飛びたつ鷗(かもめ)


「……いやっ! こっちへ来ないで」

 アルタマキアは、足元に投げ出された、シュトルムの恐ろしい形相の死骸をもう一度見る勇気は出てこなかった。なので、彼女は死骸の上方にある、リュリュの顔を見ているしかなかった。

 だが、リュリュが死骸をまたいで、こちらへ来ようとしているのを見ると、急に体ががたがたと震えて来た。

 それは、シュトルムの死骸が怖かったのではない。

 四ヶ月もの間、彼女を苛んで来た男達。無理やりな結婚式で「夫」とされた、二人の男。

 一人は今、冷たくなってアルタマキアの足元に転がされている。そして、死骸を引きずって来たのは、残りの一人だ。彼女にとっては、二人ともに嫌がる自分に無体を働き続ける、憎い存在であり、恐怖の対象でしかなかった。

「そこで話しなさいよ。あなたがそいつを殺したの? 殺したにしても、どうして私に見せるのよ!」

 シュトルムのありえない、不自然な方向に曲がった首や、白目を剥き、引き攣った顔は、そんな恐ろしいものは見たこともないアルタマキアが見ても、殺されたものとしか思えなかった。

 こうして自分でこの部屋まで、引き摺って来た以上、リュリュがこいつを殺したのだろう。

 彼から完全に目をそらしたら、今度は自分が殺されるのかもしれない。一瞬、そんなこともアルタマキアの頭をよぎったが、リュリュが自分を殺す気なら、逃げようがないし、さっき、彼が言った言葉も耳に残っていた。

(……俺と一緒に来るかい? ハウヤ帝国の皇女様よ)

 殺す気なら、あんなことは言わないだろう。

「わかった。近くへは行かない。……そうだよ。こいつは俺が、殺した」

 リュリュは、シュトルムよりは、アルタマキアの扱いが優しかった。だから、二人を比べれば、リュリュの方がアルタマキアにとってはましだったが、アルタマキアを力づくで征服し続けてきたということでは、二人にはなんら異なるところなどない。

 アルタマキアは、やや接し方が優しいくらいでは、彼らを順位だてなどしてはいなかった。

「あなた達は、お仲間でしょう? それなのに、何で!?」

 アルタマキアが小さく抑えた、しかし声の調子は悲鳴のような声音を出すと、リュリュは黙って首を振った。

 そして、アルタマキアの問いには答えず、別のことを話し始めた。 

「……この棟には、大伯母と俺たちしか入れないことになっているから、しばらくは大丈夫だろう。大伯母は今、台所へ皇女様の夕飯を取りに行っている。こいつをここに引き摺ってきたのは、この棟の中でも、この部屋には母屋の連中は入って来にくいからだ。みんな、内心じゃあ、あんたとは関わりを持ちたくないと思っているからな」

 アルタマキアは、両手で、着ているガウンの膝あたりをぎゅっと掴んだまま、空色の目を見張っているしか出来なかった。

 リュリュとシュトルムは、二十歳前後だろう。

 リュリュの方がどうも、身分が下らしいとは、アルタマキアも気が付いていた。

 だが、ここへ連れてこられて四ヶ月にもなるが、アルタマキアは「二人の夫」とは、ほとんど会話らしい会話もしたことがなかった。二人の夫、シュトルムとリュリュは、決して一人だけでアルタマキアの部屋に入って来たことはなく、どうもお互いに相手の様子をうかがっているようなところも見て取れた。

 閨事をするときも、必ず最初にするのはシュトルムだったが、彼が先に済ませて出ていったとしても、リュリュが何もしないで出て行くこともまた、なかったのだ。

 だから、アルタマキアは、シュトルムとリュリュがまともに話す言葉を聞いたこともなかった。最初のうちは、アンティグア語の通じない野蛮人だと思っていたほどなのだ。

 だからこの時、リュリュが、ややハウヤ帝国とは違う訛りはあるものの、普通にまとまった話をするのを聞いて、アルタマキアは驚いていた。

 だが、頭の別の部分では、今、リュリュが言った言葉を反芻してもいた。

「大伯母?」

 やっと、唇から出て来たのは、リュリュの言った言葉の中に出て来た、聞きなれない言葉だった。

 それは、恐らくは、アルタマキアの世話を一人でしている、潮風に吹かれてしわくちゃになってしまったような、しなびた老婆のことを言っているのだな、とは推測できた。だが、今のリュリュの話した内容からすると、あの老婆も、ここでこうしてシュトルムが死んでいることに関係しているようだ。

「ああ。皇女様は何にも知らされてなかったな。ちょっと長い話になるが……」

 そこまでリュリュが話した時、聞き取れないほどわずかなノックの音が、廊下に面した扉から聞こえ、ついでゆっくりと扉が開かれた。

 もちろん、入って来たのはあの老婆で、しなびた外見から想像するよりも力強い彼女は、片手で四角い木の盆を支えたまま、器用に扉を開け、中へ入って来る。

「大伯母さん、母屋の様子は?」

 リュリュが聞くと、真っ白な白髪の老婆は、アルタマキアの夕食の載った盆をテーブルに置いた。

 彼女はもう、シュトルムの死骸を見ていたのか、床に投げ捨てられた、恐ろしい形相で事切れているシュトルムを見ても、驚いた様子はない。

「大丈夫そうだね。村長はこっちには関わり合いたくないから。こいつをやっつけた時も、大きな音なんか立てなかったし、しばらくは気が付かないよ」

 耳が遠いのだろうと思っていた老婆が、リュリュの質問に普通に答えたので、今度もまた、アルタマキアは驚くことになった。

「ひどい……。みんなちゃんと話せるんじゃないの」

 アルタマキアは今まで、ほとんど彼女に話しかけさえしなかった、老婆とリュリュが普通に話す様子を見ては、こうとでも言うしかなかった。

「申し訳ありませんでしたね。なにせ、この男がいましたから。こいつはあのイローナの甥だから、何か余計なことでも話したら、イローナに告げ口されてしまうんですよ」

 老婆はそう言いながら、足元に転がるシュトルムを憎々しげな目で見た。

「イローナの甥?」

 アルタマキアが聞くと、老婆は盆の上に掛けられていた布をどけながら言った。

「こんなものが転がっていちゃあ、食欲も出ないでしょう。お前は考えなしだね、リュリュ。こいつは……そうだね、とりあえず、そこの寝台の下にでも突っ込んでおしまい。後で、床板が動かせるようなら、床下にでも入れちまおう」

 リュリュは眉間にしわを寄せて、一瞬、きつい目で老婆、それは彼の大伯母らしかったが、を睨んだが、確かにそうした方がいいと思ったのだろう。

「そうだな。こんなやつの顔を見ながらする話じゃないな」

 リュリュはそう言うと、床に伸びているシュトルムの両脇に、恐れげもなく手を入れると、ぐいっと上半身を持ち上げ、下半身は床に引き摺ったまま、アルタマキアの寝台の横まで引っ張っていく。

 そして、最初は床に膝をつき、両腕でシュトルムの胴を押していたが、最後は立ち上がって、ごつい革製の長靴の先で、それを寝台の下に乱暴に押し込んでしまった。

「ふぅ。厄介者め。細っこいわりには重たいや」

 そして、戻ってくると、壁際の革張りのソファの方に、身を投げ出すようにして座り込んだ。

「人は死ぬと、急に重たくなるからね」

 老婆は、なんでもないことのようにそう言う。この歳になると、何度も何度も人の死を見てきているのだろう。

「先にお茶でも淹れて、落ち着いて話そうかね」

 老婆は、赤々と燃える暖炉に掛けられた鉄の薬缶を取りに行くと、慣れた手つきで部屋に備えられているポットを使い、茶を淹れはじめた。

 もっとも、ハウヤ帝国とは違い、この北の村で「茶」と呼ばれているのは、夏の間に刈り取られ、乾燥させられた薬草ハーブの葉のことだった。

「私はもともと、マトゥランダ島のもんでしてね。この村に嫁に来て、旦那に先立たれてからはこの村長の屋敷で女中どものたばねをして来たんですよ。それで、このリュリュは、私の妹の孫なんです」

 老婆はテーブルの上から、アルタマキアがさっきまで刺繍していたブラウスを取り除けると、彼女の前に素朴な陶器のカップを置いた。

「皇女様の『夫』を選んだのは、イローナと、イローナの長兄……今のマトゥランダ島の大惣領なんですよ。最初はあの男シュトルム一人のはずだったんですが、マトゥランダ島も一枚岩とは言えないんでね。大惣領やイローナのやり方には、それも今度のドネゴリアの元首様殺しだの、皇女様の拉致だのには、懸念を持つ一族の小惣領たちも多かったんです。ハウヤ帝国を敵に回すことだから、そりゃあね。だから、今年の『神々の試練』を一等で勝ち抜いた勇士である、この子リュリュが、大惣領に懸念を持つ小惣領たちに担がれて、二人目に選ばれたんです。そうでもしないと、小惣領たちにはこの先の展開が全く見えなくなってしまいますから」

 アルタマキアはカップから立ち上る、少し林檎の香りに似た香りを、ゆっくりと吸い込みながら、黙って聞いていた。

 それでは、リュリュの方はマトゥランダ島の小惣領たちの「目と耳」として来たとでも言うのだろうか。

 それにしても、彼女の伯父のエサイアスが殺されたことを、老婆はさらりと言ってのけた。

 ああ、やっぱり、と思いながらも、アルタマキアはとっさに口を挟む言葉が出てこなかった。

「『神々の試練』ってのは、その年に成人する一族の男の中から、その年一番の勇者を決める祭りなんだ。ええと、大伯母さん、難しい言葉でなんて言うんだっけ」

 やや得意げな様子でリュリュが口を挟むと、老婆はテーブルの、アルタマキアの座っている反対側の椅子に座りながら答える。

「たしか、通過儀礼とか言うんだよ。前に島にやって来たどっかの学者先生が言ってた。まあ、負けたのの中には死ぬもんもいるからね。体の弱いもんは参加できないし。生き残れば一人前の戦士ということになる。……ああ、すみませんね。野蛮な風習だと思うでしょう? でも、ここらの自然は厳しいからね。男どもに序列を作らないと、まとまるもんもまとまらない。家柄とは別にね」

「……この辺りでは、女惣領になる女には、夫が二人ってのは本当なの」

 アルタマキアはやっとの事で言葉が出て来た。ここに連れてこられてから、溜まりに溜まっていた怒りが、心の中からふつふつと滾ってくるような気がしていた。

「マトゥランダ島では、そうですよ。大惣領は今までずっと男ですが、小惣領の家では女が主人になるしかない時があったんです。女が主人で、子ができなかったらその家は潰れます。こんなところですからね、昔は小競り合いもよくあったし、海で死ぬ男も多かったんです」

 アルタマキアは、ここを一度だけ訪ねて来たときに、イローナが言った言葉を思い出していた。

(我がマトゥサレン一族では、女が惣領として立つ時には複数の夫を持つのが普通ですのよ。夫が一人では、もしその者が不出来だった場合に世継ぎに恵まれないことになりますからね)

「そうなの。それじゃ、それはそれでいいわ。私には到底、理解できないことだけど。……でも、私はマトゥランダ島の生まれでもないし、伯父様は殺されたんでしょう!? あのイローナとマトゥサレン一族に! それなら、私なんか必要ないじゃない! 邪魔な私を殺すんならともかく、あんなことを。こんなところまで引っ張って来て……あんなふうに、無理やり結婚させて! それも、ふ、二人……と。そして、こ、子供を、私に子どもを産ませようとしたのはなぜなの!」

 アルタマキアの声は、話しているうちに、興奮のあまり、だんだん大きくなってしまった。

 そして、無理やり結婚、という言葉を言った途端、両目から熱い涙が吹き出して来た。自分で言った言葉の残酷さに、自分が打ちのめされてしまった、とでも言うように。

 ここへ連れてこられてからの、悲惨な日々の恐ろしさ、苦しさ、悔しさ、やり切れなさ。体に加えられ続けた痛み。そして一人ぼっちの寂しさが、一気に彼女の胸に集まって来て、ぎゅっと喉の奥が引き連れ、塩辛くなり、ついで苦しくなった。

 この四ヶ月、部屋で一人で泣いたことはあったが、老婆やリュリュ達の前で泣いたことはなかった。そんな様を見せるのは、アルタマキアの気性では到底、出来ない事だったのだ。

「私は嫌だって言ったのに! 何ヶ月も……ひどいことをして! あんた達は鬼よ! あのイローナとちっとも変わりゃしないわ!」

「おい……」

 アルタマキアの声の大きさをはばかったのか、いきなり泣き出したのに驚いたのか、ソファから立ち上がって、テーブルの方へ来ようとしたリュリュを、老婆は目で止めた。

「その通りですよ。……皇女様、今までよく頑張って来ましたね。ほとんど泣きも嘆きもしないで、じっと耐えていなさったもの。十五かそこらにしちゃあ、恐ろしく気が強いなあ、と思っていたんですよ。見た目ははかなげだけど、人は見た目によらないもんだと感心していました」

 目を見開いたまま、着ているガウンの生地をぎゅっと両手に掴み、声も出さずに泣き続けるアルタマキアをあえて手を出さずに見つめながら、老婆は話し続ける。

「いいですか。時間がないですから、話を進めてしまいますよ」

 アルタマキアは泣きながらも、うなずくしかなかった。相手が全部話す気になっているのだ。聞かないで恨み言を言い続けるほど、彼女は愚かな娘ではなかった。

「イローナとマトゥランダ島の大惣領は、ザイオンとの間で話ができていて、数年後を目処に大森林地帯を抜けてザイオンに通じる、泥炭の大販路を拓くってことになっていたんです。もちろん、これがハウヤ帝国に知れれば、大きな悶着になります。だから、ぎりぎりまでハウヤ帝国を油断させとくためもあって、皇女様を次代のスキュラ元首にするためにお迎えする話は歓迎していたほどなんです。殺されたエサイアス様も、アルタマキア様がこちらにおられれば、妹君のキルケ様を呼び寄せることも不可能ではない、と乗り気だったそうです。ですが……」

「イローナと大惣領は、ベアトリアにそそのかされて、ザイオンが販路を拓いてくれるのを待たず、エサイアスを殺して、イローナが女王になるなんてマネをしてしまったんだってさ。ベアトリアの密使は、北で独立騒ぎが起これば、ハウヤ帝国の東と南の守りが甘くなる、そこにつけ込むとか言ったらしいけど。ハウヤ帝国は大国だ。……普通、こんな隙間だらけの話にのるもんかねぇ、大伯母さん。いくらハウヤ帝国の属国同様の『自治領』にされちまって、悔しい思いをしてたとはいえさ」

 リュリュは部屋の外の様子に聞き耳を立てながらも、泣き続けているアルタマキアの方へ、ちらちらと目を向けている。自分の所業が彼女を泣かせている、ということには、さすがに気が付いてるのだろう。

「まさかね。村長が言ってたのを聞きたところじゃ、ベアトリアの密使と一緒に、変なやつがドネゴリアの元首宮へやって来て、イローナをたらしこんじまったって話だよ。それで、イローナは数年待つはずが、今、ことを起こしちまったんだそうだ。皇女様にあいつとお前を娶せた理由は、村長にも分からないらしいよ。まあ、ドネゴリアに置いておくと、ハウヤ帝国に奪還される可能性が高いと思ったんだろう」

 老婆はそこまで話すと、喉が渇いたのだろう、自分の前のカップから薬草茶をぐびり、と飲んだ。もう、テーブルの上で、盆の上の食べ物は冷め始めていたが、老婆は泣いているアルタマキアに無理に食べさせようとはしなかった。

 老婆は、リュリュに答えるときはぞんざいな言葉遣いだが、アルタマキアにはやや丁寧な言い方を貫いている。

 しっかりとした話し方といい、田舎の老女にしては教養のある雰囲気で、泣きながらも話を聞くことは聞いていたアルタマキアは、不思議な感じがしていた。

「……言いにくいけれど、皇女様を殺しちまったらもう、人質としては使えないですからね。将来どうするにせよ、こっちで子供が出来て、母親になっちまえば、もうハウヤ帝国には戻りにくい。生まれた子供も人質にできる、とでもいうところじゃないかと思いますよ」

 老婆もこの辺りは自信がないのか、ちょっと言葉が弱々しくなった。

 アルタマキアはしゃくりあげていたが、ここまで話を聞くと、唇をかみしめ、胸を手で押さえながら、もう一方の袖口でぐしゃぐしゃに泣きぬれた顔の涙を、ぐいっと拭き取った。

「そ、そんな、そんな適当な言葉、全然、納得なんかできないわ。私の受けた苦しみは、どうせあなた達にはわかりゃしない! ……でも、そんなあなた達が、そいつを殺したのよね?」

 リュリュは、もうアルタマキアに問われて、それを認めている。

 そして、シュトルムの死骸を見る、リュリュの目つきからは、「害虫を殺して、せいせいした」とでも形容するしかない、一種の「誇らしさ」のようなものさえ見て取れたのだ。

「ええ、そうですよ。私がしびれ薬を盛って、このリュリュが首の骨を折ってね」

 老婆はリュリュとは違い、苦いものでも飲み込んだような顔つきをしている。

「それは、どうして?」

 当然、アルタマキアはそう聞いた。イローナの甥で、マトゥサレン一族の大惣領の息子を殺したのだ。これは、よほどのことだろう。

「シュトルムのやつ、皇女様にほうけ薬を盛ろうって言い始めたんだ」

ほうけ薬? なに、それ」

 リュリュの言ったそれは、アルタマキアには聞きなれない言葉だった。

「……さぞや気持ち悪いでしょうけれど、もうこうなったからには、皇女様にはお話しした方がいいでしょう。シュトルムはイローナの甥ですから、皇女様に一向に懐妊の気配がないのを苦々しく思っていたんですよ。それで、私に、どうなっているんだって問い詰めて来てね。あんまり激しい形相で迫ってこられて、つい、その、ご心労で月のものが止まっているから仕方がないでしょう、ってお答えしてしまったんです。そうしたら、ほうけ薬でも盛って、何もわからない、気持ちのいいことだけ追っかけるような状態にすれば、じきに体も変わってくるだろう、薬を用意しろ、って言い出したんです」

 ここまで説明されれば、アルタマキアにも「ほうけ薬」の意味はおぼろげに理解できた。

 つまりは、閨事のことしか考えられない、色気狂いにさせる薬なのだろう。そんな薬がある、などとは初めて知ったアルタマキアは、老婆の危惧通り、その気味の悪さといやらしさに、胸がぎゅっとなるような心地だった。

「さすがに、そこまでいくと正気の沙汰じゃないですよ。私が渋っていたら、シュトルムのやつ、自分でマトゥランダ島に掛け合って、用意してしまったんです」

「大伯母さんは、薬草に詳しいんだ。ここの薬草茶も、全部、大伯母さんの手作りなんだぜ」

 リュリュが口を挟むと、老婆は暗い表情になった。

「まあ、その通りなんで、私にゃ、あの薬を使ったらどうなるのか、ようっく分かっているんです。あんなもの、若い女に使えば、しまいにゃ廃人になっちまうんです。……でも、シュトルムはマトゥランダ島の大惣領の息子だから、最後の最後には私どもは従わざるを得ない。私はもうそんな世界にどっぷり漬かっているから、もうしょうがないかと諦めようとしてたんだけど、この子が、リュリュが『そんなことに手を貸しちゃいけない』って止めてくれたんです」

 アルタマキアは、ちらりとだけ、リュリュの方へ目をやった。だが、すぐに目をそらした。

 最後の最後にまともな判断をしてくれたようだが、ここで感謝してやる必要はない。彼が今まで、死んだシュトルムと一緒になって、彼女にして来たことが消えるわけではないのだ。

「それで、二人で共謀して、この男を殺したのね」

 アルタマキアが決めつけると、老婆とリュリュは曖昧にうなずいた。 

 この様子では、実際の状況はやや違ったものだったのかもしれない。だが、いずれにせよ、イローナの甥のシュトルムはこの二人によって殺されたのだ。

 アルタマキアは唇をかんだ。

 今までの話から考えれば、ここから逃げ出すには、この、イローナの身内を殺した、老婆とリュリュを利用するしかない。そして、今がその好機なのだ、ということも頭の冷えて来たアルタマキアにはすでに意識されていた。

「ねえ、あなたは今度のこの事、どう思ってたの? いいえ、今はどう思っているの」

 アルタマキアが冷たい声で聞くと、リュリュは一度老婆と顔を見合わせ、それから真面目な顔になった。

「俺は……最初はこんな美人で可愛らしい皇女様を自由にしていいんだ、って聞かされて、単純に喜んでた。皇女様の気持ちなんか、考えもしないでな。それは認めるよ。小惣領たちの目と耳にならなくちゃならんこともわかってた。シュトルムと俺とじゃ、髪の色も目の色も違うから、もし、子供が生まれたら、どっちの子かわかるかもしれないし。一時は、俺の子を産んで欲しいってはやってたよ」

 アルタマキアは、聞くなり、泣いて目の周りが腫れ始めた顔を、怒りの表情で大きくしかめた。それを、リュリュはため息をつきながら見た。

「まあ、今はもうよく分かったよ。シュトルムよりも優しくしたつもりだったけど、皇女様はずっと変わらず、俺たちを同じように、なんか汚らしいものでも見るような目で見るだけだったし。いつだったか、最初の頃だったな。皇女様、シュトルムがやることやって出て行っちまった後で、半分泣きながら、俺に言ったよな。『こんなことしてると、赤ちゃんができるんでしょ。私はまだお母さんになんかなりたくないの。こんな、ひどいやり方で子供ができたって、そんな子、可愛がれやしない。お母さんになったら変わるのかもしれないけれど、だからこそ、生まれてくる前に殺したくなるわ、きっと』って」

 アルタマキアは、もちろん、覚えていた。

「あなたは、あの時、何にも言わないで出て行っちゃったじゃないの!」

 恨めしそうな声を出すと、リュリュはちらちらと大伯母である老婆の方を見ながら言う。

「情が湧くから、皇女様とは話すな、何か話しかけられても答えるな、ってマトゥランダ島の大惣領に言われていたんだよ。まあ、真意は俺たちが皇女様に、周りの情勢を話さないように釘を刺したんだろうな。昨日まではシュトルムの目があったから、それを守らざるを得なかった」

「それで? さっき、部屋に入って来たときにあなた、『一緒に来ないか』とかなんとか、言ってなかった? あれはどう言う意味なの。イローナの甥を殺したあなた達が、ここから逃げるのはわかるけど、それに私も入れてくれるって言うの?」

 アルタマキアの涙は、もう乾いていた。ここに連れて来られてから、四ヶ月。今までのあれこれはそれとして、ここから出られる、という可能性はアルタマキアにとっても魅力のある話だったのだ。 

 リュリュと老婆は、少しの間、黙っていた。お互いにアルタマキアに話すことを、頭の中でまとめているようだった。確かに、動くならば、長話は早々に切り上げて行動に移すべきだった。

「山向こうの泥炭採掘地の方へ行けば、連中は今頃、ハウヤ帝国との取引がなくなって干上がっているって話だから、どうにかなるかもしれない」

 やがて、リュリュが口にしたのは、一つの可能性でしかなかった。

「どうにか? そんないい加減な!」

 アルタマキアは、思わず、非難の声をあげた。

 すると、今度は老婆が口を開いた。

「いやいや、村長の話じゃ、泥炭関係の村々が作ってる、泥炭加工ギルドは、一度、ドネゴリアのイローナのところへ、ハウヤ帝国に出荷するはずだった、今年の泥炭の買い取りを要求しに行ったそうですよ。でも、イローナは言を左右にして、いまだに買い取りを渋っているようなんです。今度のハウヤ帝国との国境での睨み合いが長引いているから、金がないんでしょうねえ。ザイオンとの間の販路はまだ、見込みも立っていません。ろくな道もないのに、大森林地帯を抜けて、ザイオンへ泥炭を運べるはずもない。となれば、泥炭加工ギルドの連中は、今まで通り、ハウヤ帝国に買い上げてもらおうと動くはずです」

 老婆の言うことは、年の功だかなんだか知らないが、若いリュリュの言うことよりは筋が通っているし、情報量も豊かだ。リュリュも同じ情報は持っているのだろうが、彼はどうやら理路整然と話す素養はまだ持っていないようだった。

「彼らが、イローナに秘密で、ハウヤ帝国側と通じるって言うの?」

 アルタマキアが疑い深そうに聞くと、老婆はやや曖昧ながらもうなずいた。

「泥炭が露天で出る土地は、寒冷なところなんです。湿地で、周りに森林もないんで、泥炭以外の実入りはわずかな畑作だけで、他には何もありません。そんな村々で、泥炭の販売が滞れば、住人はすぐに干上がってしまいます。ハウヤ帝国側は今年の冬の分は確保しているでしょうから、今すぐに困りはしない。あっちは気候もずっと暖かいのでしょう?」

 アルタマキアはハーマポスタールの生まれ育ちだ。他の地方は知らない。と言うか、ハーマポスタールの皇宮を出たのも、今回が初めてなのだ。だが、彼女は静かにうなずいた。このスキュラの北方の冬の寒さと比べれば、ハウヤ帝国の冬など、ここの秋程度のものだろう。

「それなら、泥炭加工ギルドの者たちは、もう、動いているでしょう。幸い、スキュラの軍隊も、マトゥサレン一族の戦士達の軍団も、ドネゴリアと国境の警備で手一杯。泥炭地地方までは目が届きません」

「海へ出て一気に皇女様を、ハウヤ帝国の版図の港まで連れて行っちまうことも考えたけど……海だと、マトゥランダ島の連中に見つかると危ないからな」

 アルタマキアは、一言も聞き漏らすまいと注意しながら、白っぽい金髪の頭を振った。そうすると、ここへ来てから、気温が低いこともあって、ついぞ結い上げることもなく、伸ばしっぱなしになっている、緩やかに巻いた髪が、滝のように背中から前は胸の下までを覆う。

「じゃあ、泥炭加工ギルドの支配するところまで逃げるってことね。私を連れて、そんなことしたら、あなた達、もう一族のところへは戻れないんじゃないの?」

 アルタマキアは一番肝心なところを追求した。大惣領の息子を殺した、というところで、もう一族の元へは戻れないのかもしれないが、それにしても外国人同然のアルタマキアを逃がしてやっても、ハウヤ帝国側に感謝されるとは限らない。アルタマキアとしては、逃げる途中で彼らに心変わりでもされたら、元も子もないのだ。

「それが、そうでもないんだよ。島じゃ、大惣領と小惣領達が、いよいよ対立しているらしいんだ。イローナも兄の大惣領も、ザイオンとの密約まではスキュラの将来を考えると、まあまあ、まともな判断だったんだが、その後にベアトリアの密使と、それにくっついて来た、変なやつに何か吹き込まれてから、話がどんどんおかしくなって来た。だから、泥炭地のやつら同様、島の皆も不安になって来てるんだ」

 ここまで来て、老婆がアルタマキアの空色の目をしっか、と見据えて来た。今まで、しわくちゃの顔にばかり目がいっていて、気がつかなかったが、そうして見てみると、老婆の目の色は、リュリュと同じ菫色なのだった。

「もう、この妹の孫とは話が済んでいるんですよ。……ここには、私が残ります。こいつ、シュトルムの死体が出ないうちは、時間が稼げます。こっちの棟には母屋の連中は来ないですからね。皇女様のお食事を、朝昼晩と、台所に取りに行ってりゃあ、うまくすれば数日は保つでしょう」

(えっ、それじゃあ、お婆さんはどうするの?)

 アルタマキアは、当然、そう聞きたくなった。だがもう、老婆はアルタマキアの言葉を待ってはいなかった。

「リュリュ、床板がずらせそうだったら、こいつの死骸は下に放り込んでおくれ。埋めなくても、今の気温なら、すぐに凍りついちまうだろう。私はその間に、皇女様の旅支度をするから。お前の服じゃ大きすぎるけど、シュトルムの服なら、直せば皇女様にも着られるだろう。女の姿じゃ、さすがに危ないからね」

「承知」

 短かく、そう答えると、もうリュリュは床板を見はじめている。

「皇女様」

 アルタマキアは、老婆に真顔で聞かれて、ハッとした。

「その、お見事な髪なんですが、男に化けるとなると危険です。ザイオンあたりじゃ、男のかなり長い髪もあるっていうけれど、ここじゃあ、普通に通るのは、せいぜい肩の下くらいまでだ。切ってもいいですかね?」

 アルタマキアは、外見の弱々しさとは違って、中身は強謙な娘だった。

「いいわよ。髪なんか、またすぐに伸びるわ。短く切ってしまっていいわよ。……それより、あなたが一緒じゃないなら……あなたの妹の孫だって言う、あの男にちゃんと言って、そして約束させてくれないと困るわ」

 アルタマキアが、リュリュの方へ視線を送りながらそう言うと、老婆にはすぐに分かった。

「それは、そうですね。これも、私の責任だ。……リュリュ、お前のすべてのご先祖にかけてお誓い。皇女様には旅の間、指一本でも手を出さない、ってね。私もお前が誓いを破ったら許さないよ。もう、女に悪いことが出来ない体にしてやるからね。よく、覚えておおき」

 床板の釘を確認し、工具を取ってこようとしていたリュリュは、びっくりした顔で大伯母の厳しい顔を見た。

「さあ、早く。今、ここで誓うんだよ」

 老婆はリュリュを急かす。

「今、ここで?」

 リュリュはそう言ったが、老婆は容赦しなかった。

「ここでだよ」

 老婆の厳しい顔を見ると、リュリュはため息を吐いて腰の短剣を抜き、アルタマキアの目の前で、服の胸元をはだけた。ちょうど心臓の上あたりで、彼は恐れげもなく、短剣を自分の皮膚に当て、斜めに刃を食い込ませていった。

「我らの先祖たる、賢者マトゥサレンに誓う」

 リュリュが自分の胸の上に、自分の血をもって描いたのは、上半分が長い十字模様。それは、長剣の形だった。

「俺がこの誓いを破った時は、この胸に描いた長剣が我が体から抜け出し、俺の首を大地に落とす」

 アルタマキアは、この原始的とも言える誓の方法と、その大仰な言葉を聞きながら、長剣型の傷から、ゆるゆると落ちていく血潮を、目を見開いて見ているしかなかった。





 

 

 一方、ハーマポスタールでは。

 カイエンは、目の前で「百合の谷の妖精王の踊り」とやらを舞い踊るトリスタンを、呆然として見ていた。

(上手い!)

 カイエンは自分は右足が効かないので、踊りなどとは、まったく無縁に生きて来た。貴族が宴で踊る、男女が組んでの踊りも出来ないし、歌劇や舞踏団の劇場へ行くこともほとんどなかった。

 そんなカイエンから見ても、トリスタンの踊りは見事なものだった。いや、カイエンのような体だったからこそ、その踊りの価値が実感できたのかもしれない。

 広い食堂の、夏ならばソファが置かれている場所は今、ソファが暖炉のそばに移動しているので、広い空間となっている。

 格子のガラス窓には、分厚いカーテンがかかっており、トリスタンはそのカーテンを背景に踊っていた。

 トリスタンとしては、底に金属を貼った特別な踊り靴ではないので、今夜の踊りは、決して本格的なものとは言えなかっただろう。だが、誕生日の宴とあって、大公宮馴染みの小さな楽団を呼んでいたのがそれを補った。

 もっとも、楽団は「百合の谷の妖精王の踊り」の曲などは知らなかったので、トリスタンに言われた通りにリズムを刻むに留めていた。

 それでも、踊る彼の動きはまさしく、百合の咲き乱れる谷に住むと言う、妖精王リリエンスールなのである。

 音がなくとも、リズムだけを背景に、彼は踊りだけで物語を表現できるのだ。

 食堂の床が木の床だったことも幸いし、この日、トリスタンが履いて来た正装の革靴の底でも、それなりの音が聞こえたことも大きかっただろう。

 

 カイエンは、トリスタンを応接室に置いたまま、アキノに指示して奥の食堂へやり、オドザヤをミルドラの隣に座らせ、アグスティナのふりをさせるように指示した。

 応接室での出来事も、簡単に伝えるように、カイエンは指示するのも忘れなかった。

 イリヤがアキノの後に続き、そして恐らくは応接室の扉の陰に隠れていた、ヴァイロンとシーヴは、アキノと一緒に食堂へ戻って行った。

 そして、しばらくしてから、カイエンはエルネストと、トリスタン王子を引き連れて誕生日の宴の会場へ戻ったのだ。ザイオンの外交官は、青い顔で、「私はここで待たせていただきます」と応接室に残った。

 あの顔つきでは、トリスタンのずうずうしさには、もう付き合えない、と思ったのだろう。

 食堂へ戻って見ると、オドザヤはミルドラの隣に座っており、オドザヤの反対側の隣には、ミルドラの次女のバルバラが座っていた。反対側のミルドラの隣は、三女のコンスエラだ。

 カイエンはまず、最初に、実のところは今日のこの宴にいる人物の中では、オドザヤの次に身分の高い、皇女のリリエンスールをトリスタンに紹介した。彼も、リリへ挨拶したいと言っていたのだから、ここまでは自然な流れだ。

 リリは、ミルドラに抱かれていたが、目の前で深々と頭を垂れたトリスタンには、不思議な反応をした。

「あ。あゆ、うなの。あうなの、あういの。ねね、あういな、の」

 この頃、喃語を口にするようになっていたリリだったが、この時のそれは、何か言いたげで、まだ舌がうまく動かないので、伝えきれない、とでも言う風に見えた。リリはしばらく、あばあばと唸っていたが、最後の最後にカイエンの方を見ると、なんだか睨むような目をしたので、カイエンは冷やっとした。

 カイエンも、この妹で従姉妹のリリが、シイナドラドで自分の悪夢の中に出て来た時から、何か、目に見えない共有する世界があることには気が付いている。

 だが、残念なことには、まだリリの意思が直接、言葉としてカイエンに伝わることはなかった。

 そして、カイエンは伯母のミルドラから始まって、簡単にそこに集った人々を紹介し、そのまま王子が自慢の踊りを披露してくれることになった、と告げたのだが。

 トリスタンは部屋の隅に控えた楽団に何か指示しながら、着ているとんでもない「盛装」の中から、羽織っていたマントと、大綬を外している。横には抜け目なく執事のアキノが控え、それらを丁寧な仕草で受け取っている。

「カイエン……」

 カイエンは、目の前のミルドラが、密かな声で呼ぶ声に、そちらに目を向けた。

 だが、ミルドラは何か言おうとしたが、結局、黙ってしまった。カイエンはその様子に、先ほど、応接室でエルネストとイリヤが彼女を押しとどめるように言った言葉が思い出された。

(おい、カイエン……)

(えーっと、殿下?)

 だが、カイエンがその違和感の正体に気がつく前に、もうトリスタンは踊り出してしまっていたのだ。

 カイエンは、ミルドラたちの座る、暖炉の前のソファの向かい側に、エルネストと並んで座った。

 その時も、エルネストは何か言いかけ、そして、何も言えずに黙ってしまった。この、ミルドラとエルネストの様子に、カイエンは大いに引っかかるものを感じてはいたのだ。

 だが、実のところ、もうそれは手遅れだったことも確かだった。


 踊り終わったトリスタンが、静かに礼をして、観客達の方へ顔を上げた時。

 カイエンは何かに引き寄せられるようにして、どうしてかはわからないが、ミルドラの長女、アグスティナに化けている、オドザヤの顔を見た。

(えっ……)

 そして、カイエンはオドザヤの表情に、見たことのない表情を見て、心中で驚いた。

 オドザヤの顔には、なんの表情も浮かんではいなかった。そこに見えたのは、完全な無表情。

 それは、他の三人の若い娘、バルバラやコンスエラ、それにガラや教授と並んで見ていた、アルフォンシーナの顔つきや様子とは、明らかに違っていた。

 バルバラやコンスエラは、頰を薔薇色に火照らせて、きゃっきゃと、だが少し恥ずかしそうに目を見合わせて楽しげで。

 アルフォンシーナの方は、なんだか苦い顔をしている教授の耳元で、何か一生懸命に囁いている。彼女の顔も、やや紅潮しているように見えた。

 なのに。

 オドザヤだけが。

 オドザヤは、青白くみえるほどに色を失っていた。

 そして。

 トリスタンがゆっくりと顔を上げた時。

 カイエンの見守る中。

 一瞬だが、オドザヤの凍りついたような琥珀色の瞳と、トリスタンの人工的な冷たい緑色の瞳が見合わさったのだ。

 その、一瞬ののち。

 オドザヤの青ざめてさえいた頰に、一気に昇ってきたのは、鮮やかすぎる血の色だった。

 オドザヤ自身も、おのれの体の反応に気が付いたのだろう。

 ハッとしたように、自分で自分の頰を抑える彼女を、いくつもの、確信を持って見守る大人達の目が見ていた。

(あ……まさか……まさか)

 カイエンには、自分がどうしてそう思い、ついで、自分の頭からすうっと血の気が引いていったのか、その瞬間にはわからなかった。

 はっきりと分かったのは、トリスタンもオドザヤも、ミルドラたちも帰り、大公宮の住人だけになった時だったのだ。

 ヴァイロンも、エルネストも、彼の侍従のヘルマンも、執事のアキノもイリヤも。そして乳母のサグラチカも、護衛騎士のシーヴも。そして、教授とガラも、新しい住人のアルフォンシーナでさえも。

 マリオとヘススは無言だったが、彼らも同じことを言いたいのだと言うことは、彼らのいつも無表情な顔つきからさえも読み取れた。

 彼らはカイエンを取り囲み、てんでにオドザヤの様子への危惧を訴えてきたのだ。


「どうやら、あの、踊り子王子様だけは、陛下に会わせてはいけない人物だったようですね」


 最後に、やっとことの重大さに気が付いたカイエンが、沈むように座り込んでしまったソファの向かい側から、教授がいった言葉が、そこにいたすべての人々の思いを代弁していた。  




 ザイオンの外交官官邸へ戻る馬車の中。

 トリスタンはくすくすと、忍び笑いを漏らし、大使に気味の悪い思いをさせていた。

「僕の魅力も、大公には通用しなかったね。……男妾がいる上に、シイナドラドの皇子をたらしこんだ、スレた女には、ちょいときらきらさせすぎたかな。でも、あの、輝かしくも無垢な女帝の方は、どうかな?」

 そう呟いた、トリスタンの声はどこか楽しげで、薄暗い期待に満ちていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る