虚しきは永遠の誓い

 皇宮の海神宮の壇上に、オドザヤとトリスタンが現れると、会場はしんと静まり返った。

 彼ら二人は広い上段の左右から現れた。

 オドザヤの方は、介添人としてアストロナータ神官である宰相サヴォナローラが彼女の静かな歩みに手を貸していた。本来ならば、父親が花嫁の介添となるのが普通だったが、もちろん、先帝サウルはとっくに亡くなっている。父親がいなければ、親族の伯父や叔父などがその役目を担うのであったが、オドザヤの唯一の叔父であるアルウィンは七年前に死んだことになっている。

 そうなると次は叔母であるミルドラの夫である、ヘクトル・クリストラ公爵ということになるが、彼はオドザヤとは血の繋がらない叔父だ。

 というわけで、オドザヤの介添え役は神官であるから、という理由でサヴォナローラが担うこととなったのだった。

 そして、トリスタンの方の介添人は、この婚礼に合わせ、ザイオンからやってきた、トリスタンの兄王子二人のうち二番目の兄、リュシオン王子であった。さすがにザイオンとしても自国よりも大国であるハウヤ帝国の皇帝の皇配に自国の王子が決まったとあれば、身内の中の一人くらいは送ってこないわけには行かなかったのだ。

 トリスタンの二人の兄は、一昨年、トリスタンがザイオンを出た時点ではまだ独身だった。

 だから、オドザヤの元にザイオンから縁談話がきた時点では、王子三人の肖像画が届けられたのだ。

 だがハウヤ帝国側が、「実際にはチューラ女王の王配であるユリウス殿下の息子ではない、それも第三王子などを婿にするなどとんでもない。兄王子を寄越せ」、とでも言いだすのを恐れたのか、長男のジュスラン王子と、次男のリュシオン王子は昨年のうちに相次いで国内の大貴族の家へ婿として入っていた。

 女王国であるザイオンの王太子は、彼ら三王子の姉にあたる、エレオノール王女である。

 本当なら、ザイオンとしては隣国のネファールや東側の小国などに、二人の王子を婿入りさせたかったのであろうが、より血統の正しい兄王子達を小国に婿入りさせ、愛人の子である第三王子のトリスタンを大国ハウヤ帝国の婿に入れる、という選択はさしものチューラ女王でも出来なかったらしい。

 これには、スキュラとの間の北の大森林地帯に販路を築いての泥炭輸入の話が、イローナの暴走によって煙のように消えてしまったことも理由としてあるのだろう。結果としてスキュラは自治領からハウヤ帝国の、それもフランコ公爵の領地に組み込まれてしまい、ザイオンは北方でハウヤ帝国と国境を接することになってしまったのだから。

 ザイオンの王家に近い血筋の公爵家に婿入りしたという、トリスタンのすぐ上の兄のリュシオン王子は、確かに肖像画にあった通りトリスタンと似ていた。だが、同じような色の青みがかった金髪に緑の目のリュシオン王子は、トリスタンと並べると様々な点で、明らかに見劣りがした。

 彼がハーマポスタールへやってきた時には、皇宮で歓迎の宴が開かれたが、その時オドザヤのすぐ横で見ていたカイエンなどは、

(踊り子王子の方は、肖像画より本物の方が美しかったが、兄の方は肖像画よりかなり劣るな。それに外見だけでなく、頭の中身の方もトリスタンの方が良さそうだ。まあ、皇配が頭のいい男であるほうが良いか、やや愚鈍な方が良いかなんて、簡単には決められないが……)

 と思ったものだ。

 このカイエンの抱いた印象は、夫としてカイエンの横から同じようにこの客人を観察していたエルネストも同意見だった。

(口髭なんか生やしやがって年長者ぶってるが、あの目の色や口元の感じなんかからすると、ありゃあ、昔の俺と同じ種類のおぼっちゃん王子だな。高慢で身持ちのだらしない、自分は頭が良くて他人は自分にかしずくのが当たり前だと思っているやつの顔だ。王子たる身分のあるべき姿なんぞ考えもせず、苦労知らずに遊びまくって来た顔だぜ。ザイオンの女王も、他国へ出して暗躍させられる器じゃねえことが分かってたから、トリスタンの方を寄越したんだろう)

 大公宮へ戻る馬車の中でエルネストが、そうリュシオン王子を評したのには、カイエンは全面的に賛成だった。

 リュシオン王子は体つきも、踊りで鍛えたトリスタンなどと比べれば、いかにも貴族の放蕩的な若様、といった感じで、太っていると言うほどではなかったがなんだか緩んだ感じがした。

 そんなリュシオン王子は、けばけばしい衣装に身を包み、新郎のトリスタンの後見人は俺だ、というように踏ん反り返ってトリスタンの後について来る。

 アストロナータ信教の大神官ロドリゴ・エデンと、海神オセアニアの大神官マリアーノは、上段の中央に並んで立っている。

 ハウヤ帝国はその始祖がシイナドラド皇子サルヴァドールであることから、アストロナータ神殿をこの国第一の神殿として来たが、それとは別にこの西の大海に面した国土から、海の神オセアニアも大切にして来た。

 だから、オドザヤの立太子式でもそうだったが、今日の婚礼でも、この二つの神殿の大神官が婚礼の誓いを確認し、言祝ぐことになっていた。

 二人の大神官の立っている前には、黒檀の台が置かれ、そこにはカイエンとエルネストとのあのわびしい結婚式でも取り交わされたように、結婚契約書が置かれている。

 だが、カイエンの場合とは違い、それにはそれほど多くの約定はない。その内容はこのハウヤ帝国の今までの皇帝たちの結婚式で使われたのとほとんど同じ内容だった。

 サヴォナローラに連れられた新婦のオドザヤと、兄のリュシオン王子に付き添われた新郎のトリスタンが、壇上の中央で一回、居並ぶ貴族たちの方へ無言のまま向き直った瞬間、大公のカイエン以下、すべてのそこに集った参列者たちは息を呑んだ。

 もう、上段の壇上へ左右から現れた時点で、人々はもう二人の姿に釘付けになっていた。

 その二人が、まだ介添人に付き添われたまま、間に黒檀の台の幅だけの間隔をあけて、遠く西の大海を望む大広間の入り口の大扉の方へ体を向けた時。

 二人の姿を大広間の上段の上の、高いドーム状の天井窓から落ちてきた光がはっきりと照らし出した。

 すぐそばで見ていた、もうこの二人の姿を見慣れたカイエンたちさえ、その、この世離れした美しさには一瞬、息が止まったような気がした。

 オドザヤはこの日のために、今や帝都ハーマポスタール一の仕立て屋と言われる、ノルマ・コントの意匠と縫製による純白の花嫁衣装に身を包んでいた。

 彼女はこの日、前髪をすべて上げ、そのまろやかな曲線を描く白い額から上へと、黄金色の髪をきっちりと結い上げていた。わずかに額にかかったおくれ毛以外は、すべて頭頂部で一つの大きな髷にして巻き上げられ、その上から白い半透明の絹のベールが下がり落ちて、彼女の完璧に化粧された顔をおぼろに隠している。

 ノルマ・コントはそのベールに覆われた頭から、白いドレスの長い裾、そして背中へは長く長く伸びて床を這うベールの先までのすべてを使って、一つの風景を描こうと試みたようだった。

 半透明の薄い絹とレースが用いられたベールの生地には、波のような文様が極細の銀糸だけで刺繍されている。その上に白く透き通る、だがやや張りのある生地で作られた睡蓮の花が、これは頭のあたりでは小さい花、そして下に向かうに連れて大きく変わっていくように、曲線を描いて縫い付けられていた。

 カイエンは実物を事前にオドザヤの部屋で見ているから知っているが、その花の裏地には緑色の光を反射する玉虫色の生地が裏地として付けられている。

 だから、銀糸で刺された波模様の上に、睡蓮の白い花の裏地の緑がわずかにおぼろに反射して、それが水に浮いた睡蓮の葉のように見えるのだった。

 そのベールの下のオドザヤのドレスの方は、花嫁衣装にしてはお堅いくらいに高い襟。それはいかにも穢れを知らぬ花嫁の青さを示しているようだったが、それに続く肩から先のドレスにも、これは金糸で波模様が刺繍されている。

 高い襟には金糸銀糸で睡蓮の花が刺繍されていたが、そこから下はこれ以上ないというくらい、シルエットとしてはシンプルな形だった。

 オドザヤのすらりとした体型をそのままに、真っ白なドレスはほっそりした腰から下も、膨らむことなく自然に下へ落ちていくような形だ。

 その上に、オドザヤの体型を損なわぬよう、流れるような曲線を描いて、白い睡蓮の花が、これはベールとは違って真っ白なややしっかりした生地で作られて胸元からドレスの裾まで続いていた。

 ドレスの方は、光沢のある絹地が選ばれていたので、それはベールの方とも相まって立体的に見え、輝く水面に白い睡蓮の花が流れるように咲き誇る様を、ドレスをカンバスにして描ききっていた。

 オドザヤの手には、その上に白い百合の花束がある。白百合は純潔の象徴だ。睡蓮の花を花束にすることは出来なかったので、白い百合が選ばれたのだが、それにはちゃんと理由があった。睡蓮は別名、「水の中の百合」とも呼ばれるのだ。

 カイエンは今までの人生で、自分の容姿についてあまりこだわりを持ったことはない。よく、アストロナータ神殿の神像のようだ、と言われるから、まあ整ってはいるんだろうけどつまらない顔なんだろうな、くらいの認識だった。

 だから、今までオドザヤや彼女にそっくりな実母アイーシャの美貌に特別な感情を持ったことはなかった。なんとも煌びやかで光り輝く眩しい美貌、とは思っていたが、別に自分もそうなりたいとは思ったことはなかった。

 アルウィンの「正体」を知るまでは、カイエンは逆に彼女を捨てたアイーシャではなく、アルウィンの方にそっくりであることをうれしく思っていたくらいだった。

 だが、そんなカイエンをしても今日のオドザヤの花嫁衣装と、それを完璧に纏っている美貌と完璧な容姿には、ただただ、ため息しか出てこなかった。カイエンはもちろん、この結婚がオドザヤに幸福をもたらすとは思っていない。だが、このとき初めてカイエンは知った。

 女として生まれてきて二十二年。その間、まったく意識してこなかったこと。

 巷の女性たちが、結婚という人生の一大事に向けて心身ともに準備を整え、花嫁衣装をひと針ひと針、縫いながら臨む気持ちを。

 オドザヤとて、今さら、このトリスタンとの結婚で自分が幸せを掴むとは思ってもいないだろう。だが、それでも彼女にはエルネストとあのような味気ない結婚式をしたカイエンにはなかった、弾む思いのようなものがあったのかもしれない。

 そんなことを漠然と思っているカイエンだったが、オドザヤの反対側にけばけばしい衣装の兄を従えて立っているトリスタンの方にも、ちゃんと目は向けていた。

 こちらの衣装も、ノルマ・コントが手がけたものだった。そして、それはオドザヤの花嫁衣装を際立たせるために用意されたものに違いなかった。

 と言っても、トリスタンの衣装がみすぼらしかったわけではない。

 トリスタンの衣装にも、睡蓮の意匠は取り入れられていた。だが、こちらは銀糸だけで縫い取られたもので、それは黄金色の髪を結い上げたオドザヤとは違い、その青みがかった金色の髪を長く背中まで垂らしたトリスタンには金糸の必要はないと判断したからだけだった。

 トリスタンの着ている上着は長めで膝のあたりまでの長さがあったが、それには襟から裾まで全体に、オドザヤのそれとは違う、重厚な厚みのある睡蓮の刺繍が施されていた。その重たげにさえ見える刺繍の厚みは、彼の故郷ザイオン風のものだ。

 その下は真っ白なシャツと、真っ白な細身のズボン。そこには何の装飾もない。ただ、オドザヤのドレスと合わせた光沢のある生地が選ばれているだけだ。

 シャツの襟元にはこれも純白の淡雪のようなレースがあしらわれ、それを特別に探して作られた大きな白い水晶の襟かざり……その水晶の中には金色の針のようなものが細かい線を描いて内包されている……が使われていた。

 カイエンたちが見ほれている間にも、二人は介添人から離れて、二人の大神官が待つ壇上の中央へと体の向きを変えていた。

 上段の下から見ている皆には、今度は新婦と新郎の背中側が見えた。

 オドザヤの方は、そこに神秘的な睡蓮の湖が現れたよう。そして、トリスタンの方は長く伸びた金色の髪にガラスの管状の髪飾りが、ザイオン風に編み込まれた髪の中にいくつも光り、異国情緒を感じさせた。

「あー、これがまあ、本当の結婚式ってやつだよなあ」

 カイエンは横にいるエルネストが、やや嫌味っぽく彼女にだけ聞こえる音量でそう呟くのを聞いたが、もちろん、聞こえないふりをした。

 カイエンもエルネストも、共にこの日のためにノルマ・コントに頼んで誂えた、煌びやかな服を身にまとっていたが、それはあの味気なくも形式的な彼らの結婚式で、お互いが着ていた間に合わせの衣装よりも、よっぽど華やいだ新しい意匠のものだった。

 そんな彼らの前で、オドザヤとトリスタンは、アストロナータ神殿の大神官と、海神オセアニアの大神官がそれぞれに祈り上げる祝詞にしたがって、婚姻の誓いの言葉を感情のない声で繰り返していた。

「……この世が終わる最後の日に、燃え盛る炎の中に飲み込まれる街の中でも、姿変わらず、こころ変わらず。共にお互いの生きる道を共に進み、惑える時も、迷いし時もその握った手を離さず、歩んでいくと誓えるか……」  

 カイエンは自分とエルネストとの結婚式では、聞かれることもなかったその問いに、オドザヤとトリスタンの二人が、当然のようにうなずき、誓うのを、ただただ他人事として眺めていた。

 彼ら二人共が、本心をきれいに押しかくし、神妙な面持ちで繰り返している誓いの言葉。

 それは、事情を知っているカイエンたちにとっては、なんとも虚しいというか、悲しい誓いだった。今の国々の情勢を思えば、オドザヤとトリスタンが最後まで添い遂げられるとはとても思えなかったからだ。

 アベルのことを知っているトリスタンにしてみれば、この結婚の後に生まれてくる皇子皇女たちの父親が自分であると言い切れない夫婦関係になることはもう分かっていたし、オドザヤはカイエンに、トリスタンにはあのオルキデア離宮でそのことは言い渡してある、と言っていた。

 カイエンとエルネストの婚姻も、まさに形式だけのことだったが、オドザヤの場合にはそれに、生まれてくるであろう彼女の子供達が関係してくる。

 カイエンは自分はしないですませてしまった、結婚式のそんな誓いの言葉を言わされているオドザヤと、それにトリスタンがなんとも気の毒で、目をそらさずにいるのがやっとだった。

 姉妹揃って、なんとも情けない。そう思わないでもなかったが、一方では皇帝だの大公だのの結婚なんて、みんなこんなものなのかもしれない、との思いもあった。オドザヤの父、サウルと母のアイーシャの結婚は愛情によるものだと彼女たちは信じていたが、それとても真実は違っていたのだ。

 カイエンはオドザヤから聞いたが、アイーシャの心をその死の瞬間まで捉えていたのは、サウルではなくアルウィンの方だったのだから。アイーシャの狂った頭に最後まで残っていた面影は、アルウィンだったのだ。

 ただ、これだけは分かっている事もあった。

(……この世が終わる最後の日に、燃え盛る炎の中に飲み込まれる街の中でも、姿変わらず、こころ変わらず。共にお互いの生きる道を共に進み)

 彼女の場合には、この誓いの相手は一人ではなかった。誓ったことなどなかったが、それは彼女とヴァイロンとの間でも、イリヤとの間でも成り立つことだった。たぶん。

 もしかしたら、夫婦としてのそれではないなら、いつかはシイナドラドと螺旋帝国の間に挟まれた、螺旋帝国の支配に怯える国々へ向かうために、ここを出て行くと言うエルネストとも。

(……その握った手を離さず)

 カイエンは結婚契約書に署名する、オドザヤとトリスタンを見ながら思っていた。彼女が思ったことをそのまま口から出していたら、そこにいた皆が唖然とし、そして不敬だと彼女を罵ったかもしれない。

(オドザヤよ。きっと貴女もいつか出会うだろう。貴女の死がその身を襲うまで、側にいて貴女の手を離さずにいてくれる存在に。私はきっともう、知っている。何だかそんな気がするんだ。貴女の側にいて、貴女の目指すものを共に追って行くであろう人間を)

 署名が終わり、手に手を取って、カイエンたちの方へ振り向き、トリスタンがオドザヤのベールをそっと引き上げ、口づけを交わす二人。

 あらかじめ集められていた上位貴族の可愛らしい少年少女たちがばら撒く色とりどりの花々の上を歩いて、海神宮の西の大海を臨む大扉へと、お互いの心中は毛ほども見せず、万雷の拍手と祝いの音楽が奏でられる中を、手に手を取り合って歩いていく、オドザヤとトリスタン。

 彼らを、カイエンは何だか遠いところを、未来を透かし見ているような目で見送っていた。


 





「ちょっと、もうそろそろ、バルコニーに新郎新婦が出てくる時刻ですよ。親衛隊さんたちは、バルコニーの周りや広場で市民たちがあんまりバルコニーのそばまで寄らないように人垣作っているはずだから。海神宮の方で騒ぎが起きてないところを見ると、やっぱ、モンドラゴン子爵夫人を大広間へ行かせなかったのは正解だったかもね」

 そんなことを小声で言いながら、皇宮前広場プラサ・マジョールから金座へと続く大通りを馬上で見渡しながら降りたり登ったりしているのは、大公軍団軍団長のイリヤと、帝都防衛部隊長のヴァイロンの二人だ。

 今、イリヤが言ったように、モンドラゴン子爵邸にはあれからすぐに大公宮の影使いのナシオとシモンが潜入し、ネーヴェと名乗る白い髪の女占い師が出入りし始めていることを確認していた。

 ナシオもシモンも、まだあの奇術団コンチャイテラがハーマポスタールで興行を行なっていた頃に、魔女スネーフリンガや魔術師アルットゥなどの顔は見ていた。だから、この女占い師ネーヴェが、あの魔女スネーフリンガと同一人物であることはすぐに大公宮へ報告された。つまりは、四年前に賜死という形で処刑されたアルトゥール・スライゴ侯爵の妻、ニエベスだということだ。

 つまりは、なかなか夫の不倫に気が付かない、おっとりとしたモンドラゴン子爵夫人に、その夫と女皇帝との関係をはっきりと示唆したのは、桔梗星団派だということが判明したのだ。

 カイエンたちはあえてニエベスのモンドラゴン子爵邸への出入りを監視するに留めていた。

 占い師ネーヴェことニエベスが子爵邸を出た時には、もちろん追跡させた。そして、いくつかの桔梗星団派のアジトを新たに発見していたが、あえてそちらは監視するに留め、すぐに踏み込むことは避けた。

 彼らに、モンドラゴン子爵夫人を使った工作は順調に進んでいる、と思わせるためだ。

「……まー、桔梗星団派がモンドラゴン子爵夫人に接触してたってのは、それほど驚かないけど、旦那ウリセスとのおしゃべりで奥さんのことに気が付いてよかったわ。子爵夫人の奥さんなら結婚式のある海神宮の大広間に入れるしね。今朝、子爵夫人が屋敷を出てすぐに、百面相シエン・マスカラスに奥さんそっくりに顔を作らせたイザベルと入れ替えたけど……」

「イザベルは大丈夫なのか。子爵夫人だぞ。変装の出来はともかく、礼儀作法とか身ごなしとか……」

 ヴァイロンの声はイリヤにやっと届くほどに小さい。

「あー、それならほら、あの子、前にクリストラ公爵夫人のところで警護に当たらせたことじゃあったじゃん。あの怪物くんアルウィンが、この街に戻ってきた時にさ。……あの時に公爵夫人から厳しく『淑女らしい身のこなしや話し方』を特訓されたんだって。さすがは殿下ちゃんの伯母さんだけあって、時間も無駄にしないし、先見の明もあるわ。だから去年のザイオン外交官官邸の仮面舞踏会の時も、公爵令嬢に化けて潜入させられたんだもん」

 ヴァイロンは「殿下ちゃん」のところで一瞬、苦い顔つきになったが、仕事中であることを忘れるような男ではない。イリヤの方はそんなヴァイロンの気持ちなど想像がつくだろうに、普段の言いようを変えようとはしないのだ。

「声の方も、ナシオが子爵邸に連れてって本物の声を聞かせたって言ってたから、大丈夫でしょ。同じ子爵だから、席順の近いザラ子爵夫妻がさりげなく側についていてくれることになってるしねぇ。何より、あの子を海神宮の大広間に入れとけば、大広間で、なんか良からぬことを囁いてる連中がいても、声を聞き取って殿下ちゃんや公爵さんたちに知らせてもらえるしー」 

 非常に目立つこの二人が、この場所でそんなことを話しながら移動しているのは、もしここで騒ぎを起こそうとしている者がいた場合の牽制のためだ。

 実際には、治安維持部隊の隊員たちは広場の入り口で怪しい人間が入っていかないか見張っており、怪しまれた者は近くの皇宮前広場プラサ・マジョール署に引っ張られていた。

 帝都防衛部隊の猛者たちは、私服で市民たちの中に混ざって目を光らせているはずだ。

 皇宮の、オドザヤが皇帝即位の日に市民たちの前に現れた、あのバルコニーは皇宮前広場プラサ・マジョールに面している。

 もう、皇宮前広場プラサ・マジョールには多くの人々が集まっていた。皆が期待を込めて見上げる先には、皇宮で唯一、直に外の街と接している建物があり、そこに大きな広いバルコニーがあるのだ。

 バルコニーに出てくるオドザヤとトリスタンのすぐ側には、親衛隊長のウリセス・モンドラゴンと、オドザヤの警備をしている大公軍団から派遣のルビーとブランカが警護に当たっているはずだった。カイエンの護衛騎士のシーヴや、腕に覚えのあるエルネストの侍従のヘルマンも特別に許されて警護に当たっているはずだ。

「この広場からバルコニーへ仕掛けるとなれば、武器などを持ち込めば嵩張るだろうから、入る前に捕まえられるだろう。となると、連中の仕掛けは陛下たちではなく……」

「こっちの、広場にぎゅうぎゅうに集まった、市民たちの方かもね。めでたい日にお祝いに出て来た市民の方がやられちゃあ、今度の結婚そのものが不吉なものになっちまう、ってんでしょ? そうなると、使う得物をバラバラにして持ち込まれたら、ちょっと困るねぇ。……まだまだ警戒は怠れませんよ。金座のあたりをぐるりと回るっていうパレードの方も、無蓋馬車でしょ? 道筋には制服の治安維持部隊員と、私服の帝都防衛部隊員が広場から流れていく計画だし、近衛も馬上で馬車の周囲を取り囲むって言ってたけどぉ。ま、馬車の方はあのウリセス・モンドラゴンさんが制服で後ろに乗って、御者はガラちゃん。侍従役はナシオにやらせる手筈だけどねぇ」

 イリヤはそう言いながら、皇宮前広場プラサ・マジョールの方へ馬首を向けた。さっきからこの辺りをずっと行きつ戻りつしているのだ。

 イリヤとヴァイロンは、制服の下に鎖帷子を着込んでいる。それは、帝国軍の各アルマの兵士が甲冑の下に着ているものをやや薄く作ったもので、帝都防衛部隊員の装備の一つだった。群衆に混じっている私服の隊員たちも同じものを下着の上に着込んでから、上着を着ているはずだ。

 その点では、集まった市民たちは皆、皇帝の結婚ということで精一杯着飾った者が多かったから、男は皆上着を着ており、女も長袖に羽織りものの姿が多かったのはありがたかった。

 もう六月だから、鎖帷子なんぞを着ていれば暑苦しいことこの上なかったが、六月の初めのその日は、真っ青な晴天ながらも風がよく通ってやや涼しかったので助かっていた。

 彼らがそんな重装備なのは、いざという時には体を張って市民を守るためだった。工作員が見つかったら、隊員で取り囲んでしまえば、市民に気が付かれずに連行することも可能だろう。

「おめでたい皇帝陛下のご婚礼だからねえ。派手に立ち回って、犯人を取り押さえるのに血を見るようなのだけは避けてほしい、ってのが殿下ちゃんのご命令だしぃ」

 イリヤはそう言ったが、カイエンとても大公軍団の隊員たちの命を軽視していたわけではない。

「それはカイエン様にも苦渋のご決断なのだ。なんとか広場に曲者を入れずに済んでいればいいのだが……」

 ヴァイロンは精悍な顔に複雑な表情を浮かべて、そこまで言って黙ってしまった。

 イリヤもヴァイロンも、そっちの方は見ないようにしていたが、広場を取り囲む建物には、ずべて隊員を配備している。屋根の上からは身の軽い帝都防衛部隊の隊員たちが、遠眼鏡を使って眼下の動きを監視しているはずだった。

「あっ! バルコニーの方に動きがあるみたいよ。新郎新婦のお出ましだわ。ヴァイロンさんはあっち側に回ってよ。俺はこっち側で皇宮前広場プラサ・マジョール署のヴィクトル・カバジェーロが来るのを待つから」

 イリヤと別れて、広場の反対側へ馬首を向けながら、そっと振り向いたヴァイロンは、馬上のイリヤのそばに、見覚えのあるヴィクトル・カバジェーロ署長の乗った馬が近付いて行くのを確認した。周りの市民たちには聞こえないだろうが、ヴァイロンの人より鋭い耳には、広場を囲む建物の上を静かに移動する帝都防衛部隊の隊員たちの気配も感じ取れていた。

「みんな、訓練通りだ。上から見ていれば、他の善男善女とは動きが違うやつがだんだん見えて来る。それを下の隊員に伝え、取り囲んで外へ出してしまうしかない。……頼んだぞ」

 口の中だけでそう呟いたヴァイロンは、イリヤ共々、囮と威嚇の意味で広場の周囲を回りながら、自分もまた馬上の高みから異分子を群衆の中から見つけようと、翡翠色の目を厳しくするのだった。







 海神宮の大広間での結婚式が終わると、オドザヤの即位の日と同じように、参列した貴族たちは夜の披露宴のために一度、皇宮の中にある各々の控屋敷へ戻り、控え室には、新婦のオドザヤと新郎のトリスタン、大公のカイエンとエルネスト夫妻と養女のリリエンスール、宰相サヴォナローラとトリスタンの兄リュシオン王子、フロレンティーノ皇子を連れたマグダレーナ、先帝サウルの第一妾妃のラーラ、第二妾妃のキルケと、昨年スキュラから戻ったアルタマキア皇女、それにミルドラとヘクトルのクリストラ公爵夫妻までの新郎新婦の親族である一群だけが残った。

 もちろん、部屋の隅には、オドザヤの警護の親衛隊長モンドラゴン子爵に、ルビーとブランカ、カイエンの護衛のシーヴ、それにエルネストの侍従のヘルマン、カイエンの乳母のサグラチカやフロレンティーノの乳母などが、静かに控えていた。ルビーとブランカはいつもの制服姿ではなく、侍女のような地味なドレスを着せられている。ルビーなどはこれには不満だったようだが、新郎新婦の周囲を物々しい制服ばかりで囲むわけにもいかない。 

 バルコニーの中央に出るのは、さりげなく警護のモンドラゴンやルビー達を従えた、オドザヤとトリスタンだが、彼らに一歩遅れて親族の彼らもまたバルコニーに出て、新郎新婦を祝福するように周りを取り囲むことになっていた。

 リリとフロレンティーノは、海神宮での結婚式ではそれぞれの乳母……リリの場合にはサグラチカだったが、に付き添われて後ろの方に座らされていた。

 二人ともに可愛らしくも豪華な衣装を着せられた、リリとフロレンティーノは、歩き始めてからは初めての対面だったから、お互いの顔をちらちらと見交わしているだけだった。フロレンティーノの方は、リリが自分の何に当たるのかも分かっていなかったかも知れない。

 リリの方は頭の方だけならもう十二、三歳くらいの少女と言ってもよかったから、兄のフロレンティーノに話しかけるのは簡単だったが、こんな他人に囲まれた場所でそんなことが出来るはずはなかったから、神妙な顔で黙っていた。もっとも、いたずらっぽい微笑みが口元に浮かんでしまうのは抑えられていない。

「リリ、変な顔になっているぞ。ちゃんとやれ」

 カイエンの座っている椅子と、隣のエルネストの椅子の間を行き来しながら、にやにやしているリリを、カイエンは無理やりとっ捕まえると、なんとか膝の上へ抱き上げて、その耳元で囁いた。

 この日のカイエンとエルネストの礼服は、オドザヤの即位の時のそれと意匠こそ似てはいたが、より華やかなもので、カイエンの大公軍団の制服を極限まで豪華に装飾したような、黒っぽい青紫の服は直線的で、カイエンの靴を隠すほどの長さがあった。

 襟元や袖口からはオドザヤの睡蓮を意識したノルマ・コントによって睡蓮の刺繍が施されたレースが溢れ出るように垂れていた。制服よりも大きく大胆なカットの大きな襟や袖口の折り返しにも、これは海の波模様の分厚い刺繍が施され、その間からレースが滝のように流れ落ちている。胸元のレースをとめているのは、最高級の赤みを宿した紫水晶の襟止めで、服の前身頃全体にも光る黒鉄色の糸で一面に刺繍が施されていた。

 オドザヤの即位式ではカイエンは髪を高く結い上げていたが、この日は無造作に後ろ首のあたりで銀の髪留めで留めただけで、長くてやや緩やかなくせのついた豊かで艶やかな髪が、彼女の背中に長々と垂れていた。

「大公殿下には、今日は御髪を上げておられないのね。でも、その方が何だか凛々しく見えてすてきだわ。それもノルマ・コントのお仕事なのかしら?」

 カイエン達は女官長コンスタンサの先導で、化粧直しに行ったオドザヤとトリスタンがいなくなると、控え室のソファにくつろいで、お茶や簡単な菓子などをつまんでいた。そんな中で、カイエンに話しかけてきたのは、やはり先帝サウルの第三妾妃マグダレーナだった。彼女は、滅多に会うこともないカイエンの顔を見ると、必ずこうして絡んでくるのだ。

 そう言うマグダレーナの装いは、今日もまたベアトリア風のワイン色のドレスで、去年、妊娠中のオドザヤが無理やりに流行らせた、腰ではなく胸の下で切り返しのある意匠のものだ。形は野暮ったいが、生地は最高級のもので、赤い糸で薔薇を一面に刺繍してあるので、近くで見るとかなりの迫力があった。

「ええ。髪をあげると、この左頬の傷が見えてしまうし、それを厚化粧で隠すよりは化粧は控えめにして、あえて貴族の男どものような髪型にした方が粋だとか言いましてね。衣装の方もこういうものですから」

 カイエンはこればかりはノルマ・コントの言っていた通りだから、すらすらと答えることが出来た。

「エルネスト殿下のお衣装も、大公殿下のとお色や刺繍は合わせておられるけれど、どこかシイナドラド風の直線的な形なのね。背が高くていらっしゃるから、よくお似合いだわ。今日の陛下とトリスタン殿下のお衣装も、本当にすてきで……。私はどうしても故郷のベアトリア風から離れられないから、何だか今日は自分だけ野暮ったくて恥ずかしいわ」

 カイエンとエルネスト、それにリリ、向かい側ではミルドラとヘクトルとが「始まった、始まった」と心の中で顔を見合わせている中、マグダレーナはフロレンティーノ皇子を自分の膝に抱き上げながら、なおも言葉を続ける。

 トリスタンがいないせいで落ち着かず、あちこちに目をさ迷わせている気の毒なリュシオン王子を構ってやる親切な者などいなかったが、妾妃二人と、アルタマキアもマグダレーナのこんな様子はもう知っていたから、黙ってこのやりとりを見つめていた。それは宰相のサヴォナローラや警護の皆も同じだった。

 エルネストやリリなどは面白がっている気持ちを隠そうともしていない。

「それに、リリエンスール様はまだ赤ちゃんの頃から、何だか大人びていらしたけれど、こうしてフロレンティーノと比べて見ると、本当に活発であられるのねえ」

 確かに、フロレンティーノ皇子の方は、マグダレーナの膝の上で、その胸元に顔を埋めるようにして、大人同士の意味のわからない会話に苛立った様子を隠そうともしていない。

 一方で、リリはつるん、とカイエンの膝から降りると、マグダレーナに見せつけるように、エルネストの膝の上によじ登っていく。かわいらしい薄桃色のレースのドレスから、白いレースの靴下を履いた足が見えるのも気にしていない風だ。

 カイエンはリリが調子に乗って何か喋り出さないかとひやひやしたが、エルネストの首っ玉にしがみついたリリはにこにこと笑っている。カイエンとリリは片方の目の色を除けばそっくりだし、エルネストもカイエン達とよく似た顔立ちだから、そうして見れば、リリはカイエンとエルネストの娘、と言ってもまったく違和感はなかった。

「こらこら。リリは甘えん坊だな」

 リリには大甘なエルネストは、リリを優しく抱きながら、周囲に見せつけるようにその健康そうな桃色のほっぺたに頬ずりする。

 これにはマグダレーナだけではなく、ミルドラやラーラとキルケ、それにアルタマキアもびっくりした目をして見ている。カイエンとエルネストの婚姻が訳ありなことは皆、その実際の真相は知らないながらも感づいていたから、エルネストがリリをこんなにかわいがっているとは思ってもいなかったのだろう。

 それに対して、マグダレーナが何か言おうとした時だった。

「お支度が整いましてございます」

 侍従の声とともに、新郎新婦が女官長のコンスタンサに連れられて、控え室に戻ってきたので、皆はぴたりと口をつぐんだ。

 オドザヤはベールを上げて素顔を表し、化粧を直されたその顔はこれ以上ないほどに光り輝いているように見えた。彼女の中では色々な気持ちが葛藤し、渦巻いていたかもしれないが、それはその表情にはまったく出てくることはなかった。

 トリスタンの方も、これは兄のリュシオン王子がいるからでもないだろうが、にこやかに爽やかな様子でオドザヤに手を貸してソファに座らせている。

 その様子からは、彼らの間にこれまでにあった毒々しい事件のあれこれなど、まったく感じることはできなかった。

「そろそろ、正午でございます。陛下、バルコニーへお出になる準備を」

 ドレスの隠しから懐中時計を取り出した女官長コンスタンサがそう言うと、まず、親衛隊長のウリセス・モンドラゴンが動いた。今日の彼は通常の制服と同じ臙脂色の親衛隊の礼服姿で、それだけで彼の職分は明らかだった。

 彼は控え室のど真ん中に降ろされた白いカーテンの向こう、皇宮前広場プラサ・マジョールに面したバルコニーへ繋がる窓へつかつかと歩いていくと、無造作にカーテンの角を持ち上げ、下の様子をうかがう。

 彼の目には、バルコニーの近くへ少しでも近付こうとする市民達を押しとどめている親衛隊員達の臙脂色の制服がまず目に入った。彼らの作った人の壁は、計画通りの位置で人々を抑えている。この距離と位置関係は、十字弓クロスボウなどで射られても、バルコニーには届かないという配慮の元に決められたものだった。

 ついで、彼は広場の左右に目を配った。そこには、大公軍団の軍団長イリヤと、帝都防衛部隊長のヴァイロンが馬上から広場を見守っているのが見えた。イリヤのそばに見えるのは、皇宮前広場プラサ・マジョール署の署長だろう。

 モンドラゴンの両側から、ルビーとブランカ、それにシーヴが下の広場からは見えないよう、バルコニーの手すりと柱に隠れるようにして、先にバルコニーへ出た。オドザヤ達が登場した時には、左右からいつでも前に出られるようにするためだ。

「……女官長殿。警備体制は予定通りだ」

 モンドラゴンがそう言うと、女官長コンスタンサはうなずき、オドザヤとトリスタンに向き合うと、恭しく告げた。

「皇帝陛下、ならびに皇配殿下には、これより、バルコニーから市民達へのお披露目をしていただきます」

 そう言うと、コンスタンサ自身はオドザヤの後ろへ回り、長く引いたベールの裾を持ち上げた。バルコニーは十分に広いが、それでもオドザヤに次いで出て行く人々がオドザヤの花嫁衣装のベールを踏む恐れがあったからだ。

「わかりました。……参りましょう」

 オドザヤはちらりとトリスタンの仮面と化したかのような張り付いた笑顔に向かって、言葉をかけた。

 黙って立ち上がったトリスタンは、カイエン達親族の方を見ることもなく、オドザヤにおのれの肘を差し出す。それに手を掛けて、オドザヤは静々と歩き始めた。

 オドザヤはもう、あの二年前の皇帝に即位した時のような、群衆に讃えられ、歓呼の声を浴びるのを恐れる少女ではなかった。白いカーテンの向こうには眩しい、真っ白な太陽の光が待ち構えていることも、もう、知っていた。

 皇帝に即位した時には、カイエンに引っ張られるようにして、やっと歓呼の声に沸くバルコニーへ出られたオドザヤだった。でも、今回は。

 もう、ある意味、オドザヤには恐れるものなどなかった。

(怖いわ。怖い! 私は女神なんかじゃない! 私はあの人たちの求めるような……そんな大それた者じゃないの!)

 そう叫んだあの時の、二年前のオドザヤはもういなかった。

 彼女はトリスタンの腕を引っ張るようにして、自らバルコニーへの一歩を踏み出した。


「おおおおおおおおおおおおおおおおおおお」


 白いカーテンが割れ、皇帝夫婦が出てくることがわかると、眼下の広場からはあの即位の日と同じように、群衆の凄まじいまでの声の轟きが、まるで音に力があるかのように、真っ白なカーテンを吹き上げるようにして、オドザヤとトリスタンの二人にぶち当たってきた。

 一瞬の真っ白な陽光。

 それに目が慣れるまでの数秒間、オドザヤとトリスタンはバルコニーの窓の外へ出た形のまま、少しの間目が見えなかった。

 目が光の強さに慣れた時、二人が見たのは、皇宮前広場プラサ・マジョールを埋め尽くした市民達。

「皇帝陛下! オドザヤ陛下、万歳!」

「ご成婚おめでとうございます!」

 市民達はてんでにそんな言葉を叫んだので、最初のうちはそれはただ、音の轟きにしか聞こえなかった。

 だが、誰が始めたのか。

 それはすぐに一つの言葉となって、広場中に広がっていった。


「オドザヤ! オドザヤ! オドザヤ! 太陽の化身よ! 我らが帝国の女神よ!」


 その歓呼の響きは、それよりも大きな音にかき消されるまで止まることがなかった。

 オドザヤはトリスタンの腕に片手を絡め、堂々とバルコニーの中央へ、そして柱と手すりのあるところまで歩いて行く。

 二人が歓呼の渦の中で、それに答えて片手を上げた時だった。


 どーん!


 という大砲のような音が広場にこだましたのは。

 確かに、港ではこの時刻に海軍の船から祝砲が上げられる手筈となっていた。

 だが、それにしてはその音は近すぎた。

 群衆は一瞬、驚きのために静止した。中には、驚いて広場にうずくまるものもいたくらいだ。

 ウリセス・モンドラゴンは、広場の左右で、瞬時に動き始めた、イリヤとヴァイロンの姿を認めていた。


 どーん、どーん、どーん!


 音は一発に止まらず、やがて皆がその正体に気が付いた。

「花火だあ!」

 誰かが気が付いて空を指差す。

 そこには確かに晴天を背景に白く光る花火の光が見えた。集まった市民達はそれを祝いの花火だと思い込んでいるようだ。真昼間に花火があげられた事など、今までなかったにも関わらず。

「どう言うことだ? 花火など準備していないぞ!」

 カイエンはエルネストの引き止める手を振り切ると、左手の杖をがつがつと大理石の床にぶつけながら、オドザヤのすぐ横まで歩み出た。リリをサグラチカに委ねたエルネストが、すぐにカイエンの前に立ちはだかる。

 もう、その時にはルビーとブランカがオドザヤとトリスタンの前を守るようにして立ちはだかり、シーヴはバルコニーから首だけ出して、広場の周囲の建物の上にいるはずの帝都防衛部隊の隊員達を探していた。

「殿下! 手信号です!」

 シーヴも、仕事はカイエンの護衛だが、帝都防衛部隊や治安維持部隊が使っている手信号の合図は覚えている。

 カイエンははっとして、シーヴの次の言葉を待った。

「は・な・び。う・ち・あ・げ・ばしょ・は……」

 カイエンはシーヴの言葉の続きを待ったが、それはすぐには続かなかった。

「ざ・い・おん・かん・てい・ふ・きん」

「なんだとぉ!?」

 カイエンは叫ぶとともに、オドザヤを自分の後ろへそっと押しやりながら、すぐそばのトリスタンの礼服の腕を掴んでいた。眼下の広場の市民達はまだ、花火の音に注意を引かれ、バルコニーの様子には気が付いていない。

「おい! どう言う事だ? これは」

 そう、カイエンが言う間にも、どん、どん、と花火は上がり続けている。

 だが、トリスタンはカイエンの方へ顔を向けると、ゆるゆると首を振ったのだ。

「……知らない。こ、こんなことは、聞かされていない」

 トリスタンはそう言うと、はっとした様子で控え室の入り口に立ちすくんでいる、自分の兄の方を振り返った。

「まさか! 兄上、あなたの指示ですかっ!?」

 トリスタンに怒鳴りつけられたリュシオン王子は、心底びっくりしたらしい。

「知らん! 俺は何も知らん!」

 そう言いながら、意気地なしの王子様は控え室の中へさっさと引っ込んでしまった。

「お姉様!」

 その時、オドザヤが呼ばなかったら、カイエンはリュシオン王子を取っ捕まえるために控え室へ戻っていたかもしれない。

「お姉様、ルビー、ブランカ、大丈夫よ。エルネスト様も、ああ、モンドラゴン隊長も! 叔母様、叔父様は出ていらっしゃらないで!」

 オドザヤは自分の前で彼女を守ろうと盾になっていたカイエンやルビー、ブランカを抑えると、トリスタンの腕を取り直して、バルコニーの手すりの前へ出て行く。

 その堂々とした様子はまさに「太陽の女神」たる女皇帝にふさわしいものだった。

「私は信じています。広場は大公軍団の方々、それに親衛隊も、しっかり守っていてくださるはず。こんな音だけで何もかもぶち壊しになんか、させやしないわ!」

 この一幕は実際のところはほんの一瞬の出来事だった。

 オドザヤがトリスタンの腕を取って、再び群衆へ向かって手を振りだすと、広場の市民達は何事もなかったかのように歓呼の声を再び響かせたのだった。


「オドザヤ! オドザヤ! オドザヤ! 太陽の化身よ! 我らが帝国の女神よ!」

「ハウヤ帝国に永遠の栄光あれ!」


 と。

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