第七話 無知の王

聖者の家

「ねえ、あたし、ご飯はアベルやギジェと一緒がいい。もうすぐ、アベルはシリルおじちゃんのお家へ、お引越しなんでしょ? そうしたら、もうなかなか会えないんでしょ。ね? そうなんだよね」

 第十九代ハウヤ帝国皇帝オドザヤ三年め。

 一昨年の六月のオドザヤの即位から、ほぼまる二年が過ぎていた。

 だから、カイエンは二十二になり、リリは二歳となっていた。

 五月の大公宮の庭には、色とりどりの花々が咲き乱れ、その中の小道を、カイエンと、アベルを抱いたサグラチカ、それにアベルの乳母をしている女騎士のナランハが、こっちはほとんどアベルと同時期に生まれた自分の長男である、ギジェを抱いて歩いている。

 アベルを大公宮でとりあえず、乳離れするまで育てるに当たっては、その昔、ヴァイロンがアキノとサグラチカ夫婦の家の前に捨てられていたことが、そのままもう一度起きたことになっていた。

 六人めは去年の十二月九日にカイエンと同じ日の誕生日を祝い、今、二歳半となったリリエンスールだ。

 彼女はもう、誰かの腕に抱かれて運ばれてはいない。リリはカイエンの着ている、普通の貴婦人よりやや裾の短いドレスのスカートを握りしめて、カイエンの横を歩いている。まだ少しふらつくこともあり、転ぶこともあるが、彼女はそんなことはへっちゃらだ。

 サグラチカの目を盗んで、疲れて足がもつれて進めなくなるまで、毎日、あちこち探検し続けるので、大公宮の奥殿に仕える召使いたちはいつもリリを見かけると、後を目で追うようになっていた。仕事の途中でも、リリの進む先に他の侍従や女中が現れるまでは追いかけていくのが、ここ半年余りの大公宮奥殿の使用人たちの暗黙の了解となっていた。

 だから、いつも誰かが、どこかで動けなくなっているリリを見つけたらすぐに部屋へ抱えて戻す毎日だった。

 リリは二歳になる少し前になって、やっと歩けるようになった。カイエンなどは蟲が歩行の邪魔をしていたせいもあって、二歳を過ぎてもなかなか歩けなかったものだが、その点ではリリはカイエンよりは歩き始めるのが早かった。それでも、普通の子供と比べればかなり遅かった。

 でももう、今の歩きかたは、カイエンの体内の蟲より、リリの虫の方がはるかに小さいことが大きいのか、もう同じ歳の子供たちと変わらなかった。変わらないどころか、何倍も活発だった。

 おそらくはカイエンと同じく、体内に蟲があるせいでなかなか歩き始められないのだと医師は言ったが、歩けるようになれば彼女の進化は劇的で、自分で歩いてあちこち行けるようになると、あっという間に言葉を明確に話せるようにもなってしまった。

 リリの言うには、夢の中で目覚めてすぐにカイエンの夢に入り込み、それからカイエンの中の知識をかなり「盗み取って」しまったかららしい。でも、それはすべてには遠かったらしく、文字の読み書きなどはまだ出来ないようだった。

 それでも、その話しっぷりはとても二歳の子供とは思えない。

 何も知らない人間が見たら、化け物を見るような目で見るか、奇術団や見世物小屋にいる、子供の時のまま、成長が止まってしまった大人の芸人かと思っただろう。

 こっちの方は、リリに接触する人間を少なくすることで、なんとか誤魔化すしかなかった。と言っても、カイエンの周りで働く使用人たちには隠し切れなかったが、皆、去年、イリヤが瀕死の重傷から生き返ったのを知っているので、この大公宮で、カイエンが関係すれば、そんな信じられないこともあり得るのかも、とおおらかに捉えてくれていた。

 もちろん、リリ本人には「知らない人のいるところでは、ペラペラ喋ってはいけない」と言い聞かせていたが、言い聞かせられずとも、リリにもそれは自覚されていたので、特に今まで問題は起きていなかった。

「ねえねえ、カイエン、いいでしょ。もうお昼ご飯の時間だもん。アベルとギジェだって、一緒の方が楽しいよ!」

 そう言うリリの話し方はともかく、仕草や動きは、間違いなく二歳の幼児のものなので、とてもかわいらしい。

 彼女は自分で布を選んだ、ラベンダー色の子供服をまとっており、小さな足には同じ色の絹地の靴を履いていた。カイエンと同じ黒っぽい紫の髪は、前髪は眉のあたり、他は肩のあたりで切りそろえられていて、そうして見ると本当は従姉妹で姉妹のカイエンとリリは、「よく似た母娘」にしか見えない。

「そうだな。じゃあ、昼ごはんはあそこのあずまやまで運んでもらおうか。……サグラチカ、アベルやギジェはやっと離乳食になったんだろう? ギジェはいいが、もうそろそろ二人じゃナランハが大変だからな」

 カイエンがそう言うと、この六人の後を静かに歩いて来ていた女中頭のルーサが、後ろにいる女中の一人に言いつける。

 この日は、五月晴れの日で、カイエンは休みだったので普段着の上下に別れた着やすいドレス姿だった。

 前は、休みの日と言えば、ヴァイロンと昼過ぎまで寝ているような生活だったが、それもヴァイロンには気の毒ながら、この大公宮の奥に赤ん坊が二人も増え、リリが歩くようになってからは変わらざるを得なかった。

 ヴァイロンの方は、今日は仕事に出ているはずだ。ついでに言及すれば、軍団長のイリヤの方も、この頃は何かと多忙になっていた。

 と言うのも、皇帝オドザヤとザイオン第三王子トリスタンの婚約は去年の五月に発表されたが、来たる六月には、二人の結婚式が迫っており、皇宮から金座のあたりまで、二人の乗った馬車がパレードすることになっていたからだ。その前には皇宮のバルコニーでの市民へのお披露目もあったから、皇宮の親衛隊なども忙しいはずだった。

 アイーシャの喪は四月の一周忌で終わっていたが、オドザヤの即位が六月であったこともあり、結婚式は六月に即位三年目の祝いを兼ねて行われることと決まっていた。

 やがて、六人は庭の中にいくつかある、瀟洒なあずまやの一つへ入った。五月と言っても、日差しはもう十分に明るく、カイエンなどはあずまやの日陰に入ると、ほっとしないでもなかった。

 生来、体力がなく子供の頃はかなり病弱だったカイエンは、大人になってからも長い時間、明るい晴天の陽の下にいるのは苦痛なのだ。

 カイエンはまるで、夜歩く妖怪や吸血鬼のようだ、と自分でも思うが、夏の太陽の光を浴び続けたりすると、だるくなり、皮膚にかゆいできものが出来たり、真っ赤に腫れ上がったりするので、仕方なかった。

 姿が似ていても、リリの方はカイエンのように病人のような顔色ではない。薔薇色のほっぺたのリリには太陽の光もまだ日焼けするような強さではなかったし、彼女にとっては歩けるようになって初めて自由に踏みしめることができるようになった「地上」の毎日は、夜になっても屋根の下に戻って来たくないほどの新鮮さがあったようだ。

「あら、早いわね」

 皆が大理石製のあずまやのテーブルの周りに座ってしばらくすると、サグラチカがそう言って、大公宮の奥殿の方を見る。

 きれいに敷き詰められた大理石の小道を、昼餐の乗せられた、二つのワゴンが静かに進んで来るところだった。

 ワゴンを押すのは一人はルーサの次の位置にいる腹心の女中だったが、もう一人は女中のお仕着せ姿ではない。

「エルネストに捕まっていたんじゃなかったのか?」

 カイエンが声をかけた相手は、後宮の住人の一人、アルフォンシーナだ。

 彼女はここへ来てから、ずっと庶民の若い女性としても地味ななりをしていたが、この日はやや春らしい明るい色のドレスを着ていた。ここへ来る前には、仕事用の扇情的なドレスは多々持っていただろうが、アルフォンシーナはほとんど普通の服を持っていなかった。だから、大公宮へ来てからはサグラチカが気を遣って、自分が若い頃に着ていたドレスやなんかをアルフォンシーナに合うように、意匠も古臭く見えないように直してから譲っていたのだ。

 彼女は意外にも、かなりの子供好きだった。

 この大公宮へ来てから、赤ん坊だったリリの世話も手伝ってくれたりしていたのだが、新しくオドザヤが秘密裡に産み落としたアベルと、アベルの乳母となった女騎士のナランハの子のギジェが加わると、その世話に積極的に加わった。

 カイエンが聞いてみれば、彼女の実家には幼い弟妹がいく人もいて、アルフォンシーナが帝都ハーマポスタールの高級娼館へ売られていくきっかけになったのは、その子沢山の家の大黒柱だった父親が亡くなったことからだったのだという。まあ、地方の娘たちがハーマポスタールの娼館に売られて来る事情はだいたい同じようなものだ。

「私は運良く、文字の読み書きが出来たんで、お金持ちがお客さんのあの店に売られたんです。やっぱり、文字が読めると読めないじゃ、芸事や行儀作法なんかの習得の手間が大違いなんです。で、ああいうところじゃ、子供なんかいる方がおかしいでしょう? 娼婦だって妊娠することはありますが、生まれた子供が男の子だったら、酷いところじゃそのまま水に流されちまうし、良くたって貰われていくか、娼館の用心棒とかになるしかないんです。女の子は、早くから芸事を叩き込まれて、先輩娼婦のお世話係を経由して、最後には娼婦にさせられるんですよ」

 ここへ来たばかりの時、アルフォンシーナはそんなことを言っていたものだ。

 そんなアルフォンシーナは、今日もカイエンたちと一緒に庭の散歩に出て来たがっていたのだが、彼女の他に唯一、仕事もなく暇が有り余っている後宮の住人、エルネストが朝寝して起きて来たところへ出くわし、暇人の遅い朝の散歩に付き合わされていたらしい。

「やっと逃げ出して来たんです! もう、しつこいったら! こっちへも一緒に来るっておっしゃるから、断るのも大変で!」

 アルフォンシーナは思い出した途端に、怒りがこみ上げて来た様子だ。

「私が、アベルさ……いえ、アベルを預かって、コロニア・ビスタ・エルモサのアパルタメントで託児所を始める、って決まった途端、顔が会うたびに付きまとうようになられて! 元お客さんでも、今はそんなんじゃないのに……」

 エルネストのことを語る言葉遣いはまだちゃんとしているが、アルフォンシーナの濃い青い色の目は、怒りに燃えている。声がカイエンとそっくりだから、カイエンは自分もエルネストに腹を立てているような気分になって来た。

 アルフォンシーナの言い方からすると、本当に迷惑しているらしい。カイエンは、エルネストに釘を刺さねばならないか、と眉をしかめた。カイエンだって自分の方からエルネストに会いにいくなんて、真っ平御免なのだ。

 アルフォンシーナがこの大公宮へ来るに当たっては、彼女の希望で客だったエルネストではなく、カイエンが身請けしたことになっている。

 実際に同じ後宮の違う部屋に住むようになってからの二人の関係は、大人の男女のことだから、エルネストとは夫婦とはいえ彼女の中では他人同然のカイエンの知るところではない。だが、すぐそばの部屋には教授とガラが住んでいるのだ。アルフォンシーナがエルネストに自由にされるなんてことはないし、甘ったるい関係になどなってはいないのは、今のアルフォンシーナの言葉からも明確だった。

「……まあ、寂しいんだろう。去年、私が意図的に醜聞を読売りに書かせた後、エルネストを不憫がる風潮になっただろう? あの時、面白がってまた夜遊びを始めたものの、アルフォンシーナほどに入れ上げるような女性には出会えないみたいでな」

 カイエンはそう、アルフォンシーナを慰めたが、言いながら複雑な気分になった。

 エルネストが高級娼館の娼婦だった頃のアルフォンシーナに入れ上げていたのは、彼女とカイエンの声がそっくりで、小柄な体型もなんとなく似ていたかららしい。それは、エルネストが未だカイエンを諦めていない、という事実を、いやが応にもカイエンに気付かせる。

 早く、私にちょっと似てて、エルネストの我が儘勝手がかわいくみえるような、大きな心の女性と仲良くなってくれればいいのに。などとも思うが、それはそれでその女性が気の毒な気もする。要は、エルネストがカイエンに執着する心と決別してくれれば一番なのだ。

 だが、それがなかなか簡単なことではないだろう、ということは、カイエンはヴァイロンからも、イリヤからも聞かされていた。

 彼ら二人がカイエンに囚われたきっかけも、エルネストと同じく、アルウィンだった。彼ら二人はエルネストと違って、会うなり即座にカイエンの側の気持ちも考えずに襲いかかって来るようなことはなかった。

 ヴァイロンとのことは先帝サウルの命令だったが、彼は壊れ物を扱うように、優しく彼女に接してくれたし、イリヤに至っては、去年の一月の暗殺未遂事件が起きなければ、カイエンへの執着心を墓の中まで隠したまま持っていくつもりだったのだ。

 カイエンがそんなことを思っている間に、もう、あずまやの中のテーブルには、美味しそうな昼餐の皿が並べられていた。アベルとギジェはまだ母乳も飲んでいるから、ナランハは二人に代わり番こに乳を与えている。その姿を見て、カイエンが思うのは、ただただ、「よかった」という感慨だけだ。

 アベルもギジェもあまり人見知りをしない子で、誰に抱かれていても機嫌が悪くなることはあまりなかった。

 オドザヤの秘密出産はなんとかなったが、誰が乳をやるのか、というのはずっと懸案事項だった。アベルの乳母となるということは彼の生まれを知るということだからだ。

 そこへ妊娠の報告をしてきたのが、後宮の警備をしている二人の女騎士の一人のナランハで、ナランハの出産の方がオドザヤよりも早かったことも幸いだった。

 だが、そろそろ生まれて半年をこえる。産婆のドミニカ・ホランはそろそろ離乳食を始められるし、側に赤ん坊のいる女がいて、貰い乳ができる環境があるなら、大公宮から移しても構わないとの意見だった。

「カイエン様、さあ、どうぞ」

 授乳の終わったアベルをアルフォンシーナに託したサグラチカは、今度は自分が乳をやって育てたカイエンの世話を始める。幾つになっても貴族の男女は一人では何も出来ない。それはカイエンも同じだ。

「ああ、ありがとう」

 やっと気が付いて、カイエンがテーブルの上を見渡すと、そこには春野菜を豊かに使った煮物や、各種の肉や魚、貝を使った焼き物、炒め物に、揚げ物やスープまでが色とりどりに皿や鉢に盛られて供されていた。

 アベルとギジェのための柔らかく煮て細かく砕き、ちょうどよい温度で持ってこられた皿もある。厨房の料理長ハイメは、カイエンが子供の頃からここにいるから、もしかしたらカイエンの離乳食も彼が作っていたのかもしれなかった。

「うん、この白いアスパラガスのサラダと、それにスープは絶品だな。旬の野菜はみんな、味が濃くていいな」

 カイエンがそう言うと、カイエンの膝に座ったリリが、ルーサに細かく野菜や肉を切ってもらって食べながら、カイエンに甘えかかるようにして、こればかりは子供らしく大きな声を立てた。彼女はもう、柔らかい食べ物や細かく切ってもらった食べ物ならどんどん食べられるのだ。

 普通ならまだ、フォークやナイフなどの食器をうまく扱えるはずもないのだが、頭の方で使い方がわかっているとそうしたことも容易いのか、リリはナイフはともかく、フォークの方の扱いはもう上手なものだ。

 ここに普通の二歳児が一緒にいたら、つまりはリリの一ヶ月違いの兄のフロレンティーノ皇子などがいたら、その違いに人々はさぞや気味の悪い思いをしただろう。

「うーん。あたし、白いアスパラガスの茹でたの大好き! このハムもおいしー。トウモロコシのパンも甘くて大好きっ」

 教授ことマテオ・ソーサが後宮にやってきてから、この大公宮のメニューには下町色のあるものが加わった。珈琲はすぐに取り入れらたし、トウモロコシを使ったパンや蒸し上げちまきタマーレス料理用のバナナプラタノなどの下町で売り歩かれているような食物も、食卓に上がるようになっていた。特にトウモロコシのパンは、今まで貴族階級で忌避されていたのが不思議なほど、その薄甘い風味はカイエンの気に入ったので、大公宮では定番となりつつあった。

「リリは、好き嫌いが無くて、いい子だなあ」

 カイエンがリリの頭の上からそう言うと、リリはうふふ、とうれしそうに笑う。

「なんでもじゃないよ。カイエンが嫌いな食べ物は、なーんとなくあたしも苦手。……肝臓のパイとか」

 なるほど。そういうところまでは夢でつながっていた影響があるわけか。カイエンはそう思いながら、ふと、アベルを抱いているアルフォンシーナの方へ顔を向けた。

「アルフォンシーナ。あなたの引越し先は、シリルのアパルタメントと同じだったね?」

 トリスタンの実父の、元、ザイオンのシリル・ダヴィッド子爵は、シリル・ダビ、と苗字をハウヤ帝国風に変え、もう去年から大公宮にも近い、コロニア・ビスタ・エルモサのアパルタメントへ引越し、自立した生活を始めていた。

 それは、オルキデア離宮でオドザヤと会ってからしばらくしてのことだった。

 それから何度か、密やかにシリルは大公宮を訪れていた。ザイオンの外交官公邸のトリスタンの元から飛び出してきた、とはいうものの、そのままでは身の安全に関わったので、カイエンは彼を大公軍団の目の届く範囲に置いておきたかった。それは、いくらアキノの家の前に捨てられていた捨て子、と言い繕ってはいても、このままアベルを大公宮で育てるのはあまりにも危険だったからだ。

 シリルの側も、ハウヤ帝国側からもザイオン側からも自由でいるためには、アベルを引き取るというのは都合のいいことだった。もっとも、政治向きのことは考えることさえしないシリルにとっては、「自分の孫かもしれないが、オドザヤとトリスタンの間の嫡子には出来ない子供」を預かることは、なんでもないことのようだった。

 もっとも、トリスタンの父親であるとは言っても、赤ん坊の世話など、市井の舞踏家として暮らし始めたシリル一人でできるはずもない。

 そこで、手を挙げたのが、アルフォンシーナだったのだ。

 シリルにあてがわれた、コロニア・ビスタ・エルモサのアパルタメントというのは、なんと、大公軍団治安維持部隊のコロニア・ビスタ・エルモサ署の隣だった。これは去年、イリヤや双子以下の治安維持部隊がハーマポスタールでも大公宮に近い地域の治安維持部隊の署のそばに空き部屋を探させ、偶然、コロニア・ビスタ・エルモサの署の隣に空き部屋が出たのである。

 コロニア・ビスタ・エルモサ署には、去年、オドザヤのことを隠すためにカイエンが自分と愛人二人の醜聞を、読売り三紙に書かせた時に世話になっている。というか、署長以下、署員一同がカイエンとヴァイロン、それにイリヤの朝帰りの現場に遭遇して驚愕とパニックを起こした場所だ。

 コロニア・ビスタ・エルモサは古くからあるコロニアだが、上流階級の住む場所ではない。トリニやウゴの家があるレパルト・ロス・エロエスに隣接する、古い下町、といった地域のひとつだ。すぐ隣は旧市街で、この大公宮からも遠くない。ゆうに歩いていける地域だ。

 マリーナおばさんのププセリアや、あの居酒屋バルアポロヒアなど、店もあるが、どちらかといえばこのハーマポスタールの一般市民の多く住む住宅地だ。だから、ビスタ・エルモサ署の署員たちがイリヤの出現に腰を抜かしたように、凶悪事件などとはほぼ無縁の場所なのだった。

 そういうこともあって、シリルの住居として選ばれたのだったが、そのアパルタメントに先月、新しく空きができたのだという。それが偶然にもシリルの住居となった部屋の隣で、そこへアルフォンシーナが移ることになったのだ。

「はい。シリルさんのお部屋のお隣が空き部屋になったとお聞きして、そこでいずれは託児所を立ち上げてみようかと思い立ちました。すぐには上手くいくはずもないですから、その間は日中、アベルの世話をしながらご近所に溶け込んでいこうと思います」

 アルフォンシーナの答えには迷いはない。

 託児所。その言葉の響きは真新しい。下町では働く母親も多いので、近所のもう子育ての終わった年齢のおばさん、おばあさんが母親の留守の間、子供を預かることは普通に行われている。

 アルフォンシーナはそれを仕事としてやってみようか、と思い立ったのだ。

「もう、シリルさんのアパルタメントの周りのお宅に聞いて回ったんですけど、お子さんを近所の子育ての終わった方に預けて働きに出ているお母さん、結構いるんです。でも、預かる方でも買い物とかで家を開けざるを得ない時間もあるそうで、そのあたりはご近所で助け合っているんだそうですけれど、そのあたりの調整なんかを助けるところから始めようかな、と思うんです。いきなり商売にして出張っても、お金を払うとなったら皆さん、二の足を踏むでしょうしね。信用もまだありませんから」

 カイエンはアルフォンシーナの答えを頼もしそうに聞いた。

「ちょうどいい時期に、ちょうどいい場所に空き部屋が出るなんて、アベルは運を引き寄せる子なのかも知れないなあ」  

 カイエンがこう言うと、その場にいた皆が優しく微笑む。

 アベルは、本来ならば皇帝の第一子、それも長男として皇太子になるべき子供である。だが、彼にはその道は開かれなかった。だからこそ、皆が彼の幸せを心から願っていた。

 それに、アルフォンシーナのこうした希望が受け入れられたのは、彼女がこの大公宮へ匿われるきっかけとなった、カスティージョ伯爵が、このハーマポスタールの館を出て、ハウヤ帝国の東北地方にある自分の領地へ引っ込んだということがあった。息子のホアキンも、家族全員がそれに同道し、カスティージョ伯爵の屋敷にいた郎党たちも解散になった。

 他にも、モリーナ侯爵が、自邸に外国人の反乱分子を匿っていたかどで大公軍団の取り調べを受けることとなり、その後、オドザヤは彼に謹慎と、彼の長男が成人し次第、家督を譲って隠居することを命じ、これも東北地方にある自領に引っ込んでいた。

 これで、オドザヤがオルキデア離宮でしていた女帝反対派貴族の切り崩しの画策も相まって、「女帝反対派」はほぼ消滅したのだった。

「とにかく、アベルのことも、アルフォンシーナのことも、先が見えてきてよかった」

 カイエンがそう言いながら、サラダとスープを終えて、メインの皿の取り分けを待っていると、もうリリはお腹がいっぱいになったのか、もぞもぞし始めた。この辺りの辛抱のなさは、二歳児の体の方の要求が強いらしい。

「あたし、エルネストんとこ、行ってきてあげる。カイエンは相手にしないし、アルフォンシーナも逃げちゃったから、きっとまた夜遊びしようとか思ってるもん。邪魔してやろうっと」

 リリはそう言うと、もうカイエンの膝の上から、よっこらせ、と降りようとしている。

 口が回らない赤ん坊の頃は、カイエンは「かーい」、ヴァイロンは「ゔぁーい」、エルネストは「えーりい」だったのだが、歩き始めて口が回りだしてからは、名前もちゃんと言うようになっている。

「おい、まだ私は食事中だぞ。淑女は他の人の食事が終わるまで、待っていなきゃだめだ」

 カイエンは母親らしくそう咎めたが、リリはペロリと舌を出すと、もう歩き始めている。その後を、ルーサの腹心の女中が慌てて追いかける。

「行儀作法は、まだまだこれからだもん。あたしはまだ時間がたくさん有り余っているんだよ。今はまだ二歳だもん。他の子はお食事の際の礼儀なんか、教わってないし、出来もしないでしょ?」

 そんなことを向こうを向いたまま言うリリは、生意気盛りの少女のようだ。

「リリ!」

 カイエンは、苦い顔つきでリリに声をかけたが、リリはもう本殿の方へどんどん歩いて行ってしまっていた。その足取りは普通の二歳児よりも達者に見えた。頭の中が先に出来上がっていると、体の方も要領よく動くのだろうか。

 リリの言うこと、それはその通りだが、リリの場合には頭の中身だけが先に行っているから厄介だ。

「……しょうがないな。リリ、ヘルマンの言うとおりにするんだぞ。ヘルマンが駄目って言うことはしちゃ駄目だ」

 エルネストはリリの半分は、自分とカイエンの間の「生まれてくることが出来ないことが初めから決まっていた娘」と信じているようで、リリには大甘なのだ。そこをしっかり締めてくれるのが、有能な侍従のヘルマンだった。

 ヴァイロンもリリに甘い。と言うか、彼が一番リリの父親役としての時間は多いかも知れない。彼は大公宮の奥のカイエンのところへ戻ると、カイエンと一緒にリリの様子を見に行くのが日課になっていた。

 イリヤとリリの方は……そこでは周囲が目を見張ると言うか、目を疑うようなやりとりが演じられるのが常だった。イリヤは腹を刺された時に夢の中で出会った少女のリリが、やっと現実に出てきた、と決して二歳児扱いなどしなかったからだ。

「はーい」

 リリは、カイエンの気持ちはわかっているようだが、エルネストへの気持ちはカイエンとは大いに違っているようだった。そういう様子を見ていると、カイエンもまた、エルネストが信じているように、リリの向こう半分は、あの夢の中に居て、リリが自分の金色の目と取り替えた灰色の目の持ち主だった、あの「この世には決して生まれてこられない運命の子供」なのか、と思わないでもなかった。

「あっ」 

 その時、しゃきしゃきと本殿の方へ歩いていたリリが盛大に転んだ。

 カイエン以下の女たちは思わず、腰を浮かしたが、リリはすぐに自分で立ち上がり、ちょっとぶつけた膝のあたりの埃を、自分でぱっぱとはらっていた。

「へーき。へーき。転ぶのは慣れてるもん。あああー、この体、早く大きくなんないのかなあ。早く、走れるようになりたいのに」

 リリがカイエンの中から夢の中で「盗んだ」情報の中には、カイエンが子供頃からずっと数え切れないほどに転び続けては起き上がって来たことも入っているのだろう。

「そうだな。ちょっと転んだくらいなら、何度でも立ち上がればいいんだからな」

 そう、呟いたカイエンの言葉が聞こえたのは、その時、あずまやの中を吹き抜けていった五月の風だけだったかも知れない。







 アルフォンシーナが大公宮を出て、シリルの住む、コロニア・ビスタ・エルモサのアパルタメントへ引っ越したのは、それから十日ほど後のことだった。

 まず、大公宮の影使いナシオの手で、数日前の夜中にアベルはシリルの部屋へ送り届けられた。

 アルフォンシーナは、自分は一人で引っ越して来た形で、その、「アパルタメント・サントス」のシリルの隣の部屋へ移り住んだのだ。

 アベルにはまだ母乳も必要だったから、これは同じアパルタメントや、近所の乳飲み子を抱えた母親数人に貰い乳をもらえるように手配されていた。

 アルフォンシーナが鞄をいくつかだけ持って、馬車でアパルタメントの前に着くと、すぐにシリルがアベルを抱いて出て来た。その後にまだ働きに出ていないアパルタメントの住人がわらわらと共用の玄関まで出て来たり、窓から覗いたりしたので、その場はちょっとした騒ぎとなった。

「ちょっとあんた、シリルさんのいい人だってえの、ほんとなの?」

「シリルさんとこに来た赤ん坊の母親だっての、本当かい?」

 いきなり、浴びせられたのがこの言葉だったので、アルフォンシーナは目を白黒させた。

「ええ? なんですか、それ。確かにシリルさんとは知り合いですけど、それは前の仕事でのことですから!」

 アルフォンシーナは、びっくりしながらもきっぱりと否定した。ここでは彼女は彼女の前職、高級娼婦だったことを隠すつもりはなかった。隠し事がある女に、子供の世話を託す母親なぞ、いるはずがないからだ。

 高級娼婦と、踊り手なら、仕事上で関係があってもおかしくない。

 そして、シリルの方をうかがうと、シリルは申し訳なさそうな顔つきになった。もう、四十を過ぎてはいるが、あの美貌と派手派手な王子、トリスタンの父親だけあって、シリルは目立つのだ。明るい青みがかった金髪も目立つし、年齢の割には若く見えることもあって、引っ越して来た当初はここらの旦那連には冷たい目で見られたこともあった。

 踊り手、舞踏家という仕事もここらでは珍しく、中年男なのにすらりとしていて、腹も出ていない。ここらのおっさん達には目障り極まりない存在だったのだが、それはほんの数日のことだった。

 シリルの裏表のない、天然芸術家肌の人柄は、夜中に美しい花を咲かせた近所の家の庭へ踊りに行ってしまったり、ごみの捨て方がわからなくて、途方に暮れて立ち尽くしていたり、といった「いかにも」な場面に出くわした住民からあっという間に近所に伝わっていった。それでいて、態度はザイオンの宮廷にいただけあって丁寧で洗練されているから、大体の人々、このアパルタメントの管理人夫妻をはじめとする近隣住民に好感を持たれた。

 住民達は、この、世慣れているのかいないのか分からない中年芸術家がここの住人になるには、きっと深い事情があるに違いない。そして、それは彼が触れて欲しくないことなのだ、と恐ろしいことに勝手に理解してくれたのだ。 

「ああ、みなさん、違いますよ。違うんです。この子は息子の子で、私の孫に当たるんです。息子はこの子を残して病気で死にまして。母親もこの度、他の家に後添いに入ることになって……それで、私が育てることになったんです。このアルフォンシーナさんとは、夜の仕事でご一緒したことがありましてね。その縁で、今度……」

 シリルはそう話す間も、腕の中のアベルをあやしている。その様子は、なかなか堂に入っていたから、彼は息子のトリスタンが赤ん坊の頃に世話をした経験があるのか、もしくはもっと前の舞踊団にいた時に子供の世話をしたことがあるのだろう。

 ここで、アルフォンシーナはすかさず、言葉を挟んだ。このまま、シリルに話を進めさせるのは危険だと思ったのだ。

「私は先年まで、あの、まあ、水商売をしておりまして。……あんまり、人聞きのいい仕事じゃなかったので、細かいことは勘弁してください。やっと前の仕事の年季が明けまして、どうしようかと思っていたところ、シリルさんが隣の部屋が空いたって言ってくれたんで、引っ越してきたんです。シリルさんはお仕事で家を開けることがあるので、その間、赤ちゃんを見ているって約束です」

 アルフォンシーナがそこまで話した時だった。

「はいはい、なんの騒ぎですかなー? そこの御婦人なら、今日からここの住人になると聞いている、アルフォンシーナ・デ・カサノヴァさんだと思いますがね」

 集まった住民とアルフォンシーナ、そしてアベルを抱いたシリルの間にずずっと入ってきたのは、隣の大公軍団治安維持部隊コロニア・ビスタ・エルモサ署の署長だったから、もうすでに納得しかけていた住民達はぴたっと動きを止めた。

「はい、署長様。私、アルフォンシーナ・デ・カサノヴァでございます」

 アルフォンシーナも、署長が出てくるとは思わなかったので、ちょっと引き気味に答えると、署長は丸っこい顔でうん、うん、とうなずいた。

「それならよろしい。大家さんも承知しとる。そこのシリル・ダビさんのうちに息子さんの忘れ形見の赤ちゃんが来ることも届けを受けとる。万事、間違い無いのです。みなさん、まだ何か問題がありますかな?」

 治安維持部隊の署長にここまで言われては、もう、誰もなんとも言えなかった。

 中年だけど美形の舞踏家のシリルさんと、新住民のこれもかなりいい女のアルフォンシーナさんは、夜のお仕事でのお知り合い。そして、シリルさんの赤ん坊は無くした息子さんの忘れ形見。しばらくはシリルさんの留守中は、夜の仕事からは足を洗ったアルフォンシーナさんが赤ちゃんの面倒をみる。

 ここまで判明すれば、皆の不安もきれいに晴れた。

「じゃ、お部屋に行きましょうか」

 アパルタメント・サントスの管理人夫妻のうち、妻の方がうながすと、やっとアルフォンシーナは荷物を手に彼女の新しい生活の場へ入って行くことが出来たのだった。


「わあ、思ってたよりも広くてすてきなお部屋!」

 アルフォンシーナは管理人の妻に案内されて入った、二階の部屋に入ると、思わずそんな言葉が出た。カスティージョ伯爵の身請け話から、トンビになんとかで大公宮の後宮、それもカイエンの母親がいたという部屋に住んでいた彼女には、その部屋は古くて、しかも質素極まりなかった。

 だが、清潔な真っ白な漆喰の塗られた壁、古い木組みだががっしりした床、大きな外側に鎧戸のついた窓は手で触れて見ても、どれもしっかりと手入れされていた。窓の蝶番なども緩みはない。

「広いかどうかは分からないね。あんたは、ここでなんか仕事を始めたいんだろう? まあ、それでもこの玄関から入ってすぐの部屋は仕事に使えるだろうね。寝室はあそこの扉の奥だよ。台所と洗濯場はあっち。外のバルコニーから別の階段があるし、下には共同の井戸と洗濯場とかまど、それに風呂場もあるよ。洗い桶も大きくて重たいならあそこに置いておいていい。洗濯だのなんだののための水汲みは、うちで雇ってる奴が手間賃もらえば、二階まで運ぶよ」

 その管理人、つまりはここの大家の妻の言葉をアルフォンシーナはちゃんと聞いていた。

 まだ、この部屋には家具も何もない。

 これはアルフォンシーナが望んだことだった。カイエンは部屋にあらかじめ、寝台や食卓、テーブルなどを手配してくれると言ったのだが、彼女はそれを断った。

 それは、ここが、アルフォンシーナが初めて得た、彼女の人生が真に始まるはずの場所だったからだ。

 故郷の家から女衒に売られたのも、女衒にあの娼館へ連れて行かれたのも、それからの娼婦としての商売も、彼女の望んだものではなかった。だから、アルフォンシーナは故郷に母と弟妹がいるのに故郷へ帰る道は考えなかったのだ。

 私の人生は、ここから始める。

 始める。

 自分から、能動的に。

 荷物の中には毛布も入れて来た。今夜は毛布にくるまって眠ればいい。

 明日から、少しずつ、家具を揃えよう。託児所が軌道に乗るまでには、長い時間がかかるだろう。だから、そっちの用意は後でいい。まずは、この部屋に根を下すのだ。

「ねえ、私のことはシリルさん、でいいけれど、私はあなたをなんと呼んだらいいのかなあ?」

 アルフォンシーナがしばらく考え事をしているうちに、大家の妻はいなくなっており、大人しくしているアベルを抱いたシリルだけが部屋に残っていた。

「えっ?」

 シリルはそれほど背が高くはないから、小柄なアルフォンシーナが見上げても、彼の顔はすぐそばにあった。

「あの、アルフォンシーナ、でいいんですけど」

 やっとの事で、彼女がそう言うと、シリルはふわっと微笑んだ。その微笑みの温かさは、彼の息子、トリスタン王子には出来ないものだろう。

「じゃあ、アルフォンシーナ。この部屋にはまだ家具も何もないし、君、台所道具なんかもないんだろう? そういうものが揃うまでは、私の部屋へおいで」

「はあ?」

 当惑するアルフォンシーナの前で、シリルはもう踵を返していた。

「この子、アベルの貰い乳は、裏の家の奥さんなんだ。後で紹介するよ。でね、アベルの離乳食なんだけど」

 アルフォンシーナはシリルの後を引っ張られるように、隣の部屋へと連れて行かれた。

 そっちの部屋は、もう半年もシリルが住んでいたから、家具も窓のカーテンもちゃんと揃っていた。

「アルフォンシーナは、たいこ、じゃなかったあそこでアベルの離乳食の作り方とかは教わって来たんだろう?」

 その部屋の間取りはアルフォンシーナの部屋と同じようだったが、玄関を入ってすぐの居間は彼女の部屋よりもやや狭かった。それでもソファが窓辺に寄せられ、床に厚い敷物が敷かれているのは、シリルが踊りの練習をここでしているからなのだろう。二階ではあるが、しっかりとした床は一階の住人に文句を言わせないだけの厚みがあるのだ。

「はい。一通り、ハイメさんに教わりました。……あの、今日はこちらのお台所をお借りしますが……」

 シリルは可愛くてしょうがない、と言った様子で、アベルのまん丸な頬っぺたに頰を擦り寄せていたところだった。

「よかった。私は料理は苦手でね」

 シリルはそう言いながら、アベルの顔をじっとながめた。

「この子、お母さんにはぜんぜん、似てないんだねえ。トリスタンにも似ていない……かな。髪の色は黒いっぽいし、目の色は灰色なんだもの」

 アルフォンシーナはちょっとどきりとした。彼女は、もちろん、アベルの実の母親が誰か知っている者のひとりだ。

「でも、何回か、大公宮へお邪魔して分かったよ。大公殿下からもお聞きしたしね。この子は皇帝陛下よりも大公殿下に似ている。それで、この顔は代々のこのハウヤ帝国の皇帝陛下のお顔なんだってね」

「あの、何がおっしゃりたいの?」

 やっとの事でアルフォンシーナはそう聞いたのだが、シリルの方はあっけらかんとしていた。

「子供の顔なんか、髪や目の色なんかで一喜一憂するほど、私は生真面目じゃないんだ。ねえ、運命って面白いものだよね。親に似てない子供だって、世の中にはたくさんいるんだよ」

 シリルはアベルの頬っぺたをつつきながら、柔らかに微笑む。

「トリスタンは私にそっくりに育ったけど、私は違ったんだ。私は父にも母にも似ていなくてね。父のような役人なんか出来やしなかったし、母みたいに強欲な金貸しの才能も無かった。父は私を不義の子だって信じてたし、母はそれを全否定してた。それなりに豊かな生活をしていたけれど、冷たい家だったよ。そこでやっと見つけたのが踊ること。それに気が付けて本当に幸いだった。ほんの子供の頃に偶然、なんでだったかはもう忘れたけど、私の先生の舞踏団を見に行ってね。一目で自分の居場所は舞踏団だって分かって、家を出て舞踏団に無理やり入れてもらったんだ」

 シリルは本当に愛しそうに、アベルの顔を眺めた。

「この子も、自由にしたいことにその才能を使えばいい。私はその助けをしたいんだ。トリスタンには最後までしてやれなかったから。私の知っている踊りのすべてをあの子に教えたけど、あの子はザイオンの王子様で、まだそこから抜け出せないでもがいている。でも、もうこれ以上、父親の私にはどうにも出来ない」


「アルフォンシーナ、聖者の家アパルタメント・サントスへようこそ」


 アルフォンシーナはきっと、自分は馬鹿みたいな顔をしているに違いない、と思いながら、シリルの言葉を聞いた。

「君も同じだ。……したいことにその才能を捧げる時が来たんだ。だから、もう迷ってはいけない」

 アルフォンシーナは胴震いを抑えることが出来なかった。

 始まったんだ。

 私と、アベルの人生が。

 それが、はっきりと分かったから。

「シリルさん」

 アルフォンシーナは、やっとの事で言葉が喉から出て来た。

「……ありがとう。私、きっとやり遂げてみせる。私だけが出来る仕事。私だけの人生を」

 ここから。

 今、この場所から始めるんだ。

 ここ、聖者の家アパルタメント・サントスで。

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