醜聞

 皇宮から大公宮へカイエンが戻ったのは、まだ夜が明けるか明けないかという、朝ぼらけの時刻だった。

 五月の澄んだ、かぐわしい花々の香りのする朝であったが、カイエンにはそれに気がつく心の余裕などなかった。

 カイエンの馬車は大公宮奥の玄関に、周りの貴族の邸宅を憚るように静かに着いた。皇帝が病の床に伏せっていることを知らない者は、この帝都ハーマポスタールにはいない。この街の治安をあずかる大公であり、表向きは皇帝の末妹であるカイエンが、こんな時刻に慌ただしく皇宮を出入りしていれば、市民たちは訝しむ。読売りの記者の中にはこの春から大公宮の周辺を張っているものもあり、それは大公宮の警備要員として配備されている治安維持部隊の隊員によって追い散らされはしていた。だが、それでも安心はできなかった。

 カイエンは昨晩、皇宮へ上がった時、大公の紋章付きの馬車を避け、大公が常にない動きをしていることを悟られぬようにした。この早朝の帰館からもまだ、近隣に何かを悟られるわけにはいかなかった。

「おかえりなさいませ」

 カイエンを裏の玄関で出迎えたアキノは、彼女の手袋や外套を受け取りながらも、時間を無駄にはしなかった。

「トリニとブランカの報告により、すでに治安維持部隊の双子が動いております。イリヤの方は表の執務室に残って各所からの報告を待っております」

「そうか。しかし、逃げた第四妾妃は皇宮からどこへ向かったか……。螺旋帝国の大使公邸には、もう去年から隊員が目を光らせていたはずだ。シイナドラド大使公邸、それにベアトリア大使公邸……こちらにも配備済みだったな。他の国の公邸にも人数は少なくとも係りの者が交代で張り付いてるはずだ。後は螺旋帝国人の多い界隈の署に連絡か? 帝都を出る街道沿いへの手配は済ませたか?」

 カイエンが指を折りながら数え上げていくと、アキノはすぐに答えてきた。

「配備済みの場所からはもう、連絡が入っております。……螺旋帝国とベアトリアの大使公邸からはすでに目立たない馬車が出ております。街道筋への配備は現在、帝都防衛部隊も駆り出して進行中です」

 カイエンは廊下を自分の居間へ向かって歩きながら、固い顔でうなずいた。その辺りは彼女ももう、予測していたことだった。帝都防衛部隊長のヴァイロンもまた、駆り出されているということだ。

 こうなると、すでにベアトリアと螺旋帝国両国の大使へは、密かにサウルの死が伝わっていることは間違いがない。おそらく、情報の出所はあの親衛隊長のウリセス・モンドラゴンだろう。

 カイエンはあの、一月のサウルの誕生の宴で、第三妾妃のマグダレーナに宣戦布告とも取れる言葉を投げつけられている。そこへ現れた、ベアトリア大使のモンテサント伯爵ナザリオの言葉や様子からも、彼らがオドザヤの即位に異を唱えるであろうことが予想できていた。

 螺旋帝国の大使公邸からも馬車が出たとなれば、螺旋帝国はサウルの死後、ベアトリア側につくことにしたのだろうか。

「行き先は?」

 カイエンはややいらいらしながら、左手の杖を突く腕に力を入れ、腕で前へ体を引っ張るようにして廊下を歩いていく。毎日、こうして歩いているから、彼女の握力腕力は見かけよりも強い。もっとも、武道などからっきしなのであまり役には立っていないが。

「……モリーナ侯爵家の裏門だそうでございます」

 カイエンは勢いよく杖を持った腕を振って歩いていた足を、ぴたりと止めた。

「モリーナ侯爵といえば、フランコ公爵テオドロ殿の庶兄の養子先だったな」

「その通りでございます。もとより、公爵家を継いだ嫡男の弟君とは、あまりお仲がよろしくなかったそうで。皇帝陛下が、フランコ公爵様をオドザヤ様を支えるべき者の一人として名指ししてからはそのご不満をあちこちで漏らしておられたそうです。……あまり思慮深い方ではないのかもしれません」

 カイエンはアキノの鷹のように鋭い、だがこの頃老いの目立ってきた顔をまじまじと見つめた。

 あまり思慮深い方ではない、と言った時のアキノの顔は無表情だったが、声には少しだけ皮肉な響きがあった。

「……よく知っているな。どこからの情報だ?」

 アキノはすまして答えた。

「大家の執事ともなりますと、密やかではありますが、他家の使用人の中で気の合うものとは情報の交換もございます」

 カイエンはちょっと嫌な顔をした。一家の秘密に触れる使用人たちが、他家の者と親しくするのを喜ぶ主人はおるまい。

「おい。まさか……」

「ご安心ください。大家の執事ともなれば狐や狸ばかり。中には主家の差し障りになるような情報をこぼしてしまう粗忽者もおりますが、得てしてそういう家は、主人に問題がございます。それに、漏らし漏らされる情報から真実を拾うのも大家の召使いの仕事のうちでございます」

「大丈夫なのか」

 主人に問題がございます、というところでカイエンは露骨に顔をしかめた。彼女はアキノを信用していたが、自分が完璧な主人だなどと思ったことは一度もなかった。

 それから、カイエンが諦めのため息をついた時には、主従はもうカイエンの奥の居間の前に到達していた。


 カイエンが入っていくと、そこには青ざめた顔を揃えて、大公軍団最高顧問のマテオ・ソーサと護衛騎士のシーヴ、それに乳母のサグラチカの三人が待っていた。

 帝都防衛部隊長のヴァイロンはもちろん、現場の指揮に駆り出されている。ガラはカイエンと入れ違いに兄の宰相の元だろうか。

 エルネストとヘルマンの主従は後宮の奥の部屋へ戻ったらしく、姿はなかった。

「ああ、殿下」

 三人が同時にすぅっと顔を上げ、サグラチカとシーヴはカイエンの方へ歩いてきた。二人で抱えるようにして、カイエンを柔らかい長椅子のソファに座らせる。

「おかえりなさいませ。そして、おはようございます、殿下。寝ていらっしゃらないでしょう? 大丈夫ですか」

「大事ない」

 カイエンは心配顔のシーヴに答えて、ソファに身を預けたが、その途端に柔らかいソファに引っぱり込まれるような疲れを感じた。

 なんとも長い夜だった。

 十五の時に、父のアルウィンの偽りの死に対した時にも同じだったが、あの時と今とではもう年齢だけでなく彼女の地位も責任も大きく変わってしまっていた。

 ただ、父を亡くした貴族の娘として振舞っていた、あの十五の時と今とでは、立場が全然、違う。

 今やカイエンはハウヤ帝国の重鎮であり、皇太女オドザヤのそばにいて、彼女が女帝として即位するのを助けなければならない立場なのだ。

「皇帝陛下のお見送りの祈りは、今夜だ。これは通夜として血縁の者と、宰相府、元帥府、元老院の長だけで行う。まだ、崩御のことはしばらくは秘密だ。と、言っても何日も隠しておくのは無理だろう。サヴォナローラが万事仕切るだろうが、もう一部の貴族や各国大使には漏れているようだから」

 カイエンは皇后アイーシャのことには触れなかった。サウルの心中は失敗し、アイーシャは生き残ったのだから。

「そうですか。今、おっしゃった貴族だの各国大使だのってのは見当がつきますが、まあ、あっちもそう早くに崩御のことは漏らさないと思いますよ」

 そう、慰め顔に言ったのは、一睡もしていない目をしょぼしょぼさせたマテオ・ソーサ教授だった。

「そうかな?」

「向こうも、皇帝陛下が昨日今日崩御なさるほどのご容態とは思っていなかったと思いますよ。だから今頃は、皇帝陛下にしてやられたとこぼしているところでしょう。ですから、向こうもまだ準備が整ってはいない可能性が高いです。これはまあ、不幸中の幸いでしたな。……それより、第四妾妃の方はどうだったんです?」

 カイエンは眉間にしわを寄せた。

 トリニとブランカをこっちへ差し向けた時にはまだ疑惑だったが、星辰セイシンの逃亡は事実となっていた。

「宰相の思った通りでした。牢にいた女官の方は自殺していたそうです。……口を封じられたんでしょうが」

 聞くなり、教授は天井を仰いだ。

「そうでしたか。まあ、イリヤ君たちはもう、そのつもりで動いているでしょうから、大丈夫でしょう。しかし、そうなると、皇宮の皇帝陛下の周りやら後宮やらには敵の耳と手足があったってことになりますなあ。皇帝陛下のご病気の様子から、ご崩御ともなれば隙が生まれることはわかっていたでしょう。その時に第四妾妃を外に出す手はずだったんでしょうな。結果として準備期間は四ヶ月ちょっとあったが、皇帝陛下のご病状を知るものとなると……ま、侍医やら女官やら人数は何人もありますしねえ」

 聞くなり、カイエンは思い切り、顔をしかめた。

「星辰の後ろにいるのは、やはり、螺旋帝国の大使……朱シュ 路陽ロヨウだろうか?」

 教授はちょっとの間、黙っていた。

「恐れながら、前の大公殿下が動かしている勢力……桔梗星団派でしたか。それとも繋がっているのではないですかね」

 大公宮の侍従殺し事件で、教授も桔梗星団派のことはもう、知っている。

 カイエンはそこまで聞いて、思い出した。

 桔梗星団。桔梗紋。そしてアストロナータ教団のシンボルである、五芒星。

 星。

「教授。これを見てください」

 カイエンはポケットにハンカチに包んで入れていた、サウルから授けられた「星の指輪」を取り出した。

 「星と太陽の指輪」の片割れだ。

 それは、ややギザギザとした半円形の中に、くっきりと五芒星の一部とわかる星型の押された白金の指輪だった。五芒星の片方だけの目玉には黒い金剛石ディアマンテがはめ込まれている。

「おお」

 教授とシーヴ、それにアキノとサグラチカの夫婦が息を飲む。

「見ての通り、これは皇帝陛下の着けておられた指輪の片割れです」

 教授の顔が、厳しく引き締まった。

「これは五芒星。アストロナータ教団のシンボルですな。これと組み合わさる片割れは、おそらくは太陽。……ではございませんか?」

 カイエンは深々と顎を引いた。教授の思考は常に先を見通しているのだ。彼にはカイエンやオドザヤの名前に隠された役割も、とっくに織り込み済みなのだろう。

「そうです」

「なるほど。理にかなっている。まさしくエストレヤである殿下に星が、まさしく太陽ソラーナであるオドザヤ皇太女殿下には太陽が引き継がれたということですな」

 教授は、そこで言葉を切った。

 彼はやや言いにくそうに言った。

「星……。そういえば、殿下の他にも星がおりますな」

「えっ」

 カイエン以下が不思議そうな顔をすると、教授はカイエンの前のテーブルに、螺旋文字で「星辰セイシン」と書いた。

「あっ!」

 カイエンがその時、瞬間的に感じたのは自分の考えの浅さだった。そして、マテオ・ソーサが最高顧問として大公軍団に来てくれたことへの感謝だ。カイエンは、もちろん螺旋文字を操れるから、セイシンの名前の意味も知ってはいたが、彼女の名前を見聞きするときはその音の方で認識しがちだったのだ。

「恐らく、宰相はもう気がついているでしょう。あの失われた螺旋帝国の「冬」王朝の忘れ形見もまた、星なのだと。彼だけではない。ずっと闇の中で動き回っていらした、前の大公殿下にも」

 カイエンは聞きながら身震いがする思いだったが、螺旋文字での「星辰」という文字を頭に描いているうちに、何かが引っかかった。

「星辰の弟の名は、天磊テンライでした。……確か、朱 路陽に聞いた話では、彼ら姉弟の母親の名前は『貞辰テイシン』だったはず」

「先生」

 教授を呼んだカイエンの声は、ややくぐもっていた。教授の示唆から気がついたことがあったからだ。

「星は一人ではなかったのでは? 『星』は、冬王朝最後の皇女たちの名前すべてにある文字、『輩行字はいこうじ』だったのでは……」

 教授以外の三人は不思議そうな顔をしていたが、マテオ・ソーサはうれしそうに笑みを浮かべてうなずいた。その表情は出来のいい学生を見る目つきだ。

「さすがですな。そうそう、恐らくは冬王朝最後の皇帝の娘の名前はすべて星なにがしで、息子は天なにがしだったのでしょう」

 輩行字はいこうじとは、螺旋帝国での習慣で、親族の中の同世代すべてが共有する名前の中の一文字である。そして、男女で違っているのが普通だ。

「冬王朝最後の皇女がたはすべてが『星』の一文字を名前の最初の文字に持っていた。その中で、母親が革命勢力首魁の昔の想い女だった為に、星辰皇女だけが弟とともに革命の中を逃れ出て来られたのでしょう。輩行字はいこうじの星の次に母親の名前の一字の入った名前を持っていたため、彼女の出自もまた明らかだった。他の皇女と取り違える危険もなかったわけです」

「では、では……」

 カイエンは一睡もしていない、ふわふわした頭の中で、必死に考えた。

「前の大公も、ライ 國仁コクジン先生も、星辰を『星』として、このハーマポスタールまで逃れさせて来た、ということですか」

 カイエンにはそう言った自分の言葉が、自分の口ではない、遠くから聞こえた気がした。

「頼 國仁先生ねえ。あの方が螺旋帝国へ帰られたのと、同じころではないですか? 前の大公殿下が佯死なさったのは?」

 答えた、教授の言葉もまた奇妙な声音だった。彼は言いにくそうにしながらも自分の師父の名前を出した。

「あっ」

 確かに、アルウィンの佯死と、頼 國仁の帰国は時期が一致していた。

 それは、五年と少し前。頼 國仁はアルウィンの発病の少し前に帰国すると言って、カイエンの家庭教師を辞めたのだ。

 教授は、ふーっとため息をついて見せた。

「前の大公殿下は頼 國仁先生を案内人に、螺旋帝国へ行ったのでしょうなあ。桔梗館の炎上を含む、五年前のあれはすべて仕組まれたことだったのでしょう。そして、螺旋帝国で偶然、見つけたのが彼の国の星の名を戴く皇女達だったということでしょうか」

 教授の言葉は続いた。

「大公殿下に『エストレヤ』のお名前をつけた、前の大公殿下。それは大公殿下を星教皇にする工作をした方だ。星辰皇女にもなにがしかのお役目を振り当てておられるのでしょうなあ」

 教授の言葉を、カイエンは目を見開いて聞いていた。

 恐ろしかった。

 心の底から。

 アルウィンという男が。

「古くから、名は体を表すとか申しますが、前の大公殿下はそういうところからきっかけを得ながら、自分の手で歴史を形造っていくのが面白くてたまらないのかもしれませんね」

 呆然としているカイエンへ、教授は痛ましそうな目を向けた。

「少し、お休みにならないといけませんな。皇帝陛下のお見送りの祈りとやらは、今夜でしょう? 食欲はないかもしれませんが、まずは朝のお茶でもお飲みになったら」

 そこまで聞くと、カイエンの傍からサグラチカとアキノが立ち上がった。

「そうですわね。すぐにご朝食のご用意をいたしましょう」

 カイエンは、そこで我に返った。

「待って」

 彼女はサグラチカを呼び止めた。

「先生の言う通り、私は夕方まで少し休ませてもらったほうがいいだろう。だが、それまでにしておかなければならないことがある」

 その時、カイエンの脳裏に浮かんでいたのは、サヴォナローラの顔だった。

(……かのシイナドラドの皇子を動かし、シイナドラド大使ガルダメス伯爵をこちら側へ引き入れるよう、工作をしていただけますと助かります)

「朝食の準備は、食堂にしてくれ。そして、そこにシイナドラドの皇子殿下においで戴くように」

「でも……」

 心配そうに言い淀むサグラチカへ、カイエンは無理に笑顔を作った。

「どうせ、今夜の皇帝陛下のお見送りに私一人で行くわけにはいかないのだ。身内中心のお見送りだから、マグダレーナ様はフロレンティーノ皇子を伴って来られるだろうし、私もリリを連れて行かねばならん。伯母様がたもご夫婦でおいでになるだろうしな」

 リリを杖で片手のふさがった自分が抱いて行くことは出来ないな、とカイエンは考え、サグラチカを伴うことを決めた。まさか、昨日引っ越してきたばかりの、それも「あの」エルネストに赤子のリリを抱かせるわけにはいかなかった。夫として伴わないわけにはいかないとしても。

「お見送りの場には入れないかもしれないが、サグラチカがリリを抱いてついてきてくれ」

 サグラチカにもカイエンの言いたいことは伝わったらしい。彼女は気遣わしげにうなずいた。

「はあ」

「大丈夫だ。朝食は、先生やシーヴも相伴してくれ。聞かれて困る話ではないから」

 そう言うと、カイエンはソファの中で目をつぶってしまった。もう、体力は限界に近かった。





 そして。

 カイエンが居間のソファでしばし微睡んだのもつかの間。

「カイエン様、食堂に朝食の準備ができました」

 乳母のサグラチカが遠慮がちにカイエンを起こしたのは、いつもの朝食の時間に少し遅れた時刻だった。

 いつもは自分の寝室に近い居間で朝食を摂るカイエンが、サグラチカと女中頭のルーサに支えられて食堂へ入っていくと、食堂の長いテーブルはカイエンの席である一番上座を残して、すでに顔ぶれが揃っていた。

 長い食卓の頂点にカイエンが座る。

 その両脇を守るように、アキノとサグラチカの夫婦が並ぶ。

 部屋の正面に向かったカイエンの斜め右横に座っているのは、いつもと違って神妙な顔つきのエルネストだ。彼の後方の壁際に、侍従のヘルマンが控えているのが見えた。

 エルネストの反対側にはマテオ・ソーサ。

 そこからはやや距離を置いた下座に、護衛騎士のシーヴの姿がある。彼は大公の朝食の相伴に与かれるような身分ではないが、カイエンが指定したからそこに陪席しているのである。

「おはよう」

 カイエンはまだ、エルネストの顔をまじまじと見たいとは思えなかったので、彼の姿を目の端で捉えるようにして言った。挨拶ぐらいはしなければなるまい。

 エルネストはカイエンの挨拶には顎を引いただけで済ませた。失礼な男だ。だが、あの汚い言葉遣いで軽口の一つも言わないのは、この際感心だと言ってよかった。だが、カイエンがそう思ったとたんに、エルネストはそれをぶち壊しにしてしまった。

「……皇帝が死んだそうだな。俺は生きている皇帝には会えずじまいかよ。まあ、代わりにあんたの妹だとかいう美人の摂政皇太女殿下に会えたからいいか」

 カイエンは心の中で、さっき感心した自分をぶん殴った。舌打ちしたい気分だ。

「うるさい」

 舌打ちはしなかったが、思わず本心が口からこぼれ出てしまった。小声だったのがまだ幸いだった。それでも皆に聞こえただろう。カイエンの左側に座った教授が、乾いた咳払いをした。

 そんな中を侍従のモンタナが、何も聞こえないと言った様子で、カイエンから始めて皆に濃くて熱い紅茶をカップに注ぎ入れていく。

 カイエンは自分の前の、彼女のお気に入りのカップになみなみと注がれた赤い液体に、少しだけミルクを入れた。それを香りを楽しんでから一口飲んで、気を取り直して口を開いた。疲れ切っていて、目を開けてはいたが視界の半分が歪んで見えるような感じだったが、ここで言わなければいけないことは忘れていなかった。

「皇帝陛下のお見送りは今夜だ。身内と宰相、それにザラ大将軍と元老院のフランコ公爵だけが集まる。ミルドラ伯母様はクリストラ公爵を伴っていらっしゃるだろうし、フランコ公爵はデボラ夫人と共にいらっしゃるだろう」

 カイエンがそこまで言うと、エルネストにはもうわかったらしい。嫌なやつではあるが、話が早いのは結構なことだ。

「はあ。なるほど、既婚者はみんな夫婦連れで来るから、あんたも一人で行くわけにはいかないってこったな」

 エルネストの方も、こっちは何も入れずに紅茶を口に運ぶ。

 いつもは珈琲党の教授にも、今日は紅茶が供されたから、彼も黙って、こっちは砂糖をちょっとだけ入れて飲み始めている。確かに、この距離で彼が珈琲を飲んでいたら、紅茶の香りがわかるまい。

「……その通りだ」

 カイエンが認めると、エルネストは振り向きもせずに自分の侍従のヘルマンに命じた。

「おい。真っ黒じゃねえ地味な、飾りのない、いい服出しとけ」

(わざとらしいこと言いやがる)

 カイエンは目の端で、ヘルマンがうなずくのを見てから、そっと思った。エルネストはいつも黒っぽい服ばかり好んで着ているのだから、わざわざ探さなくともいくらでもそんな服はあるはずなのだ。

「それだけか?」

 黙々と侍従のモンタナは米のミルク粥やスープ、卵料理の皿に香ばしく焼きあがったばかりのパンなどを並べて行く。

 カイエンはスープから取り掛かり、それを飲み終わるまでは黙っていた。食欲はあるのかないのかよくわからなかったが、これから夕方まで休んで、夜にはまた皇宮へ上がるのだから、しっかり食べておいた方がいいに決まっていた。

「もう一つある」

 しばらくしてカイエンがそう言うと、左側で上品にちょぼちょぼとハムと野菜の入ったオムレツをつついていた教授のフォークが一瞬止まった。

「宰相に頼まれた」

 カイエンはありのままに言った。もうすでに事態はややこしくなっている。これ以上ややこしくするのは避けたいところだった。

「へええ」

 エルネストの皿はすでに空になりつつある。

「お前の国の大使のガルダメス伯爵とやらを、こちら側に引き込めるか?」

 こちら側。

 サヴォナローラはそこまで言わなかったが、彼もあの悲惨な結婚式で、カイエンに迫られてアルウィンの居所を吐かされた時の様子から、エルネストは自分と同じく、アルウィンの側からこちらに転んだと判断したのだろう。そうでなくては、彼がカイエンにこのことを頼んできた理由がおかしくなる。

 エルネストは黙り込み、部屋の中には緊張が張り詰めた。カイエンの言ったことの際どさが皆にも分かったのだろう。

「……ベアトリアと螺旋帝国がつるんだか?」

 やがて、エルネストが言った言葉も際どかった。

「多分、そうだ」

 カイエンが素っ気なく答えると、エルネストはフォークを置いた。

「ベアトリアはフロレンティーノ皇子ってえのの母親の国だし、この国とは国境紛争を繰り返している国だからわかるが、螺旋帝国の方は、あの人の仕業だな」

 あの人。

 エルネストが「あの人」というのは一人だけだ。

「そうか」

「あの人は自分の娘の人生を、面白おかしくて波乱万丈、悲喜交々な一大叙事詩に仕上げようとしてる鬼畜親父だからな。あんたの周りの事態がややこしくなればなるほどうれしいんだよ、きっと」

 カイエンはうんざりとして聞いていたが、それでもエルネストの説明するアルウィンの所業の理由には非常に納得がいったので、そこは褒めてやることにした。

「上手いことを言うな。それで、どうなんだ? ガルダメスの方は」

 カイエンたちの前に、新鮮な果物のきれいに切り分けられた皿が給仕された。その中から、カイエンはオレンジを、エルネストは珍しい南洋渡りの大きくて黄色いマンゴーを選ぶ。

「ガルダメスは見りゃあわかるが、俺たちと同じ血族の末だ。国じゃ裏で大いにやってた対外貿易の責任者だった。やり手だよ。だが、それだけに儲け話がくっついてくればすぐに転ぶよ」

「分かった」

 カイエンは、きれいに果肉だけを取り出したオレンジを口に運び、ちょっと微笑んだ。甘さも酸っぱさもちょうどよかった。

「サヴォナローラなら上手くやるだろう。……ありがとう」

 カイエンがそう言うと、エルネストはちょっと驚いたような顔をした。礼を言われるとは思わなかったのだろう。

「 じゃあ、お礼ついでにもう一つ、教えておいてやるよ。ガルダメスは俺やそこのヘルマンよりも年上だが、未だ独身だ。縁談はいくつもあっただろうに、断り倒していてなあ。この国への赴任にも連れてきたのは男の召使いだけだ。おおっと、俺がヘルマンしか連れてこなかったのは理由が違うぜ」

 カイエンは聞くなり、嫌な予感がした。ちらりと教授の方を見ると、教授もなんだか酸っぱいものを食べたような顔つきをしていた。彼の食べていたのはライチだったので、かなり甘かったはずなのだが。

「……そうか。分かった」

 カイエンはエルネストにみなまで言わせずに話を切った。

 とりあえず、この朝食会でしなければならなかったことは済ませたのだ。

「お見送りの祈りは日が暮れてからだ。夕方まで私は休ませてもらう」

 それからカイエンはサグラチカに言われて、眠かったが風呂に入り、それから夕方までそれこそ死んだように眠った。星辰の探索に駆り出されたヴァイロンは戻らなかった。




   


  

 そして、陽は落ち。

 皇帝サウルの見送りの祈りの部屋。

 そこはサウルの寝室で、サウルはすでに侍従たちの手によって整えられた寝台の中に、眠っているかのような姿に形作られて、眠っていた。

 気味の悪い黄色に染まっていた顔色も和らげられ、げっそりとこけていた頰もやや膨らみが戻されている。額には皇帝の略王冠が光り輝き、青藍アスール・ウルトラマール色の金銀で縁取りされた、重厚な衣装の胸元にも宝石の胸飾り。

 両手は胸元で組み合わされていた。長年、彼が「星と太陽の指輪」をはめていただろう、その指にも、あらかじめ用意されていたのであろう指輪がいくつか光っていた。

 遺体の周りは青から白へと変化するように、花々で飾られていた。五月という花々の咲き乱れる季節であったから、花々の種類もその香りを考えに入れて厳選されたものであるらしかった。

 その枕頭に集まった人々。

 喪服ではないが、暗い色の装いに身を包んだ人々の中に、サウルの喪主であるべき、皇后アイーシャの姿はない。

 彼女は蘇生したものの、意識は戻らず、こんこんと眠り続けているとのことだった。

 だから、その代わりにそこにいたのは、皇太女のオドザヤだった。

 寝台の片側には、オドザヤを筆頭に、サウルの血族の人々が並んでいた。

 皇女のオドザヤ、アルタマキア、皇子のフロレンティーノを連れた第三妾妃のマグダレーナ。その次に皇女のリリエンスールを連れた大公カイエン。その後ろには彼女の夫であるシイナドラド皇子のエルネスト。それに続いて、妾妃のラーラ、キルケ。

 赤児二人はフロレンティーノは乳母が、リリはサグラチカが、それぞれマグダレーナとカイエンの横で抱いていた。幼子といえども、父親との別れの席に伴わないわけにはいかなかった。彼ら二人には父であるサウルの思い出は何も残らないだろう。だが、それでも。

 反対側には、クリストラ公爵ヘクトルとその妻、故人の妹であるミルドラ公爵夫人。そして元老院の長であるフランコ公爵夫妻。その次には元帥府の長であるザラ大将軍エミリオと、宰相府の長のサヴォナローラ。最後に並ぶのはこのハウヤ帝国のアストロナータ神殿の大神官ロドリゴと、海神オセアノ神殿の大神官マリアーノだ。

 このハウヤ帝国は多神教を認めている国であるから、市民たちの葬儀はその故人の帰依していた神殿の神官によって執り行われるのが普通だ。

 そして、歴代のハウヤ帝国皇帝の最期は、この帝国の始祖である第一代サルヴァドール皇帝の故郷、シイナドラド所縁のアストロナータ神殿の長と、この海の街ハーマポスタールの守護神である海神オセアノの大神官が共に仕切ることに決まっている。

 たった五年前のことだから、カイエンもよく覚えているが、アルウィンの葬儀も同じように執り行われた。

 二人の神官が、それぞれの教義に則った、死出の祈りの言葉を重々しく捧げ、集った人々は無言で神官の祈る口元を見つめていた。

 そう。

 サウルの周りを囲む人々の中で、その死を嘆き、泣きぬれている者は一人もいなかった。

 妾妃たちとフランコ公爵夫人のデボラは、時折、目元にハンカチを当てていたが、すすり泣きの声が聞こえることはなかった。

 オドザヤとアルタマキアの皇女二人、それにカイエンはなんだか気の抜けた顔をして佇んでいたし、ミルドラは厳しい怒ったような顔つきだった。男たちは皆、故人の身内ではなかったから、それぞれの立場に見合った表情で黙り込んでいるだけだった。

 途中で、マグダレーナの抱いているフロレンティーノがぐずった声をあげたが、乳母とマグダレーナが慣れた様子でそれをあやした。リリの方は普段から変に落ち着き払った赤ん坊だったので、この異様な雰囲気の中でもまどろんでいてくれた。

 神官たちの祈りが終わると、人々は各々に侍従のささげ持った花籠から花を選んだ。それをオドザヤから順に、サウルの枕元へ捧げ、一人一人が小さな声で別れの言葉を紡いでいく。

 その時になって、やっとオドザヤとアルタマキアの瞳から、拭いきれない涙が流れ落ちた。二人ともに父には複雑な思いがあったのだ。

(カリスマお姉様はおかわいそう。あいつの死に様を見届けられなくて、本当におかわいそうって、そう、申しましたのよ)

 サウルの臨終に呼び寄せられながら、父親は自分には会わないだろうと言っていたアルタマキア。自分たちは皇帝である父に利用されるがまま、ともはや嘆くのではなく、冷たく冷え切った怒りを滲ませていた彼女だった。

 オドザヤの方は、サウルが死出の旅に連れて行こうとして失敗した、意識の戻らない母のアイーシャを抱え、これから女帝としてこのハウヤ帝国の頂点に立たなければならない。彼女は頭では長女の自分のすべき使命だと納得しようとしていたのだろう。

 カイエンが自分の番になった時、思い出したのは、オドザヤとともに臨終の床へ呼ばれた時に、最初にサウルが言った言葉だった。


(……カイエン、そなたには酷いことをしたな)


 謝罪の言葉ではなかったが、あの時のサウルの顔はおのれを戒めるような顔だった。結局は弟に操られていただけかもしれない、とも言っていた。

 確かに、二年前の春、彼がカイエンに命じたことは酷かった。血の繋がった伯父が姪にあんなことを命じるなど、信じられないことだった。

 だが、あの命令がなかったら、カイエンとヴァイロンは今も他人のままだっただろう。裏で糸を引いていたのはアルウィンだったかもしれないが、直接にカイエンを動かしたのはサウルの言葉だ。

 それからもサウルはカイエンに厳しかった。今になってみればカイエンにも理解できる。サウルは今、この日、自分が死んだ後のこの国を、皇帝として、少しでも安定した状態にして逝きたかったのだ。

 それには、帝都ハーマポスタールを守る大公、第一の臣下である大公は「一人前に使える大公」でなければならなかったのだ。自分で考え、行動できる大人でなければならなかったのだ。

 カイエンはそっと大公軍団の制服の胸元を抑えた。そこには、鎖で首から下げた、「星の指輪」があった。

 太陽の指輪を受け取ったオドザヤも同じだったが、歴代の皇帝の指に嵌まっていた指輪は、彼女たちの指には大きすぎた。指輪が持つ責任の大きさを、彼女たち二人に実感させるかのように。

 今、この部屋の中にいるほとんどの人々は、眠るサウルの指から、「星と太陽の指輪」がなくなっていることに気がついているだろう。

 カイエンは唇だけで、サウルへの別れの言葉を形作った。


「今はただ、お別れを申し上げます。さようなら。そして、……ありがとうございました」

 特別なことは何も言えなかった。彼女はそれまでもそれからも、それほど器用な人間ではなかった。  


 



 


 そして。

 その、もう何十年も前の出来事を暴露する醜聞が、一部の正統派からは外れた、貴族や大商人の醜聞や扇情的な事件ばかりを扱う読売りによって帝都にばらまかれたのは、サウルの死の公表から何日も経たない日のことだった。

 同じ頃に、カイエンとエルネストの不和を暴露する記事も出たのだが、こちらはもう一つの醜聞の衝撃には叶わず、人々は大した関心を払わなかった。

 それほどに、その古い古い昔の醜聞は、衝撃的であった。

 それは、崩御が発表されたばかりの皇帝サウルの関わる物だったから。

 サウルの兄弟の中で、一番先に婚姻し、皇家を離れたのはミルドラ皇女であったが、彼女が半ば強引に公爵家へ「降嫁」したのにも、理由があったという。

 それは、若き日の長子サウルが異常に彼女を愛していたからだと言われている。


「サウル帝とその妹、現在のクリストラ公爵夫人ミルドラの兄妹は、その昔、同腹の兄妹でありながら、男女の仲にあった。当時の皇女ミルドラは兄の腕から逃れるために自らクリストラ公爵家へ降嫁することを選び、傷心のサウルはその後、弟である大公アルウィンの妻であったアイーシャを盗み、その妻となした」


 怪しげな読売りの記事が発端ではあったが、その醜聞は瞬く間に帝都を駆け巡った。


 第十七代ハウヤ帝国皇帝レアンドロの成人できた子はたった三人。多くの妾妃達が産んだ子供は誰一人として大人にはなれず、成人できたのは皇后ファナを母とする男子二人と女子一人だけだった。

 それが、サウル、ミルドラ、アルウィンの兄弟である。

 彼ら三人の醜聞が世に出ることはなかった。 

 皇帝サウルが生きているうちには。

 それほどに第十八代皇帝サウルの権勢は偉大であった。


 だが。

 今。

 第十八代ハウヤ帝国皇帝サウルは崩御した。

 もはや、古の噂をとどめる力は働かない。


 その醜聞はハウヤ帝国じゅうへ伝播した。

 上は皇宮から、下は地方の町村にまで。ハーマポスタールの港を出る、異国の船の中から外国の街へ。

 えげつないまでに確実に。

 死せる皇帝サウルの黄泉路にまで響けとばかりに、醜聞は大地を駆けた。

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