火の鳥の赤い踊り靴


「シリル様より、早馬にて、お手紙と贈り物とがございましたので、持って参りました」

 そう言って、ザイオン女王国の外交官である子爵が、直々にオリュンポス劇場に現れたのは、もう十二月になって数日が過ぎた日のことだった。

 外交官は地味な服に、地味な馬車を仕立てて、劇場の一番忙しい、夜の部の始まる時間帯を選んで訪れた。

 それも、裏口に回って馬車から降りたのだが、その様子は大公宮の影使いの一人である、ナシオによってしっかりと目撃されていた。

 劇場へ入って行った外交官を出迎えたのは、劇場の支配人だったが、彼はもう外交官の顔を見知った様子で、三階のトリスタンの部屋へ取り次いだ。

「……お父さんから? 父上じゃなく」

 舞台に出る前だったので、トリスタンは目の覚めるような純白の、花びらが幾重にも重なったような衣装をまとっていた。その顔は真っ白に化粧され、その上に舞台用の過剰な陰影がつけられているので、本当の顔を想像することは難しい。

「はい。王配殿下ではなく、シリル様よりのお便りでございます」

 トリスタンは、彼と向かい合って座った外交官が差し出す、クリーム色の封筒と、それに大きな学術書の本くらいの大きさのある箱を受け取りながら、怪訝そうな顔をした。

「お父さんが……ねえ」

 どうやら、トリスタンは実の父であるシリル・ダヴィッド子爵のことを「お父さん」、対外的には父とされている王配殿下ユリウスのことは「父上」と呼び分けているらしい。

 トリスタンは、大きな箱の方は脇の机の上へ置き、最初にクリーム色の封筒の方の封蝋を改め、裏に書かれた小さなサインも改めた。

 そして、中の手紙を取り出したが、それはたった二枚の紙で、しかも文字は一枚目にしか書かれていなかった。

 それを黙って読み下したトリスタンだったが、短い文言の中に隠されたものを探している、とでも言うように、その緑色の目は何度も文字の上を舞い戻った。

 やがて、やや眉をしかめて顔をあげたトリスタンは、外交官の方は見ようともせず、今度は大きな箱の方に取り掛かった。

 箱は薄い木で作られたもので、どう見ても古ぼけている。

 上から蓋が被せてあり、箱の周りを、これだけは新しい赤と緑色のリボンを十字にかけて結んであった。

 外交官が黙って見守る中、トリスタンはもう、箱の中身がわかっているように、疑いもなくするするとリボンをほどき、木箱の蓋を開けた。

「ああ」

 トリスタンはため息のような声を出すと、箱の中に手を突っ込んで、その中から、どず黒く変色した、だが元は赤い靴だったとかろうじて分かる代物を取り出した。

 靴は古くて、革の色も変色していたが、靴紐だけが新しい。その靴紐の色が、鮮やかな緑色なのが、やや異様に映った。

 そして、古い靴ではあったが、革の様子を見れば、ごく最近に手入れのされたものであることが、すぐにわかった。

「それは……?」

 沈黙に耐えかねたかのように、外交官が小さな声を出すと、トリスタンは取り上げたどず黒く変色した赤い靴をくるりと裏返した。

 靴の裏には革が貼られており、足先の方と踵に、変色し磨耗した金属が貼られていた。

「これかい? 多分、火の鳥の踊り靴だよ」

 外交官の子爵は、それを聞くと、ああ、と納得したようだった。

 シリル・ダヴィッドが、チューラ女王に見出される前にしていた生業のことを、彼は知っていたのだろう。

「困った人だなあ、お父さんはぁ」

 トリスタンは、そう言うと、もう外交官の方には構おうともしなかった。

 もう帰っていいよ、とでも言うように、彼が指の長い手をひらひらと振ると、外交官は大人しく立ち上がった。

「お返事は、どういたしましょう」

 それでも、返事のことを聞いたのは、彼直々にこの劇場まで来た理由と同じだろう。この真っ白な衣装に身を包み、女にしか見えない化粧を施した麗人は、彼の祖国の第三王子なのだ。

「……返事? そんなのいらないよ。お父さんは、ああ見えて気が短い人なんだ」

「はあ」

「子供の頃なんか、ちょっと聞き返したりしただけで、癇癪を起こしてさ。まあ、踊り以外のところじゃ、うすらぼんやりな人なんだけどね。今度のは踊りのことだから、猪突猛進してくるんだろうね。だから、返事なんか待ってやしないよ」

 もう一度、トリスタンが今度はややうるさそうに手を振ると、ザイオンの外交官は静かに椅子を立った。

「では、失礼いたします」

 外交官がそのまま、扉を開けて出て行こうとすると、そこでトリスタンは思い出したように声をかけた。

「ああ、そうだ。前に、オドザヤ女帝の誕生日は、もうとっくに終わっちゃっているって言ってたね」

 外交官の子爵は、帽子を被りながら、答えた。

「ちょうど、前の皇帝の崩御と、女帝の即位式の間だったそうで、今年はお祝いもなされなかったと聞いております」

「そうなの?」

 そこで、外交官は思い出したように言った。

「フロレンティーノ皇子の満一歳の誕生日の宴は、先月の終わりに皇宮で行われたそうですが、外交官は母上の第三妾妃の故郷の、ベアトリアの外交官しか招ばれませんでした」

 トリスタンは何も答えずに、外交官の次の言葉を待った。

「もうお一人の、ハーマポスタール大公が養育しているという、リリエンスール皇女の方は、養母の大公と誕生日が同じだそうで、これは、ほんのお身内だけでお祝いをされるようです。こちらはぐっとお地味で、血の繋がったお身内と、大公宮の関係者以外は招待もされていないそうです」

「それはいつ?」

 トリスタンは古い赤い靴を、両手の上に載せ、首を回して、色々な方向から眺めながら、なんでもない様子で聞いた。

「確か、今月の九日だったかと。……それが何か?」

 トリスタンは、真っ白に化粧した顔を外交官へ向けると、にっこりと微笑んだ。

 その微笑みは、どぎつく施された舞台用の化粧越しではあったが、中年の外交官はその艶やかさに、ぎくりとした。

 慌てた様子の外交官の表情を見たのか、見なかったのか。

 トリスタンは最後に、冷たく聞こえるほどそっけない口調になっていた。

「いいや、なんでもないよ。ご苦労様」


 外交官が出て行き、扉が閉まったのちも、しばらくの間、トリスタンは靴をぼうっと見ながら黙っていた。

 やがて、窓の外から馬車の出ていく音が聞こえると、トリスタンはやっと気が付いたように緑の目を動かした。

 そして、踊り靴を箱の中へ戻すと、膝の上に開いたままになっていた、父のシリルからの手紙を取り上げ、びりびりと細かく千切るようにして破り捨てた。

 破り捨てた紙を、トリスタンは迷わずに部屋の暖炉に放り込んだ。火かき棒を取り上げ、炎の中に押し込むようにすると、クリーム色の高級な用紙は、あっという間に真っ黒に燃え尽きる。

 トリスタンが破り捨てた、シリルからの手紙の文言は、本当に短かった。

(火の鳥はまだ、教えていなかったね。先に、火の鳥だった時の靴を送るよ。履いてみるといい。きっと、お前ならわかる)

 たったそれだけの文字が、焦げ茶色のインクで書かれていただけだったのだ。

「何かザイオンであったかな。お父さんが、こんなに嬉しそうなのは見たことがない。火の鳥、か」

 確かに、父がこの靴を履いているところなど、見たことがなかった。父シリルは、違う踊りを教える時には、違う靴を履いていることが多かったのに。

 それは、踊りが違えば、靴底で出す音の音色も変えるからで、それには、それぞれの踊りのために誂えた靴が必要だったからだ。

 トリスタンはしばらく考え込んでいたが、やがて、今日の出し物のために履いていた白い靴を脱ぐと、父親の送ってきた、くたびれた赤くて古い靴を履き、そして、新しい鮮やかな緑色の靴紐を締めた。

 シリルと彼は、体格が似ていたためか、足の大きさもほとんど同じだったから、その古い靴はトリスタンの足にもぴったりとはまった。

 すっと立ち上がったトリスタンは、靴の感触を確かめるように、木の床の上で簡単なステップを踏んでみた。

 靴の爪先や踵の感触、足を締め付ける古い革の形状、爪先で立った時、踵に体重を載せた時の平衡感。

 カン、カン、カン。

 木の床の上では、外で踊る時とは鳴る音が違う。

 どんな音が鳴るかで、この靴を履いて踊る踊りが、外の広場の石畳で踊られたものか、屋内の劇場で踊られたものか、わかるのだ。

「木の床じゃないな。かなり激しく回る踊りだ。靴の革が柔らかい」

 トリスタンは一人で、うん、うん、とうなずく。そして、靴音をならしながら、いくつかのステップを踏んだ。

 その様子は、まるで、そのくすんで古びた赤い靴が、踊りの節を覚えていて、彼に教えてでもいるかのようだった。

「……なるほど、これは踊ったことがないや」

 しばらくして、トリスタンがそう言った時、部屋の扉が叩かれた。

「あー、そろそろ、出番ですよ」

 扉を開けたのは、この劇場の持ち主、支配人だった。

 支配人は、入ってくるなり、トリスタンの履いている靴に気が付いたらしい。真っ白ななりの中で、くすんだ赤い色と緑の靴紐は、いかにも目立ったのだろう。

「あれ、そんな色の靴じゃ、困りますよ」

 支配人がそう言った時には、トリスタンはもう、柔らかい体を真二つに折りたたむようにして、緑色の靴紐をほどき始めていた。

「あはは。当たり前だよ、白鳥の歌で踊るのに、こんな古い靴なんか!」

 手早く、先ほど脱ぎ捨てた白い靴を履く。

 支配人は、なんとなく不安げな面持ちで、そんなトリスタンに聞いてきた。

「さっきの、お使いはなんだったんです?」

 トリスタンは、顔を上げると、なんでもないことのように言った。

「ああ。……もうすぐ、こっちにお父さんが来るみたい。もう二十年以上も旅なんかしたこと無いだろうに。大丈夫なのかなあ」

 そして、支配人が部屋から出て言ってすぐに、トリスタンは意味あり気に呟いた。その声は、ほとんど唇の内側で消えてしまったので、部屋の様子をうかがっていた、影使いのナシオの耳にも聞き取れなかった。

「これは、早めに皇宮とやらへ挨拶しないといけなくなるなあ。それには、その前に一芝居打った方が、面白いか……」


 






 その数日後、十二月の九日の夜。

 大公宮では皇帝のオドザヤも招いて、大公宮の関係者と、カイエンやリリエンスールの血縁者だけの、誕生日のささやかな宴が催されていた。

 宴の会場は、こうした場合の大公宮の常で、大公の広い食堂が使われていた。

 今宵、宴の主人公であるカイエンは、暖炉の側の一番暖かい場所に、もう一人の主役であるリリを膝に載せて座っていた。

 服装は、淡雪のようなレースの襟元と、胸元から続く真珠母貝のボタンがちょっと派手だが、上着は着やすい、腰を覆うくらいの長さのもので、下は普通のくるぶしまでのスカートを合わせたものだった。

 色もおとなしい、季節感のあるやや鈍い紫色で、いかにも、家庭でのお祝い、といった感じのくだけた装いだ。髪は後ろにまとめて、真珠の髪留めで留めていた。

 夏に、バンデラス公爵を見送った時には、瀟洒なソファは窓辺に置かれていたが、今夜はもう十二月のこととて、それらは暖炉の前に置かれていた。

 その日、大公宮の外から呼ばれたものと言ったら、カイエンやリリ、それにオドザヤのおばに当たるミルドラと、その二人の娘たち、バルバラとコンスエラ、それにオドザヤとお付きの女官長コンスタンサ・アンヘレスだけだった。

 オドザヤと、ミルドラと娘たちが揃うと、カイエンは彼女たちを、自分の周りのソファに座らせた。

 内うちの集まりだから、皆、通常、宵の宴に合わせるような華やかで、上半身が細身のドレスではなく、昼間の茶会で着るようなドレス姿だ。だが、色とりどりのドレス姿の彼女たちは、他の黒い大公軍団の制服姿の男たちの中では、いかにも華やかに見えた。

 カイエンの座ったソファの後ろには、ヴァイロンの巨躯とサグラチカとが控えており、反対側に向き合って置かれたソファには、エルネストが後ろにヘルマンを従えて座っていた。カイエンの飼い猫のミモは、カイエンとエルネストの間をうろうろしている。

 オドザヤはコンスタンサを従えてカイエンの横へ、そしてミルドラはエルネストの並びに娘たちと一緒に腰掛けた。

 今年の春、エルネストがハウヤ帝国にやってきてすぐの頃は、彼をゴミか、汚いものでも見るような目で見ていたミルドラだったが、最近は見る目が温くはなってきたようだ。

 しかし、未婚の二人の娘には近づけたくないようで、ミルドラはエルネストの横に自分が座る形で、娘たちを彼から遠ざけていた。

 ミルドラは何も言わないが、カイエンが見たところでは、特に、シイナドラド所縁の容姿を受け継いでいる、次女のバルバラに間違いが起こらないようにしているようだった。まあ、娘の親としては当然の心配りだろう。 

 その他の、大公軍団の連中、軍団長のイリヤ、治安維持部隊の隊長の双子のマリオとヘスス、それにシーヴなどは、食堂の長くて大きなテーブルのそばに立ったまま、控えていた。

 さすがのイリヤも、オドザヤやミルドラが来ているので、おかしな声を上げたりはせず、大人しく立っている。

 例外はエルネスト以外の、後宮の住人たちで、教授とアルフォンシーナは、大テーブルの椅子を持ってきて、暖炉の正面に座っており、ガラは教授の後ろに突っ立っていた。

 大公軍団の皆は制服姿で、教授もいつもの白いカラーをのぞかせた黒い服。アルフォンシーナは黒っぽい髪をきれいに後ろに結い上げ、目の色に合わせた瑠璃色の、きっちりと襟元までボタンのかかったドレスを着ていた。

 ガラはといえば、普段着のままだ。

 部屋の隅には、後宮を守る二人の女騎士のナランハとシェスタ、それに今日は当番ではないらしい影使いのナシオまでが控えていた。

「揃ったな」

 カイエンがそう言うと、膝の上のリリが、うれしそうに声を上げた。もう、カイエンを見れば、「かーい」と言うし、ヴァイロンを見れば、「ヴァーい」などと名前らしきことを話すようになっているのだ。

「じゃあ、まずはほとんど初めての者と、正真正銘、初めての者たちを紹介しましょうか」

 そう言うと、カイエンはリリをヴァイロンに任せ、杖を突いて立ち上がった。

 彼女はまっすぐにアルフォンシーナの側へ歩いて来たので、アルフォンシーナは緊張した。

 この大公宮の一番新しい住人である彼女は、今宵の宴への参加は固辞したのだが、そんなものを受け入れるような大公宮ではなかった。後宮に住んでいる、教授やガラも出るのである。彼女だけを外す道理がない、と言うのがカイエンの考え方だった。

「陛下、皆、この大公宮や大公軍団で働いてくれている者、それに、訳あってここに住まう者たちです」

 カイエンがそう言うと、オドザヤはふわっと、なんとも言えない柔らかな微笑みを浮かべた。今や寝たきりの皇太后アイーシャ以外に、家族と呼べる者のいない彼女にとっては、こんな面々の集まりでも、暖かく、楽しげに見えるのかもしれなかった。

 そして、大公軍団の連中や、女騎士、それに教授やガラ、ナシオの紹介が終わった後に、最後に声をかけられたのが、アルフォンシーナだったのだ。

 その日、そこに集った二十人ほどの人々のほとんどは、身分的に貴賤はあれども、もうだいたい、お互いに顔見知りとなっていたが、今回は例外が二人いた。

 それが、今夜の宴に揃った人々をこの国の身分で並べたら、一番上と一番下になったであろう、だが、年齢だけは似通った、オドザヤとアルフォンシーナだったのだ。

「じゃあ、これで最後ですね。これはアルフォンシーナ。私の一番新しい友人です。事情があって、今、この大公宮で生活してもらっているのです……アルフォンシーナ、大丈夫か?」

 カイエンは、暖炉の正面側に持って来た椅子にかけている、教授とアルフォンシーナの方へ手を振った。

 実のところ、アルフォンシーナは生きた心地もしなかった。

 目の前で微笑んでいる、黄金の女神。

 それこそ、このハウヤ帝国の頂点。女皇帝のオドザヤなのだから。

 そして、自分といえば。

 アルフォンシーナはここへ来るまで、自分がしていた仕事について、カイエンはオドザヤに話しているのだろうか、と横目でカイエンの方をうかがった。

 だが、カイエンはにこやかにうなずきながら、励ましの目を送ってくれるだけだ。

 ここにこうして招ばれ、そして紹介までされているのだ。オドザヤはアルフォンシーナが誰だか、もう知っているようで、顔つきに「誰かしら」という疑問は微塵も感じられない。

「あの」

 アルフォンシーナとしては、相手がこの国の一番上に君臨している、女帝というだけで、声が出ない。

 その上に、オドザヤはその地味ななりを感じさせない、内側から光るような、輝かしさを帯びていた。

 カイエンはこの宴が始まる前に、皇帝オドザヤは、実は、自分の母親を同じくする従姉妹で、姉妹、と彼女に教えてくれたのだが、それはアルフォンシーナの不安を助長しただけだった。

「あ、アルフォンシーナともうし、ます」

 だから、アルフォンシーナがオドザヤの前で言った言葉は、蚊の鳴くような声になってしまった。

 オドザヤはカイエンがカスティージョの醜聞を、カストリ新聞に書かせたことも、もう知っていた。若くて潔癖な性分のオドザヤには、あまり聞かせたくないことではあったが、伝えないわけにはいかなかったから。

 その直後に、カスティージョの屋敷の郎党による、新聞社襲撃、そして細工師ギルドの事件が起きた。だからオドザヤにもカスティージョをコンドルアルマの将軍にしておくことの危険性は理解できた。

 皇宮前広場プラサ・マジョール事件の後、

(陛下には、身の覚えのないことで疑われるのは業腹でございましょうが、なに、いざとなったら全部、我らのせいにすればよろしいのです)

 と言ったカイエンに、

(お姉様! お姉様は、私に卑怯者になれ、とおっしゃるの!?)

 と怒りを見せたオドザヤだったが、それは、カイエンやサヴォナローラたちだけが手を汚し、自分はきれいなまま守られることへの反発だった。

 だから、カスティージョの醜聞の件を聞かされた時のオドザヤは、そこまでせねばならない、皇帝としての自分の治世を嘆きこそすれ、カイエンたちを責めようとはしなかったのだ。

「ああ。あなたのことは、お姉様から聞いているわ。急に身の回りのことが変わられて、大変でしたね」

 オドザヤはもちろん、この大公宮の住人としてこの場に招ばれていて、しかも自分とそう年齢も違わない若い女、というくくりからしても、アルフォンシーナの正体を間違うようなことはなかった。

「はあ……」

 アルフォンシーナは消え入りそうな声になったが、さすがに見かねたのか、教授がここで口を挟んで来た。

「まあ、いまさらだよ、アルフォンシーナ君。君はここの大公殿下とは、恐れ気もなく、結構普通に話していたじゃないか。こちらの陛下は、大公殿下やリリ様とはお母上が同じご姉妹なのだから、そう固くならずともよかろう。なあに、他の連中も、今日はちょっとは緊張しているはずだよ。みんな、面の皮が常人よりも、かなり分厚いだけだ」

 ついでにガラも言葉を付け足したので、アルフォンシーナはちょっとだけ、気持ちが楽になった。

「……俺もここに住んではいるが、別に役職がある訳じゃない。ここの雰囲気は独特だが、まあ、それはおいおいに慣れる」

 そこで、カイエンの横にアキノが来て、飲み物の用意ができた、と言うので、まずは乾杯、ということとなった。

 すでにテーブルには、麦酒セルベサから、ワインや果実酒、高級な蒸留酒、それにアルコール度数の高い、砂糖黍から作られたロンまで、ありったけの酒の瓶が用意されている。

 ミルドラの若い娘たちのためには、侍従のモンタナが、ワインにレモンやオレンジなどの果物と香辛料を漬け込んだ、サングリアの入った水差しを運んで来た。

 皆が、好きな飲み物のグラスを手にし、カイエンとリリを囲んで、グラスを振り上げる。

 ここでは、それに、オドザヤのお付きのコンスタンサや、エルネストの侍従のヘルマン、それに乳母のサグラチカたちも加わるのだ。

乾杯サルー

 皆が最初の一口を飲み干すと、侍従長のモンタナ以下の侍従や、女中頭のルーサなどが、華やかで色とりどりな前菜ののった大皿を運び入れ始める。

 大公宮でのこういう家庭的な集まりを知らない、オドザヤやアルフォンシーナは、目を丸くしている。

 取り皿に料理を取って、勝手に飲み食いする方式は、皇宮の宴でも取られることがあるが、ここまで身分の上下入り混じった宴は初めてなのだ。

 そして。

 前菜が終わり、主菜の大皿が運び入れられ、ちょうどいい具合に人々の体に酔いが回り、歓談に花が咲いていた頃合いだった。宴はこの後、菓子や果物が出て、その頃にはプレゼントの包みを開ける時間が取られている。

 だが、夜は始まったばかりで、それにはまだ時間がかかりそうだった。

 カイエンは、侍従の一人が慌てた様子で食堂に入って来て、執事のアキノに何か早口で耳打ちしているのを、目の端で捉えた。

 飲み物のグラスをテーブルに置きながら、オドザヤの方をうかがうと、彼女はバルバラやコンスエラと一緒に、リリを囲んで楽しそうに話しているところだった。

「何か、あったようですね」

 カイエンのそばにいたので、すぐに彼女の目線の先を追ったらしい、ヴァイロンが小声で言う。

 そうしている間に、執事のアキノは侍従に連れられて、食堂を出て行ってしまった。

 これは、何か外で問題が起きている、と見ていいだろう。

「アキノさん、どうしたんでしょうね」

 すぐにシーヴが気が付いて、カイエンの方へやって来る。手にカイエンが飲んでいた飲み物と同じ、ワインの瓶を持って来たのは、他の人々、特にオドザヤやミルドラの娘たちに気取られないよう、気を遣ったのだろう。

「大したことではないといいが」

 カイエンは呟き、再び飲み物のグラスを取って、一口飲んだ。  

 しばらくして、執事のアキノは戻って来た。

 彼は、ワゴンに何本かのワインの瓶を載せ、この会場の外の様子を気付かれないようにしていた。

「カイエン様、カイエン様の誕生年と同じ年のワインがございましたので、持って参りました」

 そう言う言葉も、もっともらしいものだが、アキノの青い目はカイエンの灰色の目を捉えると、すうっと食堂の大扉の方へ流れた。

 ヴァイロンとシーヴが、何か言いたげな目つきをしたが、カイエンは目だけ向けて、彼らを教授とアルフォンシーナのいる方へ行かせた。

「そうか。実は、陛下にお目にかけたい本があったことを思い出した。それを置いたら、付いて来てくれ」

 カイエンがそう言うと、アキノはうなずき、ワインを歓談中の女性陣の元へ運んでいく。今宵の客は皆、女性だから、そっちへ持って行ったのだろう。

 カイエンもその後から、ゆっくりと歩いていき、オドザヤに見せたいものがあったのを思い出したから、ちょっと席をはずす、と告げた。

 イリヤや双子のマリオにヘスス、それにエルネストやヘルマンは、何かあった、と気が付いたようだ。

 それは、伯母のミルドラも同じで、カイエンと同じ灰色の目が、きらりと光った。


「どうした。何か問題が?」

 カイエンはアキノを引き連れて、大扉の向こうの廊下に出た。

 そこには先ほどの侍従が青い顔で待っており、アキノに今は侍従長のモンタナが応対している、と告げた。

 アキノはすぐに扉を閉め、小さな声で話し始める。急いでいるのか、いつになく早口だ。

「裏の玄関へ、ザイオンの大使が参っております」

 カイエンは驚いた。何か、ザイオン側で事件でも起きたのだろうか。それにしては、皇宮から何も言って来ていないのはおかしい。

「用向きは」

 アキノは食堂の方を、ちょっとうかがうようにしてから、低い声で答えた。

「行方不明だった、ザイオンの王子が見つかったそうで、その御礼にまかりこした、と申しております」

 見つかったどころか、居場所を教えてやったのは、大公軍団なのである。それも、もう何日も前の話だ。

「はあ? ザイオン大使が、そう言って直接来ているのか」

 カイエンは思わず、大きくなりそうになった声を抑えた。

「はい」

「なぜ、手紙も、先触れもなしに……。本当にザイオンの大使なのか? 今日、ここで宴が行われていることも知らずに?」

 宴があることを知っていたとすると、貴族社会の常識では、もはや不作法と言うよりも社交辞令を無視した、蛮行と言っていいだろう。

「それが、今日、この大公宮では殿下とリリ様のお誕生日の宴をしているとは、知らなかったとかなんとか、ごちゃごちゃと申して、裏の玄関で粘っております」

 カイエンは呆れ返った。

 普通なら、「非常識なことで申し訳ありません」と謝って、即刻、出ていくべきだ。

「追い返せ」

 カイエンはきっぱりと言った。

 先触れもなしにやって来た上に、こんな非常識なことを言うのだ。追い返しても外交問題になるはずもない。まさか、自分たちの非常識を棚に上げて、「お礼に行ったら、大公宮から追い出されました」と強弁するつもりなのだろうか。

 それなら、受けて立ってやる、とカイエンは思った。

「それが……。その、大使の後ろに、どう見てもザイオンの王子らしい、正装の貴公子が……」

 だが、アキノは言いにくそうに、なおも付け足すではないか。それも、不作法と非常識の上に、とんでもない事実をだ。

「なに?」

 カイエンは、思わず、目を見張った。

「大使は慌てた様子で、非常識は重々、承知しているが、王子がどうしてもと言うので連れて来たと。その後ろで、王子らしい貴公子が、『自分は兄たちと違って、女王の愛人の子だから、宮廷の礼儀作法には疎い』とか、とんでも無いことを真面目な顔で……」

「いけしゃあしゃあと言ったんだな」

 カイエンは心の中で、「やられた」と思った。

 自分も、大国の大公としては変わり者だろうが、ザイオンの第三王子というのも、とんでもない食わせ者のようだ。

 高貴な身分を振りかざされれば、いかに社交上、非常識で礼を欠いた行動であっても、相手は無下には断れない。あとで、先触れも出したし、丁寧に挨拶したのに追い返された、とでも主張されれば、今度はこちらが弁明する側になりかねない。

 第三者の目のない場所での、不作法と非常識は、しでかした人物が誰かによって評価のされようが変わってくると言うことだ。あちらがしたことにも、こちらがすることにも、証拠などないのだから。

 きっと、こちらに、不作法な野人と思われることも計算のうちなのだろう。オドザヤが来ていることは、さすがに漏れていないだろうから、大国ザイオンの名前を振りかざせば、大公は顔くらいは見せるだろう、と計算したのか。

 だが、皇帝のオドザヤがここに来ていることを理由に、面会を断ることは可能だろう。

 問題は、向こうの思惑だ。

 大公であるカイエンに、先に顔を見せておこうとした理由がわからない。

「まだ、皇宮への挨拶もしていないのに、なぜ、こちらに先に来る?」

 カイエンが呟くと、アキノは困りきった顔で言った。

「自分の居どころを調べて、ザイオンの外交官官邸に知らせてくれたのは、大公軍団であるから、まずはこちらに御礼に、とその王子が。ザイオンからの正式な訪問ではなく、こちらへ知らせもしないままにこの国へ来てしまった。その上に、大使が皇宮へ王子の行方不明を申し出たために、非公式にやって来たことが明らかになってしまった。これでは、皇宮へ挨拶にも行きにくい。出来れば、皇宮への橋渡しをお願いしたい、とも言っています」

 アキノも呆れ返った顔だが、その表情の中には、危惧の色が見える。彼から見ても、この外国の王族のずうずうしい行動の前では、常識を守ったほうが馬鹿をみるのではないか、と思えるのだろう。

「非常識で図々しいだけでなく、大使ならともかく、王子の自分が直々に来れば、追い返せないと計算しているんだな。国同士の連絡もなく、勝手にやって来たことをも利用しようと言うわけだ。……これは、今日の宴のことが、漏れているな。まあ、特に隠してもいないから、ザイオン大使は知っていただろう。それにしても、ずうずうしいことだ」

 その時、カイエンが部屋を出た後に、オドザヤたちに気付かれないよう、使用人の使う裏の扉から出たナシオが廊下の向こうからやって来た。さすがに影使いで、何事かを察したのだろう。

 大公宮の裏の仕事をしている使用人である上に、誰の印象にも残らない、平々凡々たる顔と姿の彼なら、抜け出て来たことも、オドザヤたちには気付かれていないに違いない。

 後で聞いたところでは、その頃、イリヤと教授を中心とした大公軍団の面々は、食堂で、さりげなく事件や仕事上に出会った、面白い話題を振りまき、オドザヤの注意を引くよう頑張っていた。

「ナシオ、先日、オリュンポス劇場で聞き取って来たところによると、王子の話していたという、『シリル』というのは、第三王子の実の父親らしいと言っていたな」

 カイエンが聞くと、ナシオはどこから聞いていたのか、すぐに話の方向を読んだようだ。

「はい。王子は、対外的には父とされている王配殿下のことは『父上』、実の父であるシリル・ダヴィッド子爵のことを『お父さん』、と呼び分けておりました」

 カイエンは眉間が痛むような気がして、杖のない右手指で揉んだ。

「私が、ザイオンの宮廷に詳しい、前のザイオン駐在大使に聞いたところでも、シリル・ダヴィッド子爵という名の女王の愛人がいるとかいう話だった」

「それでは、この非常識ぶりも、卑しい父親から生まれたからだと言うつもりなのでしょうか」

 さすがに老練な執事アキノも、言い方が刺々しくなった。

「……仕方がない。この世は、ずうずうしい奴らの味方だ。変なところで禍根を残すわけにはいかん」

 カイエンはこの大公宮の主人として、どうするのか決めなければならなかった。

「ザイオンの大使とその王子とやらを、玄関から一番近い、食堂から廊下で直接、繋がっていない客あしらいの応接室へ通しておけ。もうしょうがない。私は陛下や伯母様に事の次第を告げて戻る。場合によっては、陛下だけでも皇宮へお戻りいただかねばならん。モンタナたちに廊下の見張りをさせるように」

 客あしらいの応接室に他国の王子を通すなど、通常ならあり得ない。

 だがそれは、王子などがこの大公宮へ来るとなれば、公式の訪問に限られるからだ。それならば、大公宮の表から入れるし、表には謁見の間も、カイエンの執務室のそばの居間もある。

「私はどういたしましょう」

 聞いてきたのは、ナシオだ。

「応接室の壁はすべて、二重になっているだろう。そこに潜んでくれ」

 カイエンがそう言うと、ナシオはすぐに廊下の向こうへと消えた。 

 それから、レースのこぼれ落ちる襟元を、なんとはなしに触りながら、カイエンは食堂へ戻り、皆に事の次第を話した。

「まあ、本当に最近は、ずうずうしい連中がのさばってきて困るわね」

 ミルドラはそう言うと、目線をエルネストの方へ向けたから、大公宮の皆は密かに顔を見合わせた。

「陛下には、密かにご退出を願うかもしれません。……コンスタンサ、侍従たちに言い含めているから、上手くやってくれ」

 カイエンが頼むと、女官長のコンスタンサは小声で承知し、オドザヤの方は青い顔で黙り込んでいる。

 オドザヤにとっては、ザイオンの王子は、自分の縁談の相手である。つい先日も、オドザヤはこのことを嫌がって、彼女に似合わぬ、激しい言い方をしていたくらいなのだ。

「すぐに戻りますから」

 そう言い残して、侍従とともに、カイエンは食堂を出た。


 応接室の扉の前には、アキノが静かに佇んでいた。

 カイエンの姿を見ると、アキノは静かに扉を開ける。カイエンの命じた通り、いくつかある、普通は貴族の使者などを通す応接室の中でも、一番、裏の玄関に近い部屋だった。

 カイエンはこちらから挨拶をする気もなかったので、無言のまま、部屋に入った。

 そして初めて、肖像画ではなく、ザイオンの第三王子トリスタンの実物を見た。イリヤやナシオが言っていた通り、間違いなく、肖像画の人物である。

 何か言いながら、立ち上がったザイオン大使を、カイエンは右手で抑えて黙らせた。

「お初にお目にかかります……」

 そこへ、涼やかな声とともに立ち上がったのが、件の王子だ。

 そちらへ、冷たい表情を作って、灰色の目を向けたカイエンの見たのは、確かに先ほど、アキノが「正装の貴公子」と言った言葉の通りの人物だった。

 カイエンは心の中で、冷静に「縁談の肖像画なんてものは、美化して描くものだろうが、これは本物の方が上だな」と、思った。

「ザイオンの第三王子、トリスタンと申します。ハウヤ帝国の大公殿下には、この度の私のしでかした事で、大使が大変お世話になったとのこと。御礼に参りましてございます」

 一国の王子が、外国の大公に話す言葉としては、丁寧すぎるような言い方だ。

 そして、胸元に片手を添えて頭を下げる。

 さらり。

 その時、そんな音が聞こえるような具合で、編み込まれた長い金髪の房が、鮮やかな青の正装の胸元に垂れるのを、カイエンはアキノを従えて、黙って見ていた。

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