阿呆船 3

 あれはいつのことだったか。

 あれは、彼ら二人が、幸せな恋人たちであった、あの飴色に霞んだ時代のことだ。

 彼ら二人の会話は、たわいもないものばかり。

 それでも、彼はその会話を退屈だと思ったことはなかった。



 ……リリエンスール? それって妖精王の?

 そうだよ。

 あら、私その話、知ってるわ。「白い百合の花開く谷」のお話でしょ。白百合リリオの王リリエンスール。

 おや。この話は絵本だの読み本だのにはなっていないと思ってたけど。

 本で読んだんじゃないの、祖母に聞いたのよ。祖母は昔話をたくさん知っていたから。

 へええ。お祖母様はまた、古い物語を知っていたもんだねえ。

 ふふふ。祖母は刺繍の名人で、皇宮の注文品の布地の刺繍を任されていたくらいなの。

 手先が器用で、頭が良くて、色々なお話をしてくれたわ。

 おいおい、刺繍と物知りとは関係ないよ。

 そうでもないわよ。刺繍の絵柄は古い古い時代から伝わってきた文様なの。

 へえ、そうなの?

 そうよ。代々の女たちが語り伝えてきた話がたくさんあるのよ。

 それにしても、リリエンスールの物語をねえ。

 でもちょっと変ね、リリエンスールのリリ、は百合リリオでしょう? でも、菖蒲アイリスのこともそう言うんじゃない?

 おかしくないよ。リリオって花は二つあるんだ。

 あら、そうなの。

 そうだよ。一つは妖精王リリエンスールの名前と同じ、百合で、もう一つは菖蒲アイリスのことだ。

 ええっ。菖蒲アイリスと百合じゃ、色も形もが全然違うのに……。

 ははは。そうだね、昔の人はいい加減だから!



 若い恋人たち。

 男は紺色がかった黒髪で神殿の神像のような整った顔立ち。灰色の目も、まだその輝きを失ってはいなかった。

 女の方は黄金の髪に、琥珀色の瞳。咲き誇る夏の花のような華やかな美貌。

 のちに、「宝石の君」と呼ばれた彼女だったが、その時は宝石などなくとも十分以上に輝いていたのだ。

 二人はあの時、心の底から華やいで、あのリリエンスールの物語について、たわいもない話に花を咲かせていたのだ。

 多分、彼らは幸せだった。

 出会えてよかったと、思っていた。

 十代の頃から下町で遊び、チェマリと呼ばれて親しまれていた、若き日のアルウィン。彼はその頃、大公になったばかりだった。

 彼に近付くために、グスマンは街中の病院の受付をしていた、美貌の妹を利用したのだったが、それはとてもうまく行っていた。

 彼は彼女を愛していると思っていた。いや、きっとあの時は本当に愛していたのだ。

 じゃなければ、あんなつまらない話を延々と続けていられたはずがない。

 身分違いの二人は、周囲の反対など聞くこともなく、強引に結婚した。

 そして、二人の間に、あの娘が生まれるまで。

 その瞬間まで、彼の恋人は幸せそうに微笑んでいた。

 彼は彼女だけを見ていた。

 それなのに。


 あの娘がこの世に生み出された瞬間に、二人の心は離れてしまった。

 彼女は死にかかって生まれた、体の不自由な娘を産ませた彼を憎み。

 そして彼は、生まれてきた娘に心奪われてしまったから。


 遠い遠い昔。

 白い百合の花開く谷の物語。

 物語の主人公、妖精王のリリエンスールは、真っ黒な黒百合の取り替え子を産んだ妃を許したというのに。

 妃もまた、その黒百合の子を他の子供たち同様に、愛し、育てて行ったというのに。


 



「リリエンスール・エスペランサ・マキシマ・デ・ハウヤテラ、かぁ」

 ミルドラと別れ、共同墓地を出て行きながら、アルウィンは誰にともなく、そう呟いた。

「え? 何かおっしゃいましたか」

 後ろから彼を守るようにして歩いていた、グスマンが聞きとがめる。彼は忙しげに周りの様子を探るように視線を移していたが、場所はちょうど共同墓地の裏口に差し掛かったところだった。

 おそらく、ミルドラは正門から入り、正門から出て行っただろう。

 姉と弟は、正反対の方向へ出て行ったのだ。

 共同墓地の前の通りは、小さな広場を形成している。誰しも墓地の真ん前に住みたくはないから、そこは小さな噴水を真ん中にした空き地にしてあったのだ。

 その空き地の向こうは、中流階級の住む、石造りの長屋造りの家々の裏口にあたっていた。

 グスマンとアルウィンの姿を見つけたのだろう、すぐに影になった裏通りから、小ぶりな馬車が出てきた。

 馬車は墓地の裏門の前に止まり、主従二人は素早くそれに乗り込む。

 二人の後ろから音もなく三人の男たちが出てきて、一人は馬車の後ろに飛び乗り、二人はそこに残った。彼らがアルウィンたちの伏せていた人数なのだろう。

 小さな馬車なので、席は片側にしかなく、二人は隣り合わせに腰を下ろした。正面に御者と話すための横開きの窓。席の背もたれの上にも小さな窓がある。

 馬車の扉の上の窓には分厚いカーテンが垂れていた。

「出ろ」

 小声でグスマンが命じるまでもなく、馬車は滑るように動き出す。

 場所はハーマポスタールの郊外だったから、しばらく住宅街の裏通りを走ると、もう道の両側から民家が消えた。 

 道も石畳ではなくなり、整備されてはいるが土の地面のままの街道になる。

「追っ手は?」

 グスマンが首をひねり、座席の後ろの横開きの小窓を開けて、後ろに飛び乗った男に聞く。男は黙って首を振った。

「まだわからん、油断するな」

 そう言い置いて、グスマンは小窓を閉めた。窓の向こうはもう真っ暗で、遠くに民家の光が見えるだけだった。

 ふう、と息をついてから。

 グスマンはアルウィンの方を、心配そうに見やった。彼は墓地を出る時にアルウィンが呟いた言葉をちゃんと聞き取っていた。

「先ほど、リリエンスール皇女の名前をおっしゃいましたか?」

 馬車の中には薄暗い、金属製のランプが灯っていたので、猫のように夜目のきくグスマンには、アルウィンの表情がちゃんと見えた。

 グスマンの視界の中で、アルウィンは無表情のまま、ランプの中の炎を見ていた。

 明るい日差しの中では、異常なほどに若さを保っているアルウィンではあったが、そうしてランプの光の中にある顔は、やはり年相応の陰影を見せている。

「違うよ」

「違いましたか」

 アルウィンは首を振った。

「妖精王のリリエンスールだよ。……知ってるかい? 『白い百合の花開く谷』って民話。お前の妹のアイーシャは知っていたんだけど」

 グスマンは、金色の円盤のような目をそっと細めた。

「やはり、リリエンスール皇女のことではないですか」

「違うよ」

 グスマンはもう、アルウィンに自由に話をさせることにした。彼らの付き合いももう、二十年以上となる。こういう時のアルウィンはただただ、独り言を言いたいだけで、相槌さえも求めてはいないことはとっくに知っていた。

「左様でございますか」

「うん。左様ですよ。……アイーシャは覚えていたんだねえ。若い頃、たった一度だけ一緒に話した、白い百合の花咲く谷の話を。僕のことなんか、忘れたいと思ってたんだろうに、なんでかなあ。なんで、今度こそ産んで見せるって決めてた皇子の名前として、リリエンスールなんて名前を用意してたんだろうねえ」

(たった一度の話の内容を、今でも覚えているのはあなたも同じでしょうに)

 そんな言葉を飲み込んで。

 グスマンはもう、ランプを引き寄せて胸元から取り出した手帳を見ながら、他のことを考え始めている。確かに、アルウィンの独り言は、彼にはどうでもいい話だったのだ。

「なんでまた、あんな、ラ・カイザ王国時代の古い物語を思い出したんだろうね。生まれ順によっては、皇太子になれるような皇子の名前としちゃあ、国民に馴染みもなくて、いいとは思えないけどな」

 脱力したように、馬車の席に身を投げ出して、アルウィンはため息をついた。  

 それへ。

「それはね、チェマリ、あなたと同じですよ」

 グスマンが我慢しきれなくなったのか、ぼそりと低い声で指摘すると、アルウィンは不思議そうな顔でグスマンを見た。

「何が同じなの?」

「カイエン様のお名前とです。あれは、はるかな古代に海に沈んだという古の都、栄光グロリアのカイエンヌからとられたのでしょう? 伝説ではないですか。同じですよ。アイーシャは酒でおかしくなった頭で必死に考えたのでしょう。それで思い出したのが、真っ黒な黒百合の取り替え子を産んだ妃を許した、白百合の妖精王、リリエンスールの物語だったのです」

 アルウィンは、なんだかぽかんとした顔をしている。

「……それだけですよ。アイーシャは頭のいい女じゃなかったですが、思い込んだら忘れない、変えない、愚か者特有のしつこさを持ってましたからね。辻褄の合わない話ですが、アイーシャの頭の中では、待望の息子は娘たちとは違って、あの女のしでかしたこと全部を許してくれる、そういう存在であるべきだったんです」

 グスマンは手帳に何か書き込みながら、顔も上げずに続ける。

「まあ、身勝手な女ですよ、あれは。サウル皇帝はそれでも、出産後に狂ったアイーシャの意思を尊重して、皇女でもリリエンスールと名付けたのでしょう。ミルドラ様のおっしゃった通りなら、サウル皇帝はアイーシャを死出の旅の道連れになさろうとしたそうではないですか。アイーシャは幸せ者です。そして、サウル皇帝はご立派だ。アイーシャはもう、生きていたってカイエン様やオドザヤ皇女、それにリリエンスール様の邪魔になるだけですからね。仕方がありませんよ、自分を幸せにするための努力を、何一つ自分からはしようとしなかった女の末路ですから」

 グスマンの言いようは、自分の妹のことを話しているにしては、あまりにも冷たかった。

 しかし、その低い、感情を抑えた声音の底には、何がしかの思いが隠されているようにも聞こえなくはなかった。

「……頑固で、感情的で、気だけが強い、自分の気持ちさえ整理できない、愚かな妹でした。それでも娘時代は他の下町の娘たちよりは、賢げに振舞っていましたけれども。見た目にかなり底上げされていたんでしょう。……チェマリ、あなたに取り入るために使ったのは、間違いだったのかもしれませんね」

 アルウィンはもう、黙り込み、目をつぶっていた。

 それでも、細い頼りない川の流れのような言葉は、彼の蒼白な唇から流れ出てきた。

「間違いじゃないよ。アイーシャはあのカイエンを産んだじゃないか。あの、僕の子供としては最高の子供を、産んでくれたじゃないか」

 グスマンは、もうこの話を続ける気持ちはまったくなかった。

 カイエンが星教皇になれる条件を満たした子供であること。

 それは、皇宮の図書館の本をあらかた読み尽くすほどに、博識だったアルウィンには、もうその生誕の瞬間から明らかであったのだ。

 だから、アルウィンは生まれてきたカイエンに夢中になってしまい、アイーシャの苦悩など顧みようとはしなかった。これもまた、アルウィンの側の真実だ。

「ああ。もう、そろそろ着きますね。でも、あのアイリス館も今夜中には燃やしてしまわなくては! あの桔梗館と同じようにね。そして、今度こそ、螺旋帝国へ向かいますよ、チェマリ」







 一方、皇宮の宰相サヴォナローラの執務室では。

「今、この時期にここへ戻ってきたとは! 恐ろしい。……あいつは、まだ人間のふりを続ける気なのですよ。人間のふりをしてまだ、私たちを惑わせようというのです!」

 アルウィンがミルドラと会ったこと。

 それから一昨年の事件で取り潰された、スライゴ侯爵家の持ち物だった、アイリス館という郊外の館に入ったとのヴァイロンの報告を聞いた途端。

 いつも冷静な彼にも似合わず、いきなりテーブルを拳で叩きつけたサヴォナローラ。

 初めて見る、いつもは神官らしく落ち着き払っている彼の、怒りの表情。

 その様子を、カイエンとヴァイロン、それにシーヴはあっけにとられて見ていた。

 いつもは静かな内海が、いきなり嵐と共に荒れ狂うのに出食わしたかのような、それは予想だにしていなかった情景への恐怖なのかもしれない。

 サヴォナローラは数秒の間、拳をテーブルに載せたまま俯いていたが、すぐに顔をあげた。

「殿下、私はあえて申します。……これから私が言うことは、みっともない、ただの愚痴でございます。言い訳でございます。桔梗星団派のことを、殿下にお知らせするのが遅れたこともそうですが、私はこの頃、いささか増長していたようでございます」

 カイエンはぶるぶると身を震わせながら言い募るサヴォナローラを、一歩下がって見つめているしかなかった。そんな彼女の背後に、いつの間にかこれも顔を強張らせたヴァイロンが、彼女を支えるように佇んでいた。

「殿下。人でなしの悪魔の裏をかくのは簡単なのです。悪魔は自分の利益だけを望んで動いていますからね。しかし、しかし、まだ愛憎の感情を、つまりは人の心を残している者は、……もしくはまだ自分は人間だと思い込んでいる魔物は。あいつらの裏をかくのは、至難の技なのです」

 カイエンは聞きながら、これはアルウィンのことを言っているのだろうとは思った。確かに、これはサヴォナローラの言い訳だ。

 だが、一方で引っかかるものも感じていた。

「……まるで、悪魔だの、人の心を残したままの魔物だのを、相手にしたことがあるような台詞だな」

 だから、カイエンは思ったままを口に出した。

「殿下……」

 後ろからヴァイロンの、抑えるような囁きが聞こえたが、カイエンは構わなかった。

「そうなのか?」

 彼女が重ねて言うと、サヴォナローラはやっと顔を上げた。

 驚いたことに、その顔にはもう怒りの表情はなかった。代わりにあったのは子供がよくするような、泣きそうになるのを我慢しているような、歪んでしかめられた顔だった。

「そうですね。アルウィン様とは周りに及ぼす影響力は桁違いですが、人でなしの悪魔や、まだ自分は人だと勘違いしている魔物は、私の人生の中に確かにいましたよ」

(それは、一体誰だ)

 さすがにカイエンもそこまでは聞けなかった。

「そうか。では、あいつはまだ人でなしの悪魔ではないから、螺旋帝国へ向かっていた道のりを戻ってきてまで、ミルドラ伯母様と会ったと、そう言うのだな。だから、お前はあいつの行動を予測できなかったと、そう言うのだな?」

 そこまで、カイエンが言った時。

 再び、宰相サヴォナローラの執務室の外が騒がしくなった。

「私が」

 サヴォナローラが扉のところまで行くと、すぐに扉が開いて、向こうに立っている侍従の姿が見えた。

「お知らせいたします。大公軍団帝都防衛部隊のお方が二名、大公殿下と隊長殿にお知らせしたいことがあると言って、参っております」

 カイエンはすぐに答えた。

「通せ! 急いでな!」

 侍従が下がってしばらくして宰相の執務室へやってきたのは、大公軍団の黒い制服姿の二人の男だった。

 カイエンはちょっと驚いた。

 一人は南国の出身らしく、色が黒くて背が高く、もう一人は何度見ても印象に残らない、平凡を絵に描いたような顔の男だ。

 色が黒くて背の高い方は、見た目が目立つこともあるが、大公軍団最高顧問のマテオ・ソーサが、

「もう、あれほど試験に落ち続ける男は初めて見ました。あれでまったく使えない男なら、さっさと落第にして治安維持部隊に戻してしまうのですが、人骨人柄や、潜在能力には見所があるからいけませんよ」

 と嘆いていた男だ。去年の訓練が終わり、帝都防衛部隊に配属になった時、教授が嘆きながらカイエンに紹介してくれたので、覚えていた。確か、名前はサンデュとか言ったはずだ。

 もう一人は、カイエンとともにシイナドラドまで行った男だ。ザラ大将軍の四人の「影使い」、東西南北の生き残りである南北のうちの「北」のナシオである。シイナドラドでガラが獣化した時、その解毒剤を預かった男だ。

 カイエンの帰国後は、ザラ大将軍の配慮で、大公宮の警備を担当していた。彼は隊員ではないから、普段は大公軍団の制服は着ていない。

「大公殿下、隊長」

 二人は部屋に入ってくるなり、カイエンとヴァイロンの前で敬礼した。

「挨拶はいい、どうした?」

 カイエンが聞くと、平々凡々顔のナシオの方が、早口で話し始めた。サンデュは興味深そうに、漆黒の瞳を煌めかせてはいたが、黙っている。

「アイリス館で動きがありました」

「!」

 聞くなり、カイエンたちの表情が引き締まった。

「クリストラ公爵夫人と、帝都の外れの共同墓地で会見した人物のあとをつけ、アイリス館に入ったことを確認。こちらの隊長殿がご報告に戻られたのちは、応援の到着を待ちながら、周囲を取り囲んでおりました」

「うん」

 ナシオは無表情のまま、続ける。

「その後、現場にはディアマンテス軍団長殿が入り、指揮を取っておられます。自分たちは軍団長殿の命令で、入れ替わりにこちらへ遣わされました」

 現場には軍団長のイリヤが入っているらしい。

 カイエンは思わず、サヴォナローラと顔を見合わせた。

 カイエンはサヴォナローラから、イリヤがアルウィンの率いる桔梗星団派の連絡係だった『盾』の頭であったことを聞かされたばかりだ。

(大丈夫だろうか)

 と、カイエンが目で言うと、サヴォナローラは静かにうなずいてみせた。

「軍団長は、なんと?」

 今度はサヴォナローラが聞く。

「軍団長殿の読みでは、アイリス館は間もなく火に包まれるのではないか、とのことです」

 五年前。

 アルウィンの佯死に前後して、彼の隠れ家だった桔梗館を襲った火事。

 あれが再び繰り返されると言うのだ。

「なるほど」

 カイエンの横で、サヴォナローラが短く言った。

「確かに、こうしてあとをつけられ、潜伏場所を囲まれたからには、火でもつけてそのどさくさに逃げ出すしかありませんね」

 その声は、先ほどまでの乱れた感情を微塵も感じさせない。

「アイリス館とやらには、抜け道はあるのか」

 カイエンは前に、旧スライゴ侯爵邸をシイナドラド大使公邸にするにあたって、抜け穴、抜け道があることをサヴォナローラから聞いていた。それならば、と思ったのだ。

「ございます。……いいえ、ございました」

 カイエンの問いに、サヴォナローラは静かな声で答えた。

「ございましたが、アイリス館はスライゴ侯爵邸と違い、売りに出しました。その折にその類のものはすべて埋め尽くしてございます」

「殿下」

 カイエンは、後ろのヴァイロンに言われるまでもなく、立ち上がっていた。

「私も出る。シーヴ、お前は大公宮へ戻り、増援を頼め。……行くぞ」

 ヴァイロンとナシオ、それに黙って立っているサンデュへ向かって顎をしゃくると、カイエンは左手の杖を握った腕に力を入れ、歩き出そうとした。

 その時、カイエンは内心、現場へ出て行くのをサヴォナローラかヴァイロンか、どちらかに止められるのではないかと思っていた。

 だが、どちらもカイエンを止めようとはしなかった。

 現場にはアルウィンが、彼女の憎らしい父親がいることを、嫌というほど知っていたからだろう。

「大公殿下、私も参ります」

 そこにいた皆が驚いたのは、宰相のサヴォナローラまでもがそう言い出したからだった。

「何を言っている? お前は宰相だぞ」

 カイエンが呆れた声でそう言うと、サヴォナローラは苦笑いした。

「そうですが、この私も、最後にあの人の顔を見ておきたいと思いまして」

 そう言うサヴォナローラの顔には、不敵な笑み。

 そこにはもう、テーブルを叩いて怒り、悔しがっていた男の面影はなかった。 

 カイエンはうなずいた。

「わかった。……ああ、こんなに大勢で行くのなら、そこの宰相閣下お手作りのサンドイッチを包んで持って行ったらどうだ? 皆、今夜はまだ何も食べていないだろう」


 皇宮の裏から、大公軍団の目立たない黒塗りの馬車に乗り込んだのは、カイエンとサヴォナローラ。ナシオは馬車の後ろの泥除けの上に乗り込んだ。サンデュはここまで乗ってきた馬の上だ。

 ヴァイロンは体重が体重なので、そこまでナシオが乗ってきた馬を借りた。

 シーヴは皇宮の馬を借りて、大公宮へ向かう。

 シーヴと別れ、馬車に乗ったカイエンは、例の非常時クソ気力のもたらす、不自然な元気状態に入っていた。

 シイナドラドでの虜囚状態の時にも役に立った能力だ。このクソ気力の発現をもたらしたのは、一昨年、皇帝の命令で無理やり添わされた、ヴァイロンの夜毎のアレだったのだから、世の中、何が幸いするかはわからないものだ。

「腹が減ったな。サヴォナローラ、腹が減ってはなんとかだ。お前の作ったサンドイッチを食べよう」

 馬車が走り出すなり、言い出したカイエンを、サヴォナローラは呆れた顔で見た。

「殿下は本当に、お強くなられましたねえ」

 言いながらも、きれいに布に包んだサンドイッチの皿を、向かい合って座ったカイエンの前に差し出すサヴォナローラだ。

「当たり前だ。あいつのせいで、この二年で大変な体験をさせてもらったからな」

 カイエンはハムとチーズ、それに新鮮な葉物野菜が挟み込まれた、とうもろこしパンのサンドイッチを頬張った。とうもろこしパンは、貴族階級はあまり食べない種類のパンだが、大公宮ではガラや教授が住み込んでから、珈琲とともに食卓に登るようになっていた。

「うん。とうもろこしパンは甘みがあって、つぶつぶ感もあるから、塩と胡椒だけの味付けでも美味しいな」

 もりもりと食べるカイエンの前で、サヴォナローラも一つを手に取った。

「お茶は間に合わなかったので、ワインを持ってきましたよ」

「うん」

 うなずくと、カイエンは馬車の後ろの横開きの小窓を開けた。

「おい。お前も食っておけ」

 馬車の後ろに立ったまま張り付いているナシオへ、彼女はサンドイッチをいくつか掴んで押し付けた。

 前の御者には危なくて渡せないが、影使いのナシオなら、片手でしがみつきながらでも食べられるだろう。

 そうして。

 間もなく馬車は、ハーマポスタールの市内を抜け、郊外の街道に入った。

「アイリス館とやらはどの辺りだ?」

 すでに食べ終わって、お行儀悪くもワインの小瓶を傾けながらカイエンが問うと、口元を褐色の僧衣から出したハンカチで拭いていたサヴォナローラが答える。

「そろそろです」

 そう言いながら、サヴォナローラは馬車の窓を覆う、厚い布地のカーテンをそっと持ち上げて進行方向を見た。

 途端。

「あっ!」

 サヴォナローラは声をあげていた。

 進行方向、街道の先に真っ赤な光が見えたからだ。

「どうした?」

 そう聞きながら、カイエンもまた反対側のカーテンを開けて、進行方向を見る。

「ああ!」

 夜の街道は真っ暗だ。

 馬車の前には、鉄で作られ、ガラスで覆われたランプが灯っている。下々の馬車ならば松明たいまつが使われるが、大公軍団のこの馬車には最新の設備であるランプが使われていた。

 その光が照らす街道の先。

 やや進行方向右側に、真っ赤な光が見える。

 夜、あんなにはっきりと人家の灯りが見えるはずはない。ましてや、光の色は真紅。

「燃えております!」

 窓からのぞいているカイエンの後ろから、馬車の後ろにしがみついたナシオと、騎馬で付いてきていた、ヴァイロンの声がかぶさってきた。

「急げ!」

 カイエンが言うまでもなく、御者は馬に鞭を入れた。

 馬車は速度をあげて疾走する。


 しばらくした時だった。

 カイエンたちは、御者の慌てた声を聞くことになった。


「あっ」

 短いが、危機感を十分に含んだ御者の声。

「危ない!」

 次に聞こえたのは、馬車の横を走っているはずの、ヴァイロンの声だった。

 同時に、馬車がすごい勢いで、街道の右側の立木の方へ流れた。

 何がどうなったかわからないまま、カイエンとサヴォナローラは馬車の席から押し出され、抱き合うようにして馬車の床に倒れこむ。

 急激に停止しようとする馬車の車輪の立てる、凄まじい摩擦音。

 なぜか、その音は前方からも聞こえた。

 カイエンたちの馬車は、街道の右側の立木すれすれの場所で停止した。

 大公軍団の馬車の御者の腕は確かだった。馬は半分、街道から周りの畑の中に落ち込んでいたが、馬車は立木にぶつかることはなく、立木にもたれるように静かに当たって止まっていた。

「カイエン様!」

 同時に、カイエンの馬車の扉を開いたのはヴァイロンだった。騎乗で付いてきていた彼は、馬車よりも機敏に停止することができたのだ。

「……大丈夫だ」

 カイエンはサヴォナローラとお互いに抱き合うようにして倒れ込んだ。そのまま、無意識にお互いの頭を庇いあったのだろう。二人は肩や肘、膝を打ち付けはしたが、頭はどこにもぶつけすに済んでいた。

 ヴァイロンはその強靱極まる腕を伸ばして、カイエンだけでなくサヴォナローラまでも一気に馬車から引き出した。

「うう。なんだ? 何かにぶつかったのか?」

 カイエンがそう聞いたのは、ヴァイロンの腕の中に抱え込まれてからのことだった。カイエンの体の様子を探るように、ヴァイロンの手が彼女の背中をさする。

 横で、馬車から飛び降りたのであろう、ナシオと馬で併走していたサンデュが、サヴォナローラを支えて立たせていた。

「すみません。……前からすごい速さで馬車が突っ込んできて……」

 馬車の前部で、馬を畑から引き上げながら言ったのは、馬車の御者だった。彼もなんとか振り落とされずに済んだらしかった。

「なんだと」

 前から馬車が突っ込んできて。

 カイエンは、その時やっと、街道の上の全貌を見た。


 カイエンの馬車の反対側。

 真っ暗な街道の左側で、もう一台の黒い小さな馬車が止まっている。

 向こうもこっちも馬車にランプを取り付けているので、うっすらとだが、その場の状況は見て取れた。

 あちらも、馬車をひく馬が反対側の畑に落ち込んでしまい、往生しているところだった。

 カイエンとサヴォナローラと同じように、向こうの馬車の中の人間も、馬車から出てくるところだった。

 カイエンはその時、なんだか知らないが、背筋を冷たいものが駆け上るのを感じていた。

 向こうの馬車から出てきたのは、中背の二人の人影。

「ナシオ」

 カイエンは、自分が向こうには聞こえないような小声で、ザラ大将軍の影使いへ命じる声を聞いていた。

「馬車のランプを持ってこい。……早く!」

 ナシオはさすがに無駄な動きはしなかった。

 すぐに彼は馬車の前に取りつけてあったランプの一つを持って、カイエンのそばへ来た。

 そのまま、ナシオはランプの光を、向こう側から突っ込んで来た馬車の方へと向ける。

 そこに佇んでいたのは、中背の男が二人。

 向こうの馬車も、御者が巧みに避けたらしく、二人の後ろで御者とその助手が畑に落ち込んだ馬を引き上げようとしている。


 だが、カイエンはそんなものは見てはいなかった。

 カイエンは、まっすぐにランプの光の中に出て来た、二人の男の一人を、そのまま殺せそうな目線で見据えていた。

 声が、出ない。

 カイエンを腕の中に抱えている、ヴァイロンの荒い息が聞こえた。

 反対側からは、やっと一人で立ち上がった、サヴォナローラの喉が、ひゅっと鳴るのが。


「あああああああああぁぁああああああ!」


 誰の声かと最初は思った。

 それが、自分のたてた声だと気が付いた時。

 カイエンは溢れんばかりにその灰色の瞳を見開いて。

 叫んでいたのだ。

 そこに見たのは。

 彼女にそっくりな、それでいて彼女よりも二十以上も歳をとった男の顔だった。








 船出しよう

 この世のすべての愚者を引き連れて

 俺もおまえもあなたも君も

 私もあんたも僕もおまえも

 真っ黒く見えるほどに深く青い大海へ漕ぎ出そう

 俺は誇大妄想狂

 おまえは道化者

 たがいに分かりあうこともない愚か者

 だけど

 この時だけは一緒にさ

 船を出せ

 船べりにたった一つの灯りを灯し


 船出しよう

 俺たちみんなの生きられる

 新世界を目指せ


 空は高く高く雲ひとつなく蒼く

 海は水平線の向こうまで寒気がするような青だ

 海の底から昇ってくるのは海獣たちの影

 この航海は危険なものになるだろう

 きっと俺たちは新世界シャングリラへ着く前に狂う

 いいじゃないか

 それでも今が旅立ちの時だ


 これは愚者たちの船

 乗組員が全部狂っても、目的地を目指す


 歴史にただひとつ刻まれる

 決して港へ入らない阿呆船


 故郷へは決して帰らない

 決して生きては戻らない

 残してきたものに、柔らかい心臓を喰われるな

 狂っても、心臓だけは動かして往け


 これはそういう船

 これはただの阿呆船


 これはただの

 ただの阿呆船




      アル・アアシャー  「阿呆船」

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