月蝕


 微かな音がして

 扉は永遠に閉ざされた

 告死天使が彼を迎えにきた時

 彼はその貌に深い安らぎを刻んで

 もはや昔日となった日々の苦悩を放棄していた


 さあ

 還りましょう

 天使は彼の

 もはや疲れも懊悩も憧れも

 そしてうたかたのせつない想いも放棄した

 何もない貌を

 静かにその両手に挟み込んだ

 さあ

 迎えにきましたよ

 さあ

 一緒に還りましょう


 そして

 天使の腕の中に

 彼の体は壊れ物のように崩れた

 もはやこの世になんの未練も遺さずに


 月は隠れ

 赤銅色しゃくどういろの円盤が西の空へ沈む

 月の時代は終わり

 真っ暗な空に

 人々は惑う


 だが恐れることはない

 光のない空などこの世に存在しない

 昼には太陽が

 夜には星が

 この世を照らす

 明るい恒星の時代に到るまで

 時間はかかるが

 必ず彼の想いは彼女に届く





   アル・アアシャー  「月蝕」



 





「あぁああああああああああああ。アイーシャ様ぁ」

「おお、なんて、なんて恐ろしい……」

 叫び続けるジョランダの声と、誰か侍女か女官が、この恐ろしい光景を見て腰を抜かしたらしく、その嗚咽する声とが異常な空気の中で唱和する。

「侍医を! 侍医を呼びなさい!」

 女官長コンスタンサが命じる声が聞こえる。

 親衛隊は後宮へ入れない。だから、この大事に素早く動けるものは女騎士たちと、経験を積んだ中年以上の女官たちだけだ。

 何人かが皇后宮の外へ向かう扉へ走る。

 アイーシャは去年十二月の出産からこのかた、ずっと錯乱したままだったから、侍医はそう遠くでないところに控えているはずだ。だが、このハウヤ帝国の国立医薬院に入れるのは男だけなので、侍医も当然男である。だから控えているのは後宮の外なのだろう。

 サウルが死んでいることは、その見開いた灰色の目の、開いた真っ黒な瞳孔と、光を失った質感で誰にでもすぐにわかった。

 だが、アイーシャの方は。

 どうやら、この光景を発見したものたちは恐怖と畏れおおさに皇帝と皇后の生き死にの判別さえしていないようだった。

 カイエンはつかの間、オドザヤと並んで放心していたが、すぐにそれに気が付いて、後ろに付いてきていたトリニとブランカの方を振り向いた。

「トリニ! 遠慮はいらない、侍医が来るにはまだ時間がかかる。診てくれ!」

「ええっ」

 身分をはばかって二の足を踏むトリニの方へよろめきつつも歩み寄ると、カイエンは自分よりもかなり背の高いトリニの腕をとって、サウルたちの倒れ伏している薔薇色と金色に彩られた寝台の方へと引っ張った。

「女騎士たちも多少は心得があるだろうが、トリニはルカにいろいろ教わっているんだろう? 責任はもちろん、私が取る」

 トリニの幼馴染で、マテオ・ソーサの私塾の生徒だったルカ・エヴァンヘリオは国立医薬院を卒業した医師だ。トリニは子供の頃は医師を志望しており、彼にいろいろ教わったと前に聞いたことがあったのだ。

「はい!」

 カイエンはトリニの後について、寝台の反対側へ素早く動いた。すぐに気が付いた女官長のコンスタンサが後に続く。

 薔薇色の寝具の上に倒れた二人のの恐ろしい光景。

 だが、トリニはそれを近々と見て、かえって落ち着いてきたらしい。

「失礼致します」

 コンスタンサへ目礼すると、トリニはサウルの首元へ手をやったが、すぐに首を振って手を離した。

 そして、サウルの黄色い枯れ木のような手を恐れげもなく掴み、そっと、だが迷いのない手つきで、それを素早くアイーシャの首から引き剥がした。

 彼女が見ても、サウルはもうこの世へは引き戻せない遠くへ行ってしまっていたのだろう。トリニはもう、サウルには構いもしなかった。

 そして、サウルには目もくれず、アイーシャの顔にかかった黄金色の髪をそっと払った。

「!」

 その途端。カイエンはびくりと自分の体が動くのを止めることができなかった。

 嗚呼。

 輝く美貌を歌われた、宝石の君、皇后アイーシャの美貌はもはやそこにはなかった。

 てきぱきと動くトリニの手の下にある、アイーシャの顔はやつれ果て、化粧気もなく。真っ白なそそけたって乾燥した皮膚は色艶を失ってしぼんでいた。

 首を絞められたうっ血で浮腫んだように見える顔は、三十六歳という年齢にはとても見えなかった。食事も足りてはいないのだろう。黄金色の髪にも、近くで見ればそこここに銀色の髪が混ざっていた。

 カイエンがアイーシャの顔を最後に見たのは、去年の夏の、あの「お茶会」の時だが、あの時は久方ぶりの妊娠に精神的にも充実して、年齢より十も若く見えたアイーシャであったのに。その面影はもはやどこにもなかった。半年近い病床での生活は、彼女から瑞々しさと美しさを根こそぎ奪い去ってしまっていた。

「お姉様……」

 何もかも知っているカイエンの妹は、一見、落ち着いているように見えた。彼女はそっとカイエンの腕を支えながら言った。

「お母様は気がつくと錯乱されて暴れられるので、ずっと鎮静剤を服用しておられたんです。ですから、ずっと寝たきりでいらして……」

「そうでしたか……」

 そうは答えたものの、カイエンはアイーシャと母娘として過ごした記憶などない。まだ伯父のサウルとの方が会話した時間は長いだろう。だから、こんな状態のアイーシャを見ても、正直なところ彼女はその変貌に驚きこそすれ、アイーシャ本人への感情は極めて淡々としたものだった。

 今一度、振り返ると、オドザヤの方は放心したような顔つきになっていた。もうこうなっては、気を張っていることも出来なくなったのだろう。カイエンは自分の右腕を支えているオドザヤの顔色の悪さに、今更ながら気が咎めた。

 カイエンはオドザヤの辛い半年あまりの月日に気づかされた。病気の父親と、正気を失った母を抱えて、この妹はずっと耐えてきたのだと。 

 そんなカイエンの目の前で、トリニはアイーシャの首に手をやって脈を探り、そして閉じられた瞼をそっと開けて瞳孔を確かめた。

 そして、カイエンの方を振り向いた。

「カイエン様! 皇后陛下にはまだお脈がございます!」

「なんと!」

 聞くなり、女官長のコンスタンサがずいっと前へ出てきた。

「それはまことか!?」

 コンスタンサが聞いた時には、トリニはすでにアイーシャの息を確かめ、息がしやすいよう、そして嘔吐した場合に備えて体の向きを変えさせていた。それから胸に耳を当てる。

「はい! 心音も弱いですが確かです」

 この時になって初めて、カイエンは気が付いていた。

 瀕死の状態で蘇ったサウルがしようとしたことの事実に。


 これは心中だ。


 サウルは彼の妻を、正気を失った妻をこの世に残して逝くことができなかったのだ。

 瀕死のサウルの寝室へ消えて行ったサヴォナローラ。

 カイエンにはサヴォナローラのしたことはわからなかったが、あれがこの光景へと繋がっているのだという確信が彼女の頭に落ちてきた。

 だが。

 この様子を見れば、結局、アイーシャはサウルとともにはあの世とやらには行かなかったということだ。

 それとも、サウルは最後の最後でこの女の命をこの体から切り離すことに失敗したのか。それとも躊躇したまま己の命が尽きたのか。

 その時、女騎士に連れられた、アイーシャの侍医が寝室へ入ってきたので、カイエンの思考は遮られた。  

「おお……」

 女騎士に引きずられるようにしてやってきた、中年の侍医と助手らしい若い医師にも状況はすぐに飲み込めたらしい。中年の侍医は迷うことなくアイーシャの処置に取り掛かり、助手の医師はサウルの脈をとった。

 さっと場所を譲ったトリニに変わってアイーシャの側に来た侍医は、すぐに持って来た鞄から聴診器を出し、それから気付けの薬らしい茶色の小瓶を取り出した。

「この体勢にしたのはあなたですか?」

 トリニに問いながらも、侍医は的確にアイーシャを処置していく。

「はい」

「賢明なことですな。ふむ、これならば……」

 侍医は大公軍団の黒い制服姿のトリニを見ようともしなかったが、その声音にはトリニへの評価が聞き取れた。

 侍医は自分はアイーシャの処置をしながら、自分の後ろから入って来た若い侍医に聞いた。

「皇帝陛下はどうか?」

 その答えは、そこにいた皆がもう覚悟していたものだった。

「……皇帝陛下には御崩御されておられます」

 若い医師はそう言うと、サウルの枯れ木のような腕をそっと薔薇色のシーツの上に置いた。

 それからは大変だった。

 ほどなくして、サウルの奥医師たちも女官に連れられて到着し、カイエンたちは女官長コンスタンサによって、アイーシャの寝室から遠ざけられた。





 皇帝崩御。 

 それはすぐに発表されることはなかった。

 それは、今までの皇帝たちの崩御でも同じことで、帝都ハーマポスタールの市民たちがそれを知るのは数日後のことになる。

 皇后アイーシャの容体も微妙なもので、カイエンたちが聞かされたところでは、あの後、アイーシャは一度、心臓が止まりそうになったが、侍医たちの必死の蘇生術で蘇ったとのことだった。

 そんな中、カイエンとオドザヤ、それに皇帝崩御を目撃したトリニとブランカは、すぐにオドザヤの皇太女宮へと戻された。

 すぐに駆けつけた宰相サヴォナローラの命令によって、後宮は女騎士によって封鎖され、海神宮から後宮に繋がる皇宮の区画もまた、親衛隊によって固く閉ざされた。 

 それでも密かにこの事態を知らされるべき人々へは、親衛隊の隊員が夜陰に紛れて密やかに走った。

 大公宮へは執事のアキノが特別に許されて戻された。

 そして。

 長い夜の明けようとする時刻。

 摂政である皇太女オドザヤの宮が、事情を知らされた人々の集まる場所となった。

 人々は皇太女宮の書斎兼執務室に集められた。そこは皇帝の執務室や私的な謁見の間と同じような、落ち着いた色でまとめられた、かなり大勢が集まって座れるような部屋だった。

 表の宰相サヴォナローラの執務室では手狭だったこともあるが、ことが事だけに皇宮の表に皆が集まるわけにはいかなかったからだ。

 そこに集まった人々。

 それこそが、第十八代皇帝サウルの死後を託された人々と言ってよかった。彼らはオドザヤを一番上座にして執務室の長い机の周りを囲む椅子にかけていた。


 摂政皇太女オドザヤ。

 大公カイエン。

 宰相サヴォナローラ。

 大将軍エミリオ・ザラ。

 クリストラ公爵ヘクトル。そしてその夫人であり、サウルの妹であるクリストラ公爵夫人ミルドラ。

 元老院長フランコ公爵テオドロ。


 そして。

 親衛隊隊長モンドラゴン子爵ウリセス。


 皇太女オドザヤの立太子式で、サウルの言った名前になかった、たった一人の名前が彼であった。

「オドザヤは未だ未熟であり、そして女でもある。これを直接に支える柱として、我は以下の者を指名する」

 あの、サウルの言葉にはなかった名前。

 それでも、彼はここに集わねばならなかった。

 彼は、サウルの死を当然のこととして知る立場にあったから。

 あの時、サウルが彼の名前を言わなかったのは、自分の死に当たって彼が必然的に関わると知っていたからだったのか。日頃から親衛隊の長として自らの私生活の警備を任せていたからだったのか。

 モンドラゴン子爵ウリセスは、宰相サヴォナローラよりも年長だろう。三十をいくつか超えた歳に見えた。

 大公軍団の黒い制服と似ているが、親衛隊の制服は深い臙脂色である。

 あまり表情の変わらない、整った冷たい印象の顔の中で、深い青緑の目が冴え冴えと印象的だ。

「失礼致します。お方々の元へ遣いにやった親衛隊員には帰宅を禁じ、畏れ多いことですがこの皇太女宮の周囲に控えさせております」

 そう言って、礼をした頭は白に近い鈍い金色だった。

 大公のカイエン以下、皆がそれへ静かにうなずく。

 カイエンも彼を見知ってはいたが、近くで相対するのは初めてだった。

「私も失礼致します」

 モンドラゴン子爵の後ろから入ってきたのは後宮の女官長のコンスタンサ・アンへレス。

「後宮は女騎士によって封鎖してございます。……侍医も皇后宮にて皇后陛下の御許に。妾妃様たちへはお知らせしておりません。……後宮の中でのことですから、皇后宮の騒ぎは伝わっておるでありましょうが」

「皇帝陛下のお体は?」

 サヴォナローラが問うと、コンスタンサの冷静な顔がほんの少しだけ動いた。

「皇后宮の秘密の扉から、陛下の御寝室へお運び致しました」

 カイエンははっとしてコンスタンサの方を見た。

 秘密の扉。彼女は今、そう言った。

 では、サウルはそこを通って、アイーシャの寝室へ人知れず赴き、心中を図ったということか。

「そうですか。……モンドラゴン隊長、皇帝陛下の侍従長からは?」

 カイエンの様子には目も向けず、サヴォナローラは今度は親衛隊長の方を促した。

「……かねて皇帝陛下のお命じになっておられた通りに侍医共々処置申し上げ、ここにおられる皆様方や妾妃、皇女殿下のご対面に備えておりますとのことだ」

 モンドラゴンのサヴォナローラへの答えは冷たく、そして一国の政を任された宰相への返答としてはややぶっきらぼうに聞こえた。

 だが、サヴォナローラは気にした風もなかった。それどころではなかったということもあっただろう。

「結構です。では、申し訳ございませんが、モンドラゴン隊長と女官長にはしばらく席を外していただきます」

 彼らから聞くべきことは聞いた、と言うように、サヴォナローラは目線で部屋の出入り口を指し示した。

 それを聞くと、女官長のコンスタンサはともかく、親衛隊長モンドラゴンの元から冷たく固かった表情は、見るものに冷気を感じさせるような鋭さを宿したように見えた。

 だが彼は言葉としては何も言わずに、コンスタンサとともに静かに部屋を出て行った。その後へ、心配そうにカイエンを見ながらトリニとブランカの二人も続く。

 それを見送って、サヴォナローラはカイエンたちの方へ向き直った。もはや、この部屋の中にいるのはたった七人だけだ。 

「皇帝陛下にはお方々へ、それぞれに御遺言書を遺されております」

 カイエンやオドザヤ、それにクリストラ侯爵ヘクトルと、エミリオ・ザラ大将軍には予想していたことでもあったので、皆黙ってサヴォナローラの次の言葉を待った。だが、一人、慌てたように顔をあげたのは。

「ええ? 私にもですか」

 不安そうな顔でサヴォナローラを見たのは、フランコ公爵テオドロだった。

 デボラの夫であるこの男は年の頃は三十半ば。

 ややふくよかな優しい顔立ちの妻とお似合いの、金茶色の髪に優しい空色の目をした、線の細い感じの男だ。武人であるクリストラ公爵ヘクトルの横にいると、その体格の差は明らかだ。

 それでも、彼がこのハウヤ帝国の有力貴族の集まりである元老院長であり、その中では弁舌の士として鳴らしていることは間違いがない。

 元老院自体は、サウルの代になってからほとんど政治的に無力となっていたが、貴族社会の束ねとしての役割では未だ元老院には力があった。

 フランコ公爵家は、クリストラ公爵家と並ぶ、ハウヤ帝国の二大公爵家である。

 だが、それぞれの家の成立と現状には大きな違いがあった。

 まずは、皇女であるミルドラが降嫁したクリストラ公爵家。

 こちらは元は臣下に下りハウヤ帝国最東端の辺境伯に任ぜられた、辺境伯兼選帝侯だったハウヤ帝国の皇子が興した家である。

 であるから、辺境伯時代から継承されているクリストラ公爵領はベアトリア国境に近いクリスタレラで、国境に近い要塞の守りも、歴代のクリストラ公爵家が担って来た。クリスタレラはこのパナメリゴ大陸で一番の幹線街道、パナメリゴ街道に沿っている。だから、クリストラ公爵家は国境の軍事費の一部を負担しても有り余る、交易での収入があった。産出する大理石からの収入も多い。

 一方、フランコ公爵家も、その起源は臣下に降った皇子で、これが初代元老院長となった。当時の皇帝が皇子を臣下に降らせて貴族たちを取り纏めさせたことが、元老院の始まりなのだ。

 であるから、宮中での貴族たちの束ねである元老院長は歴代のフランコ公爵が務めて来た。

 領地は北方の自治領スキュラとの境にあるが、寒冷な地方とあって領地からの実入りは少なかった。北方で産出する泥炭や石炭の多くは、自治領スキュラの領土の中だからだ。

 サウルが専制政治を推し進め、元老院を顧みなかったこともあり、フランコ公爵はオドザヤの立太子式で名指しされたことにも驚いていたくらいだ。

 だから自分にもサウルの遺言があるとは思っていなかったのだろう。

「もちろんでございます」

 サヴォナローラはそっと片手で眉間を揉みながら、フランコ公爵テオドロに答えた。カイエンとオドザヤも同じだが、一晩一睡もしていない彼の顔には疲労の色が濃かった。

「それで。御遺言書はどこに?」

 話を進めてきたのは、クリストラ公爵だった。地位も高く、年長者としても自分が話を進めるべきだと判断したのだろう。

「ここに」

 そう言うと、サヴォナローラは己の褐色のアストロナータ神官の僧衣の懐をそっと抑えた。

「金庫に保存しておくのも心配でしたので、私自らを保管庫としておりました。これも皇帝陛下のご指示です。……ご自分の崩御後はわからないが、御崩御までの間なら私が保管しているのが安全だろうとの思し召しでした」

(ご自分の崩御後はわからないが、御崩御までの間なら)

 サヴォナローラの言いたいことは、そこに残ったオドザヤ以下、六人にはすぐにわかった。

「なるほどな。御崩御の後、すぐにややこしい事態となるだろうと御予測なさっておられたか」

 そう言ったのは、ザラ大将軍。

「はい。皇帝陛下亡き後はもはや親衛隊に、皇太女殿下や私の警備をお願いすることは叶わないでありましょうから」

 聞くなり、ザラ大将軍は揶揄するような笑いをほとばしらせた。

 なるほどに、先ほどの親衛隊長モンドラゴン子爵の様子を見れば、それは明らかな事実だ。

「おお。それでは宰相殿には、皇帝陛下亡き後、もはや不測の事態でこの世を去られても致し方ないとの御覚悟ですかな?」

 サヴォナローラにとってはこの問答など、とっくに予測済みのことだったのだろう。

「……私はアストロナータ神官ではございますが、宰相として俗世に関わる身でございます。アストロナータ神殿では神官が学問をもって政治的な顧問となることは禁忌とはされておりませんから、問題ございません」

 サヴォナローラはそこまで言うと、一旦言葉を切った。

「ご存知かとも思いますが、このハウヤ帝国のアストロナータ神殿には数こそ少ないですが、古くから武装神官団という組織がございます。これを差し向けて貰う手はずとなっております」

「なんだと」

 カイエンは思わず口を挟んでしまった。

「武装神官は神殿の外へは出さないのが掟と聞いているぞ。その伝統を崩すのか?」

 カイエンがそう言うと、クリストラ公爵ヘクトルやフランコ公爵テオドロもうなずいた。

 それへ、サヴォナローラは痩せた顔に苦々しい笑みを浮かべ、カイエンたちに言い聞かせるように、しんなりとした声で答えてきた。

「そのようなことは私も存じております。ですが、今後、起こるであろう事態を考えますと、武装神官は微々たりと言えども相手方への示威兵力となるのです。これはサウル皇帝陛下も窮余の策としてお認めになっておられます。……大公殿下」

 最後にサヴォナローラはカイエンの顔だけを見つめながら言った。

「恐れながら、一昨年より大公殿下の軍団に帝都防衛部隊を設立なさったのも、この事態への対処でございます」

「……それは、もう私にもわかっている」

 カイエンは、やっとの事で答えた。彼女にももう、わかっていた。一昨年からのサウルの彼女への冷たく重い沙汰にある真意には。サウルは自分の死後に起こるであろう後継者問題の為に数年をかけて備えていたのだ。

「では、親衛隊はあちら側へつくと言うのですね」

 カイエンの横で静かに口を開いたのは、オドザヤだった。彼女にも立太子以後、悟ったことがあったのだろう。

 あちら側、とオドザヤは言った。では彼女にはもうわかっていたのだ。

「そうですね。私もモンドラゴン子爵へは説得活動を致しましたが、あの方は平民出身の私の仲間になる気はないようです」

「そうですか」

 オドザヤの言葉は落ち着いた声だった。

「だから、平民出身のお母様の娘である私が即位するのには反対なのね。私もフロレンティーノが生まれた以上、ずっと女帝として統治を続けるつもりも、私の子に時代を継がせる気持ちもありません。……それでもダメだと彼らは言うのね」

 オドザヤがそう言うと、カイエンだけでなくそこにいたすべての両目がオドザヤを見た。彼女がここまでしっかりとした気持ちを持っているとは、誰も思ってはいなかったのだ。

「どうやらそのようです」

 サヴォナローラはそう言うと、自らの懐から七通の封書を取り出した。そのすべてが皇帝サウルの国璽で封印されていた。

「これは今すぐここでご開封しお読みになりますように」

 そう言うと、サヴォナローラは封書を机の上へ置き、すぐに自分への封書を開き始める。他の皆も彼に倣った。

 しばらくの間、部屋の中は静寂に包まれた。

 一番時間をかけてサウルの遺言を読んでいたのは、意外にもクリストラ公爵夫人のミルドラだった。

 彼女が読み終えた頃には、他の皆はすでに読み終わり、それぞれの懐の中へ遺言書が納められた後だった。  

 彼女は顔を上げると、遺言書をそっと地味なドレスの首元から懐深くへ押し込んだ。恐らくはコルセットの内側へしまい込んだのだろう。

 そして、青ざめた顔を上げるなり、意外なことを口にした。 

「では、そろそろラーラ様、キルケ様、マグダレーナ様にお知らせした方がいいわね。あんまり遅くなってもいけないわ。痛くもない腹を探られるようなことになったら厄介だから」

 ミルドラはまっすぐにサヴォナローラの顔を見据えていた。

「そうですね。すぐに手配いたしましょう」

 サヴォナローラが答えると、ミルドラは女王のような威厳をもって命令した。夫のクリストラ公爵も、フランコ公爵もこの元皇女の威厳には口を挟むこともできない様子だ。

「では、こちらまでおいでいただきなさい」

 ミルドラが命じると、サヴォナローラは当然のように受け入れた。

「承知致しました。ところで、第四妾妃はどういたしましょう」

 サヴォナローラがそう言うと、ミルドラは厳しい顔で言い捨てた。

「軟禁中の妾妃に知らせる必要などないでしょう」

 だが、なぜかサヴォナローラは引っ込まなかった。

 急に心配になったとでも言うように、彼は周囲を見回すようにした。急に気が付いて心が焦る様子で。

「いえ。……気になります。後宮の警備はあの騒ぎの間、短い時間とはいえ、緩んでいたでしょうからね」

 そう言うと、サヴォナローラは珍しく眉間にしわを寄せて立ち上がった。気が急く様子で、部屋の外へ出て行く。

「すぐに第四妾妃の部屋に女騎士をやりなさい。女官では心もとない」

 部屋の外に控えていたらしい、女官長コンスタンサへ命じる声が、部屋の中まで聞こえてきた。

 サヴォナローラの彼らしくもない慌てた様子を見て、今度はザラ大将軍が立ち上がった。彼は次にカイエンの顔を見てきた。

「大公殿下、親衛隊は頼りにならん。すぐにあのトリニとブランカを呼んで、大公軍団を動かしてくだされ。皇太女殿下の警備はわしが離れずにおるからしばらくは大丈夫だ」

 カイエンにも話の裏にある危惧はもう、わかっていた。それくらいにはこの二年でカイエンも成長していたと言うことだろう。

 星辰セイシン。

 それは滅んだ螺旋帝国「冬」王朝の遺児。

 そして、去年の夏、アイーシャのお茶会で皇后暗殺を企てて以降、後宮に軟禁されている第四妾妃だ。

 皇帝崩御と皇后瀕死の騒ぎの隙に何者かが彼女を逃したら。探せるのは大公軍団の治安維持部隊しかない。

「わかった」

 短く答えると、カイエンは徹夜で痺れた頭と体に鞭打って、部屋の外へと出て行った。


 

「大変でございます! 第四妾妃が!」

 カイエンがトリニとブランカを大公宮へ向かわせてから部屋に戻った途端だった。

 後宮の女騎士が慌てた様子で戻ってきたのは。

「どうした?」

 サヴォナローラは、その白皙をやや歪ませていた。それは己の失策を責める顔つきだった。

「第四妾妃を軟禁いたしておりました部屋は……空っぽでございます」

 これには、ザラ大将軍も、クリストラ公爵も頭を抱えた。

「第四妾妃の連れてきた女官の牢を見て参れ!」

 この命令への返答も、すぐにもたらされた。

「に、女官は牢内で自決いたしておりました……」

 それを聞くと、部屋には重たい沈黙が落ちてきた。

 星辰の女官の自決はとっくに予想されていたことだから、それに対する方策も取られていたはずだった。それでも女官は死んでいたのだ。

「やられましたな」

 やがて、聞こえてきたのは、ザラ大将軍の声だった。その声はなんだか楽しそうに弾んでいた。

「……敵もなかなかやりますわい。宰相殿、もっと気を引き締めて行かないとなあ」

 サヴォナローラは真っ青を通り越して青黒く見える痩せた顔を、ぐいっと蛇のようにもたげ上げた。

「申し開きもできませぬ。この失態、すぐに取り戻さねばなりませんね」

 彼の顔の中で、真っ青な目の色だけが変わらずに生き生きと輝いていた。彼はこの程度のことで挫けるわけにはいかなかったから。

「大公殿下、クリストラ公爵様、フランコ公爵様は一度、お屋敷へお帰りください。皇帝陛下のお見送りの祈りは今夜行います。妾妃様たちの方はお任せ下さい」

「わかった」

 三人が部屋を出ようとすると、サヴォナローラはカイエンを呼び止めた。

「大公殿下」

「なんだ」

「皇帝陛下の御崩御早々、このような失態を致しまして、申し訳もございません。これから申し上げることは、お願いではありません。大公殿下にご無理をお願いしていることはこのサヴォナローラ、重々承知の上での哀願でございます」

 カイエンは苦笑いした。

 この男がこんな言葉を吐くところを見るとは思ってもいなかったからだ。

「なるほど。では、私が出来なくてもしょうがないことなのだな」

「さようでございます」

 サヴォナローラの真っ青な目はぎらぎらと神官らしくもない、俗世の垢にまみれた色で光っていた。

「……かのシイナドラドの皇子を動かし、シイナドラド大使ガルダメス伯爵をこちら側へ引き入れるよう、工作をしていただけますと助かります」

 カイエンは聞くなり、顔をしかめた。

 エルネストとなど話したくはなかったからだ。それもこんな事態の収拾のための工作で。

 だが、カイエンの口から出た返答は、それを裏切るものだった。

「……わかった。努力はしてみよう。私もオドザヤ摂政皇太女が女帝として立つことを支持している者だからな」 

 カイエンはとっくに決めていた。

 それは、シナドラドから帰り、リリを養子として引き取ってきた時からだ。

 次代の大公はリリ。

 それならば、このハウヤ帝国を維持するために最善の策を取るべきだった。いずれはマグダレーナの息子であるフロレンティーノ皇子が即位するとしても、それは今であってはならなかった。一歳にもならぬ赤子を即位させた歴史は、このハウヤ帝国にはなかった。

 外国出身の国母や外戚が政治を支配したことも。

 何よりも、この三百年間、自分の意思を持たぬ皇帝が即位したことなどなかったのだから。


  





「そうか。モンドラゴンめが知らせてきたか」

 帝都ハーマポスタールの一等地にある、広大な館。

 その主人である男は、夜明け前のまだ暗い寝室で従者から報告を聞き、素早く寝台からすべり出た。

 すぐに彼の召使いらしい男が、後ろから夜着の上へガウンを着せかける。

「……ベアトリア大使、モンテサント伯爵と、螺旋帝国大使、朱 路陽へ使いを!」

 かしこまって出て行く従者を見送って、男は従者を案内して来た、この屋敷の執事らしい中年の男に問い質した。

「テオドロのやつはもう皇宮へ上がっただろうな」

「はい。フランコ公爵家からも使いが来ております」

 執事の答えを聞くと、男は忌々しそうに舌打ちした。

 窓の外は黎明の薄青い色に染め上がり始めている。

「急がなければ。……平民腹の摂政皇太女なんぞを簡単に即位させるわけにはいかんからな。まあ、葬儀は一ヶ月は後になろうから、それまでが勝負だ」

 男の名前は、モリーナ侯爵フィデル。

 モリーナ侯爵家当主だが、先代の養子で血は繋がっていない。

 彼は血筋としては、フランコ公爵家の当主、テオドロの兄にあたるのだ。

 ただし、彼の母親は先代フランコ公爵の妾で、ゆえにテオドロの庶兄にあたる。正妻の子で嫡子であるテオドロが公爵家を継いだので、後継がなく、有力貴族の子弟の中から養子を探していたモリーナ侯爵家に迎えられたのだ。

「平民腹の摂政皇太女に、平民の神官崩れの宰相、これまた平民腹の女大公に、子爵家の庶子上がりの大将軍なんぞがこのハウヤ帝国を牛耳るなど、あり得ぬことよ」

 モリーナ侯爵は吐き捨てるように言った。

 彼とても先代フランコ公爵の庶子なのだが、自分のことは高い棚に上がっているようで、賢明な召使いは黙って彼の身支度の準備に余念がない。

 もっとも、モリーナ侯爵フィデルの母は、妾とは言っても男爵家の娘だったから、自分には庶民の血は流れていないと思っているのだろう。

「早くしないか! そうだ、モンドラゴン子爵は皇宮で何をしているのだ」

 召使いを急き立てながら、モリーナ侯爵は自ら夜着を乱暴に脱ぎ捨てた。彼の背後では空が暁の色に染め上げられ始めていた。

「いいえ。親衛隊長様からはお知らせだけで。あちらも早々目立った動きは出来ないのでは?」

 上半身裸になったモリーナ侯爵に、召使いから受け取った絹のシャツを着せかけながら、執事が答える。

「くそ。さすがは狡猾な皇帝陛下だな。まだもう少しは保ちそうな話だったが、宰相と組んで親衛隊長までも騙くらかしていたようだ。奴も今頃、少しは慌てていよう。まあ、あの男のことだ、眉毛一つ動かさないだろうがな」

 モリーナ侯爵の支度が終わった頃。

 密かにモリーナ侯爵邸の裏口に、二台の無紋の馬車が着いた。






 ハウヤ帝国第十八代皇帝サウルの崩御した夜は、月蝕の日だった。

 だが、皇宮に集った人々の中でも、密やかに蠢動を始めた人々の中にも、それに気が付いた者など皆無だったであろう。

 月蝕の赤銅色の月は、人々に顧みられることもないまま沈み、すでに夜が明けた。


 サウルの名前は、サウル・プレニルニオ・マグニフィコ・デ・ハウヤテラである。

 ブレニルニオとは満月のことで、彼の名前を統合すると「ハウヤ帝国の偉大なる満月、サウル」という意味になる。

 エストレヤ太陽ソラーナに未来を託して去った男は明るい壮大なる満月だったのである。

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