失われた水平線

 街道右脇の立木に持たれるようにして停止した、カイエンの馬車の反対側。

 真っ暗な街道の左側で、もう一台の黒い小さな馬車が向かい合う方向を向いて、止まっている。

 向こうもこっちも馬車にランプを取り付けているので、うっすらとだが、その場の状況は見て取れた。

 あちらも、馬車をひく馬が反対側の畑に落ち込んでしまい、往生しているところだ。

 カイエンとサヴォナローラと同じように、向こうの馬車の中の人間も、馬車から出てくるところだった。

 ナシオにとって来させた馬車のランプで、相手側の馬車から降りてきた二人組を見た途端。

 カイエンは、もう、自分の次にすることを止めることが出来なかった。

 彼女とて、そんな叫び声になんの力もないことは、十分にわかっていた。それでも、その時はおのれの中の激情に身を任せるべきだと、心の中の冷静な部分が命じていたのだ。


「……あ、あ、あ、あああ、ああああああああ」


 カイエンはとても若い女が上げるとは思えないような、腹の底から出てくる太い声で叫んでいた。

 みっともない、無様な、まるで恐れおののく野獣のような。尻尾を隠し地に這って逃げ出したいのに逃げることができない狼のような。

 それは、その這っている地べたから、単純な恐れが弱い動物に上げさせている、恐怖の叫びだった。

 いや、恐怖の中にありながら、それを超える怒りがその雄叫びの根底に確かに存在している種類の。つまりは、人間らしく言葉で表現することなど出来ない、深い深い心の底からの叫びだったのだろう。

 一方で、まだその叫びが終わらぬうちに、カイエン以外の男たちは無駄なく動いている。

「大公殿下!」

 元はザラ大将軍の影使いだった、ノルテのナシオが、さっとカイエンとサヴォナローラの前へ出た。

 彼は持っていた馬車のランプを自分の横に置くと、向かいの馬車から出てきた二人と、カイエンたちとの中間の位置に立ちはだかった。そして、その両手には、すでに抜き放たれた剣とナイフがあった。

 彼は目だけでカイエンの馬車の御者に合図し、立木にもたれかかって止まっている馬車と馬を街道へ戻すように指示する。

 ほとんど同時に、ヴァイロンと共に馬車に並走してきていたサンデュがさっと動いて御者を助けるほうへ回った。帝都防衛部隊の訓練では試験で落第を繰り返し、マテオ・ソーサを悩ませた男だが、臨機応変な対応には秀でているようだ。

「カイエン様、いけません!」

 サヴォナローラの方は、カイエンの視線を遮るように彼女の真ん前に立ちふさがる。

 ヴァイロンの強壮な腕の中に抱えられていながら、カイエンは叫びながら、もどかしく前方へ体を伸ばそうとしていたからだ。

 あの相手に掴み掛かりたい気持ちが、彼女をそうさせていることは、ヴァイロンにもサヴォナローラにもよくわかっていた。それでもカイエンをあの、道の反対側に支えあうようにして佇んでいるあの男たちのもとへ行かせるわけにはいかなかった。

「あああああああ。あそこに、あそこに! あいつ、あいつがいる! ……畜生! 離せえっ!」

 カイエンは叫び声を上げて、体をよじった。だが、中腰になったヴァイロンにしっかりと体を後ろから抱きかかえられていては、ほとんど自由にならない。 

「だめです! あなたはもう、あの人たちに近づいてはいけない!」

 首の後ろから聞こえる太い声に、カイエンは振り返りもせずに怒鳴り返した。

「うるさい! ここで会ったのは天の采配じゃないか! 邪魔するな!」

 アルウィンに会ったら、ああ言ってやろう、こう罵ってやろう。

 彼女はこの足掛け二年、ずっと思っていた。

 娘さえも騙して自分の死を偽り、たった十五の娘の肩に己の責務すべてを振り落として。そして、腹心一人を連れて、ハウヤ帝国東側の国々の向こうへと飛び出して行った、無責任な父親。

 カイエンの心と体に、いくつもの新しい傷をつけた、その元凶。

 それが今、目の前にいる!


「……この! 殺してやる、あのクソ野郎!」


 カイエンが普段、身につけているもので武器になりそうなものといえば、小さな護身用のナイフの他には、いつも左手の中にある、銀の彫刻された握り手のついた、黒檀の杖だけだ。

 だが、その杖には鉛が流し込んであり、実はかなり重いものだ。去年、皇宮のバラ園で第四妾妃星辰のアイーシャ暗殺を阻止できたのも、そのおかげだった。カイエンはその杖を振り上げることはできなかったので、まっすぐに自分の父親だった男に突きつけた。

「私は決して許さないぞ! お前のしやがったことを、決して。決して……」

 そして。

 カイエンの叫びに対する、彼女の激情の対象である男の答えは、あまりにもあまりなものだった。

 アルウィンは呆れたような声で言ったのだ。

「カイエン、お前は本当に直情的だねえ。少しは大人になったと聞いていたけれど。……なんだか、柄が悪くなっただけだったねえ。その顔の傷といい、場末の、それも下っ端のやくざみたいだよ」

 カイエンはアルウィンの言ったことは、彼女を苛立たせるためとはわかっていたが、言い返さずにはいられなかった。

「やかましい! 顔の傷のことまで、余計なお世話だ! お前のやったことのせいじゃないか。それを、それを、よくもそんな口がきけたな……」

 そうして言葉を交わしてみると、この、今やお互いを「お前」呼ばわりしている父娘は顔だけではなく、声の響きもまた男女の違いこそあれよく似ていた。そのことにサヴォナローラやグスマンはそれぞれに違った表情で反応した。

 サヴォナローラは痛ましいものをみるような目で。

 そしてグスマンの方は、なんだか微笑ましいものを見ているような、優しげといってもいいような目つきで。

 激昂したカイエンはなおも言い募ろうとしたが、口では売り言葉に買い言葉でアルウィンを罵りつつも、不思議なことに頭の後ろ半分には冷えて周りを見ている部分もあった。

 今、罵り言葉を次々に相手の前に放り出しているのは、彼女の抑えるすべのない、まさにアルウィンが言う通りの「直情的」な部分だったのだろう。

 だがもはや娘ではなく、望まない子供を宿し、そして失い、望まない相手との結婚をし、リリを引き取り、今や次のハウヤ帝国の支配者を支えるべき立場に「ならされた」、新しいカイエンの部分も、確かにあったのだ。

「っつ!」

 カイエンは彼女を止めるために、両腕を左右から掴んだ形になっていたヴァイロンとサヴォナローラの手に伝わるように、両腕に不自然に細切れに力を入れた。

 自分はまだちゃんと目が見えている、と伝えたのだ。

 ヴァイロンも、サヴォナローラも表情一筋、変えなかった。それでも、カイエンの意志は伝わったようだ。彼らにも今、この時の自分たちの役割はちゃんとわかっていた。

 もちろん、ヴァイロンが飛び出せば、アルウィンたち主従二人と御者など、叩きのめし、捕えるのは簡単かもしれない。だが、さすがに一瞬では成し遂げられない。すでにそれができるタイミングも失ってしまっていた。

 何よりもヴァイロン自身の中で、「迂闊に動くな」と囁く声があったからだ。それに、彼は第一にカイエンを守らねばならなかった。

 それは実は彼らの前で、グスマンと対峙しているナシオも同じだった。

 やがて、彼らには自分を前に出させないものの正体が、おぼろげに感じ取れてきた。それは、アルウィンを守るように立ちはだかった、冴えない中背の中年の男の存在だった。

 アルベルト・グスマン。

 前の大公軍団団長がかもしだす雰囲気が、彼らを警戒させていたのだ。

「だめだよ。仮にも父さんを『お前』なんて呼んじゃあ」

 グスマンに守られながら、馬車の復旧に務める従者たちを後ろに、カイエンに対峙したアルウィンもまた。

 彼もやはり、くえない男だった。

「それとも、ここで出会ったのが運命、とばかりに親子の縁でも切ろうって言うの?」

 どこまで今のカイエンの心の内を見ているのかはわからないが、彼はカイエンにとっては怪物なのだ。 

 カイエンはアルウィンへの返答はもう、自分の心の声に従うことに決めていた。冷静に事態を見ている自分がちゃんといる。それならば、ここで言いたかったことは全部さらけ出してやったほうがいい。

 そう思っていた。だって、もうこの先、こんな風にアルウィンと対峙することなどないかもしれないのだ。気持ちよく、腹のなかの真黒な部分すべてをさらけ出してやりたかった。

 一昨年までの彼女であれば、そういったことは「みっともない、恥ずかしい」と思ったかもしれない。だが、その点ではもうカイエンは次の季節を生きる、ずうずうしい女になっていた。

「おう、そうだな。そっちがそう言ってくれるんなら、ぜひ、そうお願いしたいね。私にはもう、お前みたいなクソ親父は必要じゃない」

 カイエンがそう言うと、アルウィンはちょっとだけ、暗いランプの光の中で瞬きした。カイエンの声音に何かを感じ取ったのだろう。

「お前の親切丁寧な『お節介』も、意地の悪い『支配』も、もうたくさんなんだよ! お前が死ぬ時は、皆に忘れられて、ひとりぼっちで死ね! 私はもう、お前の子供なんかじゃない!」

 カイエンは一番、言いたかったことを、とうとう口から出すことが出来た。

 これは、縁切り状だ。向こうも言っていたじゃないか。だから縁切りでいいんだ。

「へえ。カイエンも、姉さんと同じようなことを言うんだあ」

 アルウィンは独り言を言った。その声はすぐそばにいたグスマンにしか聞こえなかった。ミルドラに言われた言葉を思い出したのだろう。

(お前はこれからも失うばかりよ。妻も愛人も娘も息子も、兄弟も。そこにいる男以外の何もかもを、その手のひらから落ちていく砂のように失っていくの。おまえがしようとしている、馬鹿げたことと引き換えにね)

 だが、アルウィンはそう簡単に言い負かされるような男ではなかった。

「……そんな事言ってるけど、お前はそうやってヴァイロンに守られて、幸せだろうカイエン? お父さんはちゃんとわかっていたんだ。お前みたいな子には、ヴァイロンみたいな暑苦しいくらいなのがそばにいるのがいいんだってね」

 ふふふ。

 アルウィンはいやらしい含み笑いをくっつけることも、忘れない。今のこの事態の時間稼ぎのために、カイエンを苛立たせたいのだと、その全身が言っていた。その態度はどう見ても人の親の態度ではなかった。

 その憎らしい顔を見ながら、カイエンは一番聞きたかったことを聞くことにした。

「お前は一体……一体何を望んでいるんだ。何が欲しくて人々を操ろうとしているんだ?」

 おのれの妖しい魅力で仲間を集め、カイエンの人生を操り、兄である皇帝サウルをも操り。そして、遠く螺旋帝国の革命に首を突っ込み、古の桔梗星団派を蘇らせて、シイナドラドの皇王家に潜り込み……。おそらくは彼の張り巡らせた蜘蛛の糸は、ハウヤ帝国の周辺国にも及んでいるのだろう。


「新世界だよ」


 そして。

 カイエンの問いに対するアルウィンの答えは、あまりにも簡潔なものだった。

「新世界……? なんの? どこの? 誰の世界を!? どうやって?」

 カイエンは間を置くこともなく、当然の質問をぶつけた。相手の言ったことが、とっさには理解できないことだったから。

「ははあ。カイエンは女の子だからわからないかな。……新世界と言ったら新世界なんだよ。この手の届く、いいや、この頭の中で想像できる限界の彼方まで続く、新しい世界だよ! そこへたどり着くために、僕はこの世界に影響し、作用し、変革して行きたいんだ!」

「とんだ誇大妄想狂メガロマニアですねえ。あなた様は」

 サヴォナローラが呆れたように口を挟んだが、彼の言葉は父親にも娘にも無視された。

 カイエンは憤っていた。

 憤りのあまり、彼女は拳を握りしめ、一瞬だけ顔を伏せた。そう、真っ暗な街道の地べたの方へ。

 ことここへ来て、「女の子だからわからないかな」とは。

 その「女の子」を今まで利用し、これからも利用しようとしている父親が何を言うのか。

 実のところ、カイエンが苛立ったのは、アルウィンの言ったことすべてが理解できないことではなかったからだった。

 一部は頭の中で理解できてしまっていた。

 サヴォナローラの言った、「誇大妄想狂メガロマニア」という言葉が、彼女に思い出させたからだ。

 あれはまだ、アルウィンがいた頃か、それとも大公になった十五の頃か。

 彼女はたまたま読んだ一冊の本に夢中になった時期があった。

 その本は螺旋帝国渡りの本で、あの頼 國仁が故郷へ帰ると言って、暇乞いに来た時に置いて行ったものだった。まだ翻訳も出てはおらず、螺旋文字の読み書きのできるカイエンだからこそ読めたものだ。

 それは小説で、タイトルは「失われた水平線」だった。

 この世からつまはじきにされた変わり者や愚者、道化者たちが、一人の「誇大妄想狂メガロマニア」に連れられ、世の人々に嘲笑われながらも、阿呆船に乗って、遥かなる水平線の向こうの新世界シャングリラを目指す、という荒唐無稽な話だ。

 この本を読んでしばらく、カイエンは大公宮の最上階へ登っては、ぼうっとハーマポスタールの港の向こうに広がる、西の大海の水平線を眺めてため息をついていたものだった。

 あの時、彼女がなりたかったのは、主人公の「誇大妄想狂メガロマニア」その人だった。

 だから、アルウィンの少ない言葉の中に、彼の夢想している新世界とやらの姿が見えてしまったのだろう。

 それは、決してこの世に具現しない「新世界」だ。彼女には青い青い海の彼方へと向かっていく、阿呆船の姿が見えていた。

 あの「失われた水平線」の最後、阿呆船の人々は一人残らず狂ってしまう。新世界シャングリラに着いた船から降りてきたのは、愚者ではなく、狂人たちの群れだったのだ。

 あの本の結末は、恐らくアルウィンも知っているだろうに。

 それでも。それでもあの男はやめないのだろう。

 だが、カイエンの方はこの大地に縫い込められた、ハーマポスタールの大公だった。何もかも惜しげも無く捨て去って、ここから逃げて行ったアルウィンとは違うのだ。彼女はあの水平線を越えていく道は選べなかった。

 カイエンにはよくわかっていた。アルウィンの言った通りだと。

 彼女は女で、そしてその体は新世界まで旅していくには脆弱すぎた。

 彼女には最初から、逃げていく新世界シャングリラなどないのだ。

 彼女はここにいて、この街を守っていく。もう、そう決めていたから。

 だから、カイエンがアルウィンの方へ向けて顔を上げた時、その表情は意外なくらい静かだった。

「そうか。……よくわかった。お前は世間に捨てられた愚者どもを引き連れ、阿呆船に乗って、世界の果てを目指すと言うのだな」

 カイエンは今更に思い当たっていた。

 自分の死を偽装してまで、大公の地位を放り出して桔梗星団派を率い、頼 國仁とともに、螺旋帝国へ旅立つ方を選んだアルウィン。

 頼 國仁は親に置いていかれるカイエンへ、精一杯の気持ちであの本を置いて行ったのだろう。

「……そうだよ」

 アルウィンの方は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。

 彼はカイエンが、あの物語の誇大妄想狂メガロマニアになりたかったことなど、知りもしなかったのだろう。


「羨ましいな。だから、男は嫌いだ」


 カイエンが仏頂面をしてそう言い切ると、近くにいた男たちすべてが動きを止めた。特にカイエンには見えなかったが、後ろと真横にいた、ヴァイロンとサヴォナローラの顔つきは見ものだった。

「だが、私はもう知ってしまった。私は女だ。男にはなれない。だから、私はお前を憎む、そして妬む。だが、私はそれだけでは終わらないぞ」

 カイエンは続けた。彼女は、左手に持った黒檀の杖の石突きで、どんと、街道の地面を突き刺した。

「私の世界はここにある。この、私の足の下に。初めて歩いた日から踏みつけている、この足の下にだ。私は、何度転んでもここから這って立ち上がって来た。だからこそ、私はこの大地の固さ、世界の厳しさ、世界のもたらす痛みが、体をもって理解出来ている」

 アルウィンは黙ったまま聞いていた。

 カイエンが子供の頃、何度もなんども転んでは這い上がりながら、歩けるまで練習したことを、父親である彼は横にいてずっと見ていたのだから。

「お前などには、大地を踏みしめてやっとの事で立っている、そういう人間でいることをやめたお前には、背中に翼でもあると勘違いしているようなお前には」

 カイエンは言葉を切った。


「……お前には、永遠に新世界など、手に入れられない。さっさと諦めてのたれ死ね、クソ親父!」


 だが。

 カイエンの言葉は、彼女が心の中でとっくに知っていたように、アルウィンの心には響かなかった。

「そう。そうなの、カイエン。お前は僕がわかっているのに、それなのに僕を否定するんだね」

 アルウィンの、いつも微笑んでいるのが普通になってしまっていた表情が冷たく捩れた。

「そこにいるヴァイロンも、サヴォナローラも、僕がお前のために用意して、お前を守るためにあげたのに、お前が今もっているもののほとんどは、僕がお前にあげたものなのに。そうだろ? お前のその命だって、僕がお前にあげたのに」 

 二人の父娘は、外見とは違って性格や性情の方はあまり似ていなかった。だが、これだけはよく似た強情な性格のままに睨み合った。

 カイエンの心にその時あったのは、ただ、怒りと悲しみだった。たった一人の父親と、天と地ほどに離れてしまった乖離したこころ。

 なまじ、幼い頃に自分とそっくりな父親に慈しまれた記憶があるだけに、その痛みは今や、物理的にナイフで胸を抉られているようだった。泣き出さなかったのが、いっそ不思議だった。 

「アルウィン様、おやめください」

 そこで、アルウィンの言葉に反応したのは、カイエンではなかった。

「……おやめください。カイエン様は、この二年間、ずっと苦しまれてきたのです」

 静かな声だった。

「あなた様には決してお分かりにはならない。カイエン様は、お体でもお心でもずっと……」

(あなたのしたことのせいで、痛めつけられて来られたのですよ)

 カイエンは驚いたが、彼女の体を後ろから抱えている、頼もしくも暖かい腕の持ち主の顔を見ることは出来なかった。

「あなた一人をこの世から消し去れば、カイエン様の苦しみが永遠に去るというならば、私は今ここでそうしていたでしょう」

 だが。

 ヴァイロンは、しっかりと、だが彼女が痛みを感じないように力を加減して、カイエンを抱きすくめながら、翡翠色の目を閉じた。

「だが。そうではない……」

 アルウィンは答えない。

 ヴァイロンの言葉のあとを、サヴォナローラが引き取った。

「……もはや、あなたという存在はこの世から排除されるべき存在なのでしょう。しかし、それだけでは解決などない。……すでに、あなたの勢力はこのパナメリゴ大陸の国々を混乱の時代へと誘い、焚き付けてしまいましたからね」

 サヴォナローラの落ち着いた言葉を聞いて、カイエンは、怒りと悲しみの世界から、乱暴に引き剥がされたように現実に、この夜のハーマポスタール郊外の街道へ戻ってきていた。

「……ヴァイロン、気をつけろ。なんだか変だ」

 その時、本能的な恐怖を感じて、カイエンはすぐそばにあるヴァイロンの耳以外には聞き取れないほどの小声で囁いた。

 その時だった。

 まず、顔をあげ、アルウィンたちの馬車がやってきた方向、それはあの燃え上がるアイリス館の見えた方向であったが、を見たのはヴァイロンだった。彼の獣人の血を引く耳には、いの一番にそれが聞こえたのだ。

 次に気がついたのは影使いのナシオ、そしてなぜか耳のいい、カイエンだった。

「たくさん来るぞ」

 カイエンはサヴォナローラの方を見上げた。サヴォナローラにも聞こえたようだ。

「ええ。あの方達の手のものを追ってきたのでしょう。……大公軍団の人たちですよ」

 その時には、カイエンの後ろでも、アルウィンの後ろでも、二台の馬車は街道の上へ引き上げられ、馬も元の位置に戻されつつあった。

 最初に、街道を塞いだ二台の馬車のところまでたどり着いたのは、どうやらアルウィンの手下のもの達らしかった。全員が騎乗している。

 彼らはアルウィンの馬車の後ろで馬を止めると、さっと馬車を守るように前後に散らばった。

 その時には、けたたましい蹄の音を響かせて、真っ黒な大公軍団の制服を着た一隊もそこに到達していた。おそらくは燃えるアイリス館から追って来た彼らも、素早く見極めてカイエンの馬車の周りを取り囲んだ。

 たいして広くもない街道は、今や二つの勢力が伯仲し、目の前で対峙する事態となっていた。 

「おやおや、とんだ修羅場ですねぇ、こりゃあ」

 その、とぼけた声が聞こえた時には、カイエンはヴァイロンとサヴォナローラに引っ張られ、乗ってきた馬車の影まで引き戻されていた。

 すでに馬と馬車は、御者とサンデュによって街道の上へ戻されている。

「イリヤか!」 

 カイエンが、今更ながら思い出した彼への怒りと共にイリヤの名を呼んだ時には、もうイリヤ達の馬がカイエンの馬車の周りに立ちはだかっていた。

「殿下ぁ〜。この通り、ちゃんと働いてますから、いじめるのは後にしてくださいねえ」

 言い訳しながらも、大公軍団の恐怖の伊達男は、散開させた隊員達を飛び道具の準備をさせていた。同時に、彼らは敵からの攻撃を予測して、馬車を盾にすべく背後に引き下がる。

 それは、アルウィン達の側も同じだった。

「いじめられる心当たりはあるんだな?」

「そりゃあ。……こんな事態になっちゃ、もう、全部バレてるでしょうから、しょうがないでしょ」 

 カイエンとイリヤがそこまでやりとりした時には、向こうからもこっちからも、十字弓クロスボウの矢が放たれていた。

 ハウヤ帝国の海軍にはもう、火薬を使った火器が装備されようとしていたが、未だ陸戦にはほとんど用いられていなかった。大弓は構えるのに場所を取り、また体を敵の前にさらけ出さなければ使えないため、大公軍団では十字弓クロスボウが使われていた。

 バタバタと敵の撃った鉄の鏃がカイエンの馬車に刺さる。

 矢を防ぐため、隊員達は馬車の扉を開き、その影に回った。こんな時のために、大公軍団の馬車には鋼鉄が木の間に挟まれて使われている。

 馬に乗ったままの隊員は、一段下がった畑との間に積み上げられた石垣の後ろへ退避していた。

 その時には、もう非戦闘員である、カイエンとサヴォナローラは馬車の中に押し込まれ、馬車の床面に這いつくばっていた。

 ヴァイロンはカイエンとサヴォナローラを馬車の床に伏せさせると、本能的に前に残ったナシオのところへ駆けつけようとした。だが、体の大きい彼は飛んでくる矢にはいい標的になってしまう。戦場ならば盾があるが、今、ここにはない。

 それでも出ようとすると、ヴァイロンの襟首をイリヤが掴んで引き戻した。

 イリヤはヴァイロンの襟首を掴んだまま、前方に一人だけで矢面に立っている男へ向かって叫んだ。

「ナシオ! 相手しちゃだめだ! そいつの得物には毒が塗ってあるぞ!」

 飛び交う矢の中、それでもグスマンへ追いすがろうとしたナシオの背中へ、イリヤの声が飛ぶ。 

「懐に手ぇ入れさせるな。どうせ色々仕込んでやがるからなぁ。もうこうなっちゃしょうがねえ、下がれる時に下がれ!」

 矢が飛び交う中でも、最後まで前に残っていたナシオとグスマンは、剣を交えて押し合っていたのだ。

「おや。その声はイリヤボルトだね。お前も偉そうになったものだ!」

 ナシオの繰り出す刃を受けながら、グスマンは楽しそうだ。

 誰の記憶にも残らない、平々凡々たる容姿のナシオだが、年齢は四十過ぎのグスマンよりはかなり若い。

 それでも、ナシオは押し負けている自分を感じていた。実は彼の刃にも毒が塗りつけられていたにも関わらず。グスマンは、恐ろしいほどの手練れだった。

「うっせーよ。退役定年した、じじい隊員は黙ってな! 俺様の天下がうらやましーか? クソじじーが!」

 イリヤがグスマンを罵る言葉が、先ほどカイエンがアルウィンを罵った言葉とほとんど同じなのが、こんな事態の最中、なんだか喜劇のようだ。

 なおも憎まれ口の止まらない声が、だんだんそばに寄ってくる。やがてイリヤは馬から降りたらしく、声が、馬車の床にサヴォナローラと一緒に横たわったカイエンのすぐ足元へ来た。

「殿下。アイリス館の現場で頑張ったんですけど、いえ、本当にマジで真面目に冷静に、隙なく手抜きもせずに対応したんですけどね。なぜだか、逃げられちゃったんです。……まさかここで、殿下の馬車が堰き止めてくださってるとは思ってもみなかったですよ」

「そうか。精一杯の努力はしたんだな」

 カイエンは、どすっ、どすっと、馬車の窓を通り抜けて刺さる、矢の音にビビりつつも、なんとか答えた。

「今のところ、数は向こうと同じくらいです。でもねえ、あのグスマンの手下ですから、敵は十字弓クロスボウの矢に毒を塗ってやがるでしょう。その点ではこっちが不利ですねえ」

「そうか」

 カイエンはもう、イリヤの言いたいことがわかった。

「捕縛は無理か?」

 カイエンが聞くと、イリヤは申し訳なさそうに、声だけはひそめて言った。

「はぁ。……捕まるくらいなら、グスマンはあの人を道連れにしますよ。正直、俺はそれでもいいんですけど、その前にナシオが血祭りに上げられそうです」

「ええ!?」

 カイエンは思わず、馬車の床から顔をあげようとして、サヴォナローラとイリヤの二人から頭を押さえつけられた。

「危ないっ」

 カイエンは二つの大きな手のひらで、思い切り顔を馬車の床に擦り付けられる羽目になった。それでも悲鳴一つ上げないくらいには、もう彼女も修羅場慣れしてきていた。

 その時にはもう、アルウィンたちは動き始めている。

 彼らの側は手下の生き死になど、構ってはいなかった。

 何人かが射殺されたと見るや、馬も馬車も動き始めていた。こればかりは、部下の命を気にしたカイエン達の負けだった。

「申し訳もございません」

 とうとう、グスマンと対峙していたナシオも馬車のそばに退避して来た。

 さすがのナシオも、グスマンの相手は大変だったようで、息が弾んでいる。

「いいよぉ。生きてなくっちゃ、これから殿下の役に立たないからねー」

 イリヤの方は落ち着いていた。

「街道の先の大公軍団の番所には、もう他の道から連絡してます。まー、あのおっさんたちのやることですから、最後までは追えないでしょうけど、少なくともこの国を出るまではなんとか追えますよ。宰相さんの手下もまだパナメリゴ街道沿いに残ってますしね。そっちへも連絡は済んでます」

 カイエンがサヴォナローラの顔を見ると、彼はうなずいた。

「殿下がシイナドラドへいらした折の人員は、そのままパナメリゴ街道に残しております」

 カイエンが疑い深い顔で見ると、サヴォナローラは生真面目な顔をした。

「あの人たちは、今度こそ螺旋帝国へ向かうでしょう。ご安心ください。螺旋帝国までも追えるものをすでに配備しております。……アストロナータ神官の武装神官から選び抜きました人員です。かの国からの連絡網も、すでに引き終わっております」

 カイエンもサヴォナローラも、まだ馬車の床の上に伏せたまま。

 そんな状態で交わされたのは、なんとも殺伐たる事実の報告であった。








 そうして。

 カイエン達は、もう朝になろうという時刻になって、大公宮へ戻って来ていた。

 皇宮へ戻るべきサヴォナローラも付いて来たところを見ると、彼もまた疲れ果てていたのだろう。

 皇帝の親衛隊の隊長である、モンドラゴン子爵ウリセスがオドザヤの女帝即位に反対する勢力に組した今、平民出身の神官宰相たるサヴォナローラは、皇宮の中で安心して眠ることなどできはしなかったのだから。

 彼らを迎えたのは、執事のアキノ、カイエンの乳母のサグラチカ。皇宮からこっちに先に戻っていたシーヴ、女騎士のブランカ、女中頭のルーサ、それに後宮から出てきたマテオ・ソーサとガラだった。

「ただいまあ」

 カイエンとヴァイロン、それにナシオは、カイエンの居間に入るなり、迎えに出た人々に質問ぜめにあった。

 イリヤの姿はそこにはない。

「じゃー、殿下、宰相さん、俺はもうちょっと街道先からの報告を聞いてから戻りますねー。宰相さんの手下の者達からもなんか言ってくるでしょーし。……あー、眠い。あーあー。今日も徹夜かあ」

 ぼやきながら、イリヤは隊員のサンデュと共に、現場に残った。焼け落ちたアイリス館にも大公軍団の、これは治安維持部隊が駆けつけて捜査に当たっているはずだ。

 イリヤはカイエンがシイナドラドへ行っていた留守に、何度かカイエンの代わりに皇宮のサヴォナローラのところへ打ち合わせに行っていた。それに、元は同じアルウィンの子飼いだから、お互いにいやーな気持ちではありながらもするべき仕事に関してはちゃんと協力していたらしい。


 そして、カイエンはと言うと、質問ぜめの途中で寝てしまい、起きた時にはもう、寝室の窓の外は午後もかなり過ぎた時刻になっていた。  

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