになってそう反論すると、年長の乗組員たちは皆、にやーっと意味ありげな笑いを浮かべてアメリコを見た。アメリコもそうなることは予想の上で言ったのだったが。
「アメリコ、いやにムキになって言うじゃねーか。おめーよりでかい女なら、まあ、いねえこともないよなあ」
確かに、アメリコはまさに中背と言ったところで、女でもちょっと背が高い女なら彼よりもでかい女も結構いる。
「美人だけじゃなくて、かなり、って言うんじゃ、まあ良かったじゃねえか。名前も教えてもらったんだ、お前今度また大公宮へ銃の取り扱いのことで行くんだろ? 再会できるといいなあ」
あれからすぐ皇宮から出された、大逆罪の前大公の騒ぎで、鉄砲や短銃を納めに行くことも、ついでに扱いかたを「ご説明」にうかがう方も先延ばしになってしまっていた。
アメリコはこの時は、いい加減なこところで話を打ち切って逃げ出したが、あれからもう何日も経つ。
船は殺された乗組員の補充が済むまで、港にいるしかない。航海中と違って、操船にかける時間は船の修理などに回すが、それでも乗組員は航海中よりは時間があった。
だからでもないが、その日、アメリコは士官に断りを入れ、下士官室の自分の名前の木札を裏返しにして一人、桟橋につけた船から降りた。
今、このハーマポスタールには非常事態宣言が出されているので、夜の商売が多い場所では早い店じまいの代わりに、夕方から早めに店を開けている。仲がいい船員がいないわけではないが、いつもは下船してこの街をぶらぶらすることなど時間がなくて出来ないので、一人、目標もなく歩いてみたくなったのだ。
今回のように長く港に入っている場合には、船からの出入りに縄梯子よりもマシな折りたたみの階段と梯子の中間のような物を使う。非常事態宣言の最中だから、夜は船の上へ引き上げるが、これなら身軽な船員たちなら手を使わずにスルスルと降りてこられる。
アメリコは下の桟橋の上など見もせず、港の周りに広がる焼いた魚や、揚げ魚を売る店、商店と船との貿易の仲介をする店の窓の中などを見ながら降りて来たので、階段梯子を降りきるまで、デメトラ号のすぐ真横に突っ立っている若い男には気が付きもしなかった。
「ねえ君、この船の人?」
気が付いたのは、さてどっちへ行こうか、と制服の襟を正し、帽子をしっかりとかぶり直した時だった。
「え?」
アメリコが声に気がついてそっちを見ると、思いがけない近い距離で、身なりのいい若者がこっちを見ていた。
いや、身なりは庶民とは思えないほどにかなりいい。アメリコはとっさに、これはもっと上流の人間が下々の服装に合わせて無理に作ったものだと判断していた。
季節はもうすぐ七月だからかなり気温も上がっている。アメリコたちも夏の麻の制服を着ていた。若者の上着も麻ではあったが仕立てのいいもので、きちんとアイロンがかけられていて皺ひとつない。色は地味な黒っぽい深緑だが、その下に着ているシャツは一目で下ろしたてとわかる真っ白な上等の木綿で、おそらくは一度も洗濯板で洗われたことはないのであろうと思われた。
若者は、そうした服装の腰に細身の剣を携えており、その柄や鞘の細工の具合も、金がかかっている。
「ねえ、港湾事務所で求人を見て、やって来たんだけど。これがデメトラ号なの?」
若者は、自分の身なりを観察し始めたまま、ろくに答えもしないアメリコに、ちょっと苛立った声音になった。
このくらいでご機嫌斜めじゃ、どっかの大商店の息子かなんかだろう。アメリコは今度は若者の顔の方を見上げた。中背のアメリコよりも若者の顔はやや上の方にある。
このハーマポスタールでは珍しく、肌の色はアメリコと同じような珈琲色だ。髪は漆黒で、きれいに後ろへ撫で付けてある。だが、顔つきの方は額が秀でていて彫りが深く、細い鼻梁が尖っていて、明らかに北方の人間の特徴がある。その容貌には明らかに北と南の混血の違和感があった。
笑ったことなどないのではないか、と心配になるような仏頂面で、しかめた直線的な眉の下の目は、赤銅色だった。アメリコの青い目ほどではないが、南方系には珍しいかもしれない。
年齢は二十歳前後。アメリコよりもやや下だろう。アメリコは自分も顔立ちはともかく、目は青い目で北方と南方の血を引く外見なので、少しこの若者に親近感のようなものを覚えていた。
「そうだけど」
そう言いながら、アメリコはこの男は殺された乗組員の分だけ出された求人に募集して来たのだろう、ということは若者の言葉で理解していた。本来なら、求人は港の周旋屋やら口入れ屋やらに頼むのだが、今回は人数が多いので、港湾事務所にも張り紙をさせてもらっていた。
だが、それならば先に港湾事務所から連絡が来そうなものだ。求人は海軍の事務所へも出している。どちらも有象無象が直接船に押しかけないよう、ある程度の聞き取りをし、書類を作ってから船へよこすはずなのだ。
現に、もうすでに採用した厨房見習いの小僧でさえ、前もって書面で連絡して来てから本人がやって来ていた。
「士官、下士官、水夫に炊事係見習いまで、どうしてこんなに急に人手不足になってるの、この船?」
突っ立ったまま、若者はやっとアメリコの顔をまともに見た。そして、当然のようにアメリコの珈琲色の顔に嵌っている青い目に気が付くと、やや驚いた顔になった。
「ああ、そこまでじっくり見てから来たのかあ。……港湾事務所で求人見たんだよね? 紹介状、もらって来た?」
書類持参なら、今度のこの船の大量募集の理由も聞かされているはずなのだ。それは、「大しけで甲板の乗組員が波にさらわれ、その直後に海賊に襲われた」というもっともらしいものだった。まさか、黒衣の皆殺し野郎に密航されて、乗員が十人以上も殺されたから、とは言えない。
だが、この若者はそれを聞かされていないらしい。
となれば、求人に応募するときに手数料を払って書類を作ってもらってはいない、ということだ。つまりは「飛び込み」の応募者なのだろう。手数料は不採用になれば戻ってくるが、その手間をこの身なりのいい若者が惜しんだ理由はなんだろう。アメリコの目には思っていることがそのまま出ていたらしく、若者は言いにくそうに言葉を続けた。
「いや。僕、いや俺はその、身元を聞かれるとちょっと困るんだ。でも! 経験がないわけじゃないよ! これでもラ・ウニオンの内海で船に乗って、海賊とも戦って来たんだ。剣技も自信はあるし、航海長の仕事も出来るよ」
若者は、身元のところで文句を言おうとしたアメリコを無理矢理に押しとどめた。
なんだこいつ。
アメリコはちょっと面倒臭くなって来たが、一方でこいつはいい「暇つぶし」かも、と思い始めていた。
「へえ。航海長の仕事が出来るって事は、六分儀を使って、海図と合わせて船の位置を計算出来るってわけだな?」
悔しいが、アメリコは計算があまり得意ではないので、航海士の仕事は苦手だった。いずれは下士官から士官になるつもりだったから、学ぼうという気持ちは持っていたが。
「ああ。それなら出来るよ。君、見たところ、この船の下士官だろ? ぼ、いや俺はフランセスクっていうんだ。苗字は……そうだな、デラクルスでいいや。フランセスク・デラクルス、あの、紹介状はないんだけど、採用試験を受けられないかと思って」
アメリコは確信した。
こいつ、いいとこのボンボンだわ。それも家出志願かなんかの。なんだ? 身元を聞かれると困るとか、適当に今でっち上げたんだろう名前とか。バレてないと思ってるのか、バレててもなんとかしちまえると勘違いしているのか。
それでも、アメリコはそんなことにはまるで気が付いていない風で、こんな返事をしている自分を「そんなに暇かよ」と自嘲気味に思った。
「フランセスク・デラクルス君ね。いいよ、まるで海のことを知らないわけじゃなさそうだから。今、本当にこの船、人手不足でね。士官や船長も、仕事さえ出来れば、そんで人殺しの趣味さえなければ、誰でも次の航海へ連れて行ってくれるかもしれないからさ」
フランセスクは「人殺し」のところで赤銅色の目を見張ったが、その真なる意味は分からなかったから、アメリコの言葉に乗って来た。
もちろん、そこにいたのは、このハウヤ帝国の南方を守る、三大公爵の一人、バンデラス公爵の長男、フランセスク・バンデラスに相違なかった。
「それじゃあ、試験を受けさせてくれるんだね?」
勢い込んでそう言うフランセスクを、アメリコは顔をにやつかせないように頑張りながら答えた。
「俺は下士官だから、まずは上に行って、上官に話してくるわ。今足りないのは、炊事関係やらなんやらを抜かせば、操舵手とぉ、俺みたいな腕に覚えがあって、複数の持ち場に回れるやつだからな」
言いながら、アメリコはフランセスクの全身をもう一度、上から下まで眺め渡した。
立っている体の体幹は良さそうだ。だが、このお坊ちゃんが、海の男として役に立つのかどうかは、アメリコの決めることではなかった。口入れ屋だの港湾事務所だのの紹介状がないことで、上の連中も、アメリコと同じ判断をするだろうが、それでも、仕事ができるのなら積み込んで出航してしまえば後腐れはない。
「なんだよアメリコ! まだそんなとこでウロウロしてんのか!
上から降って来た士官の声をいいことに、アメリコはこう返事していた。
「なんか、事情があるらしいんですけどー、紹介書なしのこの若いのが、航海士見習いで応募したいんだって言ってここまで来てるんでさあ!」
「航海士……見習い?」
フランセスクはアメリコの言った言葉の最後のところが気になったが、もう、後には引けなかった。
「はあ? 紹介書もなしの飛び込みかよぉ。まー、いいや、人手は大いに不足してるんだ。連れてこいや! おーい、おやじさん、副長! 飛び込みで、航海士見習い志望だって言うのが来てるみたいですよぅ」
その言葉が終わらないうちに、フランセスクはアメリコに背中を押されて、デメトラ号の甲板へ向かう簡易階段へ押し上げられていた。
「まー、航海士見習いに固執しなけりゃあ、あんたなら傭ってもらえるかもよ。確かに、人品人柄は申し分ないや。金にも執着なさそうでいい。まー、最大の問題は、あんたの家族の方だな」
アメリコの言葉の最後の方は、フランセスクには聞こえなかった。彼はアメリコに押されるがまま、デメトラ号の上へ押し上げられて行った。
パナメリゴ大陸の西の端、ハウヤ帝国から一番遠く。
それは螺旋帝国に相違なかった。
ハウヤ帝国が、前大公アルウィン・エリアス・エスピリディオン・デ・ハーマポスタールを大逆罪の罪人として告発し、皇統譜から名前を消去する、と発表してから一月あまり。
その情報は早くも、螺旋帝国に潜む当事者本人の元へ届いていた。
「ああ、やっとだね! なんてトロトロとして遅いんだろうね、あの子達は。やっとこれで僕は『自由になれた』と言うわけだよ!」
もう故郷を永遠に追われ、パナメリゴ大陸中に指名手配されたも同然の男は、豪奢な紺色と金色で飾り立てられた、この国での彼の屋敷で、歓喜にむせび、凱歌をあげていた。この様子は、ハウヤ帝国でカイエン達にはもう予想され済みのことだったが、当人はそんなことには頓着はない。
「アルウィン・エリアス・エスピリディオン・デ・ハーマポスタール! この長ったらしい、嫌な名前とも、これで永遠のさようならだ!」
アルウィン、いやこれからは桔梗星団派の首魁、チェマリと呼ぶしかない男は、嬉しさのあまりか座っていた螺旋帝国風の長椅子から勢いよく立ち上がり、すぐそばにいた腹心の男、それはあのアルベルト・グスマンだったが……の両手を掴むと、なんと、踊り始めたではないか。
「サウル兄さんの娘を殺し損ねたのは残念だったし、だから、ベアトリアの連中はガッカリだろうけど、これでやっと! やっとあの子達が僕を、悪の枢軸としてこのパナメリゴ大陸中に知らしめてくれたよ! ありがたいね! シイナドラドの皇王バウティスタにはしてやられたようだけど、まあ、敵もそれなりじゃなきゃあ、面白みも何もなくなるからね!」
シイナドラドの皇都ホヤ・デ・セレンを包囲した、反乱軍とそれを後押ししている螺旋帝国国軍からは、封鎖を解く手段が依然として見つからない、という報告が来たきり膠着状態が続いていた。
「……カイエン様があなた様の実子だということが、露見しなければいいのですが」
グスマンは現実的な音葉で応じたが、アルウィン、いやチェマリはもうそんなことには構おうとしなかった。
「そんなこと、バレたってあの子の方ももう、動じやしないよ! もう、サウルもアイーシャもいやしないんだ。あの子はどうとでも話を作れるんじゃないか。あの子ももう二十二だよ! 七年前の小さな、なーんにも知らない女の子じゃないさ。きっと僕を散々に扱き下ろして、踏みつけにして、必ずぶっ殺してやる、って誓ってるに違いないさ!」
チェマリはそう言うと、グスマンの腕を無理矢理に引っ張って、くるりと回転させた。
「でも、簡単にはぶっ殺されてなんかやらないよ。僕はやっと過去のしがらみ全部をぶった切ったんだ。もう、僕はハウヤ帝国の皇子じゃないんだ。いいね、もう僕の足枷は無くなった。あの子ももう、僕の娘じゃなくなるのかと思うと、それだけは寂しいけれど、これはもうしょうがないよねえ」
そこまでは大きな声で、部屋の外へも聞こえるように話していたチェマリだったが。
ふっと、グスマンの手を離し、部屋の真ん中で立ち止まってからの声は小さな、それは小さな呟きだった。それを聞き取るのは、螺旋帝国側の影使いでも難しかっただろう。
「……もうこれで決まったね。もう、僕はあの子の父親じゃなくなった。だから、僕はあの子に殺される。いいや、僕はあの子以外には殺されやしないよ」
グスマンは賢明にも何も言葉を返さずに黙っていた。
「貴女と共に、太陽の黄金の階段を昇って参りましょう。そして、焼き尽くしてしまいましょう。この大地にあるすべての思い出を焼き尽くしてしまいましょう。……私が次にここを訪れても、何処だかわからないように。何も残すな、何も忘れてくるな。火焔よ焼き尽くせ……私が悲しまないように……」
それは、螺旋帝国の新皇帝、
そして同じくそれは、チェマリの見ている未来でもあったのか。
「チェマリ……」
何かいいかけたグスマンを、チェマリは彼の唇の上に青白い指を置くことで黙らせた。
「今も僕は
グスマンは、チェマリの頰を伝う涙を認めて、愕然とした。
「だから、これが僕の最期の望みなんだ。わかるだろう? 僕はあの子に殺されたい。それも、遠くから手下を送り込まれてこの世から消し去られるなんてまっぴらだ! あの子、カイエンの手で、直に息の根を止めて欲しいんだよ!」
狂っている。
腹心のグスマンでさえもが、この時、チェマリの言葉を浴びせかけられて感じたのは、それだけだった。
「だけど、そのためには僕はまだまだこの世に留まって、生きていかなきゃならないね。時間がかかる、でもそれを始めたのはこの僕なんだよね」
グスマンはこの時初めて、自分とチェマリの年齢を考えた。
彼らの計画をやり遂げた時、つまりはカイエンがチェマリをその手で殺しに来る時、自分たちは幾つになっているのだろう。
チェマリはこの時、四十五。
この時代の平均寿命はせいぜい五十歳、といったところだっただろう。貧しくて医師にかかれないような庶民ではなく、病を得ずに生きたとしても齢七十になれば「珍しい」と言われた時代。
ああ。
グスマンはこの時初めて、焦りを感じていた。
狂ってはいるが、この人の望みを叶えるにはもう、それほど長い時間があるとは言えないのかも知れない。だが、彼は知っていた。この人の望みを叶えるために自分はここまでついてきたのだと。
「いいでしょう」
グスマンは、チェマリの耳元で囁いた。
「その時が来たら、私が必ず、カイエン様をあなたの元へ連れてまいります」
と。
このパナメリゴ大陸の端から端までを駆け抜けたとしても。
だが、それがほとんど夢物語であることも、グスマンは悟っていた。老いていく彼の前に、あのヴァイロンやイリヤたちが立ちはだかる。それを打ち倒してまで成せるとは思えなかった。
「そうなの?」
チェマリの頭の中では、ハウヤ帝国を飛び出したその時から、時間は流れを止めていたのかも知れない。でも、それはあり得ない
「ええ、そうです」
グスマンはまだ何か言いたげなチェマリを両腕に抱きしめるようにして、寝室の方へ誘いながら、思っていた。
(……勝ち負けではない。最初っから我々にとってはそうなのだ。元から決して得られないものを得ようとして足掻く戦いなのだから)
そう思いながらも、グスマンの頭の中には戦火で燃え上がる街が見えていた。思い出のすべてを焼き尽くす地獄の炎が。
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