貴女と共に太陽の黄金の階段を


 昇っていく太陽になりたかった

 地平線へ向かって奔り

 パナメリゴ街道を西へ東へ

 黄金色に輝き昇り来る太陽になって

 歴史に名前を残したかった


 鋼鉄を靴裏に打った特別な靴

 それを石畳に打ち付けては、跳び、打ち付けては、跳び

 折れそうなほど弓なりに反らした背中

 それは、肩甲骨から羽が生えたみたいに軽くて

 お日様の下でもお月様の下でも

 俺は自由で最高だった


 夢は確かに春の青空の元で一閃した

 だが路はあの北の街アルビオンで途切れ

 俺は囚われの身と成り下がり

 靴底の金具は真っ赤に錆びた

 寂しい黄昏に沈むばかりに

 つかの間光った輝きは薄れ

 歴史は、伝説になり損なった俺の

 傍らをただ通り過ぎて行った


 俺はもう跳ばない

 顎を首にくっつけて

 ただただ生きていく日を繰り返すだけ


 失意の日々に涙を絞っても

 晴れ舞台の自分を思い出しては

 うわ言のように呟いた

 昇っていく太陽になりたかったと


 いま

 もうあの靴は俺のそばにない

 あの靴を履いた足が

 今また跳んで、石畳を打つ

 そこには俺はいない

 歴史に名前を残すのはお前

 俺の半分を持ち逃げした光

 ひとりぼっちの太陽

 さあ顔を上げろ

 お前だけは人並みに終わることなどない

 タン、タン、タン

 音高く石畳を蹴って踊り続けるんだ


 お前はあの黄金の太陽への階段を駆けあがれ

 そしてお前はこの世の伝説になれ




    アル・アアシャー 「死の舞踏」より「太陽の黄金の階段」







「……トリスタンの勝手気ままには困ったこと」

 そう、ため息交じりに言った声は、中年から老境に差し掛かった女の声だった。

 広く、そして豪華な調度品で整えられた部屋の一番奥には、黒大理石で囲まれた暖炉があり、赤々と火が燃えていた。十一月下旬の北の街アルビオンでは、窓の外にはもう真っ白に雪が降っている。その窓のガラスは分厚く、室外と室内の温度差のために曇っていた。

「まあ、そう言ったものではないよ。ジョスランもリュシオンも、美人で評判のハウヤ帝国のオドザヤ女帝を、平民皇后の娘なんか嫌だって、駄々をこねたんだから。あの子達は、変にお高く育ってしまって、困ったことですよ。ま、ここはトリスタンに頑張ってもらうしかない。本人もやる気になっているんだから、いいとしなければ」

 答えた方も、年配の男の声だ。

 黒大理石の暖炉の上には、大きな鏡があり、それが天井のシャンデリアの灯りを反射しているため、部屋の中は明るかった。美しい黄色と金色の縞模様の壁紙、北の国だから、木製の床には分厚い臙脂色の絨毯が敷き詰められている。

 時刻はまだ午後の半ばなのだが、北のこの国では、もう窓の外は真っ暗である。

「それにしても、向こうの返事も待たずに飛び出して。その上に、ハーマポスタールで行方知れずだなんて! 肖像画は折を見て後から出しなさい、とは命じておいたけれど、駐在大使が手順を誤っていたら、みっともないことになりますよ。どうせまた、踊り子の姿で遊び呆けているんですよ! まったく、この歴史あるザイオン女王家の王子が……情けない」

 そう言うと、壁紙と同じ色合いのソファにかけた年配の女は、黒大理石のテーブルの上から、太い金色の縁取りのある、濃い緑色の紅茶カップを取り上げた。

 脇に置かれた小皿から、真っ赤な木苺のジャムを紅茶の中へ溶かし入れる。その、ややぽっちゃりした真っ白な指には、いくつもの大ぶりな指輪が光る。

 やや太り肉の体を包む重厚な厚地のドレスは、上品なチョコレート色に、金糸銀糸で大輪の花の刺繍が施されたものだ。開いた胸元には大粒の柘榴石と真珠の連なった首飾り。

 その上に乗っている顔も、その手に負けず劣らず、色が白い。丸顔であることもあって、顔立ちは優しげだが、うす青の目だけがなんだか酷薄な印象だった。

 髪の色は白っぽい金髪で、結い上げた髪の頂きに、小さな金の王冠を被っていた。歳はそろそろ六十、と聞かねば十ほども若く見えた。

 彼女の長女はもうとっくに結婚し、子も儲けている。だからもう、彼女はお祖母ばあ様、と呼ばれることもあった。

「それにしても陛下、今日の螺旋帝国からの使者の申しよう、まるで、パナメリゴ大陸の主人ででもあるかのようでしたねえ。不愉快なことだ」

 陛下。

 このザイオン女王国の女主人あるじ、チューラ女王は、王配ユリウスの言葉に、薄い眉をしかめた。

「そうね。この、冬のアルビオンまで、遠路はるばるご苦労様だわ。……でも、あの新生螺旋帝国の皇帝は、油断できないやつよ。自分が革命でのし上がっただけではなく、お手の物の革命で、他の国も平らげようって言うんですからね。未だ、国内に不安を抱えているようで、国外へは口は出せても、軍隊は動かせないので助かっているけれど」

 ハウヤ帝国よりも東に位置し、螺旋帝国にも近いせいか、チューラ女王の言葉は極めて現実的だ。

 これを聞くと、女王の王配ユリウスは、自分は紅茶に、強くて香り高い蒸留酒をそそぎいれながら、相槌を打った。

「……それも、ここ数年で変わってくるんじゃないかな。軍を動かせずとも、策謀だけで十分に厄介だからね」

 ユリウスは、バンデラス公爵家へ嫁いだ、サンドラの長兄に当たる。侯爵家の当主だったが、チューラ女王に見初められて王配になったので、実家は弟が継いでいた。

 彼はチューラ女王と一つ違い。ぽちゃりとした女王とは違い、痩せぎすで、白っぽい金髪がそろそろ薄くなりかけている。それでも、往年の美貌の名残は十分に残していた。

「螺旋帝国のあの、ヒョウ 革偉カクイって男。シイナドラドで蜂起した、反政府組織の後ろ盾となって、うまいことシイナドラドの東側の街を切り取らせたって言うじゃないの。……ま、首都のホヤ・デ・セレンを陥とすのはそう簡単じゃないでしょうけれどね。皇王側は内乱への準備は怠りなくしてたみたいだし。ただ、シイナドラドの皇王が、未だに友邦のハウヤ帝国に助けを求めていないのは、ちょっと不思議よね」

「鎖国政策を未だに堅持しようとしているしね。今日の、螺旋帝国の使者が言った通り、友邦なんて言っていても、裏では色々あるんだろう。ま、第二皇子をハーマポスタール女大公に婿入りさせているんだから、最終的にはハウヤ帝国が出てくるだろうけれどもねえ」

 ユリウスは簡単にそう言ったが、一方のチューラ女王はちょっと黙り込んだ。

「……螺旋帝国は、シイナドラドのホヤ・デ・セレンにある、何かを狙っているんだと思うのよねえ。あそこを無傷で手に入れたがっている。だから、シイナドラドでハウヤ帝国国軍と戦争になるのは避けたいのよ。そうじゃなくて?」

 これにはユリウスも真面目な顔になった。

「そうだねえ。だから、今日の使者が来たんだろう。……まあ、確かにシイナドラドの被支配階級……反政府組織の連中は、我々ザイオン人と民族を同じくすることは確かだからね。今となっては、もうただ祖先が同じだってだけだけど。螺旋帝国のお使いは、『外見が似ている人たちが虐げられているのに、胸が痛みませんか』とか言ってたが……」

 そうしてみてみると、確かにあのエルネストの侍従、ヘルマンの色素の薄い容貌は、チューラ女王や王配ユリウスと共通するものだった。

 カイエンがシイナドラドの皇太子の結婚式で見た、黒っぽい髪に、灰色の目の皇王一族ではない、末端貴族たちの姿とも合致する。

「……今さらよねえ。もう、何百年も前に違う国になっているんだから」

 だが、チューラ女王は、ばっさりと切り捨ててしまった。

「じゃあ、今日頼まれた、シイナドラドとの国境線に軍隊を出してくれ、ってのは断るんだね?」

 ユリウスは身を乗り出すと、テーブルの上から菓子の皿を取った。

「それなのよね。シイナドラドのことだけならお断りなんだけど。だって、さすがにハウヤ帝国を刺激してしまうわ。若いオドザヤ女帝になって、色々弱腰になっているとは言っても、軍事力で東の螺旋帝国に匹敵するのは、西のハウヤ帝国だけですもの。でも、ベアトリアのことがありますからね」

 夫に菓子を進められて、チューラ女王は色砂糖で飾られたクッキーを一つ、真っ赤に彩られた口の中へ放り込んだ。

 そして、次にチューラの唇を出てきたのは、先ほどのまでの話題とは違う方向へ向いていた。

「そもそも、私はスキュラのイローナが、あれほど軽はずみな愚か者とは思わなかったわ。手を組む相手を間違ったわね。大森林地帯に、こちら持ちで泥炭の販路を開いてあげる、だから数年間、猫を被ってハウヤ帝国を騙していなさい、っていうの、そんなに難しいこと? 後ろに私たちがいることを隠すために、オドザヤ女帝に縁談まで持ちかけてあげたのに!」

 チューラ女王の声が、ちょっとイラついた響きを帯びた。

「難しいことであるもんか。ただ、あのイローナの馬鹿にとっては、ベアトリアの、『ハウヤ帝国の注意を引いてくれれば、後々、我々ザイオンと対等の交渉が出来るよう、後ろ盾になってやる』っていう甘い言葉の方が、お気に召したんだろう」

「ふん。だから、女元首じゃなくて、女王を名乗ったってわけね。それで、私と対等のつもりなんだとしたら、お笑いね。もうこれで、泥炭の販路開拓の話は潰れたも同然。あのにわか女王の愚か者が、急にハウヤ帝国への泥炭輸出が無くなって干上がった、泥炭採取業者たちを抑えて置けるはずがないわ。国庫だって火の車だって聞いてるし」

 確かに、この頃、スキュラの泥炭加工ギルドは、すでにハウヤ帝国側と接触を持っていたのである。

 チューラ女王は、どっこらしょ、とソファから立ち上がった。

 そして、壁にかかっているパナメリゴ大陸の地図の方へ歩いていく。

「ベアトリアはハウヤ帝国の注意を北に向けている間に、先の国境紛争でハウヤ帝国に切り取られた国土を、なんとかして取り戻そうと言うんでしょ。でも、ハウヤ帝国は北での騒動が起きた途端に、帝国の版図の東を預かるクリストラ公爵を領地に戻したそうじゃない。足りなければ、ドラゴアルマを出してくるつもりでしょうねぇ」

 チューラ女王は、地図の中の、ハウヤ帝国とベアトリアとの国境に近い、クリスタレラの辺りを長い爪で指した。

「ベアトリアはもう、動けないわねえ。下手に動けば、ハウヤ帝国はもう国境紛争じゃ済ましてはくれないかも知れないわ。フロレンティアまで攻めのぼるわよ。……まあ、私はどこの国も『混乱の時代の火蓋を切る』のは避けたがっている、とは思うんだけどね」

 チューラ女王の言葉は、遠いハーマポスタールでザラ大将軍やカイエン、そしてオドザヤが言った言葉と奇しくも同じ方向を指し示していた。


(だがのう、今すぐにはこんな策は実行できん。少なくとも、我が国から始めるわけにはいかん。……百年前ならこんな策も可能だった。百年後も、可能かも知れん。だが、今は……今この時には、まだ巧くない)

(私、今日のお話で分かってきました。ザイオンも、ベアトリアも、もしかしたら東のシイナドラドや螺旋帝国も、どこの国も、新たな『侵略の時代』の始まりを自分達から始めるのは避けたいんですわね)


「それは、まさに支配者としてのカン、なんだろうね」

 ユリウスは目を細めるようにして、彼の糟糠の妻の顔を見た。

「そうよ。その、支配者のカン、でシイナドラド国境へ軍隊を出して欲しい、っていう螺旋帝国の使者のお願い、考えてみる価値があると思うの」

「我が国は、シイナドラドとも、ベアトリアとも国境を接しているから、だね?」

 チューラ女王は少し肉の弛んだ顎を、しっかりと手前に引いた。 

「そう。シイナドラド国境へ軍を駐留させれば、色々と後ろ暗いベアトリアは焦るわよ。自分たちの方へも……って疑心暗鬼になるわね。そうやって追い詰めて行けば、弱いところから暴発する。スキュラも危なくなったわ。百年前なら、今すぐにでもスキュラへ侵攻して、ハウヤ帝国と泥炭地帯の取り合いを演じるところだけど、まだ、ちょっと早いわね。それに、それじゃ、我が国が戦乱の火蓋を切ることになる。ここは我慢の子よ」

「じゃあ、ハウヤ帝国で遊んでいる、トリスタンの使い道が重要になってくるじゃないか! ハーマポスタールには、あの奇術団コンチャイテラも送り込んでいる。ま、奇術団の団長は、シリルの昔の知り合いだそうだから、トリスタンに害がある事はしないだろう」

 ユリウスがそう言った時、部屋の扉が遠慮がちにノックされた。

「あら、誰かしら……お入り!」

 チューラ女王がそう答えると、重厚な黒い木の扉がゆっくりと開いた。

「あら、シリルじゃないの。今、トリスタンのことを話していたのよ」

 扉を開けた侍従の後ろに立っていたのは、四十代前半に見える男だった。ぴったりと身についた、淡い色でまとめられた服を着ているが、服の上からでもその下の無駄のない筋肉の付き方が見えるようだ。

 そして、その顔立ちは、王配ユリウスとよく似て見えた。だが、彼、シリルはユリウスの血縁ではない。

「お寛ぎのところを、お邪魔して……。その、トリスタンから手紙が参りましたので……」

 彼の声は小さく、そして語尾がはっきりしない。自信なさげな様子で顔も俯きがちだ。これだけはユリウスと違って豊かにふさふさとしている、青みがかった金色の髪が、真っ白な顔の表情を隠していた。

 この男、シリルはこの女王の宮廷では、子爵の称号を与えられている。チューラ女王には、王配ユリウスの他に幾人もの愛人がいたが、その中でも古いほうに属する男だ。

 チューラ女王の愛人の中でも、一番、王配ユリウスと酷似した容貌であった。目の色も同じ緑だったが、その色合いはやや異なっている。

 元は舞踏一座の花形プリンシパルで、本来なら女王の愛人になどなれる身分ではない。その彼が、この歳まで宮廷を放り出されずにいるのは、彼の種で身ごもった女王が、トリスタン王子を産み、そして自らその父親としてシリルの名前を出したからだ。

 最初のうちは、疑問を呈するものも多数いたが、トリスタンが成長するにつれ、その疑惑も晴れた。

 と言うのも、トリスタンは二人の兄皇子、王配ユリウスの子であるジョスランとリュシオンにそっくりな顔に育ったからである。目の色だけが、父親と同じ色だったので、兄二人とはわずかに違っていたが、母親のチューラ女王は対外的には、トリスタンも王配ユリウスの子、と言うことにしてしまった。

 だが、宮廷内、それも女王の私的空間では、女王との間に実子を成したシリルは、他の愛人とは一線を画した存在となった。

「あら、トリスタンから手紙が? 向こうの外交官から、大使官邸にも居場所を明かさず、行方不明になったと言って来たのよ。もうしょうがないから、ハウヤ帝国側に探してもらいなさい、って指示したんじゃないの。きっと馬鹿にされるけれど、今はそのくらい油断させておいたほうがいいから、って」

 チューラ女王は暢気な様子だ。これをハウヤ帝国のカイエンたちが見たら、「ふざけるな馬鹿!」と叫んだことだろう。

「はい。その、手紙では今、私の古い知り合いのやっている、帝都ハーマポスタールのオリュンポス劇場に寄寓しているから心配ないと……」

「君の知り合いのやっている劇場かい? あの奇術団といい、君はなかなか顔が広いね。……トリスタンはやっぱり踊り子の真似事をして、遊んでいるんだな。でも、もうそろそろザイオン王子として、ハウヤ帝国の皇宮へ挨拶に行ってもらわねばならないよ」

 ユリウスがそう言うと、シリルは目を合わさずにうなずいた。彼は、いまだに壁際で立ったままだが、本人も含めて誰もそれを不思議に思っているようには見えなかった。

「居場所が分かったんなら、いいわ。大使に早馬を送りましょう。自分から出て行くにせよ、あっちの人たちに見つけ出されるにせよ、麗しの女帝陛下とは、さぞや印象的な対面になるでしょう。あの子なら、その先はうまくやるでしょうよ」

 チューラ女王は、こういうことに関しては大らかすぎるきらいがあるようだ。先ほどまでユリウスと話していた、対外政策の話と時とは、表情も話し方も全然違っていた。

「オドザヤというのは、どんな娘なんだい?」

 突っ立ったままのシリルを、顎で指し示して、隅っこのソファへ掛けさせると、ユリウスの方も面白そうな口調になった。

「母親の平民皇后アイーシャとそっくりの、太陽のような美貌だそうですよ。確かに、駐在大使が送ってきた肖像画が本当なら、傾国の美女、って感じね。だのに、性格の方は真面目一方で、十九になると言うのに、今まで浮いた噂もないのですって。それはもう、素行よく、きれいなもんなんだとか。叔母のクリストラ公爵夫人や、女大公のカイエン殿下は醜聞を読売りに書かれたりしているそうですけど、そんなことも無いって。反女帝派はオドザヤ女帝の醜聞も探しただろうけれど、いくら叩いてもチリほどの埃も出なかったようね」

 チューラ女王はそこは王族でもそこは女で、醜聞にはそれなりの興味があるようだ。

「そうかい。それなら、トリスタンの腕前拝見、と言うところだね。ころりと参ってくれると助けるけど」

 ユリウスも面白そうに、口の奥で、くくく、と笑う。

 二人はもう、端に座っているシリルのことは忘れたように、話をシリルの入ってくる前に戻した。 

「それにしても、あの螺旋帝国の使者の最後の言葉は、気味が悪かったわね」

 チューラがそう言えば、ユリウスもうなずく。

「ああ、あれか、『我が皇帝あるじからは、共に太陽の黄金の階段を昇って参りましょう、との言葉を預かって参っております』ってやつ」

「そう、それ! いきなり何を言い始めるのかと思ったわ。気味が悪いったら! 何か、あちらの格言かなんかなのかしら?」

 チューラは大仰な身振りで、記憶を振り放すような仕草をした。これは、よほどのことだ。

 二人はそのまま、新生螺旋帝国とその皇帝、ヒョウ 革偉カクイについての論評に入って行ってしまったので、その時、部屋の隅でシリルが吐いた、ため息のような言葉の羅列などは聞こえなかった。


「……貴女と共に、太陽の黄金の階段を昇って参りましょう。そして、焼き尽くしてしまいましょう。この大地にあるすべての思い出を焼き尽くしてしまいましょう。……私が次にここを訪れても、何処だかわからないように」

(何も残すな)

(何も忘れてくるな)

「火焔よ焼き尽くせ……私が悲しまないように……って続くんだよ、この歌は」

 それは、歌劇で歌われる歌に似ていた。

 シリルの足は、節に合わせて、テーブルの下で緩やかにリズムを取っていた。

 続きのステップは、彼の息子が踊ってくれるだろう。

 今までの彼なら、この二十年の間の彼なら、一度そう思ってしまえば、もうこのことは忘れて終わりだっただろう。

 だが。


「焼き尽くされた瓦礫の山……燃え残りの熾火おきびから蘇る」

 世界が燃え尽きた後に。

 火の鳥だけが蘇る。

「ひの……と、り」

 若い頃、舞踏団の先輩が、馬車に轢かれて踊り手をやめ、演出と振り付けに回っていた男が教えてくれたっけ。

 シリルは端っこのソファに座ったまま、指先と足先だけで振りを確認した。ああ、まだ覚えている。

「まだ、教えて、なかった、な」

 彼は、彼の息子には自分の踊れる踊りのほとんどを教え込んでいた。

 チューラもユリウスも嫌がったが、彼らにはジョスランとリュシオンの王子二人がいたから、第三王子のトリスタンのことには甘かった。トリスタンは兄たちと同じ学問や芸事も修め、その上に父の教える舞踏の修行にも耐えたのだ。

 それなのに。

 自分はあの、大切な踊りをまだ教えていなかったなんて。

 シリルは、久方ぶりに頭を使っているような気がした。この宮廷では一歩も二歩も下がって、目立たないこと。人に恨まれないこと、分をわきまえた男だと思われるように謙虚ささえ守っていれば、多少、惨めなことはあれども、暮して来られたからだ。それらはもう、この二十数年のうちに、彼の第二の皮膚のように体に身についてしまっていた。

「……今、いま、なのだな。だったら、あの子に教えて、おかなくては」

(お前はあの黄金の太陽への階段を駆けあがれ

 そしてお前はこの世の伝説になれ) 


 ザイオン女王国の王都、アルビオンのチューラ女王の宮廷から、長年の愛人、ダヴィッド子爵シリルが消えたのは、十二月になる前の怖いほどに青く晴れ渡った日のことだった。









 ロシーオがオリュンポス劇場から、一人戻ってくると、すぐにカイエンは皇宮へ上がった。そして、オドザヤとサヴォナローラにザイオンの王子の居場所がわかったことを報告した。

 その上で、すぐに身柄を抑えるべきか、このまま様子を見るべきか、はたまたザイオン大使の官邸に知らせるだけで手を引くか、が話し合われた。

 だが、どの手も一長一短で、結論が出ない。

 ここまで身分に似合わぬ行動力で街中に潜伏し、しかも踊りの名手であるというトリスタン王子。

 劇場に踏み込んで身柄を抑えても、「王子と特定できる物品」を彼が所持していなければ、「肖像画にそっくりだったから」だけでは、王子と特定ができない。体に「ザイオン女王国第三王子」と刺青でも入っていれば別だが、そんな馬鹿なことがあるはずもない。

 もちろん、オドザヤとサヴォナローラはいざ知らず、カイエンはカマラの「目」を疑ってはいない。その後で確認に行ったイリヤも確信している。

 だが、人物の特定というのは難しい。

 あの、魔女スネーフリンガも、元スライゴ侯爵夫人ニエベスである、という確認さえ出来なかったのだ。

 知らぬ、存ぜぬ、を王子に決め込まれれば、それまでなのだ。無理矢理に引っ張ってきて、後で外交問題になるのも拙いだろう。王子の行方を探してくれ、とザイオン側に頼まれてはいるが、無理矢理引っ張ってきたら、向こうに「どうして先に教えてくれなかったのか」とこちらを攻める口実ができるだけだ。

「黙って放っておいてもらちがあきません。ザイオン側に知らせるだけ知らせた上で、王子の動きを見ましょう」

 サヴォナローラがそう言い、オドザヤとカイエンもうなずくしかなかった。

「まあ、もう見つけ出したんだぞ、早いだろ、と慌てさせられればいいか。王子がどう出るか、だな」

 カイエンはそう言って、その夜は大公宮へ戻ってきた。

 王子発見の報告は、サヴォナローラから明日の昼前にザイオン大使へ送られることとなっていた。

 そして、同じ頃、ナシオと交代したシモンが大公宮へ戻った。

「オリュンポス劇場というのは、どういう劇場だ。ザイオンと関係があるのか」

 もう真夜中に近かったので、カイエンは大公宮奥の書斎でシモンを迎えた。戻るのが遅かったので、先に帰っていたヴァイロンが、もう着替えた平服姿で出てきて側についていた。

 晩御飯を食べる暇もなかったので、カイエンはアキノに持って来させた、焼いたサンドイッチと熱いスープの夜食を摂っていた。シモンももちろん、飲まず食わずだろうから、アキノはすぐに追加を持ってきた。

「見つかったそうですな」

 盆を持ったアキノの後ろから、もう寝ていたのか、寝巻きの上にガウン姿でついてきたのは教授だった。

 カイエンが、教授の後ろを透かし見るようにすると、教授はすぐにわかったらしい。

「ああ、ガラ君ですか。彼はナシオ君と一緒にその、オリュンポス劇場とやらへ行きましたよ。匂いを覚えてきたい、とか……」

 カイエンは目を剥いたが、すぐに理解した。ガラは異常に鼻が効く。彼に匂いを覚えられれば、ちょっと逃げたくらいなら追いつかれてしまうだろう。

「オリュンポス劇場の持ち主は、ザイオン人です。もう二十年近くこのハーマポスタールに住んでおり、在住のザイオン人の中では古株です。ご存知の通り、外国人は国ごとにまとまった場所に住んでいることが多く、あの劇場の界隈にはザイオン人が多いそうです」 

 カイエンは、暖かいサンドイッチをつまみながら、執務机の後ろに貼ってある、ハーマポスタール市内の地図を振り返った。

「なるほど。で、オリュンポス劇場に入って行った王子は、どうなった」

 カイエンの隣に、アキノが持ってきた椅子に座った教授は、行儀悪くシモンの前の皿から、サンドイッチの付け合わせの野菜の酢漬けを失敬している。

 ヴァイロンの方は、疲れはしないか、とカイエンの様子を気にしているようだ。

「踊り子の衣装のまま、三階の奥の部屋に入りました。そこはちょっとしゃれた作りになっていまして、多分、あの劇場に来る特別な客人かなんかのためのものでしょう。三階はちょうど、通り側に一階からぶち抜きで作られている、劇場の二階中央の一番高いボックス席と同じ高さなのです」

「ふんふん、それで? ……ああ君、こういうものは暖かいうちに食べてしまうものだよ。大公殿下は不作法なんか気になさらない」

 教授は遠慮しているのか、サンドイッチに手を出さないシモンの手に、無理矢理サンドイッチを持たせる。パンはこんがりと焼いてあり、挟まれた中身は牛肉の蒸し焼きで、玉ねぎの入った、茶色のソースがかかっていた。 

「天井から見ていたのですが、そこで踊り子は扮装を解きました。あの長い髪は本物でしたが、化粧を落とした顔は肖像画と同じで、間違いありません。衣装選びも上手いんでしょうが、着痩せするたちなんでしょうね。武器を扱う武人とは違いますが、きれいに筋肉のついた鍛え上げられた体でした」

「ふぅん」

 カイエンはサンドイッチを食べ終わり、ぼりぼりと野菜の酢漬けを噛みながら、ちょっと考えた。

「それじゃあ、ザイオンの第三王子はそこらの踊り子なんかより上手に踊る、踊り子王子だってわけだ。……なんでかは知らないけど。ところで、その王子の踊りってのは、どんなものなんだ? 私にはちょっと想像がつかなくて……。ザイオンの踊りなのか?」

 カイエンはトリスタン王子が踊り子顔負けの踊り手である、というところまでは理解したが、まだよく実体が掴めずにいた。

 すると、シモンは意外にもすらすらと答えた。

「あの踊りなら、わかります。元々は東の方の踊りで、いいえ、螺旋帝国よりは手前の小国の……靴の裏に金属を貼って、それを床とか石畳とかに叩きつけるようにして、音を出して踊るんです。なので、拍子を取るリズムが重要で、楽器の演奏に合わせてもいいですが、太鼓やなんかの打楽器だけでも踊れるんです」

 カイエンと教授はちょっとびっくりした。

「ザイオンの踊りじゃないんだな?」

「はい。まあ、ザイオンは東側の国とも国境を接しておりますから、ザイオンではそれなりに流行っているのかもしれませんが」

 カイエンはちょっと考えたが、この件はとりあえず置いておくことにした。

「王子と、オリュンポス劇場との関係はわかったか?」

 これにも、シモンはすぐに答えた。

「王子と、劇場の持ち主は知り合いのようでした。話を聞いたところでは、『シリル』という名前が何度も出てきました。その人物が、劇場の持ち主の昔馴染みで、トリスタン王子とも親しい人物のようなのです」

「場末の劇場の持ち主と、王子との接点は、その『シリル』という人物なんだな? そいつは王子の何だ」

 カイエンが聞くと、シモンはいつもの無表情の中に、ちょっと悔しそうな色をのぞかせた。

「それが……用心深いことで、王子も劇場主も『シリル』と名前を呼び捨てにするだけで。ただ、そのシリルという人物が、王子に踊りを教えた人物であることは間違いありません。それに、劇場主の昔馴染みなら、もう中年の男でしょう」

「ふむ」

 カイエンには何とも口の出しようがない。ザイオンにいるハウヤ帝国の大使に、トリスタン王子の周りに「シリル」何がし、という人物がいないかどうか、照会するしかないだろう。  

「それで、王子は今夜の劇場の出し物には出たのか?」

 カイエンは話題を変えることにした。

 シモンはやっと口に入れたサンドイッチを、しっかりと噛んで飲み込んでから答えた。

「はい。今夜の出し物は、短い歌劇と、群舞の取り合わせでしたが、その両方に。歌の方も、なかなか見事な裏声で、灯りもそんなに明るくない劇場ですから、男だと気が付いた客などなかったでしょう」

 何しに来たんだ? その王子。

 カイエンはトリスタン王子の正体が暴かれていくにしたがって、かえって理解が及ばなくなっていく、という矛盾の中で考え込むしかなかった。



 そして。

 奇妙なことには、トリスタン王子の居所を教えてやったというのに、それから何日も、ザイオンの外交官からは何の音沙汰もなかった。

「見つけました、ありがとう。つきましては、ご挨拶に伺わせます、ってのが、普通の流れじゃないのかな? 王子じゃありませんでした、と言うんでも、こっちに探してもらったんだ、お礼の一言くらい言いに来るべきじゃないか」

 カイエンはそう思いもし、皇宮へ上がってオドザヤとサヴォナローラの前でも、同じことを言いもしたが、ザイオン側から何も言ってこない以上、どうしようもない。 

 オリュンポス劇場を見張らせている、ナシオやガラからは、王子は相変わらず劇場におり、テルプシコーラ神殿通いもやめていない、と報告が入っている。ザイオンの大使からは一度、使いが劇場を訪れたが、それきりらしい。

 その時、天井で聞き耳を立てていたのはナシオだったが、彼が言うには、

「王子は『時期を見ようよ。僕にいい考えがあるんだ』と笑っていました。使者も、首をひねりながら帰って行きました」

 ということだった。

「ザイオンほどの大国が、失礼なことね。馬鹿にするにも程があるわ、このまま、黙って国へ帰ってくれたら良いのに……」

 さすがのオドザヤも、美しい顔を不満そうに膨らませていた。

 サヴォナローラの方は、何か思うところがあるようにも見えたが、言葉を挟むことはなかった。

「ところで、細工師ギルドの件ですが、カスティージョが細工師ギルドを襲う、という話を貴族の奥方たちに吹き込んだ者はわかりましたか」

 カイエンは、貴族の奥方が相手だけに、こっちの聞き取りはオドザヤとサヴォナローラに任せていたのだ。

 オドザヤはカイエンの問いを聞くと、すぐに真面目な顔になった。

「それが……。皆が皆、違う名前を出すのです」

「はあ?」

 カイエンは眉をひそめた。

 それを見て、サヴォナローラがすかさず、説明を始めた。それは、一見、ありそうもない事柄だった。

「A夫人に聞けば、B夫人、B夫人に聞けばC夫人……と巡り巡って、最初のA夫人に戻ってしまうのですよ」

「そんな馬鹿な! 誰かが嘘をついているんだろう。出所は必ずあるはずなんだから」

 カイエンの言葉はもっともなことだったが、オドザヤもサヴォナローラも首を振る。

「一人一人、呼んで聞いたらそんな調子なので、最後に全員を呼び出したのです。それでも彼女たちは同じことを言うし、しまいには彼女たちの中で口論になってしまって……」

「黒幕を知っているのは一人なのか、数人なのか、はたまた全員なのか。こればかりは一人一人、拷問にでもかけない限りはわかりそうもありません。実は誰かの召使いかなんかが出どころで、その主人が勘違いしているのかもしれません。どっちにしろ、この件は、徒労に終わりました」

「お姉様、ごめんなさい」

 サヴォナローラは疲労した顔付きで、眉間を揉んでいる。

 カイエンに謝ったオドザヤも、このところの事件続きで疲労した顔だった。

「敵もさる者、というわけですね」

 カイエンは、今後もこんなことが続かないよう、何らかの手を打たねばと思っていたが、そう簡単ではないようだ。

「ここはまた、読売りの力でも借りるしかない、かなあ」

 カイエンは呟いた。

 噂の恐ろしさは身にしみた。それなら、噂に踊らされないよう、世論を誘導するしかない。

「ちょっと、こちらで先生や、新聞屋たちに意見を聞いてみますよ。噂も戦術の一つでしょうからね」

 カイエンはザイオン大使公邸と、オリュンポス劇場の見張りは続けることを言い残すと、皇宮を後にしたのだった。   







 そして、日にちは過ぎて行き、十二月九日を迎えた。

 その日は、カイエンとリリエンスールの誕生日である。

 フロレンティーノ皇子の場合とは違って、カイエンはリリの誕生日はごくごく内うちで行うと決めていた。こんなことで、マグダレーナやベアトリアを刺激しても仕方がないからだ。

 その日、大公宮の奥の大公一家の食堂に集まったのは、だから、大公宮の住人と、大公軍団の幹部、それに使用人たち。伯母のミルドラと、その娘、バルバラとコンスエラ。

 これに、これだけは今年は特別に、カイエンはオドザヤをお忍びで招いた。

 オドザヤは皇帝になる前も、皇帝になった後も、こういう気の置けない集まりというのには招待されたことはないだろう。

 別にお忍びがバレても、妹の誕生日である。批判される筋合いのことでもなかった。

 オドザヤは夕刻、女官長のコンスタンサを供に、大公軍団から派遣している護衛の、ブランカとルビーに守られ、地味な馬車で大公宮の奥の玄関に降り立った。

 オドザヤは迎えに出た、カイエンとの挨拶もそこそこに、カイエンの後ろでサグラチカが抱いていた、リリの方へ目を向け、すぐに引っ張られるように歩み寄った。

 ずっと皇宮にいるオドザヤは、あまりリリと触れ合う機会がない。

 フロレンティーノ皇子の誕生日の宴で会ったが、あの形式的な宴では、オドザヤはリリを抱き上げることも出来なかったのだ。

「まあ! 見て、コンスタンサ。リリは私がわかるのねえ」

 オドザヤが視界に入ると、リリはすぐに「あばぁ」と声をあげて笑い、オドザヤの方へ手を伸ばしたのだ。

 オドザヤはサグラチカから、危なっかしげな様子でリリを受け取ったが、すぐに頬ずりするようにした。

「リリ、今日は、姉様とたくさん遊びましょうね。お姉様、いいでしょう?」

 カイエンはこの美しい妹が、久しぶりに見せる無邪気な微笑みに、温かいものが込み上げた。

「もちろんですよ。……さあ、お入りください。今宵は無礼講ですよ。気の置けない者ばかりですから、どうか、お気楽に」

 そう言いながら、オドザヤの背中に手を回すようにして、会場の食堂へ歩くカイエンは、その時は思いもしなかった。


 この身内だけを集めた、二人の誕生日のささやかな宴に、とんでもない闖入者が訪れるなどとは。

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