かくてシュトルムは死せり
ああなんということだ
その時まで
かの女大公カイエンは
恋というものを知らなかったのだ
男妾と言う名の伴侶と
押し付けられた配偶者からの
愛情をその身で受け止めながら
その理由のない一途さ
その一途な激しさの向かう先
そこに
どんな色の世界が広がっているのかを
ついぞ自覚したこともなかったのだ
ああ、彼女はその時まで知らなかった
彼女の姉妹が恋という不可侵の病に
罹患するまでは
そして
彼女自身にも
その厄介な病が
押し寄せて来るまでは
アル・アアシャー 「海の街の娘の
さらり、と金色の長い髪の一部が、王子の来ている正装の胸元へこぼれた。
香しい花の香りでもして来そうな、優雅な仕草で、ザイオンの第三王子トリスタンは恭しく、カイエンの前にこうべを垂れた。その挨拶はもちろん、立ったままだ。
ザイオンの第三王子と、ハウヤ帝国の大公、どちらの地位が上だろうか。
大公のカイエンは前の大公のアルウィンの娘だが、アイーシャが皇后に立てられた時に、大公妃などいなかったことになされた。それによってカイエンが庶子とならぬよう、彼女は祖父のレアンドロ皇帝の末子の皇女ということにされたのだ。
ハウヤ帝国の国力は、今の所は、ザイオン女王国よりも優れている。国土も広い。
だが、大公となってからは臣下に降りた身だから、厳密に言えば王子のトリスタンの方が上だろう。
だがだが、ハウヤ帝国大公カイエンは、他国の第三王子風情にへり下る気は、全然、なかった。
「こんなお時間に、何事でしょう? 今日は私の娘の誕生日。こんな夜に、先触れもなしにいらっしゃるとは。……ザイオンではこういう訪問のし方が普通なのですか?」
カイエンは応接室へ入ると、トリスタンの挨拶を無視したように、自分は名乗りもせずに質問で返した。これで、むかっ腹でも立ててくれれば、向こうからボロを出さないとも限らない。もっとも、カイエンはそれを期待していたわけではなかった。
すると、敵もさる者で、トリスタンは下げていた頭をあげるなり、その美しい顔に有るか無きかの微笑みを浮かべたものだ。
「……ハーマポスタール大公殿下でいらっしゃいますね?」
そして、男としては優しい、音楽的な声で言った言葉がこれだ。カイエンが挨拶を返さなかったことへの皮肉だろう。だが、カイエンももう、この程度のことで動揺するようなことはなかった。かえって闘志が湧いて来たほどだ。
「もう一度、うかがいます。先触れも無しに、こんな時間においでになったのは、本当に、間違いなくザイオンの第三王子、トリスタン殿下なのでしょうね? それに、そちらの方も、本物のザイオン大使なのでしょうか」
カイエンは、わざと、トリスタンの問いには答えなかった。ザイオン大使には直接会ったことがなかったのが、後ろで顔を青くしたり赤くしたりしている、ザイオン大使を巻き込むにも幸いした。
トリスタンの方も、さっきのカイエンの問いには答えていない。
このやりとりは、最初に相手の言葉に反応した方が先手を奪う。
それは、どうやらカイエンにもトリスタンにもわかっていることのようだった。
「あの……少々、お待ちください。王子殿下! ここは……」
ザイオンの外交官、ザイオンの子爵だという中年男は、外交官のくせに慌てている。
彼は、外交官にしては慌て者のようだった。もっとも、非礼をしているのは自分たちの側で、下手をすればザイオンがハウヤ帝国に言い出した、縁談話が壊れかねない、と危惧していたのかもしれなかった。
執事のアキノは、左手に杖を突き、応接室の入り口で仁王立ちになっているカイエンの背後で無言を守っている。
「おや。急にお静かになりましたね。やっぱり、ザイオンの王子を騙る偽物かなんかなのでしょうか。……偽物なら、さっさと身柄を確保して、本物のザイオンの外交大使に引き渡さねばならん。……アキノ、イリヤたちをここへ」
カイエンが澄ました顔で命じると、アキノは恭しく承って、扉の脇に立っている侍従に合図する。侍従はすぐに応接室の外へ出て行き、代わりに他の侍従が二人、入ってきた。
カイエンが驚いたことに、その二人は、ナシオとシモンの影使い二人組だった。
(私の部下には、もったいないほどの有能さだな)
扉の方へ半身を向けていたカイエンは、内心舌を巻いた。二人とも、きちんと侍従のお仕着せを着込んでいる。
ザイオンの外交官の顔色は、カイエンの言葉を聞くと、真っ青を通り越して、どす黒くなったが、トリスタンの方は落ちついたものだ。
(まあ、それにしても華美で大げさ、そして派手としか言いようのない、大仰な衣装で来たものだ)
カイエンはトリアスタンの頭の先から、足の先までを、興味深くゆっくりと見させてもらった。
まず、背はそんなに高くない。
並外れて大きい、ヴァイロンやガラとは比べる方がおかしいが、かなり長身のイリヤやエルネストと比べれば、頭半分近くは低いだろう。まあ、それでも中背のアルウィンなどと比べれば、高い方だ。女に化けるには、ぎりぎりの背丈だろう。
オドザヤの髪の色は、まさに黄金色、と言った趣だが、トリスタンの腰までもありそうな、長い金色の髪の色は、やや青みが入っている。だが、白金色と言うほどではない。
その光り輝く見事な髪を、耳の周りで複雑に編み込んだ髪型は、このハウヤ帝国の貴族階級では見ることのないものだ。
髪に編み込まれたビーズのようなものは、カイエンに、まだ娼館にいた頃のアルフォンシーナの髪型を思い出させた。
目の色は、肖像画を見たカイエンや、テルプシコーラ神殿へ覗きに行ったイリヤが印象深く思った通り。その緑の色合いは、ヴァイロンのような翡翠色とも、
あえて形容するものを探せば、それはワインの瓶のような、人工的なガラスの色だ。その光沢と質感は硬く、鮮やかで、しかし、どこか冷酷だった。
顔立ちは恐ろしく整っている。特に、眉間からまっすぐに伸びた、鼻梁の細い、高い鼻が印象的だ。
確かにあの肖像画の通り、彼は髭を蓄えていなかった。この顔なら、厚化粧をすれば踊り子にも化けられるだろう。髪の長さも、女の髷を結うのになんら困ることのない長さがある。
そして、服装の方はといえば。
このハウヤ帝国でも、皇帝家や、大公のカイエンなどの正装、礼装といえば、華やかなものだ。
だが、この北の国の王子の着ているものと比べれば、材質や意匠はともかく、色味はやや大人しめと言えるだろう。もっとも、トリスタンの場合には、その長い金色の髪がその装いをより華々しく演出していたとも言えた。
藍色の、にぶい光沢のある絹地の上着は、前は膝のあたり、後ろは踝のあたりまで垂れている長いもの。前に二列に金ボタンが並び、腰もとは臙脂色の、びっしりと刺繍のされた飾り帯で締めていた。
金糸で刺繍された襟元と袖口、それに礼装の上に羽織った空色の房のついたマント、肩から斜めに掛けた大綬の色は鮮やかな緑色だ。
袖口からは、今日カイエンの胸元を飾っているのと似た、淡雪のような真っ白なレースがのぞく。
肩章と、大綬を押さえる胸飾り、そして袖口には、緑色の大きな彫刻された水晶が煌めく。肩章の下から下がるのは、長い金色の飾り緒だ。こちらには小ぶりなルビーが煌めいている。
飾り紐の下には、窮屈そうに大綬以外の小さな勲章たちが並んでいた。
これだけ色々な装飾がついていると、両方の袖くらいしか、服の地色の藍色はろくに見えもしなかった。
これだけでも派手なのに、マントの裏地は、これでもか、とばかりに鮮やかな赤い色に染められているのだ。
玄関で預けて来たのか、剣は帯びていなかった。
(大公宮ここへ、こんな派手ななりで挨拶に来て、皇宮への挨拶の時には、一体、何を着ようと言うのだろう)
カイエンはアキノを後ろに従え、応接室の扉を背にして立ったまま、呆れた思いで、トリスタンの艶姿、とでも言いたくなるようなザイオン王子の正装、いやさ盛装を眺めていた。
カイエンは自分の服装などには、そんなに頓着がなく、仕立て人としてあの、ノルマ・コントが付いていなかったら、野暮ったい身なりに終始していただろう。そんな彼女をして、トリスタンの正装の前では、自分が今着ているドレスの地味さが、やり切れなく思えてくるほどだった。
華美ではあるが、トリスタンはその派手さを見事に着こなしていたのだ。
しばらく、カイエンとトリスタンはにらみ合っていたが、カイエンの方は、こんな風に相手の派手な身なりをいちいち検分しているだけで、結構、時間が潰れてしまった。
トリスタンの方も、同じようにその人工的な色合いの緑色の目で、カイエンの姿を見ていたが、カイエンは別に動じることもなかった。美しい男なら、身近に大公軍団の恐怖の伊達男、イリヤがいる。
そう言えば、イリヤとこのトリスタン王子とでは、同じように「美男」で括るにはかなり印象が違って見える。
イリヤの方は、地顔はとんでもなく良く、麗人といってもいいほどだが、その表情には、いつも他人を馬鹿にしているような皮肉な様子が見られる。その上に、言葉遣いはあの通りだから、洒脱できっぱりした物言いや態度だけが救いだ。だが、不思議に男にも嫌われている様子はない。
一方で、この金のかかった派手な身なりの似合う、踊り子王子の方は、年齢が若いこともあるのだろうが、その物腰にはおのれの美貌を計算に入れた高慢と、ある種の「胡散臭さ」のようなものが見え隠れする。
それでも、王子でありながら踊り子に身をやつして、テルプシコーラ神殿で舞ったり、オリュンポス劇場のような下町の劇場で踊っているのだから、庶民的な事情に通じた部分もあるはずだ。
だが、今夜の彼からは、そういう「親しみやすさ」は毛ほども感じられなかった。感じられるのは、「拒絶されるはずがない」という、美しさ所以ゆえんのずうずうしさだ。
そう長くはかからず、応接室の扉がノックされた。
トリスタンやザイオンの外交官はともかく、カイエンはそろそろ、立っているのもきつくなってきた頃合いだったので、内心で反応の速さに安堵した。
「入れ」
カイエンが命じると、扉を侍従に化けたシモンが開けた。
その途端、カイエンはなんだか嫌な予感がした。
「どうもー。偽物の王子サマをとっ捕まえにきました〜。あれぇ?」
背後から聞こえてきたのは、どんな時でも能天気な物言いをやめない、軍団長イリヤの声だったのだが。
次に聞こえてきた方は、カイエンが呼んでなどいない男の声だった。
「おい、曲者が現れたってのは本当か! 本物の王子でも、でかい顔させとく必要はないぞ。シイナドラド皇子の俺が話してやる」
思わず、振り向いたカイエンの目に映ったのは、丁寧に礼をしたアキノの横に立っている、エルネストの姿だった。
イリヤの方は、扉の近くで面白そうに、顔面いっぱいを使って微笑んでいる。
上がりに上がった口角の角度が、彼の感じている「楽しさ」の証だ。きっと、拷問かなんかをしてる時も、こんな顔をしているのだろう。「大公軍団の恐怖の伊達男」というあだ名の由縁である。
身分も違うし、日頃はお互い、同じ場所にいても口も利かないくせに、どうやら、イリヤとエルネストは二人で部屋にやってきたらしい。
振り向いたカイエンの視界には、まだ開いている扉の影に他にも人の影が立っているのが見えた。一番手前はヴァイロンで、その向こうのはシーヴだろう。マリオとヘススは食堂に残り、事態の動きに備えているのだろうか。
もう、侍従に化けたナシオとシモン、それにイリヤとエルネストが入っているから、広いは広いが、謁見の間と比べれば普通の部屋の応接室は、急に賑やかになってきた。
エルネストは心底、面白そうにトリスタンの正装と言う名の「盛装」を眺めている。
本当は、「女大公の夫」らしく、曲者の出現を怖がっているであろう、「妻」の手でも握りたいのだろうが、そんなことをしたらカイエンは手を振りほどいて跳びのき、忠実なアキノは飛びかかってくるかもしれない。
いや、かもしれないではない。きっとそうなるだろう。そんな場面をザイオンの王子に見せるわけにはいかなかった。
だから、エルネストは賢明にも、小柄なカイエンの後ろに、どーんと構えるにとどめていた。
エルネストの脇から、長身をやや折り曲げるようにして、トリスタンとザイオン大使の方を、じろじろと見ているイリヤは、先ほど言いかけた言葉の続きを言うことにしたらしい。
どうでもいいことだが、イリヤはエルネストを盾にして、脇からのぞいている格好だ。
「殿下〜。偽物をとっつかまえろってお話で、呼ばれて来ましたけどぅ、この方、本物ですよぉ。だって、俺が直々にテルプシコーラ神殿で、この王子サマを確認したんだもん。間違えようがありませんよぉ」
この、イリヤの言った言葉には、さすがのトリスタンも、やや顔色を変え、表情を動かしてしまった。
イリヤは今宵も、大公軍団長の黒い制服姿だから、その職分は容易に想像できるのだろう。団長のイリヤともなると、トリスタンの今日の「盛装」には遠く及びはしないものの、その制服は襟や袖口に金糸銀糸の刺繍もあるし、肩章や襟章も華やかだ。
トリスタンは、自分が潜んでいたオリュンポス劇場を嗅ぎつけ、宰相府を通じてザイオン外交官官邸に知らせてきたのが大公軍団だ、と言うことは聞いていただろうが、テルプシコーラ神殿からつけられていたとは、思っていなかったのだろう。
睨みつけるような目になったトリスタンの前で、ど平民のイリヤは恐れげもなく、いつもの口調を変えることもなく続けていく。
よく考えなくとも、未だにトリスタンに名乗ってさえいないカイエン同様、イリヤも名乗りも挨拶もしていない。
こうしてみると、恐ろしいことに大公宮側では、一応は「シイナドラドの皇子」と名乗ったエルネストが一番、まともなのだった。
「俺はこれでも、この道、十年以上ですからねぇ。変装した犯人なんかもいくらでも見てますから。女だと、化粧を変えられて、髪でも染められたらもう別人ですもん。そんなのに、この目は鍛えに鍛えられてますからねぇ。上にくっついているあれこれを取っ払った、素顔の形を瞬時に頭に描けるようになってるんですよぅ」
カイエンはふと、“メモリア”カマラのことを思い出した。あれは極端な例だが、イリヤにもそれなりに専門職の特殊能力が備わっているらしい。
「上に塗られたり、付けられたりしているものを取っ払った、骨格かなんかだけを見るんだな」
カイエンがそう言うと、イリヤがちょっと驚いた気配が伝わって来た。カイエンとエルネストは並んでイリヤの前に立っているので、彼の表情は見えない。
だが、恐らくはいい年をして、得意満面の顔をしているだろう、そのイリヤの表情は、トリスタンと大使にはしっかりと見えていることだろう。
「そうそう、それなんですよ。殿下は、この頃、成長著しいですねえ。積ん読、乱読で下々の事情にも通じてるせいでしょうねぇ。そう! 骨格なんですよぉ。こればっかりは骨を削ぐわけにはいきませんからね。化粧やなんかで、目の錯覚起こさせて骨格も変わっているみたいに見せる奴もいますが、見慣れれば、ね」
「なるほど。そうか」
カイエンはイリヤの説明に、もっともらしくうなずいて見せた。眼前のトリスタンと大使は無視した格好だ。
「では、この方は間違いなく、ザイオンのトリスタン第三皇子殿下、と言うことだな。……それでは、仕方がない。先ほどから何度もお尋ねしているが、お答えがないから、この突然のご訪問も、ザイオン流と言うことなら、仕方がないだろう」
ここまで言うまで、カイエンはトリスタンの顔を見上げることもしていない。小柄なカイエンがまっすぐに見て、視界に入るのは、トリスタンの肩のあたりだが、カイエンはそこから目線をあげようとはしなかった。
「では、ご本人との確認も取れましたことですし、この大公宮の
カイエンはそう言うと、左手に銀の持ち手の黒檀の杖を突いてはいたが、優雅に貴婦人の挨拶をしてみせた。
「ハーマポスタール大公、カイエンでございます。ザイオンのトリスタン王子殿下には、お初にお目もじいたします……では、どうか、お掛けください」
そこまで言うと、カイエンはトリスタンへは優雅に手で向かいのソファを示しながら、自分はさっさと下座の方のソファへと座ってしまった。いい加減、立っているのが辛くなっていたのだ。
「先ほど、勝手に名乗っていたようでしたが、これは私の配偶者、エルネスト。シイナドラドの第二皇子でございます。後ろに立っていのは、我が大公軍団を任せております、軍団長のイリヤボルト・ディアマンテスと申します」
エルネストの方は、カイエンの隣の一人がけのソファに、黙ったまま座る。トリスタンを見るその表情は、珍しい動物、それも珍しく、美しい孔雀でも見ているような顔つきだ。
「……アキノ」
さすがに、トリスタンとザイオン大使の前には、茶菓が出ている。さりげなくいい食器を使っているのは、アキノの判断だろう。
だが、もうその紅茶はとっくに冷え切っているように見えた。
「かしこまりました」
アキノは黙って、応接室から出て行く。
ややあって、戻って来たアキノは、お茶のポットと、カップの乗せられたワゴンを押して戻って来た。今度は前の茶器よりも、もっといいものを選んでいる。縁に分厚く盛り上げた金で草花紋の描かれた、青緑色の陶器だ。色は、トリスタンの装いに合わせたと言うのだろう。
「それで、何のご用件でしたか。先ほど申し上げましたが、今宵は私の娘の誕生日。早く戻ってやりたいのです」
カイエンはあえて、自分も誕生日だとは言わなかった。今日を狙ってやって来た以上、トリスタンはそれも承知のはずなのだ。
「ええ。これも先ほどすでに申し上げましたが、この度の私のしでかした事で、大使が大変お世話になったことです。その御礼に参りましてございます」
トリスタンはもう、立ち直ったようだ。
カイエンとエルネスト、それにカイエンのソファの後ろで、恐らくはにやにや笑いの止まらないイリヤの上を、その無機質な緑の瞳が、ぞろりと一巡した。
「そうでしたね。確か、我が国の皇帝陛下に懸想なさって、お国を出奔同様に飛び出されたとか。ですが、パナメリゴ街道沿いにこのハウヤ帝国の版図に入ったあたりから、連絡が取れなくなった、ついてはこちらでも探してもらいたい、と言うお話を……そこの大使殿が宰相の元へ持っていらした。そのことでしょうか」
カイエンがそう言うと、心配げな大使をよそに、トリスタンは気恥ずかしい、とでも形容するしかない羞恥の表情を作って見せた。踊り子王子だけあって、なかなかの演技派だ。
「ええ、その通りなのです。ここの大使が送って来た、オドザヤ皇帝陛下の似姿を見て、一目惚れいたしまして。兄達はあまり今度の縁談には乗り気でなかったのを幸い……」
「国を飛び出して来られたと?」
カイエンの声音は、演技せずとも疑いのこもったものになる。
「そもそも、今、陛下の似姿とおっしゃいましたが。このハウヤ帝国から陛下の肖像画をザイオンへ送ったことなどないはずです」
カイエンがずばり、と指摘してみせると、トリスタンはもう答えを用意していた者のしたたかさで答えて見せた。
「はい。ですが、この六月のオドザヤ皇帝陛下のご即位の時、ハーマポスタールの読売り各紙に、皇帝陛下と大公殿下の肖像が載りましたでしょう。あれを、この大使が送って寄越したのです」
カイエンは、思い切り顔をしかめたくなるのを、グッとこらえた。あれは、宰相のサヴォナローラが仕組んだことだが、こんなところまで余波があるとは、想像もしていなかったからだ。
「そうでしたか」
帝都で大量に振りまかれた読売りを、ザイオンに送ってはいけない、とは言えない。
「なるほど。だから、王子殿下は、私がこの部屋に入って来てすぐに、私がお分かりになったのですね」
カイエンがそう言うと、トリスタンはにこやかにうなずいた。
「はい。アストロナータ神のごとき清廉なお姿の大公殿下。すぐにわかりましてございます」
カイエンは心の中で、
(杖を突いて出て来たからだろ。気持ち悪いおべっかをつかいやがって)
と吐き捨てたが、表情はこちらもにこやかさを保った。
「国を飛び出して、非公式にこの国までいらした……と。まあ、そこまではいいと致しましょう。しかし、すぐにこちらの大使を通じて皇宮へ伝えず、踊り子の真似などなさって、ハーマポスタール市内で御隠れになっておられたのは、何故なのです?」
そうカイエンが聞けば、トリスタンはもう用意して来た言葉をその赤い唇から、唄のように流してくるだけだ。
「私が転がり込みました、あのオリュンポス劇場の支配人は、私の実の父親の友人なのです。ああ、私は兄達と父親が違っています。これももう、ご存知なのではないですか? テルプシコーラ神殿から追われていたとなれば、ご存知でしょう。旅の空から、その気ままさにすっかり毒されましてね。あそこでまた、自由気ままに数日過ごしましたら、王子の堅苦しさに戻るのを一日、また一日と伸ばしてしまったのです」
ここでトリスタンは一息ついた。
「こちらの大公軍団の方々に、見つけていただけて本当によかった。そうでなかったら、ここの大使は本国に責任を問われて難儀したでしょうし、私もいつまでたっても皇宮へご挨拶にもうかがえなくなるところでした」
立て板に水、とは、この時のトリスタンの話し方のことだろう。
カイエンだけでなく、横のエルネストも、後ろのイリヤとアキノも、呆れながら口を挟む隙間を見つけることさえ出来なかった。
「今日ここへ参りましたのは、そのお礼と、皇宮へご挨拶に上がる橋渡しを、大公殿下のお慈悲にすがって、なんとかお願いできないかと、思いあぐねてのことでございます」
言い切ると、トリスタンはソファから立ち上がり、脇へ一歩下がって、深々と頭を下げた。
「こうしてお願いに参ってみれば、おのれの不見識を恥じるばかりですが、なにとぞ、よろしくお計らいいただけますよう、お願い申し上げます」
カイエンは黙っていたが、ここで横のエルネストが口を開いた。
「お願い致します、は結構ですが、今日、先触れもなしに、ここへ押しかけていらした方のご説明が欲しいですな」
さっき、部屋に入って来たときには、いつもの話し方だったが、エルネストも皇子らしい話し方ができないわけではない。
この問いに、トリスタンは、演技ばればれの言葉を、いけしゃあしゃあと言ってのけた。
「申し訳もございません。ここの大使にせっつかれまして、おのれの不調法を理解した途端、居ても立っても居られなくなりました。やはり、兄たちと違って、父の出自が卑しいせいでしょうか。いや、こう言っては母の立つ瀬がございません。すべては我が身の不徳の致すところでございます」
ずうずうしいにも程があったが、カイエンもエルネストも、これには緩い微笑みを返すしかなかった。
世の中、ずうずうしい方が勝つ。その証左が目の前にいるだけである。
ずうずうしい王子の方は、なおも言葉を続けた。
「本日、リリエンスール皇女殿下のお誕生の日に、こちらへうかがって参りましたのも、何かの縁。皇女殿下に御目通りを願えないでしょうか」
と。
この言葉は、悔しいが、カイエンは無視することができなかった。
確かに、先触れもなにもなしの不作法ではあったが、こうしてザイオンの王子が訪問して来て、その日に宴をしているものを玄関先の応接室であしらって、門前払いにするのは、あとでこちらの落ち度と言われかねなかった。
こうして本物の王子とお互いが納得し、挨拶を交わしてしまっているのだ。
オドザヤを皇宮へ帰すべきか、と考えたが、カイエンは何故か思いとどまった。
オドザヤは、この縁談を心底嫌がっていた。だから、この派手で華美な盛装に身を包んだ、いかにも妖しげな王子を見せても嫌悪感をいや増しこそすれ、動揺することなどは逆にあるまい、と思い込んでしまったのだ。
この時点では、オドザヤはもとより、宰相のサヴォナローラも、元帥大将軍のエミリオ・ザラも、この縁談は断るつもりだった。
他にオドザヤに決まった縁談がないとは言っても、最悪、弟のフロレンティーノが推定相続人である現状を前に出せば、ザイオン側がゴリ押しできるわけがない。
当の王子の軽はずみな行動を見て、こんな軽い人物では困る、と言ってやってもいい。
この踊り子王子の本性を明るみに出せば、縁談を断りやすくなるに違いなかったのだ。
カイエンの頭の中に、その時、伯母のミルドラの二人の娘たちが思い浮かんだのも、いけなかった。
ミルドラの長女、父のヘクトルに似た、金髪のアグスティナはクリスタレラ近郊の郷士である、ポンセ男爵家に嫁ぎ、クリストラ公爵家の後継は、ミルドラに似た次女のバルバラに決まっている。
嫁いだアグスティナは、今回はハーマポスタールに来ず、クリスタレラに留まっている。
オドザヤとアグスティナは、そんなに似ているわけではないが、ミルドラの横に座らせ、「長女のアグスティナ」と紹介すれば、今夜のところは済む。
後日、トリスタンが皇宮へ挨拶に上がってくれば、
カイエンは、この時、完全にオドザヤの心の動きを予想し違えていた。
オドザヤが皇太女になってからは、親しくなったが、三年前まで、ほとんど会ったこともなかった妹のことを、よく知っているつもりになっていたのだ。
「そうだ。素晴らしい踊り手であられるトリスタン王子殿下に、お願いがあります。私の娘、リリエンスールのために、ひとさし、ご自慢の舞を披露してくださいませんか」
この時、どうして、この言葉を言ったのかと、後々、カイエンは大いに悔やむことになる。
だが、この時には、まさかそんなことが起きるとは、思いもしなかったのだ。
そもそも、踊り子王子といえども、一国の王子として名乗りを上げたのだ。断られる可能性の方が高いと思っていた。
「おい、カイエン……」
「えーっと、殿下?」
カイエンよりは年長なぶん、エルネストとイリヤはこの事態の行方を危ぶんだらしい。
だが、カイエンは残念なことに、彼らの言いたいことが、この時には読み取れなかった。
「カイエン様、あちらの方はどういたしましょう」
アキノは暗に、オドザヤを先に帰らせるべきだ、と示唆して来たが、これにもカイエンは首を振ってしまっていた。
「おお。それは、こちらからお願いしたいくらいです。衣装もなにも持って来ておりませんが、今日の礼装でも、肩章や大綬、それにマントなどを外せば、簡単な踊りならご披露できるでしょう。『百合の谷の妖精王』の踊りなど、リリエンスール皇女殿下のお名前の由来にも合うのではないでしょうか」
トリスタンがリリエンスールの名を出したので、カイエンはこの思いつきを疑うことなく受け入れてしまった。
「それはいい、ぜひ、お願いいたしましょう」
嗚呼。
カイエンが、この時のおのれの能天気な頭をかち割ってしまいたい、踊り子王子を侮った自分は、まだまだひよっ子だった、と
十二月の北の果て、マトゥランダ島を向こうの水平線に見るそこは、もう雪に降り込められた真っ白な世界だった。
ハウヤ帝国と新生スキュラとの国境を越え、スキュラの首都ドネゴリアからも、すでに二百キロほども北上した、夏でも涼しい寒冷な土地。
その厳しい自然の中の、北海に面した入り組んだ入江の一つ。急峻な崖に阻まれた、この土地のものにしか知られていない里。
小さな漁港のような港には、旧式なガレー船が、その日も停泊していた。
「寒い。……お母様に聞いていたけれど、スキュラの冬は本当に身動きできないほどに寒いのね」
それでも、部屋の中は轟々と燃える暖炉のおかげで暖かかった。
ふう、とアルタマキアは、閉じ込められている部屋の中で今日も変わらず、ため息をつくしかすることがなかった。
この村長の屋敷らしい建物の中では、アルタマキアの入れられている部屋は、迷路のように連なった廊下の、奥の奥に位置している。
離れのようでもあるが、この冬の寒さを考慮して作られた屋敷は、部屋と部屋が壁でしっかりと密着するようになっている。
部屋の中にあるのは、それなりに大きな丈夫な木造りの寝台と、アルタマキアが食事をさせられる時に使う、野暮ったい彫刻のされた、木のテーブルと椅子。
それに、壁際に押し付けられるように置かれた、三人がけくらいある革張りのソファだけだった。
夏に国境付近で、マトゥサレン一族の軍勢に拉致されてからこのかた、この部屋に軟禁状態のアルタマキアは、差し入れられた刺繍の道具で、自分の着せられているガウンにとんでもなく豪勢な刺繍を施した。
逃亡を恐れているのか、アルタマキアには普通のドレスは与えられなかったので、他に刺繍をするものもなかったのだ。
仕方なく、寝台のカバーや、ソファに置かれたクッションのカバーなども飾り立てて見たが、それもすぐに終わってしまった。
本を持ってこい、と、この寒冷地の潮風に長年吹かれて、しわくちゃになってしまったような、世話役の枯れ細った老婆に命じたこともある。だが、老婆が持って来たのはこの辺りで信仰されている、「世界樹の神殿」の祈りの本で、読み古されたそれは、どうやら老婆の私物らしかった。
アルタマキアは、暇なこともあり、この書物に目を通したが、それほどの感銘も受けなかった。
だから、この頃のアルタマキアは、ひたすらに裁縫の腕を振るっていた。
ハーマポスタールの皇宮にいたときは、裁縫など大嫌いだったが、ここでは立派に暇つぶしになった。今、作っているのは新しい彼女自身の部屋着だった。
与えられないなら、作ればいい。
アルタマキアは耳も遠い老婆に命令して、暖かそうな毛織物の滑らかな生地を持ってこさせ、それを型紙からおこして、簡単なドレスを作ろうとした。母のキルケに教わったから、簡単な衣装の型紙は作れる。
もう、部屋着自体はなんとか出来上がり、アルタマキアはそれの下に着るブラウスの方に取り掛かっていた。これも、残すところは襟元や袖口の刺繍だけとなっていた。
「ふう」
ここへ連れてこられて、もう四ヶ月になる。
アルタマキアが唯一、安堵していることは、まだ妊娠してはいない、ということだけだ。
それは、ここへ連れてこられてから、随分痩せたこともあって、月のものの訪れが絶えているおかげだろう。
いくらまだ十五の娘とはいえ、田舎なら結婚することもある年齢だ。普通ならば、二人の男に夜な夜な、「夫」としての義務を遂行されていれば、身籠ってもおかしくはない。
アルタマキアが無理やり、娶された男二人は、最初はその名前すらも教えられなかった。
マトゥサレン一族のマトゥランダ島からやって来た夫達の背中には、真っ黒な、原始的で奇怪な文様を描く刺青があり、初めはアルタマキアの前では言葉も発しなかった。だから、彼女はしばらくの間、彼らはアンティグア語を解さない蛮人だと思っていたくらいである。
だが、四ヶ月もの間、同じ屋敷に住み、閨を共にしていれば分かって来ることもある。
どうも、二人の夫のうち、地位が高い方の名が、シュトルム。そして、シュトルムにやや譲るところが見える方が、リュリュという名であること。
シュトルムの方は外見は貴公子風で、背も高くなく、アルタマキアの髪の色と似た、淡い金髪に、淡い空色の目をしていた。だが、アルタマキアの前ではこの男の方がいささか乱暴で、彼女に最初に挑んで来たのも、こちらの男だった。
もう一人の、リュリュという男の方は、なんだか優しげな名前とは違って、引き締まった体で上背もあり、筋骨たくましい男だった。髪の色は精錬された鉄のような黒ずんだ銀色で、目の色だけは名前のように優しく、菫色をしていた。
リュリュの方は、アルタマキアに対しては当たりが柔らかく、夜毎の営みの後に、さっさと部屋を出て行くシュトルムとは違い、アルタマキアの体を清めてくれたりもした。
とは言っても、アルタマキアはこの二人のどちらにも、なびいたりはしていなかった。
四ヶ月にもなれば、閨事にも慣れてはきたが、アルタマキアの心は決して折れなかったのである。
この日。
パナメリゴ大陸のかなり北方に位置する、この里では、とっくに日は暮れ、外はまっ暗になっていた。
アルタマキアは、ふと刺繍していた手元から、目を上げた。
おかしい。いつもなら、とっくに干からびた老婆が晩御飯を運んできている頃合いなのに。鍵のかけられた扉の外には気配さえない。
その時、彼女を戸惑わせていたのは、理由のわからない違和感だった。
屋敷の中は静まり返っている。
もう、アルタマキアは知ってるが、この村長の屋敷の家族たちは、彼女の軟禁されている部屋とは違う方向の建物で生活している。
この棟に住んでいるのは、アルタマキアと二人の夫、それに世話係の老婆だけなのだ。
アルタマキアは、テーブルの上に、刺繍しかけのブラウスを置いた。白い、絹の混じった毛織物の肌触りのいい生地で、受け取った時には、こんな田舎でもこんな生地が手に入るのか、と嬉しくなったものだ。
耳をすますアルタマキアの耳に、かすかな物音が聞こえてきた。
そして、その後に続いたのは、男二人が、遠くで争いあう声だった。
ここまで聞こえてくる男の声と言ったら、アルタマキアの二人の夫のものとしか思われない。
なんだろう、と思っているうちに争う声も止み、次に聞こえてきたのは、この部屋へ向かってくる足音だ。
だが、足音は一つだけで、その後に何かを引き摺るような音が聞こえる。この屋敷の床はすべて、防寒を考えた厚い板張りだから、その音はこの屋敷の住人たちにまで聞こえるような音ではない。
もう、アルタマキアは、何事かが自分のいる棟で起こったことを察知していた。
足音が、アルタマキアの部屋の前で止まり、次にゆっくりと扉の鍵が開けられる音が続いた。
がちゃり。
凍りつくアルタマキアの前で、部屋の扉がノックもなしに開かれた。
そして、見せられたのは、一人の男が床に叩き付けられるところだった。
どさっとも、ぐしゃっともつかぬ、なんとも言えない嫌な音がした。
見えたのは、テーブルに面して座った彼女の前に投げ出された、二人の夫のうちの一人、シュトルムのありえない、不自然な方向に曲がった首。そして、白目を剥き、引き攣った顔。
床の上に散った、彼女のそれと良く似た、白っぽい金髪の色だった。
えっ。
アルタマキアは、驚きのあまり、とっさには声が出てこない。
死骸の向こうに、そこへそれを放り出した者の、分厚くてごつい、革製の長靴のつま先が見えた。
恐る恐る、つま先から足首、足から胴、胸、と視線を上げていったアルタマキアは、見た。
シュトルムの死骸の、ああ、それは紛れもなく死体だった……の向こう側に立つ、もう一人の夫、リュリュの、青ざめた顔の色を。その輪郭を。
「……俺と一緒に来るかい? ハウヤ帝国の皇女様よ」
その声に、はっとしてアルタマキアの薄い空色の瞳がとらえたのは、青ざめた顔の中の、リュリュの真剣な菫色の目だった。
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