騙された男と追いかけてきた男

 オドザヤとトリスタン、それにカイエンとモンドラゴン、ナシオを乗せた馬車は、ガラが馬を御したまま、凄まじい速さで走っていく。

 そして、近衛と親衛隊、それに大公軍団のイリヤとヴァイロン、それにエルネストとシーヴの馬などで、もう道の脇からは馬車本体が見えないほどに周囲を固められていた。

 大公軍団の外科医を乗せたシーヴと、そしてエルネストの馬は、馬車に先立って近衛の何騎かと共に先行して行った。その先には、近衛の将軍であり元帥大将軍であるエミリオ・ザラが行ったはずだから、皇宮で彼らはトリスタンの治療のための準備を始めているはずだった。

 イリヤはその職分から、事件現場のあたりに戻ろうか、とも思ったのだが、現場には双子の治安維持部隊隊長が駆けつけているはずで、あえて皇宮へ戻る馬車の警備に着いたままにすることにした。

 皇宮まで問題なく行ければ、イリヤとヴァイロンは大公宮の方へ戻るつもりだった。

「じゃあ、任せたよぉ。俺の見た所じゃ、逮捕者は想定外、ってほどの人数じゃないみたいだから、大公宮の表に直に引っ張ってきて、地下牢に入れちゃって! って指示お願い。でも俺はこのまま皇宮へ行くから、もし、何かあったら、皇宮へ来てよ!」

 そう言うイリヤの声を背中に、ガラの座る御者台に隠れていた大公宮の影使いのシモンが、爆走する馬車などなんでもないようにするりと飛び降りた。石畳の上を何回か転がって勢いを殺すと、そのまま金座の方向へすごい速さで走り去る。皇帝夫妻の馬車の中の状況を、現場のマリオやヘススたち、大公軍団の幹部たちに知らせるためだ。

 そのまま、ガラが無言のまま馭し続ける馬車は、石畳の敷かれた道を、通常ありえないような速度で走り続ける。

 実際のところ、中に乗っているカイエンやオドザヤはこんな「爆走馬車」になどには乗ったことがない。その揺れ方ときたらすごいものだ。それは、車の床に直に尻を落とした状態で二人、抱き合うようにしているというのに、蛇腹状の天井に頭をぶつけそうになるほどだった。

 怪我人のトリスタンは、少しでも衝撃を与えないよう、床から、後ろに背もたれを倒した座席の上に引きずり上げられ、親衛隊員の臙脂色の制服を着た、実は大公宮の影使いのナシオと、これはまさしく親衛隊長のウリセス・モンドラゴンに保定されていた。

 ナシオは傷付いた脚に自分の着ていた臙脂色の制服を巻きつけて座席の上に固定し、モンドラゴンの方は上体を固定している。これはトリスタンの負った傷をこれ以上悪化させないためだった。それに、意識のない怪我人などこの大揺れの中に寝かせて放っておいたら、どこに飛んでいくかわからない。

 馬車と周囲を走る、近衛と親衛隊の警備の馬たちが、皇宮の、まさしく昼過ぎにそこを出て来た皇帝専用の金色の門から皇宮の中へ入ると、金色に塗装された鉄製の門扉は固く閉ざされた。

 そこにはすでにどうやって先回りしたのか、それとも最初から事あった場合に備えていたのか、数名の読売りの記者らしい男たちが張り込んでいた。だが、猛スピードのまま門内に駆け込んだ馬車の勢いと、車輪が外れるのではないかと心配になるような、石畳が擦れる音に思わず耳を塞いだ間に、門扉は閉ざされてしまっていた。

 それどころか、その場には大公軍団のイリヤやヴァイロンの二頭の馬が残っていたから、読売りの記者たちはこれはやばいと逃げようとした。

「あー、ちょっと待ってぇ」

 そんな彼らの背中に突き刺さって来たのは、まさしく大公軍団軍団長様の、知る人ぞ知る素っ頓狂な声だった。

 記者たちは、この「大公軍団の恐怖の伊達男」のお願いに、一旦はそれでもまだ逃げようとは思ったが、続いて違う声まで聞こえて来たので、皆が、諦めたように背中を向けたまま、なぜかそこで両手を挙げて静止した。

「待て。君らに頼むことがある」

 彼らを止めたのは、ヴァイロンの冷静、かつ重厚な、だが戦場で部下に命令し慣れた響きのある声だった。こういうところはなかなか変えられないものなのだろう。

 子供達の遊びである、「一、二、三、ミイラだよ!ウン、ドス、トレス、モミア、エス」のように、記者達は不自然な姿勢のまま、不動で静止している。ちょっとでも動いたらこの遊びでは鬼に捕まってしまうのだからしょうがない……わけではないのだが。

 イリヤとヴァイロンが、とっさに自分たちの判断で門の外に残ったのは、実は、そこに知った顔を見たからだった。

「あ、のぉ」

 凍りついた記者達数名の中から、そおっと「鬼」の方を振り返ったのは、皮帽子を蜂の巣のようなもじゃもじゃの頭に乗っけた、「黎明新聞アウロラ」の敏腕記者、ホアン・ウゴ・アルヴァラードだった。

 彼は大公軍団最高顧問のマテオ・ソーサが、街中で寺子屋を開いていた頃の弟子だから、大公宮へも裏から何度も出入りしている。大公宮の裏門ではすでに「顔パス」状態の人物だ。

「それ……多分、俺のことですよ、ね?」

 ウゴがそろそろと後ろへ体を回すと、そこにはもう汗だらけの馬から降り立った、二つの長身がすぐそばに立っていた。ウゴも決して小さい方ではないが、イリヤは彼より頭半分以上背が高いし、ヴァイロンに至ってはそれ以上だ。思わず、ウゴは二人の顔を見上げてしまい、すぐにはっとして目を逸らした。

「そうそう、黎明新聞アウロラのアルヴァラード君でしたよねぇ。……他の人は、どこの新聞?」

 ウゴはイリヤともヴァイロンとも、もう顔見知りと言って良い。去年、女大公カイエンと二人の愛人との「狂乱の一夜」の記事を、熟成牛肉の豪華接待を受けて書かされた時、一晩散々、一緒になって酒をかっ喰らったのだから。

 だが、今度は接待なしでの、強面を生かした「お願い」のようだ。

 と言うか、カイエンが居ないだけで、この二人、ここまで変わるのか、とウゴはかなりぶるっていた。あの「接待的飲み会」の時には、なんだ、外見はとんでもなく目立つ人たちだけど、話せる人たちじゃないか、という雰囲気だったが、今は全然違っている。

 ヴァイロンの方は、体がでかいと言うだけでなく、雰囲気自体の威圧感がすごい。

 さっき、とんでもない事件が起きた直後だから、ヴァイロン自身が意識していなくとも、全身が非常時体勢になっているのだ。ウゴも他の記者達も彼を直視する勇気などなく、足元を見続けていたから見えなかったが、ヴァイロンの翡翠色の目はほとんど金色に輝き、真っ赤な髪は炎のように風に揺らいでいるようだった。敵の匂いを感じて、毛を逆立てた獣そのまま、と言えるだろう。

 彼の感覚は今、この場所の周囲の彼の視界に入るすべてを感知しているに違いない。そう思わせる何かがあった。

 ピリピリと空気が震え、小鳥達が逃げるように飛び立ち、周りの木々がざわざわ言い始めたのは、もしかしたらヴァイロンの発している「何か」のせいなんじゃないだろうか、とウゴは思った。

「……あらそう。みなさん、大手の読売りさんなのね。ここに張り込んでたってコトは、金座の大通りでのことは知らないの? それとも、細い裏通りでも抜けて来て、知ってるのぉ?」

 ウゴがビビっている間にも、イリヤは他の数紙の記者達の姓名を聞き取り、手帳に書き取っている。

 イリヤの方も、言葉遣いはいつも通りのふざけた感じは保っているものの、鉄色の目は地獄の底に繋がる井戸の底のようにおどろおどろしくも剣呑だった。なのに、幾人かの記者はこの「大公軍団の恐怖の伊達男」の後半部分を近くから見てやろうと、不幸にも顔を挙げてしまって、この目に睨めつけられ、「ヒィ」とか、「あぁ」とか意味不明の声を上げて腰砕けになっている。

 この時のイリヤの顔たるや、「美貌の大悪魔」としか言いようがなかった。ヴァイロンの方の「圧」もそうだが、イリヤの方もやれば顔で人が殺せるのではないか、などとウゴは普段なら「馬鹿言うな」と一笑に伏すような超常的なことまで考えた。

「……俺は実際には見てないですけど、新聞社はみんな、小僧どもの中でこの街の地理と足に自信のあるやつを伝令係にしてるんです。こいつらは軽業師みたいなやつらで、家でも塀でも、障害物の上を乗り越えて、直線で街ん中を動けるんです。まあ、苦情も出ますけどね。うちらの仕事は速さが命ですから。だからさっき、そいつに金座でのあらましは聞いてます」

 ウゴがそう言うと、さすがに他の記者の何人かが、不満げな声を上げた。彼らにはウゴが「簡単に口を割った」と見えたのだろう。この辺りは、さっきイリヤの顔を見てビビりまくったのとは別の、「記者魂」とでもいうところか。

 だが、次にイリヤが言った言葉を聞くと、すぐに大人しくなる。

「あらそー。そうなのー。読売りも機動力あるわね。今度うちにその小僧さん達、紹介してちょうだい。ことによっちゃ、うちで引き抜くから。ところで、……あんた達、ここにこの俺たちとは顔見知りのウゴちゃんがいてくれて感謝しなさいよぉ。じゃなかったら、このまま皇宮の中に引っ張ってたからねー」

 皇宮の中に引っ張られる。

 これには、大公宮へ引っ張られる、というのと同じ効果があった。

 その意味は、「重犯罪人として引っ張られ、もう二度と出られないかもしれない」ということだ。理不尽なようだが、平民が大公軍団に引っ張られ、街中の署ならまだしも、大公宮の本部へ直に連れて行かれる、というのはほとんど「死の宣告」に近いものだった。

「ヴァイロンさん、この人たちの後ろに立っててちょうだい。もうこうなったら、逃げやしないだろうけどさ。……あんた達、ちょっとこっち来なさい」

 ウゴと数人の記者達は、皇宮の皇帝専用門の近くの木陰に誘われた。嫌も応もない。

「あのねー。まー、今頃もう、金座じゃおんなじ命令が治安維持部隊から出てると思うんだけどぉ、今日はもうこれから明日の朝まで、みなさんまっすぐ、お家に帰って、そのまま外出禁止ね。うちの各署からもじきに同じ命令が出ます。コロニアの自警団は徹夜で警備。……あんた達は自宅でも新聞社でも、どっちに帰ってもいいけど、日暮れからはもう外出は出来ません」

 ウゴ達は生唾を飲み込んだ。

「あの、……記事の方は書いても……?」

 新聞社の方へ帰ってもいい、とイリヤが言ったので、一人の記者がか細い声ではあったが、記者として聞かねばならない一番重要なところを訊す。ウゴは「この非常時に勇気あるな」と感心した。

 すると、イリヤはヴァイロンと一瞬だけ目を見合わせてから答えた。

「それはしょうがないんじゃないの。俺も大公殿下ちゃんや、宰相さんに確認しちゃいないけど、今日のことじゃ、もうこうなったらこっちの最大の重要事項は、あんたら市民の安全なんだわ。これだけは間違い無いんでねぇ。まー、さっきちょっと殿下ちゃんのお言葉聞こえたんだけどねー、皇宮じゃ、近く、今日の事件の首謀者について、明らかにすると思います」

 ウゴ以外の記者達は、一瞬、イリヤの言う「殿下ちゃん」が誰か分からなかったようだが、すぐに去年の大公と愛人二人の記事に思いが至ったらしい。

「え? それじゃ、皇帝陛下は今日の事件は……」

(敵からの工作を予想していて、それでも強行したのか……)

 ウゴは後半はグッと喉の中へ飲み込んだ。前にも、「自由新聞リベルタ」のレオナルド・ヒロンなどと、あのアポロヒアで飲んだ時に、話したことがある。

(……地図を借りて来て見たのかい。それなら、わかるよ。急に、ザイオンと一緒に、東の国々、特に螺旋帝国が近くに迫ってくるような気がしたんじゃないかい?)

 あの時、ウゴはそう言い、レオナルド・ヒロンは自分もそれはもう知っている、と言ったのだ。

(スキュラだの、ザイオンだけじゃないんだ。螺旋帝国までが今日の事件に絡んでいるのか!?)

 ウゴはカイエンの実父、アルウィンが作り上げた「桔梗星団派」のことは知らない。

 それでも、このハウヤ帝国を囲んで蠢こうとしている勢力があることはもう知っていた。スキュラでのアルタマキア王女の事件、怪しい動きのベアトリア。スキュラでの事件の背後にありながら、第三王子を出して来て縁談話を進めようとしたザイオン。そして、友邦シイナドラドの内乱、そして首都、ホヤ・デ・セレンの「封鎖」だ。それに対して、ハウヤ帝国に婿入りしているエルネストが「援軍は不要」とあえて声明を出し、読売りに書かせたことも、思えば不思議なことだった。

「明日は無理だろうけど、じきに皇宮から今日の事件の真相というか、事実は公表されると思うよぉ。まー、その前にあんたらのお仲間が実際に見たことを、そのまま書くぶんには、皇宮も大公宮もしょうがないって感じでしょ。こういう時に圧力かけると藪蛇だ、ってのはみんな知ってるからねぇ。でも、事実からちょっとでも逸脱してたら、それなりの御沙汰はあるはずだけどぉ」

 最後は脅し気味にイリヤはここまで言うと、もう馬の轡を取って、門の方へ歩き始めていた。

「じゃ、あんたらも早く、家か新聞社かへお帰り。印刷屋さんだのなんだのも、コロニアが違ってたら今夜は無理だね。明日の朝刊は諦めなよ。急いては事を仕損ずる、って言うでしょ。それに、今日ばかりは暗くなってもうろうろしてたら、こっちは本気で治安維持部隊の方でしょっ引くよ」

 その言葉は、この帝都ハーマポスタールの治安を任されている実務者の言葉そのものだったから、ウゴ達はただ、承知した、とうなずくしか出来なかった。彼らがうなずかなくとも、彼らの社の編集長達は慎重な判断をするはずだった。

 これまで、読売りでの言論が守られてきたのは、彼らの側も、そして先帝サウルや今のオドザヤやカイエンの為政者達の側も、双方が「ここまでは許される」というぎりぎりの境目を間違えなかったからなのだから。

 桔梗星団派が醜聞を流すのに読売りを利用したことをきっかけに、大公のカイエンが読売りの別の使い方に気が付いた。それは、まさに「持ちつ持たれつ」の関係で、それは今の所、双方ともに自分の側から切って捨てるつもりはない、はずなのだ。







 それより少し前。

 治安維持部隊隊員のトリニ・コンドルカンキは、桔梗星団派に属している、螺旋帝国の前王朝「冬」の生き残りの皇子、天磊テンライをひたすら、距離を置いて追っていた。

 天磊を見つけるのは、ある意味簡単だった。

 トリニは天磊に何度か会ったことがあるし、前に読売りの記者で彼女の幼馴染でもある、ホアン・ウゴ・アルヴァラードが襲われそうになり、おそらくはその巻き添えで、裏通り一本分の屋台の店主達が皆殺しになった事件も見ている。そこでは、天磊と立ち合いもしたのだ。だから、彼の身ごなしはあっちがどう工夫してきても見破る自信があった。

 トリニの父、カク 赳生キョウセイは、螺旋帝国の元、将軍であり、武芸を極めた男として有名だった。訳あって将軍位を剥奪され、パナメリゴ大陸の東の果ての螺旋帝国から逃亡し、西の果てのハウヤ帝国へ流れ流れてきて、マリア・コンドルカンキと結婚し、出来たのがたった一人の娘、トリニだ。

 トリニは、男としても長身に入るような体格に恵まれ、父からすべての武術を教え込まれた。その実力のほどは治安維持部隊の女性隊員募集第一期生で入隊した時から有名で、大公軍団だけでなく、近衛のザラ大将軍などまでが彼女の名前を知るくらいだ。

 ことを個人の戦闘に限れば、恐らく今、トリニにかなうのは恐ろしいことにヴァイロンくらいのものじゃないか、とまで言われているのだ。あのガラでさえ、「力では自分が上だが、技で来られたら速さと正確さとでやられる」と言っていたくらいなのだ。徒手空拳の場合だけではなく、トリニは槍や大剣、短剣その他の得物を手にした場合でも、恵まれた体格からそれらの重さに振り回されることがなかった。重心を上手く使うので、ただの力技だけではないのだ。女性でなかったら、軍隊が間違いなく引き抜いていただろう。

 天磊はトリニのように武術を極めたわけではない。

 だが、前の王朝「冬」が、ヒョウ 革偉カクイの起こした革命で倒されるまで、彼の国の帝都の宮城に暮らしていた頃から、彼には異様な性癖があったのだ。

 前に、まだ先帝サウルが存命の頃、ハーマポスタールにやって来た新王朝「青」の外交官で、旧王朝「冬」の宦官のたばねである太監だったシュ 路陽ロヨウが、天磊の恐ろしさについて話したことがある。

 彼は連続男娼殺人事件の真犯人は、母である貞辰が、「女狩り」の時に、昔の思い人であるヒョウ 革偉カクイから受け取り、そのまま母の死後彼のものとなっていた、あの佩玉を取り返そうとした天磊に間違いない、とさえ言ったのだ。

 天磊の周囲では、最初は虫、次には小動物。猫や犬がいなくなり、そして次には、とうとう彼の周囲の後宮の官女達がやられた。それでも天磊は皇子だったがために、彼の所業は隠し通されて来たのだ。

 同じ母親を持つ、姉の星辰も同じだったのかどうかは定かではない。

 だが、革命の炎に燃える宮城から、母親の貞辰がヒョウ 革偉カクイの思い人であった過去から、革命軍の頼 國仁先生らに秘密裏に助け出された時にはもう、天磊は天然の快楽殺人者に成り果てていた。

 ハウヤ帝国に連れて来られ、姉の星辰と引き離されて「青い天空の塔」修道院に入れられ、そして、そこをそこの修行僧達を皆殺しにして脱出した天磊は、トリニのように武芸を極めたわけではなかったが、殺人への躊躇などもう、かけらもないだろう。だから、ウゴの事件の時に対峙したトリニには分かっていた。

 今の天磊の動きについていける隊員はほとんどいない。天磊の場合には、常に必殺の心に迷いがない。その迷いのなさの前には、普通の人間はいくら鍛え上げても遅れを取ってしまうからだ。

 トリニが天磊発見、と周囲の隊員を経由して上に知らせると、驚くほど早く、それも軍団長のイリヤから次なる命令が降りて来た。

(無差別殺人をさせないよう、見張れ)

 だが、天磊なら武器を取り出せば、一瞬で周囲の善男善女を数人、屠ることができるだろう。

 だがらトリニは、イリヤからの指令を聞くと、気配を殺して群衆の中を進み、天磊のすぐ後ろに付いた。トリニの場合、女の格好だとかえってその大柄な体が目立つので、今日の彼女は完全な男装である。

 髪が短いこともあって、その出で立ちにはほとんど違和感がない。よく見れば、胸も大きいし、大柄なことを除けば女らしい体型ではあるのだが、筋肉質で引き締まっているから、今日のように下に鎖帷子を着込んでいれば近くにいるフィエロアルマの軍人よりもたくましくさえ見えた。

 トリニが天磊の方へ動いた途端に、彼女は周囲で動く他の人間の動きを探知した。間違いなく、天磊以外にも桔梗星団派の人員が周囲に潜んでいるのだ。

 だが、トリニは慌てなかった。彼女自身が父から教えられたことの中にも、こうしたことへの対処法はあったし、同じことは大公軍団での訓練でも教えられていた。

 トリニがやったことは他の一般人の中から、的確に「彼ら」を選び出して、彼女同様、群衆に紛れている他の隊員に教えることだった。もっとも、長い沿道全体を彼女一人で見て回ることは出来ない。彼女が命じられたのは天磊を動かさない、ということだからだ。

 トリニがしたのは、恐らくは天磊と一緒に動く予定で配置されている人間を探知することだけだった。人間は同じ目標や目的に注意して動いていると、そちらへ注意を向けようとする意識が体にも働く。天磊を中心としてそういう意識を天磊へ向けている人間を選別するのだ。

「え? ちょっと何? この人、いきなり……」

 隣にいた男が、急に立ちくらみでも覚えたようにふらつくのを見て、驚いている女性に、私服で群衆に混ざり込んでいる隊員の一人が、さりげなく言う。

「ああ、人が多いから目が回っちまったんでしょう。大丈夫ですよ、俺、あっちの治安維持部隊の人んとこに連れて行きます。おい、大丈夫か。ちょっとこっちへ来いよな」

 トリニが体の一部に触れただけで、膝から崩れそうになる奴らを、さりげなく帝都防衛部隊員を中心とした、荒事に慣れた隊員達が沿道の群衆から引っ張り出して行く。

 やがて。

 天磊の周りから、一般人でない気配はすべていなくなり、トリニだけが彼の真後ろに立っていた。

「……お前。またお前かよ、お前に折られた腕、治るのに随分かかったんだ。その間、楽しい『お仕事』が出来なくって、退屈だったなぁ」

 そんな不気味なことを言う声の方は、優しげな若い男の声だ。だが、そんなことはトリニには関係なかった。

「お仲間は先に広い場所へ出てもらったよ。残りは、お前一人だ」

 トリニは短く、事実のみを天磊の、彼女から見れば下方にある帽子をかぶった頭に向かって言った。

「へえ、じゃあ、どうして僕だけをまだ自由にさせとくんだい? ほら、ほら、前のこの女ども、大公や大公軍団長に夢中だよ。刺し殺されてもすぐには自分の死にも気が付かないんじゃない?」

 ここまでのトリニと天磊の話は、ほとんどお互いにしか聞こえないほど小さい声だ。まるで仲の良い姉と弟が話してでもいるように、その声の抑揚は静かなのだった。

 トリニは天磊が何を言っても、皇帝夫妻の馬車の進んで行く、大通りの方は見なかった。

「……視覚に訴えようとしても無駄だ。今、私は目に頼ってはいない。お前の後ろに付いたのはそのためだ」

 天磊がはっとして体の向きを変えようとしたが、トリニはそれをも次の言葉で押さえ込んだ。

「動くな。今日、お前が自分の腕以外にも作り物の腕を仕込んでいることは、もう分かっている。もしかしたら、本物の人間の腕『だった』ものかもしれないね。でも、そいつを使うにしても、お前の筋肉を動かさずに操ることは出来まい。首から下の筋肉が、歩く以外の動きを少しでもしたら、即座にお前の首から下へ続く神経を切る。……このまま沿道から出るんだ」

 トリニは驚くべきことを言ってのけると、天磊には指ひとつ触れぬままに、自分から群衆の外へと動き始めたように見えた。少なくとも、トリニを支援するために、天磊の仲間を外に出して外の隊員に引き渡し、トリニと天磊の方を振り返った、数名の隊員にはそう見えた。

 天磊は後ろにくっついたトリニに、目に見えない糸で引っ張られるようにして、群衆の中から出て行く。

 その先には、ちょうど金座の大きな金貸の建物があり、道に面して大きく開いたアーチ型の門を潜った向こうに広く広がった中庭のような石畳の馬車止まりが見えた。金貸の店の入り口はその奥にあるのだ。

 そのまま、そっちへ天磊を誘導できれば、彼を確保するのも確実か、と周囲の隊員達は感じていた。この日、金座の大通りの左右の建物は、前もってすべて検査済みで、建物の上には身の軽い帝都防衛部隊の隊員が潜んでいる。だから、建物の中に入れば、天磊を支援できる人間はいなくなるはずだった。

 だが。

 トリニは確かにその時、視覚に頼っていなかった。天磊の体の動きに集中するため、そして、周囲の見かけ上の変化に惑わされないようにしていたのだ。

 それが裏目に出た。

 トリニは五感すべてが訓練によって、通常人よりも高められていたから、彼女の嗅覚が他の人間よりも先にそれを感知してしまったのだ。

(火縄に火が!)

 それは、オドザヤとトリスタンの馬車に、火薬による攻撃が加えられようとしていた、まさにその時だったのだ。

 火縄の燃える匂いを嗅いだ瞬間、トリニは迷わず目の前の天磊の首のあたりへ向かって鋭い手刀を入れていた。

 その効果を見定める時間を、トリニは迷わず振り捨てた。彼女は治安維持部隊の隊員だった。そして、今日の仕事の最優先順位は、皇帝と周囲の民間人、市民達の警護だった。

火薬ポルボラ!」

 ああ、なんで人間同士は言葉なしで意思を伝えられないのか。だが、今、この時にトリニが他の隊員へ伝えるには声に出すしかなかった。火薬に火がつけられた。もう後は秒単位でことは進んで行ってしまうだろうから。

 トリニがそう叫ぶと同時に、天磊の頭が彼女の視界から消えた。それは、手刀を食らって崩れ落ちたように見えた。

 トリニの声を聞いたか聞かないかのうちに、それが聞こえた群衆に紛れた隊員達も、助っ人のフィエロアルマの軍人達もはっとして動き始めた。

 カイエンが正午のバルコニーでのお披露目の時に鳴り響いた花火から、火薬の使用に思いが至り、イリヤが「要警戒最高レベル」のサインを出すよりも前に、トリニの周りでは馬車への襲撃に対応していたのだ。

 トリニの支援をしていた隊員達すべての注意が、彼女と天磊から離れ、大通りを進む馬車の方へ向いた。

 トリニの前で崩れ落ちたように見えた、天磊の平凡な衣服の左腕が裂けたのはその瞬間だった。

 さっき、トリニが言っていた「作り物の腕」というのがそれだったのだろう。

 それは、人間の腕のようなものの肘から下に鋭い一本の刃物を埋め込んだものだった。奇術団などでも、服の袖には偽の腕を通しておいて、観客の注意を引き、その間に後ろで本物の腕を使うようなのがあるが、あれを応用したものなのだろう。

 天磊は化粧でやや顔を変えてはいたが、検問で検査は受けたはずだ。

 その時は、本物の腕と偽物の腕を上手く入れ替えて、検査をすり抜けたのだろう。極度に細身の彼ならばこそ可能な仕込みだ。

 トリニはその刃を避けずに、胸元で受けた。胴体には服の下に鎖帷子を着込んでいる。だから、避ける時間を惜しんだのだ。着ている服の上着が切り裂かれたが、トリニはそのまま天磊の方へ前進した。

 しかし、内心では歯噛みするような思いだった。やはり、火縄に火がつけられた匂いを「感知」した、その一瞬の間が、トリニの、天磊の急所を狙った手刀の鋭さを鈍らせたのだ。それは天磊にわずかに攻撃を避けるための時間を与えてしまった。

 トリニは刃物を体で受けたと同時に、その天磊の作り物の腕を、腕ごと反対側の足で弾き落とした。手を使わなかったのは、履いている長靴の甲には、膝まで鋼鉄の防具を取り付けていたからだ。この日、隊員達は私服でも中に鎖帷子を着込んでいたし、トリニのように要所に防具を隠してもいた。それくらい、今度の任務は危険なものだったのだということだ。

「やらせないよ!」

 トリニにはもう、天磊の次の動きも見えていた。

 火薬ポルボラ、という声に驚き、慌てて群衆の外に出てきた市民の一人に向かって、これは本物の手らしい天磊の手が伸びていくのを、その手には鋭い剃刀があるのをトリニは見落としていなかった。今はもう、彼女は五感すべてを全開にしていた。

 トリニの前には、まだ天磊の背中がある。

 トリニは天磊の手の剃刀には目もくれず、再び天磊の急所に向かい、無造作に、今度は自分の手首から先を突き刺そうとしたように見えた。

「……いぎっ」

 その時、天磊の喉からうめき声のような、動物のうなり声のような声が漏れた。そのまま、天磊は剃刀を手から取り落として、石畳の路上に倒れた。

 前に、ウゴを狙ってトリニに腕を折られた時でさえ、得物の大きなナイフを手から離さなかった天磊が、自ら剃刀を手から落として倒れ伏したのだ。

 天磊は、トリニの最初の急所への一撃をすべて避けきれてはいなかったのだ。

 がつん、というよりは、かぁん! とでもいうような澄んだ音が響き渡った。

 天磊は急に首から下のすべての力を失ったのだろう。彼は体をまっすぐに突っ張らせたまま、額から石畳の上へぶつかって行った。

 トリニはすぐに天磊の体を襲った事実に気が付いた。最初の手刀には確かに幾分かの手応えはあったのだ。だから、トリニはすぐに倒れた天磊の背中を踏みつけた。残っている天磊の意識をも手っ取り早く奪い、拘束しようとしたのだ。

 その頃には、金座の金貸の建物の入り口にいる、トリニと天磊の周りには人気がなくなっていた。

 遠くから何発かの火薬の爆発する音が聞こえ、人々はてんでにそこから逃げ出そうとし、それを大公軍団の隊員やらフィエロアルマの軍人やらが、安全な方へなんとか誘導しようとしている。

 トリニが、それらの動きに目をやった、ほんの数秒の間だっただろう。

 トリニの足の下で、天磊の意識がぶっつりと切れて、失神したのを彼女はしっかりと感じていた。

 さすがにトリニも、そこでふっと一息つきそうになった。だが、今日の彼女はそれさえ許されなかった。

 びゅっ、と突然に聞こえた風のような音に、トリニは無意識のうちに踏んずけていた天磊の上から飛びのいていた。

「えっ」

 そして、すぐそばに、いきなり現れたとしか思えない黒い影。

 父親譲りの武芸で怖いもの知らずと言われたトリニ・コンドルカンキが、普通の男よりも長身で、あまり人の顔を見上げたことのない彼女が、降って湧いたようなその黒い影を見上げていた。

「天然殺人狂。……だが、まだその天命は尽きていないか」

 軋るような響きの男の声が、トリニを上から見下ろしていた。すでに、その大きな片手には倒れた天磊の服の端が引っ掴まれており、彼は無造作に天磊を自分の左肩に引きずり上げた。その間、トリニは、ああ、トリニでさえも一歩も動けずにそこにいた。

「久方ぶりだな、カク 赳生キョウセイよ」

 いささか耳障りな、錆びた金属が触れ合うような声音で、相手はトリニを見下ろしていた。

 トリニは、その時やっと相手の姿形をその目で認識した。

 六月のハーマポスタールには似合わない、真っ黒な長い革の外套が、その、おそらくは大公軍団長のイリヤよりもやや高いのではないかというほどの長身を足元まで覆っている。ベルトもボタンも黒い外套は襟も高く、その人物の顔の下半分は襟と、そして中に着ている、これも黒に近い色のシャツと首元の飾り襟で隠されていた。顎髭らしきものも、彼の顔の下半分を曖昧にしているように見えた。

 その上に、頭には真っ黒な大きめな庇のついた帽子だ。

 帽子と黒い襟の間に見えたのは、やや黄色味がかったなめし革のような質感の、高い鼻梁が目立つ、痩せた、彫りの深い顔だった。目の色などは帽子の影になって見えない。

「父をご存知ですか」

 トリニは一瞬で、相手の技量を理解していた。こいつと殺し合いになれば、技量は均衡していても、まだ人を殺したことのない自分の方が負けるだろう。それだけは確かだった。だから、トリニは全身から力を抜いていた。

 今日、天磊を一撃で殺せなかったのも、彼女がまだ人間の命を奪ったことがないからだったかもしれない。でも、トリニは治安維持部隊の隊員となったからには、いつかはその日が来るにしても、今日までそれをしないで生きてこられた自分と、このハウヤ帝国という文化爛熟し、安定した国に生まれたことを感謝していた。

 だからこそ、確実なことだった。それは、一人ではこの男には勝てないということ。そして、父の名前を口にした、この男はもう、数え切れないほどの人間を殺しているということだった。

 そう、死んだ彼女の父親、螺旋帝国の将軍だった、カク 赳生キョウセイのように。

「父?」

 天磊を左肩に乗せたまま、背の高い黒衣の男は、まじまじとトリニの顔を見下ろして来た。そうなっても、太陽を背にした男の顔は、トリニにははっきりとしない。

「……なんと。髭がないので奇妙だと思っておったが、おぬしは女か?」

 トリニは、この奇妙な男の背後から、別の気配が近付くのを感じていた。それはこの男も同じだろうが、彼はそれを気にした風もない。

「ええ。カク 赳生キョウセイは、父です」

 トリニがもう一度、彼女とその父親の関係を口にすると、男はやっと得心がいったらしい。彼はなんと、トリニの父を探すように周囲にくりくりと目をさ迷わせさえしたのだ。

「奴はいないのか? 奴がここにいるのなら、こんな天然殺人狂の元皇子などどうでもいい。奴にくれてやる」

 この言葉からすると、この男は螺旋帝国人なのだろうか。トリニはじゃあ、天磊を置いて行ってくれ、と言いたかったが、もう、彼女の父親はとうの昔に死んでいた。

「父はもうこの世にはいません。病で死にました」

 トリニが事実を突きつけると、この彼女の父をよく知るらしい男は、せっかく助け上げて担いでいる天磊を、再び石畳の上へ落としそうになった。

「……奴が、病で……では、もう?」

「母と一緒に、海の見える墓地に眠っていますよ」

 トリニはやけくそのように言ってやった。この奇妙な男が死んだ父の知り合いで、武芸を競ったことがあるらしいことは今までの会話で理解していた。そして、今、この男は天磊を助けた。つまりは桔梗星団派の一人であることも。

「なんと言うことだ。この海の街へ、ハーマポスタールへ来れば、奴に会えると聞いていたのに……」

 この言葉を聞くと、トリニはもう、完全に冷静になっていた。

「それじゃあ、お仲間に騙されたんですね」

 トリニは事実をこの奇妙な男に突きつけてやった。この辺りの容赦のなさは、なんとなく大公のカイエンに近いものがあったかもしれない。後々、カイエンの周囲で活躍することになる女たちは、皆、こういう共通点があった。

「じゃあ、その天然殺人狂は、こっちに返して……」

 トリニがそう、話を進めようとした時だった。  

「おいおい、そこのめっちゃ強そうな兄さん、そっちより先にこっちの話が済んでねえんだよ!」

 トリニはもう、この父親の旧知らしい黒衣の男が現れた時から気が付いていたが、彼の後ろには後からくっついて来た別の気配があったのだ。 

「おっさん、密航はいけねえや。それに殺人もな。バレたからには、ちゃんとした船賃と、それに遺族への慰謝料も払ってもらわねえとな」    

 密航? 殺人?

 トリニは、そっと視線をずらして、黒衣の男の背後から、あまりにも恐れ気もなく近寄って来る人間の方へ注意を向けた。

 そこに見えたのは、長身のトリニから見れば小男の部類に入りそうな、やっと中肉中背、と言えるくらいの普通の体格の若い男だった。そして、その男の職業は、その身なりからすぐに知れた。

 庇の大きい紺色の海軍帽。同じ色の麻の上着と灰色のズボン。くたびれてやや黄ばんでいる白いシャツの襟元に、やっと引っ掛かっている青いネクタイ。襟章やらなんやらを見るに、せいぜい下士官といったところだろう。

 それは、先帝サウルが、海賊上がり、商船上がりの水夫たち、船長たちを集めて創立した、ハウヤ帝国海軍の制服だった。もっとも、海軍の編成はまだほとんど手つかずで、制服は着ているものの、彼らは未だ好き勝手に海の上で「商売」をしているだけ、という状態だった。

「へー、このおじさん、密航者なの。あんたはそれを追いかけて来たの? 今日、何の日か知ってる? 頭大丈夫?」

 今日がこの国の皇帝の結婚式だということくらい、いくら陸に上がってすぐの船員でも知っているだろうに。トリニが矢継ぎ早にそう聞くと、海軍らしい男はトリニの顔をまじまじと見上げるではないか。

「ああ、びっくりしたなあ。あんた、兄さんじゃなくて、お姉ちゃんかよ」 

 トリニは思わず、言い返していた。

「さっき、こっちのおじさんが、私に『お前は女か』って言ってたでしょ? あんた、耳くっついてんの!?」

 言い返しながら、トリニに見えたのは、帝都防衛部隊にいるサンデュや、ナポレオンとフランセスクのバンデラス公爵父子のような、南方の血を明らかに見せる、珈琲色の顔だった。顔立ちには特筆するような特徴はない。だが、たった一つだけ、印象的なのは、その目の色だ。

 西の大海の海原のような青。

 紺色の帽子の下からはみ出している髪の毛までが、真っ黒で、くるくると巻いていてネグリア大陸人のようなのに、目の色だけが北の人のように薄いのだ。

「わかった。そいつは俺が悪かった。だけどな、このおっさんの件は別だ。このおっさんは俺たちの船に密航して、このハーマポスタールまで、まんまとタダ乗りしやがったんだ。それも、おっそろしいことに、見つかるたびにその船員をぶち殺して海に捨てちまうから。毎日のように人数が減っていく俺達ゃ、船に魔物でも居るかと、恐怖のどん底でやっとハーマポスタールにたどり着いたんだぜ」

 トリニはその話を聞いて、ここまでこの若い男が、この自分よりも強いのは確実な、亡き父の好敵手かなんかだったらしい男に殺されずに港からここまで追跡して来たらしい、ということにまず驚いた。

 そして次に、何か引っかかるものを感じた。誰に聞いた話だったか。

「ああ! 大公宮で先生から聞いたんだ。南のバンデラス公爵の国許のモンテネグロの港で、前の皇帝陛下の派遣した新世界探検船団の船が、無人の血まみれの船になって港に入って来たんだって!」

 トリニは寺子屋の師だったマテオ・ソーサ、今の大公軍団最高顧問からその「海の恐怖」話を聞いたことがあったのだった。それはまさしく、あの、ラ・パルマ号の事件に相違なかった。

 トリニの言葉を聞くと、黒衣の怪人は急に落ち着きがなくなった。

「……騙された? もう、カク 赳生キョウセイがこの世にいないとなれば……。しかし、それでも新たなる革命の時代をあの方の下で迎えねばならぬことには変わりはない」

 そんなことを、黒衣の男は口の中で言っていたが、結局、今、自分が命じられたことは確実に遂行することを選んだようだった。

カク 赳生キョウセイの娘、お前との決着はまたの機会だ」

 トリニはこの言葉を聞くなり、黒衣の男に飛びかかったが、それはすんでのところでかわされた。

 気を失った天磊を担いだまま、驚いたことに黒衣の男は無人の建物の壁面をスルスルとよじ登って、トリニの目の前で、二階の窓から建物の中に入って行ってしまった。だが、建物の上には帝都防衛部隊の隊員が巡回しているはずだ。

 トリニはすぐにひゅっと、帝都防衛部隊の隊員間で使われる、手出し無用の意味を持つ警告の口笛を吹いた。あんな男とまともに対峙したら、いくら市街戦を模した訓練を受けている帝都防衛部隊の隊員でも命がいくつあっても足りない。

「くっそお! 天磊をまた逃がしちまったよ!」

 あの天然殺人狂、無差別殺人鬼を、目の前で奪われてしまったのだ。

 トリニは、地団駄を踏んだ。そして、呆然と見ている海軍の男の方へ食ってかかった。というよりも、まず、彼の身の確保にかかった。

「ちょっと! あんたはこっちで話を聞こうじゃないか。さっきのおっさんのこと、全部、治安維持部隊へ来て話してもらうよ!」

 トリニはあの黒衣の怪人に殺されずに追いかけて来た男だからと、それでも用心しながら手を伸ばしたが、男はあっけなく彼女に腕を取られ、足を払われ、石畳の上に確保されてしまった。

「……よくわかんないけど、俺は一応は海軍の名簿に下士官で載っかってるはずの、アメリコ・アヴィスパ・ララサバルであります!」

 その時には、やっとパニックになった市民たちをさばき終えた治安維持部隊の同僚たちが、トリニの周りに集まって来ていた。

 建物の上からは、帝都防衛部隊の精鋭、ロシーオ・アルバと、サンデュがするすると縄を使って降りて来た。

「トリニ、さっきの奴、あんたが手を出すなって笛吹いたから、そのまま逃したよ」

「ロシーオ、さっきのはやばかったって。俺、あんなのと闘うのは無理! 気がついたら殺されちゃってる。間違いないよ」

 サンデュは訓練中の筆記試験に落ちまくって、マテオ・ソーサを密かに悩ませた隊員だが、こういう勘は鋭かった。

「それで、こいつがさっきのおっそろしいのを追いかけて来てたってガキかよ?」

 話をどこから聞いていたのか、落ち着いた声をたどって見れば、帝都防衛部隊のアレクサンドロが、皇宮前広場プラサ・マジョール署の名物署長、ヴィクトル・カバジェーロと一緒に歩いてくるところだった。

「上から見てたぜ。署長さん、またあの殺人鬼を逃がしちまったけど、このトリニでもさっきの黒いのは一人じゃ無理だったよ。……だからって、俺たちがいても同じだっただろうけど」

 ヴィクトル・カバジェーロは話を逸らしなどしなかった。

「その、恐ろしいのを、密航して来た船から追っかけて来たのが、この若いのなんだな?」

 トリニは自分から、アメリコ、と名乗った海軍の制服の男をよいしょと持ち上げ、後ろ手にさっさと縄を打って縛り上げた。

「こいつは悪者じゃなさそうだけど、さっきの黒いのの話は、ちゃんと上の人たちで聞いてもらった方がいいと思います」

「そうだな」

 トリニの意見に、ヴィクトル・カバジェーロは即答した。

「さて、大公殿下は皇宮におられるだろうが、軍団長の方もまだ居てくれると助かるんだけどな」

「え? 俺、皇宮へ連れてかれるんですかっ? 俺は密航者を追いかけて来ただけなんですけれど!」

 そう言うアメリコ・アヴィスパ・ララサバルの言葉は、見事に皆に無視されたのだった。







 パレードの馬車と護衛たちが皇宮へ入ってから、ことは見事なまでに無駄なく進められていた。

 馬車に投げ込まれた爆薬で負傷したトリスタンは、すぐに皇帝オドザヤの宮へ運び込まれた。

 予定では彼の居場所は色々な事情を鑑みた結果、後宮に近い、最近は使われていなかった、先先帝レアンドロの死後しばらく、当時の皇太后ファナの居場所だった宮に決まっていた。

 本来ならば、先帝の妾妃達が離宮なりなんなりへ引っ込み、唯一の皇子のフロレンティーノとその母、先帝サウルの第三妾妃のベアトリア第一皇女マグダレーナが皇子宮に入り、後宮をトリスタンに明け渡すべきであった。

 だが、今、整備されている離宮は去年、あの一時期だけオドザヤが使っていた、オルキデア離宮のみ。

 それに、外国人の妾妃達には人質としての存在意味もあるので、皇宮の最奥にあり、出入りする者のしっかりと管理された後宮から彼女らを出すことは見送られた。

 皇子皇女宮には、スキュラから二人目の夫「だった」リュリュを引き連れたアルタマキア皇女が居座っていたし、サウルの時代に皇后のアイーシャが居た区画は、皇帝の寝室から隠し廊下で繋がっている。

 先帝サウルは臨終前に最後の力を引き絞り、その通路を通ってアイーシャの寝室へ入り、彼女を黄泉路の道連れにしてようとして果たせなかった。そういう場所に、オドザヤはトリスタンを置きたくはなかったのである。


 そういうわけで、トリスタンの居場所は、先先帝レアンドロの皇后だったファナが、夫の死後、短い時間を過ごした宮が選ばれたのだが、この日、そこは秘密の保持のためには不適当なために避けられたのだ。

 トリスタンが運び込まれた部屋には、もちろん寝台があり、怪我人がそこにそっと降ろされると、すぐにシーヴの馬で馬車に並走して来ていた、大公軍団の外科医が手当にかかった。

 すでに着替えや手などの消毒を終えた、女官長コンスタンサ以下の上位の女官だけがその部屋に入ることを許された。

 カイエンとオドザヤは、後からこの部屋に入るのを許されたが、それは、念入りに湯浴みをし、着替えを済ませた後の事だった。その前に、カイエンはイリヤとヴァイロンに命じて、市内の動静に当たるよう命じていた。

 同時に、イリヤからウゴたち読売りの記者たちとのやりとりも聞かされたが、カイエンはただうなずいただけだった。

「それでいい。イリヤ、ヴァイロン、ありがとう。彼らの目に入った事実は隠しようがない。だが、今夜は市民たちの安全のため、警らを確実にな。各署に備蓄の食料で、徹夜の隊員たちに炊き出しをするように」

「りょーかいー」

「承知致しました」

 イリヤとヴァイロンが下がり、二人の湯浴みや着替えが済んだところへ、宰相のサヴォナローラが現れ、近衛の外科医も到着したこと、国立医薬院から外科の医師が駆けつけたことが知らされた。

 カイエンはオドザヤのドレスを借りて着ており、二人ともに化粧もせず、髪も簡単に後頭部でまとめただけだ。

「晩餐会の方はどうした?」

 カイエンが聞くと、サヴォナローラは静かにうなずいた。

「もう、事件のことはハーマポスタール中に広まっております。皇宮内の控屋敷にて準備中だった貴族の方々には、そのまま待機するよう、市内の屋敷から登城する予定でした方々にも、連絡は滞りなく済んでおります」

「そうか。ご苦労」

 カイエンはそう言いながら、さっき、イリヤやヴァイロンに言いつけたことの続きを、サヴォナローラに対しても指示した。

「こんな時に下世話な話かも知れんが、さっき、うちの大公軍団には指示したから言うが」

 カイエンがこう話し出すと、サヴォナローラはやや怪訝な顔つきをした。

「今夜の晩餐会用には、たくさんの料理が用意されただろう?」

 カイエンがそう言うと、横でオドザヤがはっとした顔になった。

「私は食い意地が張っているから、きっとこんなことが気になるんだ。この皇宮の使用人のぶんは元から別に作ってあるからいいだろうが、近衛や親衛隊、それにフィエロアルマの方はそうでもないだろう。大公宮うちじゃ、今までにもこんなことがあったから、残り物を生かした調理の仕方も分かっている。料理長のハイメを寄越すから、なんとか料理が無駄にならんよう、按配したらどうかと思う」

「お姉様……」

 オドザヤはうなだれてしまったが、サヴォナローラの方は無表情ながらもうなずいた。

「そのように致します。このことは外に残っている読売りの記者どもに見えるように行いましょう」

 この答えには、カイエンはくすりと笑ってしまった。

 さっき、イリヤとヴァイロンからウゴたちのことを聞いているが、ああ言われても、記者魂に燃える奴らは皇宮の周りにも、市内にも恐怖に震えつつも潜んでいるに違いないのだ。

「頼んだぞ」

 そして。

 カイエンとオドザヤが、トリスタンの部屋に入った時には、もう、この国の精鋭の外科医師たちによって、彼の治療はとりあえず終了していた。先に湯浴みが終わったらしい、エルネストが部屋の隅で居心地悪そうにしている。カイエンの護衛騎士のシーヴの方は、他の部屋で待機しているのだろう。

「それで? どうなの」 

 長かった、初夏の一日に憔悴しきってはいたが、気力ですっくと背を伸ばしたオドザヤが、トリスタンの眠る寝台のある部屋の隣の部屋に設けられた、あり集めの椅子やソファの置かれた部屋で、カイエンと並んで座ってそう聞く。エルネストはカイエンの座っている後ろのソファで、そっぽを向いて黙っていた。

 すると、医師たちは顔を見合わせ、最終的には、国立医薬院の外科医が口を開いた。

「大公殿下の応急処置のよろしきを得まして、出血は最小限に留められました。次に、患部の消毒、手術の方法については、大公宮の外科医の方がおおよその目処を立てておられ、後より参りました私共も、最終的にそれに同意致しました」

 医師の言葉には、曖昧な感じや、自信なさげな様子は微塵もなかった。

「執刀は、不肖、私めが行いました。技術的な部分では他の先生方にもお助けいただき、まずは最良の治療を致しましたこと、ご報告申し上げます」

 これを聞くと、トリスタンの実際の足の様子を見ていたカイエンは静かにうなずいたが、オドザヤの方はおさまらなかった。

「あの! トリスタン王子のおみ足は今、どのような……」

 これには、医師たちは顔を見合わせるばかりだったが、最後にカイエンの知っている、去年、イリヤの腹を縫い合わせた、大公軍団の外科医が進み出た。

「なにせ、ことは爆薬によるものでございます。皇宮へ運び込まれてすぐ、私は大公殿下に『なんとか膝だけでなく、足首の関節も温存するように』と仰せつかりました。ですが……」

 カイエンはオドザヤの横から手を出して、オドザヤの膝の上に揃えられたまま動かない両手を上から、やや強く掴んだ。まさか気絶などしないだろうが、あまり気持ちのいい話が続くとは思えなかった。

「……足首から先は関節も骨も複雑に砕け、壊れた状態であり、整復は私共の誰にも不可能でした。……申し訳ございません」

 この様子では、最後まで試みをやめなかったのは、この医師だったのかも知れない。

「……っ」

 オドザヤはもう、決してトリスタンに恋い焦がれるお姫様ではなかった。それどころか、彼に対する熱愛は一夜にして砕け散り、その後には、彼の子かも知れないアベルを、父も母もいない子として産むこととなった。

 だから、この結婚はまさに「政略結婚」、それも「秘密に産んだ子供アベルのことを知っているトリスタンを、身内に取り込んでしまうため」でしかなかった。

 でも。

 それでも、オドザヤは今日この結婚式に何が起こるとしても、トリスタンの方が傷つき、血を流すことは予想していなかった。きっと、そんな事態になったら、彼はオドザヤを放り出して逃げるはずだとたかをくくっていたのだ。

 なのに。

 トリスタンは……。

 踊り子王子と影でカイエンたちが呼んでいた、踊り子のなりでこの国に潜入してきた王子。

 稀代の踊り手である、あのシリルを父として生まれ、その踊りのすべてを教えられた子供。

 その彼が今、失ってしまったもの。

 その重さは、生まれつき片足が不自由なカイエンにすら分からなかった。

 元からないものは、望んでももう自分のものにはならない。

 だが、王子として以外のすべてを捧げてきた踊りを支えてきた、その足。

 その片一方をトリスタンは失ってしまったのだ。普通の人間ならば、「歩けるだけでも」と思えるかも知れない。だが、歩けるのと、踊れるのとは、レベルがまったく違う。

 オドザヤは結局、何もいうことは出来ず、カイエンもまた、オドザヤの震えるだけの手を上から強く握っていてやるしか出来なかった。

 でも、カイエンはオドザヤよりもやはり、たった二つでも年上の姉だった。それも、儘ならぬ足を抱えて生きてきた。

「しょうがないですよ」

 カイエンがそう言うと、オドザヤも周りのコンスタンサやサヴォナローラ、それに医師たちもはっとしてカイエンの方を見た。

「トリスタンも今日のパレードが危ないことは知っていた。それに、彼は私が見ていた限り、陛下を守ろうとしたようには見えたけれど、陛下を盾にして自分が助かろうとはしていなかった。でも、目が覚めたら気持ちも変わるでしょうね。人間なんてそんなもんだ。まあ、彼ももうこの国に婿入りしたからには、自分でなんとかするしかないでしょう」

 カイエンがこう言い切ると、後からエルネストがつまらなそうに付け足した。

「いいぜ。俺はどうせまだしばらくは暇だから、踊り子王子様『だった』かわいそうな王子様の愚痴ぐらいは聞いてやってもいい」

 と。

 それに言葉を付け足せる者は、もう、今、その場にはいないようだった。




※「ウン・ドス・トレス・モミア・エス」は中南米付近では「だるまさんがころんだ」に当たる言葉です。スペインだと同じスペイン語圏でも違うようです。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る