アルトゥール・スライゴの影

 

 遠眼鏡の帝王サウルよ

 哀しみと憂いの息子よ

 お前の見ていたものを

 私は共に立って見たかった

 私はあなたの後の時代に生まれたが

 あなたの悲哀を誰よりもきっと知っていた

 あなたの親兄弟よりも

 あなたの妻や子供よりも


 あなたの受けた欠損

 あなたの迷った道の先を

 私はだけはたぶん

 追うことができたから


 ひとりぼっちの人生

 信じたかった者すべてに裏切られ

 あなたは確たる言葉も残さなかったが

 私はたぶん

 あなたの叫びのいくつかを

 共有していたのだろうから


 サウルよ

 あなたの時代の後を

 私たちはあなたのように一人では生きていけないだろう

 おお、遥かな地平線を見渡す者サウルよ

 お前の残したものは

 お前の帝王としての歩みだ


 もう安心して朽ち果てるがいい

 未だ来ぬ時代を見晴るかした者よ

 お前の残した時代の声を

 我らは決して忘れない





    アル・アアシャー 「見晴るかした者。それは皇帝サウル」









 ザイオンの特使との謁見中、オドザヤは顔色一つ変えずに聞いていたが、カイエンとサヴォナローラを引き連れて、謁見の間から出てくると、流石に顔色が変わっていた。

 謁見の間の奥から続く回廊には、皇帝の女官長であるコンスタンサが待ち構えていた。彼女も謁見の間でザイオンの特使が言った言葉は漏れ聞いているはずだ。だが、コンスタンサはちょっと首を振ると、カイエンへ目配せしてきた。

(お願いします)

 カイエンはコンスタンサの意思を汲み取ったが、さてもどうしていいのかは、すぐにはわからない。

「大丈夫ですか」

 とりあえず、カイエンはオドザヤの左手を無意識に取ってしまっていた。杖を突いているのは左手だから、右手は空いてはいたが、カイエンの方からもすがりつくような形になってしまったのは情けない。

 カイエンの問いに、オドザヤはしばらくの間、無反応だった。カイエンとオドザヤの後ろには宰相のサヴォナローラと、大将軍のエミリオ・ザラが従っていたが、二人は女二人の気持ちの動きに気を遣っていたのだろう。二人からの反応はなかった。

「陛下!」

 カイエンは、ザイオンの特使とのやり取りの間、オドザヤが落ち着いた受け答えに終始していただけに、かえって心配になっていた。思えば、自分が先帝サウルからヴァイロンを男妾に、と沙汰されたのもオドザヤと同じ十八の時だった。あの時は、外見は取り繕っていたものの、内心ではかなりおかしくなってしまっていた。

 結婚だのなんだの生々しい事柄を、心構えもなく、いきなり生まれて初めて聞かされるのはなんとも言えなく恥ずかしいものだった。喩えて言えば、いきなり自分の体の中に手を突っ込まれるような、心の表面を覆っていた皮を無理やり剥がされるような、なんとも気持ち悪いものだった。

 それを今、オドザヤは味わっているのだろう。

 カイエンが重ねてオドザヤの手を揺すぶると、やっとオドザヤは気がついた。

「えっ? ああ、すみません。……ちょっと、ぼうっとしてしまって」

 まあ、ぼうっとしても仕方がないだろう。今日までのオドザヤに取っては、自分の即位というだけで大変な重圧で、その上に妹のアルタマキアの事件がおっかぶさってきていたのだから。

 その上に、今日、ザイオンからもたらされたのは自分の結婚のことなのだ。 

 カイエンはオドザヤの姉としてではなく、この場にいるものとして仕方がなく話を進めるしかなかった。オドザヤの衝撃を慮りたくとも、事態は急を告げていた。 

「ザイオンの申し出では、王子三人をいつでもこちらへよこすとのことだったな」

「はい。あの様子ではもう、こちらの返答を待たずに国元を発っているやもしれませぬ」

 カイエンが宰相サヴォナローラの方を見れば、サヴォナローラも待っていました、とばかりに答える。当事者のオドザヤにとってはわざとらしい応酬だろうが、この際はもう仕方がない。

 カイエンはそう言うサヴォナローラの顔を、疲れたような目で見るしかなかった。

「断るわけにはいかないか……」

 それには、サヴォナローラも、ザラ大将軍も首を振った。

「一応は外交官を交換している国からの申し出です。確たる理由もなく、無下に断るわけには……」

「そうですな。婚約者でもおありになればともかく。それに、向こうはもう手を打ってきておりましょう」

 ザラ大将軍は、自分の近衛の青灰色の軍服の胸元へ続く、懐中時計の銀色の鎖を追うように目線を落とした。

「ああ」

 カイエンとサヴォナローラは、言われなくともわかった。

 昨年から今年にかけて、彼らは反対勢力から何度も同じような手を使われてきている。

「情報工作か」

 カイエンが言うと、オドザヤがびくりと身を震わせた。彼女にもわかったのだろう。

 伯母のミルドラと先帝サウルの間の醜聞。カイエンの結婚の折に撒かれた噂。

「そうなるでしょうね」

 サヴォナローラが言うと、オドザヤは諦めたように首を垂れた。

「わかりました。もう、逃げられないということですわね」

 それを聞くと、カイエンは堪らなくなって言わずにはいられなかった。

「諦めてはいけません。まだ、縁談の段階です。陛下が遠いザイオンへ赴かれるわけでもございません。あちらは、三人の王子をこちらへよこすと言っているのです。こちらへ来ると言うことは、何かあれば人質に取られても構わないということです。世嗣ぎでないとはいえ、歴史上でも稀なことです。それだけに不気味ですが……」

 ここで、ザラ大将軍が口を挟んできた。

「まだ交渉の余地はありますぞ。真実、三人ともよこす気は、向こうにもないでしょう。ザイオン側は三王子の肖像画だの、人となりのわかる書簡だのをよこすと言っていたではありませんか」

 サヴォナローラも負けずに続ける。

「難癖をつける機会は残されています。お見合いは避けられないでしょうが……お任せください。まだ打てる策は残っております」

 カイエンは黙っていたが、サヴォナローラの言いたいことはわかった。極端な話を想定すれば、オドザヤを守る術は幾つでもある。そもそも、カイエン自体が、結婚してからはエルネストと夫婦生活を行ったことなどないのだから。

「お任せください」

 カイエンがきっぱりと言い切ると、オドザヤはやっとうっすらとした微笑みを浮かべた。男女のことで苦労しているカイエンの言うことだけは、少しは信用できるのだろう。いや、信用できなくとも、若くしてハウヤ帝国の皇帝たる彼女には、好きな男との結婚の自由はない。少なくとも、今は。

「コンスタンサ!」

 カイエンはすぐさま、女官長のコンスタンサを呼ぶと、オドザヤを自室へ下がらせるように目で指示した。コンスタンサもそこは抜かりはない。  

 オドザヤはコンスタンサに連れられて、皇帝の居室の方へと連れられていく。その背中は頼りなさげで、カイエンは気になったが、どうすることも出来はしなかった。

 カイエンはサヴォナローラとザラ大将軍と並んで、オドザヤを見送った。





 オドザヤとコンスタンサの姿が回廊の向こうへ消えると、ザラ大将軍は深々と頭を下げて下がって行った。もっとも、近衛の頭で元帥でもある彼は、おのれ独自の情報網でザイオンの情勢を探るつもりだろう。

 それを見送ってから、カイエンはサヴォナローラの方へ顎をしゃくった。

「サヴォナローラ、ちょっと……話がある」

 そこはもう二年越しの付き合いと言うべきか、サヴォナローラはすぐにわかってうなずいた。

 二人、並んでたどり着いたのは、もうおなじみの宰相の執務室だった。

 部屋に入ると、そこではサヴォナローラの弟弟子のリカルドが、所在無げに書類の整理をしていた。彼はサヴォナローラの顔を見ると、微笑んだが、ついで入ってきたカイエンの顔を見ると、表情を引き締めた。彼にも現在の国の状況はよくわかっているのだろう。

「時間を取らせてすまなかった。今日、言っておきたかったんだ。……それは、魔術師アルットゥの腹話術の声のことなんだが」

 カイエンがそう言うと、サヴォナローラはちょっと目を見張り、それから静かに机の向こうの自分の椅子に座る。

 カイエンが執務机の前へ立つと、すぐにリカルドがやってきて、彼女のために椅子を引いた。

「先日は、コンスタンサ殿と、パコがザイオンの特使のことを知らせてきたので、お話が途中でしたね」

 サヴォナローラにはもう、話のほとんどはわかっているようだった。

 ザイオンの特使の来訪が彼らに伝えられた日、彼らは話を途中で終わらせなければならなかった。オドザヤやサヴォナローラも、カイエンもすぐに対応にかからなければならなかったからだ。

「魔術師アルットゥとかいう者の腹話術の声が……。これは推測ですが、間違い無いでしょう。アルトゥール・スライゴの声だったとおっしゃるのでしょう。先日のお手紙に『変な声だった』とございましたから、なんとも歯切れの悪いことだと思っておりました。螺旋文字のお手紙でも詳細をお書きにならなかったのですからね。それに……何しろ魔術師「アルットゥ」と言う名前からして……」

 カイエンはサヴォナローラの話の先を引き取った。

「アルットゥというのは、アルトゥールのザイオン風の呼び方だそうだな」

 カイエンがそう言うと、壁際に下がっていくリカルドの気配が動いた。彼にはいきなり何の話だろう、と思えたのだろう。

「アルトゥールはあの賜死で、本当に毒を飲まされたのか? あの時は皇帝の内閣大学士だったお前だ。お前なら真実を知っているだろう」

 カイエンはことさらに静かに聞いた。

 二年前。

 愛国者の塔で。

 スライゴ侯爵アルトゥールと、ウェント伯爵アナクレトは、当時の皇帝のサウルと皇后のアイーシャ、それに第一皇女のオドザヤ。それにサヴォナローラとザラ大将軍、それに大公軍団の事情を知ってしまった者たち、そして、クリストラ公爵夫妻の前で、毒酒を仰がされ、賜死したのだ。

「あいつは、本当にあの時、死んだのか?」

 カイエンはウェント伯爵の方はどうでもよかった。いや、どうでもよくはなかったが、今回のことで焦点が当たっているのは、もう一人の方だったから。

 問題は、スライゴ侯爵アルトゥールのほうだ。

 サヴォナローラは迷いなどしなかった。

「私にも分からないのです」

 それを聞くなり、カイエンは、きっとして顔を上げた。

「なに!?」

 サヴォナローラはカイエンの声の調子を聞くまでもなく、彼女の気持ちはわかっていた。

「私は今、極めて慎重にものを申しております。万が一ですが……もしかしたら、本当に、ありえないことではありますが、サウル様は、あれだけは私をも欺かれたのかもしれません。私はスライゴ侯爵の死体を検死した訳ではないのですから。しかし、遺体が運び出されたのは確認しています」

 カイエンの方も慎重だった。それくらいには彼女も大公として、用心深くはなっていた。

 あの時。

 ウェント伯爵は身悶えて逆らったので、獄吏が無理やりその口に毒酒を注ぎ込んだが、アルトゥールは、杯を握ったまま、一瞬だけ、カイエンの方を見た。カイエンは目をそらさずにアルトゥールの銀色の目を見返した。

(あ……)

 アルトゥール口を開けて少し、笑ったように見えた。

 そして、そのまま毒酒をあおったのだ。

 カイエンはあの時のことを思い出すと、胃のあたりがキュッとなったが、もう、彼女はそれくらいでは動じない人間になりおおせていた。

「遺体が運び出されたと言うのは、いつだ?」

 それを聞くと、サヴォナローラは真っ青な目を、静かにカイエンの方へ向けた。その顔色は蒼白で、彼もこのことについて間違いがないよう、慎重に話していることがうかがえた。

「医師の検死は、慎重を期して二度行われました。賜死の直後と、一晩明けた朝との二回です。その後に、遺体を運び出す時、私は戸板に載せられた遺体を見ています」

「死んでいたんだな。間違いなく、アルトゥール・スライゴが?」

 カイエンはなおも疑り深く、攻め立てた。

「間違いありません。実はそこには、ザラ大将軍閣下もおられたのです」

 そこまで聞くと、カイエンもそれ以上疑うわけにはいかなかった。

「そこまで言うからには、嘘はつくまいな」

 カイエンはそう、話をまとめた。だがそれと、あの魔術師アルットゥの声がアルトゥール・スライゴの声であることとは別の話だ。

「では、話を進めよう。じゃあ、あの魔術師アルットゥの声はどうなるのだ? 奇術団では腹話術だと言っている。だが、私が聞いた限りでは、あの声はアルトゥールだ」

 カイエンが断言すると、サヴォナローラは少しの間、黙っていた。

「……私は殿下のおっしゃることを疑いません。そこには、二年前の開港記念劇場の火災の際、女に化けたスライゴ侯爵が飛び出してきた時にそばにいた、大公軍団長のイリヤ殿と、それにヴァイロン殿もいらしたのでございますよね?」

 カイエンはそう聞かれると、ちょっと唇を噛んだ。

「そうだ。だが、二人ともその場ではすぐに気がつかなかったんだ。どうしてだかは分からないがな。でも、その後に問いただしたら……」

 サヴォナローラはちょっと息をついた。

「後になって言われてみれば……と言うことですね。ヴァイロン殿の耳は確かでしょうし、イリヤ殿も今さら、裏切ることもないでしょう。と、なりますと、微妙になって参りますね」

 その通りだ。

 あの夜、大公宮へ戻ってから、カイエンはヴァイロンとイリヤに問いただして、呆然としたのだ。

 だが、カイエンの聞いた音声の特徴に間違いはない。

「あの場にいた観客には皆、追っ手をつけた。だが、奇術団員のさくらはいなかったんだ」

 カイエンの言葉を聞くと、サヴォナローラは難しい顔になった。

「では?」

 カイエンはこう答えるしかなかった。

「あの幼児のアルットゥがしゃべっているのではないのだとしたら、声は魔女スネーフリンガか、奇術団員ではないが仕込まれていた男が出した声なんだろうよ」

 魔女スネーフリンガは、カイエンの見たところではアルトゥールの妻のニエベスで間違いない。

 と、なればアルトゥールの声を「再現」できるのは彼女ということになるが……。

「決め手がない。だが、お前がアルトゥールは確かに死んだと言うのなら……そうなのだ、ろう」

 カイエンの声は力なく、彼女の喉の奥へ消えていくしかなかった。 






 ハーマポスタール市内に、その噂がばらまかれたのは、それから間も無くのことだった。

 市内の各新聞社は、皇宮へ押しかけるわけにはいかなかったので、彼らの目指す方向は自然とザイオンの外交官公邸へと向いた。そして、ザイオン側ではこの噂をはっきりと肯定したので、噂のばら撒かれた翌日には、帝都中の読売りの紙面をこのニュースが飾った。

「ザイオン女王国から、オドザヤ陛下にご縁談が!」

「オドザヤ陛下ももう、十八におなり。そういう話が舞い込んでもおかしくはない情勢」

 ハウヤ帝国側としては、ザイオンがこの縁談を持ち込んでくることを予想できなかった以上、この情報が広がるのを止める手段はなかった。

 ザイオンからの特使にオドザヤへの謁見を許した以上、そんな事実はない、とはもう言えない。


「やられたの」

 その日、宰相サヴォナローラの執務室へやってきた、元帥府のザラ大将軍は、部屋に入るなり、分厚い新聞各紙の束をサヴォナローラの前に投げつけた。

 ザラ大将軍はもう、齢五十の坂を下っているだろう。だが、今この国家的な危機に際して、このハウヤ帝国の軍事的守護神となった男の顔には皮肉げで面白がっているかのような、余裕の微笑みがあった。

「……ザラ様。申し訳もございません。後手後手に回るばかりでございます」

 サヴォナローラとても先を見る目がないわけではない。だからこそ、先帝のサウルは彼を宰相に抜擢したのだ。

 先帝サウル自身も、自分の死後には騒乱が起きるであろうことは予知していた。だからこそ、カイエンには無理矢理にでも、大公としての責任能力を持たせようとし、大公軍団に帝都防衛部隊を新設させたのだ。

 そして、女子であるオドザヤを皇帝に立てる方策を決めたのだし、第二王女のカリスマをネファールへ、第三王女のアルタマキアをスキュラへ後継者として送り込み、帝国の東と北を固めようとしたのだろう。

 だから、サウルが今少し長生きできていれば、今度のアルタマキアの拉致事件は起きなかっただろうし、ザイオンがオドザヤへ縁談を持ちかけてきても、彼は手もなく撥ね付けられたはずだったのだ。

 しかし。サウルはもういない。

 サヴォナローラは、サウルのそばに仕えているうちに、それだけではないことも感じ取っていた。

 サウルという男には、確かに弟のアルウィンに操られていた部分があった。だが、それは国の内側、もっと言えば彼の親族に関することであって、即位してからの彼の皇帝としての政治的、外交的な政策は「富国強兵」に徹していたと言える。

 スキュラをハウヤ帝国の中に取り込み、「自治領」としてスキュラの主たる産物である、泥炭と石炭の生産と流通をハウヤ帝国で独占したこと。西の隣国ベアトリアとの間に国境紛争を起こし、長期化させることでベアトリアの国力を削いだこと。

 国内では身分の垣根を取り払った人事を推し進めた。

 それは、大議会招集前にあの、フィデル・モリーナ侯爵が、密かに呼び寄せた螺旋帝国の外交官、朱 路陽や、ベアトリアの外交官、モンテサント伯爵等の前で言った言葉を借りれば、

(後継のいない家を取り潰して皇帝直轄領を増やし、その収益を戦争に回して領土を広げ、広げた領土は直轄領になさってしまわれた。その戦争には平民出身の軍人を取り立ててな。そして、ついには平民の神官風情を宰相になさった。それだけでも業腹であるのに、農民への税負担を減らして小作を減らし、豪農を細分化させ、地方領主の実入りを減らして勢力を削いだ。一方で商人への徴税は増やされたが、海軍の創設と増強で航路を拓き、南方との遠方貿易を活性化したこと、それに国境紛争での紛争景気で、商人どもは逆に潤ってしまった。……結局、損をしたのは我ら貴族だけではないか!)

 と、いうことになる。

 つまり、先帝サウルは若い頃から、すでに今の時代を予期していたかのように動いていたのだ。確かに、その結果として貴族の中に、モリーナ侯爵のような造反派を生んでしまったわけだが、それとてサウルに皇子が早くに生まれていれば、避けられた事態だったのだ。

 サウルは、即位の瞬間から、自分の次代に起こるであろう出来事がはっきりと見えていたように、一つ一つ、策を積み上げて行った皇帝だった。

 まるで、一つの時代を生きながら、彼のいなくなった時代の先を遥か遠くまで見渡していたように。

 見渡すばかりに未来の行方が定まった平原に立って、遥かな地平を見渡すように、彼にはなにがしかの未だ来ぬ時代の流れの行方が追えたのだろう。

 そして、先帝サウルの死後、各国は示し合わせたように段階的に襲ってきた。

「いやいや。宰相殿のせいではあるまいよ。それなら、わしも同罪だ。……サウル様のように時代の動きを感じ、そして前へ前へと手が伸ばせる方は、そうそうおられないからな」

 ザラ大将軍はそう言うと、慰め顔でサヴォナローラの座る机の前に座った。サヴォナローラが部屋の隅に控えているリカルドに合図しようとすると、彼はそれを片手で遮った。

「ああ、ああ。飲み物などなら結構だ。わしも長居ができるほど暇ではないからな」

 リカルドがサヴォナローラの顔を探ってから、元の位置に戻ると、ザラ大将軍はゆったりと足を組んだ。彼は軍人としてはあまり体の大きな男ではないが、無駄肉のない引き締まった体つきは、若い頃に剣さばきの俊敏さで鳴らした時のままだ。

「宰相殿も、大公殿下も、陛下も……皆、アルウィン様のすることばかりを恐れておるようだがね。サウル様がおられなかったら、事態はこんなものでは済まされなかっただろうて。……もっとも、サウル様がおられなければ、アルウィン様もああはおなりにならなかっただろうから、あのご兄弟ほどに傍迷惑な方々はおられないだろうよ。ま、その元をたどれば、シイナドラドからやってきたあの、お二人の母であるファナ皇后になるのだから、これはシイナドラド所縁の血族のもたらした『呪い』かもしれんな」

 サヴォナローラは静かな表情でうなずいた。

「そうですね。サウル様はご自分の死期も早くから悟っておられました。あの方には、何か……見える能力ちからのようなものがおありになったのかもしれませんね。アルウィン様とのことは、サウル様個人の御心には影響したかもしれませんが、皇帝としてのご偉業には関係がなかったのかもしれません」

 それを聞くと、ザラ大将軍は真顔になった。

「それだな、宰相殿。我々は今、スキュラで立ち上がったマトゥサレン一族だの、あのアルウィン様の取り込んだ螺旋帝国の連中だの、ザイオンの連中だのの攻勢にひたすら受け身になっている。この事態は、さすがのサウル様も言い残して逝かれなかった」

 ここで、何か言おうとしたサヴォナローラをザラ大将軍はそっと抑えた。

「……そうなのだ。サウル様は襲い来るものの具体的な『姿』が見えていたのではないのだろう。だが、災厄が襲って来る方向のようなものは、察知されていたのだ。そして、恐らくは無意識的にそれに対応しておられた。完璧とはいかなかったようだが」

 サヴォナローラは息を飲んだ。彼も今、ザラ大将軍が言っていることを漠然と想像はしていた。だが、それは自分だけのことだと思っていたのだ。だが、ザラ大将軍はサウルの「特殊な能力」とでも言ったものを、さらりと認めて話を先へ進めようとしているのだ。

「と、なると。凡夫である我々としては、サウル様がなさったことから、この先のことを推測するしかあるまいて。……だが、それももう、早くも種が尽きかけているようだ。アルタマキア皇女の事件では、サウル様の方策も間に合わなかったことだしな。まあ、これはサウル様もご自分の正確な死期は計れなかったということなのだろうよ」

 サヴォナローラは今や、その真っ青な目で、ザラ大将軍の褐色の鷹のように鋭い目を見ているしかなかった。

「さて。それではまとめてみようか。サウル様はスキュラ、ベアトリア、そしてネファールへは手を打っておられた。マグダレーナ様のことも恐らくは同じ線上で選ばれたことなのだろう。そして、カイエン様をシイナドラドへやったのも、エルネスト皇子の縁談も、これはシイナドラドへの対策としてお選びになったのだ。螺旋帝国のことは……中途半端だったな。あの第四妾妃のことは、なんとも中途半端だった。これはおそらく……螺旋帝国の動きは、サウル様にはあまり『見えなかった』のだろう、としか言いようがないな」

「見えなかった?」

 サヴォナローラが呟くと、ザラ大将軍は褐色の目をぎらぎらと光らせた。この初老の男にも、サウルほどではないがなにがしかのものが見えるのだろうか。

「凡夫たるわしには、結局はよくわからんよ。だが、結果からするとそうだ。それは螺旋帝国が地理的に遠いからなのか、それとも……。これは謎のままだろうて。それと、南方への備えだな。これも、サウル様には見えなかったのだろう。だから、バンデラス公爵のことは、我々皆に遺言書で言い残されていた。そうだな?」

「はい。バンデラス公爵のことは、陛下にもカイエン様にも、書き残されたようです。恐らくは他のみなさまへも」

 それは、カイエンが受け取った遺言書によれば、こういうことになる。

(ここに、アルウィンとはなんの関係もない、アルウィンには操れなかった者たちもいる。彼らはどっちに組みするかわからない。一人は、螺旋帝国の新しい皇帝だ。ヒョウ 革偉カクイ

 あれの即位までの過程、革命とやらにはアルウィンも関わっているのだろう。だが、彼には間違いなく彼だけの意志がある。これは、同じ帝王としての私の勘だ。彼の意志は誰にも左右することはできない。

 同じように、我が帝国の中にも、私にもアルウィンにもその意志を左右できなかった存在がいる。この名前は、オドザヤにもカイエン、お前にも伝えておくことにする。その名は、ナポレオン・バンデラス公爵。ハウヤ帝国の南方を支配する男の名だ)

「そうだな。だが、あの方はどうやらこちら側に気持ちを寄せてくださっているようだ。ことによっては、ラ・ウニオン共和国側につかざるを得ないとまでおっしゃりながら、ご母堂とご長男を人質に出されたのだから。これについては、あのカイエン様に感謝せねばならん。大議会であそこまで悪目立ちなさって……」

 ここまで話すと、ザラ大将軍は厳しい顔に微笑みを浮かべた。

「シイナドラドであんな目に遭われたのに、あの皇子を上手く使われるものよ、と驚いたわ。真正直だけが取り柄のお方だと思っていたが、サウル様の課された厳しい鍛錬に、あの方は見事に応えられた」

「そうですね」

 サヴォナローラは遠慮がちに評した。サウルもまさか、カイエンが望まない子供を身ごもった上に喪うことにまでなるとは思っていなかったことは、側近くに仕えていた彼にはよくわかっていた。

「となれば、あと残るのは、ザイオンだな」

「はい」

 ザラ大将軍は、サヴォナローラの座る後ろの壁にかかっている、パナメリゴ大陸の地図に目をやった。

「サウル様はザイオンに対して、何か方策をなされたか?」

 ザラ大将軍の顔は、愉快そうに笑っていた。彼はもう、その答えに思いが至っているのだろう。サヴォナローラも、これにはいささかの心当たりがあったので、返答は落ち着いていた。それは先日、カイエンと話していたからことさらに。

「……想像ですが。二年前の、スライゴ侯爵の事件がそれなのでは?」

 質問に質問で答えた形になったが、ザラ大将軍は満足そうに乗り出してきた。

「そうだ。二年前の事件の折り、大公殿下の治安維持部隊が調べているはずだ。ズライゴ侯爵アルトゥールは先代侯爵の庶子だったな。あれの母親のことを、あの、軍団長のイリヤボルトが調べていたはずだ」

 サヴォナローラは内心で舌を巻いた。あの頃はまだ、自分もイリヤもアルウィンの影響下にあった。それでも、イリヤはカイエンに命じられた仕事はちゃんとしていたからだ。 

「その通りです。アルトゥールの母親は、ハーマポスタールの下町の女でしたが、元はザイオンから流れてきた、軽業一座の女だったということでした。今になってみれば、ザイオン関係のことはそれだけではありませんね。バンデラス公爵のお母上はザイオン人。それもチューラ女王の王配の妹なのですから」

 ザラ大将軍は、もう面白くて仕方がない、といった様子で座っている椅子の上でのけぞった。

「素晴らしいぞ、宰相殿! バンデラス公爵のご母堂のことはサウル様もご存知だっただろう。だから、ことさらにバンデラス公爵を恐れていらしたのだ。そして、スライゴ侯爵アルトゥールのザイオン人の母親。これをサウル様はどこかからか知られたのだろうなあ。となれば、アルトゥール・スライゴはアルウィン様の子飼いだっただけではなく、母方の故国ザイオンとなんらかの関係があったのだろう。限定的ではあったが、恐らくは無意識のうちに未来を見ていたサウル様は、これを恐れられたのだ」

 サヴォナローラは身震いした。彼も漠然とこのことは想定していたが、他人の口から断定されるのはまた別だった。

「……本当に? サウル様はそこまで漠然と未来を眺められて。そして、二年前にスライゴ侯爵を……」

 ザラ大将軍の方は容赦がなかった。

「嵌められたのだよ、スライゴは。そして、今、スライゴはサウル様への復讐に立ち上がったのだ」


 魔女スネーフリンガと、赤子の姿をした魔術師アルットゥ。

 スライゴ侯爵アルトゥールそっくりの声で話す、二、三歳の幼児。

 では、あれは。


「アルトゥール・スライゴは死んでいる! これはわしや宰相殿には明らかなことだ。我らはあやつの死骸を改めたからな! それでも、彼の声が蘇るというのなら、あれはまだ、死んではいないのだ」


 サヴォナローラの背中を、冷たいものが駆け上がっていった。彼は思わず、助けを請うように彼の弟弟子リカルドの顔を見ないわけにはいかなかった

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