復讐の魔女


 復讐を試みる者よ

 己にそれが舞い戻らぬように

 注意せよ


 多くの復讐者は

 裏切る己に満足しても

 裏切り者には満足しない


 裏切り者は彼らの仕事によって

 満足を得た者に

 決して気に入られない


 裏切りさえ成就すれば

 もはや裏切り者に用はない

 突き出される刃は

 必ず元の鞘へ戻る

 だが、鞘には収まらず

 鞘を持つ手の主の体に入る


 心せよ

 復讐者よ

 墓穴は二つ掘るがいい




    ハウヤ帝国北部に伝わる民話より




    



 そこは、ハウヤ帝国帝都ハーマポスタールのテルミナル・エステに近い、場末の下町だった。下町地区でも一番端にあたり、金のない流れ者や、同じような外国人たちが隠れるように住んでいる場所だ。

 テルミナル・エステと言えば、一昨年、連続男娼殺人事件が起こったところでもある。元から場末も場末、治安維持部隊の署はあるが、隊員が最も配属されたがらないような危険な地区である。

 後ろ暗い外国人が多いと言うことは危険な場所である、とも言えたが、別の見方をすれば外国人には潜伏しやすい場所と言えた。入り組んだ小道や路地は、これまた入り組んだ増築に増築を重ねて、わけがわからなくなった感のある建物群と相まって、テルミナル・エステの洞窟城とも呼ばれ、独特の空気を醸し出している。

 こんな町でも、太い通りには普通の市民も入れるような居酒屋などもある。こちらは治安維持部隊の隊員も目を光らせているから、町の灯が消えないうちはだいたい大丈夫だ。だが、善良な市民たちは決して路地や裏通りへは入らなかった。

 そんな場所が、テルミナル・エステである。

 その、表通りからはかなり外れた一角。そこには、港からハーマポスタール市内をうねるように流れ、下町は下町でも、皇宮に近い商人たちの問屋や店、倉庫などが並ぶ場所まで続く運河から分かれた、細い水脈が流れていた。

 その水面は、一歩間違えば下水か、どろ川か、と言うような饐えた匂いのするどんよりとした黒っぽい緑の不透明な水で覆われている。

 それでも、一人二人乗りの小舟ならば、そんな水路でも通ることはできた。

 今。

 その水路伝いに一艘の小舟がテルミナル・エステの奥へと入っていく。

 その船の上には船頭と、そして濃い灰色のフード付きの長い外套で、顔も体つきも隠した人物が乗っていた。九月の陽気を考えれば、暑苦しい身なりだ。

「そろそろです」

 陰気な声は船頭のものだろう。

 濃い灰色に覆われた人物は、一つうなずくと、外套の中で抱えているらしい荷物をそっと胸元に抱えなおした。

 やがて小舟は入り組んだごちゃごちゃとした、この辺特有の建物の裏の、汚い船着場につけられた。

 外套の人物は、船頭に抱えられるようにして船から降り立つ。そのまま、目の前の汚い木の裏扉の前に立つと、ノックもしないのに扉が中から開かれた。

「お待ちしておりました……様」

 扉の中へ入ると、外套の人物はやっとフードを後ろへはねのけた。

 そこから現れたのは、真っ白な髪。それを緩く後ろで編み込み、髷に結ったまだ若い女だった。

「後ろは大丈夫でしたか」

 迎え出て扉を開けたのは、中年の女で、この辺りの下町の女らしい質素なドレスに前掛けをかけ、頭は布で覆っていた。

「ええ。船頭は奇術団の千里眼のヨーンですもの。大丈夫よ」

 そういった声は。

 それは、あの奇術団コンチャイテラの魔女スネーフリンガの声だった。

「坊やはこの頃、本当に重くなって。……あなたが抱いていってくれるかしら?」

 そう話す声、そして言葉遣いは、明らかにこの辺りの下町の女のものではない。もちろん、ザイオン人の訛りでもなかった。それは、優雅でゆったりとした、明らかなこのハウヤ帝国の上層階級の女の言葉遣いだった。

 中年の女は黙って、スネーフリンガの手から子供を受け取った。その子供。それはもちろん、あの魔術師アルットゥだった。彼は黙って銀色の目を見開いていたが、周りをしげしげと見入っているその落ち着いた態度は、とても二、三歳の幼児とは思われなかった。

 スネーフリンガが案内されたのは、入り組んだ建物の中の、それも地下へと伸びる階段だった。

「お足元にお気をつけて」

 中年の女は、アルットゥを愛おしそうに抱きながら静かにスネーフリンガの前を降りていく。

 やがて、彼女たちは一枚の重厚な木の扉の前に出た。その扉にはこんな場末の家には激しく場違いな、精巧な彫刻が施されていた。

 天地創造の絵図である。天地創造の神とされるアストロナータが世界を創造している場面だ。

 アストロナータは「外世界」の神で、外世界を追放されてこの地に降り立ったことになっている。複雑な意匠の衣服を纏ったアストロナータが、そそり立つ天の山を崩して海を埋め立て、大陸を創っている場面が、扉いっぱいに彫刻されていた。

 それは、二年前、あのスライゴ侯爵アルトゥールたちが潜伏していたアイリス館にあったものと同じ意匠。そして、シイナドラドの皇王宮の地下宮殿の入り口でカイエンが見た、複雑な意匠の衣服を纏ったアストロナータが、そそり立つ天の山を崩して海を埋め立て、大陸を作っている場面の金属製の巨大な扉の絵柄と、全く同じものであった。

 スネーフリンガとアルットゥが部屋に入ると、そこは薄暗い照明に照らし出された、なかなかに広い部屋だった。そして、こんな場所には場違いなほどに豪奢に飾り立てられていた。


 そして。

 その部屋は「紺色の部屋」だった。


 あの桔梗館やアイリス館と、そっくり同じの、紺色の濃淡で彩られた部屋。

 壁紙の桔梗の紋様もそのままに、家具はずべて鈍い金色から、青金、そして明るい赤金へつながる色の意匠で揃えられているところまでが、まったく同じ。

 アストロナータの天地創造の場面が彫刻された扉の周りを囲むカーテンもまた紺色。

 真ん中には飴色の木材の寄木のテーブル。その周りにはいくつかのゆったりとした紺色のソファ。そこには恐らくは今日の会合の重要人物らしき者共が座っていた。

 その周りには、壁際まで、その広い部屋狭しと言うばかりに陰気な身なりをした人間がひしめき合っていた。

「待たせてごめんなさいね」

 スネーフリンガはそう言うと、さも当然とばかりに部屋の奥正面の、二つだけ空けられていたソファの一つに腰掛けた。彼女の隣のソファには、あらかじめそこに座るであろう人物を想定して、いくつものクッションが置かれていた。そこに中年女の手で厳かに座らせられたのは、魔術師アルットゥだ。

「……ニエベス様、アルトゥール様、お待ち申し上げておりました」

 そして。

 カイエンたちがもしこれを聞いたら、卒倒しそうな名前を呼んだのは、座った二人に一番近い席を占めた、異国の男だった。

 服装はこのハウヤ帝国のものだが、やや黄色っぽい顔色に、切れ長の目は、螺旋帝国人の特徴を表している。

「いつも世話をかけますね。……シゴウ。それにテンライ様、お腕に怪我をされたと伺いましたが……」

 ニエベスと呼ばれたスネーフリンガが呼んだ名前もまた、カイエンたちが聞いたら色めきだっただろう名前だった。

 馬 子昂シゴウ。それに螺旋帝国前王朝「冬」の皇子天磊テンライ。 

 馬 子昂はニエベスへ恭しく頭を下げたが、天磊は面倒臭そうに顎を引いただけだった。トリニによって骨折させられた天磊の左腕は、今、添え木を当てられ、首から布で吊られていた。

 天磊は「青い天空の塔」修道院にいた間に、かなり痩せていた。だから、元の、ほっそりと優しい印象や、螺旋帝国の筆で引いたような眉、漆黒の光のない瞳を宿す切れ長の目や、非常に端正で細工物のように繊細だった顔つきとはかなり感じが違って見えた。有り体に言えば、それは動く屍のような不気味さを湛えた、無機質で生命力のない、生ける人形の顔だった。

「大公の手のものに引っ立てられたと聞いて、ご心配いたしておりました」

 馬 子昂がそう言うと、背後に位並んだ不気味な人影たちが、皆一様にうなずく。その様子は、普通の人間が見れば戦慄するような不気味さだった。

「大丈夫よ。私が私だという証はもう、どこにも残っていないのですもの。ふふふ。皇帝陛下……あのオドザヤ様が出ていらしても、私はスネーフリンガです、と言い続けるだけだわ」

「アルトゥール様にもご無事のご様子、安堵いたしました」

 抜け目なく言い募る子昂を、スネーフリンガ、いや元スライゴ侯爵夫人ニエベスは、真っ白な手を上げて抑えるようにした。

「アルトゥール様は、このお体ですもの。さすがにあの野蛮な大公の手先どもも、手を出すことは出来ませんでした」

 ニエベスはそう言うと、アルットゥの方に向かって、「ねえ、そうでしょう?」とでも言うように微笑んだ。その微笑みはどこかタガの外れた笑みだったが、この部屋にそれをおかしいと思う者など居はしなかった。

 それにしても、魔女スネーフリンガがニエベスと呼ばれているのはともかく、アルットゥがアルトゥール様と呼ばれているのは、見る者が見たらゾッとしたかもしれない。ニエベスは自分の息子にその父親の名前をつけたのだろうか。そうなると、先ほどの「アルトゥール様はこのお体ですもの」という発言が気にかかる。

「そうでございましょう。まずは安堵いたしました。それにしても大公は自ら下品ななりをして、奇術団に乗り込んできたとか?」

 子昂はニエベスにおもねるように言う。

「ええ。あの大公宮の御用新聞、黎明新聞アウロラとやらの記者を、あなた方が仕留め損なったからよ。私の正体がもう、暴露ばれてしまったじゃないの。証拠がないから向こうも今は引っ込んでいますけれど、コンチャイテラはもう、あまり長い間は隠れ蓑には使えませんよ。まったく! あのカイエン様はいつも突拍子もないことばっかり!」

 ニエベスが言うと、子昂は、自殺した師である頼 國仁が見たら、もう一度自殺しそうな昏い嫌な感じの笑みを浮かべて隣に座った天磊の方へ顔を向けた。

「ああ。ホアン・ウゴ・アルヴァラードですか。……あれも大公軍団の連中に邪魔されましたね。まさか、大公軍団にアルヴァラードの女の幼馴染がいて、事もあろうに大公殿下がすぐ近くで、そいつを含んだ女隊員どもと飲んでいた、なんてね。命冥加な男だ」

「……それだけじゃない」

 そこで、今や子昂の手下のような扱いの天磊がぼそりと口を挟んだ。

「あの女。半分螺旋帝国人の女がそこまで案内して来たからだよ! あいつ、あの無敵のカク将軍の娘だっていうじゃないか! あんなのの相手ができるかよっ」

 言っているうちに悔しさが迸ってきたのか、天磊は自分の座っている前のテーブルを、骨折していない方の手で激しく叩いた。その様子をちょっと驚いた顔で見ていたニエベスが、おっとりと口を開く。

「あら。大公軍団に螺旋帝国の方がいるの?」

 それへ、天磊はいらいらとした様子になって、冷たい目を向けた。

「半分だって、今、言っただろ! 薄汚いハーマポスタールの下町女が産んだ混血だよ! 大公が女の隊員を募るきっかけになったっていう、螺旋帝国の武術の粋を極めた父親から、その武術のすべてを叩き込まれたっていう女だ」

「トリニ・コンドルカンキは体にも恵まれていますからね。直接に会ったのは天磊様たちを連れて、頼 國仁先生がこのハーマポスタールへおいでになって、あの宰相にアストロナータ神殿へ押し込められた時だけですが。男にしたって長身に入りそうな体格だった。あれじゃあ嫁の貰い手はないだろうが、あれに一流の武術が味方しているんです。まあ、戦場で敵に取り囲まれでもしない限りは無敵でしょうよ」

「あら」

 ニエベスはちょっと二人の勢いに押されたのか、ソファの背にもたれかかるようにして隣のアルットゥの方を見遣った。

「家族がいたら、ぶっ殺してやるところだけど、父親も母親も、もう死んじまってる。……くそ! くそ、くそったれめ! どうしてチェマリは僕を螺旋帝国へ連れて帰ってくれなかったんだ! チェマリはいつもあの、グスマンとかいうおっさんばかり贔屓にして!」 

 その時だった。


「チェマリ……アルウィン様の悪口は許さないよ、天磊」

 ニエベスの隣のソファに大人しく、そう、二、三歳の幼児とは思えない静けさで、だが眠っているのではない証拠に、銀色の目をつぶらに見開いて聞いていた、アルットゥが喋ったのは。

「えっ」

 弾かれたように天磊はアルットゥの方を見た。

「天磊よ。お前はこのアルトゥール・スライゴの命令のもと、あの方の目指す新世界を創るために働けばいいのだ」

 そう言った、二、三歳の幼児にしか見えない、アルットゥの声。

 それは、若い男の声だった。大人の、ちょっと皮肉っぽい響きを持った、極めて貴族的な声音。

 ああ、では。

 奇術団コンチャイテラの出し物での、魔術師アルットゥの声は、腹話術ではなかったのか。

 もちろん、天磊がこの幼児が喋るのを聞いたのは初めてのことではない。だが、それでも天磊は戦慄していた。

 そんな天磊を、こればかりは子供そのものの、純真と言ってもいい可愛らしい銀色の目でアルットゥは見た。

「時期が来れば、お前が里帰りできる日も来るだろう。だが、それは今ではない」

 天磊は黙ったまま、唇を噛み締めた。その横から、助けるように口を出したのは子昂だった。

「アルトゥール様、申し訳もございません。さあ、もう時間が惜しい。今日のご命令をくださいませ」

 子昂の言葉を聞いてみれば、こうした集会は定期的に開かれているらしかった。

「ザイオンからの縁談の件は皇宮でももう、認めざるを得なくなったようだね」

 子昂はうれしそうにうなずいた。

「さすがの宰相も、サウル皇帝亡き後はすべてが後手後手。アルタマキア皇女の事件も、予想すらしていなかった様子です。彼らが、いくら黎明新聞アウロラの記者を抱き込んだとしても、奴らは虚構の記事は書きたがりません。変におきれいなところがありますからね、読売り屋というものは。……その点、噂は勝手に広がります」

 アルトゥール・スライゴを名乗るアルットゥは、丸々とした顎を引いて、にこにこと笑う。顔だけ見ていれば、かわいい盛りの幼児が親戚のやさしい小父さんと話しているようだ。

「バンデラス公爵が、国許へ戻るそうだね」

 アルットゥは話を進めていく。

「はい。今日明日にも出立するとの情報です。あの方も……期待はずれでしたね。大議会でどちら側につくかとやきもきしていましたが、あのお人好しの大公殿下と、裏切り者のシイナドラドの皇子に毒気を抜かれて、牙も出さずに引き下がるとは」

 子昂は面白そうな口調だが、内心は違うらしく顔つきはこわばっていた。

「ザイオン貴族出身のお母上も、息子を動かす力はなかったようですね。フィデル・モリーナ侯爵一派も見掛け倒しでしたし、ハウヤ帝国の貴族どもは役に立ちません、おっと、失礼いたしました」

 子昂はアルトゥール・スライゴが侯爵だったことを思い出して、舌を出した。その様子では彼は天磊ほどにはアルットゥを恐れてはいないようだ。

 その様子を、アルットゥは微笑みながら眺めていたが、ふっと表情をその顔から消した。その様子はまるで幼子の体から無垢な幼子の魂が、一息に抜けてしまったかのように不気味だった。

「馬 子昂」

 声も一層低くなったようだ。

「はい」

 子昂も表情を引き締めた。それを見ながら、アルットゥは厳かな顔つきと、声音で命じた。

「命令だ。……ナポレオン・バンデラス公爵を、ハーマポスタールを出次第、どこでもいいから殺せ。やつはもう、こちらの役には立たない。そもそも、あいつはチェマリの言葉にも振り向かなかった。……こうなって見ると、チェマリの誘惑に乗らなかった連中と、裏切った連中はみんな、あのカイエンにつくんだな。忌々しい」

 誘惑に乗らなかった人間には、ミルドラやサウル、それに大公軍団最高顧問におさまったマテオ・ソーサたちが、そして裏切った人間には、サヴォナローラやイリヤ、アキノたちが該当するのだろう。

「わかりました」

 子昂も、そうして見れば恐ろしい男だった。彼は、そのややのっぺりとした平板な顔の中の、眉ひとつ動かすことはなかった。

「バンデラス公爵はもちろん、武装した私兵に囲まれて行くだろう。だが、南からは桔梗星団こちらの『マトゥサレン・デ・マール』の一団が向かっているはずだ。別に急がなくともいい。連絡を取りながら静かにやれ」

「承知」

 子昂よりも早く答えたのは、この紺色の部屋の壁際に立っていた、それまで無言の男たちの中の一人だった。

 彼はアルットゥや子昂の返事も待たず、すぐにアストロナータ神の天地創造が彫刻された扉を開け、外へ出て行った。まさか、彼一人で行うはずはないから、あの男には相当数の手下どもがいるのだろう。

「あらまあ、頼もしいこと」

 そう、ため息交じりに言ったのはニエベスだった。彼女はアルットゥが喋っている間、大人しく微笑みを浮かべて聞き入っていたのだ。

「ねえ、あなた」

 ニエベスはアルットゥを、自分の息子ではなく、自分の夫を見る目で見た。ソファ越しに幼児の体に身を摺り寄せさえしたのである。

「おや、おねだりかい、ニエベス」

 そう答えたアルットゥの声もまた、もう完全にあのアルトゥール・スライゴのものだ。

「そうよ」

 ニエベスは滴るような婀娜な声で続けた。恐ろしい言葉を。

「ねえ、私、復讐したいの」

 誰に? とアルットゥは聞かなかった。聞かずともわかっていたからだ。

「オドザヤ、それにカイエンに。あの似ていない姉妹は、私からアルトゥール様のお体を奪ったサウルから未来を託されたっていうじゃないの。二人で、皇帝家に伝わる星と太陽の指輪を受け継いだのだと! ちょっと待たせたけれど、今度は私の番ではなくて?」

 アルットゥは面白そうに聞いていた。

「あの宰相や大将軍どもはいいのかい? あいつらはサウルに私の処刑を進言したんだよ」

 彼は混ぜっ返すようにそう言ったが、彼女はもう聞いてなどおらず、ニエベスは緑色に光る目を見開いて、それこそ本物の魔女のように言い募るだけだった。

「オドザヤ、そしてカイエン! 私はお前達の一番大切な者を奪う。オドザヤ、大切な人さえいないかわいそうなお前にはまず、心全部を捧げるような、大切な者を探してあげる。その者に心奪われてから、すべてを喪うがいいわ!」

 ニエベスはもう、アルットゥも子昂も見てはいなかった。

「殺しはしないわ。でも、あなたたちにも知ってもらう。……一番、愛していた者を他人に取り上げられ、殺される辛さをね!」

 その、猛毒の滴るような言葉は、紺色の部屋に集まった桔梗星団派の同志たちをしても戦慄させるものだったのか。

 ニエベスに応えようとする者の声はなかった。

 そう。 

 自分をアルトゥールだと言う、アルットゥでさえも。






 九月下旬。

 秋晴れの朝、バンデラス公爵の一行がハーマポスタールを発ち、南方のモンテネグロへと帰って行った。


 その二日前の宵。

 大公宮ではバンデラス公爵を送別する宴が開かれる事になっていた。

「いや、なんで? なんで公爵さんの送別会を大公宮うちでするんです?」

 午後のうちから準備にかかった大公宮の奥へ、今日は珍しく暇だったのか、のこのこやってきたイリヤに、そう言われるまでもなく。

 このハウヤ帝国の臣下の一である大公のカイエンが、それよりは下の格である公爵のために送別の宴を張る必要などなかった。

 むしろ、バンデラス公爵家の方で、お別れの宴でも開くのが普通だろう。現実に、バンデラス公爵家では数日前にお別れの宴を開いていた。オドザヤからも公爵を皇宮へ呼んで、特別にお言葉があり、下され物も贈られたのだ。

 カイエンは奥の食堂で、ごくごく少数の人々だけを招いた宴の準備をしている、執事のアキノや侍従のモンタナたちの邪魔にならないよう、奥の書斎にいた。

 机の上に載せられた、まだ署名をしなければならない書類に自動人形のように署名していく。その端から、護衛騎士という名のにわか秘書官であるシーヴが、無言のまま、署名済みの書類をまとめていた。

「それはそうだが、あちらで開かれた宴はかなり形式的なものだった。招待者も身分が上のものから順に並べて招かれたそうで……」

 実際にバンデラス公爵家の宴には、もちろん臣下の頂点に立つ、大公カイエンとエルネストの「大公夫妻」も招待されて行ってきたのだから間違いない。

 バンデラス公爵家の宴は盛大なものだったが、招待されたのは一握りの上位貴族だけで、話題も何も、すべてが儀礼的なものに終始したのだ。

 そこにはあのモリーナ侯爵や、伯爵家の当主である、マヌエル・カスティージョ将軍、ベアトリアの外交官であるモンテサント伯爵、それにシイナドラドの外交官のガルダメス伯爵や、ザイオンの外交官、それに螺旋帝国の朱 路陽の姿もあったのである。

「……くそったれの、気取ったおっさんおばさんどもが、はっはっは、おほほほほ、ってやってるだけの集まりだったぜ」

 口を挟んできたのは、後宮から出てきた、何時に起きたのかまだ眠そうな様子のエルネストだった。背後には見張るように侍従のヘルマンが張り付いている。

「へー。そうでしたかー」

 イリヤの返事は見事な棒読みで、どうでも良さそうだ。イリヤとエルネストは、今も決して仲良しではない。元はアルウィンの子飼いという共通点はあっても、身分が違うし、個性的すぎる彼らの性格が、合うはずもなかったから。

「バンデラス公爵は、お母上とご長男を人質に置いて帰るのだ。それに、我々の前で腹を割って話をしてくださった。そのう、こちらとしても帝国の南部を支配してきたあの方を、間違っても、敵に回したくないのだ。まあ、だから今夜のは、領地へ帰る『友人』を送る会、というわけだな」

 カイエンは言いにくそうに説明した。そうだ。だから、今日の宴はことさらに外には知らせていない。皇帝のオドザヤはさすがに来られないが、宰相のサヴォナローラと大将軍のエミリオ・ザラは来るはずだ。

 あとは、クリストラ公爵夫人ミルドラと未だ未婚の二人の娘、フランコ公爵夫人デボラ、それにバンデラス公爵の母であるサンドラと、長男のフランセスク。それにエルネストが呼びつけた、シイナドラドの外交官のガルダメス伯爵、軍からはフィエロアルマ将軍のジェネロ・コロンボを招いていた。

 フランコ公爵テオドロは、アルアマキアの事件があって以来、領地のラ・フランカから動けずにいる。クリストラ公爵ヘクトルもまた、八月の皇宮でのあの、小さな集まりの直後にベアトリア国境の領地、クリスタレラへ戻っていた。

 大将軍エミリオ・ザラの下にある四人の将軍のうち、北方のサウリオアルマのガルシア・コルテスは出征中だから、今、ハーマポスタールには残りの三将軍が残っている。

 この中から、ジェネロだけを招くのはいささか公平を欠くが、三人呼んだら、あのカスティージョ将軍が付いてくる。と言って三人の中から二人だけ、というのはいかにもまずい。これは元フィエロアルマ将軍のヴァイロンが特別に招いた、という苦しい言い訳が用意されていた。

 本当は、モリーナ侯爵派の、南のコンドルアルマのカスティージョ将軍はともかく、東のドラゴアルマのブラス・トリセファロは是非、招いておきたかったのだが、こういう事情では、さすがにそれは危険すぎた。

「ふーん。トリセファロ将軍は呼べないんですかー。あの人は、確かクリストラ公爵とは親しかったですよね」

 ベアトリアとの国境紛争でも、前面に立ったのはフィエロアルマだったが、後方の補給やクリスタレラの守りにはドラゴアルマも参加していた。紛争中も、パナメリゴ街道の通行を維持するためにクリストラ公爵家と共に戦っていたのだ。

「そうだな。だから確かに今日の宴には呼んでおきたかったのは事実だ。だが、三人の中から二人だけというのは、な」

 ごくごく内うちの送別会です、という言い訳が効かないのは危険だった。敵方は噂を使った情報操作に優れているのだ。今後はこちら側も周辺国相手には、情報工作をしていく事になるだろうが、アルウィンの桔梗星団派の連中相手には難しい。何しろ、未だ彼らは地下に潜った、見えない、名も知られていない集団なのだ。

 カイエンがそう答えた時、「そろそろ支度を」と言って乳母のサグラチカと女中頭のルーサが入ってきたので、彼らの話はそこまでとなった。



 そして。

 宴は夕日が落ちる頃に、大公宮奥の大公の食堂で始められた。

 ここで何度か行われた、誕生日だの何だのの内向きな集まりの時と同じように、中央の大テーブルだけではなく、適当にま配られたテーブルに大皿の料理が並べられる形式だ。この形式はかなりの大人数を招く時の形式で、普通、貴族の家では二十人ほどならばテーブルについた形式で食事会として行うことが多い。

 食事の後で、男たちは喫煙室などへ入って煙草や酒を楽しみ、女たちは女たちで菓子や茶を喫しながら話す。

 今日は主客合わせて二十人ほどの宴だから、テーブルについた形式でも行えたが、カイエンはあえて立食の形式を選んだ。

 テーブルに座っていると、遠くの人物とは話せないし、食後に男女に別れてしまうのも今度の集まりには合わなかったからだ。

 場所についても、今回は事前に相談された。

 大公宮にはもちろん、謁見の間の他に宴会の間もあるのだが、それはもう何年も……カイエンが大公になってから使われたことがない。

 今夜も、人数を絞っているので、だだっ広い宴会の間を使うほどではないと判断された。というよりも、くだけた会にしたかったというのが理由としては大きかった。

 宴会の間を使ったとなると、呼ばれた人々の顔ぶれが問題になってくる。それを避け、あくまでも「友人を送る会」であると言えるようにしておくためでもあった。ここへ初めてやってくるバンデラス公爵や母親のサンドラ、息子のフランセスクは驚くかもしれないが、それは事前に伝えておけばいいだろうということになった。

 外からの客の他に、大公宮からは大公カイエンと、エルネスト、それに大公軍団長のイリヤ、帝都防衛部隊長のヴァイロン、治安維持部隊からは双子の兄のマリオ、それに最高顧問のマテオ・ソーサが出た。シーヴはカイエンの護衛騎士なので、会場である食堂には出ていたが、サヴォナローラがやってくると、彼の護衛の武装神官リカルドと共に、庭へと続くガラス戸のあたりに立った。そこからは会場の様子が一目で見渡せたから、ということもある。

 ジェネロは案内されて入ってきた時、居心地悪そうに大きな体を縮めていたが、ヴァイロンやマテオ・ソーサの顔を見ると、安心したようにそっちへと歩いていく。

 フランコ公爵夫人のデボラは、サヴォナローラと挨拶を交わしていた。

「ほうほう、クリストラ公爵家のお嬢様たちも大きくなりましたな」

 母親のミルドラに連れられてやってきた、宵のドレスに身を包んだ次女のバルバラと、三女のコンスエラの前で、ザラ大将軍が好々爺のような声を上げている。

「一番上のアグスティナは、今年の春に嫁に行きましたのよ」

 ミルドラがそう答えているのを背中で聞きながら、カイエンは今宵の女主人らしく、ちょうど食堂の入り口へ到着した、今宵の正客、バンデラス公爵とサンドラ、それにフランセスクの三人の方へと杖をつきながら、注意深く歩いて行った。

 サンドラとフランセスク以外には、その実態もほぼ明らかなのだが、カイエンの後から「大公の夫」であるエルネストもくっついてきた。

 もう他の客は到着しており、皆の視線が自然と彼らに集まる。

「バンデラス公爵、それにサンドラ夫人、フランセスク殿、ようこそ、大公宮へ」

 カイエンはこの夜は、さすがにいつもの大公軍団の制服ではない。

 髪はきれいに結い上げていたし、鮮やかな青緑の宵のドレスは裾は足のことを考えて床にぴったりつく長さだった。腰から垂れた長い絹の、金の刺繍で縁取りされた幅の広い帯状の布だけが、彼女の歩みに連れて絹擦れの音を立ててゆく。

「今宵は、このような少人数の会と致しました。狭くて驚かれたと思いますが、どうかお寛ぎくださいますように」

 カイエンとエルネストが、並んでそう言うと、バンデラス公爵は静かにうなずいて優雅に挨拶した。息子のフランセスクは緊張した顔だったが、もう八月の皇宮での集まりでこの場の多くの人々と知り合っている、母親のサンドラの方は落ち着いていた。

「お招きありがとうございます。八月以来ですわね」

 八月の集まりで明らかになったように、今年はミルドラとデボラの両公爵夫人は夏の社交シーズンが終わっても、領地へは戻れない。彼女たちは、彼女たちの夫や息子がこの国難に当たって間違っても不穏な動きをしないようにとの、いわば人質としてハーマポスタールに残るのだ。

 その時、カイエンとエルネストははっとした。

 サンドラの横に、招待者リストにはない、背の高い、たくましい男の姿を見たからだ。

「ああ、これね」

 サンドラはいかにも北方出身の貴婦人らしく、青ざめたような白い顔色の持ち主だったが、端正な顔立ちの方は厳しく固い線で描かれたようで、ちょっと、とっつきが悪い。

 その端正で冷たい顔のまま、サンドラは恐るべきことを言ってのけた。

 彼らはカイエンとエルネストに招き入れられて、宴の会場へ入ってきたところだったが、その様子を見聞きしていた皆の目が一回り大きく見開かれたのではないか。

「今宵は、大公殿下の後宮の男君たちがお揃いになると聞きましたのでね。私も最近、仲良くなったのを連れてきましたの」

 金色っぽい輝きを持った、濃い葡萄色の、季節を先取りしたドレスのサンドラは、なおも足りないとばかりに付け足した。

「……いけなかったかしら? 今夜は内うちに息子の送別会をしていただくとお聞きしたので、寛いだ集まりだと思いましたのですけれど」

 その時、それまで大公軍団の男どもと話していた、フィエロルマ将軍のジェネロ・コロンボが呆れたような声をあげたので、今度は皆の視線がジェネロに集まった。その横では、大公軍団の黒い制服姿のヴァイロンも驚いた顔で突っ立っている。


「え? ブラスじゃねえか。お前……まさか……」

 実のところ、そこに集まった人々の中では、サンドラの連れて来た「最近、仲良くなったの」の顔を知らない者の方が少なかったのだ。

 カイエンももちろん、その男の顔を知っていた。

 横から、その男の顔を知らない一人である、エルネストが聞いてくるまで、カイエンは他の皆同様に、そこで固まっていた。

「おい、あの男がどうかしたのか?」

 カイエンはエルネストの声で我に返った。 

「ああ」

 彼女にはもう、サンドラ、いやバンデラス公爵ナポレオンの用意した、この「びっくり箱」みたいな心遣いが理解できていた。

「驚きましたよ、サンドラ様。この方が……あまりに似ておられるから」

 カイエンがそう言うと、サンドラもにんまりと笑って、脇の男を前に押し出すようにした。

「ええ、そっくりでございましょう? 私も仲良くなるまでは知らなかったんですのよ。この子、トリセファロ将軍によく似ているんですってねえ」

 そして。

 困惑しきった顔つきで、宴の会場に押し出された男は、もちろん紛れもなく、ドラゴアルマの将軍、ブラス・トリセファロその人にしか見えなかったのである。

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