阿呆船 2

 帰ってこいよ

 帰って来られるもんならさ

 ここへ

 この私の悲しい胸へ

 すがりついて

 ごめんなさいって言ってみろ


 おまえの故郷はもうない

 おまえは失うばかり

 おまえが死んでも泣くものはいない

 おまえは一人で死ね


 おまえの子供たちは

 やっとおまえがいなくなったと

 世界がきれいになったと

 そう言って哭くだろう


 それでもおまえは幸せだろう

 あの子達はおまえを死ぬまで忘れない

 忘れられない

 だから

 おまえは笑って死ね

 おまえには嘆く権利はない




    アル・アアシャー 「誇大妄想狂の死」より。








 そこは、帝都ハーマポスタールの市内ではあったが、中心部を外れた場所にある、共同墓地。

 その、カイエンが建てた異母弟カルロスの墓の前。

 ブーゲンビリアの枝が垂れ下がる、白い墓の前にたたずむのは、三人の中年の男女。

 地味な鈍色のドレスに帽子、その帽子にベールを垂らしたクリストラ公爵夫人ミルドラは、貴婦人らしくはめたドレスと同じ色の手袋の手で、小さな布製のバッグを持っているだけだ。

 そして、白い墓を背にした彼女と、心臓の音さえ聞こえてきそうな至近距離で向き合っているのは、彼女の弟。

 前の大公だった男。もう五年前に死んだはずの男。それはアルウィン・エリアス・エスピリディオン・デ・ハーマポスタール、と名乗っていた男の姿。

 彼は、黒っぽい紺色の髪を、地味な毛織物のコートの肩に散らし、その下には真っ白な糊の効いたシャツ。その襟飾りは、大きな歪な形の水晶で作られたブローチによって、複雑な形に止められていた。後は足元まで黒の装いだ。

 それは、なるほど、墓場を訪れるにふさわしいなりでは、あった。

 そのアルウィンの斜め後ろへ、背後の木の後ろから現れたのは、アルベルト・グスマン。これは前の大公軍団長だ。

 彼もアルウィンと同じような地味ななり。

 だが、彼はそこに立っているだけで、その物腰だけで、尋常ならぬお育ちの身分であることが分かる二人、ミルドラとアルウィンの姉弟とは違う。彼はその金属のような質感の両眼が見えなければ、普通の中年男にも見えただろう。

「手紙を見ても、来ないかもなあ、って思ってたんだけど」 

 アルウィンはわざとらしく首を巡らせて、墓地の中を眺めわたした。

 ミルドラが、

「あら。私が一人でのこのこ出てきたと思っているの? そっちもちゃんと周りに手のものがいるんでしょ? こっちも同じよ。そっちが動いたらこっちも動くわ」

 と言ったことが、さすがに気になったのかもしれなかった。

 貴族でも富豪でもない、一般市民たちの墓地だから、彼らの立っているカルロスの白い墓の周りだけが少し開けているだけだった。その向こうにはいくつもの新旧取り混ざった、高さも形も雑多な墓石や、それを囲む低い鉄格子などが、雑然とひしめき合っていた。

 だから、中背のアルウィンの目の高さから見ると、人影があるか否かを見極められるのは、せいぜい、十数メートル四方でしかない。

「カイエンには話したの? ……ま。話してないと僕は思うけどね」

 そう言うと、アルウィンは彼の娘に、形だけはよく似た口元をいびつに歪ませた。

「あの子にはまだ、確かに死んだはずの僕の顔を、もう一度見られるような強さはないだろうからねえ」

 ミルドラは黙って、彼女の化け物のような弟の言葉を聞いていた。

「ねえ。そうでしょう? 姉さん」

 ミルドラは答えない。

 しばらくの間、五月の午後の夕闇を待つ時間、遠く西の海の方へ傾いた太陽の中で、彼ら三人は黙っていた。

 やがて。

 口を開いたのは、以外にも姉ではなく弟の方だった。

(だから、さっさと言いなさいよ。私をここに呼び寄せてまで言いたかったことをね。この、あなたのかわいそうな息子の前で、言えるもんならねえ)

 ミルドラが聞いてきたことに答えていないことに気がついたのかもしれない。

「……わかったよ。まあ、この墓の前を指定したのは、僕だからね。さすがに父親として一回くらいはお参りしてやろうと思ったんだよ。まあ、実際のところ、死のうが生きようがどうでもいい子だったんだけどね。僕と同じ名前をあの女がつけてたことも、全然知らなかったし。グスマンが見つけた時には、男娼だったっていうしさあ。場末の女の腹から生まれた子は、所詮そんななんだよ。……でも、しょうがないよねえ。こうやってあのカイエンが立派なお墓を、それもこんな街中の墓地に作っちゃったんだもん。カイエンのクソ真面目さもここまで来ると嫌味だよねえ」

 一昨年の事件の折、カルロスと呼ばれていたアルウィンの庶出の息子の本名は、父親と同じアルウィンだった。彼の父は彼を認知することはなかったが、その母親は彼の出自をその本名に残したのだ。

 ここまで言うと、アルウィンは目の前のミルドラのベールに隠された顔を透かし見るように首をかしげた。

「本当はさ、姉さんだって、この子のことなんかどうだっていいんだろ?」

 アルウィンがそう言うと、やっとミルドラの唇が動く。

「そうね」

 ミルドラは、自分の体でかばっているようにしていた白い墓をそっと振り返った。

「こんな子、今でも甥だなんて思ってないわ。でもね。……カイエンはこの子を弟だと決めたのよ。だから、私はカイエンの気持ちは尊重するわ」

 血を吐くような声音でそう言うと、ミルドラはもう一度、カルロスの白い墓石に刻まれた文言を口にした。

「花散らせ十五の四季を重ねつつあの地この地で君もも泣く」

 ミルドラの背後で、風が真っ赤なブーゲンビリアの花を揺らせた。だが、花びらは落ちることがない。

「ねえ、アルウィン。あなたの子供達は、この世でもあの世でも泣いているのよ。カイエンはこれからもこの子を思い出すたびに泣くんでしょうね。あの子には兄弟がいなかったから。だから、言葉を交わしたこともない、知っているのは死に顔だけの弟を思い出して泣けるのよ。あの子は本当にまっすぐで、不器用な子だからね。あなたたち、この花の花言葉を知ってる?」

 二人の男たちは黙っている。

「そう。知らないのね。この花は五月から秋までずっと咲き誇るのよ。……花言葉は『あなたを見ている』よ。魂の花、って言う人もいるわ」

 ミルドラはそう言うと、頭上を覆う花の枝の中から、一つの真っ赤な花を毟り取った。

「カイエンはこの子のことを見守っていたいのよ。そして、この子の墓には、毎年、春から秋まで、真っ赤な魂の花が降り注ぐ。アルウィン、あなたここへ来てよかったわよ。あなたが指定した場所がここだって知った時の私の気持ち! わかるかしら?」

 ミルドラのアルウィンと同じ色の、だが輝きを失っていない灰色の瞳がまっすぐに弟を見た。

「ここにはあなたの子供達が、あなたに遂に言えなかった、たくさんの言葉が詰まっている」

「あなた、ここで私に何を言いたいの? 螺旋帝国への道のりをわざわざ戻って来てまで。何を!」




 しばらくの間、アルウィンは歪な笑いを顔に張り付かせたまま、黙っていた。

 西の大海へ落ちていく太陽。

 だが、まだ夕闇には遠い時間。

 やがて。

 その口が動いた時、その口を抜けて来た言葉は、意外なほどに静かだった。

「ねえ、教えてよ姉さん。僕はさ、そりゃあ、悪いこといっぱいしたけどさ。それでも僕だけが知らないでいたなんて、ひどすぎるよ」

 低い声。

「もう、あいつは死んだんだ。サウルは、死んだ。さすがにあいつが生きている間は聞けなかったよ。でも、あいつはもういなくなった。だから教えてよ。……姉さんはどうしてあんなことをしたの? 姉さんは子供の頃からずっと、僕との方が仲が良かったのに。なんでサウルと仲良くなったの?」

 空気が凍りついた。

 アルウィンの後ろで、グスマンがそっと顔を伏せた。さすがに貴婦人への表面的な心遣いくらいは出来るのだろう。

 そしてミルドラは。

 彼女は静かにゆっくりと、目を閉じた。

 そうだ。サウルが死んでから。アルウィンからの手紙が届いたのち。彼女のいくつもの予測の中には、弟がこの質問をするだろうという未来もあった。

 この弟は今や、このパナメリゴ大陸の歴史を左右するような怪物になってしまったかのもしれないが。その結果の一端を担っている原因の一つは自分なのかも知れないとは、思っては、いたのだ。

「そうだったの。……それが知りたかったの。ずっとずっと、それを知りたかったのね。そりゃそうだわ。あなただけが知らなかったんだものね。あなただけが、仲間外れにされていたんですものねえ……」

 ミルドラはそう呟くと、手にしていたブーゲンビリアの花の花弁を、わざと強引に一枚ちぎり、大地に落とした。

「やっぱり、そうだったの。だから、一人だけ兄弟の中でつまはじきにされたと思って、あなたは心を腐らせて下町に出て行って、遊び呆けるようになったって言うのね?」

 ぴりっ。

 ミルドラの真っ白な指先が、無情に真っ赤な花の花弁をもいだ。

「ふ、ふ。ふふふふ、っ」

 おかしくて堪らない、と言うように、ミルドラの唇から笑いが漏れた。

「あ、はははははっ。おまえは馬鹿ねえ」

 アルウィンは口元に笑みを貼り付けたまま、黙っている。 

 ミルドラはその様子をしばらく見ていたが、やがて、関係ないような話を始めた。 

「そうねえ。おまえはどうして、あのヴァイロンをカイエンに添わせるようにしたの? それはヴァイロンの気持ちに気がついたからでしょう。彼は一度、おのれの唯一を決めたら、もう変えることができない存在だと知っていたからでしょう? あの強い愛情と執着なら、カイエンを死ぬまで盲目的に守るだろうと信じたのでしょう? だから彼を取り込んで、桔梗星団派のスライゴ侯爵達を通じて兄上を操ってまでして、無理矢理にカイエンに添わせたのでしょ?」

 アルウィンはたった一言ぶんだけ唇を動かした。

「そうだよ」

 ミルドラはアルウィンの周りを、ゆっくりとした歩調で回り始めた。まるで、蜘蛛が巣を作っていくように。

「あのシイナドラドの皇子様もそうだわ。……お気の毒にね。おまえはあれにも白羽の矢を立てたのね。あの皇子様はお気の毒。カイエンの一番には一生なれやしないのに、あの子のただ一人の夫にされちゃって」

 ミルドラは、意地悪そうな含み笑いをこぼした。

「おまえはカイエンを一人の男のものにすることに耐えられなかったのよね? それは、……カイエンを、まさか自分のものにすることは出来なかったから、そうよね?」

 ミルドラは忌まわしくも恐ろしい言葉を、さらっと言ってのけた。

「いいのよ、アルウィン。おまえは別に変じゃないわ。……私たち、シイナドラドから来た女を母親に持った子供達にとってはね。と言うか、おまえはは私たち兄弟の中では、そこだけはまともだったのよ。とにもかくにも、策を弄しながらも、自分の娘に手を出すことは出来なかったんですからね」

「まさか……。あああ! そうかあ。それなら分かる、そうだったんだね。ははは。サウルのやつは娘がみんな自分に似てなくて、さぞや安心してたんだろうなあ!」

 アルウィンはけらけらと笑い始めた。彼にはもう、先ほどの一時の気弱い様子はどこにもなかった。

「ああ、そうか。あの女がやったのかぁ! 僕もそれしかないとは思ってたけど。やっぱり、そうなんだ」

 けらけら笑いながら、弟は自分の周りを巡っていく姉の姿に合わせて、日時計のように向きを変えていく。その奇妙な様子を、グスマンは黙って見ていた。 

「そう、お母様よ。いいえ、あのクソ婆あよ。汚い言葉だけど、あの女にはこう言う呼び方がふさわしいわ。……ファナ・イメルダ・デ・ドラドテラ。あの女が望んだからよ。あの女がシイナドラドで実の父親としていたように、肉親と睦み合うことを私達二人に教唆したからよ。……あの、シイナドラドの血族たちのように、私たちには肉親だけしか信じられないって、肉親以外は信頼しちゃいけないって、信じ込ませたから!」

 ミルドラの言葉は血を吐くような響きを持っていた。

「あのクソ婆あには、長いこと上手く操られてしまったわ。今になって思うと、なんであんなに唯々諾々と従ってしまったのか、なんで疑うことをしなかったのか、本当に不思議。でも、だからこそ恐ろしいのね。人が人を支配しようとする、その妄執は。その点では、アルウィン、おまえは幸運だったのよ」

「ええぇ。そうなのかなあ?」

 もう、先の読めるアルウィンには、ミルドラがこれから話すことの方向が見えて来たらしい。だからその顔には余裕が戻っていた。 

「アルウィン、おまえが心の底から知っているように、ファナは末っ子のあなたを、まったくといっていいほどに構いつけなかったわね。ファナにとっての息子はサウルで、娘は私だけだった。末っ子のおまえはファナにとってはどうでもいい子だったんだわ。……この、カルロスのようにねえ」

 その時、アルウィンが少しだけ体を震わせたのを、ミルドラは感じた。

 親が死んで二十年もたち、その「事実」を自覚し切っていてもなお、心が揺らいでしまうほどの思い出と、その残酷さよ。

「おまえは一番、勉強が出来て、ひとたらしで、臣下の受けも良くて。要領のいい、頭のいい子だったのにね。でも、ファナにとってはそんなことはどうでも良かった。自分が生んだ子だから殺さないで置いてやっただけの子供だったのよね」

 先帝レアンドロの成人できた子供は三人だけ。それ以外の妾妃腹の子供は一人残らず夭折した。アイーシャがサウルの元へ走ったために、大公女ではなく、サウルたちの末の妹の皇女と偽られたカイエン一人を例外として。

 だから、今、ミルドラの言ったことには恐ろしい事実が示唆されていた。

 だが、姉も弟もとっくに知っていたそのことについては話す必要は、なかった。

「でも、姉さんはさっさとクリストラ公爵のところへ行っちゃったじゃないか」

 アルウィンは不満そうに口を尖らせた。それは、中年男がする仕草ではなかったが、彼の口調と外見の異常な若さもあって、それほど奇妙には見えない。

「そうね。私は逃げ出した。気がついたのよ。おかしいって。正しい答えは皇宮の外にあるって。私は気がつけたの!」

 そう言うと、ミルドラは遠く東の空、もう紫色の闇が迫ってきた方向を見た。

 東。それはクリストラ公爵領のある方角だ。

「ヘクトルに会えたから。あの人の微笑みの中の明るい光。あの人の吹く笛の調べ。彼は私のしてきたことをすべて聞いて。そしてあの人の世界へ招き入れてくれたから」

「あの人、言ったのよ。私はまだ変われるって。まだ間に合うって。私の安息の宿になるって」

 そこまで話すと、ミルドラはなぜか痛ましそうな顔をして、弟を見た。

「もう、いいでしょ、私のことは。今度はおまえの番よ」

 そして、ミルドラはまるで奇術師が怪しい手妻を使うように、アルウィンの前に手袋をした手を差しのばした。

「だから、おまえはファナを殺したのね?」

 アルウィンはうれしそうにうなずいた。

「そうだよ。なんだ、知ってたのか姉さんは。じゃあ、サウルも知ってたんだろうね」


 その時。

 本当に奇術のように。

 ミルドラの伸ばした手の中に、一本の細いナイフが滑り出て来た。

 ミルドラは袖口の中かなんかに、それを忍ばせていたのだろう。

「チェマリ!」

 きらりと光ったナイフを見るなり、グスマンがそう言って、アルウィンをかばうように前に出る。

 その様子を眺め、ミルドラは弟によく似た笑い方で嘲笑った。

「チェマリ! ああ、やっぱりその名前を使っているのねえ。……まだ、二十年以上も前の青春時代を引きずってるの? 哀れなもんね」

「姉さんは、僕を殺しに来たの?」

 グスマンの後ろから、大して驚いていない声で、アルウィンは聞いた。

「あはは。そう出来たら話が早いとは、思ってたけどね。でも、そうそう上手くはいかないことも、この歳になればわかりますよ」

 そう言うと、彼女は静かにアルウィンたちと距離をとった。

「もうよく分かったでしょう? おまえは、おまえの母親ファナとそっくり」

 ナイフを手で玩びながら、ミルドラは決めつけた。

「姉さん。じゃあ、僕のしたことは、お母さんのしたことと同じだったって言いたいの?」

「どうかしらね。でも、これだけは言えるんじゃない? おまえもファナも、子供の未来を死ぬまで支配したかったってところじゃ、同じだったってことね。そして、自分の興味のない子供には本当に冷たかったってこともかしらねえ」

 ミルドラの言葉に、アルウィンはもはや反論しようとはしなかった。

 彼はもう、そろそろこの茶番を切り上げる頃合いだと感じていたから。

 それはミルドラの方も同じで、二人とも、そろそろこの会合の終わりを意識していたのだろう。お互いに聞きたいことは聞いたのだから。

「何が目的かは知らないけれど、おまえがこれ以上、国々と人々を操り、歴史を血みどろの道へ引っ張っていくというなら」

 ミルドラの顔には、もう笑みはなかった。

「今度、おまえが私の前に現れたときには、私は必ずお前を殺しますよ」

 アルウィンはミルドラの、ナイフを玩ぶ手つきをじっと見た。その手つきはナイフをかなり扱いなれた者のそれだった。

「姉さんはクリストラへ行ってから、だいぶ物騒になったようだねえ」 

 ミルドラはもう、弟の質問には答えなかった。

「そうそう、お前にはもう家族はいないわ」

 代わりに、その唇を出て来たのは、からかうような軽い口調。

「それだけじゃないわ。お前はこれからも失うばかりよ。妻も愛人も娘も息子も、兄弟も。そこにいる男以外の何もかもを、その手のひらから落ちていく砂のように失っていくでしょう。おまえがしようとしている、馬鹿げたことと引き換えにね」

 もう、アルウィンがそれに返答することは、なかった。

「アイーシャのことはもういいの? そこのグスマンの妹だった、あのアイーシャのことは。貧乏官吏の養女だったあのアイーシャは。実の兄がおまえに取り入ろうとして利用したあの娘。気が強くてちょっと美人すぎたせいであなたたちの世界に引き摺り込まれた、かわいそうな娘は! 本当の姉のように弟たちの面倒をよく見てきた、世話焼きで気のいい娘だった、あの女のことは?」

 だから、追い詰めるようにミルドラが言い募った言葉を聞いた時には、グスマンに守られながら、もう姉に背を向けようとしていたのだ。

「何を、いまさら」

 背中を向けたアルウィンから、温度のない、どうでもよさ気なつぶやきが、風にのってミルドラまで届いた。

「そうね。じゃあ、最後に教えてあげるわ。これはさすがに知らないでしょ。……サウルはね、アイーシャを置いては死ねないと思ってたのよ。だから、人生の最後の最期に、彼女を道連れにしようとしたのよ。残念なことに、失敗してしまったけれどもね……」

 その時には、もう、アルウィンとグスマンは歩き始めていた。

 だが、ミルドラの最後の言葉は確実に彼らの耳に届いただろう。

 その頃には、墓地は夕暮れの赤に染め上げられていた。

 心配になったミルドラの侍女が、向こうから歩いてくるのが見える。

「でも、アイーシャはもうきっと正気に戻ることはないわ。だから安心しなさい。彼女があなたをどう思っていたとしても、誰ももう、それを知ることは出来ないから」


「奥様!」

 やや息を切らして侍女がミルドラの側へやって来た時には、もうアルウィンとグスマンの姿は並んでいる雑多な暮石の黒い影の向こうへ消えていた。

「大丈夫よ。……それより、そちらの手の者たちはちゃんと追って行けたかしら?」

 そちらの手の者。

 ミルドラが言った言葉は、自分の侍女に言うにはおかしな言葉だった。

「はい。追って行ったのは帝都防衛部隊のロシーオさんと、サンデュさん達ですから大丈夫です。大公殿下の影の方も一緒に行ったはずですし。ロシーオさんは猫みたいに気配を殺して追いますし、サンデュさん達も治安維持部隊から引き抜かれた人たちですから、気付かれたり、見失うことはないと思います。」

 そう言って、ミルドラを見た侍女は、大公軍団治安維持部隊に配属されていた、女性隊員一期生のイザベル・マスキアランだった。

 彼女は見た目はごくごく普通の娘だが、その体には特異な能力が備わっている。

 アルウィン達を追って行ったのは、帝都防衛部隊の隊員達らしい。

「そう。あなたの方はどう? あそこからでも話が聞き取れた?」

 ミルドラが聞くと、イザベルは片目をつぶって見せた。

「もちろんです! 私は耳もいいんです。普通の人の倍くらい遠くの声も、聞こうと思って集中してれば聞こえます」

 イザベル・マスキアランは、あの一度見たものは忘れず、それを絵として書き出すことができる、“メモリア”カマラの従姉妹である。彼女はその特異能力を買われて大公軍団に入った。その能力とは、一度聞いたことは忘れず、話すことで再生できるという能力だ。

「あっちの側にも、伏せてた人たちがいましたけど、その人たちのひそひそ話も、ちゃんと聞こえました。書き取ってロシーオ達に伝えましたから、敵の潜伏先へも隊員が回るはずです」

「そう。さすがね。あなた達みたいな人たちがいるんなら、カイエンも大丈夫かしらね。でも、油断は禁物よ」

 イザベルはぎゅっと表情を引き締めた。根っから素直な性格なのだ。

「はいっ! では、お屋敷までお供いたします。もう、暗くなりましたから、お足元にお気をつけて」 

 二人が共同墓地の入り口へ向かって去って言った後。

 そこには白い墓。その上へ枝を広げた、真っ赤なブーゲンビリアの花だけが残された。 


 




 同じ頃。

 皇宮のサヴォナローラの執務室。

 そこでは、カイエンとサヴォナローラが、二十年前からの因縁話をまとめにかかっていた。

 すでに、窓の外は真っ暗になり、そこにも武装神官の姿がちらちらと見えた。

 部屋の中では、すでにランプに火が入れられていた。

「アイーシャ様は、養女でいらしたそうですね。ご実家は裕福な商家だったそうですが、落ちぶれて。幼かったアイーシャ様はまだ子供のなかった下級官吏の元へ養女に出され、歳のやや離れていた兄君は港の港湾係の職を得た。とは言っても十代の少年です。妹を養うことは出来なかった」

 サヴォナローラは、サウルとミルドラのこと、それを影で操っていた、ファナ皇后のこと、恐らくはファナ皇后がしていただろう、サウル達三人の父、レアンドロ皇帝の妾腹の子達の殺害のこと、アルウィンが下町に入り浸った理由、などについて時系列で並べていった。

 そして、話はファナの死の疑惑と、ミルドラの降嫁から、アイーシャのことにさしかかっていた。

「そうらしいな」

 カイエンはそう言うと、すっかり固くなってしまった背中をぐっと伸ばした。ぽきぽきと凝った筋肉が悲鳴をあげる。

「お辛そうですね。大丈夫ですか? ああ、もうこんな時間ですか。お茶を新しくさせましょう。……何か召し上がりますか?」

 サヴォナローラはそう言うと、カイエンの返事を聞かずに席を立った。

 しばらくして、侍従が捧げ持ってきた、いくつかの大きな銀盆の上には、新しい紅茶のポットと、不思議な形で食物の盛られた大皿があった。

 侍従は黙ったまま、それらをサヴォナローラの執務机ではなく、脇のソファに面したテーブルの上へ置くと、静かに出ていった。

「この頃は、こんな食べ物を食べているのか?」

 カイエンは大皿の上に盛られた食べ物を、首を傾げて見た。

 そこには、まだ切られていない大きなパンの塊があり、パン切り包丁が添えてあった。その他の皿には生野菜や果物。そしてこれもまた丸のままのハムやチーズが載せられた皿。調理されたものは一つもない。

「ええ。大公宮では料理長は信用のおける者と聞いていますし、アキノさんの目もある。サグラチカさんも殿下のお食事には必ず立ち会われますでしょう。ですが、ここは皇宮です。平民の神官風情に毒味役などついてはいません。私も薬学には少しは通じていますが、調理された料理の中に潜んだ毒のすべてを見分けることなど、できませんからね」

 カイエンはちょっと目を見開いた。サヴォナローラがそこまで危機感を持っていたとは思っていなかったからだ。

 だが、オドザヤの即位を阻みたい者達からすれば、一番に邪魔なのは平民出身の神官宰相である、サヴォナローラだろう。

「なるほどな。……それでこうなるわけか。まあ、味にこだわらなければ健康的な食べ物だな」

 カイエンがそう言うと、サヴォナローラはわずかに笑いながら、器用な手つきでパンを切り始めた。

 カイエンはいつも、皿に載って運ばれてきた食事を食べるだけの人生を送ってきた。だから、手伝おうにもどうして良いのやらわからなかったので、黙って彼の手元を見ていた。

「殿下」

 すると、サヴォナローラはチーズやハムを次々に薄く切り分けながら、目線でお茶のポットを見ながら、言った。

「手伝うお気持ちがおありでしたら、そこのポットから、カップにお茶を注いでください」

「わかった」

 それくらいなら、やったことはないができるだろう、とカイエンはポットに手を伸ばした。

「お茶は大丈夫です。茶葉はパコ・ギジェンに頼んで買って来てもらったものですし、湯は武装神官の目の前で井戸から汲んで沸かさせています」

「そうか」 

 カイエンがポットを持ち上げようとすると、すかさず、サヴォナローラから声がかかった。

「取っ手も熱いですから、そこの布を挟んでお持ちください。あまり傾けると蓋が動きますので、お静かに」

 その注意は、こんなことはしたことがないであろうカイエンのために行き届いた、ご丁寧極まるものだった。

「わかった」

 カイエンは、サグラチカがいつもお茶を淹れている手元を思い出してみた。なるほど、取っ手を素手では持っていなかったし、注ぐ時もあまり傾けないように注意していた。

 ゆっくりとカイエンがお茶を注いでいるうちにも、サヴォナローラの手の中ではパンにチーズとハム、それに野菜が挟み込まれている。

 用心深いことに、サヴォナローラは塩だの胡椒だのは、部屋に置かれた戸棚の中から出してきた。

「暖かいものは、お茶しか飲めないのが辛いところです」

 そう言いながら、サヴォナローラがいくつかのサンドイッチを作り上げた時だった。

 部屋の扉を叩く音が聞こえたのは。

「なんだ?」

 サヴォナローラが答えると、静かに扉が開いた。

 そこには、侍従と、それに他の部屋で待っているはずの、カイエンの護衛騎士のシーヴの姿があった。

「こちらの騎士様が御用だそうでございます」

 丁寧に言って、侍従の方は下がっていく。

「シーヴ、どうした?」

 カイエンが聞くと、シーヴはそっと自分の後ろを振り返るようにした。

 部屋の外の廊下には、もうランプに火が入っているが、それでも昼間よりは薄暗い。そこから大きな人影が動き、意外な人物の姿が現れた。

「ヴァイロン?」

「おや、ヴァイロン殿ですか」

 カイエンと、サヴォナローラが言う前で、シーヴとヴァイロンの黒い大公軍団の制服姿が前へ動き、その後ろで静かに扉が閉められる。

「至急、ご報告すべきことだと判断いたしました」

 そう言いながら。

 ヴァイロンはまさに獣のような身のこなしで、音もなくカイエン達の座っているテーブルとソファのそばにやってきた。

 その顔は緊張していたが、翡翠色の目の色は落ち着いている。

 一瞬だけ、その目はカイエンの灰色の目と合ったが、すぐにそらされた。カイエンはそこからヴァイロンの尋常ではない緊張を感じた。  

「ミルドラ様の周りに配備していた者達が、ミルドラ様が先の大公らしき人物と会われると聞き、会見を見届けた後に後をつけ、潜伏先とみられる館を特定致しました」

 ヴァイロンの言ったことは、サヴォナローラにとっても意外だったらしい。

「えっ?」

 ミルドラが、先の大公らしき人物と会った。

 カイエンだけでなく、サヴォナローラもまた、怪訝そうな顔だ。

 ヴァイロンは、静かにうなずいた。だが彼はカイエンやサヴォナローラの顔つきには頓着せず、話を先に進めた。

「彼らが入って行ったのは、ハーマポスタールの郊外にある館です。アイリス館、と呼ばれている、元はスライゴ侯爵家の持ち物です」

 アイリス館。

 それは一昨年、あのスライゴ侯爵アルトゥール達が根城にしていた館だ。

 だが、ガラはそこに出入りしていたのだから、彼らはその場所と名前をもう知っていた。

「アイリス館、ですか? あそこはスライゴ侯爵の財産を接収した時に、競売にかけて売り払うように指示したはずです。買い主も把握しています」

「へえ」

 カイエンはやや不機嫌そうに聞いていたが、口は挟まなかった。彼女はもう、サヴォナローラのやり方には慣れっこになっていたからだ。

「話を戻しましょう。ヴァイロン殿、ミルドラ公爵夫人はまさか……」

 サヴォナローラは眉間に深い皺を寄せた。

 兄である皇帝の喪中であるミルドラだ。彼女も夫であるクリストラ公爵も、社交は控え、屋敷にこもっていると聞いていたからだ。

「はい。侍女として治安維持部隊からイザベル・マスキアランをつけておりました。今日、手紙をお受け取りになり、にわかにお出かけになったそうです」

「どこへ?」

 カイエンが聞きとがめると、ヴァイロンはそこに立ったまま、やや言いにくそうに顔を伏せた。

 だが、すぐに彼は顔を上げ、カイエンの顔だけを見た。

「殿下がお建てになった、異母弟おとうと君の墓へです」

「カルロスの?」

 カイエンは自分の声が、やや掠れていたので、小さく咳をした。

「あんなところで、伯母様は何を?」

 次に、ヴァイロンが言った言葉は、カイエンを座っていたソファから飛び上がらせるほどの効果があった。

「どうか、驚かれませんように、殿下。……ミルドラ様は、あの方、先の大公と間違いなく、お会いになられたそうです。これは、公爵夫人からも、共にいたイザベル・マスキアラン隊員からも確認しております」

 先の大公。

 カイエンが、アルウィンの名前を聞くのさえ嫌がっていることをよく知っている彼は、言葉を選んで言ったのだ。

「あいつ……! あいつは、螺旋帝国へ向かっているのではなかったのか?!」

 カイエンはサヴォナローラの方へ向き直って詰った。

 心の中では、あの悲惨な結婚式でエルネストの言ったことが虚構だったことにも怒りを感じていた。

 だが、目に映ったサヴォナローラの顔を見て、カイエンは次の言葉が言えなくなった。

 サヴォナローラの真っ青な目の焦点が、一瞬の間、遠くを見るようにぼやけ、それから戻ってきた時。その顔には、今までカイエン達が見たことのなかった表情が浮かんでいたからだ。

 それは、恐らくは怒りの表情だったのだろう。

 顔全体の筋肉が緊張し、真っ青な目は爛々と輝き、日頃の彼の冷徹だが、穏やかそうな様子は吹き飛んでいた。

 どん。

 そして、サヴォナローラは黙ったまま、テーブルをその拳で叩いたのだ。このいつも冷静な神官宰相が、人前でこんな行動を見せるなどとは誰も想像さえしていなかっただろう。

 叩かれたテーブルの上で、食物の載った皿ががちゃん、と音を立てた。

 これには、カイエンだけでなく、ヴァイロンもシーヴもびくっと体を震わせてしまった。

「大公殿下」

 そして、テーブルを叩いたおのれの拳だけを見ながら、サヴォナローラはカイエンの名を呼んだ。

「カイエン様。私は、私、いいえ、サウル様もあの人のことが、まだちゃんと分かっていなかったようです」

「ええ?」

「あの人を過大評価していた。いいえ、シイナドラドで殿下になさったこと、あの酷い仕打ちを知って、あの人は自分の欲望のためだけに動いていると、もう人の心など持たない人だと決めつけてしまったのです」

 カイエンも、ヴァイロンも、シーヴも言葉を挟めなかった。

 彼らもまた、アルウィンはもう人でなしになったのだと思っていたからだ。

「でも、今、この時期にここへ戻ってきたとは! 恐ろしい。……あいつは、まだ人間のふりを続ける気なのですよ。人間のふりをしてまだ、私たちを惑わせようというのです!」

 サヴォナローラの言っていることは、カイエンにもヴァイロンにも、そしてシーヴにもちゃんと聞こえていた。だが、聞こえていたのに、彼らは、その言葉の真意をはかりかねていた。

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