メランコリアの良薬

 オドザヤが即位した六月下旬の夏至祭の日から、もう一ヶ月近くの時が過ぎ、七月も下旬となっていた。

 北方の自治領スキュラへ向けて出立した、第三皇女のアルタマキアの到着の知らせがそろそろ届いてもよい頃、と皇宮や大公宮では思われていた。

 だが、その知らせはなかなか帝都ハーマポスタールに到着せず、関係者をやきもきさせていた。




 七月下旬のその朝。カイエンは未だ夢の中にいた。

 ぎゅうっと温かい大きな腕で抱きしめられている。

 それは、体全体を他の人間の肉体で包み込まれ、荒れ狂う嵐の世界から守られているような絶対の安心だ。

 たぶん。

 もう、これ以上の安心を得られるところは、今も、これからもどこにもないだろう。

 ああ、これは夢なのか。現なのか。カイエンはふわふわした雲の中を彷徨うような気持ちで、温かい腕の中で微睡んでいた。

 あまりに心地よすぎるから、夢なのかもしれない。

 だが、それは彼女が子供の頃から悩まされていた、あの「悪夢」の中ではなかった。

 覚醒と微睡みの間の、危うい均衡の上に横たわっている幸福。それは、うたた寝の白日夢のような心地よい世界だった。

 その中で、カイエンはまだ子供で。そして、彼女は薔薇のいい匂いがする、ちょっと冷んやりとした、細くて柔らかい腕に包まれていた。

 その腕の感触は、彼女がもう忘れて久しいものだった。それは、今、実際に彼女を包んでいる、温かくて大きな、これ以上ないほどに力強い太い腕とはずいぶん違って感じられた。

 あれ。

 夢と現が交差している。

 夢の中の冷んやりとした腕と、現の世界の力強い腕が、微睡みの意識の中で混乱する。


「……カイエン様」

 そこへ、すぐ近くから聞こえてきたのは、低い男らしい声。もういい加減聞き慣れてしまった温かい声が、耳元で囁く。

 それは、もうカイエンが何十回、何百回と聞いた声だっただろう。

 覚醒したくない。この温かい日向湯のような世界に微睡んでいたい。そう思って、温かい腕の中へ小さく丸めた体を押し込むようにすると、なぜか、大きな温かい強壮な肉体の方がたじろいだ。

「……カイエン様、もう起きる時間です。だめですよ。そんな風にされたら、私は……」

 困るのか。

 ああ、じゃあ、困れ。困ったお前は私をどうするのか、見てやろうじゃないか。

 カイエンは、そんなことを一瞬だけ考えた。だが、その結果はカイエンにはもう、この二年あまりでとっくにわかっていた。こいつが困ったら、もっと困ったことになるのは自分なのだと。

「……わかった。起きる」

 今までの経験と照らし合わせ、これはまずいと急激に覚醒した自我が、勝手に夢から覚醒して相手に答えていた。忙しい朝に、自らややこしい事態を引き起こしてどうする。

 声が出た途端に、カイエンの身体中の、すべての感触や感覚が呼び覚まされる。

 今朝は背中を抱かれていたのではなく、カイエンの方が相手にしがみついていたこと。背中と腰に回された逞しすぎる両腕が、彼女の言葉と同時に、起き上がろうと寝台に両腕をついた体を助けるように動き始めたこと。

 そのすべてが彼女の中で認知される。

「おはよう、ヴァイロン」

 カイエンの深い灰色の瞳が開いた時、目の前にあったのは、闇夜には金色に輝く翡翠色の目。それが、思ったよりも近くにあって、カイエンはちょっとどぎまぎした。だが、もう朝なのだからそんな気持ちは放り出してしまうしかない。

「ああ、まだ眠いな」

 寝台の上で寝間着の裾が乱れるのも気にせず、カイエンは胡座をかいてぐいっと、猫のような伸びをした。途端に、ふわっとあくびが出てきて、空気が耳を塞いだので、横で同じように起き上がった、彼の言葉がちょっと遠くで聞こえるようだ。

「おはようございます、殿下」


「あれ? あれは何だっけ」

 猫のミモは、今朝は後宮の変態エルネストのところにいるらしく、カイエンの寝台の上にはいなかった。この頃ではそんな朝も珍しくはない。

 そんな日常の朝の景色の中で、カイエンは急にはっきりと思い出していた。

 寝起きの頭は、時空をさまよって色々な時代の彼女を連れてくる。今朝、蘇ってきたのは、ヴァイロンの前にカイエンを同じように優しく抱きしめてくれていた人間が、昔、確かにいた、というさっきまで見ていた夢の中の光景だった。

「ああ。……忌々しい。思い出すんじゃなかった」

 カイエンは、思い出すなりその光景を根こそぎ、自分の内側から吐き捨てた。

 あの夢の中にいた、薔薇のいい匂いがする、ちょっと冷んやりとした、細くて柔らかい腕の持ち主。それは今やカイエンにとって最も忌むべき存在だったからだ。

 今は亡き先帝サウルによって、ヴァイロンが彼女とこんな関係にさせられるずっと前、彼女を同じように温かく抱いてくれていた手。それはカイエンを置いてサウルの元へ去ったアイーシャの手でも、乳母のサグラチカの手でもなかった。見た目は細かったが、女の腕よりはずっと強くて、しっかりとした腕だった。

 それは、子供だった彼女を地面から抱き上げ、ぐるぐると腕をとって振り回してくれたり、肩に乗せてくれたり、そして、一緒に同じ長椅子で昼寝をしてくれた男の、腕と手のことだ。

「何だっけ? あのころ、伯母様が変なことを言ってた……あれは、このことに関係があった?」

 その、今や忌まわしいだけでしかない時代の夢は、たった一人の保護者だった「父親アルウィン」の腕の中に守られて生活していた、ほんの小さな少女だった日々の夢だった。

 そして、それが永遠に終わりを告げた日から、実はもう始まっていたのが、彼女のその父親との長い葛藤の日々だった。

 そんな夢からの連想が、同じ頃に、伯母のミルドラが彼女に言った言葉の意味と、カイエンの頭の中で結びつこうとしていた。

 カイエンの中で、すぐに記憶の中のミルドラが話し始める。

(……確かにアルウィンにはカイエン、あなただけですものね。あれから再婚もしないで、こんなによく似た娘が一人だけ、そばにいるんじゃねえ)

(あの子も、あの女の息子ですもの。きっと、自分で自分の危なさに気がついたんだわ。……そうなの。それほどにこの子にだけは嫌われたくないのね)

 カイエンはミルドラの言葉を、子供心に、今はよく分からないけれど大切なものではないかと判断し、ずっと覚えていたのだろう。

 そして、カイエンは大人になり、今の今、やっとその本当の意味に気がつけたというわけだ。

「……ああ、ああ。なんてこった。そういうことだったか」

 何で今になって、こんな薄気味の悪い、あの父親アルウィンとの葛藤の始まりを、その引き金となった理由を、思い出さねばならないのか。カイエンは頭を抱えて、その辺をのたうち回りたいような気持ちだった。

 どうして今朝、天から落ちてきたみたいに、こんなことが理解できてしまったのか。本当に人間というのは、厄介な代物だ。十年も気がつかなかったことが、ある瞬間にはっきりと見通せるようになる一瞬。

 そして、そのきっかけはほんの些細な日常の物事であったりするのだ。今朝の夢のように。


「うう。気色悪い……」

 カイエンにとって、それは本当に今となっては、「気色悪い」としか言いようのないことだった。

 しかし、こんなカイエンの気持ちの流れは、ヴァイロンにはわからない。カイエンの背後でヴァイロンのやや気後れした声が聞こえた。

「その……どうかなさいましたか」

 起きてからのカイエンのいつもと違う様子。一人で何度もうなずいて、ぶつぶつ独り言を言った挙句、最終的に自らの頭を抱えて、淑女らしくもなく胡座を組んだ膝の上に突っ伏してしまった様子は、カイエンの悪夢をよく知っているヴァイロンから見てもやや異様だった。

 「気色悪い」とカイエンが言ったことに対しても、身に覚えがないわけでもない。

 それは実はカイエンの夢から始まった連想とは、まったく関係のないことだったのだが、彼は一応、謝っておくことにしたらしい。

「申し訳ありません……」

「すまないヴァイロン。今のは、お前には関係ないことだ」

 カイエンはヴァイロンの誤解を知ると、すぐにそれを訂正した。

 この、より力強い、より長い時間を共にするための腕をつかむことが出来たから。もういいのだ。あんな、もう終わった時代の夢から繋がって理解できたことなど、今からの未来に役に立つものでもない。

 だが、それからカイエンは、前のボタンがいくつも外され、はだけられた寝間着の胸元から、自分の腹のあたりまでを眺めてため息をついた。ヴァロンの謝罪の意味がこの時、本当に分かったからだ。

 首から胸の谷間には鎖が下がり、その先にあるのはこのハウヤ帝国の皇帝たちが身につけてきた、「星と太陽の指輪」の片割れ、星の指輪だ。そして、その周りの見える範囲にいくつかの鬱血の痕。彼女には昨晩、そんな痕をつけられた記憶はない。だが、犯人といえば目の前のでかい男以外には考えられなかった。

 もう、夜、疲れで意識を失った後に、ちょっとヴァイロンに体を悪戯されたくらいのことでは、彼女は驚かなくなっていた。痛くも痒くもないし、服を着れば決して見えない場所をちゃんと選んでいるところなどはいじらしくもある。

「ああ。それにしても気色が悪いことを思い出してしまったな。でもまあ、こうやって昔のあれこれの謎が解けていくのもまあ、悪いことではないのだろう」

 気の毒なヴァイロンは、カイエンの考えていたことも、その時言った言葉の意味もわからぬまま、曖昧にうなずくしかなかった。



 父親のアルウィンがカイエンを自然に抱きしめてくれていたのは、子供の頃、あれはたぶん八つか九つになる頃までだっただろうか。

 カイエンはもう覚えてはいないが、ある時を境に、アルウィンはカイエンを守るように抱きしめてはくれなくなった。腕や肩に触るのも避けているようで、例外は何かものを渡すときに、指先がちょっと触れるか触れないかという時くらいになっていた。

 それはカイエンが頼 國仁その他の家庭教師について、本格的な勉学を始めた時期と重なっていたから、彼女はアルウィンとの距離感が変わったことに、長い間、気がつかないままだった。 

 それに気がついたのは、十歳の時の夏にハーマポスタールに上ってきた伯母のミルドラに招かれて、クリストラ公爵家に遊びに行った時のことだった。

 どうしてだかはもう忘れてしまったが、あの時、アルウィンは何か用事があって一緒ではなかったのだ。

「カイエン。ねえ、お父様がこの頃、ひどいのよ」

 そう言って、あの時、カイエンの腕を引っ張ったのは、カイエンより二つ年上の、ミルドラの一番上の娘のアグスティナだった。

「え? どうしたの」

 カイエンが聞くと、当時十二歳くらいだったアグスティナは父親のヘクトルによく似た顔を泣きそうに歪めて言ったものだ。

「お父様は、バルバラやコンスエラは抱っこしてくださるのに、私のことは『もう一人前の淑女になるのだから』って、よそよそしくなさるのよ!」

 よそよそしくなさるのよ。

 カイエンは一瞬、その意味がわからなくて阿呆のような顔になっていただろう。

「あらあら。アグスティナったら。お前はもう子供じゃないんですよ。……お父様も困っているんだから、そんな言い方をするもんじゃないわ。いつまでもお父様にべったりのお姫様では、示しがつかないの」

 そう言うと、困ったような表情で、母親のミルドラはアグスティナの肩を抱いたものだ。

「ええっ。でも、でも!」

 カイエンは、ちょっと頰を紅潮させて母親の胸にすがりつくアグスティナの様子を、呆けたような顔で見ていたに違いない。

「あら」

 よく気がつく、伯母のミルドラはカイエンの様子にもすぐに気がついたらしい。

「その様子じゃ、あなたもアルウィンに抱っこしてもらえなくなったのかしら? カイエン」

 カイエンは、なんだかわからないが、この疑問を晴らしてくれるのはミルドラしかいないことだけは分かったので、必死な顔で肯定した。

「あらそう。でも、カイエンはまだ十でしょ? サグラチカがいるから大丈夫だと思ってたけど、知ってるのかしら」

 カイエンは自分と同じ色のミルドラの目を、食い入るように見つめているしかなかった。

「……カイエン、あなた、女の子が子供が産める体になる時にどうなるか、もう、聞いていて?」

 ああ。

 カイエンはそれはもう、一年くらい前から周到な乳母のサグラチカに聞いていたから、こくこくとうなずいた。

「そう。よかったわ。でも、カイエンはまだでしょう?」

 この言葉にも、カイエンはただただうなずいた。うなずきながら、きっとこの先に彼女の不安の理由を教えてくれる言葉が出てくるものと、もう信じて疑わなかった。

「……そうなの。それなのに、もうアルウィンはあなたを突き放したのね。母親も、兄弟姉妹もいないあなたにはまだ、親の温かい腕が必要なのにねえ」

 そう言うと、ミルドラはカイエンの髪を撫で、アグスティナと一緒に胸元に抱き寄せながら言ってくれたのだった。

「私は女親だからわからないけれど、ヘクトルの様子を見ても、きっとそうなのよねえ。……男親は、自分によく似た娘には特別な気持ちがあるんでしょうねえ。……まあ、ヘクトルは他にも娘が二人もいるから、大丈夫だろうけれど。……確かにアルウィンにはカイエン、あなただけですものね。あれから再婚もしないで、こんなによく似た娘が一人だけ、そばにいるんじゃねえ」

 カイエンはミルドラの胸元で聞いていたが、その続きは呟きだったので、はっきりと聞き取ることは出来なかった。

「あの子も、あの女の息子ですもの。きっと、自分で自分の危なさに気がついたんだわ。……そうなの。それほどにアルウィンはカイエンにだけは嫌われたくないのね」

 その時のカイエンには、ミルドラのこの言葉の意味は分からなかったが、その言葉の羅列だけは忘れずに覚えていたのだ。



 そこまで反芻して、カイエンはもう思い出すのは結構だ、とでも言いたげにぶんぶんと首を振った。

「なに。ちょっと、昔のことを思い出しただけだ。子供の頃のことをな。それがさっき急に、二つの思い出が結びついて、長年、心の隅に引っかかっていたことの理由がわかったんだ。……そして、それがとてつもなく気色の悪い事実だったというだけだよ」

 カイエンはそう言うと、嫌なものを振り払うようにぶるぶるっと犬のように大仰に身を震わせたが、もう表情の方はいつもの彼女に戻っているように見えた。

「左様でございますか」

 ヴァイロンという男は、こういう時に根掘り葉掘り聞き出そうとするような性格ではない。だから、彼はもうとっくに寝室の扉の向こうで待機しているはずの、カイエンの乳母のサグラチカや女中頭のルーサに聞こえるように、枕元の呼び鈴を鳴らした。そして、自分は寝室の窓へ向かうと、夏の涼やかな麻のカーテンを開け、庭に面したガラスの嵌まった格子戸も開け始める。

「おはようございます、カイエン様」

 だから、サグラチカとルーサの姿が部屋に見えた時には、朝のまだ涼しい空気が寝室の中へやさしく吹き込んできていた。

「あの、カイエン様。つい先ほどですが、皇宮からお使者が来られました」

 サグラチカが、カイエンにそう言ったのは、もうカイエンの朝の支度が整い、夏のことだから大公軍団の制服の上着だけはまだ着ないまま、カイエンたちが朝食のために居間へ移動しようとしていた時のことだった。

「えっ?」

 どうしてもっと早くに言わないのかと、不思議そうな顔をしたカイエンを、いつも朝食をとるソファの前に座らせてからサグラチカは答えた。すでにテーブルの上には新鮮な果物や野菜、卵にハムなどの朝食が並んでいる。

「それが、ちょっとややこしいお話なのだそうですが、あちらでももう少し情報を集めておきたいので、ゆっくりで構わない。朝食を召し上がってからでいいから、皇宮へお越しください、とのことでしたの」

 カイエンはサグラチカの話を黙って聞いていたが、それでもやや気が急いたので、女中頭のルーサの方へ目で合図して紅茶をカップに注がせた。まずは熱い紅茶を飲まなければ、カイエンの朝は始まらない。横に音もなくやって来たヴァイロンは、どこから聞いていたのか、もう大公軍団の制服を高い襟元まできちんと着終わっていた。

「そうか。まあ、それなら朝食はゆっくりさせていただこう。急いで食べると、私は後で腹が痛くなったりするからな」

 カイエンはそう言うと、もう普段の様子になっていた。

「じゃあ、私は今朝は朝礼には出ずに皇宮へ上がる。ヴァイロン、すまないが帝都防衛部隊の朝の訓練に行く前に、イリヤに伝えてくれ」

「わかりました」

 もりもりと朝食を平らげるカイエンを、サグラチカとヴァイロンの血の繋がらぬ母子が、これ以上かわいいものはない、という顔で見ているのを、女中頭のルーサだけが、微笑ましく見つめていた。


 




 護衛騎士のシーヴだけを引き連れて、馬車で皇宮へ登ったカイエンは、すぐに皇帝オドザヤの執務室へ通された。

「お姉様、朝早くからすみません」

 皇帝となっても、オドザヤはカイエンをお姉様と呼び続けている。まあ、姉であるのは事実なのでカイエンもそれについて文句を言うつもりはない。オドザヤは化粧気もない顔で、髪も後ろでまとめたきりだったが、それでも彼女のような貴婦人が午前中に着るべきスタイルのドレスに、きっちりとその、今や至高の存在となった身を包み、落ち着いた様子に見えた。

「まだ確認が取れておりませんが、ちょっと困った事態が起きたようです」

 オドザヤの執務机の前にある、大きなテーブルの上で、早馬がもたらしたらしい、いくつかの金属の通信筒から折りたたんだ紙を取り出して見ていた宰相のサヴォナローラが、やや青ざめた顔をカイエンに向けた。

 サヴォナローラの後ろの壁際に立っていた、この頃、夜も昼もサヴォナローラの警護をしているらしい、武装神官がカイエンと、彼女の後ろに控えたシーヴに黙礼してくる。

 カイエンもとっくに気がついていたが、サヴォナローラの警護官である武装神官のリカルドは、シーヴと同じ一族の末裔だ。顔立ちはあまり似ていないが、浅黒い顔に合わない亜麻色の髪も、胡桃色の目も同じ色。この土地にハウヤ帝国が建国された時に滅ぼされた、ラ・カイザ王国の王の一族の裔なのだろう。

「どうしたのだ? バンデラス公爵の持ってきた、ラ・パルマ号の遭難と乗員すべてが行方知れずになっている件か?」

 カイエンが真っ先に聞いたのは、大議会の終了後にエルネストと二人でバンデラス公爵から聞いた、ラ・パルマ号の事件のことだった。 

(いずれ報告が来るでしょうが、嫌な事件です。ラ・パルマ号と船団の経費はサウル皇帝陛下がお許しになり、国庫から負担しているのですから、それが一隻残らず遭難したとあれば、新皇帝陛下にご報告せねばなりません)

 あの時のバンデラス公爵の顔つきは、真剣なものだった。だから、カイエンもそのことを最初に聞いたのだが、サヴォナローラとオドザヤは首を振った。

「いいえ。違いますの。そのお話はまだバンデラス公爵がなさっている追跡調査の報告が来ないとやらで……」

「バンデラス公爵は、まだハーマポスタールにご滞在なのですか」

 カイエンがオドザヤに聞くと、サヴォナローラの方が厳しい顔つきでうなずいた。

「はい。公爵は追跡調査の報告を、このハーマポスタールで聞くとおっしゃって、モンテネグロを出て来られたそうです。まあその方が、ご自分自らこのこちらへ報告が出来るとのお考えでしょう。賢明なことです」

 サヴォナローラは早口に言うと、すぐに執務机の前の大テーブルの横の椅子に腰掛けたカイエンの前に、通信筒から取り出した紙を順番に並べていった。オドザヤが執務机の向こうから静かな足取りで回ってくる。

「未明から、このような通信文が相次いで北の自治領スキュラとの国境である、ラ・フランカから到着しております」

「ラ・フランカから?」

 カイエンはすぐに今の事態が、一ヶ月近く前にこのハーマポスタールを出発し、母の故郷である自治領スキュラの後継となるために旅立った、第三皇女アルタマキアのことであると言うことが分かった。

 ラ・フランカはハウヤ帝国の北部、フランコ公爵の大城がある街で、自治領スキュラとの国境に一番近い大きな街である。フランコ公爵は、北上するアルタマキアを送りながら、共に自分の領地まで旅して行ったはずなのだ。

「はい。フランコ公爵テオドロ様と、奥方のデボラ様は、ラ・フランカの居城から、アルタマキア様をスキュラへと送り出したそうなのですが……」

「え? それで」

 カイエンは聞くより見るのが早いと、自分の前に置かれた紙片を取り上げた。

(国境を越え、スキュラ自治領へ入る。皇女殿下は間も無くスキュラ元首エサイアスの軍勢に迎えられた)

(エサイアスの軍勢はなぜか、スキュラ自治領の旗ではなく、北海の向こうのマトゥランダ島のマトゥサレン一族の旗印を掲げていた)

(不審に思った皇女の護衛がそれをただすと、その場で戦闘状態に突入)

(皇女はマトゥサレンの旗を掲げた一団によって連れ去られた)

(急ぎ、スキュラ自治領の城へ使いを出したが、未だ返答なし)

 読み終わるなり、カイエンは厳しい顔になった。

「なんと! これはおかしい。マトゥサレン一族は現スキュラ元首の夫人の実家ではないか。それが……」

 カイエンはもう知っていたが、ネファールの王太女となった第二皇女のカリスマの件でも、第三皇女のアルタマキアの件でも、サウルは現在の国主の意向を無視してまでごり押しをしたわけではない。第一妾妃のラーラの兄、ネファールの現国王ジャンカは異母弟のクマールを次の国王にしたくないと思っていたし、第二妾妃のキルケの兄である、自治領スキュラの元首エサイアスには子供がなかった。

 だから、ネファールのジャンカ国王も、スキュラの元首エサイアスも、自分たちの妹の子である皇女達を後継とすることに表立った反対はしてこなかったのである。だから、現にネファールへ到着したカリスマは今、滞りなく王太女として立てられている。

「お父様は事前に、マトゥサレン一族出身のスキュラ元首夫人、イローナ様のご意向もただし、アルタマキアを後継にすることに同意するとの書簡も受け取っておられたのです。……なのに、こんな……」

 黙っているサヴォナローラの横で、オドザヤが震える声で言う。

 カイエンは、もう一度、通信文を読み直した。

「アルタマキア皇女は、スキュラ元首エサイアスの夫人、イローナの実家であるマトゥサレン一族の旗印を掲げた一団に連れ去られた。その時にハウヤ帝国からの護衛との間に戦闘があった。……と、なればスキュラ元首エサイアスは何をしていたのか、と言うことになりますね」

 カイエンが言うと、サヴォナローラが後を引き取った。

「恐らく、イローナ夫人はエサイアスの妹であるキルケ様の子であり、このハウヤ帝国の第三皇女であるアルタマキア皇女をスキュラの後継とすることに心の底では承服していなかったのでしょう。おそらく、こんな手段で後継同意の書簡を踏みにじったのは……」

「もう、このハウヤ帝国の皇帝がお父様ではなくなったからだわ!」

 サヴォナローラが言い淀んだ言葉を、容赦無く言い切ったのは、オドザヤだった。

「……なんてこと。私の力が足りないばかりに、アルタマキアが……」

 カイエンもサヴォナローラも、このオドザヤの言葉は聞き捨てならなかった。

「陛下!」

 カイエンとサヴォナローラの声は、見事に唱和したので、壁際に立っていたシーヴとリカルドはびくりと身を震わせたほどだった。 

「弱気はいけません。このことは全然まったく予想しなかったことではございません。ですが、サウル様はまだ大丈夫だろうとお考えでした。だから私どもはサウル様のご意向通りにことを進めましたのです」

 カイエンは、サヴォナローラの言葉が切れる間も惜しい、というように言葉を重ねた。

「おのれを責めるお気持ちは、君主として必要なことです。そういうお気持ちが無くなれば、もう誰もついては参りますまい。……ですが、今ここで起こったことを嘆いたとて、事態は良くなりません」

 そして、カイエンの言った言葉はオドザヤにはあまりに冷酷に聞こえただろう。

「お姉様……」

 オドザヤは泣き出しそうに眉を歪めたが、泣きはしなかった。聡明な彼女にはカイエンの言いたいことが瞬時にわかったのだろう。

「わかりました。……確かに、これから私たちに何ができるのかを考えるべきだわ。アルタマキアが生きているなら、まずは安全な場所に保護しなければ。まずは情報を集めましょう。それから、フランコ公爵のところへ増援を!」

 オドザヤの命に、宰相サヴォナローラは恭しくうなずいた。そのまま、細かい命令を下すために宰相府の自分の執務室へ下がっていく後ろ姿を、カイエンとオドザヤは見送った。ハウヤ帝国の北方を守護するのは、主としてサウリオアルマである。その将軍はガルシア・コルテス。自治領スキュラとの国境沿いを領地とする爵位のない豪族の出身だ。

 これをどうするか、それには元帥府のザラ大将軍の意見も必要になってくるだろう。





 そして、カイエンとオドザヤはしばらくの間、二人だけでオドザヤの執務室に残された。 

「お姉様。お願いがありますの」

 しばらくして、呆然とした顔で椅子に背中を預けていたオドザヤが、カイエンの方をすがりつくような目で見た。

「はい」

 カイエンは、オドザヤの必死な様子に、やや緊張してオドザヤの前に立った。

 そして、オドザヤが次に言った言葉があまりに意外だったので、カイエンは鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まってしまった。

「いい歳をして、子供みたいにってお思いになるでしょうけれど……ごめんなさい」

「はい……」

 そこまで言ったものの、オドザヤはその後で言葉を切ってしまった。それでも、非常に言いにくいことを、だが、どうしても今、言わねばならないとでも言うように、ぎゅっと口元を引き締めると、彼女は思い切ったように言ってのけた。

「ちょっとの間でいいのです。お姉様、私をぎゅっと抱きしめて。昔、一度だけ、ミルドラ叔母様がしてくださったんです。私の母は……あの方は私を抱きしめてなど下さらなかったから」

 カイエンは、その瞬間、あまりにあまりなことに言葉を失ってしまった。

 母親のいなかった自分でさえ。

 あの、色々と問題のあった父親アルウィンでさえ。

 自分の本性を知り、おのれの忌むべき欲望に目覚めてしまうまでは、娘として抱きしめていてくれていたのに。

 この妹を、今までやさしく抱きしめてくれるものがいなかったというのだろうか。

「お父様は? サウル皇帝陛下もですか」

 カイエンはオドザヤの肩に手を回しながら、聞くしかなかった。

「……お父様は! お父様は遠い方。お亡くなりになる前にはちょっとだけ近くへいらしたけれども、それはもう、お父様が病気になってしまわれてからですもの……」

 なんてこと。

 カイエンは一人っ子として育ったから、妹への愛情など知らなかった。

 だが、リリが。リリを引き取ってから、カイエンは知ったのだった。愛しいもの、かわいいもの、おのれよりも弱いものへの慈しみを。そのために出来ることを。

 カイエンは赤ん坊のリリを抱きしめる時のように、もう、十八になった、今まではこうして腕の中に抱くこともほとんどなかった妹の体を抱きしめた。

 それは、あのオドザヤの即位の日に、あのバルコニーで彼女の背中に手を回した時などとは違い、ずっとずっと温かい心でもって。

「大丈夫、大丈夫だよ。いつでも私はこうしていてあげるから。私の妹、私の家族はもう、リリとあなただけだから」

 オドザヤはカイエンの言葉など聞いてはいなかったかもしれない。だが、カイエンの家族の中に、アイーシャの名前が入っていないことには気がついたかもしれなかった。

 娘に家族と認知されているせよいないせよ。今なお、寝たきりの皇后アイーシャの産んだのが、今やこのハウヤ帝国の皇帝と大公、そして次代大公となる、この三人の帝国の娘たちだった。

 彼女たちに課せられた重責は、彼女たちだけでは到底担えないものだった。そして、それゆえに彼女たちを支える者たちが必要だった。だからこそサウルはオドザヤを「支える者」としてカイエンを筆頭とした六人を指名したのだろう。

 だが、一人ぼっちの皇帝であるオドザヤには、もっと近しい「支え」が必要だった。






 大公宮へ帰ったカイエンが、この話をなんとなく晩餐の席で教授ことマテオ・ソーサに話すと、教授はかなり複雑な表情をして、しばらくの間、話しかけては口を閉じ、また話しかけては……というのを繰り返してから口を開いた。

「はあ。そうですねえ。それはねえ……。私にはとてもよくわかりますねえ、オドザヤ皇帝陛下のお気持ちが」

「わかりますか?」

 カイエンが肉を切りかけていた手を止めて聞くと、教授はええ、ともいいえともつかずに首を振った。

「まあ、手っ取り早く言えば、お寂しいのですよ。人恋しい、と言うんですかな。私も、この歳まで独り身の研究三昧でしたから、若い頃には覚えがありますな。私は、家族にもそれほど愛着がありませんでしたのでね。ま、歳をとって図々しくなると、いくらでも寂しさの散らし方もわかってくるんですがね。若い頃はまだ色々なことを諦めてもおらんでしたしな。私の場合には、まあ、先生も同僚も、士官学校の学生達も、それに塾の子供達もいましたしね。友人達も自分たちの家庭が大変になるまでは構ってくれましたが……。皇帝陛下にはどれもおありにならないですからなあ。お母上はあれだし、ご結婚のご予定もないし」

 カイエンも、漠然とはわかっていたのだが、こうして教授にいちいち例を挙げて説明されると、オドザヤのあの様子の中にある寂しさを、よりはっきりと実感することができた。

 そう言えば、サウルとオドザヤの父娘は、昔はどんなだったんだろう。そんなことを思いついたのは、おそらく、今朝のあの夢から気がついたことと関係があるのだろう。

 いくら、今思い出せば、「気色悪い」だけだとしても、子供の頃のカイエンには、ただ一人だけの小さな娘を猫可愛がりにかわいがる父親がそばにいたのだ。そして、それが遠ざかっても、サグラチカやアキノが精一杯支えてくれた。そして、これも最初はあの気色の悪い父親アルウィンの差し金であったにせよ、カイエンにはヴァイロンという彼女だけを唯一に見ていてくれる存在が与えられたのだ。

 だが、オドザヤには。

 サウルはカイエンに対するアルウィンとは違って、厳しいながらも、最後までオドザヤにはまっすぐに向かい合っていたように見えた。最終的に、皇子とはいえ生まれたばかりのフロレンティーノではなく、長女のオドザヤに次代を託したのは、やはりアイーシャの娘であるオドザヤは特別だったということなのだろう。そして、オドザヤだけではなく、カイエンにも次代の半分を託して行ったのは、オドザヤ一人ではこの国を支えきれないことを知っていたからに他なるまい。

「どうしたらいいのでしょうね」

 カイエンが回答を期待しないままにそう言うと、教授は少しの間、ナイフもフォークも食べかけの皿に置いたまま、考え込んでいた。

 この夜はまだヴァイロンも、ガラも帰ってきておらず、だからこそカイエンと教授は晩餐の席を囲むことになったのであったが。

「そうですねえ。まあ、私事で言えば、いつか時期が来れば解決……と言うか、人間というのはどうにかするもんなんでしょう。諦めもつきますしね。歳をとってからそれまで足りなかったものを、一気に取り戻すような出来事だってありますよ。……私も、こんな歳になってからこの大公宮に連れてこられて、娘みたいな殿下のお側で仕事をさせていただいて、息子みたいな連中に囲まれて。孫みたいなリリ様のご成長が見られるようになったんですからな。まあ、殿下。ここは……まず、あのルビー・ピカッソを一日も早く説得して、皇帝陛下のお側に一日も早く送り込むべきでしょう」

 カイエンは話の内容にも、最後の飛躍にも、ちょっと驚いたので、一瞬、反応できなかった。

 マテオ・ソーサにとっては、カイエンは娘のようなもので、リリは孫のようなもの。そして、ガラをはじめとする大公軍団の厳ついお兄さんがたは、彼の息子のようなものだと言う。それはカイエンにとっては新鮮な話だった。

 そして、話の最後に出てきた名前。

 ルビー・ピカッソ。

 それは、前にカイエンとサヴォナローラの話の中に出てきた名前でもあった。

「ものは、考えようなのだな。……それにしても、ルビーのことはどうして?」

 カイエンが聞くと、教授は何を思ったのか、皿の上の一番大きな肉片をパクリ、と口に入れた。

「ルビーは、せっかく大公軍団に入ったのに、皇宮で護衛なんかやだやだ! ってゴネてますがね。あれは殿下と同じく男前女子ですから、今のオドザヤ陛下を見たら、同情してころっと行きますよ」

 男前女子。それはなんだ?

 カイエンはびっくりして、手が滑り、がちゃんと音を立ててしまった。

「ああ、ああ。わかっていますよ。殿下もルビーも、いくら男前で女に受けても、好きなのは男でしょう? だからオドザヤ陛下は安全です。まったくもう、殿下もルビーも、自分は女らしくもなくて男前のくせに、男らしくて単純な、筋骨隆々、お姫様を一生お守りします的なのが好きなんですよ。わかっています。私みたいな色恋には関係なく生きてきた者だからこそ、わかるんです。ルビーにはまだ、殿下のヴァイロン君みたいなのは出来てないみたいですがね」

 カイエンはもう、声も出なかった。教授に言わせれば、自分とあのルビーは同じカテゴリーに入る「男前女子」なのだ。

「色恋無縁のおっさんが、この際、予言してみせましょう! ルビー・ピカッソは皇宮で見つけますよ。あの子を、あの普通の男じゃ太刀打ちできないような、性格も実力も男前な娘をとろとろに溶かしちまうようなのにね。ええ、これは予言です! 楽しみに未来を見ていてくださいよ、殿下!」


 フォークを皿に落としたきり、動けなくなってしまったカイエンの目の前で、マテオ・ソーサは本当に美味しそうに残りの料理を平らげていく。

 カイエンが食事を再開できたのは、しばらくしてヴァイロンとガラが一緒に部屋に入ってきた時のことだった。

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