交錯する思惑

 美しきもの

 たけきもの

 輝ける姿持ちて

 永遠にこころ蒼きものよ

 いつか神の兵士として天上で光の槍もて戦う時も

 神とともに使徒として

 地上へいかづちとなってくだり落ちてくる時も

 そして

 この世が終わる最後の日に

 燃え盛る炎の中に飲み込まれる街の中でも

 姿変わらず

 こころ変わらず

 共にお互いの生きる道を共に進み

 惑える時も、迷いし時も

 その握った手を離さず

 歩んでいくと誓えるか


 あなたの半身が焔に灼かれる時も

 自ら相手をその手に抱いて共に灼かれると誓えるか

 誓えるなら共にあなた方の死の向こうにも

 決して損なわれぬ栄光が続くだろう

 さあ、取り交わすがいい

 婚姻の契約をここに




      アストロナータ信教での婚姻の契約のための祝詞より







 大公軍団軍団長イリヤボルト・ディアマンテスが、オドザヤとトリスタンの婚礼の警備のことでの打ち合わせが終わり、皇宮の自分の執務室を出て言った後。ウリセス・モンドラゴンはしばらくの間、不愉快な男が出て行った時に閉まったままの大きな木の扉を不快げに眉を歪めて見つめていた。

 ウリセスにとって、イリヤを不快に思う気持ちの源泉など、指折り数える以上にいくらでもある。

 まず、田舎出の平民であるのに、大公軍団軍団長としてハーマポスタール市内では大公カイエンの右腕として活躍し、帝都の治安を守っている、実質的な責任者であり、功労者であるのは彼だ。そしてあの美貌もあって彼を知らない市民などほとんどいないのだろう。あの顔は一目見たら忘れることなどない、強烈な印象のある顔だ。

 美しいだけなら歌劇役者でも、高級娼婦でも、近いレベルに達しているものはいるだろうが、彼の顔は現在の彼の仕事となんの関係もないという点でもう普通ではない。普通は容姿の整ったものはそれにふさわしい職業につくことが多いだろう。

 そして、傭兵ギルドの長をも兼任する彼は、ハーマポスタールの裏社会ともいい関係を築いているらしい。だが、裏社会から金を積んで頼まれても、イリヤは大公軍団長としての表の仕事では手心を加えたりはしないことで有名だった。

 裏社会関係で色々と剣呑な悶着があった後、現在は裏社会でも表と同じく「大公軍団の恐怖の伊達男」と呼ばれているらしい。

 彼が大公軍団軍団長に就任した七年ほど前には、そんな彼を狙う殺し屋が幾人も放たれたという。だが、イリヤはそのすべてを、手っ取り早くその場で、正当防衛として上手に取り繕って返り討ちにしていってしまった。

 だから、次第に裏社会の親分さんたちの考え方も変わらざるを得なくなり、「奴の方から話を持ってくる分には、話しだけは聞こう」という空気になったのだそうな。きっとイリヤは自分の軍団長としての職分に関係ないところでは、それなりに融通をきかせたりもしているのだろう。きっとそれは傭兵ギルドの方でのことに違いない。

 だから、去年の一月の大公カイエンを庇ったのか、彼自身が狙われたのか、という暗殺未遂事件では、

「遂にあの男も棺桶に詰め込まれて地獄送りか」

 と、手を叩き、天を仰いで喜んだ者も多かったらしい。だが、現場でもうほとんど死を確認されるような状態だったはずの恐怖の伊達男は、どんな神か、それとも悪魔の手を借りたのか、ほんのひと月後には軍団長の職務に戻ってしまった。

 大公軍団という、今や一つのアルマと同じくらいの人員を抱える組織の長。そして、有能で不死身、おまけに似顔絵屋で歌劇役者イグナシオ・ダビラと並べて似顔絵が売られ、イリヤの方が売れ行きがいいとまで言われるあの顔だ。

 そこまででも十分に気に食わない存在だったが、ウリセスには去年からもう一つ、気に食わない一面が増えた。 

 イリヤはそういう経歴の上にもう一つ、なんとも言えない事実を積み上げたからだ。

 大公殿下の二人目の愛人という、これまた派手な役割を。

 だからさっきは、

(あはは。これ、実は殿下ちゃんが気にしてたことで、俺はどうでもいいことなんだけどぉ。俺は殿下ちゃん大好きだから、気を利かせてあんたに聞いときたい訳よ)

 などと言っていたわけだ。

 去年の暗殺未遂事件の後かららしいが、イリヤは女大公のヴァイロンに続く第二の愛人として、世間に知り渡った。

 読売りにまで女大公と愛人たちの記事が何度も載り、今やその事実を知らない人間の方が少ないくらいだ。さっきの言葉からすると、単に大公のカイエンが彼の美貌を気に入って閨に招いただけではなく、彼の方も嬉々として潜り込んで行った節がある。どう見ても聞いても、イリヤは嫌々カイエンの相手をしているようには見えないのだ。

「うちの大公殿下ちゃん」

「俺は殿下ちゃん大好きだから」

 そういうことは知っていたが、さっき、イリヤがそう言った時、ウリセスは正直、身震いがしそうなほどに不快だった。「殿下」という高貴な称号を自分勝手に愛称に変換する度胸もすごいが、別に友達でもなんでもない男の前で、自分の現在の女を、それも自分の直接の上司である女を「大好き」などと三十男がよくも言えるものだと思ったからだ。

 オドザヤと愛人関係になったとはいえ、ウリセスが「うちの陛下ちゃん」などと言うことなど、世界が壊れる日が来てもあるはずなどない。そもそも、不敬ではないか。それに彼はオドザヤをそんな呼び方で呼ぶなど、閨の中でさえもしたことはないし、今後、出来るようになるとも思えなかった。

 あんなのは、ああいう身分もわきまえぬ奇天烈な男だからこそ出来ることで、それを多分、笑って許しているカイエンという女も、きっとどこか頭のネジのずれた女なのだろう。

 つい先年まで、ウリセスにとっては女大公のカイエンなどは、顔こそアストロナータ神の神像のように整ってはいるが、足が不自由で体も弱いくせに、生意気にも男のような口調で喋り、いつも大公軍団の制服姿でおのれの職分を全うしていることを、これ見よがしに見せている、生まれこそ高貴は高貴だが、実態は哀れな女でしかなかった。

 先帝サウルが、シイナドラド皇子エルネストを皇帝の皇女であるオドザヤではなく、大公のカイエンが婿としたのには驚いたが、それとてカイエンがアストロナータ信教の「星教皇」である、とのシイナドラド皇王の声明を聞けば納得出来た。

 そして、皇帝のオドザヤは、同腹の姉妹で従姉妹であることもあって、トリスタンにのぼせていた一時期を除いては、「お姉様、お姉様」と完全に懐いており、全幅の信頼を置いている。カイエンの方も、オドザヤの秘密出産では全力をもって秘密を守り、オドザヤを安全に出産させるために苦心していたから、彼女ら二人の絆は間違いなく強いと見ていい。

 その点では、ウリセスはあの時から、大公カイエンへの凝り固まっていたというか、よく知らないからこその思い込みの印象や考え方を改めた。

 あの気に食わない男、イリヤでさえ、カイエンの言うことはちゃんと聞いているし、命令には従っているのだ。

 イリヤはカイエンの愛人になったこともあって、平民のくせに貴族など眼中にない様子で増長しているが、実力の方はさすがにウリセスも認めないわけにはいかなかった。

 一方、ウリセスは准男爵家の息子だった時から、平民と自分とは違うのだという考え方を持っていた。それは実は、平民とほとんど違わない「准男爵家」だったからこそである。

 つまり、その平民との間に小さな小さな差異を与えてくれる、「准男爵」という称号はウリセスにとって、いや、彼の家族全員にとって「決して捨ててはいけないもの」「捨てられない最後のもの」であったのだ。

 実際には、男爵以上の、それも裕福な家の者たちから見たら、准男爵家など「貴族とは言えない、貴族社会の末端にしがみ付く哀れなやつら」でしかなかった。

 逆に、平民から見れば「貴族とは名ばかりの貧乏人」だった。だが、ウリセスの家族たちは側から見れば滑稽なほど、その「貴族の末端」である称号にこだわっていた。

 そんな家庭であったから、ウリセスがモンドラゴン子爵となった時には、両親も姉と妹も、彼にすべての期待をかけた。

 そんな家族の心配は、ウリセスとシンティアの間に未だに子供が授からないことだった。いつまでも出来なければ、シンティアがまだ受胎可能な年齢のうちに、離縁されるのではないかと心配していたのだ。

 だから、実家の老いた母親などは、たまに彼が戻ると怪しげな「子供が出来やすくなる薬」だの、豊穣と出産の女神の神殿の霊水だの、メダルだのを用意して待っている。だから、ここ二、三年、ウリセスの実家への足は、仕事が忙しいこともあって遠のいていた。

 昨年、オドザヤとの関係が始まってからは、実家はおろか、モンドラゴン子爵邸にさえ戻らない日々が増えてきていたのだ。

 親衛隊長である彼には、この皇宮に執務室もあるし、モンドラゴン子爵家の「控え屋敷」もあった。執務室には簡単な身支度ができるような洗面道具もあったから、純粋に彼が「仕事で帰れない」と言っても、無邪気で世間ずれしていない妻のシンティアはあまり心配もなく、不思議にも思っていない。

 うかつな事に、今日までウリセスはそう思い込んでいた。いや、それほどに妻のシンティアのことなど去年からは「どうでもいいこと」になってしまっていたのだ。

 それを、さっき。

 大公カイエンの愛人であるあの男は、わざわざ言葉にして、それには大いに問題があると断じ、注意するように言い残して出て行ったのだ。

(何が言いたい)

 そう聞いたウリセスへのイリヤの答え。

(……あんた、去年からこの皇宮にい続けてお家にちゃんと帰らないことが多いんじゃないの? いくらなんでも、無邪気な奥さんにあれこれ吹き込む奴らが出てておかしくないでしょ。っていうか、今までバレてないほうがおかしいんだよ。これ、今日から気をつけるんじゃなくて、あんた、奥さんにバレた時の対策をしておくべきだよぉ)

 あれを聞いた時、ウリセスは背中に冷水をひっかけられたような恐怖を感じた。

 まさか。

 まさか、あのシンティアが。

 ウリセスの頭の中のシンティアという女は、温室育ちで苦労も知らずで、他人に否定されることもなく大人になり、そして自分の見初めた男を夫に出来た、幸運な女だ。

 そこまで考えて、ウリセスは大公カイエンやオドザヤとシンティアを比較せざるを得なくなった。

 ああ。

 皇帝や大公というこの国の頂点にある女たちの方が、子爵家の令嬢だったシンティアの知らない苦痛や苦労、苦しみを味わっているのではないか。ウリセスはカイエンについては何も知らなかったが、彼女が十五で大公となり、それ以降、大公として大公軍団をまとめてきたことは認めざるを得なかった。

 そして、オドザヤは。

 ウリセスは去年からのオドザヤとの関係の中で、彼女の抱えている苦悩、すでに無い父や母への複雑な思いにも気付かされていた。皇帝のオドザヤとて、シンティアよりも身内との関係であ精神的な苦悩を味わって来ていたのだと知ったのだ。

 ウリセスは執務机に向かった椅子に座ると、眉間を揉みながら、頭の中をなんとか整理しようとした。

 さっき、イリヤはウリセスの返事など待たず、部屋を出て行ってしまった。あの様子では、イリヤは大公カイエンにウリセスの反応を伝え、大公軍団の方で対策をして来るつもりに違いない。

 ウリセスはしばらく黙ったまま、突っ立っていたが、気が付くとすぐに、今日のオドザヤの行動予定表を机の上の紙挟みから引っ張り出した。

 その、今日本日の部分には、今頃、オドザヤは午前中の職務を終え、表の執務室から皇帝の宮へ戻って、昼餐、それから午後の着替えをすることになっていた。婚礼を数日後に控えているとは言っても、皇帝としての職務は待った無しだ。

 そういう意味では、そういう皇帝としての仕事をこなしつつ、今、近付いた国事である婚礼の支度をも並行して進めているオドザヤは、多忙の中の多忙の中で日々を送っていた。

 ウリセスがただの親衛隊長だったら、そんな時間帯に皇帝の私室へ訪いを入れるのはよっぽどの緊急事態でしかありえなかった。だが、去年からの彼にはそんなことも関係なくなっていた。

 ウリセスは壁際に下がった呼び出しのベルの紐を引いて、自分の秘書官と侍従を呼ぶと、簡潔に「陛下に緊急のご連絡をせねばならなくなったから、取り継ぐように」と命令していた。



「あら。怖い顔をして、どうしたの?」

 ウリセス・モンドラゴンが皇帝オドザヤの宮の中へ招き入れられた時、オドザヤはちょうど自分専用の食堂での昼餐を終えて、最後の果物とお茶をゆったりと楽しんでいるところだった。

 オドザヤは予定にはなかったウリセスの訪問に、ちょっとだけ不思議そうに美しく整えられた金色の眉をひそめた。

 婚礼が近付いてからのオドザヤの日常は、予定がびっしりと詰まったものになっていた。それを何日も前から確認し、朝、起きたオドザヤにその日の予定を話すなど、オドザヤの予定を管理するのは、女官長のコンスタンサ・アンヘレスの仕事だ。そして、オドザヤの身の回りでそれに必要な雑務の指揮をとるのが、最近のオドザヤの一番近しい侍女であるイベットの仕事となっていた。

 コンスタンサもイベットも、去年のオドザヤの秘密出産を知っている。腹心中の腹心だ。と言うよりも、彼女らにはもはやオドザヤのそばを離れる自由はなかった。その時は秘密を知るものとして、命を置いていくことになるだろう。

「お食事中とは存じておりましたが、火急の用事にて、失礼いたしました」

 オドザヤの周りには、もうすでに、女官長のコンスタンサと、腹心の侍女のイベットしか人けがなかった。

 ウリセスが予定にない訪いを入れた時点で、他の侍女達は遠ざけられたのだろう。

「何かしら。あなたがそんな顔をするなんて、何か急な出来事でもあって?」

 そう言いながら、そこはすでに男女の中になって一年以上の気安さで、オドザヤは彼女の座っている食卓……とは言っても皇帝一人のための食卓は、長細く幾人もが陪席できるほど大きかったのだが……の彼女のすぐ隣を指差して見せた。

 すぐに、イベットが動いて、長方形の短辺の奥に一人座っているオドザヤの隣の長辺の一番上座の椅子を、ウリセスのために引いて待つ。

 ウリセスがそこへ座ると、イベットはコンスタンサの方をちらっと見てから、ウリセスに出す茶の準備のためだろう、一旦食堂から出て行った。

「……先ほど、大公宮、いえ、大公軍団から軍団長がご婚礼の警備の最終的な相談と確認に参りまして……」

 そこから、ウリセスはなるべく簡潔に、それでも要点を一つも落とさず、オドザヤにイリヤの話した懸念を語って行った。

「あの男がああ言うのですから、大公殿下の方でもシンティアの身辺に見張りを付けるなど、対策をしてくれるものとは思います。ですが……申し訳もございません。私はあの軍団長ほどにも自分の、その、妻をよく見ておらず、それどころか甘く見ていたようでございます」

 そこまで聞くと、オドザヤはコンスタンサと顔を見合わせた。

 オドザヤはしばらく黙っていた。去年、秘密裡にアベルを腹の中で育み、出産に到るまでの間に、彼女は前よりもずっと思慮深い女になっていた。これはああいう体験を経れば当たり前のことで、オドザヤはアベルの出産以前のどこか頼りなく、危うい様子はきれいに卒業していたのだ。

「軍団長は、『今日から気をつけるんじゃなくて、奥さんにバレた時の対策をしておくべきだ』と言ったのね?」

 だから、オドザヤの言葉はもうウリセスの報告の先を行ったものだった。

 オドザヤはもう、大公軍団軍団長のイリヤがどれほどの影響力をこの帝都ハーマポスタールで持っているのかは熟知していた。そして、そんな男がカイエンの愛人としての自分というものを、ウリセスにそこまで強調したことの意味も察知していた。きっと、軍団長イリヤはウリセスにオドザヤへの気持ちを尋ねたのだろう。

 そして、ウリセスは正直に答えたのだろうことも、オドザヤは察知できた。オドザヤはイリヤの人となりなどは知らなかったが、彼がカイエンを自分の存在すべてを使って助け、守ろうとしていることはなんとなく理解していたので、そっちのことは何も心配してはいなかった。

 オドザヤ自身が今、近くに置いている男は、このウリセス・モンドラゴンだけだ。オルキデア離宮はアベルを産んだ秘密の時以来、使われていない。

 オドザヤはウリセスを自分が愛しているのかどうかは、正直なところ、はっきりとは分からなかった。

 それでも、トリスタンに対しての初恋とはまったく違った形で、この男を信頼していることだけは確かだった。皇帝としての自分の存在を助けくれるという気持ちは全く揺らがなかった。ウリセス・モンドラゴンは、裏の裏があるような男ではないとオドザヤは断じていた。そう言う目で見れば、カイエンのイリヤの方がよっぽど複雑だろう。

 それは、ウリセスの身の処し方が潔かったからでもある。

 彼は、オドザヤの妊娠、出産の間も一切、態度を変えることなく彼女に仕え、アベルの出産後にまたオドザヤの閨に誘われても、再びオドザヤが子を孕むような行為だけは、自分を厳しく律して決してしなかった。それでいて、彼女を満足させ、彼女が弱気になった時には無骨な様子ながらも、彼女を優しく支えてくれたのだ。

 そんなウリセスにイリヤが言ったという言葉。そこには明快にカイエンの意図を伝えるものがあった。

 お姉様らしいわ。

 オドザヤはそう思ったが、色々あって、もうしっかりと覚えているイリヤの顔を思い浮かべると、別の納得の仕方もした。

 カイエンにどうしようもなく執着している、ヴァイロン、イリヤ、そして形だけの夫であるエルネスト。

 あの三人の男たちは、みんなそこだけは同じなのだ。彼らはこの街の大公であるカイエンを愛していることをとりあえず脇に置いたとしても、彼女の役に立たない男でだけはいたくない、というところでは一致していた。

 その上に、オドザヤはカイエンの公式の「夫」であるエルネストから、去年、「愛しても、おのれの犯した罪ゆえに、妻からは永遠に愛されることのない夫」である彼の気持ちをも聞かされていたのだ。

「……今、このハウヤ帝国の敵は、まずは螺旋帝国。それに私を取り除いてフロレンティーノを皇帝にしたいベアトリア。そして、これは螺旋帝国の動きと関係があるのだろうけれど……」

 桔梗星団派。

 オドザヤはカイエンの実父である、先代大公アルウィンが若い頃から桔梗館で準備し、大公としての自分を佯死させるという手段で葬り去って作り上げた、この忌々しい団体のこともとっくにカイエンから教えられて知っていた。

「トリスタン王子のザイオンは、今回は静観するはずだわ。この縁談は向こうから持ってきたものだし、スキュラとの泥炭輸送販路の開拓も、もう望めない。スキュラは自治権さえも失い、ハウヤ帝国のフランコ公爵の領地になったのだもの」

 オドザヤはさくらんぼとオレンジを、ゆるいセリーであえた果物の皿の中の果物を、小さなそれ用のスプーンでかき回しながら、考え続けている様子だ。その間に、イベットが戻って来て、ウリセスの前に簡単なサンドイッチの皿と、果物の皿を並べてからお茶をカップに注ぎ始めた。ウリセスの昼飯がまだなのを気遣ったもので、この辺りの心配りでもイベットは今、地下牢に繋がれているかつてのオドザヤの腹心、カルメラよりも優れていた。

「あとで一応、お姉様の方へ問い合わせるし、きっとお姉様からこのことで秘密のお手紙が来ると思うけど、ウリセス、あなたの奥様の方は大公軍団で見張りを付けてくれるでしょうから、多分大丈夫よ」

 オドザヤがそう言うと、ウリセスは芳しい春らしい花の香りのする紅茶のカップへ伸ばしかけていた手をピタリと止めた。

「陛下、私は今日まで自分の妻を侮って油断しきっていたような愚かな男です。……しかし、妻のシンティアとは大公軍団とは違い、直に会って話ができます。私は、どこまで……その、妻と話したら良いのでしょうか」

 ああ、本当に俺は阿呆だ。

 ウリセス・モンドラゴンは忸怩たる思いで、自分よりも十も若い女皇帝の方をうかがった。今では彼の中で一番大切な位置にいる、この国の至高の存在の方を。

 オドザヤはもう迷いがなかった。

「普通にしていればいいわ。奥様も、多分ご自分からはお話にはならないと思うの。奥様への対応は、お姉様たちにお任せしたほうがいいでしょう。でも、奥様のところへこのところ急に出入りするようになった者などは、さりげなく調べて置いてもいいわね」

 オドザヤがここまで言うと、オドザヤの後ろに影のように控えていた女官長のコンスタンサが、初めて言葉を挟んで来た。

「親衛隊長様には、ご自分の課せられた職務を抜かりなく実行なさいませ。いざという時には、親衛隊長のあなた様は、バルコニーでのお披露目でも、金座での馬車でのパレードでも、皇帝陛下のお側にあって共に動く手筈なのですから、その身を以て陛下の安全を図られませい」

 この言葉には、オドザヤはともかくウリセスははっとした。

「恐らく、敵方はモンドラゴン子爵夫人を利用して何かことを図っておるはず。そちらの方は、大公殿下の方でご対応願えますでしょう。ですが、敵は幾重にも謀をしているやも知れませぬ。そもそも、敵とて一つではないのです」

 コンスタンサは、背筋を伸ばしたいつもの姿勢のまま、オドザヤの背後から小さな抑揚のない声で続けた。

「陛下のご成婚が無事に成り、トリスタン王子を迎えられたのちにご懐妊となれば、ベアトリアは必ず動きましょう。と言うことは、ベアトリアはご成婚自体を不首尾にしてしまえば、もっと時間が稼げるのです。フロレンティーノ皇子殿下を陛下の後継とさせ、このハウヤ帝国にベアトリアの影響力を及ぼすために」

 ウリセス・モンドラゴンは青緑色の目を瞬かせたが、オドザヤの方は落ち着いていた。

「そうね。マグダレーナ様の周りの動きには、もうずっと警戒をしているけれど、それを強化しておくに越したことはないわね」

 オドザヤはこの頃、皇宮の後宮には出入りしてさえいない。

 オドザヤの婚礼後も、後宮には先帝サウルの妾妃三人は残ることになっていた。

 通常ならば先帝の妾妃は離宮などに移り住むのだが、今のハウヤ帝国の情勢からそれは避けられた。

 第二妾妃のキルケの場合には、スキュラから帰って来た娘、先帝サウルの第三皇女、アルタマキアが皇女宮で、スキュラで無理やり結婚させられた二番目の夫のリュリュと共に暮らしていた。二人の仲はまだはっきりしないままのようだが、アルタマキアがすでにスキュラで婚姻をむずばされたことは公になっており、この状態で他の縁談を進めることは難しかった。ほとぼりを冷ます必要があったのだ。

 先帝サウルの唯一の皇子フロレンティーノの母である第三妾妃マグダレーナも、前述の二人の妾妃と同じく、皇子宮へ移ることなく、後宮に息子のフロレンティーノ皇子とともに残ることになっていた。

「陛下。後宮のマグダレーナ様の元には、陛下のご婚礼前に、ベアトリアのモンテサント伯爵ナザリオ殿の御目通り願いが出ております」

 コンスタンサは冷静にオドザヤにそう告げた。

「あら、そうなの」

 オドザヤの声には恐れる風はない。

「後宮への皇帝以外の男性の出入りは厳しいですから、マグダレーナ様に後宮の外の対面の間においでいただき、そこでのご対面となっております」

 そう言うコンスタンサの声には、「見張りはしっかりといたします」との意図が含まれていたから、オドザヤはコンスタンサに無言のままうなずいて見せた。

「陛下」

 その時、口を挟んだのは、それまで聞く一方に徹していたウリセス・モンドラゴンだった。

「我がモンドラゴン邸での動きは、これより戻って見て参ります。……その、マグダレーナ様とモンテサント伯爵との面会には、部屋の外よりコンスタンサ女官長と共に、私にお任せいただけないでしょうか」

 オドザヤは果物を食べ終わり、食後の紅茶を口に含みながらそれに答えた。

「いいでしょう。コンスタンサと二人なら、一人では気が付かないこともわかるかも知れないわ」

 オドザヤと共に、春の風味の紅茶を一口、二口、口に含んだウリセス・モンドラゴンは、もう立ち上がっていた。

「イベット。親衛隊長はお昼がまだでしょう。そこのサンドイッチを包んであげなさい」

 オドザヤはイベットの心遣いを無駄にしないよう、そう言うのも忘れなかった。こうした労りが、側仕えの者に対してどんな効果や影響を与えるのかも、オドザヤはもう、熟知していた。

「ウリセス。面倒をかけますが、慎重にね」

 オドザヤの最後の言葉は、もうオドザヤの食堂の扉の当たりまで進んでいたウリセスの背中に柔らかくぶつかって落ちた。

「は。本日の午後の職務は先へ回せるものですので、一旦、今すぐに家へ戻ろうと思います。妻は不思議がるかもしれませんが、陛下の婚礼が近付けばもう帰宅もおぼつかないから、とでも言えば済むことです」

 ウリセスがそう答えると、オドザヤは有るか無きかの微笑みをその美しすぎる花の盛りの顔に浮かべたが、もちろんそれはもう彼女に背を向けているウリセス・モンドラゴンには見えなかった。

「では、また明日にね、ウリセス」

 オドザヤのその言葉はもう、部屋を出ようとしていたウリセスの耳には届かなかった。







「マグダレーナ様、お久しゅうございます」

 ベアトリアの外交官、モンテサント伯爵ナザリオは、そう挨拶しながら、自分の長兄ラザロの妻だった故国の第一王女の前で膝をついた。

 マグダレーナはもうその肉感的で大柄な体を部屋の上段の椅子に置き、二歳になる息子のフロレンティーノ皇子を膝の上に載せて部屋の上段に座っており、皇子はご機嫌で笑い声を立てていた。もちろん、大公宮のリリエンスールのようには、普通の二歳児であるフロレンティーノは喋れない。彼の言葉はまだまだ喃語の域を出ないものだった。

 ベアトリアのサグラーティ公爵家の次男のナザリオは、今は母方のモンテサント伯爵を名乗っているが、死んだ兄ラザロの遺児、つまりは彼の甥が成人するまでの間は、もしかしたら実家のサグラーティ公爵家の当主を名乗る可能性も持った存在だった。

 久しいと言っても、彼ら二人は今年の一月の新年の宴で挨拶を交わしている。

 しかし、先帝サウルの第三妾妃となり、皇宮の後宮に納められたマグダレーナに会うことは、ベアトリア外交官の彼でも簡単なことではなかった。新年の宴での挨拶も、それはまさに「挨拶」だけの時間でしかなかった。

 オドザヤ以下のハウヤ帝国側の、先帝サウルの唯一の皇子フロレンティーノと、その母である第三妾妃マグダレーナへの皇帝オドザヤと宰相サヴォナローラの監視は厳しい。

 ベアトリア陣営では、オドザヤの即位の前に開かれた元老院大議会で、女帝反対派のモリーナ侯爵以下に働きかけ、議員定員の三分の一以上の署名を集めた議会召集の請願を行わせ、なんとかフロレンティーノ皇子をオドザヤの法定相続人にしようと試みたが、それは却下された形となった。

 フロレンティーノ皇子は、オドザヤの子が出来ても変わらない「法定相続人」ではなく、オドザヤに子が出来れば立場が変わってくる「推定相続人」と定められた。つまりはオドザヤに皇子が生まれれば、フロレンティーノの皇帝への道は永遠に閉ざされるのだ。

 今日、オドザヤとトリスタンの婚礼を数日後に控え、やっと許可のおりたマグダレーナとの面会である。

 おそらくは今、ここで話されるであろうことは全部、皇帝のオドザヤ側に筒抜けになるのだろう。そんなことはナザリオにも、マグダレーナにも分かっていた。

「今、この皇宮では皇帝陛下のご婚礼で大変なのですよ。私も、ご婚礼と同時にこの後宮から皇子宮へ引っ越すのです。そんな時に、何か取り急ぎ、私に伝えなければいけないことでもあると言うのですか」

 後宮のすぐ外にある「対面の間」の上段に座った先帝サウルの第三妾妃マグダレーナの言葉は、なるほどもっともなことだった。彼女はナザリオの訪問が意外だったのだろう、その声音には明らかな戸惑いがあった。

 それに対する、ベアトリアのモンテサント伯爵ナザリオの返答は、落ち着いていた。

「はあ、そのことならば私もしっかりと認識しております。私は故国ベアトリアの外交官。ご婚礼ではベアトリアからハウヤ帝国皇帝陛下のご結婚を言祝ぐという重要なお役目もございます」

「そう。それならば一層、聞きたいものね。今日ここへ私を訪ねてきた訳を」

 マグダレーナのなりは、今日も故国ベアトリア風のもので、五月にしては分厚い重厚な生地で作られた、赤柘榴色の胸のすぐ下で切り返しのあるドレスだった。胸元は開けているが、襟元はボタンで留めているという、変わった襟元が特徴的だ。

「はは。それはもう、マグダレーナ様、それにフロレンティーノ皇子殿下へのご機嫌伺い以外のなんでもございません。この度のオドザヤ皇帝陛下とザイオン第三王子トリスタン殿下とのご成婚、我らがベアトリアにも無視できぬ関係がございますれば」

 この言葉を聞くと、さしも豪気ではっきりした物言いが信条のマグダレーナも不審な表情になった。

 明らかにオドザヤ側の者が聞き耳を立てているだろうこの場所で、彼がそんなことを言い出した意図が計れなかったからだ。

 あのオドザヤの即位前にあった元老院第議会で、自国の将来を考えることもなく、ただただ男系相続で来た皇帝の存続のためにだけ動き、フロレンティーノ皇子を幼なすぎる皇帝として担ごうとした、愚かなモリーナ侯爵以下の陣営は、去年のうちに崩壊している。

 モリーナ侯爵の懐刀だった、モンドラゴン子爵など、この頃は皇帝のオドザヤとの親密な関係を疑われている始末だというのに。

「……ナザリオ、言葉に気を付けなさい。オドザヤ皇帝陛下の御即位前に行われた元老院第議会で、このフロレンティーノは陛下の推定相続人と定まりました。陛下にお子がお生まれになれば、それも皇子ご誕生となれば、このフロレンティーノにはもはやハウヤ帝国の相続人たる資格はなくなります。……そんなことはあなたにもよく分かっているはずなのに」

 マグダレーナの言葉は、この突然の元義弟の訪問の理由自体が分からない、とばかりに彼女には珍しく、弱々しくさえなった。 

 それをもっともだ、と言う顔でモンテサント伯爵ナザリオは聞いていた。

「それはもう、それに違いございません」

 彼はまず、マグダレーナの言葉を大げさな身振りとともに肯定してみせた。

「ですが、こう考えましたら分からぬとは思われませんか。オドザヤ皇帝陛下が今後、お生みになられる皇子皇女はザイオンのトリスタン王子殿下のお子となります。ザイオンとは先年、スキュラでのことでわだかまりが残ったまま。そうなれば、ザイオンの王子を父とする女系のオドザヤ陛下の皇子と、ベアトリア王女であられるマグダレーナ様がお生みになった先帝サウル陛下の直系である男系相続人のフロレンティーノ皇子殿下とでは、どちらが次代のハウヤ帝国の皇帝にふさわしいか。これは我らだけでなく、オドザヤ皇帝陛下を始めこの国の人々にも大きな問題となりましょう」

 ここまで聞くと、それまでナザリオの言うことを不審げに眉をひそめて聞いていたマグダレーナの表情がさっと厳しいものに変わった。

 彼女にも、ナザリオが今日やって来たことの意味がわかったのだ。

「ナザリオ! 控えよ!」

 マグダレーナはそう大声で叫ぶなり、対面の間の上段ですっくと立ち上がった。その腕に抱かれたフロレンティーノが、母の恐ろしい剣幕に驚き、べそをかきだすのを見て、マグダレーナの侍女がすぐにフロレンティーノを受け取って控えの間に帰っていく。

「確かに、フロレンティーノは先帝サウル陛下唯一の直系の男子。ですが、サウル陛下のご遺言にははっきりと次代の皇帝は第一皇女のオドザヤ様を、とあったのです。このハウヤ帝国の皇位の象徴である『星と太陽の指輪』も、フロレンティーノではなく、オドザヤ皇帝陛下と、カイエン大公殿下に受け継がれました。そして、この度、オドザヤ皇帝陛下のご成婚が成れば、もはや我が子フロレンティーノの出る幕などありはしません!」

 マグダレーナは、はっきりとそう言い切った。

 なるほど、モンテサント侯爵ナザリオの訪問は、彼女にオドザヤの目や耳のある場所でこの言葉を言わせるためだったのだ。

 と、なれば。

 マグダレーナは確信していた。

 ベアトリアは数日後のオドザヤとトリスタンとの婚礼に、何かを仕掛けるつもりなのだ。

 だが、そんなことはオドザヤの方でも、宰相も大将軍も、あの女大公も、予想済みだろう。

 その成功の確率の分からぬ仕掛けの結果から、ナザリオはマグダレーナとフロレンティーノの関わりを排除したいのだ。

 マグダレーナもナザリオもこんな一芝居は、まさに猿芝居であることは承知していた。

 だが、今のマグダレーナの言葉の有る無しは、婚礼の時に起こるだろう事件が成立した場合には有効になってくるだろう。マグダレーナは「自分は関係ない」と堂々と言えるのだ。

 そして、マグダレーナはナザリオ達の試みが、成功の確率の低いものであることも察していた。

 今日のこれは、用心の上に用心を重ね、いつか必ずフロレンティーノ皇子擁立の礎とするためのものであることも。

「ナザリオ、もうそなたのような危険な者とは話したくない。そなたもそののぼせた頭を冷やすがよい」

 そう言い放つと、もうマグダレーナは踵を返していた。

「愚かなことを! あのような者が我が祖国の代表だとは。この皇宮におる私とフロレンティーノを危機に陥れるような行いと言動を見せるなど、気が違ったとしか思えぬ!」

 マグダレーナは対面の間を出るまでそんなことをつぶやき続けたが、対面の間に向かって聞き耳を立てていた、コンスタンサとウリセス・モンドラゴンは、苦虫をかみつぶしたような表情で顔を見合わせるしかなかった。







 そして、六月。

 二年前のオドザヤの即位の記念日に合わせて、彼女とザイオン王子トリスタンとの婚礼の幕が開かれたのだった。

 アストロナータ大神官ロドリゴ・エデンと、海神オセアニアの大神官マリアーノが執り行う結婚式は、皇宮の広大な海神宮の大広間で行われることとなっていた。

 そこには男爵以上の爵位の貴族達が招かれ、海神宮は人でいっぱいとなった。それは、同じこの場所で、当事者の二人を含めてもたった六人で行われた、大公カイエンの「婚姻契約式」とでも言うしかなかったシロモノとはまったく違っていた。

 海神宮の中いっぱいに収まった貴族達。

 六月のやや暑ささえ感じられるこの日にあっては、それは人熱ひといきれでむんむんとして感じられるほどだった。

 大公のカイエンとエルネストの大公夫妻、領地から戻ったクリストラ公爵ヘクトルと夫人のミルドラ、それに北の領地から駆けつけたフランコ公爵テオドロとデボラ夫人は新郎新婦の登場するだろう上段の間のすぐ下に、身分の順に並んでいた。

 そのすぐそばには、三人の先帝サウルの妾妃とスキュラから戻ったアルタマキア皇女の姿もあった。さすがにアルタマキアにくっついて来た、マトゥサレン島のリュリュの姿はない。

 海神宮の外で角笛が吹き鳴らされ、皇帝の結婚式の始まりが知らされる。

 その音とともに、大公のカイエンから、末端の男爵家の当主夫妻までが一切の動きを止め、声も咳も慎む中。

 侍従の口上と共に、海神宮の上段へ静々と現れたのは、光り輝くような一対の男女の姿だった。

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