太陽の娘と星の番人

 先帝サウルの葬儀と埋葬の翌日。

 六月。そして日にちはまさに夏至の日。

 その日は、「夏至祭」の祭日でもあった。

 一年間で一番強く、そして長く、太陽の光が降り注ぐ日。

 その「太陽ソル」をその名前に戴く、ハウヤ帝国第一皇女、摂政皇太女オドザヤ・ソラーナ・グラシア・デ・ハウヤテラは、皇宮の海神宮にて、大広間を埋め尽くす貴族たち、そして近隣諸国の外交官たちなどの見守る中を、海を背中にした大扉から堂々とした姿で入場し、壇上に上った。

 そのすらりとした姿を彩るのは、深海の冷たさを秘めた、深くも鮮やかな青藍アスール・ウルトラマールの大礼服。六月という季節柄、大礼服の上に着た、銀地に黄金で海神オセアニアを象徴する、波の文様を一面に縫い取ったマントに毛皮の飾りはないが、その代わりに色鮮やかな海鳥の羽が飾られていた。

 それは、一昨年の立太子式の折の姿を彷彿させたが、一つだけ違っていたのは、オドザヤの頭に載せられている「皇太子の冠」である。

 そして、これまた以前とは違っていたこと。それは、一昨年の立太子式の折には、壇上に上がるオドザヤを待っていた、サウルとアイーシャの両親の姿がないことだった。

 サウルはすでに先帝と呼ばれ故人となり、そして母の皇后アイーシャ、彼女は今日からは皇太后と呼ばれる存在になるのだが……は去年の十二月に皇女リリエンスールを出産してから寝たきりだ。

 彼らの代わりに、壇上で待っていたのは、帝都の各神殿の大神官たち。

 その中で、このハウヤ帝国皇帝家の氏神である、海神オセアニアと、先祖である、シイナドラド皇国ゆかりの、アストロナータ神殿の大神官が進み出る。

 見守る大公カイエン以下の前で、オドザヤはしっかりと顔を上げ、正面にそびえる海神オセアニアの壁画に向き合った。その顔にはやや緊張の色は見えたが、琥珀色の瞳は生き生きと輝き、迷いも恐れも、その表情からは感じ取れなかった。

 そして彼女は、海神オセアニアとアストロナータ神殿の大神官の手で、皇太子の冠を恭しく取りのけられ、代わりに、皇帝の冠をその黄金色の、この日のために高く結い上げた髪の上に戴冠した。

 その見るからに絢爛豪華で重厚な、そして実際に、女性の細い首で支えるには重すぎる黄金作りの皇帝冠の重みを、この時、オドザヤはその心身ともで実感していたことだろう。



 第十九代ハウヤ帝国皇帝オドザヤ・ソラーナ・グラシア・デ・ハウヤテラ即位す。


 それは、皇宮の鐘楼から響き渡った鐘の音で帝都ハーマポスタール中に知らしめられ、追いかけるようにすべての神々の神殿の鐘が鳴った。

 港に停泊している艦船からは、先帝サウルの戴冠の時にはまだ装備されていなかった、大砲による祝砲があげられた。

 その、オドザヤの即位を知らせる音は、帝都ハーマポスタールの広い街の中をこだまし、西の海の果てまでもハウヤ帝国の新しい時代を知らしめるように轟きわたった。

 帝都の読売り各社は、すぐにすでに印刷の済んでいた号外を発行。

 広場では、新帝の誕生を祝う市民たちが、こぞって号外を配る男たちの周りに群がった。昨日の先帝サウルの葬儀の日の静けさが嘘のように、街の中は喜びに溢れかえっていた。まるで、この日のために昨日一日、皆が息を潜めていた、とでも言うように。

「御即位おめでとうございます! オドザヤ陛下万歳!」

「お美しい皇帝陛下に祝福を!」

「太陽の女神の降臨だ! 夏至祭の日に、なんと畏れ多いことだ!」

「新しい時代は、きっと太陽みたいに明るい時代になるに違いない!」

「ありがたい! ありがたいねえ。兎にも角にも、オドザヤ女帝陛下万歳!」

「今日は祭だ! 歌え! 踊れ! 酒も無礼講でよろしいとのお達しだ!」

 吟遊詩人や大道芸人たちが、広場で芸を始める。通りの商店は昨日と反対にそのすべてが店開きし、いつもとは違った、祭りの食べ物や特別な商品を店先に並べている。

 オドザヤの即位を、サウルの葬儀の翌日にしたのは、今までの先例に習ったことだったが、この即位の日が「夏至祭」の日に重なったのは、偶然ではなかった。

 もちろん、先帝サウルの死が約一ヶ月前だったのは偶然だ。だが、その葬儀を夏至祭の前の日に設定し、夏至祭の日にオドザヤの戴冠式を持ってきたのは、こういうことには周到な宰相のサヴォナローラと、老獪なザラ大将軍の意見が一致したからであった。

 彼らは事前に、新帝として立つオドザヤの名に「太陽ソル」の女性形であるソラーナがあることを喧伝し、オドザヤが「太陽に愛された女帝」であることを演出しようと企てたのだ。

 実際のところ、平民出身の皇后アイーシャの娘であるオドザヤは、もとから一般市民には人気があった。

 アイーシャの真実の人となりは、あまり褒められた性格ものではなかったが、彼女は、おのれの美しさ、正しさを誇ることだけには狡猾なまでに頭が働いた。だから、「庶民出身の華やかで最高に美しく、そして慈悲深く貞淑な皇后」の仮面を、アイーシャは用心深く被り続けてきたのであった。彼女は人気取りのために、慈善活動にも熱心な体を装い続け、そのために皇宮を出て各地を訪問することにも熱心だった。

 オドザヤ自身は、未婚の皇女であったこともあり、今まであまり皇宮の外部に出ることはなかったのだが、これも宰相サヴォナローラの勧めで、立太子して以降は身重のアイーシャの代わりに同じような活動を始め、市民の前に出るように心がけていた。

 母の皇后アイーシャにそっくりな、光り輝くような美貌。それにアイーシャと違って皇女として生まれ、皇女として育てられたオドザヤには、アイーシャにはない「真に高貴であることを、常に求められながら育ってきた」人となりと身のこなしがあった。

 欲がなく、慎ましく、おっとりとしてはいるが毅然とした態度。相手の目を静かに見つめ、話をゆったりと聞き、どんな返答が戻ってきても、決して慌てたりしない。美しい顔に浮かべた微笑みも、あらかじめ用意された演技ではないので、相手の心にしっとりと染み渡る。

 オドザヤの生来の生真面目な気質や、優しい性格もあって、オドザヤの人気は瞬く間にアイーシャに取って代わっていた。

 こればかりは、いくら宝石と豪奢なドレスで着飾っても、皇后として十余年を過ごしても、アイーシャには遂に身につくことがなく、演じることも出来なかった種類のものであった。

 ハウヤ帝国初の「女帝」を戴くことに、内心ではモヤモヤしたものを抱えていた市民もいただろう。だが、もはやそれを表に出せるような雰囲気ではなくなっていた。

 そういう意味では、オドザヤ個人の性質を、ありのままに利用できたサヴォナローラは幸運だっただろう。保守派のモリーナ侯爵たちには元老院の「大議会」召集の請願書を出させてしまったが、それも一般に知れ渡れば、「太陽の女帝」を認めぬ保守勢力の足掻き、と見られていく公算が大きかった。

 歴とした皇子のフロレンティーノがいることも、皮肉なことだがオドザヤの即位を歓迎するムードに一役買っていた。

(今は女帝を戴くことになるが、次代には皇子が控えているのだから大丈夫だ)

 という考え方が出来たからである。

 実際にはフロレンティーノ皇子はオドザヤの「推定相続人」とされたので、次代の皇帝として確立されたわけではなかったのだが、それとてこの時代の庶民たちの感覚からすれば、当然のことだったのかもしれない。フロレンティーノ皇子はまだ一歳にもならぬ赤子なのだ。この時代、子供が成人できる確率は、身分の上下の差はあれども、そう高くはなかったから。




「陛下、そろそろバルコニーへ御出でになるお時間でございます」

 侍従がそう言って、扉を開けるまで。

 オドザヤは戴冠式の後、海神宮の大広間から下がり、控えの間で休んでいた。

 そこには、次に行われる、皇宮の前の大広場に面した高いバルコニーからの、国民への挨拶のため。共にバルコニーに上がる人々と、その後ろに控える人々が、それぞれの立場に応じた場所で静かに佇んでいた。

「あら。もうそんな時間? これではほとんど休んだことにはならないわね」

 そう、いつもの調子で答えたのは、オドザヤの叔母であるクリストラ公爵夫人ミルドラだった。

 兄のサウルが亡くなり、弟のアルウィンもまた五年以上前に死んだことになっている。皇后のアイーシャが寝たきりの今、新帝オドザヤの「親代わり」と言えば、もう彼女一人しかいなかった。降嫁して公爵夫人になっているとは言え、ミルドラの存在は最近急激に大きくなって来ていた。

「では、伯母樣、お願いします」

 そう言って、並んでソファに座っていたミルドラの腕に、赤ん坊のリリエンスール皇女を手渡したのは大公のカイエンだった。カイエンの隣にはエルネストが、ミルドラの向こうにはクリストラ公爵ヘクトルが座っている。

 皆、それぞれの身分に応じた、最大級の華やかな礼服に身を包んでいた。カイエンはこの日のためにノルマ・コントに誂えさせた、珍しく足元までを覆う丈の大公の黒に近い紫の大礼服姿だった。

 それは、男性の大公の礼服に準じた形のもので、シイナドラドへ赴いた時に誂えたものと似た、女性が着るには堅い形のものだった。だが、意匠はもっと洗練され、前面の金銀の刺繍はより華やかに、首元と袖口から溢れた真っ白なレースも長く、泡立つように繊細なものが使われていた。そして、この日のカイエンは、この日の主人公であるオドザヤと同じように、その紫がかった黒の髪を、高く巻き上げて結っていた。だが、その身を飾る装身具は、ヴァイロンの「鬼納めの石」である紫翡翠の耳飾りと指輪だけだ。それがかえって、彼女の生真面目さと実直さを表しているように見えた。

 だが、服の中。その胸元には、あの「星の指輪」が鎖で首からかけられて隠されている。

 カイエンやミルドラが海神宮での戴冠式に出席している間、リリはカイエンの乳母のサグラチカが別室でみていた。新帝である姉のオドザヤと共にバルコニーへ出るときには、本当なら養い親のカイエンが抱いて出るべきなのだが、杖で片手の塞がる彼女にはそうすることは出来なかった。だから、今日も昨日の葬儀の時と同じく、叔母のミルドラが抱いて出ることになっていたのである。

「マグダレーナ様、そちらはよろしくて?」

 ミルドラの向かい側のソファには、フロレンティーノ皇子を抱いた第三妾妃のマグダレーナ。そして、その左右には第三皇女のアルタマキアと、その母の第二妾妃のキルケ、それに祖国ネファールの王太女となったカリスマと引き離され、寂しそうに目を伏せるばかりの第一妾妃のラーラが座っていた。三人は、ともに色味は違えど、落ち着いた色の大礼服を纏っていた。

「……はい。おお、フロレンティーノ、ちょっとの間、大人しくしていてね」

 マグダレーナは、ややぐずり始めたフロレンティーノ皇子をなだめながらそう言うと、ちらっとカイエンとミルドラ、それにミルドラの腕の中から、カイエンの方へご機嫌に手を伸ばしているリリの方をちらりと見た。

「リリエンスール様は大人しくて、本当に聞き分けのよいお子ですのね。昨日も今日も、いつもご機嫌よくしてらして、なんだか中に大人の方が入っておられるみたい」

 マグダレーナはそう言ったが、自分でも変なことを言ってしまったと思ったのだろう。すぐに慌てた様子で付け足した。

「あら、私ったら、変なことを申し上げてしまって……。フロレンティーノはちょっと癇が強い方みたいで毎日、大変なので……」

 これには、カイエンは一瞬、なんと答えるべきかと迷ったが、そこはさすがに年の功で、ミルドラが鷹揚に応じてくれた。

「まあ、そうなの。このリリは確かにこの通り、おとなしい子ですけれどもね。ここにいる大公殿下や陛下が赤ん坊の頃は、夜泣きが酷くて大変だと乳母がこぼしていましたよ」

 陛下。

 ミルドラはなんでもないことのように言ってのけたが、今、この部屋の中で「陛下」といえばオドザヤをおいて他にはない。このハウヤ帝国全土を見渡しても、「陛下」と呼ばれるのは今、オドザヤと、そして寝たきりの皇后、いや、今日からは皇太后となったアイーシャの二人だけなのだ。

 その時、ミルドラの横から、夫のヘクトルの遠慮がちな咳払いが聞こえなかったら、女たちはまだ無邪気な赤子談義を続けたのかもしれない。だが、ミルドラはすぐに気がついた。

「あらあら。小さなかわいい、孫みたいな子供が二人もいると、今日がどんな日かも忘れてしまうわね。……陛下、申し訳ございません」

 そう言って、ミルドラはリリを抱いてすぐに立ち上がった。それをさりげなく、ヘクトルがミルドラの肘を支えて助けている。確かにヘクトルやミルドラくらいの歳になれば、孫がいてもおかしくはない。

「ええ。では、参りましょうか」

 カイエンが立ち上がろうとすると、自分たちの横に座っていた、馴れ初めから現在に至るまで、正しく歴史を刻んできた熟年夫婦の様子をずっと見ていたらしい、カイエンの「形だけの夫」が小憎らしくも手を貸してきた。

 彼は昨日も今日も、余計な口をきかずに大人しくしているので、あの悲惨な結婚式に立ち会った、ミルドラとヘクトル、それにサヴォナローラとザラ大将軍あたりの目線も、生ぬるくも優しい。昨日の葬儀の後、カイエンはミルドラに、皮肉たっぷりにこう言われたものだった。

「カイエンたら、あのいやらしいシイナドラドの暴れ馬を、上手く飼いならしたじゃないの。大議会の時にうちの控え屋敷のあずまやで、ごそごそ話してたのがそうなのかしら?」

 エルネストは、彼がこの国へ来た時、病床にいたサウルの代わりに応対したオドザヤへは、もうとっくに挨拶を済ませていたし、妾妃たちにも昨日の葬儀の前に挨拶していた。だから、マグダレーナたち、三人の未亡人は、カイエンたちの様子を興味深げに眺めていた。

 カイエンとエルネストの真実を、どこまで知っているの分からない彼女たちの無遠慮な視線を感じ、カイエンは体がむず痒くなるような気持ちがした。だが、気持ちをそらすように立ち上がり、エルネストの手を素っ気なく見えない程度にさりげなく離すと、カイエンはミルドラの腕の中のリリに目を向けた。

 赤ん坊には恐らく珍しい方なのだろう。リリは人見知りというものを全然しない。大公宮の男どもの誰にも最初から懐き、親しむ様子は、あのイリヤをして、

(あの子は、細かいことはきっと気にしない子になると思うけどなあ。生まれたばかりの赤ん坊なのに、なんだか落ち着き払ってるもん)

 と言わしめたほどだ。

 カイエンが一緒にいれば、ほとんど泣くこともない。カイエンはあの「夢」の中でのことがあるから、リリとはどこかで繋がっているからだろうと単純に思っていた。もしかしたら、リリの半分はカイエンの、この世に生まれてくることなく死んだ娘なのかもしれないのだ。それに、体の中に「蟲」という不思議な寄生器官を持っているということでもカイエンとリリは共通している。

「リリはいい子だな」

 思わず、いつものようにリリに声をかけてしまってから、カイエンははっとした。ここはそんな風に気を緩めてもいいような場所ではなかったからだ。

「陛下、参りましょう」

 カイエンは皇帝となったオドザヤの横まで歩くと、オドザヤの斜め後ろに立った。未婚のオドザヤの手を引いてくれる者はまだいない。たった十八の彼女は一人でバルコニーへ出て行かなくてはならないのだ。

 バルコニーに出られるのは、新帝オドザヤとその血の繋がった家族と親族の中でも主だった者だけだから、宰相のサヴォナローラやザラ大将軍がエスコートするわけにもいかなかった。クリストラ公爵夫妻の娘たちは、他の貴族たちと同じく、夜の晩餐会に備えるために皇宮の控え屋敷へ下がっているはずだ。

 宰相と大将軍、それにフランコ公爵夫妻は、バルコニーの後ろに控えることになっていた。彼らは先帝サウルにオドザヤを助ける者として、彼女の立太子式で指名されている者たちだからだ。同じ公爵でも、バンデラス公爵の姿だけはない。

「はい、お姉様」

 オドザヤは皇帝となっても、カイエンのことを「お姉様」と呼び続けるつもりらしい。

 青藍アスール・ウルトラマールの、わずかに色味の違った幾重にも重なった絹地が波のように下半身を流れる、張りのある布地のドレスは、すっきりと細くて伸びやかなオドザヤの肢体を強調したものだった。

 その胸元はやや開いた意匠で、そこから覗くのはカイエンの礼服にも共通する真っ白なレースだ。柔らかで繊細なレースは、この時代の流行では、あまり強く糊を効かすことはなく、自然に見せる形だった。

 そのレースの胸元に光り輝くのは、恐らくはアイーシャの持っていた物の中から選んだのだろう。サウルがアイーシャのために探してきた、歴史上でも最大級の青い金剛石ディアマンテを中心として、透明なたくさんの金剛石ディアマンテスを細かい金色の鎖でつなぎとめた、この国の至宝とも言える素晴らしい首飾りだった。

 恐らくは、その輝かしくも豪奢な首飾りの下には、あのサウルから受け継いだ「太陽の指輪」が別の鎖で首から下げて隠されているはずだ。

「こちらでございます」

 オドザヤとカイエンを先導するのは、今日付で皇帝オドザヤの女官長となった、コンスタンサ・アンヘレスの糸杉のように厳しい長身だ。

 そして。



 ……。


 バルコニーへ出た時。

 一瞬。

 カイエンもオドザヤも、そしてカイエンのすぐ後ろを歩いていたエルネストでさえも。

 六月の真昼の、それも夏至祭の日の太陽の明るさに、真っ白に弾けた光の洪水に、誰もが目が見えなくなっていた。

 その瞬間。カイエンたちは眩しい光の中に世界を掴み損ねたように、動けなくなっていたのだ。

 そこへ。


「おおおおおおおおおおおおおおおお」

 聞こえたのは、見えない眼下の広場から駆け昇ってきた、凄まじいばかりの声のとどろきだった。

「あぁっ」

 真っ先にバルコニーに出たオドザヤが、悲鳴のような小さな声を発するのを聞いた時、やっとカイエンは現実に戻ってきた。

 そこへ被さってきたのは、凄まじいまでの歓呼の声だった。 

「おお! 我らが娘! 我らが女神!」

 轟く叫び。

 そして、その次の瞬間に聞こえてきたのは。


「オドザヤ! オドザヤ! 我らが娘! 我らが女神! 太陽の娘よ!」


 それは、なんという声だっただろう。

「オドザヤ! オドザヤ! オドザヤ! 太陽の娘よ! 新時代の女神よ!」


 今や、その声は皇宮のバルコニー前の広場に集まった、幾千もの市民たちの声となっていた。

 カイエンは瞬時に冷静になった頭の中で、サヴォナローラのすまし顔を呪っていた。

(やりすぎだ! バカ!)

 実際のところ、この熱狂がサヴォナローラの意図したままであったのかどうかはわからない。

 だが、バルコニーに出かかったまま凍りついたように動けないオドザヤを、カイエンは助けなければならなかった。

「陛下!」

 カイエンは左手に突いた銀の握りに黒檀の杖に力を入れ、この際は仕方がないと、オドザヤの横に並んだ。

「さあ! バルコニーへ出て、市民たちの声に答えるのです!」

 そう、オドザヤを促した声が、あまりに落ち着き払っていたので、カイエンには自分の声ではないように聞こえたほどだった。

 ちらりとカイエンが目を回した先で、女官長のコンスタンサが、必死な目でこっちを見ているのがわかった。皇帝の臣下でしかない彼女はオドザヤを助けたくとも、バルコニーには出られないのだ。

「いや! お姉様、怖い! あの叫びを聞いて! 私、あの人たちに答えるなんて……」

 オドザヤはカイエンが横にやってくるなり、自分よりも背の低いカイエンの胸元に顔を埋めて泣き声をあげた。

「怖いわ。怖い! 私は女神なんかじゃない! 私はあの人たちの求めるような……」

(そんな大それた者じゃないの!)

 カイエンは、オドザヤがすべて言い終わるまで待ってなどいなかった。

 ……嗚呼。かわいそうな妹。

 あの歓呼の声に答えるのは、十八の娘には酷なことだろう。

 だが、ここまで来ては、もう、お前も私も引き返す道などないのだ。

 私は、お前をこの新しい時代に売り渡すよ。

 カイエンは、この時ほど、自分があのアルウィンの娘であることを実感したことはなかった。

 卑怯者。

 自分は決して矢面に立たない卑怯者!

 嗚呼、それが私だ。

 私はやっぱり、あのアルウィンの娘なのだ! 最後まで、王者であったサウルの娘のオドザヤとは違うのだ。

 カイエンは、空いている右手でオドザヤの腕を掴むと、彼女特有の非常時に発揮される凄まじい力でもって、彼女の妹を、六月の真昼間の、真っ白に燃え上がった過酷な現実世界へと引っ張り出した。

 意を決して出てみれば、世界は真っ白なだけではなかった。

 少なくとも、残酷極まりない獄吏のように、妹のオドザヤを民衆の歓呼の前へ無理矢理に引き出した、カイエンがその時見たのは、六月の夏至の太陽の照りつける、真っ青な空の下の鮮烈な、だが現実に起こっている生きた世界の姿だった。


「あああああああああああーーーーーーーーッ」

 オドザヤとカイエンの姿が、バルコニーの手すりの前まで出てくると、市民たちの声は悲鳴に変わった。

 バルコニーの手すりの前まで、カイエンはオドザヤを右手に引っ掴むようにして進んで来ていた。

 カイエンもオドザヤも後ろを気にするゆとりなどなかったが、彼女たち二人の後ろには、彼女たちほどには繊細でもクソ真面目でもなかった面々が、驚きを顔に刻みながらもついて来ていた。

「あ、あ、ああ……」

 普段のオドザヤなら、カイエンの足が悪いことを知り抜いているから、カイエンに体重を預けてくることなどない。

 だが、この時のオドザヤは全身でカイエンに抱きつきたそうな様子に見えた。

「オドザヤ! オドザヤ! オドザヤ! 太陽の娘よ! 新時代の女神よ!」

 だが、市民たちの声は、一人、オドザヤのみに対してだけでは止まらなかったのだ。


「おお! 我らが守護パトロナ、カイエン! 我らが番人グアルダ、カイエン! 太陽の娘を守り給え! この街を我らを守り給え!」


 そう叫ぶ声を聞いた時。カイエンもまた、オドザヤ同様に混乱しかけた。

 だが、カイエンは踏みとどまるしかなかった。これが、あの宰相サヴォナローラの仕掛けだとしても、もう、これは始まってしまったことなのだと理解していたから。

「おい、カイエン! しっかりしろ」

 オドザヤへの歓呼の声だけならともかく、カイエンへの民衆の歓呼に、さすがに心配になったらしい。エルネストの声を背後から聞いて、カイエンは無理矢理に自分を立て直した。

「……大丈夫だ」

 カイエンは短く答えると、もう、周りがしっかりと見えるようになっていた。

 驚いた顔つきなのは、三人の妾妃と、第三皇女のアルタマキア。だが、ミルドラとヘクトルのクリストラ公爵夫妻の顔は冷静だ。ミルドラはバルコニーの入り口で固まっている三人の妾妃とアルタマキアを差し置いて、すっとカイエンの横に寄り添って来たくらいだった。

「大公殿下、そして陛下!」

 ミルドラは、リリを抱いたまま、オドザヤのうつむきそうになる顔を覗き込むようにした。

「皇帝陛下。あの歓呼の声に答えられませい! さあ! ……ハーマポスタール大公殿下! 陛下をお助けし、歓呼に答えてくださりませ!」

 そして、ミルドラの口から出て来た言葉は、あまりにも苛烈なものだった。

「伯母様、大丈夫です」

 カイエンはそう言うと、にこやかな笑顔を眼下の市民たちへ向けた。そして、オドザヤの青藍アスール・ウルトラマールのドレスの背中に回した右腕にぐっと力を込めた。そうすると、ドレスの下に固いコルセットの締め付ける体を感じた。その体を、今度こそカイエンは時代の作り出した現実の中に、無理矢理にでも押し出すしかなかった。

「皇帝陛下。さあ、あの歓呼の声を上げる市民にお答えください。ああして、陛下の御世の始まりをことほぐ民衆に、その輝ける笑顔をお与えください。その微笑みで、この街を、この国を包み込み、守っていくと、皆にお示しください」






 その夜。

 オドザヤの即位した日の夜。

 カイエンが大公宮へ帰り着いたのは、もう真夜中をとうに超えた時刻だった。

 バルコニーで、市民たちの歓呼の声に答えたのち。

 海神宮の「青藍アスール・ウルトラマールの間」での晩餐会があった。そこに招かれていたのは、爵位を持つ貴族たちと、近隣諸国、そして螺旋帝国の外交官たちなどであった。その頃には、新帝のオドザヤも落ち着きを取り戻していたので、カイエンもやや力を抜いていることができた。

 もっとも、昼間に市民たちの歓呼の声を聞かされた貴族たちの「お追従」には辟易させられたけれども。

「ただいま」

 だから、真夜中にエルネストと二人、馬車で帰って来たカイエンは疲労困憊していた。

 リリの方はバルコニーでのお披露目のあと、先に帰していたから、大公宮の奥の玄関前に馬車が停まった時、そこに迎えに出ていたのは、この大公宮の奥に潜む例の男たちだけだった。

「おかえりなさいませ」

 いつものように、どんな時間でもきっちりと執事の黒い服を隙なく着こなしたアキノ。

 その後ろには、今日はヴァイロンだけではなく、大公宮の後宮の面々も居並んでいた。

「ああ。今日は大変でしたねえ、殿下。……さっきまで、黎明新聞のウゴが来ていたのですよ」

「……兄者が、なにやら仕込み過ぎたとか聞いている」

 そう言って、なぜかヴァイロンよりも先に前に出て来たのは、マテオ・ソーサとガラの変な組み合わせだった。

 大公軍団最高顧問のマテオ・ソーサは、この大公宮の後宮に収まってから、年二回の新規隊員の選考から訓練、そして帝都防衛部隊の訓練まで、幅広く活動を展開している。

 宰相サヴォナローラの弟のガラの方も、こっちはここの主である大公のカイエンでさえも、その行動範囲は把握しきれていないままだ。だが、ザラ大将軍のところから回って来た、北のナシオと南のシモンの二人の影使いと連携して、大公宮の安全に勤めていることは間違いないだろう。

「そうですか。……ウゴの黎明新聞も一枚、噛んでいたのですね」

 ホアン・ウゴ・アルヴァラードは、元は教授ことマテオ・ソーサの私塾の弟子で、今は黎明新聞の記者として活躍している。

 カイエンが、昼間のバルコニーでの市民の異常な歓呼の様子を思い出しながら尋ねると、マテオ・ソーサは申し訳なさそうに顔を伏せた。彼がこんな様子を見せるのは珍しいことだ。

「……なんだ? しゅんとするなんて、らしくねえなおっさん」

 今日は、カイエンの後から馬車を降りて来たエルネストが揶揄すると、すぐに彼の侍従のヘルマンが前に出て来て、エルネストの腕を取った。

「エルネスト様。ヴァイロン殿と若干の和解を見たと言っても、急にお身内のお話に首をつっこむべきではございません。……もう、夜も遅いのですから、さあさ、こちらへ」

 そう言うと、ヘルマンはまるで猫の子でも引っ張っていくように、エルネストの腕と大礼服の襟元を掴んで後宮の方へ引っ張っていく。エルネストも疲れていたのか、あまり逆らわずに引っ張られて行った。カイエンは、大柄で丈夫そうなエルネストでさえ疲れたと言うのなら、自分の疲れもむべなるかな、と達観した気持ちになった。

 だから、エルネストとヘルマンの後ろ姿を見送りながら、カイエンは思わず呟いていた。

「まあ、この大公宮の中だけでも落ち着く方向に向かってくれて、心底ありがたいな」

 と。 

「カイエン様、もう遅いですが、何か召し上がりますか」 

 そんなカイエンに向かって、自分の職務に恐ろしく忠実な質問をして来たのは、もちろん、執事のアキノだ。

「うん。そうだな、もう夜中だが、晩餐会ではあまり飲み食いできなかった。何か、軽いものを用意できるか? 先生たちのぶんも。そうだな、ちょっとした酒とつまみのようなものがいいか……なんだか、すぐには眠れそうにないから」

 カイエンがそう言うと、途端にマテオ・ソーサとガラが申し訳なさそうに何か言いかけて、黙った。こんな玄関先で話す話でもない、と言いたいのだろう。

 その時になって、初めてヴァイロンがカイエンのそばにやって来た。

「ん? どうした」

 カイエンがかなり上の方にある彼の顔を見上げると、ヴァイロンは精悍な顔に、諦めの表情を浮かべた。

「いいえ。今日は本当に大変だったとうかがいましたので、早くお休みになっていただきたいのですが。それでも、今日できることは今日のうちにお済ませになっておかれた方がよろしいでしょう」

 おい。

 カイエンは自分の耳を疑いたくなった。

 こいつ、こんなことを言う男だったっけ。

 カイエンには意外だったかもしれなかったが、それは、変化していくのは一人、彼女だけではないと言う事なのかも知れなかった。


 そして、カイエンの居間に集まった、ヴァイロンにマテオ・ソーサとガラの話は、アキノの手によって準備された、強い蒸留酒の壜と、小洒落た酒のつまみを囲んだものとなった。

「え? 酒とは言ったが、それがこれか?」

 カイエンは、目の前に置かれた、本来なら彼女のような「貴婦人」などが飲むようなものでない蒸留酒の壜を見とがめたが、アキノの答えは素っ気ないと言えるようなものだった。

「醸造酒や果実酒は、深夜にお飲みになると悪酔いされます。……レモンとライム、それに冷たい水を用意致しましたので、適当に調整してお飲みください」

 そう言うと、アキノはヴァイロンに目配せしてさっさと下がってしまった。

 テーブルの上のものは片付けなくていいと言い置いて。

「あー。でもまあ、これは美味そうだな」

 カイエンは大きな皿に幾種類も盛られた、酒のつまみを嬉しそうに眺めた。燻製された生ハムに、各種のチーズ、オリーブの実の塩漬け、季節の果物。それに別皿には熱いにんにく油で熱したエビや海産物、ふっくら煮込んだ夏野菜もあった。そして、表面を香ばしく炙った薄切りのパン。

 実のところ、朝こそはこの大公宮でしっかりと食べられたが、昼からはろくに飲み食いも出来なかったのだ。

 カイエンは、さっそく取り皿に料理を取って食べ始めた。それを見ながら、ヴァイロンとガラは黙ってグラスに適当な濃度の飲み物を作り、各々の主人の前に置く。

「みゃーぅ」

 カイエンの足元から猫の声が聞こえ、ミモがぴょんとカイエンの座っているソファの横に乗ってきた。

「おや。ミモじゃないか。……今日は変態皇子様のお部屋には行かないのか?」

 カイエンがミモの顎の下を撫でながらそう言うと、横でヴァイロンが心底、嫌そうな顔をした。昨晩、一応は話し合いを持つことは出来たが、彼としては、あのエルネストを全面的に認めることなど到底できはしない。カイエンがエルネストのことを、軽い口調で言うのにも心が騒いだ。 

 そうして、いくつかの問題を飲み込んだまま。

 美味しいつまみをつまみながら、強い蒸留酒を適当に薄めながら、カイエンが教授やガラから聞いた話は、昼間、カイエンが想像した疑惑とそれほど食い違ってはいなかった。だが、事実としての連なりでは十分に彼女を驚かせるものでは、あった。

「いえね。サヴォナローラ殿も、これほどまでに効果が出るとはお思いにならなかったのでしょう。何せ、たかが肖像画のことですからな」

 マテオ・ソーサが言うには、宰相サヴォナローラが、帝都の各読売りに提供した事実は、たった二枚の詳細な肖像画だったのだと言う。

「宰相さんが、うちの“メモリア”カマラに、殿下の肖像と、オドザヤ……ああ、もう皇帝陛下とお呼びせねばなりませんな、の肖像を描け、と言ってきたんです。カマラは殿下の顔はもうよく知っていますから、そっちはサラサラと描いて。皇帝陛下の方は宰相さんが皇宮へ呼び寄せて、一瞬だけ見せて描かせたんですよ」

「ああ……」

 カイエンは、レモンで割った蒸留酒を、他のグラスに注がれたレモン水と一緒に流し込みながら、呻き声をあげるしかなかった。大公軍団治安維持部隊の秘密兵器、“メモリア”カマラは、一度見たものは忘れない。それどころか、それを詳細なスケッチに描き起こす能力を持っているのだ。

「……もう、お分かりでしょう。オドザヤ皇帝陛下の肖像画はとんでもなく美しい、太陽の女神のように光り輝く、清廉で無垢なる美女。そして、殿下の方も神殿のアストロナータ神の神像みたいに、厳正で神聖な感じのする……まあ、絶対に悪いことなんかしそうにない、高貴で実直純粋なお顔に描かれていたそうです。それを、帝都中の読売りに流したってんですから……」

 カイエンはそれでも不審な思いがしたので、聞いてみた。

「だが、そのう、カマラが描いたのはスケッチでしょう? それを、そのまま読売りに印刷して発行することなど出来まいに。それなのになんで……」

 カイエンの疑問を聞くと、今度はガラが口を開いた。さっきから強い蒸留酒をぐいぐい流し込んでいるが、酔った様子はない。

「黎明新聞がこの頃、抱え込んだ銅版画の絵師がいる。そいつの腕が凄まじいものだそうで、カマラのスケッチを形も印象も、そのままに仕上げて印刷工房に回したそうだ」

 絵の入った新聞の印刷は金のかかるものだろうが、銅版画の出来を見て、各社揃って大増刷をかけたのだと言う。


 その時。

 カイエンの横に座ったでかい男の喉から、苦渋を飲み込んだような声が聞こえてきた。

「殿下の詳細な肖像を、帝都中にばら撒くとは……」 

 え?

 カイエンとマテオ・ソーサは、びっくりしてヴァイロンの顔を見たが、ガラ一人だけは神妙な顔でうなずきながら、なおもぐいぐいと強い酒を煽っていた。

「……腹立たしい。腹立たしいことです。これからはこれまでにも増して、殿下の周囲に気をつけなければ……」

 そう、呟き続けるヴァイロンの顔は、本当に至極真面目なものだったので、カイエンもマテオ・ソーサも一言も口を挟めないまま、その夜はお開きとするしかなかった。  


 


 


 そして。

 第三皇女のアルタマキアが、母である第二妾妃キルケの故郷、自治領スキュラの後継となるべく旅立ったのは、オドザヤの即位から僅かに一週間の後のことであった。

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