月は無慈悲な黄昏の女王


 あのとき

 それは、自分はこれからなんでも出来る

 国さえ興せると思っていられた時代だった

 あのとき

 貴女は駆け抜ける暁と黄昏の女神で

 私は地上を這い回る一人の野心的な若者で

 私たちの間にはとてつもなく大きな距離があった


 いつか

 我々の間の距離を縮めることが出来れば

 貴女の黄金の瞳が私を見ることもあるだろう

 私が長いこと思っていたのは

 たった一つのそんな思いだった


 なのに、時が満ちて私が戻ってきた時

 貴女はもう私を見てはくださらず

 貴女の黄金の瞳は人より早い人生の黄昏に曇り

 もはや私を認めることもなかった


 なぜ貴女を忘れられなかったのか

 昨日が、決して今日にはならないように

 私の目の奥で微笑むのは

 あの時の、貴女の黄金の微笑みだけだ

 もう戻らない昔の名残りの中の貴女だけだ


 通り過ぎればあっという間の年月が過ぎて

 私は小さな国なら興せる力を持った

 なのにもう

 貴女は沈まない太陽の時代を、駆け抜け終わってしまっていた

 人生のすべてが終わってしまった貴女に

 私はもう何も出来ることがない


 終わってしまった恋を

 心臓に絡んだ、枯れた薔薇いばらを引きずって

 私はもはや花の咲かぬ、残り香だけの世界へと踏み出していく


 まだ終わらない私は

 貴女がもういない世界へ

 歩き出すしかないのだ

 この枯れた薔薇いばらの絡みついた

 まだ止まらない心臓の音を聞きながら





   アル・アアシャー  「月は無慈悲な黄昏の女王」より「復興レナシミエント







「今宵は、トリセファロ将軍をお連れくださり、ありがとうございます」

 バンデラス公爵ナポレオンを伴って、庭へ出た時、カイエンはまずは今日の礼を言うのを忘れなかった。

 食堂の灯りと、人々の話さんざめく声を背中に受けて、カイエンとバンデラス公爵はゆらりと中庭の方へ二人だけで出て来たところだった。

 出てくるときに、執事のアキノが、

(お庭の真ん中の噴水のそばに、小卓とお椅子を用意してございます。そちらに、向こうの道からお料理をお運びしておきますから)

 と、カイエンに耳打ちしてくれたので、カイエンは中庭の真ん中にある噴水の方角へと歩みを進めていくところだった。

 庭といっても、足元には大理石をふんだんに使った小道が作られているから、カイエンの杖の歩みにも問題はない。

 バンデラス公爵の方は、カイエンの方へ簡単な言葉で返しただけだったが、ふと、思い出したと言うような体でこう言った。

「トリセファロ将軍の方も、ああして見てみればコロンボ将軍とは懇意なご様子。あとは北へ派遣中のガルシア・コルテス将軍ですな」

 これには、カイエンは新しい情報を付け足すことができた。

「コルテス将軍は、コロンボ将軍やトリセファロ将軍よりやや年上だそうですが、それでもマテオ・ソーサ先生の教え子ではあるそうです。コロンボ将軍は平民出身、トリセファロ将軍は男爵家の三男。そして、コルテス将軍は北方のスキュラとの国境に近い豪族の家の出身だそうです。ですから、もう五十に手がとどくお歳で、マテオ・ソーサ先生よりもご年配で、ご自身が伯爵であるカスティージョ将軍とは考えを異にしているだろうと思われます。……これはコロンボ将軍から聞いたことですが」

 カイエンがそう言うと、バンデラス公爵は静かにうなずいた。もっとも、コルテス将軍をこちらの陣営に引き込む仕事はカイエンたちの仕事であって、これから南の領地へ戻る、バンデラス公爵には関わりのないことだった。


 カイエンは、二人並んで進んでいく中庭の小道の向こうを眺めながら、話を変えることにした。

「……陛下からの、フランセスク殿をバンデラス公爵家の正式な嫡子として届け出て、後継者と定めていかれたら、というお話をお断りになったそうですね」

 大公宮奥の食堂の、格子状に組んだ木組みに、やや色合いの違うガラスをはめ込んだガラス戸の外は、なかなか広い中庭となっている。秋の初めの涼しい風の吹く庭園には、もう、夏の燃え盛るような色合いの花々はない。秋咲きの薔薇が、庭の小道の脇に並ぶように咲いている。

 秋の薔薇は蔓にならない上に、花の数も寂しげだ。だが、それだけに一つ一つの香りは春先の物よりも芳しく香るように思われた。

 月明かりだけでは暗いので、庭園にはあちこちに鉄製の手持ちのランプが置かれていた。これはガラスで囲われているので、強風が吹いても火が出る心配はない。

「いや。お断りしたつもりはございません。陛下は、このハーマポスタールに残されるフランセスクの取り扱いを少しでも良くしようと思ってくださったのでしょうし、宰相殿はただの公爵家の第一子を預かっておくよりは、嫡子として質に取りたいと思われたのでしょうが……」

 カイエンの問いに、しごく真面目に答えたバンデラス公爵ナポレオンは、そこで言葉を切ると、珈琲色の厳しい顔立ちをやや緩めた。

「先に申し上げたように、私の領地は、モンテネグロ山脈を挟んで帝国の向こう側にありますから、ラ・ウニオン内海沿いのラ・ウニオン共和国から直接に圧力を受ければ、どんなことでも起こり得るのです」

 カイエンはもう、その話は前に彼から聞いていたが、それでもこの話について、たとえ取り出せる情報は少なくとも直接、この南方の覇者から聞いておきたいと思っていた。 

 それは、宰相のサヴォナローラや大将軍のエミリオ・ザラも同意見だったので、こうして宴を抜け出して出るのは、予定の中の行動だった。

「最悪、このハウヤ帝国を抜け、ラ・ウニオン共和国の陣営に与することになるかもしれない、とおっしゃっていましたね」

 カイエンが、普通の大公だったら即時に目の前の公爵をふんじばり、皇帝の前に引き出さねばならなかっただろう。

 バンデラス公爵の言ったことは、叛逆に当たる行為に入るものだ。

 だが、バンデラス公爵を国へ帰さなければ、国元では主人のないままに、急激な時代の動きに対応せねばならない。そうなれば、南方での覇権はハウヤ帝国から離れ、ネグリア大陸と繋がる海賊国家の集まりである、ラ・ウニオン共和国に完全に移ってしまうかもしれなかった。

 それよりは、カイエンたちは「バンデラス公爵の気持ちはこちら側に残っているが、それでも踏ん張りきれずにハウヤ帝国からの離脱を余儀なくされた。だが、ラ・ウニオン共和国に統合されることはなく、独立を保っている」というシナリオの方がマシだろうと判断したのだ。

「その通りです。今までは、このハウヤ帝国のご威光が届いておりましたし、ラ・ウニオンの内海からの海賊の侵攻には、主にカスティージョ将軍のコンドルアルマが派遣され、ことなきを得て来ました」

 ここで、バンデラス公爵はしばし黙り込んだ。

「正直、私はあのマヌエル・カスティージョが苦手でした。彼は、皇帝陛下に確実な、目に見える成果をお見せするためには、私ども地元の人間の都合や考え方など、まるで無視してくれましたからな。実のところ、ラ・ウニオン側は、最初はそれほどには強硬ではなかったのです。海賊行為に一定の理解……というか、上がりの一部をこちら側に納めてくることで、内海と近くの外洋での、彼らがいうところの『自由貿易』を見逃してやれば、それ以上の剣呑なことは考えようとはしなかったでしょう」

 そこまで話すと、バンデラス公爵の顔が暗く曇った。

「実のところ、先帝サウル皇帝陛下もまた、ラ・ウニオン共和国とは共存してもいい、と思っておられたはずです。ハウヤ帝国にも海軍が創設されましたが、まだ、ラ・ウニオンの艦隊と互角に戦えるほどの船団を持ってはいませんから」

「だが、カスティージョ将軍は違ったのですね」

「ええ、あの方は、海賊上がりのラ・ウニオンなどは殲滅すべし、とのお考えでした。そして、サウル皇帝もまた、ご自分と同じお考えだと信じて疑っていなかったのです」

 カイエンは密かに唇を噛んだ。

「ですから、次に南方で騒動があった場合には、もうカスティージョ将軍を行かせるわけにはいきません。もう、ハウヤ帝国皇帝の重しは彼には効かないのですから……」 

 そうだ。

 サウルの命令ならば、カスティージョは渋々ながらも従っただろう。だが、反オドザヤ勢力である彼が、オドザヤの命令に従うとは思えない。そうなったら、カスティージョは自分の思う通りに動いてしまう。それは、現在なんとか保っているハウヤ帝国と、ラ・ウニオン共和国との均衡を崩し、モンテネグロの帰趨を危うくする可能性が高いのだ。

「そうですね。次からは私が私の領地の自治権をもって、ことに当たらねばならない。以前のように、海賊行為の上がりの一部をこちら側に納めてくることで、内海と近くの外洋での、彼らがいうところの『自由貿易』を見逃してやれば、モンテネグロから北へちょっかいは出さない、という落とし所では、折れてはくれないかもしれません」

 カイエンは背中に這い上がってくる、冷気のようなものを感じずにはいられなかった。

 マヌエル・カスティージョがコンドルアルマの将軍である限り、今、ハウヤ帝国は南方へ兵を送れない。

 と、なればバンデラス公爵領は援軍なしで対応せねばならない。その結果として、バンデラス公爵は、「最悪、このハウヤ帝国を抜け、ラ・ウニオン共和国の陣営に与することになるかもしれない」と考えているのだ。

 だが、ここで一つ、カイエンたちにもできることは残っている。


「こうなると、コンドルアルマの将軍を、すげ替えるしかありませんね」

 カイエンは、間違いもなく、自分の喉から恐ろしい言葉が出てくるのを、予想していたこととはいえ、恐怖とともに聞いていた。 

 以前のカイエンだったら、こんなことは考えもしなかっただろう。ハウヤ帝国に現実に歴としてあるものを、彼女の意志で「取り替えよう」などとは。そのためにおのれの大公としての権力を使おうなどとは。

 だが、このことはもうオドザヤとも、宰相のサヴォナローラや大将軍のエミリオ・ザラとも話し合って決めていたことだった。 

 これには、バンデラス公爵もやや驚いたらしい。彼はカイエンがここまで言うとは思っていなかったのだろう。

「……それは。カスティージョ将軍に何か疵が……将軍ともなれば国への、皇帝陛下への叛逆行為でもない限り、事態をより悪くいたしますよ」

 バンデラス公爵は表情こそ変えなかったが、その声には用心深い響きが感じられた。彼はここに至って、今日ここで送別会が行われた理由がはっきりとわかっていた。カイエンたちには、親衛隊が警備し、壁に耳のある皇宮では決して言えない相談事があったのだと。

 カイエンはバンデラス公爵の体が、一気に緊張を孕むのを感じていた。少々、いや、かなりそれは彼女にとって恐怖を掻き立てられる種類のものだったが、カイエンは耐えなければならなかった。

「ええ。ですから、一度はカスティージョ将軍を南方へ送らなければならないでしょう。……彼にはそこで問題を起こしてもらいます。こちらは密かに新しい将軍候補を用意いたします。そして、それを問題解決のために向かわせましょう」

 カイエンたちの陣営の頭には、もうすげ替える新コンドルアルマ将軍の候補もあった。

 ここまで聞くと、バンデラス公爵はぴたりと歩みを止めてしまった。

 その時、もう彼ら二人の歩く先には、アキノたちが庭の真ん中の噴水のそばに用意した、小卓とお椅子、それにその上に料理の皿が用意されているのが垣間みえていた。



「では、ハウヤ帝国の敵方としては、何が何でもこの私の首を狙ってくるのでしょうね」


 そして、立ち止まったバンデラス公爵の言った言葉は、だが、カイエンのすでに予想していた言葉であった。

「はい。それは確実だと思われます。敵方はすでに、南方でも蠢いておりますから。……以前、公爵がお話ししてくださった、ラ・パルマ号の事件が気になります。あの事件では、冒険船団の旗艦であるラ・パルマ号はモンテネグロの港へ、船の中には一人の船員の姿もなく、ただ、夥しい血の跡だけを残した無人の船舶として現れたそうですね。ですが、ラ・パルマ号以外の船団の船の行方は今も不明のままです」

 カイエンはこの話を、元老院大議会の終わった後にバンデラス公爵から聞かされた時の、なんとも言えない不気味さを思い出さずにはいられなかった。

「……私には、彼らが旗艦を失ったまま、西側の未知の大海原への冒険航海へ出て行った、とはどうしても思えないのです」 

 カイエンは、ゆっくりと先に立って歩き始めた。どうせなら座って話がしたかった。

 そして、バンデラス公爵は、すぐにカイエンの言いたいことを理解したらしい。

「では、船団の残りの船はどこへ? ということですね。彼らは大海原ではなく、このパナメリゴ大陸のどこかに潜んでいると?」

「そうです。あの、お話にあった、下船した二人の男と入れ替わりにラ・パルマ号に乗り込んだという、マトゥサレン・デ・マール、と言う名前。あれはスキュラでマトゥサレン一族が起こしたことを考えると、敵方の……いわば『謎かけ』とでも言うものでしょう」

 言いながら、カイエンは自分とよく似た顔を……あの思い出したくもないアルウィンの顔を思い出さずにはいられなかった。

「……あの野郎アルウィンは、自分以外の人間を馬鹿にしています。マトゥサレンと言う名前での『謎かけ』は、あいつが考えつきそうなことです」

 バンデラス公爵には、もうアルウィンたち、桔梗星団派のことも話してあった。話さずして、彼を彼の領地へ帰すわけにも行かなかったからだ。秘密があってはお互いに協力などできない。

「なるほど。あの方ですか……。では、モンテネグロに帰るまで、私の命が保つように祈っていてください」

 バンデラス公爵が有るか無きかの微笑みを、その厳しく直線的な面差しに浮かべて答えた時、ちょうど彼らは中庭の中央に着いていた。

 ただの中庭にあるにしては、かなり大きく立派な大理石造りの噴水のそばに、小卓が置かれ、その上にはもう料理の支度ができていた。噴水の脇の木立の陰に、執事のアキノだけがひっそりと控えている。


 


 小卓の両脇に置かれた瀟洒な椅子の一つに座ると、杖を音もなく出てきたアキノに手渡し、カイエンは話を元に戻した。

「ところで、最初にお話ししたフランセスク殿のこと……バンデラス公爵家の後継のことですが」

 カイエンは別に、バンデラス公爵家の後継のことが、取り分け気になったわけではない。ただ、先ほど彼女の従姉妹のバルバラとコンスエラのクリストラ公爵家の娘たちと一緒にいた、若いフランセスクの表情というか、その佇まいに何か気になるものを感じていたのだ。

 それは、年齢が近いから感じたことなのかも知れなかったし、質問したのは、バンデラス公爵家でのフランセスクの立場がどんなものか、という所に興味があったからかも知れなかった。

 カイエンは目の前のグラスへ、アキノが赤いワインを注ぐのを見ながら、付け足した。

「あの、フランセスク殿には、ご兄弟は?」

 別にそれは、バンデラス公爵家の家族のことを問いただしたかったわけではない。それはカイエンの目の前でワインのグラスを支える細長いステムを持って、グラスをゆるゆると回しているバンデラス公爵にも分かってもらえたようだ。

 カイエンの問いに答えるバンデラス公爵の声音に、不快な響きはなかった。

「前にお話ししたように、私には正妻として定めたものはおりません。ですから、四人いる子供達の母親は皆、違っております」

「そうですか」

 正妻がいないことは聞いていたが、子供全部の母親が違っているとまでは思わなかった。それは、よく考えずとも、先帝サウルの娘たちと、最後に生まれたフロレンティーノ皇子のことを思い出させた。もっとも、サウルの場合には、長女のオドザヤと末子のリリエンスールの母親だけは、皇后のアイーシャで同じである。

「長男のフランセスクの下には、数ヶ月違いで生まれて来た、長女がおります。名はエンペラトリスと申します。実は、私はフランセスクよりも、次代のバンデラス公爵……いえ、あえてこう申しましょう。次の時代に私の跡を継いで、モンテネグロを支配する者としては、このエンペラトリスが向いているのではないかと思っているのです」 

 カイエンはちょっと驚いて、バンデラス公爵の暗い色の顔を見つめてしまった。

 エンペラトリス、という名はこのハウヤ帝国では女子の名前として普通にあるものではある。だが、その意味は「女帝」とか「皇后」という意味だ。庶民ならともかく、公爵家の娘の名前としては気になる名前の選び方では、あった。

「それは、どうして?」

 カイエンの目の前で、娘の顔を思い出したのか、バンデラス公爵の厳しい顔がやや優しく緩んだように見えた。それは、父親としての彼が、娘のエンペラトリスを思う気持ちを端的に表しているように見えた。

「実は、エンペラトリスの母親は、ラ・ウニオン共和国の現在の元首ドゥクスの娘なのです。あれが私の元に来たときには、父親は元首ドゥクスなどではなかったですがね。ただ、大きな海賊船団の長だったのです。ですが、もし……」

 カイエンにはもちろん、彼の言いたいことがわかった。

「バンデラス公爵領が、このハウヤ帝国から離れる未来が訪れた場合には、ということですね」

 カイエンの言葉を聞くと、バンデラス公爵は、まじめな顔でうなずいた。

「そうです。フランセスクの母親はモンテネグロの街の顔役の娘でしてね。こちらも領地の支配を考えれば大切ではあるのですが……」

「なるほど」

 みなまで聞かずとも、カイエンは納得した。

 フランセスクが、このナポレオン・バンデラスの第一子だということは確かなことだ。だが、情勢によっては第二子……と言っても数ヶ月違いの兄妹だという娘の方が重要になってくるというわけだ。

「エンペラトリス様というのは、どんな方です? フランセスク殿と似ていますか?」

 その時、カイエンは何とは無しに、話の流れでそう聞いたのだが、聞かれたバンデラス公爵の顔は明らかに変わっていた。

(えっ)

 カイエンが内心で怖くなったほど、バンデラス公爵の顔つきはがらりと変わったのである。

 そして、次に公爵が言った言葉は、意外なものだった。

「フランセスクと? 似てなどいませんよ。エンペラトリスの母親は、“あの方”に似ていたから娶ったのですから! エンペラトリスは私の母サンドラの北方の血と、母親の金髪を受け継ぎました。肌の色は私に似てしまいましたが、名前に恥じない自慢の娘です」

 そして。

 次にバンデラス公爵の言った言葉は、さらに意外なものだった。 

「大公殿下は、どうして私に正妻がおらぬのだとお思いになりますか?」

「ええ?」

 突然のことで、カイエンには答えようもない。

 それは、バンデラス公爵にも分かっていたようだ。

 グラスから立ち上るワインの香りを嗅いで、バンデラス公爵は満足そうに一口目を口にする。今夜ここに用意したワインは、ハーマポスタールのやや南部に位置する、皇帝直轄領にあるワイナリーのもので、それも二十年近く蔵で熟成させたものをより寄せたものだった。

「ああ、これは素晴らしいワインですね。こんなものをいただけるとは、私も偉くなったものです」

 カイエンは脇に控えたアキノと、思わず顔を見合わせた。確かに気合を入れて仕込んだワインだが、いいワイナリーなら、バンデラス公爵領の中にもあると聞いている。

「私に定まった妻がいないのと、この二十年、このハーマポスタールに上がってこなかったことは、実は同じ理由からなのですよ」

 そう言うと、バンデラス公爵の鋼鉄色の厳しい目が、まだ酔ったはずもないのに、ふうっと色を変えていく。

「こんなことは、大公殿下にもどなたにも言うつもりはなかったが……。でも、これはいい機会なのかもしれません。だって、あなた様には……あなた様にはあの方の血の半分が入っておられるのですものね」

 あの方の血の半分。

 聞くなり、カイエンは身震いするような恐ろしい予感を感じた。こんな話を自分は、自分は聞いてもいいのだろうか。そんな恐ろしさがカイエンの喉に凝り固まって、彼女の言葉を押しとどめた。

 カイエンが返事をしないのにも、バンデラス公爵は構わなかった。

「あのとき。もう、二十年も、前になりますか。……もはや治癒せぬ病に倒れた父の代わりに、公爵家を継ぐと報告に上がった私は、サウル様へのご報告とその承認ののちに、皇帝陛下ご夫妻に招かれ、晩餐のご相伴に預かりました」


 あのとき

 貴女は駆け抜ける暁と黄昏の女神で

 私は地上を這い回る一人の野心的な若者で

 私たちの間にはとてつもなく大きな距離があった……



 凍りついたカイエンの様子にも気づかず、バンデラス公爵は話し続ける。

「そこで、私はあの方、サウル皇帝の皇后陛下を見たのです。あのとき、あの方は皇后になったばかりでしたろう。すでに大公殿下をお産みになったのち、サウル皇帝陛下と再婚なさり、一年が過ぎようとしていた時でした」

 カイエンは聞いてはいたが、もはや言葉が出てこなくなっていた。

 彼女も人から聞かされて聞いてはいたが、アイーシャはカイエンを産んだのち、半年ほどでアルウィンと別れて、サウルの皇后に納まったのだ。

「あの時のアイーシャ様の輝かしさと言ったら、まあ、言葉に尽くせないとは、あのような美しさを表現するときに使うのでしょう。少なくとも私にはそんな風に思われました。俗に一人子供を生した直後の女性が一番美しいとか言いますが、まさにその通りでしたな」

 カイエンは最近聞くこともなくなっていた、実母の名前の音律に慄いた。

 アイーシャ!

 ああ、その名前を聞くのさえ、カイエンには未だ心乱されることだったのだ。

 カイエンの後ろに控えていたアキノは、そっとカイエンの肩に手を置いた。そして、背後にいるだろう侍従の一人にかすかに手を動かして合図していた。大家の執事というものは、主人のためとなれば、数え切れないほどの事態に対して用意があるのだ。

「神々しいばかりの黄金の光を纏われたあの方は、暁の曙光の女神のようで。そして同時に、黄昏の最後の輝きを予感させる悲痛な何かをまとっておられた」

 バンデラス公爵はうなされたような声音でそう言うと、チラと横目でカイエンを見た。

「あの、若さの輝かしさの中に紛れていた、黄昏の最後の一条の光のような悲痛さは、きっと、大公殿下をお産みになった後にあの方が身につけられたものだったのでしょうな」

 それは、カイエンに対しては、あまりにもひどい言い方だった。

 これでは、カイエンはアイーシャを美しくさせた要因の一つだとでもいうようではないか。

 カイエンは、心の中でバンデラス公爵を殴り付けたい気持ちになった。カイエンにとって、アイーシャが彼女を産んだことによって狂い、壊れ始めたという事実は、二十歳になった今でも大きな傷となって、心に刻み込まれていたのだ。

「あの時、私の女性に対する思いは凍りついてしまいました。あの方に見合う男になりたい。それからの私はそれだけでした。しかし……私はとうとう、間に合わなかったようです」

 カイエンにはもはや、答える言葉もなかった。

「あの方は去年、三人目のお子様をお産みになられた時に、とうとうご自分を失われたそうですね。では、あの方はあの方のすべてを三人の皇女方に与えられたのだ!」

 やめてくれ。

 カイエンは無意識のうちに、背後のアキノに手を伸ばしていた。

「カイエン様!」

 アキノにとっても、このバンデラス公爵の告白は驚くべきものだっただろう。だが、彼は当事者のカイエンとは違って、胸を抉られる苦しみを感じることはなかった。

 アキノは、カイエンの手を掴み、その場に蹲るようにしてカイエンの恐怖に慄く顔を見上げた。

「お気を確かに! すぐに“あれ”が参りますから」

 そう言うと、アキノは木立の向こう、宴が行われている食堂の方をうかがうように見つめた。先ほど、侍従をやって呼びに行かせた男の姿を探して。

(ええい、遅いわ! こんな時こそお側にいなくてどうするのだ!)



「カイエン様! カイエン様、何処におわしますか。冷えてまいりました。そろそろお部屋にお戻りください」

 その声が聞こえてきたのは、カイエンがたまらない心地を味わっていた、ちょうどその時だった。

 それは、彼女カイエンを「おのれの唯一」と言ってはばからない、あの男の声だった。

「……ヴァイロン?」

 カイエンは即座に彼の声に反応した。彼女にとっても、もはやヴァイロンはなくてはならない存在になっていたから。

「カイエン様!?」

 ヴァイロンの方も、こうして急に呼びつけられたことと、カイエンの様子や声色から、何かを感じ取ったらしい。

「遅いわ……」

 カイエンの後ろで、忌々しそうにアキノが呟く。

 それでも、アキノは掴んでいたカイエンの手を、やや乱暴にヴァイロンの大きな掌に移すと、自分はすっと木立の方まで身を潜めていった。

 ヴァイロンはカイエンの白くて指の長い手を、自分の大きな浅黒い掌に納めると、座っているカイエンの体を後ろからそっと囲うように腕を回した。

「アイーシャ・ディアナ・マスカレニャス・デ・ハウヤテラ」

 呆然として見守るカイエンと、そして訳はわからないまでも、その場の異様な雰囲気を感じ取ったヴァイロンの前で、バンデラス公爵は自分に言い聞かせるように、ことさらにゆっくりと、その名前を口にした。

「サウル・プレニルニオ・マグニフィコ・デ・ハウヤテラ……『ハウヤテラの壮大なる満月』の妻、そしてあの方もまた、ディアナ(月の女神)でいらっしゃった」

 ……いらっしゃった。

 カイエンは過去形で語られるその言葉を、苦々しい思いとともに聞いていた。

 ああ、そうか。

 カイエンは唐突に理解していた。

 エンペラトリス。

 女帝、皇后という意味を持つ、バンデラス公爵家の長女のその名は。

 その名前は、では、父親のアイーシャへの思いが凝り固まって名付けられたとでも言うのだろうか。

 わかると同時に、カイエンは密やかに、その娘に同情した。

 エンペラトリスもまた、カイエンと同じだった。

 父親の勝手な思い込みによって育てられたという部分では。

 カイエンがそこまで一人、心の中で思い巡らせた時、やっと、バンデラス公爵ナポレオンは今の自分の体に戻ってきた。

 やや慌てたように、周囲をその鋼鉄色の目が彷徨ったのち、真っ黒に開ききっていた瞳孔に光が戻った。 

 さすがに彼も、しばしの間自分を失って、とんでもないことを告白してしまったという事実だけはきちんと認識出来た。

「なんということだ。……申し訳ございませんでした。私は正気を失っておりましたな」

 バンデラス公爵はそう言うと、今までのおのれを恥じるようにうなだれた。

 彼にも、どうしてそこまで自分を失ってしまったか、その理由は腑に落ちていなかったが、言ったことが相手カイエンにどんな気持ちを抱かせたかは、すでにわかりすぎるほどにわかっていた。それは、明らかに大家の主人としては失態と言える行為だった。

「大公殿下にはご不快なことでしたでしょう。つい、あなた様を見ているうちに、昔の思いが……果たされなかった思いがあふれ出てしまいました」

 そこまで一気に言ってしまうと、バンデラス公爵はやや考え込んでから、顔を上げた。

 彼は、そこにカイエンを自分の体で取り囲んで、外界から守ろうとでもいうようにしているヴァイロンには目もくれなかった。失態はもう、取り返しがつかない。だが、彼には正気に返ってもまだ溢れる思いがあった。

「ですが。これだけは申し上げておきましょう。……申し上げておかないといけない気がするのです。私はオドザヤ皇帝陛下にも、大公殿下にもお会いしたが、私はアイーシャ様にあんなに似ているオドザヤ陛下からは、あの方の気配をついぞ感じなかったのです」

「はあ?」

 カイエンも、もうその頃には立ち直っていた。

 ヴァイロンがその身に纏わせて連れてきた、「正しい現実」に引き戻されたように。

「あの方をより感じたのは、不思議なことに、外見は全く似ておられない大公殿下、あなた様にお会いした時だったのです。だから、最初はびっくりいたしました」

 カイエンはもう、バンデラス公爵の言葉をまともに聞いてはいなかった。

 聞いてもしようのない、それは「もう終わった物語」の熾火おきびのようなものだったからだ。


 終わってしまった恋を

 心臓に絡んだ、枯れた薔薇いばらを引きずって

 私はもはや花の咲かぬ、残り香だけの世界へと踏み出していく……




「あの方に纏わり付いていた、あの黄昏の狂気。あれは、オドザヤ陛下には受け継がれていない。いいえ、大公殿下にも受け継がれてはいないのです。なのに、あの狂気を今でも、ええ、こうしてあなた様を見ている今も、私は感じるのです」

 カイエンには、もうわかっていた。

 その狂気は、アイーシャのものではない。

 アイーシャの狂気の根源は、あの男、カイエンの父親アルウィンからもたらされたものなのだから。

「当たり前ですよ」

 カイエンは、落ち着いた声で指摘した。

「アイーシャの狂気の元凶は、彼女自身のものではないのですから。あれは、彼女を未だに支配している、あの男のものなのですから」 

 カイエンはここで一度、言葉を切った。

「あれは、この顔、この私と同じ顔を持っていた男。若き日のアルウィン・エリアス・エスピリディオン・デ・ハーマポスタールのものなのですからね」

 バンデラス公爵の珈琲色の厳しい顔が、ありありと青ざめ、どす黒く変わっていくのを、カイエンはいっそ愉快な気持ちで見ていた。

「でも、あの男の狂気は、このたった一人の娘の私が、必ず、徹底的に、木っ端微塵に……叩き壊してやりますからご心配などなさらぬように。私は誓って、あの男の存在のかけらさえもこの世界に残さぬほどに、粉々に踏み潰し、焼き尽くし、焼け残りの灰さえも海に空気に、撒き散らして消し去ってやりますから!」

 ああ。

 そして、アイーシャ。あの黄昏の国の女王も。

 カイエンの灰色の目はぎらぎらと激しい感情のままに輝き、それは今や、バンデラス公爵にさえ恐怖の念を抱かせるほどだった。

「私はあの人たちにとって、無慈悲な娘で結構! 私はアルウィンにもアイーシャにも手加減はしない。あいつらの存在を、関わった人たちの思い出もろともに、この世界から消し去るまでは、私に安らかな眠りは訪れないのだから……」

「殿下!」

 いつの間にか、カイエンを連れて行かせまいとでも言うように、しっかりと抱きかかえていた、ヴァイロンが叫ぶように言うまで。

 カイエンは毒々しい言葉を、バンデラス公爵に叩きつけていた。

「だから、あなたももう、アイーシャのことなど忘れてしまうことだ。そうしないと、私はあなたをも木っ端微塵にしてしまいますよ」




 バンデラス公爵ナポレオンは、自分がどうやって自分の送別会の宴会の会場に戻ったのか、覚えていなかった。

 呆然とした顔で戻った彼を、心配そうに出迎えた母のサンドラの声も、息子のフランセスクの声も聞こえなかった。彼が覚えていたのは、灰色の燃え上がる熱情の瞳の色だけ。

 ハーマポスタール大公カイエンの、日頃は決して見せない、激情の炎の色だけだった。


 そして。

 バンデラス公爵は翌日の朝早くにハーマポスタールを発って、モンテネグロへの帰途についたのである。 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る