麒麟の意志が無邪気なる賢者たちへ届けられる

 その部屋は、だだっ広かった。

 天井も高く、その天井にはやや抑えた色合いながらも、四つの神獣の絡み合う絵が描かれている。本来ならば青、朱、白、黒の華やかというよりはきつく強い色合いで描かれることの多いものだ。そして、天井にこの絵柄の描かれた部屋を使えるものは、この国にたった一人だけ。

 一人の螺旋帝国風のゆったりした衣を着た男が、部屋の一番奥の壁を背にして座っていたが、その背後の壁に壁一面に描かれているのは、瑞獣の中でも優れた君主がこの世に出現すると現れるという、「麒麟」を描いたものだった。

 この部屋の中で、その麒麟の絵だけが真新しい。

 それを背にした男の衣服は、彼の身分からすれば「質素」とでも言うべきもので、絹地ではあるようだったがその色は地味だ。織り込まれた文様にも、金糸銀糸の入った部分は少なかった。

 ただ、彼の右手の人差し指に鈍く光るものだけが例外だった。

 ぐるりと菊石アンモナイトのような捻れた螺旋状の円形をなす紋様が彫り込まれた、鈍い金色の、太い指輪。

 そこには、色の、血の色か地獄の業火かなんかを思わせる、石榴石が嵌っていた。 

 それだけが重たげで、いかにも皇帝の指にふさわしいものに見えた。

 彼の座っている椅子は間違いなく彼が滅ぼしたこの国の前の「王朝」、「冬」の皇帝が座っていたものだった。なので彼の地味ななりと、座っている絢爛豪華な黒檀に金銀の象嵌の施された椅子との間にはそこはかとない違和感が存在していた。だが、彼にそれを気にする感じはない。

 彼の顔は、彼の後ろにいくつものランプの光源があることもあって、定かではない。そもそも、ランプは彼の前にいる男の様子を、皇帝である彼がしっかりと認めるためにあったのだ。

 ただ、体つきは大きくなく、人民を率いてこの皇帝の宮殿に押し寄せた、かつての「革命軍」の首魁としては物足りない平凡さだった、とでも後の世の歴史家は書くのかもしれない。

 彼は新しい支配者として、この皇帝の宮殿に入ったが、革命の際に燃えた宮殿をそのままに再建することなく片付けたのちは、ごくごく一部をのぞいて彼はそこをそのままの形で使用していた。彼の行った革命の性格上、彼はそれまでのこの国の王朝の皇帝と同じような、奢侈を尽くした生活をすること、そしてそれを人民に知られるような危険を犯すことは出来なかったからだ。

 その、螺旋帝国「青」皇帝、ヒョウ 革偉カクイの前に、跪くこともなくこっちはやや質素なものながら、椅子を与えられて座っている男は、この螺旋帝国では珍しい紺色の髪を、螺旋帝国では成人男性なら通常、結っているはずの髪を、結うことなくそのままに肩から背中にかかるあたりに散らしている。

 着ている衣服が螺旋帝国風なので、普通ならその様子はちぐはぐに見えるはずだったが、彼がその服を見事に着こなしていたので、違和感は異国情緒あふれる彼のこなれた印象の中にきれいに隠されてしまっていた。

 顔は青白く、螺旋帝国人と比べると彫りの深い面立ちは、パナメリゴ大陸の西側、シイナドラドよりも西方から来た人であることを知らせていた。

 この螺旋帝国やその西側の諸国でも、彼の顔は等しく「天来神アストロナータの神像のよう」と形容された。アストロナータ信教の布教されていない国など、このパナメリゴ大陸の東側でもほとんどない。

「シイナドラドの首都、ホヤ・デ・セレンが封鎖されたことは、もうご存知でございましょう。あれを破って皇王宮の表の正殿にあります、皇王宮大図書館に入るには、いま少しの時間がかかりそうです。私としたことが、どうやらあの一見とぼけた皇王バウティスタをたぶらかしていたつもりが、逆に謀られていたようでございまして……あれは暗愚を装った芝居だったと今は分かりました。情けないことですが、利用されていたのは私の方だったようでございます。私がハーマポスタール大公だった時、第二皇子を秘密裡にハウヤ帝国へ寄越したくらいでしたから、さすがの私もきれいに騙されました……息子の方は今やすっかりあの子に骨抜きにされておりますしね」

 西から来た男はそう言いはしたが、その声にも態度にも申し訳ない、面目無い、といった色は全然、見えない。

 そして、言葉の最後の方は独り言のような囁きだったので、皇帝馮ヒョウ 革偉カクイには、聞き取れなかった。だが、ヒョウ 革偉カクイは些細なことより、話を先に進める方を選んだようだ。

「……チェマリ殿、策士、策におぼれると言うのは、本当らしいな。向こうにやっている将軍からの報告の書状でも時間がかかりそうだ、と言ってきた。あくまでもシイナドラドのザイオン系反乱軍の手でやらさねばならず、我が国の軍隊を表に出すわけにはいかないゆえ、歯がゆいことである、ともあったな」

 異国人の、一国の皇帝に向かって話しているとは思えない、丁寧だがどこか物事を他人事のように上から目線で見ているような話し方に驚きもせず、皇帝はやや皮肉の滲んだものではあったが、普通の声音で答えた。

 それどころか、皇帝は相手の異国人に椅子を与え、あまつさえ彼の呼び名に「殿」という言葉を付けて呼んでいるのだ。

 その部屋には、この螺旋帝国の皇帝のヒョウ 革偉カクイ以外、今、チェマリと呼ばれた男以外には誰もいない。本来ならば、皇帝の周囲に人影がないなど、ありえないことだった。

 同じことは、チェマリ……それはもちろん、現ハーマポスタール大公カイエンの父親である、アルウィンだった……の方も同じだった。いつでもどこでも彼から離れることのない、あのアルベルト・グスマンはこの皇帝の御座所の外の回廊のあたりで待たされているはずだった。

「ああ。でもそれも時間さえかければ解決する問題です。革命後の政権を維持する効果的な政治的手法について論じられた本さえ手に入れば、でしょう?」

 チェマリ、つまりはアルウィンの言うことを聞けば、馮 革偉の起こした革命が、彼の師匠筋で女流詩人のシュウ 暁敏ギョウビンがシイナドラドの夏の侯爵マルケス・デ・エスティオの館から持ち出した革命理論の書かれた書物に沿って行われたという事実が見えてくる。

「そうだな。時間さえかければ、ホヤ・デ・セレンの封鎖を破り、皇王宮へ入ることに問題はあるまい。だがそれにしても、革命後の政治手法を書いた書物というのが、街ごと封鎖し、一切の出入りを絶ってまで我々に知られたくないものだったとはな」 

 そう言う、馮 革偉の表情は明かりを背景にしているので見えない。だが、その声音にはやや焦燥感があった。

 チェマリも馮 革偉も、ハーマポスタールでエルネストがカイエンたちに話した、「石碑の森ボスケ・デ・ラピダ」のことは知らない。だから、彼らが目指しているのはあくまでも皇王宮の大図書館なのだった。

「ところで、チェマリ殿。西のあなたの故郷ハウヤ帝国のハーマポスタールやら、スキュラ、ザイオン、ベアトリア辺りへの工作はうまく行っているのかな?」

 この質問には、チェマリはじんわりとした微笑みでもって答えた。

「ハウヤ帝国の帝都ハーマポスタールでの工作や、スキュラへの工作は上手くいきましたよ。ザイオンを焚き付けて、スキュラとの間の大森林地帯に石炭や泥炭の販路を開拓する、と見せかけ、その一方で私の手の者が元首のエサイアスの妻、マトゥサレン島出身のイローナに接触し、わざと販路開拓を待たずにハウヤ帝国との間でことを起こさせたのです」

「つまり、ザイオンはあなた方、桔梗星団派に騙された、と言うことだったか」

 馮 革偉の声は低い。そこには、目の前の男を完全には信用していない、という昏さがあった。

「はい。我ら桔梗星団派の狙いはあくまでもハウヤ帝国です。ザイオンに南下されても厄介ですし。……スキュラでの冬を挟んでのにらみ合い、その指揮をとるのは北に領地と大城を持つ、フランコ公爵になるだろうとは、地理上からも想像できておりました。そして、冬越しの派兵となれば、その係りも馬鹿にできません。秋のうちにスキュラへハウヤ帝国軍が入っていれば、周辺諸国にとってはかなり剣呑な事態となっていたでしょう。皇女の奪還よりもハウヤ帝国への裏切りは許さない、ハウヤ帝国に楯突く国は滅ぼしにかかる、という意味に取られたでしょうから。それはそれでよかった。だが、さすがにまだ十九、二十歳の女皇帝でも、周りの意見はちゃんと聞く耳がありました」

「ハウヤ帝国は、春まで待ち、内部の泥炭業者を取り込んで人質となっていた皇女を奪還。女王を僭称していたイローナは実家のマトゥサレン島の大惣領と一緒に処刑されたのだったな」

 チェマリは張り付いたような微笑みを浮かべたまま、螺旋帝国の皇帝の顔を見た。

「はい。私どもも、自然現象までは計算できませんが、空を真っ赤に燃え上がらせて、大森林地帯に隕石メテオリトが落ちたそうで。それをスキュラの民衆はイローナ達の悪行のせいであると思ったのしょう。陛下にはよくお分かりでしょうが、無知な民衆というのは天からもたらされる災害を為政者のせいにして、不安を消し去ろうとするのです」

「それで? チェマリ殿の狙いとやらの方は、どうなったのかな?」

 チェマリは灰色の、娘のカイエンと同じ色でありながら、輝きの薄い磨りガラスのような質感の目を、皇帝の姿の背景にある、麒麟の壁画へ向けていた。

「私どもの狙いは、ハーマポスタールの皇帝達が、フランコ公爵をどう遇するか、という事でした。かかった軍費を支払って済ますのか、ただ、ご苦労様、と言葉だけで済ますのか。そして、北へフランコ公爵に付けて派遣していた、サウリオアルマをどうするか、という点もです。我々は単なる論功恩賞ではフランコ公爵にわだかまりが残るだろう、いや、残るように持って行こうと工作していたのですが……」

 ここまで話すと、チェマリの顔から微笑が消えた。

「あの娘ども、女皇帝と女大公どもの対応は我らの予想を超えて素早く、そして思い切りが良かったのです。なるほど、二十年もハーマポスタールへ上がって来なかったバンデラス公爵を笑って南の領地へ送り出した辺りで我々は気が付くべきでした。まあ、念のためにバンデラス公爵には死んでもらう予定でしたが、それも悟られてしまって失敗に終わりました。結果的に、女皇帝らは三大公爵を所領に返して、所領を守ると同時にハウヤ帝国の国境線も守らせ、そして軍功のあったフランコ公爵へはスキュラ全域の支配を命じたのですから。あのハーマポスタールの娘どもは、もう、とっくに私どもの狙いに気が付いていたのでしょう。我らの狙いはハウヤ帝国の内からの崩壊を誘うことであることに」

 このチェマリの言葉には、それまで落ち着いた様子を貫いていた馮 革偉も驚いたようだった。

「なんだと?」

「大将軍エミリオ・ザラ、宰相サヴォナローラ。あの者達は私を知っています。それも、私の思っていた以上に深いところまで見通していたようです。……ハウヤ帝国は大公と三大公爵の支配領域、それに四つのアルマを関連づけてしまおうとしているのでしょう。内側から帝国が崩れていくのを止められなくとも、四つに分断することによって、連合国家として生き残ろうとしているのです」

「まさか……そこまで」

 チェマリはなおも皇帝の背後の麒麟の壁画を眺めているように見えた。

「あの娘どもは意識しているのかいないのか。まあ、こちらとしては帝国の分裂でも構いはしません。そこまで持っていく間にいくらでも出来る事はあります。ザイオンはスキュラへハウヤ帝国の手が伸びた格好になりましたから、皇帝オドザヤの皇配として第三王子のトリスタンを人質同然に差し出した格好になってしまいました。ベアトリアは先帝サウルの第三妾妃である、自国の第一王女マグダレーナの産んだフロレンティーノ皇子へのハウヤ帝国の皇位継承を諦めてはいないでしょう。これらを勘定に入れつつ、帝都内部にじわじわと真っ黒なインクを流し込んでいけば、そうそうおきれいに事は進みますまい」

 馮 革偉は、もう落ち着きを取り戻したようだった。

「ああ。ハーマポスタールにチェマリ殿が残してきたという連中に、不満分子との接触をさせる、とか言っていたあれのことか」

 チェマリの言葉は明快だった。

「はい。ハーマポスタールの市民たちに不安の種をばらまくために残してきた奴らですが、本業はこれからです」

「ほう」

「そろそろ、自分たちを『賢者の群れグルポ・サビオス』などと名乗っている、あの商人のおぼっちゃま方にもっと組織化してもらう時期に来たようです。……陛下がこの国で革命を起こす前になさっていたように、ね」

 チェマリのその言葉を聞くと、馮 革偉は静かに笑い声をたてた。

「これ、我を金太りした商人の道楽息子どもと一緒にするでない。チェマリ殿の言でも、許せるものと許せないものがあるぞ。……我は学究の徒だった。まあ、最終的には商人どもも利用したが」

 螺旋帝国皇帝、馮 革偉はあまり健康的とは言い難い苦笑いを含んだ声で、最後にこう言った。

「我は国取りには成功したが、その後、その取り込んで利用した大商人どもの扱いに苦慮しておる。奴らが肥え太ったままでは皇帝が変わっただけで、人民達の生活は良くなっていかぬ。だが、あの商人どもが流通させている物品や、交易なしには国は成り立たんのだ。中央集権制の弊害は一旦、革命によって解除できたが、また旧来の問題が持ち上がる事は間違いない。西の国々のような分権的封建制度を取り入れるのはこの国ではもっと危険だ。こんなところで迷っていては、……我の最後の望みに手が届かぬまま終わってしまうわ」

 チェマリは馮 革偉の最終的な望みを知っていた。

 この螺旋帝国では、馮 革偉の側近中の側近である、革命の同志達で形成された人々の誰も知らないことを。

 だからこそ、今こうして、皇帝の側近もおらぬ部屋で皇帝と一対一で話ができるのだ。

「陛下の最後の望みは、私の望みと同じ。今はそのための第一段階が終わったにすぎません。シイナドラドの封鎖を解き、彼の国の秘密をすべて手に入れれば、先の見通しも明るくなるでしょう。同時に、西側の国々を戦乱の渦の中に投じ、この大陸の東側では螺旋帝国の版図を広げることが肝要なこと。私どもの最後の望みを知らずとも、そこまでは陛下の『革命の同志』の方々も意を唱えることはありますまい」

 チェマリがそう言い切ると、もう馮 革偉は何も言わなかった。

 彼ら二人の頭の中で、同じように描かれていた未来の世界は、同じ色をしていた。

 真っ赤な。

 炎に灼かれる世界。

 ……貴女と共に、太陽の黄金の階段を昇って参りましょう。

 それは、ザイオンに派遣された、馮 革偉の使者が、女王チューラに伝えた言葉。

 だが、どうしてかあの、当時はまだ女王の愛人だった、シリル・ダヴィッド子爵が知っていたように。

 その言葉には、続きがあった。


 ……そして、焼き尽くしてしまいましょう。この大地にあるすべての思い出を焼き尽くしてしまいましょう。……私が次にここを訪れても、何処だかわからないように。何も残すな、何も忘れてくるな。火焔よ焼き尽くせ……私が悲しまないように……。

 焼き尽くされた炎の野原に、ただ一匹、佇む鳥の名前。

 それは燃え残りの熾火おきびから蘇った鳥。

 火の鳥。

 それは、世界が燃え尽きた後、火の鳥だけが蘇って世界を天空高くから睥睨へいげいする、真っ赤に彩られた世界だった。







「陛下の御成婚に向けてのこの忙しい時期に、なんでこんなことをしなくちゃならんのだ。するなら勝手にしろ。別に私が見ている必要なんかないだろう」

 それは、もうすぐ六月の朝のことで、場所は大公宮裏の中庭だった。カイエンたち以外に人気はない。

 オドザヤとトリスタンの婚礼も近いある日のことで、とてもではないが、今から行われようとしているような「馬鹿げたこと」に使う時間など、大公軍団の誰一人にもあるはずがないという時期だった。

 だから、カイエンがそう言ったのはもっともすぎるほどもっともなことで、横に控えている護衛騎士のシーヴも内心ではカイエン同様に呆れていた。

「確かに去年から、イリヤがそんなことを言っているのは聞いた覚えもあるが、もう、あれから随分経つだろう。もう、忘れたと思ってた」

 カイエンは大公宮の奥殿から出たところにある、古い修道院跡の庭の木陰に椅子を持ってきてもらって座っていた。後ろには彼女の護衛騎士のシーヴが、なんとも形容しがたい表情で突っ立っていた。

 彼女の前では、この大公宮でも変わり者と言えばこの二人、とでも言いたい二人の男が、刃を潰した練習用の大剣を構えて向き合っていた。

 名前をはっきり言えば、それはカイエンの形ばかりの夫のエルネストと、第三の男のイリヤの二人である。そして、審判役を買って出たのが、あろうことかヴァイロンなのだった。 

 事の始まりは、去年のあの、ザイオン外交官官邸での仮面舞踏会マスカラーダで、イリヤがふっと思いついて言った一言に遡る。

「シイナドラド国軍の士官学校で講義も訓練も一通りやってるぜ。地方の小競り合いに出て行ったことならある。まあ、こんなんじゃ、一人前の戦士でござい、とは言えねえけどな。あの狼男ガラにはがっつりやられたし。だが、こっちに来てからも、体が鈍らない程度にはヘルマン相手に鍛錬しているよ」

 と言ったエルネストに対して、イリヤが言ったこの一言だ。   

「じゃあ、俺っちのお腹の傷が治ったら、一回、お手合わせ願いましょ」

 それが、伸びに伸びて一年以上経った挙句に、このオドザヤの婚礼のための市内警備で大忙しの日に蒸し返されたのだ。

 それは、この大公宮では、後宮に匿われていたアルフォンシーナが自立してシリルのアパルタメントの隣の部屋へ引っ越してから、暇に暇を重ねていたエルネストが、イリヤとカイエンの「朝帰り」に出くわしてしまったからなのだった。


 この一年あまり、カイエンは自分でも信じられないことだが、ヴァイロンとイリヤの男二人との関係をさしたる問題もなく両立させて来てしまっていた。それには三人ともにそれなりの気遣いも必要で、気疲れも感じることはあったが、争い事が起こるようなことなはなかった。

 まあ、カイエン以外の二人の心の底は知れていた。

 もちろん、それはカイエンを一人で独占することだ。だが、それは彼ら三人が全員生きている間は無理な相談だ、ということは彼ら三人全員が分かっていた。

 カイエンとしては、十八の時に先帝サウルの命令で、ヴァイロンを男妾として迎えさせられるまでは、恋にも男にも、さしたる興味はないまま成長していた。生まれつき蟲が体内にいることで、健康的とは言えなかったし、政略結婚はするかも知れないがどうせ子供は産めやしないのだから、と恋愛に関しては心も体も諦めというか、自分には関係ないことだと思い込んでいた。

 それが、ヴァイロンとの関係を始めさせられ、シイナドラドでのエルネストとの苦い経験を乗り越え、イリヤの死を目の前にして自覚したのが初めての恋心だったという訳だ。

 その頃にはもう、ヴァイロンとの間には切っても切れない絆が出来上がっており、ヴァイロンの方も彼にしてみればカイエンは生涯一人の番の相手だったから、カイエンはイリヤと男女の仲になったのちも、ヴァイロンとはイリヤの部屋に泊まる日以外は一緒の寝台に寝ていた。

 世間的にみれば、女大公が男二人を振り回しているように見えたであろうが、本人達は見かけ上はかなりあっけらかんと割り切っていた。カイエンにはどちらか一方を選ぶことは出来そうになかったから。

 カイエンが意外だったのは、イリヤだけでなく、ヴァイロンもが同じように割り切ってくれたことだった。ヴァイロンに言わせれば、彼の唯一であるカイエンが選んだ男なのだから、イリヤもまたカイエンの一部、とでも言った認識でもって強引に処理したらしい。

 だから、カイエンとヴァイロン、それにイリヤはもちろん、逢瀬のかち合うようなことがないよう、気を遣ってはいたが、一人一人はもうそれは人生の一部、と感じていた。誰もが相手を独占できない関係ではあったが、それだけにヴァイロンは別として、カイエンとイリヤには気楽な部分もあった。

 ここで、一人割り切れていないのが、カイエンと一方的なものではあったとしても肉体関係がありながら、そして、正式な夫でありながら、シイナドラドでのことが重い枷となって、カイエンの側にも寄れないエルネストだったのだ。

 カイエンにとってのエルネストは今はそれなりにその存在には慣れたものの、夫として枕を共にするには大いに問題のある相手だった。シイナドラドで彼に一方的に苛まれたことを別にしても、彼との間には妊娠と流産という決して忘れる事のできない事実が横たわっていた。エルネストと寝るということは、普通に考えれば同じ悲劇が繰り返される危険が大いにある、ということなのだ。

 それは実はエルネストの方も同じで、リリを「半分は生まれてくる事のできなかった自分の娘」であると信じてかわいがっているところからしても、二度とそんな「子供」をカイエンに懐胎させたくはなかった。

 だからと言って、エルネストのカイエンの心と肉体への執着が消えるわけではなかった。

 イリヤの宿舎の方から、杖をついていない右手をイリヤの腕に絡めて、なんとも楽しそうに喋り合いながらカイエンが来るのを見てしまったエルネストは、当然、面白くなかった。その日に限って、いつもは昼近くまで寝ているはずのエルネストは早起きしてしまい、仕方なく一人、大公宮の庭園を散策していたのだ。

 ばったり庭園の中で出会ってしまった三人は、どきりとはしたが、どうでもいい世間話でもするか、いっそ目を伏せて左右に別れるべきだったのだ。

 だが。

 それには男二人共にかわいげが足りなかった。

 エルネストとイリヤは、互いに半分面白がりながら嫌味の応酬から皮肉の合戦、最後にはどうでもいいことで口論を始め、それは最終的に「いつぞやの話を実行して、どっちの腕が確かか確かめようじゃないか」という、カイエンには意味不明な方向へ向かってしまったのだ。

 カイエンはもちろん、「この忙しい時期に何を馬鹿なことを言っておるのだ」と止めたのだが、この変わった男二人は完全に面白がってしまっていた。イリヤの方は最近、忙しかったから息抜きでもしたかったのだろう。そして、エルネストの方は、自分だけが暇を持て余している、同じように終わる毎日にとことん嫌気がさしていたのだ。


「お前らおかしいぞ。そんな帝都防衛部隊の訓練用の大剣まで持ち出して! ヴァイロン、ヘルマン、お前らなら止められるだろう。この忙しい時に、こんな馬鹿げたことを始めることはないだろう?」

 カイエンは眼前で、それぞれにやる気満々な男二人を見据え、最後の良識をヴァイロンとエルネストの侍従のヘルマンに求めたのだが、それに対する返答は彼女を奈落の底へ落とすようなものだった。

「イリヤは前から皇子殿下と手合わせしたいと言っていました。皇子殿下も拒絶の言葉はおっしゃいませんでした。私としてはこういう形での発散も必要かと思います。カイエン様には未知の世界かと思いますが、こう言った行為で決着がつけば、それ以降は共に戦う戦友となることも、まま、あるのです」

「申し訳ございません。こればかりは一度は決着をつけておくべきかと存じます」

 こいつら二人は戦友じゃねえよ。

 カイエンはエルネストとイリヤを見比べながら思った。こいつらが戦友になる日なんか来るわけないだろ、とも。

 ヴァイロンは遠回しに言ったが、ヘルマンの言ったことから、「これが男同士のカタの付け方です」と二人が言おうとしていることはカイエンも理解していた。もしかしたらヴァイロン自身もエルネストやイリヤと、こんな形でカタをつけたかったのかも知れない。 

 だが、それには獣人の血を引くヴァイロンは強すぎたのだ。

 カイエンがそう思ってる間にも、ヴァイロンは二人の「決闘」だか、「力比べ」だかの進行を進めて行ってしまっていた。

「おい!」

 カイエンはなおも叫んだが、これには背後のシーヴがカイエンの肩に手を置いて、ふるふると首を振って見せた。

「殿下、もうダメです。殿下のせいじゃないですけど、俺にも、これは一度は通る道なんだと思えてきました」

 思えてきました。

 カイエンは瞠目した。賢明なはずのシーヴまでもがそんな言葉を吐いて、納得しかけているとは。

「構え!」

 カイエンが呆然としている間にも、彼女の座っている木陰の前では、ヴァイロンの掛け声で、エルネストとイリヤが、二人ともにこれ以上面白いことはない、という顔で大剣を構えた。

 大剣は重い。それでもこれが大公軍団で採用されているのは、それが細い剣よりも「剣の平でぶっ叩く」ことや、相手を押しのける場合に優れているからだ。特に治安維持部隊では、相手を殺すよりも捕えることに重点を置いている。

 それでも支給品にはいくつか種類があり、重量も違う。

 女性隊員は剣技の修練度に応じて、細い剣も選べるようになっていた。治安維持部隊の方の剣の用途といえば、まずは相手の動きを止めることだ。その点から言えば、実のところ剣での戦いでは「突き」技が一番効果がある。

 去年の一月のイリヤの暗殺未遂事件を思い出すまでもなく、体重を乗せた刺し傷というものは内臓に達しやすく、死傷率が高い。手足に刺さったとしても、傷は切り傷よりもはるかに深い。

 下手な切り傷を危険な相手に追わせて反撃されるより、大公軍団では隊員自身と周りの市民を守る剣の使い方を教えていた。

 危険人物の前では、自分を守れなければ、周囲の市民たちも守れないからだ。それに、同じ人物と二度見えることは少ないから、大公軍団では「まずは、一つの技を完璧に会得せよ」と教えていた。

 それ以前に、「決して一人で立ち向かうな。常に集団でかかれ。仕方なく一対一になった時には、習得した技を使え」とも。

 エルネストもイリヤも、一番重い大剣を選んだようだが、二人とも持っていて重そうには全然、見えない。だがそれはきっと、カイエンが持ち上げたら脇に挟むようにして構えるしかないほどの重量だろう。

 二人ともに上段に構えるような性格ではないので、その剣先は油断ならない、相手の動きに対応して切り返しのしやすい型だ。それくらいは武術とはてんで無縁のカイエンにもわかった。

 この日までカイエンは、イリヤもエルネストもかなり背が高いな、とは思っていたが、体格がほとんど同じであることにはこの日初めて気が付いた。

「始め!」 

 ヴァイロンがそう言うのと同時に、二人は共に喜々とした表情で、相手の方へ体ごと突っ込んで行く。

 練習用の刃を潰した剣といっても、その重さは普通の大剣と同じだ。重いきり頭へでも振り下ろせば、十分な殺傷能力がある。

 だから、大公軍団の訓練では木剣が使われていたし、こうした刃を潰した剣を使うのは、主にその重量と取り回し方を体に叩き込むためだった。

 帝国軍の訓練の模擬戦なら、盾を持ち、剣は片手で扱うが、大公軍団では盾を用いるのは相手の人数が多い時だけで、一人一人の隊員は盾を常備していない。その代わりに市内の建物の影やら、店の前に置かれた立て看板だのを盾がわりに使う訓練がなされている。

 今日の二人の手合わせには、その、盾がない。

 エルネストの方は、身分からして馬上で剣を振るう騎士としての訓練を多く受けていただろう。そう言う意味では、この勝負はイリヤの方に分があったのかもしれなかった。

 ガキン、とまずは二人の剣が噛み合うのを、少なくともカイエンは予想していた。

 だが、この二人にはそんな素直な戦法は、はなから無かったらしい。

 イリヤは迷わず、右目のないエルネストの右側に回った。相手の死角へ入ったのだ。

 そして、エルネストの方は、剣を下げるとまっすぐにイリヤの足元を払った。卑怯なようだが、足を剣で払われたらすねを切られて膝をつくか、倒れるかだ。そこまで深く入らずとも、足元はかなりおぼつかなくなるだろう。

「うっわ、さすがに卑怯な手でもなんでも使ってくるねえ!」

 イリヤは自分のことはきれいに棚に上げて、うれしそうにそんなことを言いながら、エルネストの右側へもう回り込んでいた。エルネストの剣はすんでのところで庭の下草を切り裂いた。

 その間にイリヤは大剣でエルネストの脇を叩こうとしたが、エルネストの方も、イリヤが右側へ回って来ることは予測済みだったらしい。彼はイリヤの足を払うようにした剣先を素早く引き戻すと、見えない右側へ向かって顔を向ける時間もかけずに、自分の脇から繰り出すようにして鋭い突きを入れた。

「ああっ」

 エルネストの突きは体の回転を利用した、凄まじいまでの速さと、そして重さを秘めていて、見つめるカイエンとシーヴは思わず声を上げてしまった。

 一瞬、エルネストの突きを受け止めたイリヤの剣とエルネストの突き入れた剣先が嫌な音を立てて擦り合わされた。

 だが、エルネストが体を回転させて突きを入れた右側を左目の視界に入れた時には、もうイリヤはそこにはいなかった。

「ちっ」

 剣技のことなど何もわからないカイエンには、二人が示し合わせて剣舞でも舞っているように見えた。

 だが、次の瞬間には二人の刃はがっきりと正面から噛み合わさっていた。

「へっ、伊達男のくせに腕力があるじゃねえか」

 エルネストがそう言えば、ぎりぎりと大剣を押しながら、イリヤが答える。

「侍従さんと訓練してるだけの皇子様と違いましてー。俺は毎日が緊張の日々ですからぁ〜」

 そのまま、しばらく押し合っていた二人だったが、もう埒があかないと思ったのか、互いに思い切り相手を押しのけると、距離をとった。

 ……ように見えた。

「エルネスト様!」 

 それまで黙って見ていたヘルマンの喉から、そんな声が上がった時。

 イリヤはエルネストの力で押しやられた大剣の勢いを止めると、地面に向かって大剣を持つ両手を離してしまっていた。

 イリヤの剣は庭の芝生の上に突き立っている。

 エルネストの方は、大剣を持ったままだ。それも、イリヤに押しのけられた勢いのまま、重心が後ろに下がった体勢で踏みとどまろうとしていた。

 そこへ、イリヤの黒い大公軍団の制服姿が、切れ込みの入った長い上着の裾を左右に泳がせて殺到していく。

 エルネストはなんとか剣先を正面に向けようとしたが、剣を持ったままだから体の重心はどうしても後ろへ傾いていった。その体勢からはすぐに突き技には出られない。

 それでも剣を振り下ろしたエルネストの技量は大したものだっただろう。

 だが、もうその時には、大剣を捨てて身軽になったイリヤは一気にエルネストの間合いの中深く、懐の中まで肉迫していた。

 振り下ろされた刃を肩すれすれでかわすと、イリヤはエルネストの鳩尾みぞおちに右拳を打ち込む。同時に左手でエルネストの剣を持った手首を押さえた。どういう加減か、押さえ方にコツがあるのだろう。エルネストの手から大剣が滑り落ちる。

「勝負あり」

 ヴァイロンのまったく感情の感じられない声が断するまでもなく、エルネストの手から大剣は落ち、彼はイリヤに押し倒されて地面に転がされてしまっていた。

 ヴァイロンの声が聞こえなかったのか、それとも聞く気が無かったのか、イリヤは倒れたエルネストの上へのしかかると、容赦無くエルネストの喉元を指先で撫でた、ように見えた。

「エルネスト様!」

 ヘルマンが駆け寄ると、さすがにイリヤもエルネストから手を離したが、エルネストはしばらく呼吸を止められて喉を押さえて悶絶することとなった。

 カイエンは立ち上がったイリヤの表情を見て、冷や水を頭から浴びせられたような恐怖を感じた。

 イリヤはもう、笑ってはいなかった。何の表情もない顔。そんな表情のイリヤは、どの神殿のどの神像よりも硬質で、厳しい印象を見せていた。いつもの美貌の悪魔のようなにやけた様子とは大違いだ。

 実はカイエンはそんなイリヤの顔を、最近、何度か見たことがあった。それは、捕まえた凶悪犯、それもなかなか口を割らない難物を自らの手を血で染めて尋問している時の顔だった。

 俺に従わねば殺す。

 俺をこれ以上怒らせるな。そうなったらもう俺は自分で自分を止められなくなるぞ。

 それは、そういう顔だった。実は、前の大公軍団軍団長のアルベルト・グスマンがイリヤを気に入ったのは、イリヤのこの顔を見たからだったと知ったら、カイエンは納得できただろうか。

 カイエンとの関係の出来る前のイリヤは、この顔をカイエンに決して見せることはなかった。それをカイエンに見せたのは、二人の関係が出来上がった後の事だった。

 もしかしたらヴァイロンにも、エルネストにも、シーヴにも同じだったのかもしれない。だが今、彼はここにいる顔ぶれの前で自分のその「顔」を隠す気持ちはないようだった。

「弱っちいな、皇子様は。そんな腕じゃ、まだあんたのしなきゃならない使命とやらは無理だぜ? もうしばらくはここにいるんだろ。なら、このハーマポスタールにいるうちにもっと強くなりな」

 イリヤの言葉はいつもの場末のオカマのような言葉遣いではなく、それだけに周囲にいやが応にも異様さと恐怖とを感じさせた。

「あんたこの二年、毎日、暇で暇でしょうがない、って感じだっただろ? あんたは暇じゃないよ。そんなに弱っちくちゃな。少なくとも俺を楽々倒せるくらいの戦士になってから、あんたの使命とやらに突っ込んでいきな」

「イリヤ……!」

 小声でヴァイロンがそう言うと、はっと我に返ったように、イリヤはいつものとぼけた表情に戻った。ヴァイロンにはイリヤの心の中が感じ取れたようだ。

「あら、ごめんなさい。俺としたことがついつい私情に流されちゃったわ。あーあー、殿下ちゃん、固まっちゃってるじゃない。シーヴ君、しっかりしてよ!」

 イリヤはカイエンと目を合わそうとしない。その視線は、シーヴの顔の上をさまよっただけだった。

 もう、彼女には今見せた自分を知られていると分かっていても、何とかごまかしておこうとでも言うのだろうか。

「……大丈夫だ。確かに、イリヤの言う通りだ。エルネスト、お前の暇な生活はもう終わりにするんだな。もうしばらくはここで私の夫として宮廷の中を泳いでもらうが、その時が来たら、使命を果たせる力が出来たら、いつでも出て行くがいい」

 エルネストはカイエンの顔を、食い入るように見ていた。彼女もまた、イリヤ同様に彼の「使命」の危険さを察知しているとは思ってもいなかったのだ。

「ここにいる皆には、知られてもいいだろう。エルネスト、お前やヘルマンが行くべき場所、使命を果たすために向かう場所は、シイナドラドではない、そうだろう? それならば、答えはもっとこのパナメリゴ大陸の東側にあるのだ。それは、新生螺旋帝国の脅威に晒されているだろう、東の小さな国々か?」

 エルネストはそう言うカイエンの問いには答えなかった。

 だが、そこにいた誰もがカイエンの言ったことが真実なのだろうと思っていた。

「確かに、螺旋帝国も桔梗星団派も、このハウヤ帝国を崩壊させようとしている。だが、それを封じるのはお前の仕事ではないだろう。それは私の仕事だ。だったら、時が来たらお前は調子にのった螺旋帝国の皇帝や、桔梗星団派の奴らの支配に怯える国々へ行くしかない。そのための知恵は、もう故郷を出るときにシイナドラドの皇王宮の奥に隠されているという、石碑の森ボスケ・デ・ラピダから得ているはず。そうでなくては、皇王バウティスタはお前を外の世界に一人だけ残したりはしないだろうからな」

 ここまで聞いて、エルネストはやっと戻って来た呼吸に喉を鳴らして咳込みながらも答えたのだった。

「みんな俺には厳しいな。まあ、もうそれほど時間が残ってはいないことは俺にも分かっているさ」

 でも。

 ここを出て行ったら、もうおそらくは生きてカイエンの顔を見ることはない。

 所詮は、自分はこのハウヤ帝国に骨を埋める人間ではないのだ。彼ら、ヴァイロンやイリヤとは違って、死ぬまでカイエンと共に行くことも出来ない。 

「くそったれめ」

 エルネストはヘルマンの腕を借りて立ち上がりながら、呟いた。

「親父のくそったれめ」

 エルネストが二度まで自分の父親を罵ったのは、このハウヤ帝国へ婿入りするためにシイナドラドを出たとき、父である皇王バウティスタが、エルネストに別れのはなむけとして、三つ目の名前と一緒に、こう言ったのを思い出したからだった。

(もし、星教皇猊下がお前をお側に置き、共に行こう、とおっしゃったなら、お前は猊下のそばにあれ。だが、猊下が使命を果たせ、とおっしゃったらお前は行くのだ。東の国々へ、密林の国へ)

 父王は、カイエンがエルネストに手を差し伸べないことを、あの時点でもう予感していたに違いない。それとも、自分が二番めの息子に求めた道の方を、息子は選ぶはずだと知っていたのか。

 エルネストが使命を選ばず、このハーマポスタールに残る道を選んだら、螺旋帝国と桔梗星団派の思う壺だ、と言うことは皇王バウティスタには自明のことだっただろう。それでも彼は息子に二択の選択を許したのだ。

 ああ、もう逃げ道はないんだ。

 エルネストは、今、完全に甘えた退路を断たれた。

 ここの連中にも、もうそれは知れていた。そして、今日、イリヤの意地悪だか親切心だかでそれは確定となったのだ。自分も心のどこかでそれを知っていて、今日、イリヤと対することを選んだのかも知れなかった。

「ヘルマン」

「はい」

「前にお前は俺の骨を拾って、必ずこの街へ戻る、って言ったな。決して俺より先には倒れないとも」

 ヘルマンはこの言葉を聞くと、泣きそうな顔になった。

「はい。エルネスト様のお仕事が終わられましたら、私が、必ずエルネスト様をこの街へお連れいたします。ですから、ですから……」

 あなたはあなたの使命を果たすべきです。

 この日から、エルネストはカイエンを通して、フィエロアルマの訓練に参加すると共に、帝都防衛部隊の訓練にも顔を出すようになる。猫のミモはいつも暇そうで、一番、自分を構ってくれていた人間の変わりように残念そうな様子を見せたが、すぐにリリをエルネストの後釜にすることにしたらしかった。   


  


 



 同じ頃。

 ハーマポスタール市内、レパルト・ロス・エロエスの大きな両替商。

 リベラ商会。

 その敷地の中、古い、最近ではもう使われなくなっていた倉庫の中。

 そこでは、この店の息子、ディエゴ・リベラが主催する、「賢者の群れグルポ・サビオス」の定例の集会が開かれていた。 

 いつもはそれは夜間に開かれ、十分な量の酒と、料理が用意されるのだったが、この夜は様相を異にしていた。

 テーブルと椅子がいくつも置かれていることは同じだったが、その上に出されているのは、陶器のカップと、今夜集まる人数分のワインの瓶だけだ。

(今日は、前にちょっと知り合いだった男を紹介する。前は知らなかったが、この男、今、我々に必要な知識を持っていることが分かったんだ)

 倉庫へここの使用人に案内されて入ってきた、ハーマポスタール市内の大きな商家の息子たちは、いつもと違う倉庫の中の様子に、ちょっと気味の悪い思いをしただろう。

 だが、それもしばらくしてディエゴが客人を連れてそこへ入ってきたので、解消された。

 ディエゴは太り肉で大きな男だが、その後に付いてきた男の方はそれほど大きな男ではない。何よりも、皆の目を引いたのは、その男が螺旋帝国人だったからだ。

「みんな、座ってくれ」 

 今夜はまったく素面のディエゴが、螺旋帝国人を自分と並んだ、長いテーブルの一番奥に座らせたので、皆はちょっと騒ついたが、それもすぐに収まった。

「この人は、 子昂シゴウさん。俺の通ってた私塾にたまに顔を出してた人だ。四年前に連続男娼殺しがあっただろう? あの時は目撃者の俺も治安維持部隊に引っ張られた。この人もあの事件で迷惑した人なんだ」

 ディエゴの認識では、馬 子昂も自分同様に、あの事件で治安維持部隊の尋問を受けた、同志のように感じているらしかった。

「実際は俺の通ってた塾の先生の教え子じゃなくて、螺旋帝国から来た、もっと偉い先生のお弟子さんだったんだ」

 ディエゴの言っている塾の先生とは、今の大公軍団最高顧問マテオ・ソーサのことで、螺旋帝国から来た偉い先生とは、アルウィンの誘いを断って自殺した、あの頼 國仁先生のことだろう。

「最近、偶然道で再会したんだ。それで知ったんだが、この人の螺旋帝国人の先生ってのは大変な人で、実は螺旋帝国での、あの人民による革命に加わり、新王朝『青』の皇帝とも親しい方だったんだそうだ」

 そう説明するディエゴの顔は、得意げに紅潮している。

「それで、俺たちのこの賢者の群れグルポ・サビオスのことを話したら、螺旋帝国での新革命が短時間で成功に至ったのは、新しい革命理論とかいうのが使われたからで、それはこのハウヤ帝国の肥え太った貴族どもをやっつける場合にも有効だ、とおっしゃるんだよ」

 ディエゴは最初は馬 子昂を、古い友達であるかのように紹介していたが、最後の方まで来ると、まるで自分の新しい師匠ででもあるように丁寧な言葉遣いになっていた。

 子昂シゴウと申します」

 この螺旋帝国人の、西側の国々の人々と比べるとやや平べったい印象を受ける顔にはほとんど表情というものがない。

 だが、それがここではかえって「これは只者じゃないぞ」と皆に思わせる効果を持っていた。

「皆さん、賢者の群れグルポ・サビオスのご活動については、私も前から存じておりました。賢明なる市民、この国のことを真に憂いでおられる皆さんのお力になれたら、と思って、ディエゴさんにここへ連れて来てもらったのです」

 賢明なる市民、この国のことを真に憂いでおられる皆さん、という褒め言葉は、そこに集まった若者たちの自尊心を大いに刺激した。

「私の方も、皆さんのような組織化したものではないですが、同志を募って小さな集まりを作っております。今夜以降は皆様方、賢者の群れグルポ・サビオスと連帯して、活動していけたらと思っております次第です」

 おお、というどよめきが倉庫の中で上がり、それを待っていました、とばかりにディエゴが立ち上がった。

「みんな、今日はこのシゴウさんと、このハウヤ帝国の現実を憂える同志としての固めの杯を上げようじゃないか!」

 わあ、わあ。

 中にはシゴウやディエゴの話の内容に、なんだかきな臭いものを感じた若者もいないではなかったのだが、その気持ちは他の連中の上げた歓声に消し去られてしまった。

 陶器のカップの中に流し込まれる、真っ赤なワインを静かに見つめる、馬 子昂の目の奥にあったのは、桔梗星団派の首魁、チェマリの顔だったのか、それとも彼の祖国、螺旋帝国の新皇帝、馮 革偉の姿だったのか。

 ディエゴの音頭とともにかち合わされる、ワインのカップの音が、その大して高級でもないワインの味が、彼には最近なかった昂揚をもたらしたことは間違いなかった。

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