愛を囁く人ごろし
「
そう、呟きながら人を殺していく男たちがいた。
「彼ら」は彼らの住む辺境の島の村の一族の中で、世代ごとに一人、現れる、生まれながらの人ごろしだった。
「彼ら」は告死の死神と言うよりも、世に悪を振りまく悪魔というよりも、ただただ簡単な「人ごろし」だった。
彼らは彼らの故郷で生まれ、そして成長とともに彼が「彼ら」の一人だと村の人々が気が付くと、すぐに村から追放された。
なぜ、村人たちは彼らをまだ害の少ない子供の頃に殺さなかったのか。
それは、「彼ら」を報酬よりも喜びを糧として使える便利な「暗殺者」として、「殺戮者」として、村の外へ売り払っていたからだった。
最北の寒村にはわずかに漁で得られる魚の他には、ほとんど実りの見込めない畑、放牧する痩せた羊や山羊しか得られるものはなかった。それは彼ら一族を養うにも足らず、物々交換で手に入れるしかない物を得るには、大地以外からの「収入」が必要だった。
「彼ら」以外の男たちも、秋から冬には出稼ぎに出た。と言っても、行く先とて北国だ。そうそう出稼ぎの口もない。
「彼ら」人ごろしには皆、同じ名前が付けられた。
それは彼らの住む島の名前であり、そして、大陸の北方に伝わる恐ろしい伝説、「マトゥサレン爺さん」の名前もあった。
マトゥサレン。
すべての時代、世代の「彼ら」は、皆、マトゥサレンという名を持っていた。
もちろん、生まれた時には違った名前が付けられていたのだったが、彼らの「本性」が明らかになると同時に、彼らの名前は速やかに変えられた。
パナメリゴ大陸の西側の北方、マトゥランダ島。それも寒い寒いその島の北の果ての一族。彼らはマトゥランダ島の大惣領、小惣領たちの作る「寄り合い」からも隔絶されていた。つまりは島には居るが、無いものとされて来た一族だったのだ。
それはもちろん、「彼ら」という恐ろしい怪物を生み出す一族だったからに他ならない。この一族が島の惣領たちによって滅ぼされなかったのは、世代ごとに現れる「彼」の報復を恐れたからだ。歴史の中で起きた、幾度かの失敗の後、島の惣領たちはこの北の果ての一族自体の存在を無いことにしてしまうことで、彼らの安寧を得たことにした。
そして、そんなこの世界の北の果てに打ち捨てられて住む彼ら一族の、もっとも大きな収入源が、「彼ら」だったのだ。「彼ら」は一族に対しては律儀で、高額で売り飛ばされた先から、仕送りをする者も多かった。
彼ら、「マトゥサレン」の前では、祈りなど何の役にも立たない。彼らの血潮は一人殺せば、もう次の殺しへの渇望に滾るだけなのだから。
だが、彼らは呟くのだ。
「お前を愛しているよ」
と。
殺し、滾り、殺し、滾り。
その繰り返しの人生の中で、殺すたびに彼らは呟いて来たのだ。
それは、餓えなのかもしれない。親にも一族にも見放され、売り飛ばされ、求められるのは彼らの本能だけ。だから、きっとそれは彼らが人を屠るための呪文だったのだろう。
マトゥサレンたちは気が付いていたのだろうか。彼らが呟く呪文の中の嘘に。そのことばの儚いまでの無意味さに。
マトゥサレンたちは葬らない。祈らない。人間らしさといえば彼らの呟く呪文だけ。彼らの生まれた寒村から連れて来た、冷たい愛の言葉だけだった。
最後の「彼」も、もちろんマトゥサレンという名前だった。
彼が最初に売り飛ばされたのは、遠い遠い東の果ての帝国。わざわざ、パナメリゴ大陸を横断し、彼らの村まで彼を買い取りにやって来た男は、その帝国の役人だったと言われている。役人は、まだ十にもならぬ彼を買い取ると、彼の国へ連れて行った。
彼は東の帝国で、命じられるがままに殺し続けた。その時代、東の帝国は政治的に不安定で、民衆は怒りを体いっぱいに溜め、耐え忍んでいた。だから、彼の仕事はいくらでもあったのだ。
一人の将軍が、彼の雇い主、いや「持ち主」が自らの仕える皇帝だとは知らずに彼の前に立ちふさがるまでは。
将軍は彼を倒すことは出来ず、彼もまた将軍を殺すことが出来なかった。
将軍は、皇帝によって政治的に葬られ、その地位を追われた。
その後の彼と将軍の行方は、その東の帝国に「革命」が起こり、王朝が変わったためにうやむやになった。
彼は戸惑う時間もなく、新しい雇い主に拾われた。
そして。
最後のマトゥサレンは、彼の故郷に近い、大陸の西側へ送り込まれた。
そこに彼が唯一、殺し損なったあの将軍がいると騙されて。
あああ、爺さん帰ってきたよ
真っ黒い道をまっすぐに
真っ白い骨をひき連れて
マトゥサレン爺さんのお帰りだ……。
ハウヤ帝国の北方には、一つの童謡があった。
動物みんなを船に乗せて連れ去った、「長生き爺さん」マトゥサレンは帰ってくるのだ。一人だけで、動物たちの真っ白な骨を引き連れて。
彼も同じだった。戻って来たということでは。
最後のマトゥサレンもまた、東から西へと大陸を二度、横断して戻って来たのだ。
歴代の彼ら、マトゥサレンは皆、同じような姿をしていたと言われている。
細長いとも言えるような長身と痩身。真っ黒な髪に白目と黒目がはっきりしない、淀んだ泥濘のような目。黄色味がかったなめし革のような質感の、高い鼻梁が目立つ、痩せた、彫りの深い顔。
最後のマトゥサレンはそれからどうしたのか。
どうして、彼が最後のマトゥサレンになったのか。
それは……。
アル・アアシャー「海の街の娘の
「……周到なもんなんです。あいつ、操船に関わりのない船員から始めたんですから」
大公宮の奥殿。大公カイエンの書斎。
そこに集まった皆は、それなりにゆっくりと味わって晩飯を共にしたのち、一人の海軍服の若者を取り囲むように座って、彼の話を聞いていた。
途中で、帝都防衛部隊長のヴァイロンが来たので、イリヤとカイエンを挟んで座っていたマテオ・ソーサが遠慮して場所を空け、教授はヴァイロンの横にガラが運んで来た椅子に座った。
彼らに取り囲まれているのは海軍下士官の、アメリコ・アヴィスパ・ララサバルだ。
治安維持部隊隊員のトリニと、帝都防衛部隊の精鋭であるロシーオとアレクサンドロは、ゆったりと三人がけのソファに座り、一人がけの椅子に座った彼を挟んで、反対側にこれも帝都防衛部隊のサンデュが一人で座っている。
サンデュは南方の、おそらくはネグリア大陸人を祖先に持つらしい、珈琲色の肌に少し縮れた黒い髪の男だが、アメリコも肌や髪の具合は同じような感じだ。違っているのは、サンデュはかなり長身だがアメリコは普通の範囲内であることと、彼の目の色だ。
アメリコがここへ連れて来られたのは、オドザヤとトリスタンの婚礼披露のパレードで暗殺劇を繰り広げた、桔梗星団派の一人、元は螺旋帝国前王朝「冬」の皇子、天磊の身柄を隊員のトリニが確保した直後に、彼女から奪い取って行った、あの黒衣の怪人のことを聞くためだった。
黒衣の怪人はトリニの父、元は螺旋帝国の将軍だった、
あの時、トリニたちがアメリコから聞いたところでは、トリニの父に匹敵するその技量もさることながら、とんでもないことをもうすでに、ハーマポスタールへ来る海の上でしでかしていたらしいのだ。
(このおっさんは俺たちの船に密航して、このハーマポスタールでまんまとタダ乗りしやがったんだ。それも、おっそろしいことに、見つかるたびにその船員をぶち殺して海に捨てちまうから、俺達ゃ、恐怖のどん底でやっとハーマポスタールにたどり着いたんだぜ)
トリニはアメリコからこう聞いているが、その詳細を今、彼は話しているのだ。
「最初は、厨房の小僧からでした。ラ・ウニオンの内海での交易を終えて、出航したばかりだったんで、まだ新鮮な野菜があったんですよ。だから夕方、晩飯の準備で、小僧はそいつを洗いに船の船尾の方へ向かったんですが、それきり、忽然と消えちまったんです。もう料理に取り掛からないといけないのに、戻って来ないって料理長がかんかんになって怒って、他の小僧どもが見に行ったら、野菜の入った木の桶だけが残ってたんだそうで」
そんな風に話し始めたら、この帝都ハーマポスタールの大公であるカイエンを目の前にしても、なかなかに話し上手なアメリコの色黒な顔の中で一番目立つのは、彼の目の色だ。その両目の虹彩は西の大海の海原のように青い。普通はそんな目の色の人間は肌の色も薄いはずなのだ。
海軍の帽子を取ると、漆黒の自然にきれいに巻いた髪の毛もあって、珈琲色の顔つきがやや幼く見えた。
「じゃあ、最初に殺られてったのは、他の見習いの若い子たちってわけ? ……それにしても、密航者だったんでしょ、その殺人鬼。最初に厨房の小僧さんがやられたのは、食べ物目当てとか?」
そう、アメリコに聞いたのは、大公軍団軍団長のイリヤだ。
アメリコの乗り組んでいた船の名前は、「デメトラ号」といい、中型の帆船で、未だハウヤ帝国の海軍としての仕事がないのをいいことに、船長の勝手な判断でハウヤ帝国南方、ネグリア大陸と向き合う、ラ・ウニオンの内海で商売をしていたらしい。
「それが、違うんですよ。と言うか、奴がどこから食いもんを取ってったのかなんて、最初のうちは誰も気が付かなかったんです。……だって、これはもっと後になって、現場を見てからわかったことですけど、奴は殺してすぐに死骸を海に放り込んじまうんですからね。最初のうちは暗くなってから甲板に出ていた奴らばっかりがやられたし、多分、小僧やらあんまり腕に覚えのない役目のやつら相手で、刃物なんかも使わなかったんでしょう」
ここまでいうと、アメリコはしばらく黙ってしまったが、カイエンたち皆は辛抱強く待った。彼は考えをまとめているように見えたからだ。
「……いや、今にして思えば、単に……恐ろしい想像ですが、船一つ丸ごと皆殺しの手順みたいなのが、やつの頭にはもうあって、最初の頃の殺しは血の跡を残さない方が警戒されずにうまくいくってことかもしれません。それで最初の頃は痕も残ってませんし、見張り台のやつも何も見てないんです。まあ、見張り番は海の方を見てますしね。そんなこたあまあ有り得ないと思いながらも、波にさらわれたとみんな思ってたんです」
ここまで聞いただけで、カイエンはもうゾッとした。それは彼女だけではなく、その場の全員の印象だったらしく、言葉を挟むものはなかった。皆、船の中の構造などには詳しくない。それでも、そうして一人、また一人、と人員が減っていく日々の不気味さは想像できた。
カイエンは、船一つ丸ごと皆殺し、とアメリコが言った時には、カイエンはすぐにあの、バンデラス公爵家の支配するモンテネグロの港に、血まみれの無人船として現れた、ラ・パルマ号のことをすぐに思い出した。だが、今はまだ決めつける段階ではない、と口には出さなかった。
「アメリコ君、じゃあ、最初のうちは操船に関わりのある船員や、君みたいな戦闘要員はやられなかったってことだね」
そう聞いたのは教授で、その言葉で皆が気が付いたのは、このアメリコは殺されずに怪人をハーマポスタールの港から、金座のあたりまで追跡して来た、という事実だった。船ではいざとなればほとんど総出で戦うのだろうが、それでも士官、下士官で登録されている者は、他の水夫とは違うのには違いない。
「はい、ってか、一応、大人の船員はみんな喧嘩くらいはいつものことだし、いざとなった時に戦えないようなのは、うちの船にはいないんですけどね。俺は年齢的に下士官として登録、になったんですけど、年上の士官で登録になった人たちは、いくら商船でも海賊と一戦もやってないような人はいないんです」
どうやら、先帝サウルの御代の終わりに創立されたハウヤ帝国「海軍」の階級は、大雑把に年齢で決められたようだった。まあ、それは元々の商船の中での役目や階級に比例したものでもあったのだろう。
「ま、そうでしょうねぇ。それで、一人、また一人といなくなっていって、と。何人目辺りで危ないのが密航しているんじゃないか、ってことになったの?」
そう聞くイリヤの顔は面白そうだ。彼もさすがに海の上のことには門外漢だろうが、似たような事件は扱ったことがあったのかも知れない。
「数を言うと、俺たち相当鈍くて、その上にバカだな、と思うんですが、正確に言いますと十一人目からです。……目撃者が出たんです。砲門担当の熟練の船員で、夜中に催して甲板に出て来たところで、見慣れない体格の真っ黒ですごい背の高いのが、舳先でおんなじように用を足そうとしてた船員の首を一瞬のうちに捻って、そのまま海に投げ込んだんだそうで……ここで、今までの行方不明者はみんな殺されて海に放り込まれてたんだ、って知れたんです。この段階ではまさか敵が一人っきりだとは思ってなかったんですけどね」
ここで、アメリコはここに集まった人々にとっては、船の構造や各場所の役割などは未知の事柄であることに気が付いたらしい。カイエンはこいつ、多分、怪人を追って来たくらいだから見た目によらず腕が立つだけじゃなく、頭もいいんだな、と思った。
「あの、用足しやゴミ捨てには船首の格子みたいになってるところを使うんです。汚物が風で船の前の海に落ちやすいんで。ええと、最初の目撃者の話でしたね、熟練の船員だったんで、危ないところで叫び声を抑えて、船の後方にある船長室へ逃げ込んだんだそうです」
ここでアメリコは船というものは、下へ行けば行くほど風も通らないし、窓なんぞないので空気も悪く、従って環境が悪いこと、上位の船員ほど上の階層で寝ること、船長室は船尾にあることなどを話した。
「叩き起こされた船長が甲板に出た時には、もうあいつはどっかに消え失せてたんですが、二人で現場にランプを持って見に行ったら、そこに財布が落ちてたんだそうです。ちゃんと金の入った財布が、そのまんま。それで、朝になってから財布の持ち主を探したら、もちろん見当たらない。その時やられた男のだって、朋輩が証言しました」
「なるほど、そこで、それまでの行方不明者たちは、みんな殺された上で海に捨てられていたこと、船の乗組員の仕業ではないこと、だから密航者がいる可能性が高いこと、それに、殺しは金目のものとか、食べ物目当てじゃないこととかが分かったんだな」
カイエンがそう聞くと、アメリコはちょっとびっくりしたようにカイエンの方を向いたが、すぐにさっと目をそらした。この街の大公殿下など、普通なら彼ごときが直に向き合って話せるような相手ではない。
アメリコは今年二十二のカイエンや、一つ上のシーヴなどとさして変わらない年齢だろう。そして、元は商船の乗組員、今はにわか海軍の下士官風情では、同年代の貴族階級の女などあまり近々と見たことがないのだ。
カイエンは顔色こそ死人のように悪いが、顔立ち自体はシイナドラド所縁のアストロナータ神像そっくりに整っている。アメリコは一回は目をそらしたものの、もう一度カイエンの顔を盗み見て、そしてすぐに慌ててそっぽを向いた。
それは、カイエンの左右に座っていたのが、ヴァイロンとイリヤだったのも影響していたに違いなかった。彼ら二人が、アメリコがカイエンの顔をちろりと上目遣いで二度見するのをみると、二人同時に、
「殿下のお顔を」
「殿下ちゃんの顔を」
「二度見するな」
「二度見するもんじゃないわよぉ?」
と、凄んだからだろう。この部屋に今、集まっている人間は目立つのが多いが、それでもこの三人に勝るものはいなかった。
「は、はいっ! そうなんであります。信じられないことですが、密航者がおり、食物や金品を狙ったり、発見を恐れての殺人ではなく、考え難いことではありますが、殺す方が真の目的なのじゃないか、と下士官と士官以上の話し合いの席で主張したのは、実は自分であります。普通は下士官風情は発言も許されないのですが、俺は殴られるの覚悟で手を上げて発言したのであります。最初は皆に笑われましたが、それからも同じことが続きましたので、遂には俺の意見を船長が支持してくれました。船長は前にモンテネグロあたりで似たような話を聞いたのを思い出したって言うんです」
カイエンたちの中で、ラ・パルマ号の事件を知っている者たちは密かに目配せしあった。船長が言っていたというのはあの事件のことだろう。
ここまで話すと、アメリコは少し落ち着いたらしい。
「なので、それからすぐに数人で場所を分けて組になって、一斉に船中の密航者が潜んでいそうなところをさらったんですが、見つからなくて。でも複数いるんなら一人くらいは見つかりそうなものです。まあ、船倉には積荷もあるし、船の中は入り組んでますし、通路も狭いです。階段のところも梯子のところもある。だから隅々まで同時にとはいきません。仕方なく、その晩からは見張り台だけじゃなく、甲板にも不寝番を立てることにして、船長室のランプは夜通し消さないことになったんであります。天候も穏やかでしたので、不寝番は皆ランプを携帯、帯剣して警備に当たることに決まりました」
カイエンに聞かれたからか、急に上官に対する兵士のような口調になったアメリコだったが、話が次の段階へ入ると、ごくりと唾を飲み込んだ。
「その翌朝は最悪でした。天気だけは馬鹿みたいによかったですけど」
不寝番を甲板に出して警備をし始めてすぐに、最悪の事態とは。その場の皆が、もうこれからアメリコが語る内容が分かったような気がした。
「俺たちも、ろくに寝られずにいたんです。だから、叫び声なんかがしたらすぐに分かったはずなんだ。なのに……」
皆の頭の中に、朝日の当たる甲板が見えた。そして、そこには誰もいないのだ。
「今度は、人数がいたから、あいつも素手じゃ間に合わなかったみたいでした。どうも最初にやられたのが見張り台の係で、それから甲板の上の不寝番たちに取り掛かったようで……甲板はあちこちに血だまりが出来てて。潮の匂いも、海賊との戦いで血の匂いだって慣れっこなんですが、あの時はなんとも言えず、いやーな匂いだと思ったなあ。……波が穏やかで甲板に波がかからなかったから、甲板中に血の跡が残ってたんです。それにしても、叫び声一つ聞こえなかったんですよ。あれだけ殺されてたってのに! 海賊と遭遇するよりもタチが悪いっていうか、完全に相手は人間じゃない、化け物だ、と思いました」
血溜まりがあちこちに。そして、そこに残っていたものとなれば。
「まさか……足跡が残ってた、とか?」
こう聞いたのは、トリニだった。武道の達人である彼女でも、中型の帆船の甲板の各所に立つ不寝番を短時間で一気にやっつけるとすれば、刃物を使うしかなかっただろう。いや、そうしなくとも可能ではあったが、密航も殺しもばれた以上、あの怪人はもう、跡を残さずに済ます必要を感じなくなっていたに違いない。
「え? 足跡って、あの、甲板は木造よね。……じゃあ」
最後まで言えずに隣のトリニにしがみついたのは、普段は何があってもあっけらかんとしているロシーオだった。猫のような金茶色の目が恐怖で見開かれている。
「はい。どす黒い、間違いなく血だまりを踏んづけて走り回った足跡が、一方向にぐるりと甲板を回っていました。当番の操舵手もその途中で、一緒にやられてました」
アメリコは最後に、一番恐ろしいことを口にした。
「……そして、足跡は一人分しかなかったんです」
と。
一方向に甲板を回っていた、一人分の足跡。
つまりは殺人者はたった一人で、黒衣の怪人は不寝番を血祭りに上げながら、止まらずに一気に走り抜けた、ということをこの時はっきりと乗組員たちは知ったのだ。
「へー」
「ほう」
落ち着いた声は、イリヤとヴァイロンだ。
「それで、足跡はどこで途切れていたんだ?」
驚きもせずに、話を先に進めたのは、教授の後ろにでんと構えていたガラだった。確かに、船の甲板をぐるりと回れば、どこかで仕事は一応の終わりとなるはずなのだ。
アメリコはその時の光景を思い出してしまったのだろう。ちょっとの間、唇を動かすのに手間取っているように見えた。
「……船長室の前です。途切れていたというか、そこで足踏みしている間に靴底の血が乾いたかなんかで、そこで消えていたんですけど」
えっ、とカイエンはイリヤやヴァイロンと顔を見合わせた。確か、船に向かわせた治安維持部隊の隊員からは、船長に事情を聞き取るべく連絡して返事ももらった、と聞いていたのだ。
「あら? 話が違うわね。船長は生きてて、ちゃんとうちに返事を寄越したはずだけど」
イリヤがそう確かめると、アメリコはかくかくと首を縦に振った。
「その通りです、船長は生きてます。俺たちは足跡の終着点に気が付いて、船長室の扉を開けようとしたんですが、開かないんです。……あいつが船長から先に始めなくて幸運でした。船長、一度は扉を開けて甲板の様子を見たんだそうです。で、あいつの動きの凄まじい速さと正確さに、これは一人じゃ立ち向かえないってんで、心を鬼にして船長室の扉を閉めて錠前をかけ、扉の裏に机と箪笥を押し付けて、自分はその影で日が昇るまで、必死でやつが扉を押してくるのを抑えてたんだそうです。やつは決して叩いたり蹴ったりして音を立てようとはしなかったそうです。ただ、すごい力で押してきたって」
「じゃあ、船長はそこで初めて、その黒衣の怪人……殺人密航者を直に見たんだね?」
教授がそう聞くと、アメリコは自然に滲んできていた額の汗を袖で拭った。
「そうです。日が昇ってくると同時に、やつはどっかに消えたそうです。その頃にはもうやつの靴の裏の血も乾いちまったかどうかで、俺たちが部屋の外から船長に声をかけた時には、またしてもどっかに潜んじまった後であとは追えませんでした」
「それは怖かっただろうね。不寝番も役に立たないんじゃ。……その日の夜からはどうしたのかね?」
アメリコの青い目が、その時のことを思い出したからか、すうっと固くなる。そうして見ると、外見的には決して強そうには見えないが、彼一人で港から人殺しの密航怪人を追いかけてきた事実を裏付けるものがあるようだった。
「それまで船は夜も航行し続けていたんです。月がありましたし、天候も良かったんで。でも本当ならその日の夜は停泊したいところでした。どっか島の沖で錨を下ろして、あいつに自分から小舟で島へ降りて行ってほしいくらいでした。でも、適当な島にはたどり着けそうもなかった……。その頃にはもう、このハーマポスタールまで数日、ってところでしたから。ここはハーマポスタールの港に入るのを急いで、港が見えてきたら小舟を下ろして、事の次第を知らせて、加勢を頼んだ方が得策だってことになりました。あいつ一人対俺たち全員で、みっともないことでしたけど、あんなやつ相手じゃ取り囲んで切り込んでも死傷者が出るのは目に見えてましたし、きっともう、あいつの方も簡単には出てこない、って船長も副長も言うんで。追っかけるのがたくさんいて、逃げる鬼が一人の隠れんぼには、船ってのはすごく都合よく出来ているんですよ」
「じゃあ、どうすることになったわけ? 船を止めないなら、甲板に人を出さないわけにはいかないでしょ?」
アキノが持ってきた珈琲のカップに口をつけながら、イリヤがそう聞くと、アメリコは静かにうなずいた。
「海賊と遭遇した時と同じに、操船に関係ない連中は、一番広い船室に籠城させました。海賊なんかと遭遇した時用に、お客人なんかを避難させるための天井や床、壁の分厚い部屋があるんです。操船に必要な人員には俺たち戦闘要員が完全武装で複数付きました。俺は遊撃担当で、二人一組で動く役目でした。海軍なのに、この制服の下に鎖帷子を出して来て着ましたよ」
もう、誰も口を挟まなかった、アメリコの話が最終局面に向かっていることを誰もが意識していたからだ。
「それでも、夜はどうしても暗がりが出来ます。それからも何人かやられました。でももう、こっちもこれ以上の対応は出来ないんで、ハーマポスタールまでの数日はそうやってしのいだんです」
アメリコは横に座っているサンデュから珈琲のカップを受け取ると、ぐいっと一口飲んだ。もう珈琲はぬるくなりつつあったので、ちょうど良かったようだ。
「それで、とうとう、俺の組の前であいつ、やりやがったんです。もう甲板では被害者は出てなかったんで、一段下の士官の寝部屋の辺りを張ってました。狭い通路の角を回った途端でした。通路の先にやつがいたんです」
「もう、二人組の一人はやられて床に倒れてました。くそ! あいつ、俺の目の前でもう一人をやりやがったんだ!」
アメリコの声が大きくなった。彼はその時の怒りを思い出したのだろう、膝に乗せた両手の拳がぶるぶると震えていた。
「あいつ、事もあろうに、確かに『
アメリコは言いながら身震いした。
「『
ひゅっと誰かの喉が鳴った。そこにいた十人あまりの誰かは分からなかったが、アメリコの話す情景を想像してしまった誰かだろう。その情景と怪人の台詞は、怖い以上にあまりに不気味だった。
愛を囁きながら、そいつはいとも簡単に名も知らぬ人間が殺せるのだ。いや、自ら殺さずにはいられないのだ。
「それから先は、夢中でしたよ。俺も相棒も、なりがあの黒いおっさんみたいにでかくないのが幸いしました。船の中の通路は狭いんです。天井も低い。だから船乗りに大男は向かないって言う奴もいるくらいです。身のこなし次第ですがね。おっさんは天井に頭がつっかえるほどでしたけど、こっちは身軽です。でも二人一緒に殺到するには通路は狭すぎたんで、俺は相棒は他の連中に知らせろって肩を押して、上へ上げたんです」
「へー、アメリコ君、勇気あるねー」
イリヤがまぜっかえしたが、その思いは皆、同じだっただろう。
「いやいや、普通だったら俺も一緒に逃げてたでしょう。でも、ちょうど前の日に船長が生き残った士官、下士官に、試しにやつに出くわしたら使ってみろって、こいつを支給してくれたところだったんで……」
そこまで言うと、アメリコは紺色の制服の胸元から、そこにいる誰もが初めて見る鉄製の物体を取り出して、テーブルの上に置いて見せた。
それは、大きさはともかく、形としては船に取り付ける大砲に似ていた。筒の先に穴が空いていて、反対側に火をつけるための火縄が付いている。違うのは服の中に入れられるほどの大きさと、手で握る部分が付いていることだ。
「これ、小銃、とか短銃って言って、つい最近、もっと銃身の長い
カイエンも教授も、ヴァイロンも、イリヤも、そこにいたみんなが、ガタガタと椅子やソファから立ち上がって、アメリコの出した物体を少しでも近くで見ようと押しかけた。皆が仕事柄、そういうものには興味があったのだ。
特に足が悪い上に、おっさんなのにも関わらず、教授の動きは素早かった。彼は鉄の銃身に細かい模様の彫りつけられた短銃を、おっかなびっくりではあったが持ち上げ、その構造を観察し始めている。元は国立士官学校の戦術学の教授だから、興味津々なのだろう。小柄な教授が片手で持ち上げられるのだから、鉄製といっても重さはそれほどでもないようだ。
「なるほど。これも、ホヤ・デ・セレンの例の場所から得た知識で作られたものなんでしょうな。革命理論みたいな理論だけじゃなくて、こういう技術の知識もあそこにはあるんだ……」
例の場所。
エルネストから、ホヤ・デ・セレンの皇王宮の奥深くにあると言う、「
「じゃあ先生、これ、あっちから意図的に外に出されたってことになりますね」
カイエンがそう言えば、ヴァイロンも言う。
「それも大陸の西側だけに……ですか」
「へぇえ。やっぱりこの国も海軍を早急になんとかするべきねえ。これ、もうラ・ウニオンの内海の周辺にはばら撒かれてるってことでしょ。で、ばら撒いたってことはこれ、かなり有効なシロモノなんじゃない? それじゃあ、これを一刻も早く正式採用した国がかなり有利になるんじゃないの」
イリヤの言うことももっともらしい。傭兵ギルドの総長でもある彼のことだ、澄ました顔だが、もうこの事を耳にしていたのかもしれなかった。
アメリコはカイエンたちの興味津々な様子と、彼にはよく分からない意味深な会話に、しばらく毒気を抜かれたように黙っていた。だが、すぐに説明の続きの必要性に気が付いたらしい。
「あの! それで……」
再びアメリコが口を開くと、カイエンたちは一斉にテーブルの上の小銃から、アメリコの方へ視線を向けた。先に彼の話を聞くべきであることは自明のことだったから。
「ごめんごめん。それで? 君はこれをぶっ放したってわけか?」
カイエンはもちろん、この短銃が発射されるところなど見たことはない。だが、船の大砲の方は軍港の演習で見たことがあったので、アメリコがどうしたのかはなんとなく想像できていた。
「はい、火縄は点けてあったんで。でも、この小銃ってやつ、銃身が短いんで、鉄砲って言う銃身が長いのほどには距離があると当たらないみたいなんです。でも、音は同じですごい音がしますから、あの黒いおっさんもさすがに俺の方へ向かっては来ないで向こう側へ逃げていったんです」
「それ、当ったのかね」
教授がそう聞くと、アメリコは急に元気な顔になった。
「それが狭い廊下だったんで、とりあえず、ど真ん中に向かって撃ったら、どっかに掠ったみたいなんです。それに、音がすごかったから、生き残ってたみんなが俺たちの方へ集まってきて」
「でも、その人殺し皆殺しおじさんは、逃げちゃったんでしょ?」
これはイリヤ。
「ええ。でも、それ以降の数日は、あいつ、初めてこんなもんで撃たれて、どっか怪我したかなんかしたんで、出て来なくなったんです。ハーマポスタールに入港する寸前まで」
あー。
カイエンたちはその先の展開がもう分かった。
怪人は船が港に入ると同時に逃げ出したのだろう。泳いでだか、小舟を下ろしてだかは知らないが。
「今度の航海では、銃身の長い鉄砲の方は三梃しか手に入らなかったんです。でも、こっちの短銃の方は命中率が悪いとかで、他の商船は敬遠したみたいで売れ残ってたんです。でもうちの船長は『狭い船の中でなら、こいつでも役に立つんじゃないか』って、十挺まとめて買い叩いて来たんです」
それでアメリコの船、「デメトラ号」が「皆殺し」を免れたのなら、船長の目は確かだったことになる。
「買って来てすぐ、船の上で士官と下士官で試射してみたんですけど、確かにかなりそばまで行かないと当たらないんです。これなら、剣で突っ込んでも同じだ、って言う人もいました。それでも的を作って距離を競争したら、俺が一等になっちゃって」
なるほど。カイエンは至極納得した。
「だから下士官の中じゃ、俺だけに船長は短銃を持たせてくれたんです。で、ハーマポスタールに入港する寸前に、あいつが海に飛び込むのを、見つけたのも俺だったんですよ……」
アメリコの声がなんとなく諦観した感じに聞こえたのは、聞き間違えではないだろう。
「俺、そこのお姉さんみたいに強くはないんですけど、体格の割に足が早いんです。他にも足の早い士官下士官が数人選ばれて、小舟で追っかけました。船長はとにかくやつの足を止めろ。確か今日は皇帝陛下の結婚式のはずだから、やつを野放しにしたらどえらいことになる、自分はすぐに港湾局へ知らせるって言ってました」
確かに、デメトラ号の船長はすぐに届けを出していた。だが、治安維持部隊は総出で皇帝のパレードの警備と、市内の空き巣防止に出ていたのだ。
「みんな、足は早かったんですけど、目もよかったのは俺だけだったみたいで、気が付いたらあいつを追っかけてるのは俺だけになってました。この短銃はいつでも撃てるようにしてましたけど、街中では危ないってのは分かってました。正直、あそこでこの強ええお姉さんとあいつが睨み合いにならなかったら、俺はやられてたでしょう」
アメリコはそう言うと、トリニの方へ頭を下げた。
「最初は、兄さんなんて呼んじゃってすみませんでした。でも、お姉さんは明らかにあいつに匹敵するくらい強そうだったから、俺が加勢すれば捕まえられるかも、って思ったんですよ」
トリニは納得した、と言うふうにうなずいた。
「ああ、だからあんた、強気な啖呵切ってたわけね」
(おっさん、密航はいけねえや。それに殺人もな。バレたからには、ちゃんとした船賃と、それに遺族への慰謝料も払ってもらわねえとな)
あの時は、この背格好は普通の海軍下士官、実はすごく強いのか、とも思ったが、そうではなかったようだ。
「ちょっと待って、それじゃあ、皇帝陛下の結婚式の日にデメトラ号が港に入ったのも、天磊を助けたのも偶然ってこと?」
そこでイリヤが鋭いツッコミを入れると、アメリコはただ、首を振るしか無かった。
偶然なのか、計算されていたことなのか、それは分からないということだ。
「そうか。色々、今後のためになることが分かったな。アメリコ、お前のところの船長は、仕入れたその短銃やら鉄砲やらはどこへ持っていくつもりだったんだ」
カイエンが抜かりなくそう聞くと、アメリコは目をぱちくりさせた。
「俺はただの下士官ですから、そこまでは聞いてません。でも多分、軍隊か皇宮か、あの、ここ……か、だとは思います」
それなら、どこでも同じことだ。
「アメリコ、とりあえずその短銃はここへ置いていけ。大丈夫だ。船長へは後でちゃんと売買交渉に行く。……今日はこの大公宮本殿に泊まっていけ。ありがたい情報をたくさんいただけたからな、客間に泊めてやる。ここにいる連中はみんな今夜はここに泊まりだから、安心しろ」
カイエンが総まとめのようにそう言うと、アメリコは途端に顔面蒼白になった。彼には安心しろの意味がわからなかった。
「ええ? あの、まだ船に帰してはいただけないのでしょうか?」
パレードでの事件は一昨日のことで、昨晩、彼は春募集の大公軍団の訓練生と一緒に大公宮の裏の宿舎に放り込まれていたのだ。
これには、もう眠そうな様子を、本当だかポーズだか知らないがわざとらしく見せているイリヤが答えた。
「昨日の夜からだけど、まだ今夜もハーマポスタール中に、夜間外出禁止令出してるのよ。で、うちの大公軍団もフィエロアルマも、近衛もまだ総動員で市内を見張ってるの。あんたみたいなにわか海軍小僧が、この大公宮の奥殿の客間になんか、普通なら一生待ってたって泊まれりゃしないよ。まー、緊張して寝られないかもだけど、広くてやわらかーい寝台を堪能してお行きなさいよぉ」
これを聞かされて、彫像のように固まるアメリコに、ガラとシーヴが助け舟を出した。もっとも、どっちもあんまり助けにはなっていなかったが。
「俺の部屋でもいいぞ。ただし、場所は大公宮の後宮だが」
「俺、今日は宿舎に戻らないで、この本殿に泊まるから、一緒の部屋にする? でも、多分、君のあてがわれる部屋って、多分今夜の俺の部屋の並びだけど」
アメリコは、後宮、というガラの言葉にびくりとした。年がら年中海の上の彼にも、カイエンの後宮の話は伝わっているようだ。アメリコが救いを求める先は、同年代で気さくそうなシーヴしかなかった。
「あの、すみませんが、ご一緒させていただけたら、助かります……」
そう言うアメリコの困惑し切った顔には、もう、トリニの前で人殺し皆殺し真っ黒怪人に啖呵を切った勢いは微塵もなかった。
「
そこは、ハーマポスタールの場末も場末の一角だった。そこに潜むのは犯罪者か、後ろ暗い外国人かだけの、ハーマポスタール最悪の汚点だ。皇帝の結婚式のパレードが襲撃された今、その区画一帯がこの街の暗部の象徴として燃やし尽くされても仕方がないような場所だった。
それでも、桔梗星団派のアジトにはお決まりのように、「紺色の部屋」が設えられているのだった。
紺色一色の壁紙や家具、床に絨毯。それに彩りを持たせているのは、金色に塗られた家具の一部だけだ。
その紺色の部屋の中、いつもの彼らの部屋と違うのは、その中央に一つの寝台が置かれており、周りに人々が集っていることだった。
「そんなのどうでもいいわよぉ。天磊! ねえ、天磊ったら! ねえ、目を開けて! あたしを見てよぉ!」
寝台に横たわる人物に寄り添い、泣き声を出しているのは、先の螺旋帝国の王朝「冬」の生き残りの二人のうちの一人、姉の星辰だ。彼女は、弟の動かぬ体に抱きついて、かき口説くが返事はない。天磊は目をつぶったまま、意識を失っている。
まるで冗談みたいに、その寝台の掛け布や敷き布までが紺色だったが、そこに寝かされている痩せた若い男の着ている寝間着のようなものだけは白かった。
「……天磊様のご容態は?」
黒衣の怪人も、かき口説く星辰も無視して、この場を仕切るのは、あの
「体を動かす神経の一部が寸断されているか、痛めつけられたようです。意識は戻られるかも知れませんが、身体が動かせるようになるかどうかは……」
医師らしい、螺旋帝国人が首を振り振り、言えたのはそこまでだった。
「そうか。それでは、天磊様の方はしばらく様子見だな。……マトゥサレン・デ・マール、ちょうどよくこのハーマポスタールに入ってくれて助かった。お前には天磊様の代わりに動いてもらいます、いいですね? そうでした、船の中で撃たれたっていう怪我の方はどうなんです?」
ああ、マトゥサレン・デ・マールとは、あのラ・パルマ号に、アルウィンとアルベルト・グスマンと入れ替わりに乗り込んだ男の名前だった。
「怪我はかすっただけだから、なんでもない。だが、あの短銃の音には驚いてしまった。もう驚かんがな。……ここでの仕事は、天然殺人狂の後釜か。まあいい。それより、どうしてあの方は俺を騙して、この街までこさせたのだ?」
黒衣の怪人。恐らくは新世界発見のために、先帝サウルによって作られた船団の旗艦であるラ・パルマ号の船員すべてを殺害し、今度はアメリコの乗るデメトラ号を危なく皆殺しにしかけた男は、不満そうだった。
「騙した? チェマリがあなたを? 知りませんね。そんなことは私には伝わってきておりません。その、
「もっとも、皇帝の結婚式のパレードでの工作で、しばらくは派手な動きはできないでしょうけれども。まあ、捕まったのは多くが金で雇ったコソ泥どもですし、皇帝の馬車に間違いなく一発は命中しているとのことですから、皇帝かあのザイオンの王子か、はたまた側近か、誰かが死ぬか負傷するかしていることは間違い無いでしょう」
これを聞くと、意識のない天磊に頬ずりするようにして泣いていた、星辰が、きっとした顔で彼を見た。
「ちょっと! そんなことどうでもいいわよっ。天磊が、天磊がこのまま目を覚まさなかったら、どうするのよ!?」
涙に濡れた星辰の切れ長の目は、目で人が殺せたら子昂を瞬殺していただろう。
だがもちろん、彼女にはそんな能力はなかった。
「星辰。あなたはチェマリの役に立つ、チェマリのためにはなんでもする、と言っていたのをもう忘れたのですか?」
子昂がもう元皇女への敬語もなしに、びしっとした口調でそう言うと、星辰はもう、次の言葉が出て来なかった。
「そもそも、あなたは
子昂の言葉を聞くと、星辰はぶるぶると震え始めた。もし天磊がこのまま死んだら、自分も用無しになるということにやっと気が付いたのかも知れなかった。
「ところでマトゥサレン。あなた、女の好みはどのような? ここの星辰などはどうですか。長く螺旋帝国にいたんだ、螺旋帝国の女に馴染んでいるでしょう。この星辰は頭の中身はお粗末ですが、体の方はなかなかですよ」
今夜の献立でも決めるように言う子昂を、星辰よりも黒衣の怪人マトゥサレンの方が、まじまじと見た。
「あんたは、俺のことが、よく、分かっている、のだな」
子昂は平板な顔にあからさまな作り笑いを浮かべた。
「分かっておりますとも。これからはあなたを飢えさせるようなことなど無いようにしなければなりませんね。でもまあ、皇帝暗殺未遂となれば、策謀はまだまだ先へ続きますから。私もなんとか術を考えますよ。でも、あなたにも殺し以外の生きがいを見つけてもらわねば、追いつかないかも知れません」
今はまだね。
子昂はもう天磊も星辰も、そしてマトゥサレンも見ていなかった。
彼は届いたばかりの暗号文の手紙の方に、もう頭を切り替えていた。
「シイナドラドの方の首尾があまりよく無いようだ。チェマリともあろうものが、まさかあのシイナドラド皇王に騙されていたかも知れないとは……。ここはベアトリアにネファールを、ネファールにザイオンを刺激させて見るか、それとも南のラ・ウニオン共和国からモンテネグロへ圧力をかけるか……。バンデラス公爵をなんとか出来れば、跡目をあのラ・ウニオン共和国の
子昂がそんなことを呟きながら見上げた紺色の壁紙の上には、パナメリゴ大陸の大地図が掛かっていた。
「もうそろそろ、新生螺旋帝国も国内の不満を外に向けるため、東側の小国を取りに動きそうなものだけどなあ」
彼の視線の先には、シイナドラドと北のザイオン、東の螺旋帝国の間に挟まれた、小さな小国の群れが写っていた。
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