白の抱擁


 これは夢だ。

 彼には最初っから、目の前の光景が夢の中の光景であることは分かっていた。

 彼の見る夢はいつもだいたい、現実と同じように色も形もはっきりしていた。だが、彼の夢には匂いがなかった。そして、そこに出てくる人物の声は、聞こえると言うよりは頭の中に文字のように浮き上がっては消えていく、アンティグア文字の活字の描く踊りのような感じだった。つまりは、言葉が「見える」ような認識なのだ。

 だからか、夢の中の彼はときおり、相手の言っている内容が分からなくなる。つまりは聞こえなくなる。

 踊る変な文字さえも、質の悪い紙に先の割れたペンで書いたように、インクが滲んで読めなくなる感じだ。

 そして、夢だとはっきり分かるのは、自分の見ている視点がくるくると変わるからだ。完全に夢だと分かるのは、そこに自分の姿を見た時でもある。彼は床すれすれに目玉を置いたような視点で、自分を見上げていたり、反対に天井に蝙蝠のように逆さまにぶら下がっているかのように、自分を見下ろしていたりした。

 この日の「夢」も同じだった。

 天井から見下ろしている彼の視界には、彼自身と、そして白い花嫁衣装を着た白っぽい金髪の若い女がいる。

 女は花嫁の真っ白な絹の被りもの……を頭から被っているのに、彼にはその女の髪の色が分かる。だからこれは夢なのだ。

 女が被っているのは、ザイオン貴族の女が、結婚式の時に白いドレスの上に頭から被る薄い白の絹地にザイオン風の複雑な刺繍の施されたもので、長さはドレスの裾近くまである。

 夢の中で彼の視点と彼との間を、最近見た、異国の女の婚礼衣装の透き通るような生地に真っ白な睡蓮の花が縫い付けられたベール姿が通り過ぎていく。ああ夢だ。人間が空中を歩いて行くわけがない、とまた思う。

 北国のザイオンでは、あのような薄い透き通るような生地はあまり使われない。ザイオンの貴族たちの衣装の特徴は、何と言ってもその精緻で重々しい刺繍にある。

 そこは、ザイオンの首都アルビオンに彼が持っていた、別邸の屋敷の玄関ホールで、分厚い円形の絨毯の敷かれた上だった。突っ立っている彼に取りすがって、白い花嫁衣装の女が泣いている。

 いや、責めているのだ。彼を。

(ひどい! 私があの男と結婚せずに済むようにしてくださるって、殿下の奥様になれるんだから、って! そう、おっしゃったのに!)

 彼は答えている。

(馬鹿なことを言うものじゃない。この家までやってくるなんて。しかもそんな……結婚式はどうしたの?)

 女は花嫁衣装だが、彼の服装はいかにも自分の家でくつろいでいました、と言っているようだ。シャツのボタンは一番上が開けっ放し。シャツの上から直に来ているのは、分厚い冬用のガウンだ。その深緑のガウンの背中には、銀糸と薄い桃色の糸で絡み合う蔦のような文様がびっしりと刺繍されている。彼の一番お気に入りのガウンだったった。

 その蔦模様は、半分以上、彼の長い青みがかった金色の髪で隠れている。北国のザイオンでは男でも肩より長い髪をしている者が多い。それでも彼の髪の輝かしさとその長さは特別だった。

 玄関の両開きの扉は、女が開けて入って着た後、閉める者もなく、そのままになっている。だから、外の寒風が入って来ても良さそうなものだが、彼は温度を感じていなかった。

 だから夢なのだ。これは。

 女は水色の目から涙を吹きこぼし、彼の胸元を、これも白い手袋に覆われた拳で力なく叩き続けている。もう声は聞こえないが、ずっと彼の仕打ちを責めているのだろう。

 誰だっけ。

 彼はそう思うが、夢の中だからかどうしてか、女の名前は思い出せなかった。そもそも、顔さえもよく見えはしなかった。それなのに、女の目の色が水色だと分かるのは……だからこれは夢なのだ。

 ぐるり、と視界が切り替わる。

 彼の別邸の玄関扉から、幾人かの男どもが入り込んで来る。皆、ザイオンの貴族の男たちだ。その先頭に立って小走りに彼と女の側まで来た若い男が、彼の胸元から女を引き剥がし、女の両肩を掴んで乱暴に揺さぶりながら何か大声で言っている。だが、その声も言葉も、彼には聞こえなかった。

(覚えてないもの)

 彼は夢の中の自分を天井から見下ろし、そして床の絨毯の上から見上げながらそう思う。見上げて見る自分の顔は、真っ白だったが、にこやかに微笑んでいた。

 彼の見上げ、見下ろす視界の中で、若い女が若い男に頰を張られて床に崩れ落ちる。その時になって気が付いたが、若い男も白い花婿の衣装を着ていた。

(ああ、やめてくれよ、鬱陶しい。ここは宮廷の外。僕の安らぎの家なんだぞ。ここでそんな痴話喧嘩を繰り広げるなよ)

 彼は早く目が覚めないものか、となんとか夢の中から出ようとするが、出られた試しなどない。

 だが、鬱陶しいと思ったのが何か作用したのか、急に場面は切り替わった。

 今度見えたのは、アルビオンの女王の宮殿の中だ。

 さっきの若い女の父親、ザイオンのとある伯爵が、チューラ女王の前で沙汰を言い渡されているところだった。

 それは、その伯爵の娘が、事もあろうに女王の三人目の息子に密かに懸想していたこと。格上の貴族との縁談がまとまったのちも、その片思いを捨てることが出来ず、結婚式を抜け出して第三王子の別邸に侵入したこと。それによってこの縁談は破談となったこと。相手の侯爵家では厳しい沙汰を望んでいる、という内容だった、はずだ。

 その伯爵というのは、最近、商人と結託して力を付けた新興貴族だった。その上で他の貴族を金品を持って味方につけ、何かと女王のやり方に逆らうようになっていた男だ。そして、その娘は美貌で知られ、父親は娘を高位の貴族に嫁がせて、自分の政治的な発言権をもっと増大させようとしていたところだった。

 彼の見ている前で女王は、彼の母親は、その伯爵に東方の小国へ外交官として赴くように命じていた。その東方の小国は、ザイオンと国交のある国の中では一番、螺旋帝国に近く、今にも螺旋帝国の支配下に入ってもおかしくないような山の中の田舎の国だった。

 彼は知っていた。もう、その伯爵がザイオンへ呼び戻されることはないだろうということを。家族共々、その東の小国へ永遠の島流しになったも同然だということを。

 真っ青な顔で下がって行く伯爵の後ろ姿が、謁見の間から消えると、チューラ女王は彼を近くへ呼び、こう囁いたのだった。

(よくやったわね。お前がちょっと優しくしてやっただけで、あの美貌を鼻にかけた鼻っ柱の強い小娘がぐずぐずになって! あのうるさい蝿みたいな伯爵! あんな名家の侯爵家なんぞと縁付かれたら、大変だったわ……)

 そこで、また場面が切り替わる。

 今度も、彼に囁くのは、母のチューラ女王だ。

(ハーマポスタールのうぶな小娘を、ちょいとひねっておいでなさい。ほら、あの生意気な伯爵の娘や、心得違いも甚だしく、私のリュシオンを婿になんて言って来た、小国の王女をモノにしたみたいにね。大丈夫よ、もう両親がいないも同然の十九の小娘。女帝だなどと言っても世間知らずの生真面目な娘だというもっぱらの評判だもの……。ハウヤ帝国じゃ、今まで女帝が立ったことなどないのに、皇子が赤ん坊だからってしょうがなく皇帝に立たされた娘だって言うんだから!)

 チューラ女王の目は言っている。

(生まれた時から女王になると決まっていた、私とは違うのよ)

 くるくると回るように、夢は急に時間の速度を上げた。

 彼の目の前に、黄金色の髪を豊かに波打たせ、ミルク色の真珠のように輝く肌をした、ザイオン貴族の娘ではありえない色とりどりの薄い透ける絹地のリボンをまとめただけのような扇情的なドレスを纏った、美の女神の化身のような若い女がいる。

(もう決めたから言うわ。……あなたはいずれ、わたくしの配偶者になるの。それで、わたくしの産んだ子供の父親はすべてあなたってことになるわ。いいわね?)

 迫ってくるのは、蜂蜜のようにとろけた琥珀色の目。

 その目が、みるみる色を変え、固い金色の金属のような硬質な光を宿す。

(あなたがあの夜にわたくしに言った、すべての『愛しています、オドザヤ様』はすべて今、お返しするわ)

 ああ。

 彼にあんな言葉を投げつけてきた女が他にいただろうか。いいや、居るはずがない。一度は彼にすべてを捧げた女たちの中で、あの女だけが、自分から彼を塵芥のように捨て去ったのだ。

 いや。捨て去っただけではない。捨て去ったのちもそばに置いて、自分の思うがままに利用しようとしているのだ。

 あの黄金と真珠と琥珀で作られたような、彼が彼の母親に命じられて、たぶらかした女たちの中で、最も美しい女。あの女だけが。

 オドザヤ。

 その時、彼はわからなくなった。

 彼の母親であるチューラ女王と、あの女の肖像が重なり合う。

(お前は、私の言う通りにしていればいいのですよ)

(ああ、お前はなんていい子なんでしょう。私の役に立っているのは、お前だけですよ、愛しい坊や)

 そして、夢だと思いながらも、そんな母の言葉に彼が怖気を振るっているうちに、チューラ女王の顔は、また違う顔に変わっていた。

(トリスタン、もう一度言おう。アベルは、お前の息子かも知れないんだよ。それだけは、忘れてはいけない。その可能性がある以上、オドザヤ皇帝陛下もお前をむげに扱ったりはなさらないだろう)

 アベル!

 彼はその名前の音律を聞いただけで、ぞっと背中が寒くなった。

 その時、それまで夢の見せる過去に耐え続けていた彼は、すっと見えていたもの、聞こえていたものから引き離されていくのを感じた。

 だって、これは夢じゃないか。

(でも、あの子は私のところへ、『来るべくして来たんだ』ってね。それだけが感じられるんだ。縁ってのはこういうものなんだろうね……)

 どん!

 彼の足元で爆発音。

 そして、そして……。

 彼が、トリスタンが夢の最後で見たのは、聞いたのは、怒りに燃え立った女の顔、そして励ますようなその女の声だった。それは、先ほどの黄金色の輝きを持った女神のような女ではない。

 その顔色の悪い顔は、アストロナータ神殿の神像そっくりに固く整いすぎていて、女らしい色香など感じられない。そして、その声の太さもそうだが、しゃべる言葉も乱暴で、声だけ聞いていると若い男が話しているようだった。

(おい、トリスタン、聞いてるか? 大丈夫だ。歩けなくなったりはしない!) 

 最後に彼の視界いっぱいに広がったのは、その女の灰色の瞳に映った自分の顔だった。



 

 彼はぎゅっと何かに引き上げられるようにして、嫌な夢から引っ張り出された。 

「ああ、お目覚めになられたわ」

 トリスタンは絞るほどに寝汗をかいていた。

 それは、彼の負った怪我によって引き起こされた発熱のためだった。だが、彼は今まで見ていた夢のせいだと思った。悪夢、それはカイエンが見ていたそれとは種類の違うものだったが、非常に後味の悪い過去の物語を夢に見ることは、トリスタンにはまま、あることだったからだ。

「すぐに陛下をお呼びして。それと、大公殿下はお戻りになられていますか」

 落ち着き払った、低い声。無駄のない言葉は皇帝の女官長のコンスタンサ・アンヘレスのものだったが、トリスタンはすぐには思い出せなかった。結婚式の前には、ザイオンの外交官官邸から何度か皇宮へ打ち合わせのために上がっており、最初にオドザヤから女官長を紹介されていたが、名前までは覚えていなかったのだ。

 トリスタンが目覚めた時には、もう、結婚式もお披露目も、パレードも昨日のことになっていた。

「……み、ず」

 嫌な夢のせいではないだろうが、トリスタンは喉が渇いていた。それも、彼の怪我と発熱を考えれば、もっともなことだった。

 すぐに、寝ている病人用の吸飲みが、コンスタンサによってトリスタンの渇いた口元に当てられ、ぬるい水が彼の喉を潤す。冷たい水でないのは医師の指示だった。するりと抵抗なく飲める温度の水を、トリスタンはごくごくと飲んだ。

 部屋にはコンスタンサと、それにオドザヤの一番近しい侍女のイベットが控えていた。それに、国立医薬院からやってきた内科医と、それに近衛と大公軍団の外科医が残っていたのだが、そっちの方はトリスタンには見えなかった。

「大公殿下は、まだお着きではございません。とりあえず陛下をお呼びいたします。……あの、リュシオン王子殿下にはいかがお伝え致しましょうか」

 トリスタンの負った怪我については、まだ秘密の段階だったから、この部屋に出入りすることが出来る人数は極めて限られていた。つまりは、馬車の中や近くで、トリスタンが爆薬で足を吹っ飛ばされたのを見ていた人々と、この皇宮へ運び込まれてから手当に当たった医師たち。それに、女官や侍従のほんの数人だけであったのだ。

「リュシオン殿下へは、トリスタン殿下のお怪我の詳細はまだお知らせしていません。お気の弱そうな方ですから、どういう反応をなさるかわかりませんからね。変に取り乱しでもなさったら、トリスタン殿下のお加減に影響します」

 コンスタンサは冷静だった。トリスタンに聞こえないよう、イベットを壁際へ呼び寄せると、代わりに外科医二人と内科医がトリスタンの枕頭に向かった。

 まだこの時点では、馬車への襲撃のことを聞き及んで急いでやってきた、ザイオンの外交官もまだ詳しいことは伝えられず、軟禁同様に一室に閉じ込めている状態だった。

「大公殿下があの方を連れてお着きになるまでは、刺激になるようなことはしない方がいいでしょう。……陛下にも、お隣のお部屋でお待ちいただいて」

 コンスタンサがそう言うと、イベットは黙って静かに部屋を出て行った。

「私は……」

 トリスタンは広い寝台に寝かせられ、長い金色の髪は布で巻いて枕の上へ置かれていた。

 ことがことだけに、この事実が外へ広がることを恐れ、普通なら医師を助ける助手などもおらず、何か言いかけたトリスタンの額の汗を濡らした布で拭ったのは、ごま塩頭の内科医よりやや若く見える、大公軍団の外科医だった。医師たちは、トリスタンがどこまで覚えているか分からなかったので、無言のまま、様子を見ていたのだ。内科医の方は、トリスタンの脈をとりながら、近衛の外科医の方へ向かってうなずいた。

 コンスタンサが寝台の側へ戻ってくると、内科医は小声で、

「発熱は予想の範囲内ですが、ひどく汗をおかきです。お着替えの用意を」

 と、囁いた。

 トリスタンの手当と手術の時には、彼には麻酔剤が嗅がされていた。これは加減を間違うと命に関わるので、国立医学院から薬に詳しい、あのアイーシャの最期の時に呼ばれた医師ベラスコと、麻酔に詳しい医師が呼ばれていたが、それはもう控えの間に下がっていた。

 まだ意識のないうちに、トリスタンには誤飲しないよう慎重に、化膿止めの効果のある薬と、鎮痛剤が飲ませられていた。だが、意識がはっきりすれば痛みの方は怪我人に否でも応でも戻ってくるはずだった。

 その頃には、トリスタンの目に部屋の中の様子が認知され始めていた。

 同時に、襲ってきたのは右足の痛みだった。

「あ……痛い……」

 トリスタンはすぐに思い出した。

 破裂音。そして、足の痛み。馬車の床に倒れ込んで。

(大丈夫だ!)

 あれは馬車のそばを、大公軍団長と一緒の馬で進んでいたはずの、大公カイエンの声ではなかったか。どうして彼女は彼の乗っていた馬車にいたのだろう。

 その後の記憶がない。

 トリスタンは痛む右足の方へ手を伸ばそうとしたが、その手は内科医によってそっと押さえられた。

「……殿下は、右足にお怪我をされたのです。手当は終わりましたが、まだ触れることはできません。お痛みの方はこれからお薬で調整してまいります」

 内科医は慣れた様子で、傷の詳細などには触れずに、トリスタンの手を掛けられた布団の上に戻した。

「……怪我?」

 トリスタンの頭がはっきりしてくるに従って、切れ切れの情報がまとまっていく。だが、かなりの発熱なので、はっきりとした答えは出てこなかった。

「馬車の前と、私の側の横で爆薬が爆発して……それから、またもう一発……」

 あっ。

 トリスタンの中で、今感じている右足の痛みと、あの時感じた右足の痛みがかみ合った。

「足……私の足が……」

 内科医はトリスタンの脈を診ていたが、急に脈が早くなったことで、怪我人が自分の怪我について思い出したことを悟った。

「女官長殿! その、殿下のお身内の方をお呼びした方がいいと思うが……。興奮なさるといけない」

 内科医はザイオンから結婚式へ参列に来ていた、トリスタンの兄のリュシオン王子を意図していたのだろうが、コンスタンサは首を振った。

「少し、少し、お待ちください。そろそろ、お着きになっていいはずなのです」

 内科医とコンスタンサが小声で話している間にも、トリスタンは熱にうかされながらも自分の怪我の程度を知ろうと言うのだろう、寝台から起き上がろうとする。

 そして、その途端に右足の激痛に襲われてうめき声を上げた。

 こうした怪我人の様子は、軍隊や大公軍団では見慣れたものであったから、近衛と大公軍団の外科医二人がさっと動いた。

「殿下、お怪我でかなり熱が出ておりますし、足の方は我々も最善を尽くさせていただきました。気になられるのは分かりますが、今は安静が第一です」

「動かれますと傷にさわりますので、熱が下がられるまでは安静に願います」

 中年男とはいえ、男二人にやんわりと肩のあたりを両側から抑えられると、トリスタンはもう動けなかった。

「うるさい! 私の足はどうなった? それを教えないか! 離せ!」

 動けないが、気持ちはおさまらない。外科医二人の言葉は理路整然としていて、きっぱりとしていた。軍人やら大公軍団の隊員なら、仕事の性格上、医師にこう言われればとりあえずは自分から落ち着こうとする。それは、自分がそうなる前に、同じようなことが他人に起こるのを見たり聞いたりしたことが、必ずあるからだ。

 だが、トリスタンはそうではなかった。

 体を両側から外科医に抑えられたまま、トリスタンがもう一度、大きな声を出そうとした時だった。

「……トリスタン。だめだよ」

 トリスタンの部屋の扉が開いたと同時に聞こえて来た声に、トリスタンははっとしてそちらを見た。

 その中年の男は、医師の制服である白い帽子と、白衣に身を包んでいた。だが、帽子からはトリスタンと同じ青みがかった金色の髪が少しだけ見え、そして、帽子の下の顔にはこれも同じ色の緑の目があった。

「おとう……さん?」

 トリスタンがそういった時には、もうシリル……白衣を身につけ、医師に化けていたのは彼の実父であり、今はハーマポスタールの下町で踊り手として生計を立てている、シリル・ダビ。元はザイオンの女王の愛人でダヴィッド子爵と呼ばれていた男だった……は、トリスタンのすぐそばまで来ていた。

 外科医二人は、ほっとした顔でトリスタンの両肩から手を離した。

「そうだよ。……見てごらん、今日のお父さんはお医者様だよ。怪我のことは、あとで必ず、私から話してあげるから。いいかい、熱が下がるまでは詮索はなしだ。いいね?」

 コンスタンサも、医師たち三人も、あからさまにほっとした顔になった。王子という高貴な身分の、それも外国人、今やこの国の皇配殿下にこれ以上追求され、暴れられたら始末に負えないと焦っていたのだ。

 彼らが見ている前で、シリルはトリスタンの汗で濡れた前髪をかき上げてやり、子供にするようにかがみ込んで青ざめたトリスタンの顔を撫でてやっている。その様子は、白衣のせいもあって、神の使いが傷付いた人間を優しく抱きとめているように見えた。

「とりあえず、何か果物でも食べなさい。そうしたらお医者様がお薬を下さるから、飲んで、眠るんだ。よく眠ればそれだけ早く治るんだからね」

 トリスタンは何かそれでも、シリルに訴えたい様子だったが、シリルの表情と目の色を見ると、黙ってしまった。トリスタンだけが知っていることだったが、彼の父親は周りの人々が思うよりも厳しい父親だったのだ。

 普段は大人しく、周囲の期待するまま、言うがままに従っているシリルだが、こういう目で駄目だと息子に言う時だけは、本当に駄目なのだ。それは特に踊りに関してのことが多かったが、それが彼ら父子の力関係だった。

 大人しくなったトリスタンを見ると、シリルはコンスタンサの方を振り返った。

「確か、さっきの侍女の方が、着替えさせた方がいいとか言ってました。確かにこの汗じゃあ、体が冷える。でも、汗が出る方がいいんでしょう? 先生?」

 シリルはこんなところもさすがに苦労人だけあって、そつがない。

 外科医はすぐに反応した。

「ええ。水分をたくさん摂って、汗を出した方が熱が下がるんです。……女官長殿、お着替えを」

「お父さん……あの……」

 シリルは小さな声で、トリスタンに言った。シリルの答えは、トリスタンの知りたいことではなかったかもしれなかったが、シリルはトリスタンに否やは言わせなかった。

「大丈夫だよ。お父さんの家のことや、仕事のことは大公宮の方でやってくれるそうだから。だから、しばらくお父さんはお前の看病をするからね。わがまま言っちゃいけないよ。ここはハウヤ帝国で、お前はまだここじゃ、お客さん同然なんだからね」







 カイエンはごく普通にオドザヤに呼ばれたようなていで、大公軍団の制服に身を包み、皇宮へシリルを連れてきた。そして、待ち構えていた皇宮の侍従長に引っ張られて、すぐにトリスタンの病室へ連れてこられた。カイエンは昨日の今日で疲れていたが、火事場のなんとかで杖を突き突き、侍従の足の速さに合わせてなんとか歩いた。

 シリルを皇宮へ入れるには、一番手っ取り早く医師の格好にすることにした。もう、国立医薬院の医師などが出入りしていたから、皇宮の貴人の中の誰かが……と言うことは漏れていて当然だったからだ。金座の大通りのパレードで何かあったことは、もう、皇宮の使用人たちには薄々、知れているだろう。

 トリスタンの寝ている部屋の隣の控えの間では、先に、トリスタンが目覚めたと呼ばれて来たオドザヤが、真っ青な顔で椅子に座っていたが、カイエンとシリルを見ると、ばっと立ち上がった。

 彼女はいつも政務に当たる時のように、髪はちゃんと結い上げ、きっちりしたドレスを纏っている。政務の方は、宰相のサヴォナローラがてんてこ舞いで頑張っているのだろう。

 ちょうどその時、トリスタンの部屋ではトリスタンが自分の足がどうなったか思い出して、騒ぎ始めた時だったのだ。オドザヤは昨日の午前中の結婚式で、トリスタンの妻になったわけだが、大怪我をして取り乱した「夫」を自分がどうこう出来るとはとても思えず、困り果てていたのだ。

 部屋の外には、大公軍団からオドザヤにつけた護衛の、ルビーとブランカが警備に立っていたが、こればかりは彼女たちでもどうにも出来ない。

「……お姉様、ああ、それにシリル様も……あの、どうしたら……」

 エルネストが足を吹っ飛ばされたのなら、カイエンは頰桁でも叩いて、

「足が吹っ飛んだんだよ! また出血して死にたいのか? ああ?! ぐだぐだ言ってないで、早く治せ! なっちまったもんはなっちまったんだ、もう元に戻せやしないんだよ。分かったか、コラ!」

 とでも襟首掴んで言っただろう。自分もシイナドラドから帰国してすぐに流産した時には、痛い思いもしたし、心理的にもかなり追い込まれたから、その原因たるエルネストが大怪我したところで、ビビってるんじゃねえよ、と凄めただろう。

 それに、エルネストの方も、けじめのために自分で片目を捨ててくるような男だから、トリスタンのような反応自体をしないに違いない。

 そんなカイエンでも、トリスタン相手では同じようには凄めそうもなかった。今回の彼の怪我は、パレードの馬車の警備に穴があったからで、それは大公軍団を束ねる彼女の責任でもあったからだ。

 もちろん、警備には近衛もフィエロアルマも協力していたから、カイエン一人の責任ではなかったが。

「……シリルさん、お願いできますか」

 だから、カイエンが言えたのは、トリスタンの実父であるシリルにすがることだけだった。

「はい。大丈夫です。これでも父親ですので、言葉で分からねば私があれを抑えます」

 シリルの返事は頼もしかったが、彼には別の心配事があった。

「大公殿下、アベルはアルフォンシーナさんに預けてきましたが……しばらく私の踊りの仕事も出来ないでしょうから、オリュンポス劇場の支配人に代役を立てるよう、すぐに連絡してください。他の仕事が入っていなくて、よかったな」

 カイエンが任せろ、と言うと、シリルはひょうひょうとした感じで部屋に入って行ってしまった。

 カイエンとオドザヤは、そこは姉妹で従姉妹で、二人一緒に扉に耳をくっつけて中の様子をうかがったが、シリルが易々とトリスタンの不安を取り除き、トリスタンが従うのを聞き取ると、二人一緒にふーっと安堵の息を吐いた。

「こっちは何とかしばらくはしのげそうですね。熱が下がって落ち着くまでは、陛下はトリスタン王子の前に出ないほうがいいでしょう」

 カイエンがそう言うと、オドザヤは静かにうなずいた。

 二人は、静かに動くと、並んで一つの長いソファに座った。 

 二人とも、昨日から今朝まで満足には寝ていないから、柔らかいソファに身をもたせかけると、すぐに睡魔が襲って来たが、それに耐えた。まだ、話すことがあったからだ。

「はい。あの、情けないですけれど、向こうから呼んでいるようでしたら、シリル様に立ち会っていただいて話そうと思います」

「そうですね。熱が下がって、傷もふさがってもごちゃごちゃ言うようなら、私を呼んでください。……まだ本人はそこまで考えられないだろうけれど、陛下の皇配としてこれからやっていくには、何としても歩けるようになってもらわないと……。実際、うちの外科医も、近衛の外科医も、普通の兵士や隊員なら、膝が残ってるんだから練習すれば木の簡単な義足で歩ける。ツワモノならその足で戦争にも行くし、治安維持部隊の仕事だってやってるやつがいくらでもいる、って言ってましたから」

 オドザヤはカイエンのようにはまだ肯定的には考えられないようだったが、それでもその顔は少しは明るくなったようだった。

「そうですわね」

「問題は、踊り子王子だけに……そっちのほうだと思いますよ。陛下にもお話ししたと思いますが、あいつ、踊り子に化けてやって来て、テルプシコーラ神殿で自分の踊りの技量を確かめて、その上、オリュンポス劇場に出てたんです。ザイオンの第三王子でありながら、踊りへの気持ちもかなり本気なんじゃないかと思うんですよね」

 カイエンがそう言うと、オドザヤはぎくり、としたように顔を上げた。彼女がトリスタンに一目惚れしたのも、あの日、カイエンとリリエンスールの誕生日の日に、大公宮へ押しかけて来たトリスタンの踊りを見た時だったのだ。

「あの、じゃあ、だからお姉様はあのお医師の方々に『なんとか膝だけでなく、足首の関節も温存するように』と命じられたのですね?」

 カイエンはうなずいた。

「だけど、それは無理だった。歩くだけなら私よりマシに歩けるようになるかも知れない。でも、踊りとなると……ね」

 カイエンは別にトリスタンのことを親身になって考えてやるほど、彼に好感を持っていたわけではない。

 それどころか、彼が最初にオドザヤに対して仕掛けたことを思えば、「ざまーみろ」とでも言いたいくらいだった。それだから、トリスタンが無くしたのが腕だったら、もしかしたらカイエンはこうまで気を回さなかったかも知れない。

 カイエンが気を回さざるを得なかったのは、トリスタンが失ったのが、彼女と同じ右足だったからなのだ。カイエン自身は生まれた瞬間から、右足が普通には動かない。だから、彼女には「動かない右足」が最初から普通だった。でも、そのことでどれだけ嫌な思いをしたか。させられたか。

 普通に両足が動く人間には、分からないのだ。いや、分かったつもりでも実感できるはずがないのだ。その痛みも、不自由さも。だって、彼らのそれは普通に動くのだから。痛みなど感じたことがないのだから。

「陛下も、いや、思い出すのはお嫌でしょうけれど、最初にあいつが大公宮へ私とリリの誕生日に押しかけて来たときに、見ているでしょう? あいつの踊りを。あれが本当のトリスタンなんですよ、きっと。でも、……トリスタンは陛下にあんなことをするなんて、一国の王子とは思えない所業をしたやつです。今までは嫌なやつだと決めつけていましたけど、あれ、実際にはチューラ女王の指示に従ってやったことなんだと思うんです。きっとあいつはザイオンでも似たようなことをやらされていた……」

「えっ?」

 オドザヤはカイエンのようには考えていなかったらしく、本当にびっくりした顔をした。

「私はこれでも大公として治安維持部隊の仕事を見て来て、似たような奴を見たことがあるんです。あの、女の子をいいように弄んで、自分のものにして、最後には平気な顔で捨てていく手際の良さ。あれ、依頼されておんなじようなことをする男がいるんですよ、仕事として。女性が目当てじゃないんです。女性の家とか親とかが本当の標的なんです……。今だから言いますけど、チューラ女王は気にくわないやつを蹴落としたいとき、そいつの奥さんとか娘とかをトリスタンに命じて彼に夢中にさせて、それから不祥事を起こさせて女の人の夫とか父親とかを消し去って来たんじゃないかな」

 カイエンがそう言うと、オドザヤはぶるりと身を震わせた。だが、もう彼女も最初にトリスタンに一目惚れした時の何も知らない少女ではなかった。

「そういう汚い仕事をさせられて来た、彼の最後の拠り所が、踊りだった、ということですのね?」

 オドザヤはずばりと核心をついてきた。カイエンは並んで座っているソファにのけぞるように、疲れた体を伸ばしながらもこう答えた。

「……そうじゃないかな、と思うんです。シリルさん見てても、分かるでしょう? あの人も、ザイオンの宮廷で二十年以上も逼塞ひっそくしていられたのは、息子のトリスタンに踊りを教えて、それで自分も踊りと離れずに生きてこられたからなんでしょう。だから、この国へ来てすぐに二十年前の踊り手に戻れたんだ」

「確か、この国へいらしたのも、たった一つトリスタン王子に教えていなかった踊りがあったからだとか……」

 オドザヤ自身が、あのオルキデア離宮のそばで初めてシリルに出会った時にも、そんなことは聞いたような気がしたが、何かの折にシリルからその話を聞いて、オドザヤにその話をしたのは、カイエンだったから彼女は苦笑いした。

「火の鳥の踊りだったそうですよ。なんでも、ザイオンの宮廷に螺旋帝国の使者が来ていて、……この話はシリルさんに聞いたあとで、陛下やサヴォナローラにも話したでしょう……その使者が読み上げたある歌が火の鳥の歌で、それを聞いた途端にまだあった、あれをトリスタンに教えていなかった! って思って、そう気が付いたらもう旅の空だったって」

「そうでしたわね!」

 オドザヤは一瞬だけ明るい顔になったが、すぐにまたこの話の出た、元の話を思い出してしまったらしく、意気消沈してしまった。

「わかりましたわ。トリスタン王子はお母様のチューラ女王から汚れ仕事をさせられていた。他の二人のお兄様方とは扱いが……やっぱり違っていたんですわね。同じお母様の、女王陛下の息子なのに」

 カイエンはふと、自分とあの、アルトゥール・スライゴに利用されて殺されてしまった、アルウィンの庶子のカルロスのことを思い出してしまった。彼と自分とは父親が同じだったのに、カイエンは次の大公として大公宮で大事大事に育てられ、カルロスの方は母親を亡くしてからは男娼に落ちていたのだ。

 アルウィンはカルロス……その母親が父親と同じ「アルウィン」という名前を付けていた「息子」には、ひとかけらの気持ちも持ってはいなかった。あれは頭のおかしい男だからだろうと思っていたが、大なり小なり程度は違っても、この世には同じようなことがあるのだ。

「確か、先帝陛下が御隠れになる前、アルタマキア皇女も同じようなことを言っていましたっけね。でも、それにしてもトリスタンは他はともかく、踊りには真摯に向き合っていたんだろうと思います。それが……それが今後、前のようにはいかなくなる」

 カイエンは続けた。  

「まあ、普通なら荒れるでしょうね。私たちのせいにするかどうかは分からないけれど、建設的に前向きに仕切り直すまでには、トリスタンじゃなくたって一悶着起こしますよ。仕方がない。……陛下は決してお一人で彼と向き合おうとしてはいけませんよ」

 カイエンは自分と同じように根が生真面目なオドザヤなら、自分を責めるだろうと分かっていたから、こう釘を刺した。

「シリルさんはアベルのことも、お仕事も……それこそシリルさんだって踊りから離れたら辛いでしょうからね……ありますから、そう長いこと看病に付いていてもらうわけにもいきませんし。もう、明日明後日には読売りが大々的に昨日の事件を伝えるはずですから、こちらも桔梗星団派のことを公表しなければならないでしょう」

 カイエンは急に話が政治的になったな、と思ったが、オドザヤは皇帝なのだから、と思い直して続けた。

「サヴォナローラとはもうお話しになりましたか? 先代の大公が自分の死を偽って逃げ出したこと、そして大公だった頃から秘密の結社を作ってハウヤ帝国を転覆させる企みを抱いていたことを公表し、彼を『国賊』として正式に告発するのです」

 カイエンはもう、先帝サウルがまだ元気に生きていた頃、シイナドラドから帰国してすぐに、アルウィンをサウルとサヴォナローラの前で告発している。

(ハーマポスタール大公カイエンはここに告発致します。……前ハーマポスタール大公、アルウィン・エリアス・エスピリディオン・デ・ハーマポスタールこそ、シイナドラド、そして螺旋帝国を影で動かそうとしている中心人物である疑いがあると。そして、今後は、今度のことでシイナドラドの星教皇にさせられた私と同じ条件を満たす、リリエンスール皇女にも手を伸ばしてくる可能性があるということを!)

(ですから、私は前ハーマポスタール大公、アルウィン・エリアス・エスピリディオン・デ・ハーマポスタールをハウヤ帝国への反逆の罪で告発するものであります)

 だが、あの時にはまだ確固とした証拠がなかった。

 でも、今はもう違う。奴らは「皇帝暗殺」という暴挙を企てたのだ。

「向こうも、陛下の暗殺に失敗した以上、覚悟はしているでしょう。化かし合いですが、動くのは早いほうがいい」

(天磊を逃したのは、残念だったな……)

 カイエンは昨日、トリニに直接聞いた、天磊のこと、彼をすんでのところで黒衣の怪人に奪われたことを思い出していた。天磊がこっちの手に入れば、アルウィンと螺旋帝国との関係を暴露できたのだ。

 そこまで考えて、カイエンは思い出した。

「そうだ陛下。昨日、ちょっとだけでしたが、天磊を救いに表れたという黒衣の怪人を追っかけてきた海軍の下士官がいたって話しましたよね」

 オドザヤは話がくるくる変わるので、ちょっと目を白黒させていたが、すぐに頭を切り替えたようだった。

「ええ。あの、海軍はなかなか組織が上手く出来なくて……。寄せ集めの船と船長さん達ですから、中には勝手に商船として出航している船もあるそうです。その中の一隻で、あのバンデラス公爵のモンテネグロの港に入ってきた、血まみれで無人の船みたいな事件が、また起こりそうになったというのですわよね」

 それは、バンデラス公爵が、もう二年以上前にサウルの葬儀のために二十年ぶりにハーマポスタール入りした時に聞いた話だ。

 サウルが西の海の向こうを探検させるため、国費を投じて出航させた船団。

 その旗艦である、ラ・パルマ号。

 実はそれにはアルウィンが乗り込んで、このハーマポスタールを出航したのであった。その船が、その後、乗務員みなが行方不明の、無人で、それも血まみれの船となってハウヤ帝国の南方のモンテネグロの港へ入って来たという事件だ。

「ええ、そうなんです。それでうちの治安維持部隊の方で、その犯人かもしれない黒衣の怪人を追跡して来たっていう海軍の下士官を抑えてあるんです。まだ詳しい話は聞いてないんですが……あの、ラ・パルマ号の事件と関連がありそうなので……」

 そこで一息ついて、カイエンが窓の外を見ると、もう日差しは夕暮れの色になり始めていた。そろそろ、市内では読売りの「号外」くらいは出ているかもしれない。

「あら! お姉様、私ったらお茶の一つも出さないで……」

 カイエンがふっと一息ついたのを見て、オドザヤはそんなことに気が付いたらしい。

「ああ、ああ。いいですよ、トリスタンのことは女官では女官長とイベットだけしかまだ知らないんでしょう? 私もそろそろ帰って、今話していた海軍の奴に、詳しい話を聞かないといけませんから」

 そう言うと、カイエンはもう、銀の握りのついた黒檀の杖に手を掛けていた。

「どうせまた明日、来ますよ。桔梗星団派と前の大公の国賊認定と国際的な指名手配について、調整しないといけませんから。それまでに、もしかしたらラ・パルマ号を襲った悲劇に関係があることが分かるかもしれません。どっちにしろ、奴らには新たにラ・パルマ号の皆殺し? の犯人かもしれない男が加わったんです。おちおちしちゃいられませんよ」

 よっこらせ、とお婆さんのように立ち上がりながら、カイエンはオドザヤにこう言うのも忘れなかった。

「陛下も、まあ、何食わぬ顔とはいかないでしょうが、お部屋にお帰りになってお食事でもなさったほうがいい。面倒なら、きっと宰相のところへ行けば、宰相お手製か護衛の武装神官君お手製のサンドイッチかなんかが食べられますよ。この頃は親衛隊とは和解したから、それほど用心はしてないでしょうが、あの男、ほとんどこの皇宮に住んでいるも同然らしいですから」

 びっくり顔のオドザヤを残し、カイエンはゴトゴトと杖の音をさせながら、足早に大公宮へ戻って行ったのだった。







 カイエンが、護衛騎士のシーヴを従えて、大公宮の裏へ馬車を乗り付けると、すぐに執事のアキノと、侍従長のモンタナが出てきて彼女を迎えた。

「カイエン様、例の海軍下士官からの聞きとりの件で、イリヤが参っております。大公宮の表は、昨日の事件の容疑者達の収容と、尋問で大わらわですが、そちらは双子に任せて来たそうです」

 カイエンはそれを聴きながら、すたすたと奥の自分の書斎の方へ歩いていたが、歩きながらアキノに尋ねた。モンタナは黙って付いて来ている。

「その海軍の下士官はどこに? そいつは別に容疑者じゃないから、建前は拘束と言うよりは任意だろう。トリニも来ているのか?」

 アキノはこれ以上ないほどに簡潔に答えた。

「その下士官はもとより、イリヤとトリニ、それに目撃者の帝都防衛部隊のアレクサンドロとロシーオ、サンデュが来ております。マテオ・ソーサ先生とガラも参っております。皇宮前広場プラサ・マジョールのカバジェーロ署長はさすがに大公宮表の方の仕事に回っているそうです。その、ララサバルという下士官の船の船長にはもう連絡し、港で治安維持部隊の方で船を確保しているそうです。手が空き次第、船の内部に捜査に入るそうです」

「そうか。で、どこに待たせている?」

「目立ってはいけませんので、私と、この侍従長のモンタナ以外はこの件には関わっておりません。そういうわけで、彼らはみんな、カイエン様の書斎に通しております。まさかお居間というわけには参りませんし、応接の間では他の使用人の目につきますので。裏庭に続く廊下を通して、書斎へ入れましてございます」

 カイエンはなんとなくイリヤが来ているとは言っても、仕事がらみだから書斎にいるだろうと思ってそっちへ向かっていたのだが、彼女の判断は誠に正しかったらしい。

 そこで、カイエンがアキノに聞いたことは、いきなり話が変わったように聞こえたが、アキノは動じなかった。

「ところで、アキノ。もう厨房のハイメは戻ったか」

 ハイメは昨日の晩餐会のために用意されていたご馳走を、フィエロアルマや近衛の「夜食」に回すため、そういう経験を生かしてもらうべく、皇宮へ助っ人に行かせていたのだ。

「はい。皇宮では生に近い状態で出される予定だった、魚や貝類、海老などをはじめ、固くなってしまったビスケットやクラッカー、薄焼きのパンなどまで加工し直して、片手でもつまんで食べられるよう、冷めてもしばらくは美味しく食べられるよう、軽食に作り替え、箱に詰め込んで送り出したそうです」

 カイエンはさすがはハイメだと思いながらも、話を進めた。

「そうか。まあ、ハイメがいなくとも、副料理長でも出来るだろうが、私は腹が空いた。本当は眠いほうが先だが、これは今少し我慢しよう。皆も同じだろうからな。書斎にそれこそ簡単なものでいいので、夕食を持って来させてくれ。イリヤも皆も、昨日からまともに食べてはいまい。まあ、温かいものならなんでも食べるだろう」

 その時にはもう、そろそろ書斎の前にさしかかっていた。アキノがモンタナに何も言わないうちに、もうモンタナは厨房の方へ早足で、それでもまったく音を立てずに歩き去っていた。



「待たせたな」

 カイエンが書斎へ入ると、ぐるりと三方を書棚が囲む書斎の真ん中、カイエンの大きな机の前に置かれたソファや椅子に座り込んでいた面々が、弾かれたように立ち上がった。ゆるゆると煙草の火を灰皿に押し付けて消しながら立ち上がったのは、軍団長のイリヤただ一人だ。それと、マテオ・ソーサとガラはここの後宮の住人なので平気な顔だった。

 昨日のうちに帰っているはずのエルネストの姿はない。彼は後宮の自室でゆったり構えているのだろう。カイエンは昨日、エルネスト本人が言っていたように、トリスタンがごねるようなら、エルネストをさし向けるつもりだった。皇帝として多忙なオドザヤを煩わせずに置くには、暇人を使ったほうが良いに決まっていた。

 トリニは大公宮表のカイエンの執務室へは何度か入ったことがあるが、このいかにもカイエンの個人的な空間である書斎に通されるのは初めてだから緊張した顔だし、他のロシーオにアレクサンドロ、それにサンデュは緊張のあまり動きがぎこちなくなっていた。

 最高におのれを見失っていたのは、やはり、大公宮も初めてなら、大公のカイエンを見るのも初めて、という海軍下士官、アメリコ・アヴィスパ・ララサバルに違いなかった。

 彼は別に罪人ではなかったから、縄も打たれてはいなかったが、周りが立ち上がったので一緒に立ち上がったものの、どうしていいのかわからず、おどおどしている。その様子を見ると、黒衣の大量人殺し怪人を一人で港から追いかけて来た豪胆な男にはとても見えなかった。

「みんな、座ってくれ。……今、夕食を頼んだから、話は食い物が来てからにしよう。急いだってしょうがない。いや、明日のことを考えると急ぎは急ぎなんだが、みんな疲れているだろう。いや、いいんだ、私自体が疲れているんだから」

 カイエンがそう言うと、同じ長椅子に座っていた、イリヤと教授が間を空けて、カイエンが座れるようにしてくれた。ガラの方は、教授の後ろに持って来た椅子にどすんと腰を据えた。その横に空いた椅子に、シーヴが黙ったまま座る。彼も昨日からカイエンにくっついて動いている。カイエンが仮眠を取った時間に一緒にちょっと寝ただけだから、いつもの元気さはない。

 トリニ以下の隊員四人は三人掛けのソファと、一人掛けのソファに収まり、最後に残ったアメリコが、その間にぽつんと置かれた椅子に座る。ガラとアメリコの椅子は、他の部屋から持って来たものだろう。

「殿下ちゃん、ヴァイロンさんが後から来る予定だそーでーす。まだ、現場の検証に立ち会ってるんだって。フィエロアルマのコロンボ将軍がなんか、気になる事があるって言ってるんだってー」

 カイエンが座るなり、隣からこう、間延びした言い方で言ったのは、もちろんイリヤだ。彼もほとんど寝ていないはずだが、一時期、目の下にクマを作って残業しまくっていた頃から比べれば、まだ元気そうに見える。

(殿下ちゃんはよせ、とあれほど言っているのに!)

 カイエンは馴れ馴れしいイリヤの物言いには文句を言いたくなったが、それは枝葉の事なのはよく分かっていたから、口には出さなかった。

「……そうか。先生、この海軍の下士官からは何かもう聞きましたか」

 カイエンはイリヤは無視して、反対側の教授の方へ質問した。すると教授はふりふりと首を振った。

「いいえ、殿下がお戻りになったら二度手間になりますから、昨日の事は何も。それよりも今の海軍の様子を聞き取っていましたよ。陸のアルマと違って、国立士官学校卒業の指揮官がいるわけじゃない。元は商船の船長だの、実は海賊行為をしていた船だのが、船員もろともに雇い入れられた、いわば傭兵の集まりですから。……そこの大公軍団軍団長兼、傭兵ギルドの元締めさんのほうが詳しいくらいでしたよ」

 ああ、そうだったそうだった。

 カイエンは隣でなんだかご機嫌なイリヤのもう一つの顔を思い出して、ちょっとがっくりした。さっき、オドザヤが「海軍はなかなか組織が上手く出来なくて……」と言っていたが、その解決策は実は彼女のすぐそばに居たのかもしれないのだった。

「そうでしたか」

 それからしばらくは、カイエンが黙ってしまったこともあり、誰も口をきかなかった。カイエンはちょっとでも寝ておきたかったので、遠慮なく夕食が来るまでの間、イリヤと教授に挟まれてソファにのけぞったまま、居眠りを決め込んだのだ。

 その、カイエンがはっとして目覚めたのは、まさに部屋に夕食が運び込まれようとしていた時だった。

「あー、殿下ちゃんが眠気より食い気なんだもん。俺たちみーんながお腹ぐうぐう言わせちゃうのもしょうがないよねぇ」

 他の皆は気がつかないだろうが、これはイリヤからカイエンへの嫌味だ。

 カイエンは疲れていると、イリヤの部屋で逢瀬を楽しんでいる時でも、途中でぐうぐう寝てしまう事があるからに違いない。それとも、最近はイリヤの部屋で飲み食いしてからではないと仲良くしない事への嫌味か。

「おお。いつもながら手早く美味しそうなのが来たな。……みんな、そこの皿に好きなものを取ってまずは腹ごしらえと行ってくれ」

 ソファや椅子の囲むテーブルへ、アキノとモンタナの手で置かれた料理はみんな大皿で、時間をかけた料理ではなかったが、寝不足の皆の腹を考えたのか、揚げ物などは少なく、肉や魚の焼き物、ワインや蒸留酒をかけて油で焼き目をつけ、肉汁に浸して軽く根菜と一緒に煮こんだ煮物などの腹にやさしい料理や、しっかりと鶏の骨で出汁をとった、野菜たっぷりのスープなどの汁物、それにこんがり焼けた焼きたての玉蜀黍パンが香ばしい香りを放っていた。

 トリニは大公宮の表で似たような食事をした事があったから、うれしそうに取り皿に手を出したが、他の隊員や、アメリコは固まったままだ。

「ほら、お皿取りなさい。海の上じゃ虫食いのビスケットやら、乾燥しきったかびたパンと魚ばっかりでしょ。肉は塩漬けだけで。野菜も足りてないはずよ。あんたには根掘り葉掘り聞くからね。そのために俺までここに来てるんだからね!」

 イリヤがアメリコに無理やり皿を取らせた頃には、もうカイエンはもうアキノに一皿目を盛り付けてもらい、食べ始めていた。教授やガラが慣れているからそれに続くと、残りの皆も恐る恐る、大皿から料理を自分の皿に取り始める。

 それでも固まったままのアメリコには、しょうがないなあ、という顔で、同年代のシーヴが適当に料理を皿に盛って、フォークと一緒に差し出した。

「あったかいうちに食べちゃいなよ。これも縁だからさ。きっと君、またここで飲み食いすることになるよ」

 シーヴがそう言うと、アメリコは急にしゃきっとした。

「えっ?」

「とにかく、料理はたっぷりあるから、食べ……」

「食べろ」

「食べたほうがいいよー」

「食べなさい」

「さっさとしろ」

「ほら、この肉、柔らかくて美味しいよ」

「あ、ほんとだ。これ美味い、早く食いな」

 周り中からそんなことを言われると、アメリコは恐る恐る、最初の一口を口へ運んだ。そして料理を噛み締めると、その顔が、くしゃっと歪んだ。

「……あ、あったかい。おいしい……」

 船では、温かいものと言ったら魚の汁くらいのものなのだろう。

 しばらくは誰もが食べることに夢中で、書斎の中は静かなものだった。

 皆が、満腹の腹を抱えて、少し眠気を催した時。

 それは始まったのだった。


「それじゃあ、アメリコ君だったね? 君の船に起こったことを、最初っから詳細に、関係なさそうな事も自分で判断しないで、ぜーんぶ、話してもらいましょうかな」

 かなり眠くなったカイエンの横で、教授がそう言った瞬間に、アメリコの至福の時間は終わりを告げたのだった。

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