皇帝暗殺

 六月の長い長い午後が始まった。


 オドザヤとトリスタンの、今や「ハウヤ帝国皇帝夫妻」と呼ばれることになる二人は、これから皇宮から金座のある大通りまでを進んで行くパレードのための馬車に乗り込むべく大廊下を進んでいく。

 大理石の上に、この日のために薔薇色の絨毯の敷かれた廊下を、これぞ結婚したばかりの幸せいっぱいの男女である、と精一杯主張しているように、少しのぎこちなさも見えない微笑みをその麗しい顔に浮かべながら、オドザヤとトリスタンは腕を取り合い、並んで進んで行く。

 彼らの後ろからは、女官長のコンスタンサ以下の、上位のやや年かさの女官たちが、粛々と居並んで進む。

 彼らの進む大廊下の左右の壁面には、見事に等間隔に侍従たちが居並んでいた。

 その末尾、出入り口のまばゆい午後の日差しの中に黙って待っていたのは、いつもの褐色の神官の装束に、長い筒型の帽子。宰相のサヴォナローラだ。いつものように、その落ち着き払った顔には表情がない。

 オドザヤたちが向かう先は、皇帝専用の、それも公式のお出ましの場合のみに使われる一番大きな出入り口で、馬車止まりから出てきた馬車は、広い石畳のアプローチを通って、高い屋根の下で皇帝のお出ましを待つのだ。

 皇帝が徒歩で出かけることなどありえない。だからそこは皇帝の親衛隊の臙脂色の制服が、ぐるりと人垣をもって取り囲んでおり、皇帝専用の馬車はいつもその間を進んで来るのである。

 カイエンたちが二人の馬車の警備について話し合っていた、皇帝専用の馬車止まりから引き出された、金銀と貝殻の象嵌で豪華に飾り立てられた無蓋馬車が決められた場所に止まるのと、オドザヤとトリスタンが大きな、海神オセアニアの姿をステンドグラスで描いた扉から出て来たのは、ほぼ、同時だった。

 馬車の御者席には、近衛の青い礼服に身を包んだ、かなり大柄な男が座っている。天鵞絨ビロードのやや時代がかった庇の大きな帽子を被っているので、顔はよく見えないが、それは宰相サヴォナローラの弟で、兄と大公宮との間の連絡と、大公宮の裏仕事を勤めているガラだった。

 実は、ガラの座っている御者席の中には大公宮の影使いの一人、シモンがガラと同じ装束で隠れている。いざという時には、ガラの代わりに馬車を動かすためだ。

 無蓋馬車と言っても、馬車の天井すべてが取り払われているわけではなく、後ろ半分には蛇腹状に折りたたんだ形で屋根部分が格納されている。これは裏側に細く切った鋼鉄が打ち込まれていた。

 定員も皇帝夫妻二人乗りではなく、本来なら六人乗りに相当する大きさだ。

 普通の貴族の馬車は向かい合わせに四人なり、六人なりが座る形だが、この馬車では席が前向きに二列になるように配されている。

 この馬車には、その上に仕掛けがあった。

 それは、オドザヤとトリスタンの当事者二人、そしてカイエンを始め、この馬車の警備に携わるものの中で馬車の周りに付くものだけが知っていることだった。沿道に立ち、あるいは民衆に混じっている大公軍団の隊員たちなどは知らない。

 いざ、非常時という時には、鋼鉄を裏張りした屋根を引き上げることが出来るだけでなく、馬車の扉にもまた裏側に盾のように引っ張り上げて矢などを防ぐ工夫がしてあった。オドザヤとトリスタンの座る席もまた、背中の部分を後ろへ倒せるような機構を組み込んでいる。背中を倒して、後ろから警備のものが覆い被されば、皇帝夫妻は馬車の扉の影に完全に入ってしまうのだ。

 だから、この馬車は通常の馬車よりもかなり重かった。

 そうなると、普通なら二頭立てで引っ張るところを、四頭立てにする必要があるのだが、皇帝の馬車や大公カイエンの馬車などは通常の馬車でも、扉や天井に鉄板を仕込んでいるから、二人乗りならともかく、六人乗りを二頭立てで走ることは稀だった。

 だから、カイエンたちはこの装備のことが馬車の外見からばれる心配はあまりしていなかった。

 その辺のにわか活動家ならともかく、桔梗星団派などはこうした仕掛けのことも予想して仕掛けてくる。ゆえに、攻める側の行動は突発的である必要があり、守る側は怪しい動きの早期発見が鍵となってくる。

 皇帝夫妻に先立ち、その後ろ部分の席に、立ったまま乗り込んだのは、皇帝の親衛隊の臙脂の制服が二人。一人は親衛隊長のウリセス・モンドラゴン子爵だが、もう一人の臙脂色の制服姿は実は親衛隊員ではない。それは大公宮の「影使い」の一人、ナシオだった。

 通常の皇帝の外出なら、馬車は無蓋馬車などではないし、周囲は馬上の親衛隊員で取り囲まれるが、今日は皇帝夫妻の結婚を祝うパレードであるから、沿道の市民たちから皇帝夫妻を全く隠してしまっては意味がない。

 だからこその無蓋馬車なのであり、だからこそ、カイエンたちはこの馬車の警備に頭を絞っていたのだ。

 オドザヤが先に、女官長コンスタンサ・アンヘレスに長い花嫁衣装のベールを捌かせながら馬車に乗り込み、続いてトリスタンが乗り込むと、馬車の鋼鉄を潜ませた扉が閉められた。この扉の細工だけはオドザヤとトリスタンも取り扱い方を教えられている。こればかりは前後にいる護衛の者が動かすのが難しい位置なのだ。

「ご出発のお時間にございます!」

 侍従長が厳かに宣言すると共に、無蓋馬車は動き出した。

 オドザヤとトリスタンは、相手の顔を見ようともしなかったが、それぞれに深く深く息を吐いた。このパレードが平和に何事もなく終わってくれればいい。考えるのはただそれだけだった。

 正午の皇宮前広場プラサ・マジョールでの花火事件は、市民たちには祝砲の一環として捉えられているだろう。ならば、このパレードさえ乗り切れば、オドザヤの婚礼に傷がつくことはない。

 もちろん、パレード自体を取り止めようという意見もあったのだ。

 だが、これは今は亡き先帝サウルと皇后アイーシャとの婚儀まで、歴代の皇帝が行ってきたことだった。それはいわば、この帝都ハーマポスタールの繁栄と安寧、市民たちに祝福された皇帝の結婚の象徴なのだ。だからこそ、ハウヤ帝国の平和と安定を保っているという威信をかけたものでもあった。

 だから、最終的にオドザヤは決断したのだ。

(スキュラでのこと、友邦シイナドラドの封鎖のこと。モリーナ侯爵たちの事件。市内での惨殺劇。夜間のコロニア間の移動の制限。自治団の結成。 監獄島デスティエロを脱獄した終身刑の罪人たちの再逮捕劇……もう、市民たちの皆も、心の底では知っているのよ。私の治世はお父様の時代とは違うことを。だったら、何が起きても私は死なない。死ねない。何か起きても生きて、それを平然と乗り越えて見せなければ!)

 馬車が動き出すと共に、オドザヤの胸をよぎった思いはそんな思いだった。

 確かに、彼女の両親が結婚した二十年以上前と今とでは、ハウヤ帝国を巡る状況は違ってしまっている。おのれの安全や、市民の安全を考えたら、このパレードは危険な賭けだった。

 それでも、結婚式を挙げた皇帝が、街中を馬車でお披露目することさえ出来ないのが現在のこの国の状況だ、と自ら発表するようなことは、まだ出来かねた。これはオドザヤ一人の決断ではない。宰相府とも、元帥府とも、大公宮とも何度も協議を重ねた上での決断だった。

 そして、今、オドザヤたちの馬車を見送る、宰相サヴォナローラや、女官長コンスタンサたちもまた。

 彼らは無論、もうこの先の道を、オドザヤについて行くことが出来ない。彼らは、オドザヤとトリスタンの馬車の行く先で、もう馬を並べて待ち構えている、近衛の青い制服に白い馬、それに、臙脂色の制服の親衛隊の精鋭たちの方を見つめて、心の中で祈るしかなかった。







 馬車が皇宮の皇帝専用の黄金に彩られた鉄門を出た時には、もうその前に大勢の馬が、華麗な礼服姿の近衛と親衛隊を中心とした護衛として通りに出ている。

 パレードの先頭は近衛の精鋭たちの青い礼服。近衛の制服は地色が青だが、礼服の青は殊更に華やかで、その青さは宰相のサヴォナローラやその弟のガラの目の色を思わせるような、青すぎる海のような色だ。その青に、襟章も肩章も銀色一色、それに礼服の前面に並ぶボタンはすべてが白蝶貝という清廉たる意匠は、まさに皇帝の近衛にふさわしかった。

 その近衛の最後に付いていたのが、今や帝国の元帥大将軍たる、エミリオ・ザラである。

 銀色のマントをはためかせ、馬上を行く彼の周りには、まだ金座の大通りにかかる前から、市民たちの人垣が押すな押すな、とはしゃいでいる。

「ザラ大将軍だあ! 帝国の礎!」

「元帥閣下、歳はとってもきりりとしていなさらあ」

「近衛はやっぱり華があるねえ。やっぱり、あの青! 海の街の守りだもの!」

「いやあ、かっこいいっ!」

「渋いぃいー!」

「若手の方々もみーんな眉目秀麗であられるけど、やっぱり風格ねえ……」

(風格はともかく、なんだその、「いやあ」とか、「渋い」ってのは?)

 ザラ大将軍エミリオは、皇宮を出てすぐの沿道の様子にしっかりと耳をそばだてていたが、女性たちの自分への歓声にはちょっと物申したくなった。

 若い頃は、軍人としてはほっそりと端正ながらも、その中から滲み出る勇猛さを、実際の仕事での成果を讃えられたものだが、時を経れば変わるものだ。だがまあ、確かにもう軍人としてはそろそろ引き際を考える歳だ。一応は、信頼され、褒められてはいるのだから、よしとせねばなるまい。

 ザラ大将軍は、ふと思った。

(俺ももう、残った時間の方が短くなったわ。今日のこの仕事も、若いもんを殺すくらいなら、俺が先に死んで見せんと格好がつかぬわなあ)

 オドザヤだけでなく、エミリオ・ザラもまた、今日のこのパレードがまったく問題なく無事に済むとは考えていなかったのだ。それでも強行と言ってもいい方を選んだのは、国威を示すことを恐れ、自分達から自粛という逃げを選ぶことを良しとしなかったからだ。

 そんなことを思いながら、考えたのは、何とも現実的なことには、次の近衛の将軍の人事のことだった。

(普通なら、副官からあげるべきだが。……今日の状況次第ではそれも考えどころとなろうて)

 今の近衛の副官は、中流貴族の息子ども。それも爵位のない次男三男で、エミリオ・ザラと共通していた。だが、この先の混乱の時代を考えれば、彼らでは心もとない。貴族のボンボン上がりにしては皆、エミリオの薫陶を受け、現実を見据える目を持った奴らではあったが、彼らにはエミリオ・ザラの持っているような「強かさ」、「図太さ」が足りなかった。

(シーヴの奴を、大公軍団に入れずに、俺の子飼いにすればよかったか……。だが、奴は所詮はラ・カイザ王家のすえ。あやつがいずれ、おのれの本名を名乗って生きるには、やはり大公殿下のそばに上げてよかったのだ。年齢的にも、今、あれが近衛にいたとしても将軍にはさせられんしな)

 ザラ大将軍は、表面上はにこやかに微笑んで馬を進めていたが、その内面ではこのような思いが交錯していた。 

 その後ろを、やや離れて進む二人の姿には、沿道を真っ黒に埋めた市民たちも、より一層のどよめきを隠せなかった。

 ザラ大将軍のすぐ後ろを行くのは、フィエロアルマの緑色の礼服姿の将軍、ジェネロ・コロンボ。

 そして、そのすぐ後ろを行くのは、大公軍団帝都防衛部隊長のヴァイロンなのだ。

 ヴァイロンは、短い間に普段の大公軍団の制服を、最上級の礼服に着替えていた。

 だが、大公軍団の制服の色は「黒」。こればかりは変わりがない。この皇帝の結婚式という場でも、それを崩すことは出来なかった。

 それでも、その昏い色合いを隠すように、ヴァイロンの礼服は彼の目の色に合わせた、緑色の最高級の透明度のある翡翠の大きな飾りボタンと、襟元、袖口、胸元から長い上着の裾までを金銀と本物の緑翡翠を混ぜ込んだ刺繍が覆っている。

 その上に、彼の右手には、近衛から借りて来た煌びやかな装飾の施された大槍がぎらぎらと六月の陽光を跳ね返していた。

「すげえ! 近衛の大将軍様の後は、今と前のフィエロアルマの将軍様のお通りだ!」

 黄金色を秘めた真紅の髪の色とも相まって、ヴァイロンの姿の華麗さは礼服の地色の黒を霞ませて目立っていた。近衛に続いて、なぜ、今は大公軍団の帝都防衛部隊部隊長の彼が進んでいるのか、誰もその謎に気付きさえもしない。

 前を行くジェネロの方は苦笑いを浮かべていたが、彼よりヴァイロンの方が目立つのは、どうしようもないことだった。ジェネロ自身も別に「今の将軍は俺様の方だぞ」などと主張したい気持ちさえなかった。彼の中では、今でもフィエロアルマの将軍であるべきなのは、ヴァイロンだったから。

 もう、ヴァイロンが亡き皇后アイーシャの示唆を受けた先帝サウルの命令で、大公カイエンの男妾に落とされ、サウルによる元の地位への復帰を拒んだ上に、帝都防衛部隊の長を名乗って五年が経つ。

 だが、沿道の人々はまだ前のフィエロアルマ将軍ヴァイロンを忘れてはいなかった。

 沿道からは男たちの感嘆する声、女性たちの黄色い声も湧き上がる。

「見ろや! あの大槍! あんなのそんじょそこらの軍人じゃ、振り回せやしないぜ!」

「すてき! あの頃のまま。太陽の将軍さまだわ!」

「なんて逞しいの! あれでこそ帝国の要たる獣神将軍様よ!」

 男たちからの支持もまだ、確かだった。

「お馬もあの時のままだ! やっぱりあの巨大な馬には、ヴァイロン様じゃねえと!」

「ああ。再び、あのウラカーンに乗られたヴァイロン様の勇姿をこうして見ることができるなんて!」

「皇帝陛下はさすがだねえ。このハウヤ帝国の守護神をご結婚のパレードに組み込まれるなんてさあ。あたしらの気持ちを良くわかっていらっしゃるよ!」

 訳知り顔に言う女は、恐らく水商売の女将さんだろう。皇帝陛下は、今日の客の気持ちが良くわかっている、と言うのだ。

 巨馬のウラカーンに毅然とした顔と衣装で跨っているヴァイロンの姿は、往年のフィエロアルマの将軍だった時とも、前を行く近衛の礼服とはまったく違っていたにも関わらず、こうして人々の喝采を浴びた。

 本来なら、そんなヴァイロンの前を行きたがるものなどいなかっただろう。だが、ここに偉大なる例外が存在した。彼は後付けのように湧き上がった自分への賛辞へ、いかにも彼らしく鷹揚に表情を和らげて答えた。さすがに警備として出ている以上、歓声に応えて手を振ったり、微笑んだりなんぞは出来ない。

「ああー! すげえ、今のフィエロアルマの将軍様もご一緒だあ!」

「豪腕ジェネロ様ぁ! ああ、いつも通りだわ! 無精髭が素敵ぃ! 野暮ったいあの緑の制服を着こなせる方はあの方だけよぉ!」

「おい、褒めてるつもりなのか、それ! まー、外見は普通のちょっとごっついけど小ぎれいなおっさんなのに、不敵な面構えで、いかにも豪腕、って感じなんだよなあ」

「ヴァイロン様は別格だけど、コロンボ将軍は、普通の人みたいに見えるのに殺しても死なねえ、ってとこがグッと来るんだよなあ」

 ジェネロの後を進むヴァイロンは、自分の外見が実力以上に派手で目立つことは自覚していたし、内心で今のフィエロアルマ将軍であるジェネロに遠慮する気持ちもあったのだが、ジェネロにもそれなり以上の歓声が送られたのを聞いて、やや安堵した。

 無精髭が素敵、などという女性からの褒め言葉は、自分には永遠に無縁の褒め言葉だろう。

 ヴァイロンとしては元は自分の副官だったとはいえ、士官学校の先輩であるジェネロ・コロンボの実力、それも折れても折れぬ、死んでも死なぬ、という根性というか生き抜く術の確かさは実戦で何度も見て来ていた。

 実際のところ、ベアトリアとの長きに渡る国境紛争では、味方が不利になる場面も何度もあった。中には、ジェネロがあえて難事を買って出たことも幾度もあり、その中の何度かなどは、

(ハーマポスタールに妻子のある男を、俺は死なせてしまったか)

 と、ヴァイロンは自分一人では負えぬ責任に、覚悟を決めたこともあったのだが、その度にジェネロは這々の体ではあってもちゃんと生きて帰って来たのだ。

 だから、ジェネロは「豪腕ジェネロ」と呼ばれ、「殺しても死なない男」と呼ばれて来たのだった。

「……こらこらあ。ヴァイロン、俺に遠慮なんかしてる場合じゃないぜえ」

 ヴァイロンは、前を行く、ジェネロの声にハッとして我に返った。

「あんたの後ろには、もっと過激なのが続いてるんだからなあ」

(ああ、そうだった)

 ヴァイロンは、ジェネロの指摘に気が付くと、その厳しい表情をさらに厳しくさせずには居られなかった。

 装飾された大槍を脇にして進む、ヴァイロンの後ろには、なんとも奇天烈な取り合わせの人々の姿が続いていた。

 少なくとも、沿道を埋めた善男善女も、桔梗星団派がらみの怪しい目的を秘めた人間たちも、ここから先に馬上で続いた者たちの威容には面食らったに違いない。護衛であることはわかっただろうが、その面子が変わっていた。

 ヴァイロンの後ろはもう、すぐに本日御成婚がなった皇帝夫妻の馬車であった。ヴァイロンが目立つ大槍片手に馬車のすぐ前方を巨馬のウラカーンで行くのは、いざという時の前方向の盾になるためだ。

 となれば、馬車の周りを取り囲む騎馬の方は、横から何かの動きがあった時の盾と言えただろう。

 人々は、そちらへも諸手を上げ、歓声の声を上げた。

 だが、その皇帝夫妻の馬車の左右を守る、馬影の上の人物をひとり、また一人、と確認すると、人々の多くは歓声よりも先に、驚きの声を上げずにはいられなかった。

 オドザヤと新郎のトリスタンは、優雅に無蓋馬車に座り、そこから微笑みながら手を振って歓呼の声に答えている。皇宮から降りてくる坂を降りきり、馬車は金座方面への大通りへ折れる。

 ハーマポスタール第一の大通りへ入ると、市民たちの歓呼の声はさらに大きくなった。馬車の方へ膨らもうとする市民たちを、近衛や親衛隊の下っ端に、フィエロアルマの下級兵士、それに治安維持部隊の一般隊員たちが、縄を張って必死に抑えている。今日の大公軍団は、まさに「総出」である。だが、街中の各署でも警戒は怠っていない。いや、出来ない。

 こういうときは、パレードに人が出た後の空き家を狙う、空き巣が出るに違いないからだ。

 そう言う意味では、今日今、このハーマポスタールは最大級の警戒態勢の中にあった。

 その馬車の左右に馬を進めるのは。

 馬車の右手は大公カイエンの夫で、シイナドラド皇子のエルネストと、これはよっぽどの事情通しか知らなかったが、カイエンの護衛騎士のシーヴだった。シーヴはともかく、エルネストはハウヤ帝国の友邦シイナドラドの皇子だ。これでは、外国の皇子を皇帝夫婦の盾に配備したことになる。

 エルネストは黙っていればカイエン同様、アストロナータ神殿の神像そっくりの面立ちだし、この頃はカイエン同様に読売りに大いに話題を提供する、「享楽皇子」として有名になっていた。

 だが、エルネストは反対側を行く二人よりは本物を見たことのある人間は少なかったから、人々は、

「おお、あの方が、シイナドラドの皇子殿下、大公殿下の夫君か! 大公殿下にも、前の皇帝陛下にもよう似ておられるなあ」

「片目がご不自由って言うのは本当なのね! でも、何だか大公殿下よりずっと……ああん、男の色気に溢れていらっしゃるわ!」

 エルネストも皇子様稼業の長い役者だから、沿道へ向ける笑顔は余裕綽々で、なかなか堂にいったものだ。彼は皇子でもあったし、軍人ではなかったから、護衛とはいえちょっと愛想を振りまくくらいは許されていた。

 右目を覆い隠す眼帯が、普通の高貴なる皇子様の印象を裏切っているせいと、ノルマ・コントの作った、カイエンのものと色を合わせたシイナドラド風の衣装が、異国情緒を漂わせている。

 そして、反対側の左側を進むのは、なんとも気になるシロモノだった。

 ヴァイロンの後にも、近衛の騎馬騎士は居並んでいる。馬車の後ろには近衛の青い制服と、親衛隊の臙脂色の制服の騎馬が、まるで縞模様を描くように続いていた。

 だが、その中でも、馬車のすぐ左側を進む、その一騎は特に目立った。こちらの主人公は、さっきイリヤが、

(だけどここに、たった一人だけ、あいつらが絶対に殺せない人がいるんだよねぇ〜)

 と言い出したから、引っ張り出されて来てこうして晒し者になっているのである。無論、イリヤの言う「あいつら」とは桔梗星団派の連中のことだ。

「大公殿下だあ!」

「それも、大公軍団長とご一緒だぞお!」

 最初に気が付いて大声を出したのは、一人二人の市民ではない。

 この二人も、オドザヤたちの馬車の直前を行くヴァイロンと同じく、黒い大公軍団の礼服と、濃い青紫の最高級の礼服姿だった。しかも、馬を実際に操る方も、その前鞍に乗っかっている方も、この帝都ハーマポスタールでは知らぬもののない顔なのだ。

「きゃあああ、イリヤボルト様! やっぱり本物は本当におきれい〜」

「ああ、皇帝陛下、皇配殿下、大公殿下、シイナドラドの皇子殿下も、我らが大公軍団長殿まで、皆々様、神々のようにお美しくて、眼福じゃあ。冥土の土産になるわなあ!」

「いやよう! ヴァイロン様を忘れてるわ、お父さん!」

「カイエン大公殿下! 今日も男装でいらっしゃるのね! あんなに小柄で華奢でおられるのに、お顔はきりっとなさって! やっぱりこの街の守護者はあの方よねえ」

「おみ足があれだからな。馬にお一人で乗られることはお出来にならないのか……」

「それでも、ああして皇帝陛下をお守りにお出ましなんだよ! 素晴らしいじゃないか!」

「お顔色はお噂通りだし、お体もお小さいのに、さすがはこの街の大公殿下だあ! 目力がすごいよなあ」

「皇帝陛下ご夫妻と言い、カイエン様といい、大公軍団長様といい、目の保養じゃのう。長生きしてよかったわい」

 黄色い声をあげたのは、女だけではない。

 老若男女がカイエンとイリヤ、そして馬車を挟んで反対側を行く、カイエンの「夫」であるエルネストに注目したのは、勿論、他の理由がある。

「いやあ、思い切ったことをなさるなあー。夫君を一人で馬に乗せて、ご自分は……」

「愛人関係でいらっしゃるって、読売りが書き立ててたけど、本当なのねっ! いやー、背徳的! でもすてきー!」

「あら、大公殿下の愛人って言ったら、まずはあっちのヴァイロン様でしょ! あたしはなんて言っても、ヴァイロン様の味方なんだからあ」

「あたしゃ、ご夫君のエルネスト殿下がおいたわしいねえ! こんなの晒し者じゃないかい」

「あら、あんた何を言うんだい。皇子殿下とは政略結婚。大公殿下のご本命は……」

「それにしても、思い切ったことをなさるなぁ! これじゃあ、皇帝陛下ご夫妻も霞んじまわあ!」

「堂々となさって、不思議にこれでいいんだって、そんな風に見えるんだよなあ」

「それでこそ、この街の守護者、カイエン様だよう!」

 カイエンは耳ざとく、それらの声を耳で拾っていた。

(そうだろうそうだろう。畏れ多い事だが、皇帝陛下ご夫妻だけに延々と注目を集めたまま進ませるわけにはいかんのだ。ただただ、「皇帝陛下万歳!」「ご結婚おめでとう!」の一辺倒では、不審人物が特定しにくいからな)

「え? なあに?」

 イリヤはブツブツ言っているカイエンにそう聞いてきたが、カイエンは無視した。

 カイエンは自分は風除け、いざとなったらオドザヤの盾となって桔梗星団派の特攻から彼女を守るためにここにいるのだ。桔梗星団派の幹部なら、首魁のチェマリ、つまりはアルウィンの娘で、シイナドラドの星教皇であることも公開済みのカイエンを殺すのはまだ避けようとするはずだったから。 

「あれ、皇宮前広場プラサ・マジョール署のヴィクトル・カバジェーロが来たな」

 イリヤが言う方向へ、カイエンもそっと目を向けると、生真面目な顔の名物署長が馬上ですっと、イリヤの後ろへついた。

「どしたの?」

「例の、螺旋帝国人の変装らしいのを、トリニ・コンドルカンキ隊員が発見。ぴったり付いてます」

 イリヤは小さくうなずいた。前の螺旋帝国の王朝「冬」の皇子、天磊テンライは、無差別殺人鬼だ。あの連続男娼殺人事件然り、「黎明新聞アウロラ」のホアン・ウゴ・アルヴァラードが襲われた一件以降も、彼の関与が疑われる事件はいくつか起きている。

「よく見つけたね。じゃあ、そっちはトリニに任せようかぁ。あの子なら偽物なんかにゃ、体つきでも動き方でも騙されやしないでしょ。あの殺人鬼皇子が動けないだけでも、市民たちへの攻撃の可能性はかなり減るからね」

「桔梗星団派の奴らも、それほど人員がいるわけじゃない。やるならやっぱり、陛下の方だろう」 

 カイエンがそう言うと、ヴィクトル・カバジェーロは自然な感じで馬を減速してカイエンたちから離して行きながら、最後にこう言った。

「大通りの両脇の建物は、すべて昨日までに検査済みです。もともと、金座は店舗が多いですから、今日は無人の建物ばかりです。出入り口はすべて治安維持部隊で封印しています。皇帝陛下の馬車を見下ろすのは不敬ですが、帝都防衛部隊の方は両脇の建物の上から監視。ですから、マリオ隊長が言うには……」

 マリオとヘススの治安維持部隊隊長二人は、市民たちが集まって来た時から、検問所を設け、隊員たちに徹底した身体検査を命じている。群衆の中に不審な動きが見えれば、周囲と建物の上の帝都防衛部隊員たちが即時に対応することになっていた。

「……持ち込める武器があるとしても、かなり小さく分割しているはず、とのことです」

 イリヤはカバジェーロの言葉の最後をやや遠くで聞きながら、ため息をついた。

「今頃、歓声あげながら、バラバラにして持ち込んだ飛び道具を手元で組み立ててたりしてなきゃいいんだけど。後は火薬だよねえ。ガラちゃんやナシオ、シモンたちが、シイナドラドで西と東の影使いが手投げの爆薬でやられた、って言ってたから……」

 カイエンは冷や汗が背中を伝うのを感じていた。

 大砲は南のラ・ウニオンの内海に潜む海賊が使い始め、海を行く船を中心に急速に普及した。それによって火薬の扱いが一気に洗練され、手投げ式の爆薬なども東や南から流れて来ているらしい。そんなことを、先年、皇太后アイーシャの葬儀のために飛んで来たバンデラス公爵も言っていた。

 あれからも、もう一年になる。

 それらを敵が今日、この場所で使ってこないという保証はなかった。

 このハウヤ帝国でも、先帝サウルの治世の末期から、オドザヤの即位以降、海軍が一応は創設されてはいるが、未だ、きちんとした組織にはなっていない。だから、治安維持部隊でも軍隊でも、火薬となると、まだその扱いに熟練した者はいなかった。

「敵さんに、火薬爆薬に詳しいのが入ってないといいんだけど。火をつけるまでは匂いじゃ分からないし。手投げの爆薬は他の小物に偽装できるしね。女の化粧道具にでも紛れ込まされたらどうにも出来ないわ……」

 イリヤの声は小さかったが、内容は「それやられたらお手上げ」と言うことだった。

 そこまで、二人とも顔つきは警備中らしく真面目に取り繕いながら話していたが、ふと、カイエンは思い出していた。

 今日の正午の、皇宮前広場プラサ・マジョールに面したバルコニーでのオドザヤたちのお披露目の時。

 あの時、打ち上がったのは「花火」だ、ということに。

「あ……花火」

 なんで今まで、誰も言い出さなかったのか。

 花火は火薬を使う。

 もしや、あの花火にはあの音で注意を引き、その間に工作員を市民の中へ招き入れる、というような役割以外の役割があったということなのか。

「まさか……」

 その時、カイエンの目の奥に見えたのは、彼女の思い出したくもない父親、あのアルウィンの、悪い悪いたくらみを秘めた微笑みだった。

 あの花火は、「お前は気が付けるかな」というあの男の謎かけだったのか。

 カイエンは胃がぎゅっとする感じがして、思わず息を詰めた。あのクソったれは大陸の東にいて、今頃、自分をあざ笑っているというのだろうか。

「え? なに。どうかした?」

 カイエンの様子に不審を抱いたのか、イリヤが耳元でそう聞いて来たので、カイエンは急いで口を動かした。それも、沿道の市民に紛れた奴らに唇が読める奴がいたら、と、とっさに取り出したレースのハンカチで口元を抑えながら。見ていた人々は皆、馬になど乗り馴れぬカイエンが馬に酔ったかどうだかしたように見えたに違いない。

「昼の花火だ。間違いない、敵は火薬を使ってくる……」

 カイエンがそう言うのを聞くと、すぐにイリヤは急に笑顔を作ると、沿道の市民たちに笑いかけ、あまつさえ、片手を上げて歓声に答えたような仕草をしてみせた。

 その様子は優雅としか言えないおおらかな感じで、イリヤ推しの市民たちは歓声を上げた。

 これは、警備として皇帝夫妻の馬車のすぐそばを行く者としては、いささか以上に不謹慎な行動だった。それでも、この警備体制の中で、そんなことをやっても「あの人ならしょうがない」と皆が思いそうなのがイリヤだ。

 カイエンの目の端で、馬車の右側をエルネストの後から進んでいたシーヴの馬が、すっと足を早めてエルネストに追いつくのが見えた。

 要警戒最高レベル。

 イリヤの非常識な仕草は、沿道にいるすべての大公軍団員に伝わっていったはずだ。イリヤとカイエンのいるがわの歓声が大きくなったから、前を行くヴァイロンたちにも聞こえたはずだった。


 だが、いささかそれは遅すぎたのだ。


 あまりに近くにいたので、カイエンとイリヤ、それにエルネストとシーヴは一瞬、耳が聞こえなくなった。

 それは火薬の爆発する音だ、と思った時には、あたりに真っ白な煙が立ち込めていた。

 カイエンはすぐに馬車の中のオドザヤの無事を確認した。火薬はどうやら、馬車の進む少しだけ前方の道に投げられたらしい。

 後で聞いたところでは、沿道の市民に混ざっていた隊員の中に、火薬の匂いに気が付いた者が幾人もおり、イリヤの合図を待たず、すでに行動を始めていたのだという。それでも、この一発は止められなかった。

 真っ白な煙は、なかなか晴れない。カイエンたちはすぐにそれが煙幕だということに気が付いた。

「ヴァイロン! 気を付けろ!」

「伏せて!」

 カイエンもイリヤも、きっとザラ大将軍も、エルネストやジェネロも同じことを叫んだだろう。彼らには敵の次の一手の予想がついたからだ。

 次の瞬間には、馬車に向かって十字弓の矢が飛ぶ音がした。

「伏せろ!」

 ごお、ともなんとも言えぬ、突風のように風を切る音をこの時、確かにカイエンも、オドザヤも、馬車の周りの皆が聞いた。煙幕のための火薬が道に投じられてから、ここまでは一瞬の出来事だった。

 オドザヤとトリスタンの方へ、後ろの席のモンドラゴンとナシオは手を伸ばしてはいたが、走っている馬車の上だ、彼らを庇うところまでもまだ体は動いていなかった。


 その中を、真っ黒で巨大な影が、四頭立ての無蓋馬車の上空を覆った。


 馬車のすぐそばにいたカイエンたちには、そうとしか見えなかった。急に頭の上の太陽の光が陰った、としか。

 だが、沿道の市民たちは目を見開き、口をぱかっと開けたまま、揃って馬車の上空を飛んでいく巨大馬とそれにまるで太陽の神像のように跨った巨躯を確かに見た。

 ヴァイロンの乗った、巨馬ウラカーンが、皇帝の馬車の上ぎりぎりの「上空」を、羽のある馬ででもあるかのように斜めに飛び越えるのを。

 そして、その間に馬車に向かって飛んでいた鉄の鏃のすべてが、ヴァイロンの手の大槍の一閃と、ウラカーンの鞍や、軍馬としての略式の馬鎧に弾かれて散る瞬間を。

 その間、その場のすべての動きが止まっていた。

 一方、危険な射手たちは、バラした十字弓や矢自体を治安維持部隊の検査を逃れて持ち込み、組み立てたのではあったが、それを構えて発射した瞬間に、彼らの存在は周囲に露見した。

 だから、市民たちが恐れおののいて人垣が崩れるよりも先に、近くにいた隊員やフィエロアルマの軍人などが一斉に射手を取り押さえた。

 そもそも、射手はもう倍ほどもいたのだそうだが、半分は十字弓を構えるよりも前にそれと気付いた治安維持部隊隊員や、私服の帝都防衛部隊員に取り囲まれ、周囲にも気が付かれることなく人垣の外へ引きずり出されていたのだった。

 だが、ここまででことは終わらなかった。

「あっ!」

 ウラカーンが馬車の向こう側へ着地するまでの間も、馬車も、並走するカイエンたちの馬も、どれ一つとして静止してしまったものはない。オドザヤとトリスタンの無蓋馬車の御者はガラだ。彼は馬に鞭を入れ、却って馬車の速度を上げていた。

 だから、矢の後に飛んで来た手投げ式の爆薬のうち、馬車に到達したのは、とりあえずたった二発だけだった。

 こちらも沿道の人垣の中で、火薬の匂いに気が付いた隊員が数人の投擲者から手投げ弾を奪い取り、消火していたからだったのだが。 

 それでも、二発だけは防ぐことが出来ないまま、一発は馬車の右側の御者席の角で爆発した。

 それは危なくエルネストの馬を掠めたので、彼は棹立ちになった馬をなだめ、操らねばならず、馬車から離れてしまった。

 そして、もう一発が後から遅れて飛んで来た。

 それは、あろうことか、オドザヤたち二人の馬車の中へと吸い込まれていこうとしていた。

 だが、トリスタンが自分の側の扉の裏側の鉄板を上へ引き上げたので、それは鉄板に当たって爆発した。 

 カイエンは馬上から、最初の馬車への一発が御者席の角に当たった時、トリスタンがどうしてだかは知れないが、オドザヤを爆弾の飛んで来た反対側へ押し遣るようにしたのだけは、しっかりと見た。

 トリスタンは、オドザヤを盾にしようとはしなかった。

 カイエンにはそれだけで十分だった。だが、すぐ側で爆音を聞いたトリスタンはその時、目に埃が入って見えなくなっていた上、耳が聞こえなくなっていたのだ。

 馬車もカイエンたちの馬も、そろそろ金座の大通りを走り抜けようとしていた。だが、まだ安心は出来ない。

「イリヤ! 私を馬車に投げろ!」

 カイエンはそんなことが可能かどうかなど考えもしなかった。ただ、爆走する馬車の中、後方から前方へ移動しつつあるモンドラゴンらがオドザヤの所にたどり着くよりは、馬車の真横から馬車に飛び込んだ方が早いことは確実だった。

 本当なら飛び込むべきはイリヤだが、そうすると一人では馬を操れないカイエンが馬に残されることになる。それに、ヴァイロンとウラカーンが追いつくよりもカイエンの方がオドザヤに近かった。

 イリヤはいつもの減らず口など叩かなかった。

 イリヤは鞍の上で両足をあぶみで踏ん張ると、手綱から両手を離した。

 そのまま、カイエンを馬上で横抱きにするなり、同じ速さで走る馬車の上へ落っことしたのだ。なるべく勢いを落とした状態で、馬車の上へカイエンを置くように努力はしながら。それは、後になってイリヤが、

(俺、よくやったわー。ほんと、マジにあの咄嗟によく出来たと思うわー)

 と、彼にも似合わぬ脂汗を流しつつ、詠嘆したほどの手際だった。

「ぎゃっ!」

 それでも、落とされたカイエンと、いきなり膝の上あたりで一人分の体重を受け止めることになったオドザヤは二人一緒にあまり淑女らしくない声を上げてしまった。

 カイエンはイリヤの方を振り返ることもなく、オドザヤの花嫁衣装の上に遠慮なく這い上がった。

(どうせ、私の右足は生まれた時からケチがついているんだ。この上、腕だの足だの一本ぐらいなら無くなってもなんとかなる。幸いなことに私は大公殿下で、一人で服の脱ぎ着もする必要なんかないんだからな!)

 でも、吹っ飛ばすなら元からダメな右足にしといてほしいな。

 カイエンはヤケクソ百パーセントで、そんなことを思っていたが、その途端に馬車の御者席と座席の間で爆音がしたので、オドザヤの上に顔を伏せた。爆薬の投擲はまだ続いていたのだ。一つ一つの威力はそれほどではなかったが、直撃すれば人間の手足くらいは吹き飛ぶだろう。

 カイエンやオドザヤの上へ、バラバラと吹き飛んだ馬車の木片が降って来た。

 その頃になると、爆発音が何発もしているから、そろそろイリヤの馬もシーヴの馬も言うことを聞かなくなりつつあった。

 ガラが馬車の四頭の馬をなんとか御しているのは奇跡的で、それはもしかしたら彼に獣人の血が入っているからかもしれなかった。

 その時、やっと後ろの席から移動して来たモンドラゴンがカイエンとオドザヤのところにやって来た。

「無謀なことをなさる!」

 呆れるように言ったモンドラゴンは、長い腕を伸ばして、オドザヤの側の馬車の扉に仕込まれた鋼鉄の盾を引き上げた。後ろで、ナシオが鋼鉄の板を織り込んだ蛇腹状の屋根を広げるためのハンドルをギリギリと回している。

 なんとかなるか。

 カイエンがそう思った時だった。 


 閉まりかけた馬車の屋根の間をすり抜けて来た、一発。


 カイエンはモンドラゴンと一緒に、馬車の床にうずくまったオドザヤの上に覆いかぶさりながらも、見ていた。

 彼女の灰色の目の片一方が、はっきりと、時間がその時だけ遅く過ぎていったかのように見ていたことは。

 どん!

 それは、さっきオドザヤを最初の爆薬の飛んで来た方向から突き飛ばしたまま、誰にも守られることなく馬車の座席の下へ突っ伏していた、トリスタンの足元で手投げ弾が破裂するところだった。

 オドザヤの上に顔を伏せていなかったら、カイエンも破片を顔面に浴びたかもしれない。

 同時に、カイエンとモンドラゴンの上に降ってきたのは、真っ赤な色。

 カイエンはその瞬間、自分が恐ろしく落ち着いていることに気が付いた。こういうことは、前にアルウィンが帰ってきた時に、馬車を盾に毒矢を射かけられた時にも体験している。真っ赤な血の色の方だって、去年の一月にイリヤが目の前で刺された時に見ている。

 もう、血は流されてしまった。

 こうなったら、時間は一刻を争う。それだけは、もうカイエンには分かっていた。

「モンドラゴン! 陛下を頼む!」

 カイエンはオドザヤの上から這い上がると、オドザヤのすぐ向こうで動かないトリスタンの真っ白な婚礼衣装の背中に、自分の体を、両腕いっぱいに力を込めて引っ張り上げた。もう乗りかかった船だ、というヤケクソの上に、火事場の馬鹿力とかいうやつだ。

 この上にもう一発食らったら、今度はトリスタンの代わりに自分が吹っ飛ぶ。

 カイエンには勿論、それも頭の端っこにはあったが、もうさすがに沿道に散っている部下たちは、それ以上の爆薬の投擲を許さないだろうと心の隅では計算していたのか。それともそうなっていて欲しいと、願っていただけだったのか。

 確かにもう、馬車の周りからは人々の気配さえも無くなっていた。馬車はもう、人々の立っている沿道から外れたのだろう。

 座席から半分以上床に落ちた形で倒れ伏しているトリスタン。

 そこに見たものを認識する前に、カイエンはもう自分の着ていた礼服のサッシュベルト……やや厚地の絹製の帯の結び目を解いていた。

「ヴァイロン! イリヤ! ガラ! ナシオっ! 誰でもいいからすぐここへ来い!」

 馬車は走り続けている。

 ちらりと見れば、馬車の周囲は近衛の青と、親衛隊の臙脂色の制服の壁に囲まれており、道など見えもしなかった。

 と、なれば、ガラかシモンのどちらかが御者としてまだちゃんと馬車を走らせているのだ。それなら大丈夫だ、とカイエンは判断した。もう金座の大通りは抜けただろう。このまま、近衛と親衛隊の騎馬に取り囲まれたまま、皇宮へ入れればなんとかなる。

 トリスタンは人工的な緑色の目に恐怖を浮かべて、必死な目で、それでもカイエンをだけ見ていた。彼女が自分を助けようとしていることだけは分かるのだろう。

「大丈夫だ! 死ぬ傷じゃない。止血するから気をしっかり持て!」

 その時、カイエンが冷徹とも言える声音でトリスタンにかけた言葉を聞いて、馬車の床に打ち伏したままのオドザヤとモンドラゴンの方がびくびくと身を震わせ、オドザヤに至ってはひっ、と叫び声を抑えた気配がした。

 カイエンの言葉は怪我人のトリスタンを安心させるためのものだったが、生暖かい血を浴びた彼らには、殊更に生々しく聞こえたのだろう。

 カイエンの悪い癖で、非常時になるとクソ落ち着きに落ち着いてしまうから、周囲はまだパニック状態にあることを忘れてしまうのである。

「おい、トリスタン、聞いてるか? 大丈夫だ。歩けなくなったりはしない! ……一流の外科医を、すぐに呼んでやる!」

(いずれは装具師もな)

 その時、最後にカイエンが自分の口の中だけで呟いたことは、かなり不謹慎かつ思いやりに欠けた言葉だったには違いない。大丈夫だと大声で言ったのは、無論、トリスタンにショックを起こさせないためだ。

 だが、その場での状況をしっかりと見たカイエンには、「事実」もちゃんと見えていた。

 爆薬で吹っ飛ばされたのだ。この後の治療いかんではあるが、大まかな結果はもう、変わらないだろう。

(関節がちゃんと残ってれば、装具をつけて、元どおりの生活に戻れる可能性だって大いにあるんですよ)

 カイエンが、自分でもちょっと喋りすぎだな、やっぱり興奮しているらしいと思いながら、甲冑師で装具師のトスカ・ガルニカがいつか言っていたことを思い出していると、馬車の鋼鉄作りの蛇腹状の屋根を全部出し終わったナシオがそばに飛んで来た。影使いである彼にとっては、高速で走り続ける馬車の中でも、この足の踏み場もない状況でも、その動きの速さに変わりはない。

 屋根が出来たので、馬車の中は薄暗くなっていた。

「ナシオ、そっちを引っ張ってくれ。とりあえず、膝の下で血止めをする! ここでいいかな。お前はどう思う?」

 カイエンはもう爆薬で吹っ飛ばされたトリスタンの足の膝の下あたりに自分の礼服のサッシュベルトを幾重かに巻きつけていた。

「私の判断も、殿下と同じですっ!」

 そう言う間も惜しんで、ナシオはカイエンの持っていたサッシュベルトの片端もひったくると、力一杯、布地を引っ張っていた。

 トリスタンの喉から、聞くのが耐えられぬようなうめき声が上がったが、ナシオはそのまま布地の端をねじり、しっかりとした結び目にして縛り上げていた。とにかく出血を止めることが第一だった。

「爆薬ですから、毒の心配はありません。このまま皇宮へお入りいただき、外科医の治療に任せますれば、お命に支障はございますまい」

 ナシオの方はこんなことは経験があるのだろう。落ち着いたもので、声もカイエンにしか聞こえないよう、影使い独特の言い方だった。

 その時になって、馬車の左右の馬上から、声が聞こえて来た。

「……殿下ちゃん……その非常時発動のクソ度胸、怖すぎぃ。さすがの俺ちゃんも、ご命令には従いましたけど、命、縮んだよぅ……」

 これはイリヤだろう。カイエンの命ずるがまま、カイエンを馬車に落としてからも、ちゃんと馬をなだめながら並走していたらしい。天井との隙間からちらっと見えた顔は、彼には珍しく青ざめて見えた。

「カイエン様……私もかなり命が縮まりました……」

 こっちは、最初の十字弓クロスボウをはたき落した功労者のヴァイロンだろう。彼の方はイリヤがカイエンを馬車の上へ投げ落とすところを後ろから目撃してしまったのだ。もとより、彼にとっての最優先重要事項とはカイエンのことなのだから、心配も頂点に達していたに違いない。

「どうするんだよ、おい! こんな……まあ、誰も死んじゃいないようだから、起きちまったもんはもう、しょうがねえとするか……」

 ただただ、ぼやいているのはエルネストの声だ。これから宮廷での化かし合いが待っている彼にとっても、これはうんざりするような事件だったのだろう。

「おい、イリヤボルト。大公軍団の外科医、さっさと引っ張ってこい! わしも近衛の外科医を引っ張ってくる!」

 これは、考えるまでもなく、ザラ大将軍に違いなかった。もう事態の推移を見守り尽くし、次の段階へ話を進めているのだ。

「へっ? ああ、あの外科医のおっさんなら後ろからシーヴの馬で来てますよー。まー、爆薬投げられた時点で、最悪の状況は予想してたからねー。元から沿道に大公軍団うちの外科医さんたちと、軍隊のお医者さんたち、総出で待機させてたのよ。沿道の民間人やられたら困るからね! で、後ろから来るのは、俺の腹、縫い合わせてくれたおっさんだし、俺やあんたと同郷プエブロ・デ・ロス・フィエロスだから腕も確かだし、口も固いわぁ」

「承知! では、先に手当を始めさせておけ!」

 やっと目を上げた、カイエンやオドザヤ、それにモンドラゴンの前で、ザラ大将軍エミリオは馬首を回した。

「皇帝陛下、お気を強く持たせられませい! なあに、姉君カイエンさまに任せておかれればいいのです。今日の事態は陛下のご治世にとってはよろしくなかったが、大公殿下はこれとても陛下の威徳に変換してしまわれるでしょうからな!」

 まだ、そこまでは考えてねえよ。

 カイエンはそう思ったが、同時に思い描いたのは、大公軍団最高顧問、マテオ・ソーサの顔と、彼の寺子屋の教え子である、「黎明新聞アウロラ」の記者、ホアン・ウゴ・アルヴァラードの顔だったし、「自由新聞リベルタ」主筆のレオナルド・ヒロンの顔でもあった。

「ここまでの事態があったのです。まったくのやらせ記事は無理だ。読売り各紙は記者たちを沿道に取材に出していたでしょう。ごまかしは聞きません。見たままを書かせますよ。それしかありません。小手先の小技は効きますまい。ですが、ここは、もうそろそろ、あいつら桔梗星団派の名前とその隠された首魁アルウィンの本名にご登場願う契機かもしれません」

(仮想敵国として、螺旋帝国も匂わせた方がいいだろうな。シイナドラドの封鎖の黒幕は奴らなんだし)

 カイエンは、モンドラゴンに後ろから抱え上げられた姿勢で馬車の床にうずくまっているオドザヤにそう告げた。

 ああ、せっかくの花嫁衣装が……。

 あの真っ白な睡蓮の花は、ひしゃげ、赤い飛沫を浴び、もう午前中からあのバルコニーでのお披露目までの完璧な美しさは損なわれてしまっていた。


(あ……)

 そんなオドザヤの様子を見ながら、カイエンはやっと気が付いていた。

 オドザヤの花嫁衣装には、一切の「宝飾品」がないことに。

 そこには、オドザヤがこの結婚式にかけた、明らかな決意が見て取れた。

 言うまでもなく、彼女の母親は、去年、狂ったまま身罷ったあの「宝石の君」アイーシャだ。カイエンと共通する二人とリリの母親だ。

 平民でありながら、一国の大公と皇帝、二人の男と結婚し、皇后となり、栄耀栄華を極めながらも決して幸福ではなかった女。

 最後はただ一人、生涯を通して愛していたはずの男にも見捨てられたまま、その幻影に抱きついて、冷たい石畳の上で生き絶えた女。

 オドザヤはアイーシャのようにはなりたくなかったのだろう。

 同じように愛のない結婚をするとしても。いや、サウルの方はアイーシャを確かに彼なりに愛していた。

 それに比べたら、今度のオドザヤの結婚には何もない。カイエンは唇を血の出るほどに噛み締めた。

 でも、自分にはそんなオドザヤに言うべき言葉もないし、言えるような結婚をカイエンもまたしていなかった。だから、カイエンには今、ここでぐったりとその体を愛人のモンドラゴンにもたせかけて呆然としているオドザヤに、あえてかける言葉など出てはこなかった。


 カイエン自身は、したくもなかったが仕方なく、もう、気絶して動かないトリスタンの上半身を支えていた。

 奇跡的にトリスタンの白皙の顔にも、長い金髪にも血潮は飛び散っていない。

 どうしてだか知らないが、カイエンにはさっき、トリスタンがオドザヤを庇ったか、危険から遠ざけようとしたように見えた。

(そんなことする男にゃ、見えなかったけどな)

 カイエンは不思議に思ったが、多分、もうこのことを確かめることは出来ないだろうということは分かっていた。治療が終わって、正気に帰ったら、トリスタン自身が自分の行動を大いに後悔するかもしれないのだ。 

 ナシオが、トリスタンの膝から下の様子を傷に触らないように確認していたが、カイエンに向けた顔は厳しかった。カイエン自身には見えなかったが、彼女の顔にもトリスタンの血は飛び散っていたし、それはオドザヤもモンドラゴンも同じだった。

「長い日だったな。……さて、問題は晩餐会だ。貴族どもの中でも、午前の結婚式のあと、皇宮内の控え屋敷に下がっていた者共には、このとんでもない事態もまだ伝わってはおるまい。……どうするかな」 

 そう言ったカイエンの頭の中にあったのは、皇宮で今頃、知らせを聞いて顔面蒼白で駆け回っているだろう、宰相のサヴォナローラや、女官長コンスタンサの悲壮なまでに生真面目な「忠誠」を文字に書いたような姿だった。

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