うたかたのように

 その場にいた、カイエンもオドザヤも、皇帝サウルの命運はそこに極まったと思った。

 そう、それは彼の奥医師たちでさえもそう思ったのだった。

 だが、サウルはまだ死ななかった。

 オドザヤとカイエン、娘たちに託した未来。

 彼はこの世を離れる前に、それとは逆の過去を清算しなければならなかったのだ。



 カイエンとオドザヤに二つに別れた「星と太陽の指輪」を渡した後、皇帝サウルは再び、意識を失ってしまった。

「お父様!」

 半分泣きながら取り縋るオドザヤの肩をそっと抑え、カイエンはとりあえず自分の掌に落ちてきた「星の指輪」をそっとハンカチで包むと、大公軍団の黒い制服のポケットに忍ばせた。

 今となってはお笑い種だが、アルウィンが「死の床」に就いていた時も、カイエンはそれほど取り乱さなかった。アルウィンが当時の大公宮の奥医師と謀ったのだろう「臨終」の場面で。

 カイエンはあの時、すっかり騙されていたものの、自分でも意外なほどに落ち着いていたものだ。

 あの時は「父親の死に涙も流れない」冷たい、感情のない人間なのかと思っていたが、どうやらそれは彼女の性分からだったようだ。

(やばいと思うと頭が冷えて来るへそ曲がりなのかな。いや、気が小さいから、起きたことよりすぐに自分のことに頭が行くからか)

 そういえば、シイナドラドでの危機的状況でもなんだか頭は冷えていたっけ。カイエンはそんなことを思っていたが、妹であるオドザヤの方も似たところはあったようだ。

「お姉様。……頼みます」

 杖をついて立ち上がったカイエンへ、オドザヤはサウルの手を握ったまま、声をかけてきた。侍医を呼べと言うのだろう。

「わかった」

 見上げてきたオドザヤの琥珀色の目は、涙に濡れてはいたが、中に金茶色の芯のような強いものが見えた。確かに、四ヶ月も看病してきた彼女にはもう覚悟がそれなりにあったのだろう。

 カイエンがサウルの寝室を出ると、驚いたことにそこには宰相サヴォナローラの姿があった。奥医師や侍医たちの姿はない。彼が下がらせたのだろう。

「……来ていたのか」

 カイエンが言うと、サヴォナローラは厳しく引き締まった青白い顔を一つ、こくんとうなづけた。

 その顔はカイエンが今まで見たことがない表情だった。

「おい……」

 なんで、お前は泣いているんだ? カイエンはそう聞こうとして、即座に思いとどまった。

 実際のところ、サヴォナローラは泣いてなどいなかったのにすぐに気がついたからだ。その真っ青な目は逆に砂漠のように乾いて、真冬の夜の星々のように凍えていた。その凍えた光が瞼や目の際に滲んで、泣いているように見えたようだ。 

 無言のまま、カイエンの開けた扉を通り、サヴォナローラはサウルの部屋に入って行く。足跡も聞こえず、なんだか気配さえも常よりも薄いように見えた。まるで、死に瀕したサウルに引っ張られ、半分あちらの世界へ踏み込んででもいるように。

 見ていると、カイエンの見ている前で彼はオドザヤに何か囁いた。そして、聞いたオドザヤは何度か後ろを振り返りながらも一人で出て来た。

「おい!」

 カイエンはサヴォナローラの纏った異様な雰囲気に思わず声が出た。だが、そんな彼女の目の前で、オドザヤを外に出した扉は静かに閉ざされた。

「お姉様……」

 カイエンは、オドザヤの背中で閉まった扉へ取り付いた。

 そのカイエンの背中で、オドザヤの小さな声が聞こえた。

「お父様は、最後をあの者に託されておられたのです。……それは、私ももう、以前より聞かされております。あの者を最後に寄越すように、と何度もおっしゃられたのです。それが、お父様の、最期のご意志なのです」

 なるほど、と、カイエンは心のどこかでは納得した。

 確かに、今、この時、皇帝サウルの最後の数年間をその間近で共にし、彼のこの国の父として、皇帝としての思いを一番近いところから理解していたのは、皇帝の私的秘書官である内閣大学士から宰相に上り詰めたサヴォナローラだっただろう。

 侍医の尽くす手立ても尽きた今、皇帝としてのサウルが最後に呼ぶのはサヴォナローラなのだ。

 だが。

 今、この胸を落ちて行く泣きそうな不安はなんだろう。

 今度はオドザヤに抱えられるようにして、皇帝の部屋から出て行きながら。

 カイエンは不安だった。

 サウルは。

 あの彼女の伯父だった男は、まだ、しなければいけない何かのためにだけ死なないでいるのではないか。サヴォナローラはただ、サウルを見取るだけのために残ったのだろうか。あの、常に行動と思考のすべてに然るべき理由がある男が。

 そして。

 その彼女の予感は、正しかったのである。だが、サウルの最期の意志とは彼女の想像を超えたものだったのだ。

 その時、カイエンはサウルの最期の望みがなんなのかはわからぬまま、ポケットからさっき彼女が受け取ったものを取り出していた。

 その様子を見て、オドザヤも気がついたらしい。

 二人が瀕死のサウルの寝室のすぐ扉一枚外で照らし合わせたのは、あの指輪。

 星と太陽の指輪。

 カイエンの広げた白いハンカチの中のものは、ややギザギザとした半円形の中に、くっきりと五芒星の一部とわかる星型の押された白金の指輪。星型の縁だけが錆びた銀のように黒ずんでいる。

 そして、オドザヤのものは、ギザギザとした半円形でカイエンのものときっちりと合わさるようになっている、何本もの細かい曲線で太陽の光芒が表現された、これも白金の指輪だった。こちらは太陽の光芒の部分だけが黄金の輝きで覆われている。

 丸い指輪を半分に分けているから、各々のその意匠の全体はわからないが、五芒星とこちらも五つの光芒を長く引いた太陽の像の一部であることははっきりとわかった。

 特徴的なのは、どちらの意匠にもその円周部に開いた目のような意匠があり、そこに宝石がはめ込まれていることだ。

 星も太陽も目玉は一つしか持っていない。

 五芒星の目玉は黒い金剛石ディアマンテ

 そして、太陽の目玉は黄金色の金剛石ディアマンテだ。

 黒い金剛石は深い灰色の輝きで、黄金色の金剛石は琥珀色に似た輝き。

 それはまさに、カイエンとオドザヤの瞳の色そのままだった。

「なんだよこれ。……あの人は、最後の最後まで大事なことははっきり言わないんだな。それに、歴代の皇帝の指輪じゃなあ。私たちには大きすぎるのになあ」

 カイエンは、諦めたような力ない声で、指輪を自分の中指に通しながら、オドザヤに言った。彼女はその妹へ苦笑いをしたつもりだった。

 まだ二十歳の自分と、十八にしかならないオドザヤ。男向きの指輪など親指にでもしない限りは大きすぎる自分たちに、サウルはどこまでのことを託そうと言うのだろう。

 だが。

 言った途端。

 カイエンは驚いた。

「えっ」

 自分の視界が急に滲んで歪み、見えなくなったから。

 今までちゃんと見えていた、半べそをかいているオドザヤの顔が急に見えなくなった。

「……お姉、様。お父様は、きっと、言わなかったのじゃ、ないんで、す」

 すりガラスの向こうのように涙で曇った世界。

 そこから聞こえてきたのは、妹の、今やこのハウヤ帝国を共に背負わされた妹の、意外にしっかりした声音だった。

「きっと。決まっていたことなのです。私たちが、生まれてきた時には決まっていたことなのです。そして、お父様や叔父様はとっくに気がついておられたのです」

 カイエンにも実はそんなことは、もう、わかっていた。

 きっと。彼女の父であるアルウィンが、あのアイーシャに出会い、カイエンが生まれた瞬間にすべてを知っていたように。

 もう、間違えようがない。

 どんなに皇帝サウルが国土を拡大し、ハウヤ帝国を富ませても変わらなかったように。アルウィンが良からぬ謀を張り巡らせても、おそらくはたいして来るべき歴史を変えられなどしないだろうように。

 この国は歴史の流れの定めし試練の時代に入るのだ。

 それは、もしかしたらハウヤ帝国建国の皇帝、シイナドラドの星教皇になれなかったサルヴァドールが彼の子孫たちの行く末に予感していた通りに。

「……こんな博打を打ちやがって」

 指輪からカイエンの耳へ、三百年前の祖先、サルヴァドールの断末魔の叫びは聞こえなかった。だが、カイエンは彼の夢見ていた世界を一瞬だけかいま見たような気がしていた。

 だが、それはまだ言葉にはならず、聞こえないまま。

 カイエンにもオドザヤにも、そして恐らくは死に行くサウルにも。

 祖先が彼らに課した運命の色は、未だ、何色ともつかないままだった。


 

 一方。

 昏睡状態から一時的に覚醒したサウルの、もはや二度とは目覚めないかもしれぬ枕頭に佇むのは、今や宰相のサヴォナローラただ一人だった。


「……ハウヤ帝国第十八代皇帝、サウル・プレニルニオ・マグニフィコ・デ・ハウヤテラ陛下」


 沈痛な面持ちで、もはや弱々しく浅い息をしているだけのサウルのすべての名前を呼び終わったサヴォナローラは、そっと長身を屈めて言った。

 まるで、空気そのものを動かし、そよとでも音を立てることを避けるように。彼は密やかに、自分の息さえ殺しているかのようだ。

「サヴォナローラ、これより、陛下に命ぜられました、最後のご命令に従います」

 そう、息をも殺した掠れる声で、神文を唱えるように呟くと、彼は懐から銀製の平べったい箱を取り出した。

 ああ。

 その箱。

 それは、シイナドラドで彼の弟のガラが、囚われて行ったカイエンを追うために、自らを獣化させた時に取り出した、あの白木の毒針が入っていた箱だった。

 では、このガラの兄は弟の使う毒を、預かってここに来ているのだ。

 そして。

 先ほどの彼の言を信ずるならば、この行動はサウルの命じたことなのだろう。

「……フェロスの毒」

 そっと恐ろしいものを吐き出すように呟いたサヴォナローラ。

 彼は箱の留め金を外すと、ゆっくりと箱を開く。中には黒い布が敷かれており、そこに白木の毒針が複数並んでいた。

 その中から注意深く、箱の中に用心深く用意されていた金属製の鑷子せつしを取り上げて、それで一本の針をつまみあげた。

 銀の箱を閉じ、寝台の脇のテーブルに置くと、鑷子せつしでつかんだ白木の毒針の毒のないお尻の部分をそっと右手の指先でつまみあげた。

「サウル様。まさか、あなた様には獣人の血は流れていらっしゃいませんよね? そうだったら、私は起き上がって来たあなたに殺されてしまいますね」

 注意深く取り上げた毒針から目を上げた、サヴォナローラの顔は泣きそうに歪んでいた。もちろん、そんなことにはならないことは、彼にはよくわかっていた。

「この毒に、こんな使い方があるとは、弟のガラも知らなかったようでしたよ。まあ、あの子は私に色々と隠し事をしている子だから、本当はどうだか知れたものではありませんがねえ」 

 もちろん、サウルは浅い呼吸を繰り返し、たまに喉から嫌な痰の絡んだ音を立てて眠っているだけだ。サヴォナローラの言葉を聞いている者はいなかった。

「では、お首に失礼いたします。すぐには効かないとおっしゃっておられましたね。でも、もう奥医師はここへは入れませんよ」

 サヴォナローラは、シイナドラドでガラが自分の首に毒針を刺したように、それをサウルの首へ突き刺した。しばらくそのままにしておいてから、針は周到に回収する。

「では、皇帝陛下。後は、御心のままにあの世までの道をお辿りくださいませ。……アルウィン様の子飼いだった私を、ここまで引き立ててくださり、心より感謝申し上げます。これより、我が忠誠は本来それを捧げるべきお方に捧げますこと、お許しくださいませ」

 サヴォナローラはフェロスの毒の箱を取り上げ、引き抜いた針もそこにしまうと、再び懐へねじ込んだ。

「お然らばでございます」

 サウルの枕頭に立ち、深く、深く頭を下げたサヴォナローラは、そのままサウルの寝台の後ろの分厚いカーテンの奥へ向かった。そこには小さな隠し扉があったが、それをそっと開けて向こう側を確認すると、サヴォナローラ自身は入って来たときと同じ、控えの間へと続く扉から出て行った。


 


 



 そして。

 大公宮に、皇宮の異変が本格的に伝わってきたのは、カイエンとアキノが皇宮へ上がった夕刻からもう、数時間が経過した真夜中を超えた時間になってからのことだった。

 それは、サヴォナローラがサウルの部屋を出て行ってからも、もう数時間を経過した時刻になっていた。 

 戻ってきたのはアキノ一人で、その痩せた鷹のように厳しい顔は蒼白を通り越して、青黒く見えた。

 まるで亡霊のような顔で、彼は大公宮の裏玄関から、大公カイエンの居住区へ入ってきたのだ。

「皆、来ておるか!?」

 サグラチカに先導されて廊下を早足に進んで来たアキノは、侍従のモンタナに訊す。

「はい。もう皆様お揃いでございます」

 そこには、大公カイエン周りの部下たちが、仕事を終えてすぐに密かに呼び出されてきて集っていた。

 もちろん、サウルの危篤は市民にはまだ報せることの出来ない極秘である。だから、彼らも部下にさえ様子を悟られぬよう、気の回りそうな者には密かに口止めをすることも忘れなかった。

 彼らが集まっていたのは、大公宮の裏の大公の食堂だった。

 そこではカイエンの誕生日やら、ヴァイロンの誕生日やらが開かれたこともある。食堂とはいっても、居間よりも寝室からはやや離れている、歴代大公の家族が集った場所だった。ここではあの後宮での第四妾妃星辰の皇后暗殺未遂事件の後、ガラを待って同じような面々で夜明かしの前の食事をしたこともあった。

 カイエンはここで食事をすることよりも、寝室の近くの居間で食事を摂ることの方が多かったかもしれない。

 そこは、カイエンの居間よりもかっちりとした緊張感のある空間で、誰しもソファにだらしなく座ることも出来ないと言った部分で、その日の彼らの集う場所としてうってつけでは、あった。

 そこには、大公宮の表からは、大公軍団長のイリヤに、治安維持部隊のマリオとヘススの双子、帝都防衛部隊からはヴァイロン、それにカイエンの護衛のシーヴ、と言った「側近」。

 後宮からはガラに教授、それに今や女大公の夫なったエルネストとヘルマンの主従の姿もあった。

 教授とガラ、それにイリヤとシーヴは午前中のエルネストの引っ越し時にも顔を出していたから、ご苦労様と言ったところであった。

 エルネストにしてみれば、大公宮へ引っ越してきたその当日だ。

 まだ荷ほどきが終わるか終わらないかという夕飯時に、後宮の外が騒がしくなった。

 何事かとヘルマンが出てきて後宮の青銅の扉を守る女騎士たちから聞いた話が、「皇帝危篤」の知らせであったのだから、彼にとってはたまったものではなかっただろう。彼はすぐにエルネストの部屋へとって返したが、何せ引っ越してきた当日のこと。部屋から出て行っても誰に何を聞いて、どうしていたらいいやらわからなかったので、ヘルマンは何度もマテオ・ソーサやガラの部屋の前を右往左往することとなった。

 もしもの事態となれば、エルネストは大公カイエンの夫として皇帝の葬儀にも出ることになるのだ。それにはたった一人の侍従ではなかなかに追いきれない準備というものがあった。

 定時に仕事から引き取って来て、大公宮の使用人食堂で夕食を済ませ、部屋で寛いでいた教授も、後から帰って来たガラも、すぐにヘルマンのその様子には気がついた。

 そして、後宮の入口の女騎士……その日の当番はナランハだったが……に聞けば。

 彼らが慌てて部屋から出てくるのにもそれほど時間はかからなかった。


 ヴァイロンとエルネストはこの時、初めて顔を合わせた。

 昼間の引っ越しの時には、周りが気を使ったのだが、こんな大事が起きてしまってはもうそんなことは言ってはいられなくなっていた。

 エルネストの引っ越しがこの日になったのは、もちろん偶然だが、却ってよかったのかもしれないと密かに周りの者たちは思った。

 シイナドラド皇子のエルネストと、元は大公宮の執事の家の前に捨てられていた捨て子。

 それでもハウヤ帝国軍の獣神将軍の頃ならばまだしも、今では大公の男妾兼、部下に過ぎないヴァイロンとでは、身分差からして角突き合わせることなど、本来有り得るような間柄ではないが、それでも彼らの場合には事情が事情だ。

 特に、おのれの「唯一」と認識しているカイエンを守れなかったヴァイロンとしては、加害者であるエルネストへは言いたいことも、ぶん殴りたい拳もあるだろう。

 そういうわけで、先に留守番のサグラチカやルーサに導かれて、大公の食堂の長いテーブルに着いたのは後宮から出て来た一団の方だった。

 サグラチカと侍従のモンタナは、最初はエルネストを後宮の部屋で待機させようかと思ったが、夫でありこの大公宮の執事でもあるアキノの留守なので、判断に迷ってしまった。それに、皇帝崩御となれば、大公であるカイエンの今や正式な「夫」であるエルネストに何も言わないでいるわけにもいかない。

 だから、仕事先からイリヤやヴァイロン、それに双子やシーヴがやって来た時には、すでに食堂の上座にはエルネストと、大公軍団最高顧問であるマテオ・ソーサが着席していることになっていたのである。

 エルネストは引っ越し早々味わった、この大公宮の身分的な垣根の低さに、内心では目を白黒させていた。そもそも、皇子たる自分が食堂のテーブルで最高顧問だとかいう学者崩れの平民の中年男と向き合って座っているなど、故郷シイナドラドではあり得るはずもない光景だった。

 だが、それを表に出さない可愛げのなさはしっかりと持っていたので、彼は内心の仏頂面の代わりに薄笑いを顔に貼り付かせていた。

 食堂の長いテーブルのエルネストの向かい側に、それでも遠慮したのか、一人分だけ下座に座った教授の後ろに、ガラの方は「俺はどうでもいい」とばかり、大きな体を引っ込めて座っている。エルネストの侍従のヘルマンはエルネストの後方で目立たぬように控えていた。

 イリヤと双子に挟まれて、ヴァイロンが入ってくると、目に見えない、嫌ぁな、緊張した空気が張り詰めたが、それでもさすがに本人たちも周りも、「今はそんな場合ではない」ということはもちろんわかっていた。

 いずれはカイエンを挟んで、なにがしかの対決のようなものが勃発する可能性はあったが、この帝国の大事にそれをおっ始めるほど、二人ともに子供でも、時と場合を考えずに人前で、自分の面子だけのために荒ぶる性格でもなかった。

 エルネストは一瞬だけ顔を上げたが、彼はすぐにテーブルの上へ視線を移してしまったし、ヴァイロンの方は大人しく双子と一緒に大公軍団長のイリヤの下手に座った。こちらは目をエルネストの方へ向けようともしなかった。

 実は挨拶さえ曖昧なままだったが、貴人であるエルネストの側も、イリヤやヴァイロンの側もそんなことには構ってはいなかった。

 シーヴはシイナドラドでは危うく、あの夏の公爵に殺されそうになったほどだから、エルネストを見る目は厳しい。だが、二十歳を超えたばかりの彼とても自分の身分も、役割も、今の状況もわかっていないような人間ではなかった。彼はきちんと礼をしてから末席についた。

 こうして、エルネストとヴァイロン二人の間に他の皆が挟まるようにして、牽制し合いながら、そこで次の展開を待つことになったのだった。


「エルネスト殿下」

 食堂へ入るなり、アキノはここでは一番身分が高い人物の前へ直行した。

 テーブルには紅茶や珈琲の空になったカップが陰気に並ぶ。それは、そこで長い時間を皆が黙りこくって過ごしていたことを物語るようだった。

「なんだよ。皇帝が身罷ったのか」

 さすがにエルネストもそれほどぞんざいな口はきかない。それでも、聞いた言葉はあまりにも直球すぎた。

 部屋の隅に控えたサグラチカやルーサたちが、ちょっとざわめいたが、アキノはそんなことには頓着しなかった。

「はい」

 まず、アキノはエルネストの問いに、かっきりとうなずいた。

「ハウヤ帝国第十八代皇帝サウル・プレニルニオ・マグニフィコ・デ・ハウヤテラ陛下は、夜半に崩御されました」

 針が落ちても音がしそうな静寂が、部屋に落ちて来た。アキノやサグラチカはサウルの父である前の皇帝、レアンドロが崩御した時のことを覚えているが、その他の皆にとっては、「皇帝崩御」などもちろん、幼い頃のことで記憶にはない。これが初めてのことである。

「大公殿下はしばらくこちらへはお戻りになれないかも知れない。サグラチカ、ルーサ。急ぎ、カイエン様の身の回りのものを整えよ」

 それを聞くと、さすがにそこに集まった皆の顔がさっと変わった。やっとアキノの言葉が理解できたというように。

「そう、ですか」

 皆を代表するようにして、一番年長者のマテオ・ソーサが呟く。

「いえ、先生。それが……そ、れ、いや」

 だが、それへアキノは歯切れ悪く何か言いかけてやめ、首を振った。

 その様子を不審に思った皆が、アキノの疲れ切った顔を見る。だが、言いかけた言葉を、アキノは最終的には飲み込んでしまった。

「イリヤ、お前たちはまだ動くな。宿舎にこんな時間に、礼服だの喪章だの取りに戻ったらすぐに下の者たちにバレる。そもそも、そんなものはこちらでもなんとか出来るからな」

 礼服、喪章。

 葬儀のことなど何もわからないが、朝とともにハウヤ帝国は喪に服すことになるのだろうか。それとも、皇帝の死はしばらく隠されるのか。

「あーあ。これからまた大変だねえ」

 みんなを代表するようにイリヤがぼやく。確かに、皇帝崩御ともなれば、帝都の治安を預かる大公軍団の仕事も非常事態となるだろう。

 だが、アキノの返答はなおも歯切れが悪かった。

「……いや。事態はそう簡単ではないのだ。まだ、どう転ぶか予断を許さぬことが」

「へぇっ?」

「えっ」

「何か他にあるのかよ?」

「御隠れになった時に何か?」

 そこに集まった男たちから声が上がる。

「はっきり言えよ、爺さん」

 とうとう、エルネストが腕組みしてアキノを問いただした。

 エルネストには反発だのなんだの色々な感情がある男たちではあったが、この時は皆が皆、同じ気持ちだった。

 それでも、アキノはただただ、首を振り続けた。言葉を探しているようにも見えたが、説明すべき言葉を見つけられないと言った様子で。

「おい!」

 イライラして来たらしいエルネストへ、やっとの事で絞り出したらしいアキノのしわがれた小さな声が聞こえて来た。それは、意外な人物の名前だった。

「……皇后陛下が……」






 サヴォナローラと入れ替わりに、皇帝の寝室を下がって来たカイエンとオドザヤは、ひとまずオドザヤの皇太女宮で待機することになった。

 皇太女宮は親衛隊の隊員によって警備されており、オドザヤの部屋にはカイエンが大公軍団から派遣した、トリニとブランカの二人が待っていた。女官長のコンスタンサもそこにいた。

 もう、時刻は夜半にかかっており、宮殿の中はしんとしていた。

 サウルの容体はもう伝わっているようで、コンスタンサもトリニとブランカも、それぞれに沈痛な面持ちだった。

 それでも、居間にはお茶の準備がしてあり、簡単な食事も用意されていた。カイエンもオドザヤも食欲などなかったが、暖かいお茶の方はありがたかった。

 彼女たちが静かにお茶のカップで手を温めるようにしていた時だった。

「あら」

「あれ」

 最初にそれに気がついたのは、なぜかトリニとカイエンだった。

「殿下にも聞こえますか?」

 一瞬のうちに緊張を体に纏ったトリニが聞くと、カイエンはうなずいた。

「女の叫び声か? 泣いているようにも聞こえるが……」

 その時には、コンスタンサやオドザヤも気がついていた。

「あれは……後宮の方角でございますね」

 コンスタンサの声が緊張した。

「ええ。そうだわ。それにあの声……」

 オドザヤはそう言うと、もう腰を浮かせていた。声に心当たりがあったようだった。

 部屋の外で親衛隊員たちも動き始めた様子がしてきた。

「どうしましたか?」

 コンスタンサが、オドザヤを押しとどめるようにして、部屋を出て行こうとすると、部屋の外から扉が開かれた。

「女官長! 大変でございます!」

 飛び込んで来たのは、後宮を守る女騎士だった。その顔は真っ青で、息が上がっている。後宮から駆けつけて来たらしい。その後ろで、親衛隊の将校がもう一人の女騎士から話を聞き取りながら慌ただしく、だが密やかに動き始めるのが見えた。

「おお。後宮で何かあったのか?」

 大きくなりそうな声を無理に抑えた声音で、コンスタンサが尋ねると、女騎士の方もハッとして声を低めた。

「はい。……皇后陛下が。あのう、皇后陛下のお部屋で、皇帝陛下が……」

 だが、女騎士の言いようははっきりしない上に、なんだかおかしかった。

「ええ? どうしたのです! ちゃんとお話しなさい!」

 コンスタンサは、女騎士の言葉の異常さにすぐに気がついたのだろう。

 皇帝サウルは自分の宮の寝室で生死の界を彷徨っているはずだった。

 それがどうして後宮の皇后の部屋と結びつくのか。

 女騎士は落ち着こうとしてはいるようだが、何か強い衝撃を受けたらしく、言葉が整わない。

「こ、皇帝陛下が、崩御なさいました。……皇后陛下も……その、ご一緒に……」

「ええっ」

 カイエンたちは顔を見合わせ、自分たちの耳がおかしくなったのではないことを無意識のうちに確認しあっていた。

「案内なさい!」

 代表して、コンスタンサが低い声で命じると、女騎士はゴクリと喉元を震わせた。

「は、はい。ご案内、いたします」

「トリニ、ブランカ、助けてくれ」

 カイエンは自分が立ち上がるのを助けようとするオドザヤに手を振って先に行かせ、トリニとブランカに両脇を抱えられるようにして部屋を出た。ブランカはカイエンよりも大柄だし、トリニはそれよりももっと上背があるので、小柄なカイエンの両足が地を踏まずともどんどん運ばれて行けそうだ。

 カイエンは、腰から砕けそうになる慄きをぐっと押し沈めた。何か、自分の想像さえしなかった出来事が勃発しているのだ。

「ああ」

 ああ。そうか。

 不意に、カイエンの脳に、さっき、サウルの部屋を出て来た時に思ったことが蘇ってきた。

(サウルはまだ、しなければいけない何かのためにだけ死なないでいる) 

 ああ。あの人は、最期の最期まで、そうなのか。

 自分の死を偽ったアルウィンといい、なんて傍迷惑な兄弟か。

 皇后アイーシャの部屋で、何が起こったのか、まだわからないままに、それでもカイエンには予感があった。

 最後にサウルの部屋に呼ばれて入っていったのは、サヴォナローラ。

 あれには、ちゃんと理由があったのだ。


「あああああああああああ。アイーシャさまぁ! いやぁああああああああぁ」

 広大な皇宮のどの廊下をどう伝って行ったのかもわからない。

 だが、暗い廊下をトリニとブランカにほとんど抱えられるようにして運ばれて。

 後宮へ近づくに連れて、女の叫び声がはっきりと皆の耳朶を打った。

「ああ、やっぱり。あの声はジョランダだわ!」

 オドザヤはそう言うと、もう泣いている顔でカイエンを振り返った。

「あの声は、お母様の侍女の、お母様の従姉妹のジョランダ・オスナです。ああ、お母様も、まさか!」

 その時には、カイエンもまた、コンスタンサとオドザヤに遅れることなく、後宮の皇后宮へ入っていた。


 そして。

 そこは、皇后アイーシャの寝室だった。

 まず目に入ったのは、中央の寝台の側の床に倒れて、叫び続ける中年女。

 それから、中央に置かれた、金色に塗られた天蓋付きの寝台。垂れ下がる紗の色も金色。

 その中の、薔薇色の寝具の上に広がった、黄金色のうねる長い髪。

 その持ち主が誰かということに、間違いはない。あんなに輝かしい金髪の持ち主は、そうそういない。はっきり言えば、皇后アイーシャとその娘のオドザヤだけだろう。

 コンスタンサも、オドザヤも何も言わない。いや、多分言えないのだろう。

 カイエンもまた。

 その部屋にこだまするのは、アイーシャの従姉妹で腹心の侍女である、ジョランダ・オスナの叫び、号泣する声だけだった。


 アイーシャの顔は、金色の髪の毛に覆われて見えなかった。

 だが、その細い真っ白な首に巻き付いた、痩せさらばえた男の両手だけは、はっきり見えた。

 それは、サウルの手。

 黄色く変色し、枯れ枝のようになった、ミイラのような手だった。

 カイエンたちの視線が、その手をたどった先に見えたサウルは、枯れ木のような色の横顔をこちらへ向け、目を開けたまま、アイーシャの体に半分乗りかかった姿勢で、細首を両手に掴み、締め上げた姿勢でこと切れていた。

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