竜の将軍とバンデラスの息子


「今宵は、大公殿下の後宮の男君たちがお揃いになると聞きましたのでね。私も最近、仲良くなったのを連れてきましたの」

 ドラゴアルマのブラス・トリセファロ「そっくり」な男の腕をとって、バンデラス公爵の送別会の会場、大公宮奥の食堂へ入って来た、ナポレオン・バンデラスの母であり、前バンデラス公爵夫人のサンドラ。

 その、サンドラの横に、彼女に腕を貸して立っている男は、見事なまでに青ざめ、その青ざめた皮膚の上に、これまた見事な仏頂面をのせていた。

 年齢は三十代初めのジェネロとおっつかっつ、といったところだろう。男ざかり、といった年齢である。彼は、顔面蒼白で仏頂面な現状を差し引いても、それなりに目立つ外見の男だった。

 ヴァイロンほどではないが、背の高さはジェネロやザラ大将軍よりもやや高いだろう。体格も大変に素晴らしい。

 今日はヴァイロンは大公軍団の制服姿で、ザラ大将軍は私服だったが、ジェネロは帝国軍の深緑色の社交用の礼服姿だ。だが、もちろんこの「トリセファロ将軍のそっくりさん」は私服である。サンドラのドレスに合わせたらしい、黒に近い深い葡萄色の絹の上着の背中は、服の上からでもわかる、いかにも強そうながっちりとした筋肉で覆われている。

 日に焼けた皮膚は浅黒かった。かなり短く刈り上げた髪の色は漆黒。顔つきは目鼻立ちの造作が大きく、整っているというよりはいかつい印象だ。

 その表情は……彼をよく知る、ヴァイロンやジェネロが知る限り、普段はいつも紳士的でにこやかなのだが……。今宵はややしかめられ、だが、それを無理に取り繕っている様子が見え見えだった。彼は戦場はともかく、こういう社交の場所にはあまり慣れていないのだろう。

「ああ、本当にトリセファロ将軍に、よく似ていらっしゃる。……こんなにお手間をかけて、お連れくださって嬉しゅうございます。ありがとう、サンドラ様」

 カイエンはすぐにサンドラ、いやバンデラス公爵の気遣いを理解して、にこやかに言葉を返すことができた。それを彼女の後ろに立って聞いていたエルネストにも、すぐにその場の状況は理解できたらしい。

「……ああ、そう言うことか。なるほど。さすがは公爵様だ。粋なことをなさいますねえ」

 エルネストはそう呟くと、サンドラの連れて来た「最近仲良くなったそっくりさん」をじろじろと眺めわたした。特に、サンドラの手が絡んでいる腕が、ふるふると小刻みに震えている様に気がつくと、みるみる、エルネストの人の悪い顔に、面白そうな表情が浮かんで来た。

 じろじろ見られて、「そっくりさん」はやや不快げに青緑色の印象的な目をエルネストへ向けたが、カイエンと並んだエルネストの顔立ちから、彼の正体を悟ったらしく、「そっくりさん」は賢明にも目をそらすことで自分をなだめたらしい。

「おい! ガルダメス、ちょっとこっちへ出てこいよ。お前、この御仁のご紹介にあずかりたいだろう」

 相手の様子を一渡り見て、何を確信したのか、いきなりエルネストが言った言葉は、カイエンにもその場の誰にとっても、謎の言葉となった。

 確かに、エルネストの故郷である、シイナドラドの外交官ニコラス・ガルダメス伯爵はこの場に招かれて来ていた。だが、エルネスト以外には親しい人間もいない彼は、居心地悪そうに壁際のソファに腰掛け、すっかり壁の花状態になっていたのだ。

 そのガルダメス伯爵は、エルネストの声を聞くと、さすがにソファから立ち上がった。

「ええっ? 何をおっしゃるんです……ああ、ぼうっとしておりまして、申し訳ございません。すぐに参ります」

 ガルダメスは食堂の入り口付近で、何やら騒ぎになっているのには気がついていただろう。だが、客への紹介は皆が揃ってからされるのだろうと思って、油断していたのに相違なかった。

 カイエンやエルネストと共通する、面白みのない、シイナドラド皇王一家の血の流れを思わせる容貌のガルダメスが、さすがに皇子のエルネストに呼ばれては無視することも出来ず、入り口の扉の方へ歩いてくる。

 そのガルダメスはエルネストが、アルウィンの影響下からカイエン側に転んだ後、とある方法でもってこちら側に引き入れられたのだったが……。その「方法」はエルネストがもたらした情報によるものだった。


(ガルダメスは見りゃあわかるが、俺たちと同じ血族の末だ。国じゃ裏で大いにやってた対外貿易の責任者だった。やり手だよ。だが、それだけに儲け話がくっついてくればすぐに転ぶよ)

(じゃあ、お礼ついでにもう一つ、教えておいてやるよ。ガルダメスは俺やそこのヘルマンよりも年上だが、未だ独身だ。縁談はいくつもあっただろうに、断り倒していてなあ。この国への赴任にも連れてきたのは男の召使いだけだ。おおっと、俺がヘルマンしか連れてこなかったのは理由が違うぜ)


 このエルネストの二つの示唆には、かなり鈍いものでもわかる、ガルダメスの性格や性癖が語られていたので、カイエンたちはすぐに手を打ったのだ。

 現在、ガルダメスのいるシイナドラドの外交官官邸は「その筋」では有名なサロンとなっている。それだけではなく、抜け目なくもサロンとして、ある程度の収益をも上げているらしい。

 もっとも、商人や貴族の出入りはあっても、軍人の出入りは少ないはずだ。軍人の世界にも「その筋」の者はいるに違いないが、彼らはそれを表に出すのは好まない。 

 つまり、サンドラに腕を貸し、まるで新しい愛人であるかのようにして現れた「そっくりさん」……それはまさしく、ドラゴアルマ将軍のブラス・トリセファロに違いなかった……の登場に驚いた、ヴァイロンやジェネロには、ごく親しい者のみが知る明確な理由があったのだ。

 その大きな体の二人を、押しのけるようにして前へ出て来たのは、意外やザラ大将軍エミリオだった。

 彼は今宵は近衛の軍服ではなく、粋な渋い色合いの、長い、膝あたりまである上着に、鋭角的な真っ白なシャツの襟元を覗かせ、胸元には白い薔薇の花まで挿していた。

 カイエンは二年前の開港記念劇場でも見ているが、私服のエミリオ・ザラはなかなかの伊達男なのだ。

 今日は、彼の兄であるザラ子爵ヴィクトルも来ているが、彼の方は身分を考えたのか、後ろの方で静かに状況を見ているようだった。

「……ああ! これは本当によく似ておられるのう。見間違えそうだ。なあ、コロンボ将軍、そなたもそう思うだろう? まさかと思うが、双子の弟かなんかがいたのかな?」

 そう、カイエンとサンドラの猿芝居に乗っかって来る、ザラ大将軍の顔はエルネスト以上に悪そうな笑みを浮かべていた。

 カイエンは、エルネストの方はともかく、ザラ大将軍の悪そうな顔つきの意味はよくわかっていなかったが、とりあえず、バンデラス公爵とサンドラ、それに「そっくりさん」と、フランセスクを会場の中へ招き入れた。

 まさか、会場の入り口で固まって、「ああでもない、こうでもない」とやっているわけにはいかなかったから。


「お揃いですね」

 カイエンの横に音もなくやって来たのは、執事のアキノだった。

「ああ」

 カイエンが答えると、アキノは侍従頭のモンタナ以下の侍従たちに目配せして、中央のテーブルの端に用意されていた、各種の酒瓶の栓を次々に開けさせていった。

「さあ、こちらへ」

 カイエンがバンデラス公爵一家を招き入れ、案内したのは窓辺に置かれた瀟洒なソファの一角だった。

 今宵は各々で好きな料理を取って来て、部屋中にま配られた好きな椅子やソファ、それに小卓のそばなどで食べる方式だ。飲み物の方は、侍従たちが銀盆に載せて会場を回ることになっていた。

 バンデラス公爵と母親のザンドラは、さすがの貫禄で優雅に席に着いた。長椅子に腰掛けたサンドラの両隣には、孫のフランセスクと、問題の男が腰掛けることになる。

 「そっくりさん」は居心地悪そうに大きな体を縮め、サンドラから少し離れて座った。それでは「最近、仲良くなったの」としては失格だが、もう皆に彼の正体は明らかだから、彼も演技の必要を感じなくったのだろうし、第一、誰も不思議そうな顔などはしなかった。

 カイエンとエルネストは、その正面に腰掛け、他の皆は乾杯の準備をしている召使いたちを見て、この窓辺のソファの周りを取り囲むようにして立った。

 やがて、飲み物の準備が出来ると、人々は侍従たちの運んでくる中から、各々、好みの飲み物を手に取った。

「バンデラス公爵閣下の御旅のご無事を祈って……乾杯サルー!」

 カイエンが音頭をとり、皆がグラスを振り上げる。

乾杯サルー!」




 そして。

 皆が最初の一杯を干す頃には、カイエンが皆をバンデラス公爵一家に紹介するのも終わりに近づいていた。

「もう、よろしいでしょう、公爵、サンドラ様、……それにトリセファロ将軍も」

(楽にしてくださいよ) 

 カイエンがすでにきっちりと閉じられた、会場の入り口を目で示すと、サンドラよりもバンデラス公爵の返答よりも早く、くだんの男……ブラス・トリセファロがソファから立ち上がっていた。

「……それでは、私は失礼させていただきます」

 まるで、そのままここから出て行きそうな勢いで立ち上がると、トリセファロ将軍はさっと周りを見渡し、迷うことなくヴァイロンやジェネロの突っ立っている方向へ歩いていく。

 その様子を、カイエンとザンドラ、それにフランセスクはややぽかんとして見送ったが、エルネストとバンデラス公爵、それにザラ大将軍は可笑しそうに口元を抑えて見ている。彼らには、トリセファロの奇矯な行動の意味がわかっているらしい。

 カイエンはトリセファロが、ジェネロの胸ぐらを掴まんばかりにして、小声で何かまくし立てているのを見ながら、それでも公爵にはお礼を言うのは忘れなかった。

「バンデラス公爵、彼を連れて来てくれてありがとうございます。……確かに、今日の集まりに彼も呼びたかったのですが、さすがにカスティージョ将軍だけを呼ばない形になっては、と危ぶんで諦めておりましたので、助かりました」

 正式にドラゴアルマの将軍を招待するわけにはいかなかったが、バンデラス公爵の母親のサンドラが「最近できた愛人」を連れて来たのならば、苦しいが言い訳はいかようにも立つ。

「なに、ほんのお別れ前のご挨拶です。私が領地へ戻った後は、母や息子がお世話になるのですから」

 バンデラス公爵は珈琲色の顔に、有るか無きかの笑みを浮かべているようだ。彼の出立後、サンドラとフランセスクはバンデラス公爵家の屋敷に住まうことになるが、そこの警備には大公軍団から手勢を出すことになっていた。もちろん、これは親切心からだけではない。と言うよりは、「人質を見張る」ためであり、それはこちら側の事情からだった。

「大公殿下は、ジェネロ・コロンボ将軍とはお親しいようですね。……シイナドラドへいらっしゃった時の護衛でしたか」

 バンデラス公爵がそう言えば、サンドラも続けた。

「あら。だってコロンボ将軍は棚ぼた将軍様でございましょ。本来ならば、あちらの……あらいけない。あの、今は大公殿下の……の方がフィエロアルマの将軍でいらしたのですものね。ほほほ」

 サンドラは話している途中で、エルネストが前にいることに気がつきました、という体を装ってヴァイロンの名前を出すのを控えたが、そんなことは百も承知の言葉だろう。カイエンも気にしなかった。

「ええ。ですが、私は今、北へ派兵中のサウリオアルマのガルシア・コルテス将軍と、あちらのブラス・トリセファロ将軍とは直接お話ししたことが無くて……」

 カイエンも、皇宮で二人の将軍に会ったことはある。だが、挨拶以上の話をしたことはなかった。残る一人のマヌエル・カスティージョ将軍は、今や反オドザヤ勢力のモリーナ侯爵一派と知れ渡っているから、今更話し合っても仕方がない。

 カイエンがそこまで話した時、奥の扉が開かれ、侍従たちが料理の皿を運び入れ始めた。

 今宵も、大公宮の料理長、ハイメが腕をふるった数々の料理がどんどん運び込まれ、食堂の真ん中の長大なテーブル狭しと並べられていく。

 立食形式ではあるが、最初に運ばれて来た皿はどれも前菜の形式に則ったものだ。新鮮な海産物が使われた色とりどりの皿には、冷製のもの、温かいもの、上品な宮廷式のものから、やや下町風のものまでが魅惑的な彩と匂いとで皆の目と鼻を刺激した。

「ああ、料理が来たようです。今宵は私の部下たちもご相伴に預かりますが、まずは公爵、サンドラ様、フランセスク様がお取りください。たくさん用意してございますから、お気に召したものがありましたら、召使いに申し付けてくださいませ」

 カイエンがそう言うと、サンドラが孫のフランセスクの背中を叩いて、すぐに立ち上がった。

「あらまあ、素敵。大公宮の料理人の噂は私でも聞いておりましてよ。宮廷料理から下町の風味まで、ありとあらゆる料理を饗すると評判ですわ。さ、フランセスク、いただきましょう。……皆様も早く召し上がりたいでしょうから、私たちがグズグズしていては申し訳ないわ」

 なんともさばけた言い様で、サンドラはフランセスクを引っ張っていく。確かに、今宵の主賓が食べてくれなくては、他のものは手をつけられないのだ。フランセスクはちらりと、父の方をうかがったが、バンデラス公爵がうなずくと、安心したように祖母の後に続いた。

 フランセスクはもう、十七、八にはなるのだろう。

 珈琲色の肌の色と黒い髪の色は父親に似ているが、目の色は赤銅色で、顔立ちも祖母や父親の厳しい面差しよりはかなり柔らかい。恐らくは南国出身の母親に似たのだろう。

 侍従から取り皿を受け取り、彼らが料理を取って席に戻ると、それからはそこに集った人々は無礼講の様相を呈しつつも、各人の思惑をもって動き始める。


 カイエンもまた、アキノに助けられて、食前酒と、そして前菜の皿を平らげると、飲み物だけを持って、歩き始めた。

 こんな席でも左手に杖を付いているカイエンは、料理の皿と飲み物の皿を両方持って歩くことはできない。

 バンデラス公爵のそばには宰相のサヴォナローラとザラ大将軍、エルネスト、それにガルダメスと大公軍団のイリヤとマリオが、ザンドラのそばにはミルドラとデボラ、それにザラ子爵が、フランセスクのそばにはミルドラの娘たち……バルバラとコンスエラがいるのを確認して、彼女は一直線に、その他のごつい男どものそばへ向かっていった。

 主賓のバンデラス公爵とも最後に話しておきたいことがあるが、それはもっと宴の進んだ後に回してもいいだろう。

「カイエン様、お気をつけて」

 すぐに気がついたヴァイロンが、カイエンの右手のグラスを取り、手を貸してくる。今日もヴァイロンやイリヤ、それに治安維持部隊長の片割れ、マリオ達は黒い大公軍団の制服姿だ。

 イリヤとマリオはザラ大将軍のそばにいた。あっちはあっちで、油断のならない密談中なのかもしれない。

 カイエンと、それに手を貸したヴァイロンが近づいていく先は、食堂の一番下座の端の方だった。そこにはソファではなく、木製の、だが上品な布張りの椅子が壁際に並べられている。

 今、そこに集まっているのは、ジェネロと、マテオ・ソーサ、ガラと……そしてブラス・トリセファロだった。

 彼らのそばの小卓の上には、すでに平らげられた料理の皿が置かれており、しずしずと気配もなく近づいて来た、侍従長のモンタナが、主人のカイエンの来る前にそれらをきれいに下げていった。アキノとモンタナは、常にカイエンと主賓の動きに目を光らせているのだ。

「いいかな」

 カイエンがヴァイロンに手を借りながら、教授の横の椅子の一つに腰掛けると、すぐにジェネロが口を開く。

「殿下、ご無沙汰しております。ご無沙汰のうちに、なんだか色々なことが変わったり、おっ始まったりしましたねえ」

 ジェネロは将軍だから、サウルの葬儀にも参列していたが、カイエンと直接に話すようなことは去年、シイナドラドから戻ってから、もう半年以上もなかったのだ。

 だから、自然と彼の言葉は本当に懐かしそうな響きを持っていた。

「お体の方はもう?」

 ジェネロはカイエンの帰国後、一度、この大公宮へヴァイロンを訪ねて来ているが、カイエンとは会っていない。

「うん。もう、なんともない。元どおりだ。ジェネロも変わりなく元気そうでよかった」

 カイエンがそう言うと、ジェネロは灰色がかった緑の目を眩しそうに細めた。

「俺なんぞは、あれから戦争にも行ってねえし、元気で当たり前です。殿下は確かにすっかり元気になられましたねえ。顔色も良くて。よかった、よかった。今も、その話をしてたところですよ」

 ジェネロはシイナドラドでカイエンを守れなかったことを、今でも気にしているらしい。それはカイエンにもよくわかっていたので、彼女は静かに首を振った。

「あの時のことは、もう、いいんだ。それより……話はもうこれから先のことだよ」

 カイエンがそう言うと、そこにいた皆の顔が引き締まった。

「ジェネロ、紹介してくれないか」

 カイエンが言うまでもなく、ジェネロは自分の後ろに隠れるようにしている男を自分の前に押し出した。

「ああ、こいつですね。すみません、こいつはちょっと……アレでしてね」

 ジェネロに押し出されて来たのは、もちろん、今宵のもう一人の主賓とも言える、ブラス・トリセファロ将軍だった。

「ほら、ご挨拶しろよ、ブラス、この馬鹿!」

 ジェネロは言葉遣いも荒く、トリセファロの後ろ頭を小突いた。同年代だからか、遠慮がない。それへ、恨めしそうな視線を向けながらも、トリセファロはカイエンに向き直った。

「ええ、お初にご挨拶申し上げます。ぶ、ブラス・トリセファロであります」

 カイエンは首を傾げた。なんだか、変だ。トリセファロは軍人らしく、直立、敬礼しながら挨拶したものの、その視線はカイエンを直視せず、微妙に明後日の方向をさまよっている。

「カイエン・グロリア・エストレヤだ。よろしく頼む」

 カイエンは違和感に包まれつつも、挨拶を返した。だが、トリセファロはそれ以上、言葉を発そうとしない。

「?」

 カイエンは助けを求めたわけではないが、違和感を覚えて、傍のヴァイロンの顔を見た。ついで、トリセファロの後ろにいるジェネロの方も見たが、二人は同じような複雑怪奇極まる顔つきで黙っている。

 しょうがなく、ヴァイロンの反対側に座っていた教授の方を見ると、こっちはさすがに反応してくれた。

 トリセファロもまた、ヴァイロンやジェネロと同じく、士官学校の卒業生である以上、教授の教え子であるはずだ。

「殿下……。大変申し上げにくいのですが、ですが……ねえ」

 だがなんと、海千山千の中年である、教授までもがため息をつきながら、本人の方を見ながら黙ってしまうではないか。

「……こやつがこう言う態度では、説明しないわけにも参りませんなぁ」

 カイエンは、もったいをつけるような教授の物言いに、なんだかはらはらした。とにかくこのトリセファロ将軍には、何かあることは確かだ。

「はっきりいっちまうと、女嫌いなんですよ」

 そこで聞こえて来たのは、教授の声ではなく、ジェネロの声だった。

「えっ」

 驚くカイエンの横から、今度は教授。

「と、言うよりは女性恐怖症に近いのですな。まあ、先ほどはよく我慢しておりました。サンドラ様と一緒に出て来た時はびっくりして冷や汗をかきましたよ」 

「はあ?」

 カイエンがなおもびっくりしていると、横からヴァイロンまでもが情報を付け足してくれた。

「殿下。バンデラス公爵様の気遣いを無にしないため、おそらく、トリセファロ将軍は、本日、かなりの無理を……」

 そうなのか。

 カイエンはやっと納得して、大公を前にして一国の将軍とは到底思えない、明らかに挙動のおかしいトリセファロ将軍の方を眺めやった。

 相手は確かに、さりげなく視線をカイエンから外している。普段は女扱いされないことも多いカイエンだが、それでも彼には目を合わせることもできないような「脅威」なのだろうか。

 カイエンはここ数年のあれこれで、多岐にわたる種類の人間を見て来た。それに、そもそも彼女の住まう大公宮の周辺には恐ろしく個性の強い、変り者が跋扈している状況だった。だから、彼女の人間許容力というものは知らず知らずのうちにかなりのレベルに達していたのだろう。

「そうか」

 カイエンは深く、深くうなずいた。まあ、そういう人間もいるだろうし、それならば多少、礼を失する挙動であってもしようがないか。彼女がその時思ったのは、それくらいのことでしかなかった。

「でも、女と話すくらいはできるのだろう?」

 カイエンがその場の誰にともなく、そう言うと、当人以外のすべての口が答えた。

「そんなの、当たり前ですよ。女全部と話もできないんじゃ、買い物もできませんや」

 とはジェネロ。だが、その口調にはトリセファロの「事情」を知ってはいたが、これほどとは思わなかった、という思いが思い切り出ている。

「それくらいはなあ。まあ、男ばかりの帝国軍で働いている限りは、今までは女性と関わらずともなんとか仕事はできたんだろうが……もうそんな時代ではないですしな。これで今まで将軍が勤まって来たのは奇跡ですよ」

 教授はため息交じりに言う。確かに、後方支援と補給担当だった、ベアトリアとの国境紛争中には民間人との付き合いが多かったはずだ。だが、軍隊との折衝となれば出てくる民間人の代表は、まあ男性ばかりではあったのだろう。

「カイエン様は、別にあなた個人と昵懇になろうとの思し召しではないのだ。大切なのは、ドラゴアルマの長としてのあなただ。だから、ちゃんとお答えしてくれ」

 かなり現実的な説得に入ったのはヴァイロン。

「しっかりしろ。ちゃんと答えないと、俺があんたの首を絞める。公人として割り切れ」

 そして、最後の脅迫は、それまで黙っていた、ガラだ。

 そこまで言われて、やっとトリセファロは目線は合わせないものの、カイエンの方を向いた。

「申し訳ございません。今日ここに連れてこられた意図はもう、重々に察しております。どうか、お手柔らかに……」

 大きな体をひたすらに恐縮させている、このハウヤ帝国四大将軍の一人の姿に、カイエンはそっとため息をつかずにはいられなかった。黙っていれば男らしさ溢れる好漢だろうに……。この様子では軍隊関係者以外とのお付き合いはどうなっているのだろうか。

 なるほど、個性的ではある。

 カイエンはもう、バンデラス公爵の意図を汲んでここに現れた時点で、トリセファロがこちら側に与することを承知していることはわかっていた。これは大前提だ。

 だから。

 これから行われる「会話」はそれの確認に過ぎなかった。だが、これなしには今後、降りかかってくる難局には対応できない重要なものだ。

「トリセファロ将軍、今日は別に貴公を困らせたいわけではない。話したいことは、今後のための確認に過ぎない」

 カイエンは落ち着いていた。

「あなたの将軍としての力量は、ここにいるヴァイロンやジェネロ、そして教授からも聞いて、承知している」

 カイエンが静かな声でそう言うと、トリセファロの俯いた頭がふるり、と震えたように見えた。

「だが、こうして会って話ができたからには、改めてあなたに考えて欲しい。あなたがオドザヤ陛下……あえて言えば、女帝に仕えることをよしとするのかどうか。そして、この女大公である私が臣下の一として盛り立てていく国に、忠誠を誓えるのか否か」

 カイエンは、トリセファロの……今日知ったばかりの彼の個人的な「事情」をも含めて尋ねた。

「よく、考えてくれ。……答えは、今日でなくとも構わない」


 トリセファロは返答を持ち帰ることはしなかった。

 彼は即座に返答し、そして、カイエンはトリセファロから言質を取り付けた。

 もとより、クリストラ公爵ヘクトルと親しいトリセファロにとっても、カイエンやオドザヤの側につくことは違和感のない現実だったのだ。それでも、会って話して、お互いに理解し合うことなしでは、いざという時にお互いの心持ちを慮って行動することはできない。

「では、今後もよろしく頼む。オドザヤ皇帝陛下に忠実な将軍としての活躍を、大公たる私からも期待する」

 たとえ、周囲に知られた女性恐怖症であっても、ブラス・トリセファロは将軍としては、これ以上もなく真っ当な男だった。

「承知いたしましてございます」

 やっと、この場の雰囲気に慣れて来たのもあるだろう、忠誠を誓うその言葉だけは、彼もカイエンの灰色の目をまっすぐに見つめ返して、堅苦しくも言ったものだ。

「ハウヤ帝国の正当な血統にして、先代サウル皇帝陛下の遺志を受け継ぐ皇帝陛下と大公殿下に、揺るぎなき我が忠誠を誓うものであります」

 と。

「おい、そこまで堅苦しい言葉を、殿下は求めてはいらっしゃらないぜ」

 とりなすように肩を叩いた、ジェネロの言葉を、トリセファロはぎりぎりと首を振って否定しさえしたのだ。

「俺は今まで、女性に忠誠を誓ったことなどない。だが、それは時代がそれを俺に要求しなかったからだ。……今、時代は急激に動こうとしている。こんな時代に、俺のちっぽけな嗜好や性癖など、取るに足らないものだ」

 嗜好や性癖。

 カイエンは、サンドラがこのブラス・トリセファロを連れてくるなり、エルネストがシイナドラドの外交官である、ガルダメス伯爵を名指しして奇妙なことを言ったのを思い出した。

 ああ、では。だけど、今、そこまで自分から言わなくともいいのに。

 エルネストは、あの瞬間にすでに、このトリセファロの思考だの性癖だのを察知していたのだろう。いい年をして妻子のいない、ガルダメスの奇妙な性癖のことは、彼をこちら側に寝返らせるときにエルネストから聞いて、カイエンももう、知っていた。

 兎にも角にも、このトリセファロと言う男は生真面目なたちらしい。

 それは、今、この同じ場所で彼の言葉を聞いている、他の四人の男とても同じようなものだった。

 ヴァイロン、ジェネロ、マテオ・ソーサ、それにガラ。

 彼らは皆、大人の男として表面的には全然違う性格を持っているように見える。だが、その本質にある、不器用なまでの生真面目さは、そのまま、カイエンにも繋がるものだった。

 カイエンは、一瞬どうしようかとも思ったが、思い切ってトリセファロの手を取った。今日は宵闇のドレスに合わせて白くて長い手袋をつけている。だから、相手も我慢してくれるだろうと念じて。

「ありがとう。そこまで言わせて申し訳なかった。今夜は楽しんで行ってくれ。私はもう、あっちへ行くから」

 そう言うと、心底、びっくりした顔のトリセファロを置いて、カイエンは立ち上がった。

 そこで何とは無しに、目をやると、バンデラス公爵を囲んだ連中の中から、サヴォナローラとザラ大将軍の目線がすっと上がってこちらを見たのがわかった。

「さすがだな」

 小さくつぶやいて、カイエンは会場の中をふわりと見渡した。誰も彼も宴会を楽しんでいるように見えるが、それだけのためにここに居るものはいない。これもまた、政治であり、社交の場なのだった。

 ちょうど、前菜が食べ尽くされ、主菜の皿が運び込まれようとしているところだった。厨房に近い、奥の入り口の脇で、執事のアキノがそっと目線をカイエンの方へよこす。それにうなずいて、カイエンは足を若い男女の方へ向けた。

 フランセスクと、クリストラ公爵家のバルバラとコンスエラ。

 実のところ、カイエンは宰相、大将軍、将軍、そして公爵たちよりも、彼らの年齢の方にこそ近かったのだ。だが、カイエンが目の中に入ってくる、まだ十代の三人の笑いさんざめく様を見ながら思ったことは、なんとなくもの寂しい、鼻の奥が塩辛くなるような味わいを含んだものだった。

 彼らのまだいる「季節」と自分の生きている「季節」が、もう決定的に違ってしまっていること。もう、あそこへは戻る手段などないこと。

 それは、カイエンの中ではもう、去年の終わりから、あの時、永遠に喪ったものと共に、とっくに分かっていたことだった。そして、今はまだあそこにいる彼らとて、近い未来にはカイエンのいる季節に嫌も応もなく連れて来られるのだということも。


「どう? 楽しんでいるか?」

 カイエンが近づくと、バルバラが母親のミルドラに似た顔に、にこやかな微笑みを浮かべて振り返った。

「ええ! あのね、フランセスク様にね、南のラ・ウニオン海に浮かぶ島々のことをうかがっていましたの! お話がお上手で、まるで真っ青な海と、白い建物の並ぶ島々が目に見えるようですのよ」

「そうか、よかったな」

 そう、バルバラに答えながら、カイエンはそっとフランセスクの顔を見た。

 彼の父親のナポレオン・バンデラス公爵は、今のところ、こちら側の立場を理解してくれている。将来はわからないにしても、ありがたいことには、カイエンたちに好意を持ってくれてはいるようだ。

 だが。

 この、父親と入れ違いに「人質」として帝都に置いていかれる息子の方はどうか? 父親と意を共にしているとは限らない。

 カイエンとても、もう、そんなことに気がつかないような子供ではなかった。人間一人一人の「想い」がいかに他人からは推しはかり難く、そして繊細なものであるかは、この二年間の経験で、嫌というほどに思い知っている。

「フランセスク殿、すぐに温かい料理が運ばれてまいります。たくさん召し上がってくださいね」

 カイエンが微笑みながらそう言うと、早速、コンスエラが目を輝かす。

「お父様だけクリスタレラにお帰りになって、お仕事も大変で、申し訳ないわ。アグスティナお姉様にもね! 私たちだけ、こうして今年は秋も冬もハーマポスタールの新鮮な食べ物が食べられるんですもの」

 クリストラ公爵家の長女、アグスティナは今年の春に地元のポンセ男爵家へ嫁いでいる。今、あちらではベアトリアとの国境線の警戒を怠らぬよう、国境線の警備が再点検されているはずだ。

 クリストラ公爵家の後継は次女のバルバラが婿を迎え、女公爵として立つことになっていた。

「三人とも、楽しんで行ってくれ」

 カイエンは、フランセスクの茫洋とした表情を見るともなしに見ながら、ことさらに彼の方へ向けて微笑んで見せたが、彼の反応はまことにあっさりしたものだった。

「はあ。ありがとうございます」

 これはもしかしたら、父親よりも扱いの難しい人物なのかもしれない。

 カイエンの灰色の目に映った、フランセスク・バンデラスの姿は、薄らぼんやりして見えたが、それに騙されないくらいには、カイエンもまた、人が悪くなって来ていた。





 そして。 

 今年、十七になったばかりのフランセスク・バンデラスは、退屈していた。

 父の送別会だと言われて連れて来られたが、宰相やら大将軍やらの大物は、彼になど目もくれずに、父と話し込んでいる。人質としてやって来た、息子の彼になど彼らは声もかけてくれなかった。

 バンデラス公爵の長男とはいえ、母親が正妻でない彼は、未だ嫡子として世間に認められたわけでもない。そもそも、父には正妻などいないのだから。このことでは、父の気持ちも彼にはてんで理解できなかった。

 二十年振りに、ハーマポスタールに上って行った父の手紙で、祖母とともに上京せよと命じられたときには、その理由はともかく、モンテネグロの城での退屈な暮らしから逃れられる、と気持ちが浮き立ったものだ。

 ハーマポスタールへの旅も、そんなに長い旅は初めてだったから、彼には刺激的な事ばかりだった。最初は船で出発し、途中からは陸路となったが、あらかじめ先ぶれを出し、その土地土地の豪族や豪農の家に宿泊できるように図られた旅である。各地での饗応もまた、彼を満足させるものだった。

 一緒に旅をしている祖母から、その昔、故郷のザイオンからハーマポスタールへ、そして祖父と出会い、結婚してからバンデラス公爵領へと旅した思い出を聞かされるのには参った。だが、今、自分が体験している旅の面白さ、珍しさが、彼の心を浮き立たせて止まなかったことは確かだ。

 だが。

 船を降りてからは、急ぎに急ぎ、馬車馬を飛ばしてやってきた、ハウヤ帝国の帝都ハーマポスタールは退屈な街だった。

 いや、街中へ出て行き、あれこれ見聞きすれば違っていたに相違ない。それは、フランセスクにもわかっていた。

 だが、帝都のバンデラス公爵家の邸宅へ入った彼は、もう外出など許されなかった。

 やって来たのは夏の社交の季節だというのに、国中が先代皇帝の喪に服していることもあって、サンドラもフランセスクも皇宮でのお茶会以外には、どこへも顔を出さないままに夏は終わろうとしている。

 そして、父が領地へ戻る時がやって来た。

 残される彼と祖母は、人質としてバンデラス公爵家の邸宅に軟禁状態に置かれるのだろう。少なくとも、自由に人と会うことも、自由に他の貴族の屋敷を訪問することも許されまい。今、ハーマポスタールでは女帝オドザヤ派と、反オドザヤ派であるフロレンティーノ皇子派に別れ、貴族たちは密やかに秘めやかに睨み合っているというのだから。

「あ、もうお料理が整えられましたわ! ねえ、バルバラ姉様、あれは伊勢海老ランゴスタじゃない? 素敵!」

 同年代だからと、彼にまとわりついていたクリストラ公爵家の姉妹の妹の方が、はしたない声をあげた。それをなだめる姉のバルバラは十八と聞いているが、彼から見れば田舎臭い小娘に過ぎなかった。

 だが、この姉妹たちの父親はハウヤ帝国の筆頭公爵で、母親は先帝の妹、元皇女だ。軽々に扱えるものではなかった。

「そろそろ、参りましょうか」

 祖母のサンドラが、クリストラ公爵夫人と、フランコ公爵夫人に連れられて、テーブルの方へ向かっていく。

 その方へ、姉妹を導くようにエスコートしながら、フランセスクが見ていたのは、まったく別の方だった。 


 フランセスクの見ている前で、彼の父親は今宵の女主人であるカイエンと共に、余人を引きつれることもなく、酒のグラス片手に、中庭の方へ出ていくところだった。

 女大公の夫である、シイナドラドの皇子も、祖母のサンドラも、そしてこの国の宰相と大将軍も、その様子を気にした風もない。

 では、今夜の宴会……父の送別会は、ああして大公と父が何をかを語らい合うことも念頭に置かれていたのだろう。

「勝手なことばかりしやがって」

 そうして、フランセスクが呟いた言葉は、明るい宴会の会場の空気に触れることもなく、彼の口の中へと戻っていってしまうのだった

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